軒もる月
樋口 一葉
我
(
わ
)
が
良人
(
をつと
)
は
今宵
(
こよひ
)
も
歸
(
かへ
)
りのおそくおはしますよ、
我
(
わ
)
が
子
(
こ
)
は
早
(
はや
)
く
睡
(
ねぶ
)
りしに
歸
(
かへ
)
らせ
給
(
たま
)
はゞ
興
(
きよう
)
なくや
思
(
おぼ
)
さん、
大路
(
おほぢ
)
の
霜
(
しも
)
に
月
(
つき
)
氷
(
こほ
)
りて
踏
(
ふ
)
む
足
(
あし
)
いかに
冷
(
つめ
)
たからん、
炬燵
(
こたつ
)
の
火
(
ひ
)
もいとよし、
酒
(
さけ
)
もあたゝめんばかりなるを、
時
(
とき
)
は
今
(
いま
)
何時
(
なんどき
)
にか、あれ、
空
(
そら
)
に
聞
(
きこ
)
ゆるは
上野
(
うへの
)
の
鐘
(
かね
)
ならん、
二
(
ふた
)
つ
三
(
み
)
つ
四
(
よ
)
つ、
八時
(
はちじ
)
か、
否
(
いな
)
、
九時
(
くじ
)
になりけり、さても
遲
(
おそ
)
くおはします
事
(
こと
)
かな、いつも
九時
(
くじ
)
のかねは
膳
(
ぜん
)
の
上
(
うへ
)
にて
聞
(
き
)
き
給
(
たま
)
ふを、それよ
今宵
(
こよひ
)
よりは
一時
(
いちじ
)
づゝの
仕事
(
しごと
)
を
延
(
の
)
ばして
此子
(
このこ
)
が
爲
(
ため
)
の
收入
(
しうにふ
)
を
多
(
おほ
)
くせんと
仰
(
おほ
)
せられしなりき、
火氣
(
くわき
)
の
滿
(
みち
)
たる
室
(
しつ
)
にて
頸
(
くび
)
やいたからん、
振
(
ふり
)
あぐる
槌
(
つち
)
に
手首
(
てくび
)
や
痛
(
いた
)
からん。
女
(
をんな
)
は
破
(
や
)
れ
窓
(
まど
)
の
障子
(
しやうじ
)
を
開
(
ひら
)
きて
外面
(
そとも
)
を
見
(
み
)
わたせば、
向
(
むか
)
ひの
軒
(
のき
)
ばに
月
(
つき
)
のぼりて、
此處
(
こゝ
)
にさし
入
(
い
)
る
影
(
かげ
)
はいと
白
(
しろ
)
く、
霜
(
しも
)
や
添
(
そ
)
ひき
來
(
き
)
し
身内
(
みうち
)
もふるへて、
寒氣
(
かんき
)
は
肌
(
はだ
)
に
針
(
はり
)
さすやうなるを、しばし
何事
(
なにごと
)
も
打
(
うち
)
わすれたる
如
(
ごと
)
く
眺
(
なが
)
め
入
(
い
)
りて、ほと
長
(
なが
)
くつく
息
(
いき
)
月
(
つき
)
かげに
煙
(
けぶり
)
をゑがきぬ。
櫻町
(
さくらまち
)
の
殿
(
との
)
は
最早
(
もはや
)
寢處
(
しんじよ
)
に
入
(
い
)
り
給
(
たま
)
ひし
頃
(
ころ
)
か、さらずば
燈火
(
ともしび
)
のもとに
書物
(
しよもつ
)
をや
披
(
ひら
)
き
給
(
たま
)
ふ、
然
(
さ
)
らずば
机
(
つくゑ
)
の
上
(
うへ
)
に
紙
(
かみ
)
を
展
(
の
)
べて
靜
(
しづ
)
かに
筆
(
ふで
)
をや
動
(
うご
)
かし
給
(
たま
)
ふ、
書
(
か
)
かせ
給
(
たま
)
ふは
何
(
なに
)
ならん、
何事
(
なにごと
)
かの
御打合
(
おんうちあは
)
せを
御朋友
(
おほういう
)
の
許
(
もと
)
へか、さらずば
御母上
(
おんはゝうへ
)
の
御機嫌
(
ごきげん
)
うかゞひの
御状
(
ごじやう
)
か、さらずば
御胸
(
おむね
)
にうかぶ
妄想
(
まうさう
)
のすて
處
(
ところ
)
、
詩
(
し
)
か
歌
(
うた
)
か、さらずば、さらずば、
我
(
わ
)
が
方
(
かた
)
に
賜
(
たま
)
はらんとて
甲斐
(
かひ
)
なき
御玉章
(
おんたまづさ
)
に
勿躰
(
もつたい
)
なき
筆
(
ふで
)
をや
染
(
そ
)
め
給
(
たま
)
ふ。
幾度
(
いくたび
)
幾通
(
いくつう
)
の
御文
(
おんふみ
)
を
拜見
(
はいけん
)
だにせぬ
我
(
わ
)
れいかばかり
憎
(
にく
)
しと
思召
(
おぼしめ
)
すらん、
拜
(
はい
)
さば
此胸
(
このむね
)
寸斷
(
すんだん
)
になりて
常
(
つね
)
の
決心
(
けつしん
)
の
消
(
き
)
えうせん
覺束
(
おぼつか
)
なさ、ゆるし
給
(
たま
)
へ
我
(
わ
)
れはいかばかり
憎
(
にく
)
きものに
思召
(
おぼしめ
)
されて
物知
(
ものし
)
らぬ
女子
(
をなご
)
とさげすみ
給
(
たま
)
ふも
厭
(
いと
)
はじ、
我
(
わ
)
れは
斯
(
かゝ
)
る
果敢
(
はか
)
なき
運
(
うん
)
を
持
(
も
)
ちて
此世
(
このよ
)
に
生
(
うま
)
れたるなれば、
殿
(
との
)
が
憎
(
にく
)
しみに
逢
(
あ
)
ふべきほどの
果敢
(
はか
)
なき
運
(
うん
)
を
持
(
も
)
ちて
此世
(
このよ
)
に
生
(
うま
)
れたるなれば、ゆるし
給
(
たま
)
へ
不貞
(
ふてい
)
の
女子
(
をなご
)
に
計
(
はから
)
はせ
給
(
たま
)
ふな、
殿
(
との
)
。
卑賤
(
ひせん
)
にそだちたる
我身
(
わがみ
)
なれば
初
(
はじ
)
めより
此上
(
このうへ
)
を
見
(
み
)
も
知
(
し
)
らで、
世間
(
せけん
)
は
裏屋
(
うらや
)
に
限
(
かぎ
)
れるものと
定
(
さだ
)
め、
我家
(
わがや
)
のほかに
天地
(
てんち
)
のなしと
思
(
おも
)
はゞ、はかなき
思
(
おも
)
ひに
胸
(
むね
)
も
燃
(
も
)
えじを、
暫時
(
しばし
)
がほども
交
(
まじは
)
りし
社會
(
しやくわい
)
は
夢
(
ゆめ
)
に
天上
(
てんじやう
)
に
遊
(
あそ
)
べると
同
(
おな
)
じく、
今
(
いま
)
さらに
思
(
おも
)
ひやるも
程
(
ほど
)
とほし、
身
(
み
)
は
櫻町家
(
さくらまちけ
)
に
一年
(
いちねん
)
幾度
(
いくど
)
の
出替
(
でがは
)
り、
小間使
(
こまづかひ
)
といへば
人
(
ひと
)
らしけれど
御寵愛
(
ごちようあい
)
には
犬猫
(
いぬねこ
)
も
御膝
(
おひざ
)
をけがすものぞかし。
言
(
い
)
はゞ
我
(
わ
)
が
良人
(
をつと
)
をはづかしむるやうなれど、そも〳〵
御暇
(
おいとま
)
を
賜
(
たま
)
はりて
家
(
いへ
)
に
歸
(
かへ
)
りし
時
(
とき
)
、
聟
(
むこ
)
と
定
(
さだ
)
まりしは
職工
(
しよくこう
)
にて
工場
(
こうぢやう
)
がよひする
人
(
ひと
)
と
聞
(
き
)
きし
時
(
とき
)
、
勿躰
(
もつたい
)
なき
比較
(
くらべ
)
なれど
我
(
わ
)
れは
殿
(
との
)
の
御地位
(
ごちゐ
)
を
思
(
おも
)
ひ
合
(
あは
)
せて、
天女
(
てんによ
)
が
羽衣
(
はごろも
)
を
失
(
うしな
)
ひたる
心地
(
こゝち
)
もしたりき。
よしや
此縁
(
このえん
)
を
厭
(
いと
)
ひたりとも
野末
(
のずゑ
)
の
草花
(
さうくわ
)
は
書院
(
しよゐん
)
の
花瓶
(
くわびん
)
にさゝれんものか、
恩愛
(
おんない
)
ふかき
親
(
おや
)
に
苦
(
く
)
を
増
(
ま
)
させて
我
(
わ
)
れは
同
(
おな
)
じき
地上
(
ちじやう
)
に
彷徨
(
さまよ
)
はん
身
(
み
)
の
取
(
とり
)
あやまちても
天上
(
てんじやう
)
は
叶
(
かな
)
ひがたし、
若
(
も
)
し
叶
(
かな
)
ひたりとも
(
そ
)
は
邪道
(
じやだう
)
にて
正當
(
せいたう
)
の
人
(
ひと
)
の
目
(
め
)
よりはいかに
汚
(
けが
)
らはしく
淺
(
あさ
)
ましき
身
(
み
)
とおとされぬべき、
我
(
わ
)
れはさても、
殿
(
との
)
をば
浮世
(
うきよ
)
に
譏
(
そし
)
らせ
參
(
まゐ
)
らせん
事
(
こと
)
くち
惜
(
を
)
し、
御覽
(
ごらん
)
ぜよ
奧方
(
おくがた
)
の
御目
(
おめ
)
には
我
(
わ
)
れを
憎
(
にく
)
しみ
殿
(
との
)
をば
嘲
(
あざけ
)
りの
色
(
いろ
)
の
浮
(
う
)
かび
給
(
たま
)
ひしを。
女子
(
をなご
)
の
太息
(
といき
)
に
胸
(
むね
)
の
雲
(
くも
)
を
消
(
け
)
して、
月
(
つき
)
もる
窓
(
まど
)
を
引
(
ひき
)
たつれば、
音
(
おと
)
に
目
(
め
)
ざめて
泣出
(
なきい
)
づる
稚兒
(
をさなご
)
を、あはれ
可愛
(
かはゆ
)
しいかなる
夢
(
ゆめ
)
を
見
(
み
)
つる
乳
(
ちゝ
)
まゐらせんと
懷
(
ふところ
)
あくれば
笑
(
ゑ
)
みてさぐるも
憎
(
にく
)
からず、
勿躰
(
もつたい
)
なや
此
(
こ
)
の
子
(
こ
)
といふ
可愛
(
かはゆ
)
きもあり、
此子
(
これ
)
が
爲
(
ため
)
我
(
わ
)
が
爲
(
ため
)
不自由
(
ふじいう
)
あらせじ
憂
(
う
)
き
事
(
こと
)
のなかれ、
少
(
すこ
)
しは
餘裕
(
よゆう
)
もあれかしとて
朝
(
あさ
)
は
人
(
ひと
)
より
早
(
はや
)
く
起
(
お
)
き、
夜
(
よ
)
は
此通
(
このとほ
)
り
更
(
ふ
)
けての
霜
(
しも
)
に
寒
(
さむ
)
さを
堪
(
こら
)
へて、
袖
(
そで
)
よ
今
(
いま
)
の
苦勞
(
くらう
)
はつらくとも
暫時
(
しばし
)
の
辛抱
(
しんばう
)
ぞしのべかし、やがて
伍長
(
ごちやう
)
の
肩書
(
かたがき
)
も
持
(
も
)
たば、
鍛工場
(
たんこうぢやう
)
の
取締
(
とりしま
)
りとも
言
(
い
)
はれなば、
家
(
いへ
)
は
今
(
いま
)
少
(
すこ
)
し
廣
(
ひろ
)
く
小女
(
こをんな
)
の
走
(
はし
)
り
使
(
づか
)
ひを
置
(
お
)
きて、
其
(
その
)
かよわき
身
(
み
)
に
水
(
みづ
)
は
汲
(
く
)
まさじ、
我
(
わ
)
れを
腑甲斐
(
ふがひ
)
なしと
思
(
おも
)
ふな、
腕
(
うで
)
には
職
(
しよく
)
あり
身
(
み
)
の
健
(
すこや
)
かなるに、いつまで
斯
(
か
)
くてはあらぬものをと
口癖
(
くちぐせ
)
に
仰
(
あふ
)
せらるゝは、
何處
(
どこ
)
やら
我
(
わ
)
が
心
(
こゝろ
)
の
顏
(
かほ
)
に
出
(
い
)
でゝ
卑
(
いや
)
しむ
色
(
いろ
)
の
見
(
み
)
えけるにや、
恐
(
おそ
)
ろしや
此大恩
(
このだいおん
)
の
良人
(
をつと
)
に
然
(
さ
)
る
心
(
こゝろ
)
を
持
(
も
)
ちて
苟
(
かり
)
にも
其色
(
そのいろ
)
の
顯
(
あら
)
はれもせば。
父
(
ちゝ
)
の
一昨年
(
をとゝし
)
うせたる
時
(
とき
)
も、
母
(
はゝ
)
の
去年
(
きよねん
)
うせたる
時
(
とき
)
も、
心
(
こゝろ
)
からの
介抱
(
かいはう
)
に
夜
(
よる
)
も
帶
(
おび
)
を
解
(
と
)
き
給
(
たま
)
はず、
咳
(
せ
)
き
入
(
い
)
るとては
脊
(
せ
)
を
撫
(
な
)
で、
寢
(
ね
)
がへるとては
抱起
(
だきおこ
)
しつ、
三月
(
みつき
)
にあまる
看病
(
かんびやう
)
を
人手
(
ひとで
)
にかけじと
思召
(
おぼしめ
)
しの
嬉
(
うれ
)
しさ、それのみにても
我
(
わ
)
れは
生涯
(
しやうがい
)
大事
(
だいじ
)
にかけねばなるまじき
人
(
ひと
)
に
不足
(
ふそく
)
らしき
素振
(
そぶり
)
のありしか、
我
(
わ
)
れは
知
(
し
)
らねど
然
(
さ
)
もあらば
何
(
なん
)
とせん、
果敢
(
はか
)
なき
樓閣
(
ろうかく
)
を
空中
(
くうちゆう
)
に
描
(
ゑが
)
く
時
(
とき
)
、うるさしや
我名
(
わがな
)
の
呼聲
(
よびごゑ
)
、
袖
(
そで
)
、
何
(
なに
)
せよ
彼
(
か
)
せよの
言附
(
いひつけ
)
に
消
(
け
)
されて、
思
(
おも
)
ひこゝに
絶
(
た
)
ゆれば
恨
(
うらみ
)
をあたりに
寄
(
よ
)
せもやしたる、
勿躰
(
もつたい
)
なき
罪
(
つみ
)
は
我
(
わ
)
が
心
(
こゝろ
)
よりなれど
櫻町
(
さくらまち
)
の
殿
(
との
)
といふ
面
(
おも
)
かげなくば
胸
(
むね
)
の
鏡
(
かゞみ
)
に
映
(
うつ
)
るものもあらじ、
罪
(
つみ
)
は
我身
(
わがみ
)
か、
殿
(
との
)
か、
殿
(
との
)
だになくば
我
(
わ
)
が
心
(
こゝろ
)
は
靜
(
しづか
)
かなるべきか、
否
(
いな
)
、かゝる
事
(
こと
)
は
思
(
おも
)
ふまじ、
呪咀
(
じゆそ
)
の
詞
(
ことば
)
となりて
忌
(
い
)
むべきものを。
母
(
はゝ
)
が
心
(
こゝろ
)
の
何方
(
いづかた
)
に
走
(
はし
)
れりとも
知
(
し
)
らで、
乳
(
ちゝ
)
に
飽
(
あ
)
きれば
乳房
(
ちぶさ
)
に
顏
(
かほ
)
を
寄
(
よ
)
せたるまゝ
思
(
おも
)
ふ
事
(
こと
)
なく
寐入
(
ねいり
)
し
兒
(
ちご
)
の、
頬
(
ほゝ
)
は
薄絹
(
うすぎぬ
)
の
紅
(
べに
)
さしたるやうにて、
何事
(
なにごと
)
を
語
(
かた
)
らんとや
折々
(
をり〳〵
)
曲
(
ま
)
ぐる
口元
(
くちもと
)
の
愛
(
あい
)
らしさ、
肥
(
こ
)
えたる
腮
(
あご
)
の
二重
(
ふたへ
)
なるなど、
斯
(
かゝ
)
る
人
(
ひと
)
さへある
身
(
み
)
にて
我
(
わ
)
れは
二心
(
ふたごゝろ
)
を
持
(
も
)
ちて
濟
(
す
)
むべきや、ゆめさら
二心
(
ふたごゝろ
)
は
持
(
も
)
たぬまでも
我
(
わ
)
が
良人
(
をつと
)
を
不足
(
ふそく
)
に
思
(
おも
)
ひて
濟
(
す
)
むべきや、はかなし、はかなし、
櫻町
(
さくらまち
)
の
名
(
な
)
を
忘
(
わす
)
れぬ
限
(
かぎ
)
り
我
(
わ
)
れは
二心
(
ふたごゝろ
)
の
不貞
(
ふてい
)
の
女子
(
をなご
)
なり。
兒
(
ちご
)
を
靜
(
しづ
)
かに
寢床
(
ねどこ
)
に
移
(
うつ
)
して
女子
(
をなご
)
はやをら
立上
(
たちあが
)
りぬ、
眼
(
まな
)
ざし
定
(
さだ
)
まりて
口元
(
くちもと
)
かたく
結
(
むす
)
びたるまゝ、
疊
(
たゝみ
)
の
破
(
やぶ
)
れに
足
(
あし
)
を
取
(
と
)
られず、
心
(
こゝろ
)
ざすは
何物
(
なにもの
)
ぞ
葛籠
(
つゞら
)
の
底
(
そこ
)
に
藏
(
をさ
)
めたりける
一二枚
(
いちにまい
)
の
衣
(
きぬ
)
を
打返
(
うちかへ
)
して
淺黄縮緬
(
あさぎちりめん
)
の
帶揚
(
おびあげ
)
のうちより、
五通
(
ごつう
)
六通
(
ろくつう
)
、
數
(
かぞ
)
ふれば
十二通
(
じふにつう
)
の
文
(
ふみ
)
を
出
(
いだ
)
して
元
(
もと
)
の
座
(
ざ
)
へ
戻
(
もど
)
れば、
燈
(
ともしび
)
のかげ
少
(
すこ
)
し
暗
(
くら
)
きを
捻
(
ね
)
ぢ
出
(
いだ
)
す
手
(
て
)
もとに
見
(
み
)
ゆるは
殿
(
との
)
の
名
(
な
)
、よし
慝名
(
かくしな
)
なりとも
此眼
(
このめ
)
に
感
(
かん
)
じは
變
(
かは
)
るまじ、
今日迄
(
けふまで
)
封
(
ふう
)
じを
解
(
と
)
かざりしは
我
(
わ
)
れながら
心強
(
こゝろづよ
)
しと
誇
(
ほこ
)
りたる
淺
(
あさ
)
はかさよ、
胸
(
むね
)
のなやみに
射
(
い
)
る
矢
(
や
)
のおそろしく、
思
(
おも
)
へば
卑怯
(
ひけふ
)
の
振舞
(
ふるまひ
)
なりし、
身
(
み
)
の
行
(
おこな
)
ひは
清
(
きよ
)
くもあれ
心
(
こゝろ
)
の
腐
(
くさ
)
りの
棄難
(
すてがた
)
くば
同
(
おな
)
じ
不貞
(
ふてい
)
の
身
(
み
)
なりけるを、
卒
(
いざ
)
さらば
心試
(
こゝろだめ
)
しに
拜
(
はい
)
し
參
(
まゐ
)
らせん、
殿
(
との
)
も
我心
(
わがこゝろ
)
を
見給
(
みたま
)
へ、
我
(
わ
)
が
良人
(
をつと
)
も
御覽
(
ごらん
)
ぜよ。
神
(
かみ
)
もおはしまさば
我家
(
わがや
)
の
檐
(
のき
)
に
止
(
とゞ
)
まりて
御覽
(
ごらん
)
ぜよ、
佛
(
ほとけ
)
もあらば
我
(
わ
)
が
此手元
(
このてもと
)
に
近
(
ちか
)
よりても
御覽
(
ごらん
)
ぜよ、
我
(
わ
)
が
心
(
こゝろ
)
は
清
(
す
)
めるか
濁
(
にご
)
れるか。
封
(
ふう
)
じ
目
(
め
)
ときて
取出
(
とりいだ
)
せば
一尋
(
ひとひろ
)
あまりに
筆
(
ふで
)
のあやもなく、
有難
(
ありがた
)
き
事
(
こと
)
の
數々
(
かず〳〵
)
、
辱
(
かたじけ
)
なき
事
(
こと
)
の
山々
(
やま〳〵
)
、
思
(
おも
)
ふ、
戀
(
した
)
ふ、
忘
(
わす
)
れがたし、
血
(
ち
)
の
涙
(
なみだ
)
、
胸
(
むね
)
の
炎
(
ほのほ
)
、
此等
(
これら
)
の
文字
(
もじ
)
を
縱横
(
じゆうわう
)
に
散
(
ち
)
らして、
文字
(
もじ
)
はやがて
耳
(
みゝ
)
の
側
(
わき
)
に
恐
(
おそ
)
ろしき
聲
(
こゑ
)
もて
(
さゝや
)
くぞかし、
一通
(
いつゝう
)
は
手
(
て
)
もとふるへて
卷收
(
まきをさ
)
めぬ、
二通
(
につう
)
も
同
(
おな
)
じく
三通
(
さんつう
)
四通
(
しつう
)
五六通
(
ごろくつう
)
よりは
少
(
すこ
)
し
顏
(
かほ
)
の
色
(
いろ
)
かはりて
見
(
み
)
えしが、
八
(
はつ
)
、
九
(
く
)
、
十通
(
じつゝう
)
、
十二通
(
じふにつう
)
、
開
(
ひら
)
きては
讀
(
よ
)
みよみては
開
(
ひら
)
く、
文字
(
もじ
)
は
目
(
め
)
に
入
(
い
)
らぬか
入
(
い
)
りても
得
(
え
)
よまぬか。
長
(
たけ
)
なる
髮
(
かみ
)
をうしろに
結
(
むす
)
びて、
古
(
ふり
)
たる
衣
(
きぬ
)
になえたる
帶
(
おび
)
、
窶
(
やつ
)
れたりとも
美貌
(
びばう
)
とは
誰
(
た
)
が
目
(
め
)
にも
許
(
ゆる
)
すべし、あはれ
果敢
(
はか
)
なき
塵塚
(
ちりづか
)
の
中
(
なか
)
に
運命
(
うんめい
)
を
持
(
も
)
てりとも、
汚
(
きたな
)
き
垢
(
よご
)
れは
蒙
(
かうむ
)
らじと
思
(
おも
)
へる
身
(
み
)
の、
猶
(
なほ
)
何處
(
いづこ
)
にか
惡魔
(
あくま
)
のひそみて、あやなき
物
(
もの
)
をも
思
(
おも
)
はするよ、いざ
雪
(
ゆき
)
ふらば
降
(
ふ
)
れ
風
(
かぜ
)
ふかば
吹
(
ふ
)
け、
我
(
わ
)
が
方寸
(
はうすん
)
の
海
(
うみ
)
に
波騷
(
なみさわ
)
ぎて
沖
(
おき
)
の
釣舟
(
つりふね
)
おもひも
亂
(
みだ
)
れんか、
凪
(
な
)
ぎたる
空
(
そら
)
に
鴎
(
かもめ
)
啼
(
な
)
く
春日
(
はるひ
)
のどかになりなん
胸
(
むね
)
か、
櫻町
(
さくらまち
)
が
殿
(
との
)
の
面影
(
おもかげ
)
も
今
(
いま
)
は
飽
(
あ
)
くまで
胸
(
むね
)
に
浮
(
うか
)
べん、
我
(
わ
)
が
良人
(
をつと
)
が
所爲
(
しよゐ
)
のをさなきも
強
(
しひ
)
て
隱
(
かく
)
さじ、
百八
(
ひやくはち
)
煩惱
(
ぼんなう
)
自
(
おのづ
)
から
消
(
き
)
えばこそ、
殊更
(
ことさら
)
に
何
(
なに
)
かは
消
(
け
)
さん、
血
(
ち
)
も
沸
(
わ
)
かば
沸
(
わ
)
け
炎
(
ほのほ
)
も
燃
(
も
)
えばもえよとて、
微笑
(
びせう
)
を
含
(
ふく
)
みて
讀
(
よ
)
みもてゆく、
心
(
こゝろ
)
は
大瀧
(
おほだき
)
にあたりて
濁世
(
じよくせ
)
の
垢
(
あか
)
を
流
(
なが
)
さんとせし、
某
(
それ
)
の
上人
(
しやうにん
)
がためしにも
同
(
おな
)
じく、
戀人
(
こひゞと
)
が
涙
(
なみだ
)
の
文字
(
もじ
)
は
幾筋
(
いくすぢ
)
の
瀧
(
たき
)
の
迸
(
ほとばし
)
りにも
似
(
に
)
て、
失
(
うしな
)
はん
心弱
(
こゝろよわ
)
き
女子
(
をなご
)
ならば。
傍
(
そば
)
には
可愛
(
かはゆ
)
き
兒
(
ちご
)
の
寐姿
(
ねすがた
)
みゆ、
膝
(
ひざ
)
の
上
(
うへ
)
には
無情
(
むじやう
)
の
君
(
きみ
)
よ
我
(
わ
)
れを
打捨
(
うちす
)
て
給
(
たま
)
ふかと、
殿
(
との
)
の
御聲
(
おんこゑ
)
あり〳〵
聞
(
きこ
)
えて、
外面
(
そとも
)
には
良人
(
をつと
)
や
戻
(
もど
)
らん
更
(
ふ
)
けたる
月
(
つき
)
に
霜
(
しも
)
さむし、たとへば
我
(
わ
)
が
良人
(
をつと
)
今
(
いま
)
此處
(
こゝ
)
に
戻
(
もど
)
らせ
給
(
たま
)
ふとも、
我
(
わ
)
れは
恥
(
はづ
)
かしさに
面
(
おもて
)
あかみて
此膝
(
これ
)
なる
文
(
ふみ
)
を
取
(
とり
)
かくすべきか、
恥
(
は
)
づるは
心
(
こゝろ
)
の
疚
(
やま
)
しければなり、
何
(
なに
)
かは
隱
(
かく
)
さん。
殿
(
との
)
、
今
(
いま
)
もし
此處
(
こゝ
)
におはしまして、
例
(
れい
)
の
辱
(
かたじ
)
けなき
御詞
(
おことば
)
の
數々
(
かず〳〵
)
、さては
恨
(
うら
)
みに
憎
(
にく
)
みのそひて
御聲
(
おんこゑ
)
あらく、さては
勿躰
(
もつたい
)
なき
御命
(
おいのち
)
いまを
限
(
かぎ
)
りとの
給
(
たま
)
ふとも、
我
(
わ
)
れは
此眼
(
このめ
)
の
動
(
うご
)
かんものか、
此胸
(
このむね
)
の
騷
(
さわ
)
がんものか、
動
(
うご
)
くは
逢見
(
あひみ
)
たき
慾
(
よく
)
よりなり、
騷
(
さわ
)
ぐは
下
(
した
)
に
戀
(
こひ
)
しければなり。
女
(
をんな
)
は
暫時
(
しばし
)
恍惚
(
うつとり
)
として
其
(
その
)
すゝけたる
天井
(
てんじやう
)
を
見上
(
みあ
)
げしが、
孤燈
(
ことう
)
の
火
(
ほ
)
かげ
薄
(
うす
)
き
光
(
ひかり
)
を
遠
(
とほ
)
く
投
(
な
)
げて、おぼろなる
胸
(
むね
)
にてり
返
(
かへ
)
すやうなるもうら
淋
(
さび
)
しく、
四隣
(
あたり
)
に
物
(
もの
)
おと
絶
(
た
)
えたるに
霜夜
(
しもよ
)
の
犬
(
いぬ
)
の
長吠
(
とほぼえ
)
すごく、
隙間
(
すきま
)
もる
風
(
かぜ
)
おともなく
身
(
み
)
に
迫
(
せま
)
りくる
寒
(
さぶ
)
さもすさまじ、
來
(
こ
)
し
方
(
かた
)
行
(
ゆ
)
く
末
(
すゑ
)
おもひに
忘
(
わす
)
れて
夢路
(
ゆめぢ
)
をたどるやうなりしが、
何
(
なに
)
ものぞ
佛
(
ほとけ
)
にその
空虚
(
うつろ
)
なる
胸
(
むね
)
にひゞきたると
覺
(
おぼ
)
しく、
女子
(
をなご
)
はあたりを
見廻
(
みまは
)
して
高
(
たか
)
く
笑
(
わら
)
ひぬ、
其身
(
そのみ
)
の
影
(
かげ
)
を
顧
(
かへり
)
みて
高
(
たか
)
く
笑
(
わら
)
ひぬ、
殿
(
との
)
、
我良人
(
わがをつと
)
、
我子
(
わがこ
)
、これや
何者
(
なにもの
)
とて
高
(
たか
)
く
笑
(
わら
)
ひぬ、
目
(
め
)
の
前
(
まへ
)
に
散亂
(
ちりみだ
)
れたる
文
(
ふみ
)
をあげて、やよ
殿
(
との
)
、
今
(
いま
)
ぞ
別
(
わか
)
れまゐらするなりとて、
目元
(
めもと
)
に
宿
(
やど
)
れる
露
(
つゆ
)
もなく、
思
(
おも
)
ひ
切
(
き
)
りたる
決心
(
けつしん
)
の
色
(
いろ
)
もなく、
微笑
(
びせう
)
の
面
(
おもて
)
の
手
(
て
)
もふるへで、
一通
(
いつゝう
)
二通
(
につう
)
八九通
(
はつくつう
)
、
殘
(
のこ
)
りなく
寸斷
(
すんだん
)
に
爲
(
な
)
し
了
(
をは
)
りて、
熾
(
さか
)
んにもえ
立
(
た
)
つ
炭火
(
すみび
)
の
中
(
なか
)
へ
打込
(
うちこ
)
みつ
打込
(
うちこ
)
みつ、からは
灰
(
はひ
)
にあとも
止
(
とゞ
)
めず
煙
(
けぶ
)
りは
空
(
そら
)
に
棚引
(
たなび
)
き
消
(
き
)
ゆるを、うれしや
我
(
わが
)
執着
(
しふちやく
)
も
遺
(
のこ
)
らざりけるよと
打眺
(
うちなが
)
むれば、
月
(
つき
)
やもりくる
軒
(
のき
)
ばに
風
(
かぜ
)
のおと
清
(
きよ
)
し。
出典:青空文庫(
https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/56010_54986.html
)
青空文庫の奥付
底本:「樋口一葉全集第二卷」新世社
1941(昭和16)年7月18日発行
1942(昭和17)年4月10日再版
底本の親本:「校訂一葉全集」博文館
1897(明治30)年1月9日発行
1897(明治30)年6月再版
初出:「毎日新聞」
1895(明治28)年4月3、5日
※送りがな、振りがな、漢字の使い方の不統一は、底本通りです。
入力:万波通彦
校正:岡村和彦
2014年11月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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