うつせみ
樋口 一葉
一
家
(
いへ
)
の
間數
(
まかず
)
は
三疊敷
(
さんでふじき
)
の
玄關
(
げんくわん
)
までを
入
(
い
)
れて
五間
(
いつま
)
、
手狹
(
てぜま
)
なれども
北南
(
きたみなみ
)
吹
(
ふき
)
とほしの
風入
(
かぜい
)
りよく、
庭
(
には
)
は
廣々
(
ひろ〴〵
)
として
植込
(
うゑこみ
)
の
木立
(
こだち
)
も
茂
(
しげ
)
ければ、
夏
(
なつ
)
の
住居
(
すまゐ
)
にうつてつけと
見
(
み
)
えて、
場處
(
ばしよ
)
も
小石川
(
こいしかは
)
の
植物園
(
しよくぶつゑん
)
にちかく
物靜
(
ものしづか
)
なれば、
少
(
すこ
)
しの
不便
(
ふべん
)
を
疵
(
きず
)
にして
他
(
ほか
)
には
申
(
まを
)
す
旨
(
むね
)
のなき
貸家
(
かしや
)
ありけり、
門
(
かど
)
の
柱
(
はしら
)
に
札
(
ふだ
)
をはりしより
大凡
(
おほよそ
)
三月
(
みつき
)
ごしにもなりけれど、いまだに
住人
(
すみて
)
のさだまらで、
主
(
ぬし
)
なき
門
(
かど
)
の
柳
(
やなぎ
)
のいと、
空
(
むな
)
しくなびくも
淋
(
さび
)
しかりき。
家
(
いへ
)
は
何處
(
どこ
)
までも
奇麗
(
きれい
)
にて
見
(
み
)
こみの
好
(
よ
)
ければ、
日
(
ひ
)
のうちには
二人
(
ふたり
)
三人
(
みたり
)
の
拜見
(
はいけん
)
をとて
來
(
く
)
るものも
無
(
な
)
きにはあらねど、
敷金
(
しきゝん
)
三月分
(
みつきぶん
)
、
家賃
(
やちん
)
は
三十日限
(
さんじふにちかぎ
)
りの
取
(
とり
)
たてにて
七圓
(
なゝゑん
)
五十錢
(
ごじつせん
)
といふに、それは
下町
(
したまち
)
の
相場
(
さうば
)
とて
折
(
をり
)
かへして
來
(
く
)
るはなかりき、さるほどに
此
(
この
)
ほどの
朝
(
あさ
)
まだき
四十
(
しじふ
)
に
近
(
ちか
)
かるべき
年輩
(
としごろ
)
の
男
(
をとこ
)
、
紡績織
(
ばうせきおり
)
の
浴衣
(
ゆかた
)
も
少
(
すこ
)
し
色
(
いろ
)
のさめたるを
着
(
き
)
て、
至極
(
しごく
)
そゝくさ
と
落
(
おち
)
つき
無
(
な
)
きが
差配
(
さはい
)
のもとに
來
(
きた
)
りて
此家
(
このいへ
)
の
見
(
み
)
たしといふ、
案内
(
あんない
)
して
其處此處
(
そここゝ
)
と
戸棚
(
とだな
)
の
數
(
かず
)
などを
見
(
み
)
せてあるくに、
其等
(
それら
)
のことは
片耳
(
かたみゝ
)
にも
入
(
い
)
れで、
唯
(
たゞ
)
四邊
(
あたり
)
の
靜
(
しづか
)
とさはやかなるを
喜
(
よろこ
)
び、
今日
(
けふ
)
より
直
(
すぐ
)
にお
借
(
か
)
り
申
(
まを
)
しまする、
敷金
(
しきゝん
)
は
唯今
(
たゞいま
)
置
(
お
)
いて
參
(
まゐ
)
りまして、
引越
(
ひきこ
)
しは
此
(
この
)
夕暮
(
ゆふぐれ
)
、いかにも
急速
(
きふそく
)
では
御座
(
ござ
)
りますが
直樣
(
すぐさま
)
掃除
(
さうぢ
)
にかゝりたう
御座
(
ござ
)
りますとて、
何
(
なん
)
の
仔細
(
しさい
)
なく
約束
(
やくそく
)
はとゝのひぬ。お
職業
(
しよくげふ
)
はと
問
(
と
)
へば、いえ
別段
(
べつだん
)
これといふ
物
(
もの
)
も
御座
(
ござ
)
りませぬとて
至極
(
しごく
)
曖昧
(
あいまい
)
の
答
(
こた
)
へなり、
御人數
(
ごにんず
)
はと
聞
(
き
)
かれて、
其何
(
そのなん
)
だか
四五人
(
しごにん
)
の
事
(
こと
)
も
御座
(
ござ
)
りますし、
七八人
(
しちはちにん
)
にもなりますし、
始終
(
とほし
)
ごたごたして
埓
(
らち
)
は
御座
(
ござ
)
りませぬといふ、
妙
(
めう
)
な
事
(
こと
)
のと
思
(
おも
)
ひしが
掃除
(
さうぢ
)
のすみて
日暮
(
ひぐれ
)
れ
[#「
日暮
(
ひぐれ
)
れ」はママ]
がたに
引移
(
ひきうつ
)
り
來
(
きた
)
りしは、
合乘
(
あひの
)
りの
幌
(
ほろ
)
かけ
車
(
ぐるま
)
に
姿
(
すがた
)
をつゝみて、
開
(
ひら
)
きたる
門
(
もん
)
を
眞直
(
まつすぐ
)
に
入
(
い
)
りて
玄關
(
げんくわん
)
におろしければ、
主
(
ぬし
)
は
男
(
をとこ
)
とも
女
(
をんな
)
とも
人
(
ひと
)
には
見
(
み
)
えじと
思
(
おも
)
ひしげなれど、
乘
(
の
)
り
居
(
ゐ
)
たるは
三十許
(
さんじふばかり
)
の
氣
(
き
)
の
利
(
き
)
きし
女中風
(
ぢよちゆうふう
)
と、
今
(
いま
)
一人
(
ひとり
)
は
十八
(
じふはち
)
か、
九
(
く
)
には
未
(
ま
)
だと
思
(
おも
)
はるゝやうの
病美人
(
びやうびじん
)
、
顏
(
かほ
)
にも
手足
(
てあし
)
にも
血
(
ち
)
の
氣
(
け
)
といふもの
少
(
すこ
)
しもなく、
透
(
す
)
きとほるやうに
蒼白
(
あをじろ
)
きがいたましく
見
(
み
)
えて、
折柄
(
をりから
)
世話
(
せわ
)
やきに
來
(
き
)
て
居
(
ゐ
)
たりし
差配
(
さはい
)
が
心
(
こゝろ
)
に、
此人
(
これ
)
を
先刻
(
さき
)
のそゝくさ
男
(
をとこ
)
が
妻
(
つま
)
とも
妹
(
いもと
)
とも
受
(
うけ
)
とられぬと
思
(
おも
)
ひぬ。
荷物
(
にもつ
)
といふは
大八
(
だいはち
)
に
唯
(
たゞ
)
一
(
ひと
)
くるま
來
(
きた
)
りしばかり、
兩隣
(
りやうどなり
)
にお
定
(
さだ
)
めの
土産
(
みやげ
)
は
配
(
くば
)
りけれども、
家
(
いへ
)
の
内
(
うち
)
は
引越
(
ひつこし
)
らしき
騷
(
さわ
)
ぎもなく
至極
(
しごく
)
寂寞
(
ひつそり
)
とせしものなり。
人數
(
にんず
)
は
彼
(
か
)
のそそくさに
此女中
(
このぢよちゆう
)
と、
他
(
ほか
)
には
御飯
(
ごはん
)
たきらしき
肥大女
(
ふとつちよ
)
および、
其夜
(
そのよ
)
に
入
(
い
)
りてより
車
(
くるま
)
を
飛
(
と
)
ばせて
二人
(
ふたり
)
ほど
來
(
きた
)
りし
人
(
ひと
)
あり、
一人
(
ひとり
)
は
六十
(
ろくじふ
)
に
近
(
ちか
)
かるべき
人品
(
じんぴん
)
よき
剃髮
(
ていはつ
)
の
老人
(
らうじん
)
、
一人
(
ひとり
)
は
妻
(
つま
)
なるべし
對
(
つゐ
)
するほどの
年輩
(
ねんぱい
)
にてこれは
實法
(
じつぱふ
)
に
小
(
ちひ
)
さき
丸髷
(
まるまげ
)
をぞ
結
(
ゆ
)
ひける、
病
(
や
)
みたる
人
(
ひと
)
は
來
(
く
)
るよりやがて
奧深
(
おくふか
)
に
床
(
とこ
)
を
敷
(
し
)
かせて、
括
(
くゝ
)
り
枕
(
まくら
)
に
頭
(
つむり
)
を
落
(
おち
)
つかせけるが、
夜
(
よ
)
もすがら
枕近
(
まくらちか
)
くにありて
悄然
(
しよんぼり
)
とせし
老人
(
としより
)
二人
(
ふたり
)
の
面
(
おも
)
やう、
何處
(
どこ
)
やら
寢顏
(
ねがほ
)
に
似
(
に
)
た
處
(
ところ
)
のあるやうなるは、
此娘
(
このむすめ
)
の
若
(
もし
)
も
父母
(
ちゝはゝ
)
にてはなきか、
彼
(
か
)
のそゝくさ
男
(
をとこ
)
を
始
(
はじ
)
めとして
女中
(
ぢよちゆう
)
ども一
同
(
どう
)
旦那樣
(
だんなさま
)
御新造樣
(
ごしんぞさま
)
と
言
(
い
)
へば、
應々
(
おい〳〵
)
と
返事
(
へんじ
)
して、
男
(
をとこ
)
の
名
(
な
)
をば
太吉
(
たきち
)
太吉
(
たきち
)
と
呼
(
よ
)
びて
使
(
つか
)
ひぬ。
あくる
朝
(
あさ
)
風
(
かぜ
)
すゞしきほどに
今
(
いま
)
一人
(
ひとり
)
車
(
くるま
)
に
乘
(
の
)
りつけゝる
人
(
ひと
)
のありけり、
紬
(
つむぎ
)
の
單衣
(
ひとへ
)
に
白
(
しろ
)
ちりめんの
帶
(
おび
)
を
卷
(
ま
)
きて、
鼻
(
はな
)
の
下
(
した
)
に
薄
(
うす
)
ら
髯
(
ひげ
)
のある
三十位
(
さんじふぐらゐ
)
のでつぷりと
肥
(
ふと
)
りて
見
(
み
)
だてよき
人
(
ひと
)
、
小
(
ちひ
)
さき
紙
(
かみ
)
に
川村太吉
(
かはむらたきち
)
と
書
(
かい
)
て
貼
(
は
)
りたるを
讀
(
よみ
)
みて
此處
(
こゝ
)
だ〳〵と
車
(
くるま
)
より
下
(
お
)
りける、
姿
(
すがた
)
を
見
(
み
)
つけて、おゝ
番町
(
ばんちやう
)
の
旦那樣
(
だんなさま
)
とお
三
(
さん
)
どんが
眞先
(
まつさき
)
に
襷
(
たすき
)
をはづせば、そゝくさは
飛出
(
とびだ
)
していやお
早
(
はや
)
いお
出
(
いで
)
、よく
早速
(
さつそく
)
おわかりになりましたな、
昨日
(
きのふ
)
まで
大塚
(
おほつか
)
にお
置
(
お
)
き
申
(
まを
)
したので
御座
(
ござ
)
りますが
何分
(
なにぶん
)
もう、その
何
(
なん
)
だか
頻
(
しき
)
に
嫌
(
いや
)
におなりなされて
何處
(
どこ
)
へか
行
(
ゆ
)
かう
行
(
ゆ
)
かうと
仰
(
おつ
)
しやる、
仕方
(
しかた
)
が
御座
(
ござ
)
りませぬで
漸
(
やつ
)
とまあ
此處
(
こゝ
)
をば
見
(
み
)
つけ
出
(
だ
)
しまして
御座
(
ござ
)
ります、
御覽下
(
ごらんくだ
)
さりませ
一寸
(
ちよつと
)
斯
(
か
)
うお
庭
(
には
)
も
廣
(
ひろ
)
う
御座
(
ござ
)
りますし、
四隣
(
あたり
)
が
遠
(
とほ
)
うござりますので
御氣分
(
ごきぶん
)
の
爲
(
ため
)
にもよからうかと
存
(
ぞん
)
じまする、はい
昨夜
(
ゆうべ
)
はよくお
眠
(
やすみ
)
になりましたが
今朝
(
けさ
)
ほど
又
(
また
)
少
(
すこ
)
しその、
一寸
(
ちよつと
)
御樣子
(
ごやうす
)
が
變
(
かは
)
つたやうで、ま、いらしつて
御覽下
(
ごらんくだ
)
さりませと
先
(
さき
)
に
立
(
たつ
)
て
案内
(
あんない
)
をすれば、
心配
(
しんぱい
)
らしく
髯
(
ひげ
)
をひねりて、
奧
(
おく
)
の
座敷
(
ざしき
)
に
通
(
とほ
)
りぬ。
二
氣分
(
きぶん
)
すぐれてよき
時
(
とき
)
は
三歳兒
(
みつご
)
のやうに
父母
(
ちゝはゝ
)
の
膝
(
ひざ
)
に
眠
(
ねぶ
)
るか、
白紙
(
はくし
)
を
切
(
き
)
つて
姉樣
(
あねさま
)
のお
製
(
つくり
)
に
餘念
(
よねん
)
なく、
物
(
もの
)
を
問
(
と
)
へばにこ〳〵と
打笑
(
うちゑ
)
みて
唯
(
たゞ
)
はい〳〵と
意味
(
いみ
)
もなき
返事
(
へんじ
)
をする
温順
(
おとな
)
しさも、
狂風一陣
(
きやうふういちぢん
)
梢
(
こずゑ
)
をうごかして
來
(
きた
)
る
氣
(
き
)
の
立
(
た
)
つた
折
(
をり
)
には、
父樣
(
とうさん
)
も
母樣
(
かあさん
)
も
兄樣
(
にいさん
)
も
誰
(
た
)
れも
後生
(
ごしやう
)
、
顏
(
かほ
)
を
見
(
み
)
せて
下
(
くだ
)
さるな、とて
物陰
(
ものかげ
)
にひそんで
泣
(
な
)
く、
聲
(
こゑ
)
は
腸
(
はらわた
)
を
絞
(
しぼ
)
り
出
(
だ
)
すやうにて
私
(
わたし
)
が
惡
(
わる
)
う
御座
(
ござ
)
りました、
堪忍
(
かんにん
)
して
堪忍
(
かんにん
)
してと
繰返
(
くりかへ
)
し〳〵、さながら
目
(
め
)
の
前
(
まへ
)
の
何
(
なに
)
やらに
向
(
むか
)
つて
詫
(
わび
)
るやうに
言
(
い
)
ふかと
思
(
おも
)
へば、
今
(
いま
)
行
(
ゆき
)
まする、
今
(
いま
)
行
(
ゆき
)
まする、
私
(
わたし
)
もお
跡
(
あと
)
から
參
(
まゐ
)
りまするとて
日
(
ひ
)
のうちには
看護
(
まもり
)
の
隙
(
ひま
)
をうかゞひて
驅
(
か
)
け
出
(
いだ
)
すこと
二度
(
にど
)
三度
(
さんど
)
もあり、
井戸
(
ゐど
)
には
蓋
(
ふた
)
を
置
(
お
)
き、きれ
物
(
もの
)
とては
鋏
(
はさみ
)
一挺
(
いつちやう
)
目
(
め
)
にかゝらぬやうとの
心配
(
こゝろくば
)
りも、
危
(
あやふ
)
きは
病
(
やま
)
ひのさする
業
(
わざ
)
かも、
此纎弱
(
このかよわ
)
き
娘
(
むすめ
)
一人
(
ひとり
)
とり
止
(
と
)
むる
事
(
こと
)
かなはで、
勢
(
いきほ
)
ひに
乘
(
の
)
りて
驅
(
か
)
け
出
(
いだ
)
す
時
(
とき
)
には
大
(
だい
)
の
男
(
をとこ
)
二人
(
ふたり
)
がゝりにてもむつかしき
時
(
とき
)
のありける。
本宅
(
ほんたく
)
は
三番町
(
さんばんちやう
)
の
何處
(
どこ
)
やらにて
表札
(
へうさつ
)
を
見
(
み
)
ればむゝ
彼
(
あ
)
の
人
(
ひと
)
の
家
(
うち
)
かと
合點
(
がてん
)
のゆくほどの
身分
(
みぶん
)
、
今
(
いま
)
さら
此處
(
こゝ
)
には
言
(
い
)
はずもがな、
名前
(
なまへ
)
の
恥
(
はづ
)
かしければ
病院
(
びやうゐん
)
へ
入
(
い
)
れる
事
(
こと
)
もせで、
醫者
(
いしや
)
も
心安
(
こゝろやす
)
きを
招
(
まね
)
き
家
(
いへ
)
は
僕
(
ぼく
)
の
太吉
(
たきち
)
といふが
名
(
な
)
を
借
(
か
)
りて
心
(
こゝろ
)
まかせの
養生
(
やうじやう
)
、
一月
(
ひとつき
)
と
同
(
おな
)
じ
處
(
ところ
)
に
住
(
すま
)
へば
見
(
み
)
る
物殘
(
ものゝこ
)
らず
嫌
(
いや
)
になりて、
次第
(
しだい
)
に
病
(
やま
)
ひの
募
(
つの
)
ること
見
(
み
)
る
目
(
め
)
も
恐
(
おそ
)
ろしきほど
凄
(
すさ
)
まじき
事
(
こと
)
あり。
當主
(
たうしゆ
)
は
養子
(
やうし
)
にて
此娘
(
これ
)
こそは
家
(
いへ
)
につきての
一粒
(
ひとつぶ
)
ものなれば
父母
(
ちゝはゝ
)
が
歎
(
なげ
)
きおもひやるべし、
病
(
やま
)
ひにふしたるは
櫻
(
さくら
)
さく
春
(
はる
)
の
頃
(
ころ
)
よりと
聞
(
き
)
くに、それより
晝夜
(
ちうや
)
瞼
(
まぶた
)
を
合
(
あは
)
する
間
(
ま
)
もなき
心配
(
しんぱい
)
に
疲
(
つか
)
れて、
老
(
おい
)
たる
人
(
ひと
)
はよろ〳〵たよ〳〵と
二人
(
ふたり
)
ながら
力
(
ちから
)
なさゝうの
風情
(
ふぜい
)
、
娘
(
むすめ
)
が
病
(
やま
)
ひの
俄
(
には
)
かに
起
(
おこ
)
りて
私
(
わたし
)
はもう
歸
(
かへ
)
りませぬとて
驅
(
か
)
け
出
(
いだ
)
すを
見
(
み
)
る
折
(
をり
)
にも、あれあれ
何
(
ど
)
うかして
呉
(
く
)
れ、
太吉々々
(
たきち〳〵
)
と
呼立
(
よびたて
)
るほかには
何
(
なん
)
の
能
(
のう
)
なく
情
(
なさけ
)
なき
躰
(
てい
)
なり。
昨夜
(
ゆうべ
)
は
夜
(
よ
)
もすがら
靜
(
しづか
)
に
眠
(
ねぶ
)
りて、
今朝
(
けさ
)
は
誰
(
た
)
れより
一
(
いち
)
はな
懸
(
が
)
けに
目
(
め
)
を
覺
(
さま
)
し、
顏
(
かほ
)
を
洗
(
あら
)
ひ
髮
(
かみ
)
を
撫
(
な
)
でつけて
着物
(
きもの
)
もみづから
氣
(
き
)
に
入
(
い
)
りしを
取出
(
とりいだ
)
し、
友仙
(
いうぜん
)
の
帶
(
おび
)
に
緋
(
ひ
)
ぢりめんの
帶
(
おび
)
あげも
人手
(
ひとで
)
を
借
(
か
)
りずに
手
(
て
)
ばしこく
締
(
し
)
めたる
姿
(
すがた
)
、
不圖
(
ふと
)
見
(
み
)
たる
目
(
め
)
には
此樣
(
このやう
)
の
病人
(
びやうにん
)
とも
思
(
おも
)
ひ
寄
(
よ
)
るまじき
美
(
うつ
)
くしさ、
兩親
(
ふたおや
)
は
見返
(
みかへ
)
りて
今更
(
いまさら
)
に
涙
(
なみだ
)
ぐみぬ、
附
(
つき
)
そひの
女
(
をんな
)
が
粥
(
かゆ
)
の
膳
(
ぜん
)
を
持來
(
もちきた
)
りて
召上
(
めしあが
)
りますかと
問
(
と
)
へば、いや〳〵と
頭
(
かぶり
)
をふりて
意氣地
(
いくぢ
)
もなく
母
(
はゝ
)
の
膝
(
ひざ
)
へ
寄
(
より
)
そひしが、
今日
(
けふ
)
は
私
(
わたし
)
の
年季
(
ねん
)
が
明
(
あき
)
まするか、
歸
(
かへ
)
る
事
(
こと
)
が
出來
(
でき
)
るで
御座
(
ござ
)
んしやうかとて
問
(
と
)
ひかけるに、
年季
(
ねん
)
が
明
(
あけ
)
るといつて
何處
(
どこ
)
へ
歸
(
かへ
)
る
料簡
(
れうけん
)
、
此處
(
ここ
)
はお
前
(
まへ
)
さんの
家
(
うち
)
ではないか、
此
(
この
)
ほかに
行
(
ゆ
)
くところも
無
(
な
)
からうではないか、
分
(
わか
)
らぬ
事
(
こと
)
を
言
(
い
)
ふものではありませぬと
叱
(
しか
)
られて、それでも
母樣
(
かあさま
)
私
(
わたし
)
は
何處
(
どこ
)
へか
行
(
ゆ
)
くので
御座
(
ござ
)
りましやう、あれ
彼處
(
あすこ
)
に
迎
(
むか
)
ひの
車
(
くるま
)
が
來
(
き
)
て
居
(
ゐ
)
まする、とて
指
(
ゆび
)
さすを
見
(
み
)
れば
軒端
(
のきば
)
のもちの
木
(
き
)
に
大
(
おほ
)
いなる
蛛
(
くも
)
の
巣
(
す
)
のかゝりて、
朝日
(
あさひ
)
にかゞやきて
金色
(
こんじき
)
の
光
(
ひかり
)
ある
物
(
もの
)
なりける。
母
(
はゝ
)
は
情
(
なさけ
)
なき
思
(
おも
)
ひの
胸
(
むね
)
に
迫
(
せま
)
り
來
(
き
)
て、あれあんな
事
(
こと
)
を、
貴君
(
あなた
)
お
聞遊
(
きゝあそ
)
ばしましたかと
良人
(
をつと
)
に
向
(
むか
)
ひて
忌
(
いま
)
はしげにいひける、
娘
(
むすめ
)
は
俄
(
にはか
)
に
萎
(
しを
)
れかへりし
面
(
おもて
)
に
生々
(
いき〳〵
)
とせし
色
(
いろ
)
を
見
(
み
)
せて、あのそれ
一昨年
(
をととし
)
のお
花見
(
はなみ
)
の
時
(
とき
)
ねと
言
(
い
)
ひ
出
(
だ
)
す、
何
(
なに
)
えと
受
(
う
)
けて
聞
(
き
)
けば
學校
(
がくかう
)
の
庭
(
には
)
は
奇麗
(
きれい
)
でしたねえとて
面白
(
おもしろ
)
さうに
笑
(
わら
)
ふ、あの
時
(
とき
)
貴君
(
あなた
)
が
下
(
くだ
)
さつた
花
(
はな
)
をね、
私
(
わたし
)
は
今
(
いま
)
も
本
(
ほん
)
の
間
(
あひだ
)
へ
入
(
い
)
れてありまする、
奇麗
(
きれい
)
な
花
(
はな
)
でしたけれどもゝう
萎
(
しを
)
れて
仕舞
(
しまひ
)
ました、
貴君
(
あなた
)
にはあれから
以來
(
いらい
)
御目
(
おめ
)
にかゝらぬでは
御座
(
ござ
)
んせぬか、
何故
(
なぜ
)
逢
(
あ
)
ひに
來
(
き
)
て
下
(
くだ
)
さらないの、
何故
(
なぜ
)
歸
(
かへ
)
つて
來
(
き
)
て
下
(
くだ
)
さらぬの、もうお
目
(
め
)
にかゝる
事
(
こと
)
は
一生
(
いつしやう
)
出來
(
でき
)
ぬので
御座
(
ござ
)
んするか、それは
私
(
わたし
)
が
惡
(
わる
)
う
御座
(
ござ
)
りました、
私
(
わたし
)
が
惡
(
わる
)
いに
相違
(
さうゐ
)
ござんせぬけれど、それは
兄樣
(
にいさま
)
が、
兄
(
あに
)
が、あゝ
誰
(
た
)
れにも
濟
(
す
)
みませぬ、
私
(
わたし
)
が
惡
(
わる
)
う
御座
(
ござ
)
りました
免
(
ゆる
)
して
免
(
ゆる
)
してと
胸
(
むね
)
を
抱
(
だ
)
いて
苦
(
くる
)
しさうに
身
(
み
)
を
悶
(
もだ
)
ゆれば、
雪子
(
ゆきこ
)
や
何
(
なに
)
も
餘計
(
よけい
)
な
事
(
こと
)
を
考
(
かんが
)
へては
成
(
な
)
りませぬよ、それがお
前
(
まへ
)
の
病氣
(
びやうき
)
なのだから、
學校
(
がくかう
)
も
花
(
はな
)
もありはしない、
兄樣
(
にいさん
)
も
此處
(
こゝ
)
にお
出
(
い
)
でなさつては
居
(
ゐ
)
ないのに、
何
(
なに
)
か
見
(
み
)
えるやうに
思
(
おも
)
ふのが
病氣
(
びやうき
)
なのだから
氣
(
き
)
を
落
(
おち
)
つけて
舊
(
もと
)
の
雪子
(
ゆきこ
)
さんに
成
(
な
)
つてお
呉
(
く
)
れ、よ、よ、
氣
(
き
)
が
附
(
つ
)
きましたかえと
脊
(
せ
)
を
撫
(
な
)
でられて、
母
(
はゝ
)
の
膝
(
ひざ
)
の
上
(
うへ
)
にすゝり
泣
(
な
)
きの
聲
(
こゑ
)
ひくゝ
聞
(
きこ
)
えぬ。
三
番町
(
ばんちやう
)
の
旦那樣
(
だんなさま
)
お
出
(
いで
)
と
聞
(
き
)
くより
雪
(
ゆき
)
や
兄樣
(
にいさん
)
がお
見舞
(
みまひ
)
に
來
(
き
)
て
下
(
くだ
)
されたと
言
(
い
)
へど、
顏
(
かほ
)
を
横
(
よこ
)
にして
振向
(
ふりむか
)
うともせぬ
無禮
(
ぶれい
)
を、
常
(
つね
)
ならば
怒
(
いか
)
りもすべき
事
(
こと
)
なれど、あゝ、
捨
(
す
)
てゝ
置
(
お
)
いて
下
(
くだ
)
さい、
氣
(
き
)
に
逆
(
さか
)
らつてもならぬからとて
義母
(
はゝ
)
が
手
(
て
)
づから
與
(
あた
)
へられし
皮蒲團
(
かはぶとん
)
を
貰
(
もら
)
ひて、
枕
(
まくら
)
もとを
少
(
すこ
)
し
遠
(
とほ
)
ざかり、
吹
(
ふ
)
く
風
(
かぜ
)
を
背
(
せ
)
にして
柱
(
はしら
)
の
際
(
きは
)
に
默然
(
もくねん
)
として
居
(
ゐ
)
る
父
(
ちゝ
)
に
向
(
むか
)
ひ、
靜
(
しづか
)
に
一
(
ひと
)
つ
二
(
ふた
)
つ
詞
(
ことば
)
を
交
(
まじ
)
へぬ。
番町
(
ばんちやう
)
の
旦那
(
だんな
)
といふは
口數
(
くちかず
)
少
(
すくな
)
き
人
(
ひと
)
と
見
(
み
)
えて、
時
(
とき
)
たま
思
(
おも
)
ひ
出
(
だ
)
したやうに
はた
〳〵と
團扇
(
うちは
)
づかひするか、
卷煙草
(
まきたばこ
)
の
灰
(
はひ
)
を
拂
(
はら
)
つては
又
(
また
)
火
(
ひ
)
をつけて
手
(
て
)
に
持
(
もつ
)
てゐる
位
(
くらゐ
)
なもの、
絶
(
た
)
えず
尻目
(
しりめ
)
に
雪子
(
ゆきこ
)
の
方
(
かた
)
を
眺
(
なが
)
めて
困
(
こま
)
つたものですなと
言
(
い
)
ふばかり、あゝ
此樣
(
こん
)
な
事
(
こと
)
と
知
(
し
)
りましたら
早
(
はや
)
くに
方法
(
はうはふ
)
も
有
(
あ
)
つたのでしやうが
今
(
いま
)
に
成
(
な
)
つては
駟馬
(
しめ
)
も
及
(
およ
)
ばずです、
植村
(
うゑむら
)
も
可愛想
(
かあいさう
)
な
事
(
こと
)
でした、とて
下
(
した
)
を
向
(
む
)
いて
歎息
(
たんそく
)
の
聲
(
こゑ
)
を
洩
(
も
)
らすに、どうも
何
(
なん
)
とも、
私
(
わし
)
は
悉皆
(
しつかい
)
世上
(
せじやう
)
の
事
(
こと
)
に
疎
(
うと
)
しな、
母
(
はゝ
)
もあの
通
(
とほ
)
りの
何
(
なん
)
であるので、
三方
(
さんばう
)
四方
(
しはう
)
埓
(
らち
)
も
無
(
な
)
い
事
(
こと
)
に
成
(
な
)
つてな、
第一
(
だいいち
)
は
此娘
(
これ
)
の
氣
(
き
)
が
狹
(
せま
)
いからではあるが、
否
(
いや
)
植村
(
うゑむら
)
も
氣
(
き
)
が
狹
(
せま
)
いからで、どうも
此樣
(
こん
)
な
事
(
こと
)
になつて
仕舞
(
しま
)
つたで、
私共
(
わしども
)
二人
(
ふたり
)
が
實
(
じつ
)
に
其方
(
そちら
)
に
合
(
あは
)
せる
顏
(
かほ
)
も
無
(
な
)
いやうな
仕儀
(
しぎ
)
でな、
然
(
しか
)
し
雪
(
ゆき
)
をも
可愛想
(
かあいさう
)
と
思
(
おも
)
つて
遣
(
や
)
つて
呉
(
く
)
れ、
此樣
(
こん
)
な
身
(
み
)
に
成
(
な
)
つても
其方
(
そちら
)
への
義理
(
ぎり
)
ばかり
思
(
おも
)
つて
情
(
なさけ
)
ない
事
(
こと
)
を
言
(
い
)
ひ
出
(
だ
)
し
居
(
を
)
る、
多少
(
たせう
)
教育
(
けういく
)
も
授
(
さづ
)
けてあるに
狂氣
(
きやうき
)
するといふは
如何
(
いか
)
にも
恥
(
はづ
)
かしい
事
(
こと
)
で、
此方
(
このはう
)
から
行
(
ゆ
)
くと
家
(
いへ
)
の
恥辱
(
ちじよく
)
にもなる
實
(
じつ
)
に
憎
(
にく
)
むべき
奴
(
やつ
)
ではあるが、
情實
(
じやうじつ
)
を
酌
(
く
)
んでな、これほどまで
操
(
みさを
)
といふものを
取止
(
とりと
)
めて
置
(
お
)
いただけ
憐
(
あはれ
)
んで
遣
(
や
)
つて
呉
(
く
)
れ、
愚鈍
(
ぐどん
)
ではあるが
子供
(
こども
)
の
時
(
とき
)
から
是
(
こ
)
れといふ
不出來
(
ふでか
)
しも
無
(
な
)
かつたを
思
(
おも
)
ふと
何
(
なに
)
か
殘念
(
ざんねん
)
のやうにもあつて、
眞
(
まこと
)
の
親馬鹿
(
おやばか
)
といふのであらうが
平癒
(
なほ
)
らぬほどなら
死
(
し
)
ねとまでも
諦
(
あきら
)
めがつきかねるもので、
餘
(
あま
)
り
昨今
(
さくこん
)
忌
(
いま
)
はしい
事
(
こと
)
を
言
(
い
)
はれると
死期
(
しき
)
が
近
(
ちか
)
よつたかと
取越
(
とりこ
)
し
苦勞
(
ぐらう
)
をやつてな、
大塚
(
おほつか
)
の
家
(
うち
)
には
何
(
なに
)
か
迎
(
むか
)
ひに
來
(
く
)
るものが
有
(
あ
)
るなどゝ
騷
(
さわ
)
ぎをやるにつけて
母
(
はゝ
)
が
詰
(
つま
)
らぬ
易者
(
えきしや
)
などにでも
見
(
み
)
て
貰
(
もら
)
つたか、
愚
(
ぐ
)
な
話
(
はな
)
しではあるが
一月
(
ひとつき
)
のうちに
生命
(
せいめい
)
が
危
(
あやふ
)
いとか
言
(
い
)
つたさうな、
聞
(
き
)
いて
見
(
み
)
ると
餘
(
あま
)
り
快
(
こゝろよ
)
くもないに
當人
(
たうにん
)
も
頻
(
しき
)
りと
嫌
(
いや
)
がる
樣子
(
やうす
)
なり、ま、
引移
(
ひきうつ
)
りをするが
宜
(
よ
)
からうとて
此處
(
こゝ
)
を
搜
(
さが
)
させては
來
(
き
)
たが、いや
何
(
ど
)
うも
永持
(
ながもち
)
はあるまいと
思
(
おも
)
はれる、
殆
(
ほと
)
んど
毎日
(
まいにち
)
死
(
し
)
ぬ
死
(
し
)
ぬと
言
(
いつ
)
て
見
(
み
)
る
通
(
とほ
)
り
人間
(
にんげん
)
らしき
色艷
(
いろつや
)
もなし、
食事
(
しよくじ
)
も
丁度
(
ちやうど
)
一週間
(
いつしうかん
)
ばかり
一粒
(
いちりふ
)
も
口
(
くち
)
へ
入
(
い
)
れる
事
(
こと
)
が
無
(
な
)
いに、そればかりでも
身躰
(
からだ
)
の
疲勞
(
ひらう
)
が
甚
(
はなはだ
)
しからうと
思
(
おも
)
はれるので
種々
(
いろ〳〵
)
に
異見
(
いけん
)
も
言
(
い
)
ふが、
何
(
ど
)
うも
病
(
やまひ
)
の
故
(
せゐ
)
であらうか
兎角
(
とかく
)
に
誰
(
た
)
れの
言
(
い
)
ふ
事
(
こと
)
も
用
(
もち
)
ひぬに
困
(
こま
)
りはてる、
醫者
(
いしや
)
は
例
(
れい
)
の
安田
(
やすだ
)
が
來
(
く
)
るので
斯
(
か
)
う
素人
(
しろうと
)
まかせでは
我
(
わが
)
まゝばかり
募
(
つの
)
つて
宜
(
よ
)
くあるまいと
思
(
おも
)
はれる、
私
(
わし
)
の
病院
(
びやうゐん
)
へ
入
(
い
)
れる
事
(
こと
)
は
不承知
(
ふしようち
)
かと
毎々
(
まい〳〵
)
聞
(
き
)
かれるのであるが、それも
何
(
ど
)
うあらうかと
母
(
はゝ
)
などは
頻
(
しきり
)
にいやがるので
私
(
わし
)
も
二
(
に
)
の
足
(
あし
)
を
踏
(
ふ
)
んで
居
(
ゐ
)
る、
無論
(
むろん
)
病院
(
びやうゐん
)
へ
行
(
ゆ
)
けば
自宅
(
じたく
)
と
違
(
ちが
)
つて
窮屈
(
きゆうくつ
)
ではあらうが、
何分
(
なにぶん
)
此頃
(
このごろ
)
飛出
(
とびだ
)
しが
始
(
はじ
)
まつて
私
(
わし
)
などは
勿論
(
もちろん
)
太吉
(
たきち
)
と
倉
(
くら
)
と
二人
(
ふたり
)
ぐらゐの
力
(
ちから
)
では
到底
(
たうてい
)
引
(
ひき
)
とめられぬ
働
(
はたら
)
きをやるからの、
萬一
(
まんいち
)
井戸
(
ゐど
)
へでも
懸
(
かゝ
)
られてはと
思
(
おも
)
つて、
無論
(
むろん
)
蓋
(
ふた
)
はして
有
(
あ
)
るが
往來
(
わうらい
)
へ
飛出
(
とびだ
)
されても
難儀
(
なんぎ
)
至極
(
しごく
)
なり、
夫等
(
それら
)
を
思
(
おも
)
ふと
入院
(
にふゐん
)
させやうとも
思
(
おも
)
ふが
何
(
なに
)
かふびんらしくて
心
(
こゝろ
)
一
(
ひと
)
つには
定
(
さだ
)
めかねるて、
其方
(
そちら
)
に
思
(
おも
)
ひ
寄
(
より
)
もあらば
言
(
い
)
つて
見
(
み
)
て
呉
(
く
)
れとてくる〳〵と
剃
(
そり
)
たる
頭
(
つむり
)
を
撫
(
な
)
でゝ
思案
(
しあん
)
に
能
(
あた
)
はぬ
風情
(
ふぜい
)
、はあ〳〵と
聞
(
きゝ
)
居
(
ゐ
)
る
人
(
ひと
)
は
詞
(
ことば
)
は
無
(
な
)
くて
諸共
(
もろとも
)
に
溜息
(
ためいき
)
なり。
娘
(
むすめ
)
は
先刻
(
さき
)
の
涙
(
なみだ
)
に
身
(
み
)
を
揉
(
も
)
みしかば、さらでもの
疲
(
つか
)
れ
甚
(
はなはだ
)
しく、なよ〳〵と
母
(
はゝ
)
の
膝
(
ひざ
)
へ
寄添
(
よりそ
)
ひしまゝ
眠
(
ねぶ
)
れば、お
倉
(
くら
)
お
倉
(
くら
)
と
呼
(
よ
)
んで
附添
(
つきそ
)
ひの
女子
(
をなご
)
と
共
(
とも
)
に
郡内
(
ぐんない
)
の
蒲團
(
ふとん
)
の
上
(
うへ
)
へ
抱
(
いだ
)
き
上
(
あ
)
げて
臥
(
ふ
)
さするにはや
正躰
(
しやうたい
)
も
無
(
な
)
く
夢
(
ゆめ
)
に
入
(
い
)
るやうなり、
兄
(
あに
)
といへるは
靜
(
しづか
)
に
膝行
(
いざり
)
寄
(
よ
)
りてさしのぞくに、
黒
(
くろ
)
く
多
(
おほ
)
き
髮
(
かみ
)
の
毛
(
け
)
を
最惜
(
いとを
)
しげもなく
引
(
ひき
)
つめて、
銀杏返
(
いてうがへ
)
しのこはれたるやうに
折返
(
をりかへ
)
し
折返
(
をりかへ
)
し
髷形
(
まげなり
)
に
疊
(
たゝ
)
みこみたるが、
大方
(
おほかた
)
横
(
よこ
)
に
成
(
な
)
りて
狼藉
(
らうぜき
)
の
姿
(
すがた
)
なれども、
幽靈
(
いうれい
)
のやうに
細
(
ほそ
)
く
白
(
しろ
)
き
手
(
て
)
を
二
(
ふた
)
つ
重
(
かさ
)
ねて
枕
(
まくら
)
のもとに
投出
(
なげいだ
)
し、
浴衣
(
ゆかた
)
の
胸
(
むね
)
少
(
すこ
)
しあらはに
成
(
な
)
りて、
締
(
し
)
めたる
緋
(
ひ
)
ぢりめんの
帶
(
おび
)
あげの
解
(
と
)
けて
帶
(
おび
)
より
落
(
おち
)
かゝるも
艶
(
なまめ
)
かしからで
慘
(
いた
)
ましのさまなり。
枕
(
まくら
)
に
近
(
ちか
)
く
一脚
(
いつきやく
)
の
机
(
つくゑ
)
を
据
(
す
)
ゑたるは、
折
(
をり
)
ふし
硯々
(
すゞり〳〵
)
と
呼
(
よ
)
び、
書物
(
しよもつ
)
よむとて
有
(
あり
)
し
學校
(
がくかう
)
のまねびをなせば、
心
(
こゝろ
)
にまかせて
紙
(
かみ
)
いたづらせよとなり、
兄
(
あに
)
といへるは
何心
(
なにごゝろ
)
なく
積重
(
つみかさ
)
ねたる
反古紙
(
ほごがみ
)
を
手
(
て
)
に
取
(
と
)
りて
見
(
み
)
れば、
怪
(
あや
)
しき
書風
(
しよふう
)
に
正躰
(
しやうたい
)
得
(
え
)
しれぬ
文字
(
もじ
)
を
書
(
かき
)
ちらして、これが
雪子
(
ゆきこ
)
の
手跡
(
しゆせき
)
かと
情
(
なさけ
)
なきやうなる
中
(
なか
)
に、
鮮
(
あざや
)
かに
讀
(
よ
)
まれたる
村
(
むら
)
といふ
字
(
じ
)
、
郎
(
らう
)
といふ
字
(
じ
)
、あゝ
植村
(
うゑむら
)
録郎
(
ろくらう
)
、
植村
(
うゑむら
)
録郎
(
ろくらう
)
、よむに
得
(
え
)
堪
(
た
)
へずして
無言
(
むごん
)
にさし
置
(
お
)
きぬ。
四
今日
(
けふ
)
は
用
(
よう
)
なしの
身
(
み
)
なればとて
兄
(
あに
)
は
終日
(
しゆうじつ
)
此處
(
こゝ
)
にありけり、
氷
(
こほり
)
を
取寄
(
とりよ
)
せて
雪子
(
ゆきこ
)
の
頭
(
つむり
)
を
冷
(
ひや
)
す
附添
(
つきそひ
)
の
女子
(
をなご
)
に
代
(
かは
)
りて、どれ
少
(
すこ
)
し
私
(
わし
)
がやつて
見
(
み
)
やうと
無骨
(
ぶこつ
)
らしく
手
(
て
)
を
出
(
いだ
)
すに、
恐
(
おそ
)
れ
入
(
いり
)
ます、お
召物
(
めしもの
)
が
濡
(
ぬ
)
れますと
言
(
い
)
ふを、いゝさ
先
(
まづ
)
させて
見
(
み
)
てくれとて
氷嚢
(
こほりぶくろ
)
の
口
(
くち
)
を
開
(
ひら
)
いて
水
(
みづ
)
を
搾
(
しぼ
)
り
出
(
だ
)
す
手振
(
てぶ
)
りの
無器用
(
ぶきよう
)
さ、
雪
(
ゆき
)
や
少
(
すこ
)
しはお
解
(
わか
)
りか、
兄樣
(
にいさん
)
が
頭
(
つむり
)
を
冷
(
ひや
)
して
下
(
くだ
)
さるのですよとて、
母
(
はゝ
)
の
親心附
(
おやごゝろづ
)
けれども
何
(
なん
)
の
事
(
こと
)
とも
聞分
(
きゝわけ
)
ぬと
覺
(
おぼ
)
しく、
眼
(
め
)
を
見開
(
みひら
)
きながら
空
(
くう
)
を
眺
(
なが
)
めて、あれ
奇麗
(
きれい
)
な
蝶
(
てふ
)
が
蝶
(
てふ
)
がと
言
(
い
)
ひかけしが、
殺
(
ころ
)
してはいけませんよ、
兄樣
(
にいさん
)
兄樣
(
にいさん
)
と
聲
(
こゑ
)
を
限
(
かぎ
)
りに
呼
(
よ
)
べば、こら
何
(
ど
)
うした、
蝶
(
てふ
)
も
何
(
なに
)
も
居
(
ゐ
)
ない、
兄
(
あに
)
は
此處
(
こゝ
)
だから、
殺
(
ころ
)
しはせぬから
安心
(
あんしん
)
して、な、
宜
(
よ
)
いか、
見
(
み
)
えるか、
兄
(
あに
)
だよ、
正雄
(
まさを
)
だよ、
氣
(
き
)
を
取直
(
とりなほ
)
して
正氣
(
しやうき
)
になつて、お
父
(
とつ
)
さんやお
母
(
つか
)
さんを
安心
(
あんしん
)
させて
呉
(
く
)
れ、こら
少
(
すこ
)
し
聞分
(
きゝわ
)
けて
呉
(
く
)
れ、よ、お
前
(
まへ
)
が
此樣
(
このやう
)
な
病氣
(
びやうき
)
になつてから、お
父樣
(
とつさん
)
もお
母樣
(
つかさん
)
も
一晩
(
ひとばん
)
もゆるりとお
眠
(
やすみ
)
になつた
事
(
こと
)
はない、お
疲
(
つか
)
れなされてお
痩
(
や
)
せなされて
介抱
(
かいはう
)
して
居
(
ゐ
)
て
下
(
くだ
)
さるのを
孝行
(
かう〳〵
)
のお
前
(
まへ
)
に
何故
(
なぜ
)
わからない、
平常
(
つね
)
は
道理
(
だうり
)
がよく
解
(
わか
)
る
人
(
ひと
)
ではないか、
氣
(
き
)
を
靜
(
しづ
)
めて
考
(
かんが
)
へ
直
(
なほ
)
して
呉
(
く
)
れ、
植村
(
うゑむら
)
の
事
(
こと
)
は
今更
(
いまさら
)
取
(
とり
)
かへされぬ
事
(
こと
)
であるから、
跡
(
あと
)
でも
懇
(
ねんごろ
)
に
吊
(
とぶら
)
つて
遣
(
や
)
れば、お
前
(
まへ
)
が
手
(
て
)
づから
香花
(
かうげ
)
でも
手向
(
たむけ
)
れば、
彼
(
あ
)
れは
快
(
こゝろよ
)
く
瞑
(
めい
)
することが
出來
(
でき
)
ると
遺書
(
ゐしよ
)
にもあつたと
言
(
い
)
ふではないか、
彼
(
あ
)
れは
潔
(
いさぎよ
)
く
此世
(
このよ
)
を
思
(
おも
)
ひ
切
(
き
)
つたので、お
前
(
まへ
)
の
事
(
こと
)
も
併
(
あは
)
せて
思
(
おも
)
ひ
切
(
き
)
つたので
決
(
けつ
)
して
未練
(
みれん
)
は
殘
(
のこ
)
して
居
(
ゐ
)
なかつたに、お
前
(
まへ
)
が
此樣
(
このやう
)
に
本心
(
ほんしん
)
を
取亂
(
とりみだ
)
して
御兩親
(
ごりやうしん
)
に
歎
(
なげき
)
をかけると
言
(
い
)
ふは
解
(
わか
)
らぬではないか、
彼
(
あ
)
れに
對
(
たい
)
してお
前
(
まへ
)
の
處置
(
しよち
)
の
無情
(
むじやう
)
であつたも
彼
(
あ
)
れは
決
(
けつ
)
して
怨
(
うら
)
んでは
居
(
ゐ
)
なかつた、
彼
(
あ
)
れは
道理
(
だうり
)
を
知
(
し
)
つて
居
(
ゐ
)
る
男
(
をとこ
)
であらう、な、
左樣
(
さう
)
であらう、
校内
(
かうない
)
一
(
いち
)
の
人
(
ひと
)
だとお
前
(
まへ
)
も
常
(
つね
)
に
褒
(
ほ
)
めたではないか、
其人
(
そのひと
)
であるから
決
(
けつ
)
してお
前
(
まへ
)
を
恨
(
うら
)
んで
死
(
し
)
ぬ、
其樣
(
そん
)
な
事
(
こと
)
はある
筈
(
はず
)
がない、
憤
(
いきどほ
)
りは
世間
(
せけん
)
に
對
(
たい
)
してなので、
既
(
すで
)
にそれは
人
(
ひと
)
も
知
(
し
)
つて
居
(
ゐ
)
る
事
(
こと
)
なり
遺書
(
ゐしよ
)
によつて
明
(
あきら
)
かではないか、
考
(
かんが
)
へ
直
(
なほ
)
して
正氣
(
しやうき
)
になつて、
其後
(
そのご
)
の
事
(
こと
)
はお
前
(
まへ
)
の
心
(
こゝろ
)
に
任
(
まか
)
せるから
思
(
おも
)
ふまゝの
世
(
よ
)
を
經
(
へ
)
るが
宜
(
よ
)
い、
御兩親
(
ごりやうしん
)
のある
事
(
こと
)
を
忘
(
わす
)
れないで、
御兩親
(
ごりやうしん
)
がどれほどお
歎
(
なげ
)
きなさるかを
考
(
かんが
)
へて、
氣
(
き
)
を
取直
(
とりなほ
)
して
呉
(
く
)
れ、え、
宜
(
よ
)
いか、お
前
(
まへ
)
が
心
(
こゝろ
)
で
直
(
なほ
)
さうと
思
(
おも
)
へば
今日
(
けふ
)
の
今
(
いま
)
も
直
(
なほ
)
れるではないか、
醫者
(
いしや
)
にも
及
(
およ
)
ばぬ、
藥
(
くすり
)
にも
及
(
およ
)
ばぬ、
心
(
こゝろ
)
一
(
ひと
)
つ
居處
(
ゐどころ
)
をたしかにしてな、
直
(
なほ
)
つて
呉
(
く
)
れ、よ、よ、こら
雪
(
ゆき
)
、
宜
(
よ
)
いか、
解
(
わか
)
つたかと
言
(
い
)
へば、
唯
(
たゞ
)
點頭
(
うなづ
)
いて、はいはいと
言
(
い
)
ふ。
女子
(
をなご
)
どもは
何時
(
いつ
)
しか
枕元
(
まくらもと
)
をはづして
四邊
(
あたり
)
には
父
(
ちゝ
)
と
母
(
はゝ
)
と
正雄
(
まさを
)
のあるばかり、
今
(
いま
)
いふ
事
(
こと
)
は
解
(
わか
)
るとも
解
(
わか
)
らぬとも
覺
(
おぼ
)
えねども
兄樣
(
にいさん
)
兄樣
(
にいさん
)
と
小
(
ちひさ
)
き
聲
(
こゑ
)
に
呼
(
よ
)
べば、
何
(
なに
)
か
用
(
よう
)
かと
氷嚢
(
こほりぶくろ
)
を
片寄
(
かたよ
)
せて
傍近
(
そばちか
)
く
寄
(
よ
)
るに、
私
(
わたし
)
を
起
(
おこ
)
して
下
(
くだ
)
され、
何故
(
なぜ
)
か
身躰
(
からだ
)
が
痛
(
いた
)
くてと
言
(
い
)
ふ、それは
何時
(
いつ
)
も
氣
(
き
)
の
立
(
た
)
つまゝに
驅出
(
かけいだ
)
して
大
(
だい
)
の
男
(
をとこ
)
に
捉
(
とら
)
へられるを、
振放
(
ふりはな
)
すとて
恐
(
おそ
)
ろしき
力
(
ちから
)
を
出
(
だ
)
せば
定
(
さだ
)
めて
身
(
み
)
も
痛
(
いた
)
からう
生疵
(
なまきず
)
も
處々
(
ところ〴〵
)
にあるを、それでも
身躰
(
からだ
)
の
痛
(
いた
)
いが
知
(
し
)
れるほどならばと
果敢
(
はか
)
なき
事
(
こと
)
をも
兩親
(
ふたおや
)
の
頼母
(
たの
)
もしがりぬ。
おまへの
抱
(
だ
)
かれて
居
(
ゐ
)
るは
誰何
(
どなた
)
、
知
(
し
)
れるかえと
母親
(
はゝおや
)
の
問
(
と
)
へば、
言下
(
げんか
)
に
兄樣
(
にいさん
)
で
御座
(
ござ
)
りましやうと
言
(
い
)
ふ、
左樣
(
さう
)
わかればもう
仔細
(
しさい
)
は
無
(
な
)
し、
今
(
いま
)
話
(
はな
)
して
下
(
くだ
)
された
事
(
こと
)
覺
(
おぼ
)
えてかと
言
(
い
)
へば、
知
(
し
)
つて
居
(
ゐ
)
まする、
花
(
はな
)
は
盛
(
さか
)
りにと
又
(
また
)
あらぬ
事
(
こと
)
を
言
(
い
)
ひ
出
(
いだ
)
せば、
一同
(
いちどう
)
顏
(
かほ
)
を
見合
(
みあは
)
せて
情
(
なさけ
)
なき
思
(
おも
)
ひなり。
良
(
やゝ
)
しばしありて
雪子
(
ゆきこ
)
は
息
(
いき
)
の
下
(
した
)
に
極
(
きは
)
めて
恥
(
はづ
)
かしげの
低
(
ひく
)
き
聲
(
こゑ
)
して、もう
後生
(
ごしやう
)
お
願
(
ねが
)
ひで
御座
(
ござ
)
りまする、
其事
(
そのこと
)
は
言
(
い
)
ふて
下
(
くだ
)
さりますな、
其
(
その
)
やうに
仰
(
あふ
)
せ
下
(
くだ
)
さりましても
私
(
わたし
)
にはお
返事
(
へんじ
)
の
致
(
いた
)
しやうが
御座
(
ござ
)
りませぬと
言
(
い
)
ひ
出
(
い
)
づるに、
何
(
なに
)
をと
母
(
はゝ
)
が
顏
(
かほ
)
を
出
(
だ
)
せば、あ、
植村
(
うゑむら
)
さん、
植村
(
うゑむら
)
さん、
何處
(
どこ
)
へお
出遊
(
いであそ
)
ばすのと
岸破
(
がば
)
と
起
(
お
)
きて、
不意
(
ふい
)
に
驚
(
おどろ
)
く
正雄
(
まさを
)
の
膝
(
ひざ
)
を
突
(
つ
)
きのけつゝ
縁
(
えん
)
の
方
(
かた
)
へと
驅
(
か
)
け
出
(
いだ
)
すに、それとて
一同
(
いちどう
)
ばら〳〵と
勝手
(
かつて
)
より
太吉
(
たきち
)
おくらなど
飛來
(
とびく
)
るほどにさのみも
行
(
ゆ
)
かず
縁先
(
えんさき
)
の
柱
(
はしら
)
のもとにぴたりと
坐
(
ざ
)
して、
堪忍
(
かんにん
)
して
下
(
くだ
)
され、
私
(
わたし
)
がわるう
御座
(
ござ
)
りました、
始
(
はじ
)
めから
私
(
わたし
)
が
惡
(
わる
)
う
御座
(
ござ
)
りました、
貴君
(
あなた
)
に
惡
(
わる
)
い
事
(
こと
)
は
無
(
な
)
い、
私
(
わたし
)
が、
私
(
わたし
)
が、
申
(
まを
)
さないが
惡
(
わる
)
う
御座
(
ござ
)
りました、
兄
(
あに
)
と
言
(
い
)
ふては
居
(
を
)
りまするけれど。むせび
泣
(
な
)
きの
聲
(
こゑ
)
きこえ
初
(
そ
)
めて
斷續
(
だんぞく
)
の
言葉
(
ことば
)
その
事
(
こと
)
とも
聞
(
きゝ
)
わき
難
(
がた
)
く、
半
(
なかば
)
かかげし
軒
(
のき
)
ばの
簾
(
すだれ
)
、
風
(
かぜ
)
に
音
(
おと
)
する
夕
(
ゆふ
)
ぐれ
淋
(
さび
)
し。
五
雪子
(
ゆきこ
)
が
繰
(
くり
)
かへす
言
(
こと
)
の
葉
(
は
)
は
昨日
(
きのふ
)
も
今日
(
けふ
)
も
一昨日
(
をとゝひ
)
も、
三月
(
みつき
)
の
以前
(
いぜん
)
も
其前
(
そのまへ
)
もさらに
異
(
ことな
)
る
事
(
こと
)
をば
言
(
い
)
はざりき、
唇
(
くちびる
)
に
絶
(
た
)
えぬは
植村
(
うゑむら
)
といふ
名
(
な
)
、ゆるし
給
(
たま
)
へと
言
(
い
)
ふ
言葉
(
ことば
)
、
學校
(
がくかう
)
といひ、
手紙
(
てがみ
)
といひ、
我罪
(
わがつみ
)
、おあとから
行
(
ゆき
)
まする、
戀
(
こひ
)
しき
君
(
きみ
)
、さる
詞
(
ことば
)
をば
次第
(
しだい
)
なく
並
(
なら
)
べて、
身
(
み
)
は
此處
(
こゝ
)
に
心
(
こゝろ
)
はもぬけの
殼
(
から
)
になりたれば、
人
(
ひと
)
の
言
(
い
)
へるは
聞分
(
きゝわ
)
くるよしも
無
(
な
)
く、
樂
(
たの
)
しげに
笑
(
わら
)
ふは
無心
(
むしん
)
の
昔
(
むかし
)
を
夢
(
ゆめ
)
みてなるべく、
胸
(
むね
)
を
抱
(
いだ
)
きて
苦悶
(
くもん
)
するは
遣
(
や
)
る
方
(
かた
)
なかりし
當時
(
たうじ
)
のさまの
再
(
ふたゝ
)
び
現
(
うつゝ
)
にあらはるゝなるべし。
おいたはしき
事
(
こと
)
とは
太吉
(
たきち
)
も
言
(
い
)
ひぬ、お
倉
(
くら
)
も
言
(
い
)
へり、
心
(
こゝろ
)
なきお
三
(
さん
)
どんの
末
(
すゑ
)
まで
孃
(
ぢやう
)
さまに
罪
(
つみ
)
ありとはいさゝかも
言
(
い
)
はざりき、
黄八丈
(
きはちぢやう
)
の
袖
(
そで
)
の
長
(
なが
)
き
書生羽織
(
しよせいばおり
)
めして、
品
(
ひん
)
のよき
高髷
(
たかまげ
)
にお
根
(
ね
)
がけは
櫻色
(
さくらいろ
)
を
重
(
かさ
)
ねたる
白
(
しろ
)
の
丈長
(
たけなが
)
、
平打
(
ひらうち
)
の
銀簪
(
ぎんかん
)
一
(
ひと
)
つ
淡泊
(
あつさり
)
と
遊
(
あそ
)
ばして
學校
(
がくかう
)
がよひのお
姿
(
すがた
)
今
(
いま
)
も
目
(
め
)
に
殘
(
のこ
)
りて、
何時
(
いつ
)
舊
(
もと
)
のやうに
御平癒
(
おなほり
)
遊
(
あそ
)
ばすやらと
心細
(
こゝろぼそ
)
し、
植村
(
うゑむら
)
さまも
好
(
よ
)
いお
方
(
かた
)
であつたものをとお
倉
(
くら
)
の
言
(
い
)
へば、
何
(
なに
)
があの
色
(
いろ
)
の
黒
(
くろ
)
い
無骨
(
ぶこつ
)
らしきお
方
(
かた
)
、
學問
(
がくもん
)
はえらからうとも
何
(
ど
)
うで
此方
(
うち
)
のお
孃
(
ぢやう
)
さまが
對
(
つゐ
)
にはならぬ、
根
(
ね
)
つから
私
(
わたし
)
は
褒
(
ほ
)
めませぬとお
三
(
さん
)
の
力
(
りき
)
めば、それはお
前
(
まへ
)
が
知
(
し
)
らぬから
其樣
(
そん
)
な
憎
(
にく
)
ていな
事
(
こと
)
も
言
(
い
)
へるものゝ
三日
(
みつか
)
交際
(
つきあひ
)
をしたら
植村樣
(
うゑむらさま
)
のあと
追
(
お
)
ふて
三途
(
さんづ
)
の
川
(
かは
)
まで
行
(
ゆ
)
きたくならう、
番町
(
ばんちやう
)
の
若旦那
(
わかだんな
)
を
惡
(
わる
)
いと
言
(
い
)
ふではなけれど、
彼方
(
あなた
)
とは
質
(
たち
)
が
違
(
ちが
)
ふて
言
(
い
)
ふに
言
(
い
)
はれぬ
好
(
よ
)
い
方
(
かた
)
であつた、
私
(
わたし
)
でさへ
植村樣
(
うゑむらさま
)
が
何
(
なん
)
だと
聞
(
き
)
いた
時
(
とき
)
にはお
可愛想
(
かあいさう
)
な
事
(
こと
)
をと
涙
(
なみだ
)
がこぼれたもの、お
孃
(
ぢやう
)
さまの
身
(
み
)
になつては
辛
(
つら
)
からうではないか、
私
(
わたし
)
やお
前
(
まへ
)
のやうな
おつと來い
ならば
事
(
こと
)
は
無
(
な
)
いけれど、
不斷
(
ふだん
)
つゝしんでお
出遊
(
いであそ
)
ばすだけ
身
(
み
)
にしみる
事
(
こと
)
も
深
(
ふか
)
からう、あの
親切
(
しんせつ
)
な
優
(
やさ
)
しい
方
(
かた
)
を
斯
(
か
)
う
言
(
い
)
ふては
惡
(
わる
)
いけれど
若旦那
(
わかだんな
)
さへ
無
(
な
)
かつたらお
孃
(
ぢやう
)
さまも
御病氣
(
ごびやうき
)
になるほどの
心配
(
しんぱい
)
は
遊
(
あそ
)
ばすまいに、
左樣
(
さう
)
いへば
植村樣
(
うゑむらさま
)
が
無
(
な
)
かつたら
天下
(
てんか
)
泰平
(
たいへい
)
に
治
(
をさ
)
まつたものを、あゝ
浮世
(
うきよ
)
はつらいものだね、
何事
(
なにごと
)
も
明
(
あけ
)
すけに
言
(
い
)
ふて
退
(
の
)
ける
事
(
こと
)
が
出來
(
でき
)
ぬからとて、お
倉
(
くら
)
はつく〴〵まゝならぬを
痛
(
いた
)
みぬ。つとめある
身
(
み
)
なれば
正雄
(
まさを
)
は
日毎
(
ひごと
)
に
訪
(
と
)
ふ
事
(
こと
)
もならで、
三日
(
みつか
)
おき、
二日
(
ふつか
)
おきの
夜
(
よ
)
な〳〵
車
(
くるま
)
を
柳
(
やなぎ
)
のもとに
乘
(
の
)
りすてぬ、
雪子
(
ゆきこ
)
は
喜
(
よろこ
)
んで
迎
(
むか
)
へる
時
(
とき
)
あり、
泣
(
な
)
いて
辭
(
じ
)
す
時
(
とき
)
あり、
稚兒
(
をさなご
)
のやうになりて
正雄
(
まさを
)
の
膝
(
ひざ
)
を
枕
(
まくら
)
にして
寐
(
ね
)
る
時
(
とき
)
あり、
誰
(
た
)
が
給仕
(
きふじ
)
にても
箸
(
はし
)
をば
取
(
と
)
らずと
我儘
(
わがまゝ
)
をいへれど、
正雄
(
まさを
)
に
叱
(
しか
)
られて
同
(
おな
)
じ
膳
(
ぜん
)
の
上
(
うへ
)
に
粥
(
かゆ
)
の
湯
(
ゆ
)
をすゝる
事
(
こと
)
もあり、
癒
(
なほ
)
つて
呉
(
く
)
れるか。
癒
(
なほ
)
りまする。
今日
(
けふ
)
癒
(
なほ
)
つて
呉
(
く
)
れ。
今日
(
けふ
)
癒
(
なほ
)
りまする、
癒
(
なほ
)
つて
兄樣
(
にいさん
)
のお
袴
(
はかま
)
を
仕立
(
したて
)
て
上
(
あ
)
げまする、お
召
(
めし
)
も
縫
(
ぬ
)
ふて
上
(
あ
)
げまする、それは
辱
(
かたじけな
)
し
早
(
はや
)
く
癒
(
なほ
)
つて
縫
(
ぬ
)
ふて
呉
(
く
)
れと
言
(
い
)
へば、
左樣
(
さう
)
しましたらば
植村樣
(
うゑむらさま
)
を
呼
(
よ
)
んで
下
(
くだ
)
さるか、
植村樣
(
うゑむらさま
)
に
遇
(
あ
)
はして
下
(
くだ
)
さるか、むゝ
遇
(
あ
)
はして
遣
(
や
)
る、
呼
(
よ
)
んでも
來
(
く
)
る、はやく
癒
(
なほ
)
つて
御兩親
(
ごりやうしん
)
に
安心
(
あんしん
)
させて
呉
(
く
)
れ、
宜
(
よ
)
いかと
言
(
い
)
へば、あゝ
明日
(
あした
)
は
癒
(
なほ
)
りますると
憚
(
はゞか
)
りもなく
言
(
い
)
ひけり。
正
(
まさ
)
しく
言
(
い
)
ひしを
心頼
(
こゝろだの
)
みに
有
(
あ
)
るまじき
事
(
こと
)
とは
思
(
おも
)
へども
明日
(
あす
)
は
日暮
(
ひぐれ
)
も
待
(
ま
)
たず
車
(
くるま
)
を
飛
(
と
)
ばせ
來
(
く
)
るに、
容躰
(
ようたい
)
こと〴〵く
變
(
かは
)
りて
何
(
なに
)
を
言
(
い
)
へどもいや〳〵とて
人
(
ひと
)
の
顏
(
かほ
)
をば
見
(
み
)
るを
厭
(
いと
)
ひ、
父母
(
ちゝはゝ
)
をも
兄
(
あに
)
をも
女子
(
をなご
)
どもをも
寄
(
よ
)
せつけず、
知
(
し
)
りませぬ、
知
(
し
)
りませぬ、
私
(
わたし
)
は
何
(
なに
)
も
知
(
し
)
りませぬとて
打泣
(
うちな
)
くばかり、
家
(
いへ
)
の
中
(
うち
)
をば
廣
(
ひろ
)
き
野原
(
のはら
)
と
見
(
み
)
て
行
(
ゆ
)
く
方
(
かた
)
なき
歎
(
なげ
)
きに
人
(
ひと
)
の
袖
(
そで
)
をもしぼらせぬ。
俄
(
には
)
かに
暑氣
(
しよき
)
つよくなりし
八月
(
はちぐわつ
)
の
中旬
(
なかば
)
より
狂亂
(
きやうらん
)
いたく
募
(
つの
)
りて
人
(
ひと
)
をも
物
(
もの
)
をも
見分
(
みわか
)
ちがたく、
泣
(
な
)
く
聲
(
こゑ
)
は
晝夜
(
ちうや
)
に
絶
(
た
)
えず、
眠
(
ねぶ
)
るといふ
事
(
こと
)
ふつに
無
(
な
)
ければ
落入
(
おちいり
)
たる
眼
(
まなこ
)
に
形相
(
ぎやうさう
)
すさまじく
此世
(
このよ
)
の
人
(
ひと
)
とも
覺
(
おぼ
)
えずなりぬ、
看護
(
かんご
)
の
人
(
ひと
)
も
勞
(
つか
)
れぬ、
雪子
(
ゆきこ
)
の
身
(
み
)
も
弱
(
よわ
)
りぬ、きのふも
植村
(
うゑむら
)
に
遇
(
あ
)
ひしと
言
(
い
)
ひ、
今日
(
けふ
)
も
植村
(
うゑむら
)
に
遇
(
あ
)
ひたりと
言
(
い
)
ふ、
川
(
かは
)
一
(
ひと
)
つ
隔
(
へだ
)
てゝ
姿
(
すがた
)
を
見
(
み
)
るばかり、
霧
(
きり
)
の
立
(
たち
)
おほふて
朧氣
(
おぼろげ
)
なれども
明日
(
あした
)
は
明日
(
あした
)
はと
言
(
い
)
ひて
又
(
また
)
そのほかに
物
(
もの
)
いはず。
いつぞは
正氣
(
しやうき
)
に
復
(
かへ
)
りて
夢
(
ゆめ
)
のさめたる
如
(
ごと
)
く、
父樣
(
とゝさま
)
母樣
(
かゝさま
)
といふ
折
(
をり
)
のありもやすると
覺束
(
おぼつか
)
なくも
一日
(
ひとひ
)
二日
(
ふたひ
)
と
待
(
ま
)
たれぬ、
空蝉
(
うつせみ
)
はからを
見
(
み
)
つゝもなぐさめつ、あはれ
門
(
かど
)
なる
柳
(
やなぎ
)
に
秋風
(
あきかぜ
)
のおと
聞
(
き
)
こえずもがな。
出典:青空文庫(
https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/56007_54982.html
)
青空文庫の奥付
底本:「樋口一葉全集第二卷」新世社
1941(昭和16)年7月18日発行
1942(昭和17)年4月10日再版
底本の親本:「校訂一葉全集」博文館
1897(明治30)年1月9日発行
1897(明治30)年6月再版
初出:「讀賣新聞」
1895(明治28)年8月27~31日
※「
太吉
(
たきち
)
太吉
(
たきち
)
」と「
太吉々々
(
たきち/\
)
」の混在は、底本通りです。
※送りがな、振りがな、漢字の使い方の不統一は、底本通りです。
入力:万波通彦
校正:岡村和彦
2014年11月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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