「お父さんには逓信省時代にお世話になりました」
会ってくれた重役の
「この頃は
「寝たり起きたりで、好くも悪くもなりません。あのまゝで固まるのでしょう」
「外出はなさらないんですか?」
「近所廻りは杖をついて歩きます。もう二度やっているんですから、油断がなりません」
「元気な人でしたが、病気には勝てないと見えますな」
「はあ。それに年も年です」
「お幾つになりましたか?」
「六十八ということですが、戸籍の方が二つ間違っているそうですから、本当は七十です」
「そんなになりますかな、もう。ふうむ」
「
「ところで、あなたの用件ですが、前の会社は何うしてお引きになりましたか?」
「別にこれという
と小室君は覚えず頭を掻いて、行き詰まった。任意の辞職でない。首になったのだから、具合が悪い。
「五年も勤めていたのに惜しいことです。同僚と衝突でもしたんですか?」
「いや〳〵」
「単に一身上の都合によりと書いてあるが、その辺をハッキリ
と宗像さんは眼鏡を外して、履歴書に見入っていた。
「実は欠勤が多かったものですから」
「病気でもなすったんですか?」
「いや、自分はこの通り頑健ですが、父が二度目の脳溢血をやった時、一月ばかりついていました。続いて妻の病気の為め一月余り……」
「奥さんは何ういう御病気でしたか?」
「婦人にあり勝ちのヒステリーです」
「成程」
「
「成程」
「
「少し
「そうですよ、
「小室さんのやりそうなことだ。ハッハヽヽ」
「辞表を出して平気で勤めている人間はない筈です。この通り会社へ来ているんですからと言って、私は自分の意志でないことを説明したんですけれど、課長は理解してくれません。そういう家庭の事情なら本当の仕事は出来ないからという
「そういう家庭の事情だと、この会社でも矢っ張り困りますよ」
「いや、父も今度は考えています。
「奥さんの御病気は何うですか?」
「
「しかし君が毎日家にいるから納まっているんじゃないですか? 出勤すると又始まるかも知れませんよ」
「今度は大丈夫です。自分の至らない為めに主人を失業させたと言っていますから」
「お子さんはないんですか?」
「はあ。子供があると好いですけれど、ないものですから、兎角詰まらない心配をします」
「はてな」
と重役の
「私は忙しいから、これで失敬して、人事課長を出しましょう」
と言って、立ち上った。
「何分宜しくお願い申上げます」
「一種の人物試験だと思って、会って下さい。訊かれたことは事実ありのまゝに答えるが宜いです」
「はあ」
「唯一つ今のお話の、前の会社の方は、君が盲腸炎をやって長く
「御注意有難うございます。それでは盲腸炎で長く患って、結局やめたことに致します」
「うむ。半年ぐらい」
「はあ」
「家庭の事情では困る。盲腸は切ってしまえば、綺麗さっぱりで、後に残らない。私も及ぶ限り御便宜を計る積りだが、こういうことは人事課長の領分だから、その積りで
「はあ」
「それじゃ失敬する。お父さんに宜しく」
「有難うございます」
と小室君は膝まで手を下げて、お辞儀をした。
大分待たせて、人事課長が現れた。中途求職のものにあっては前の会社をやめた理由が何より重大問題になる。喧嘩をして首になったなぞと言えば、もう脈はない。小室君は盲腸炎を患って半年欠勤を続けた為め、規定に従って休職になったと申立てた。
「半年とは長かったですな。私も盲腸が悪くて、再発又再発、到頭切りましたが、初めからで、かれこれ三月かゝりました」
「私は五六ヵ月苦しみました」
「お切りになったんですか?」
「はあ。最後に切りました。手術を恐れて逃げ廻っていた為め、馬鹿を見ました。初めから切ってしまえば何のこともなかったんです」
「お見かけしたところ、もう
「はあ、元来は頑健の方です」
「一つ申上げて置きますが、この会社は軍隊式ですよ。命令が下ると猶予がありません。山へでも川へでも飛んで行きます」
「使ってさえ戴けば、水火の中も辞さない積りです」
「自分の意志は利きません。山というのは鉱山と精煉所です。川というのは川崎の工場です。誰が何処へ行って何年勤めるか、その辺は全然会社の都合で、人事課長の私にも分りません。中には一生涯山へ入ったまゝ、東京へ戻れないでしまう人もあります」
「何処へでも喜んで参ります。決して贅沢は申しません」
「それから唯の商事会社と違って、工場の方の現業と併行ですから、忙しいこと日本一です。時には夜業があります。日曜に臨時召集されることもあるんですから、欠勤が一番困ります」
「はあ」
「学校を出たばかりのものは厳重な体格検査をして採用しています。結局、話が健康問題に戻りますが、御自信がありますか?」
「充分ございます」
「暑中休暇が一週間あります。しかしこれは殆んど取る人がありません。欠勤で差引いています。それですから大抵無欠勤です。皆実によく勉強します」
「私も及ばずながら努力します」
「話は大体それぐらいのところでしょう。何れ宗像さん初め幹部の方と相談して御返事申上げます」
「あなた、何う? お見込は」
と
「人事課長も大分好意を持ってくれた」
「私、これぐらい手間を取るようなら、好い方だろうと思っていましたの」
「会社の中のことを
「有望ね、それじゃ」
「
「いつ?」
「二三日かゝるだろう。しかし俸給のことは些っとも言わなかった。採用するなら、その問題に触れそうなものだと思うんだけれど」
「前の会社丈け下さるんでしょう?」
「根本問題だからね。幾らでも
「そう仰有いませんでしたの? 差当り困るんじゃありませんからって、私、申上げたじゃございませんか?」
「切り出す余地がなかったんだ。この会社は特別に忙しいとか、山へ行くと帰れないとか、取りつき
「あら! 駄目?」
「好いようにも思われる。悪いようにも思われる。頭がボヤ〳〵してしまった」
「お株が始まったわ。試験を受けた後みたいね」
「一種の試験だもの」
「宗像さんにもお目にかゝったんでしょうね?」
「うむ。大将も好意を示してくれた」
「それじゃ好いんでしょう?」
「人事課長次第だと言うんだ。人事課長は又宗像さんと幹部次第だと言うんだ。両方で責任を
「あなたは気が弱いのね、相変らず」
「こういうことは容易に見込が立たない。当てにしていると屹度
「宗像さんは私のこと何とか仰有って?」
「いや、一向」
「覚えていらっしゃる筈よ」
「
「えゝ。母の亡くなった時、来て下すったに相違ありません。私、屹度お目にかゝっている筈よ」
雪子夫人は自信が強い。一度家へ来た人なら、皆自分を覚えていてくれると思っている。
「長いことだから、もう忘れたんだろう。お前のことを話したけれど、何とも言わなかったよ」
「何て申上げたの? 私のことを」
「丈夫だって。奥さんは何うですかと訊いたから」
「それ、御覧なさい。覚えているから訊いたんですわ」
「うむ」
と小室君は簡単を期した。ヒステリーの関係で話が出たのだから、こゝで再び繰り返すべきでない。
「私がこゝで待っていること
「そんなことは言うものか」
「仰有る方が
「いや、矢っ張り当り前の方が安心だよ」
「すると私、当り前じゃありませんの?」
「そういう意味じゃない」
「変な人ね、あなたは」
と雪子夫人はもうプリ〳〵した。これだから、小室君もやり
すべて主人たるものはその性格の何処かに神秘の要素を残して置かなければいけない。
「宅の主人は不思議な人ですよ」
と妻女が
「あなた。あなた」
と主人を起す。
「何だ?」
「泥棒が入っていますよ」
この時、御主人、騒いではいけない。これを切っかけに、別に能のない人だけれど、不思議なことに、泥棒が入った時には頼みになると思い込ませるが
「シッ! 畜生!
とあられもない。それだから女に寸法を知らせるということは考えものだ。小室君はその辺の駈引が甚だ拙かった。商大の予科で落第して、養父に叱られて一晩泣き明かしたことがある。そういう折からは図々しく構えて、学問は出来ない人だけれど非常時になると妙に胆力が据って来ると思い込ませる絶好のチャンスなのに、正直過ぎた。
「雪子さん、僕はもうこれで家を追い出されます」
と言ってシク〳〵泣き出したのである。
「そんなことありませんわ」
「いや、危いです」
「私がついているから、安心なさいよ。あなたは御自分で思っているほど悪い頭の持主じゃありませんわ。つい調子を
と丁度女学校を卒業した雪子さんが力をつけてくれた。その頃から寸法を知られているのだから、小室君は押しが利かない。一度
「皆出来ないものだから、僕のところへ習いに来るんだ」
と言ったけれど、
「あなたが教えて戴くんですわ。それですから、お母さんと私が鰻丼を取って御接待するのよ」
と雪子さんは知っていた。これは養子に限ったことでない。
「銀座へ出てお昼を喰べようか?」
と小室君が相談をかけた。話は就職運動の
「えゝ。御迷惑でなければ」
「変なことを言うものじゃないよ」
「オホヽヽヽ」
「成功するかも知れない。何うも印象が好いようだ。自分ながら溌剌として答えている」
「大丈夫よ、屹度」
「しかし山へやられるか、川へやられるか、分らないんだって。あゝいうことを話すところを見ると、採ってくれる気だろう」
「危いわ」
と、それは山でも川でもなく、電車道だった。雪子さんは小室君に手を引かれるようにして横切った。
「山って何処?」
小室君は会社の説明をした。本店に勤めるよりも、鉱山や工場に勤めるものが多い。銅を山から掘って、精煉するのが第一段で、里へ持って来て製作するのが第二段、それから品物を売るのが第三段になっている。
「何を拵えますの?」
「例えば、その電車の銅線さ。川崎の工場で拵えるんだが、材料は○○の山で掘って精煉して持って来る」
「山へでも何処へでも参りますわ。あなたと御一緒なら」
「しかしお父さんは何うする?」
「東京に待っていて戴きますわ。お父さんはあの家、
「丈夫なら兎に角、あの容態じゃ心配だ」
「矢っ張り東京の方が宜いわね。本店詰めってことにして戴けません?」
「そんな自由は利かないって、絶対に申渡されている。矢っ張り有望だよ。人事課長は力瘤を入れて申渡したから、採用する気だろう。屹度」
「この辺? 本店は」
「こゝだよ。この五階全部を使っている」
と小室君は丁度建物の前へ差しかゝって、打ち仰いだ。
「立派ね」
と雪子さんは入口を覗くようにした。折から中年の紳士が出て来た。と見ると、小室君はひどく慌てゝ、ガクッと一つお辞儀をした。
「やあ」
「唯今は失礼申上げました」
「…………」
紳士は頷いた丈けで、二人が歩いて来た方角へ急いで行った。小室君は見返る勇気もない。
「
「いや、人事課長だ」
「まあ!」
「悪いところを見られてしまった」
「…………」
「
「…………」
「
「あなた」
「何だい?」
「私と一緒に歩くのがそんなにお
「そういう意味じゃない」
「それじゃ何ういう意味?」
と言って雪子夫人は肩を
「おい〳〵、会社の前だ。あすこの停留場で人事課長が見ている」
「…………」
「日の昼間で殊にこの辺は実務以外に何も色彩のないところだ。夫婦鼻を揃えて歩いているのは
「…………」
「分ったかい?」
「はあ。他の方なら兎に角、私は悪い図でございましょうから」
「そういう意味じゃない」
「それじゃ何ういう意味?」
「又!」
「分らない人ね、あなたこそ」
「早く行こう」
「あらまあ! 大変な汗ね」
「宜いよ〳〵。自分で拭く」
と言って、小室君はヨロ〳〵した。
偶発事故の為め案じたにも拘らず、小室君は◎◎鉱業に拾い上げられて丸ノ内の本店に勤めることになった。今度は
「雪子さん」
「はあ」
「今度はもうお互に気をつけましょうね。僕も出入りの時間を正確に守りますから」
「私、何を気をつけますの? あなたさえ当り前の時間に帰って来て下されば、問題はないじゃございませんか?」
「それですから」
「それだから何あに?」
「出入りの時間を正確に守りましょう」
と小室君は直ぐに
「あなたって人は私の心持
「何故?」
「私の好意ってもの些っとも認めて下さらないんですもの」
「認めているよ」
「いゝえ。今度のことは何う? 私、随分尽している積りよ。私の為めに前の会社を
「それは分っている」
「あなたは御心配なすったけれど、会社の前で人事課長さんに会ったのは
「あれは冗談だよ。もう奥さんに苦労をさせちゃいかんって」
「冗談にしてもですわ。課長さんの頭の中に私というものがあったから仰有ったんでしょう? して見れば私がついて行って上げたことが確かに足しになっていますわ」
「それは多少そうかも知れない」
「家で威張っても外へ出ると、あなたはカラキシ気が弱いんですからね。予科で苦い経験を嘗めていますから、本科卒業の時、御自分で成績発表を見に行けなくて、私が行って上げたじゃありませんか?」
「そんなこと今更
「宜くありませんわ。それですから、私、ついて行って上げたのよ、子供の入学試験のように」
「兎に角、今度は僕も本気だ」
「無論私も気をつけますわ」
と雪子さんは結局応じてくれた。主張は主張として、冷静の時は結構な御内助だ。器量も好い。小室君はひどい目に合わされても辛抱が出来る
小室君は半年間無欠勤を続けた。申分なかったが、年の暮に養父が又倒れた。三度目の脳溢血だった。人事不省三日にして亡くなった。その為め一週間休んだが、
「お父さんの部屋のところを通ると、今でも未だいらっしゃるように思うんですけれど」
と小室君は始終頭を押えられていた丈けに、一種の淋しさを感じた。
「私、もうあなた一人よ」
と雪子夫人も
正月が来たけれど、
「あゝ、痛い。あゝゝ[#「あゝゝ」はママ]苦しい」
と
「しかし手術は家内に相談してからにして下さい」
と本格的養子の立場を忘れなかった。雪子さんが駈けつけて励ました。試験とか手術とかと先の分らないことは嫌いな性分だけれど、今更仕方がない。小室君は手術を受けて、病院生活を続けた。幸いにして経過良好だった。同僚がよく見舞いに来てくれた。御用始めの日に会社で発病したから周知の事実になっていた。
「小室君、何うだね?」
と或日人事課長が現れた。
「お蔭さまでもう間もなく傷が
「盲腸炎だという話だが、本当かね?」
「はあ、切ったんです」
「すると君は二つあったのか?」
「…………」
「左にある人があるということは聞いたが、二つある人があるのかな? 矢っ張り」
「何とも申訳ございません」
「いや、病気は仕方がない。ゆっくり養生し給え」
「恐れ入りました」
と小室君は困り果てゝ、頭を掻くばかりだった。
雪子夫人が始終附き添っていて、見舞客に挨拶をした。若い同僚は大抵来たから、小室夫婦は会社内へ知れ渡った。悪いことでない限り、人間は自己の印象を強くして置く方が勝ちらしい。それでこそ個人も商店も広告に高い金を払う。
「小室って男、ナカ〳〵面白い奴だな。喪中の正月で退屈の余り、
「あの細君もやり手らしい。
「美人だね」
「うむ。そこへ持って来て小室君は
頭が上らない」「養子かい? 彼奴」
「うむ。この間親父が死んだろう? 立派な家だったじゃないか? 養父の威光で入って来たのらしい」
「養子即ち秀才か? そういえば
「
というような
再度の盲腸炎もさることながら、就職半年と少しで長く欠勤すると思うと、小室君は甚だ心苦しかった。そこで頻りに全快を急いだが、そうは行くものでない。イラ〳〵しながら、三週間病院にいた。暑中休暇で差引いて貰っても、養父発病の折を加えると、二週間以上足が出る。根が
山の勤務は里心を起さないように、待遇が好くしてある。社宅が貰える。東京なら家賃を払うのだから、これ丈けでも大分違う。社員の倶楽部、奥さん連中の社交部、この二つも山特有のもので、本店には設備がない。
小室君は鉱業所へ転任すると間もなく、社長女婿の知遇を得た。井上という青年で、社長の末娘を貰って所長秘書を勤めている。商大が小室君よりも三年の先輩になる。初め小室君初め五名の為め倶楽部で歓迎会が催された。その折、自己紹介があって、小室君は社長秘書と[#「社長秘書と」はママ]同窓のことが分った。それから数日たって、机を並べている
「商大出の秀才と号して、社長の末娘を貰っているから、鼻息が荒いです。橘会の御大将です」
「何の会ですか? 橘会って」
「養子又は女婿の会です。こゝは妙ですよ。世間では養子とか女婿とかいうと肩身の狭いものですけれど、山の中では養子女婿が幅を利かします」
「はゝあ」
「井上君の説によると、秀才だから、選ばれて女婿養子になる。女婿養子は世の光なり地の
「成程」
「
「はあ?」
と小室君は驚いた。自分のことを言われたと思ったのである。
「井上君の奥さんは雪子というんです。陰で話す時も、家の雪子さんが何うしてこうしてと言うんですから、身に沁みているんでしょう。女婿なんて可哀そうなものですよ」
「成程」
「会社で威張っていても、家へ帰ると猫のようです。理窟から言うと、秀才が多い次第ですけれど、井上君は違います。商大の秀才が聞いて呆れる。奴さん、予科あたりで一遍やっているんですよ」
「はゝあ」
「一緒に入って一年早く卒業した人が現にこゝにいるんですから、
「成程」
と小室君は額に手を当てゝ見たら、汗をかいていた。
「妙に女婿や養子の多いところですよ。あすこに
「何処ですか?」
「柱のところです。そら、額に鉛筆を当てゝ考えているでしょう? 頭デッカチです」
「あゝ、分りました」
「あれは
「
「まあ、そんなところです。それから
「袖の香組ってのは何ですか?」
「橘会のことです。袖の香組だの橘会だのと妙に風流がっているのが癪じゃありませんか?」
「さあ」
「僕達はその向うを張るのでもありませんが、矢っ張り会をやっています。実力組というんです」
「成程」
「入りませんか?
「有難いですけれど、実は僕も……」
「何ですか?」
「養子の組です」
「それは〳〵、失敬しました」
「いや、一向」
「袖の香組ですか? これだからいけない。何うも僕は頓狂だ」
と由良君は自分で自分の頭をポカ〳〵叩きながら、頻りに首を振っていた。
或日、所長秘書の井上君が小室君の机の側を通りかゝって、思いついたように、
「小室君、何うですか? 山の住み心地は」
と訊いて、立ち止まった。
「やあ。これは〳〵、井上さん」
小室君は社長女婿と聞いているから敬意の一方だった。
「何うですか? その後」
「一生懸命やっています。何分宜しく」
「東京に較べると空気が好いでしょう?」
「はあ、全然違うようです」
「健康的には健康的ですけれど、刺戟が足りません。退屈するでしょう?」
「さあ、
「些っと遊びにいらっしゃい」
「有難うございます」
「何なら今晩何うですか? 君とは同窓ですから、共通の話題があると思います」
「お差支なければ、お邪魔させて戴きましょう」
「それではお待ち致します」
「何時に上りましょうか?」
「七時頃が宜いでしょう。ゆっくり話す積りで、奥さんに断って来て下さい」
と言って、井上君はニヤ〳〵笑った。
小室君は夕食を
「何んな奥さんか見て来て下さいな。私と同じ名前なんて、お懐しいわ」
と雪子夫人も社交心が動いていた。同時に自信がある。東京にいても自分ぐらい綺麗な人は
井上君の社宅は大きかった。役がついていると違う。客間の椅子テーブルも社長の本邸から取寄せたらしく、本式のものばかりだった。
「時に小室君、僕は昨日商大の名簿を見て、君の旧姓を発見しましたよ。
と井上君は小室君を安楽椅子に寛ろがせると直ぐにやり出した。
「旧姓玉木です」
「養子ですね? 君は」
「はあ」
「僕は御承知の通り女婿ですから、養子も同じようなものです。女房のお蔭で出世するように、兎角誤解される部類ですから、何分宜しく願います」
「僕こそ何うぞ宜しく」
「実は僕達は世間の
「はゝあ」
と小室君は初耳らしく傾聴した。
「養子女婿だから出世するのか? 元来秀才で出世する資格があるから養子女婿に物色されるのか? これは考えるまでもないことでしょう。養子女婿は選ばれた人種です。
「成程。一理ありますな」
「何だ? 君。一理だなんて」
「結構です。共鳴します」
「一方女房の方には財力があります。養子女婿の縁組は優秀な頭と有効な資力を
「本当です」
「この意味から僕は女婿たることを絶大の名誉と考えて、橘会の会長をやっています。
「何ういう意味ですか? その歌は」
「颯爽たる秀才の面影を伝えたものでしょう。但し才子多病、死んでしまったんですね。昔の人の袖の香ぞするとありますから」
「死んじゃ困りますね」
「しかし死ぬほどの秀才でもないでしょう、お互は」
「成程。安心しました」
「ハッハヽヽ」
「それじゃ僕も悲観することはありません」
「何を悲観するんですか?」
「養子だから時々恥かしいと思うこともあるんです」
「馬鹿な。
と井上君がふん
「家内です。雪子さんと申します。これは今度東京からお出になった小室君です」
「何分宜しくお願い申上げます」
「私達こそ何うぞ。さあ、お掛け下さい。さあ、何うぞ」
と雪子夫人も席についた。
「あゝ、雪子さん、小室君は橘会の勇者ですよ」
「まあ、そう?」
「その関係で御案内したんです。あなたも奥さんを御招待なすったら
「早速御交際をお願い申上げましょう」
「実は妻から奥さんへ宜しくとございました。不思議なことに、雪子と申して、奥さんのお名前を汚しております」
と小室君が社交手腕を
「まあ! 矢っ張り雪子さん? お懐しゅう存じますわ」
「雪子さん、これから使いを出して御案内なすったら如何ですか? 雪子さんと雪子さんのお顔合せも面白いでしょう」
「そうね」
「僕、命じます」
と井上君が立って行って
小室君は山へ来て芽を吹いた。社長女婿の
「小室君は凄いな」
という
「君、君、井上君、橘会も好いが、お見受けしたところ、皆女房に頭の上らない連中ばかりだね。
と小室君はもう誰とでも君僕の間柄だった。些っとも遠慮がない。
「大きな声を出すなよ」
「何故?」
「養子女婿秀才論は何処までも真理だけれど、僕達は差当り明かに養家なり家内の里なりから恩沢を蒙っているし、女房共もそれをチャンと知っているから、そこにお互の悩みがあるのさ」
「お互ってことは困るよ。僕は養子だ。恩沢を蒙っているのは商大の予科時代からだから、袖の香組随一といっても宜いけれど、君達と違って、押えるところはこれでガッチリと押えている」
「何とか言っている」
「本当だよ。雪、こら、おい、何をグズ〳〵している? とやる。雪子さん、あゝしたら
「そう威張るばかりが能でもあるまい」
「しかし天物を
「何ういう意味だい? それは」
「馬だよ。馬は毎回
「しかし必要があれば幾らでも貰える」
「その貰えるって言葉が哀れ
「呆れた
「ハッハヽヽ」
「君にしてこの
「おっ
「僕だって時には
「本音を吹きやがったな」
「ハッハヽヽ」
「君達は智恵が足りないよ。一体会ってものは会員相互の便宜を計るものだ。折角の橘会も養子女婿が鼻を並べて唇までの長さを較べ合うばかりじゃ何にもならない。宜しくもっと有効に利用すべきだろう」
「成程」
「申合せさえすれば、何んな行動でも取れるんだ。例えば小遣にしても、年中足らず勝ちで悩んでいるものがあるに相違ない」
「君は何うだい?」
「楽じゃないよ。二三回裏三丁目へ
「伸すのかい? 君は」
「無論さ。カフェーぐらい何のそのだ」
「
と井上会長は感心した。
橘会は養子女婿が秀才論を振り
「おい。へまむし
「何だい?」
と副会長の香坂君が振り返った。頭デッカチで怪物のような風貌をしているから、小室君がそう
「東京は何うだったい?」
「これってこともなかった」
「銀ブラをやって来たかい?」
「うむ。立つ晩に歩いて別れて来た」
「頭を押えるものがなくて、当分楽が出来るだろう」
「馬鹿を言うな」
「子供の出来るのは羨ましいな。僕のところは絶望だ」
と小室君、昨今淋しさを感じている。同僚は皆多産だ。袖の香組の連中は奥さんが妊娠して月が重なると、東京の養家
「君が悪いんだろう?」
「いや、そんな覚えはないんだ」
「奥さんは丈夫のようじゃないか?」
「あれで、君、ヒステリーがあるんだよ」
「ふうむ」
「この頃は納まっているけれど」
「女は誰でもあるよ」
「君のところもかい?」
「うむ」
「
「変に不安を感じるのらしい」
「だって、君なんか誰も相手にしまい」
「この野郎!」
「ハッハヽヽ」
「これでも学生時代には
「へゝえ」
「それを知っているものだから、家内が時々御機嫌を悪くする」
「
「それで遠慮をしているのかい?」
「おや〳〵? やるんだね。ハッハヽヽ」
或晩、橘会の連中十数名が会社の倶楽部に集まって、小室君を中心に座談会を開いた。折角の橘会をもっと有効に利用しようという小室君の意見が一同を動かしたのだった。実は皆修養丈けでは物足りない。何か色がついても敢えて苦情のない面々だ。
井上 それでは一つ香坂君あたりから始めて戴きましょうか?
香坂 僕達の家庭ではカフェーが御法度 です。しかし交際上拠 ろない場合があります。その折、女房の目を掠 めて、男子の体面を保つ法如何 ? という問題です。
井上 奥さんがお留守だと早速これだから困る。(哄笑)こういう方面は小室君の専門でしょう。小室君、何うぞ。
小室 カフェーは東京の本場で女房の目を掠める為めに苦心惨憺しましたから、一日の長ある積りです。しかし此方では簡単ですよ。この倶楽部があるから、夜分の外出が利きます。「おい。今晩は倶楽部に会があるよ」と言って出て来れば何でもない。
横山 成程。簡単だな。
小室 期末には夜業に託 けても宜 しい。
横山 夜業はないぜ。
小室 あることにして置かなければいけない。僕は着任早々、「こゝは時々夜業があるんだってさ。大変なところへ来てしまった」と言って置いた。それが今役に立つ。
横山 しかし他の連中が早く帰って来るから分ってしまう。
小室 自分の係り丈け夜業があって貧乏
だから、やめて東京へ帰ろうかと不平を言うんだ。すると、辛抱して下さいと頼むよ。頼みとあれば仕方がない。此方は辛抱してカフェーへ行く。
だから、やめて東京へ帰ろうかと不平を言うんだ。すると、辛抱して下さいと頼むよ。頼みとあれば仕方がない。此方は辛抱してカフェーへ行く。一同 ハッハヽヽ。(拍手喝采)
井上 しかし軍用金は何うする? 火薬は?
小室 方法は幾らもある。友人救済法、病気療養法、ボーナス隠匿法、俸給改造法、貯金帳紛失法……
井上 皆 の参考の為め、順次説明してやり給え。
小室 友人が失業する。これは近所の友人じゃいけない。大阪へ行っている同窓ぐらいにして、其奴が有りつくまで月々二十円宛補助するんだ。
岸井 仮設の友人を拵えるのだろうが、お礼の手紙か何か来なければ駄目だろう?
小室 本当の友人と特約するのさ。先方も二十円程誤魔化せる仕事だから、大抵の奴なら申込に応じる。
井上 これは宜い。ハッハヽヽ。
岸井 先方 が何うして誤魔化せるんだい? 君が送りもしないのに。
小室 鈍 いぞ。先方は先方で僕が失業したからと言って、月々二十円送る風 をする。それに対して、僕から月々お礼状が行くんだ。
岸井 成程。悪い奴だ。
大島 巧いことを聞いた。これはこの仲間 丈けでも申合せれば実行が出来る。
岸井 一つやろうか?
小室 やり給え。専売権を両方から三割宛徴集するぞ。
一同 ハッハヽヽ。(拍手喝采)
井上 次は病気療養法。小室君、何うするんだい? これは。
座談会は倶楽部の一室で催されていたが、カーテンの陰に小さなマイクロホンが「今晩は余興として主人方の座談会の放送がございますよ」
と井上夫人が発表したから、一同期待していたのだった。それが今や極めて明瞭に聞え始めた。放送局でやるように人別の説明はないが、主人の声は奥さんに分る筈だ。忽ち小室夫人が血相を変えて立ち上った。
「私……」
「まあ〳〵、奥さま」
「あら〳〵〳〵、あんなこと申しています」
「奥さま、奥さま」
「主人の奴、何うするか覚えて……」
「まあ〳〵〳〵〳〵、奥さま」
と奥さん達が抱き止めている中に、雪子夫人は
翌日から小室君の欠勤が続いた。
(昭和十四年四月、現代)