うらむらさき
樋口 一葉
上
夕暮
(
ゆふぐれ
)
の
店先
(
みせさき
)
に
郵便脚夫
(
いうびんきやくふ
)
が
投込
(
なげこ
)
んで
行
(
ゆ
)
きし
女文字
(
をんなもじ
)
の
書状
(
ふみ
)
一通
(
いつゝう
)
、
炬燵
(
こたつ
)
の
間
(
ま
)
の
洋燈
(
らんぷ
)
のかげに
讀
(
よ
)
んで、くる〳〵と
帶
(
おび
)
の
間
(
あひだ
)
へ
卷收
(
まきをさ
)
むれば
起居
(
たちゐ
)
に
心
(
こゝろ
)
の
配
(
くば
)
られて
物
(
もの
)
案
(
あん
)
じなる
事
(
こと
)
一通
(
ひととほ
)
りならず、おのづと
色
(
いろ
)
に
見
(
み
)
えて、
結構人
(
けつこうじん
)
の
旦那
(
だんな
)
どの、
何
(
ど
)
うぞしたかとお
問
(
と
)
ひのかゝるに、いえ、
格別
(
かくべつ
)
の
事
(
こと
)
でも
御座
(
ござ
)
りますまいけれど、
仲町
(
なかまち
)
の
姉
(
あね
)
が
何
(
なに
)
やら
心配
(
しんぱい
)
の
事
(
こと
)
が
有
(
あ
)
るほどに、
此方
(
こち
)
から
行
(
ゆ
)
けば
宜
(
よ
)
いのなれど、やかましやの
良人
(
をつと
)
が
暇
(
ひま
)
といふては
毛筋
(
けすぢ
)
ほども
明
(
あ
)
けさせて
呉
(
く
)
れぬ
五月蠅
(
うるさ
)
さ、
夜分
(
やぶん
)
なりと
歸
(
かへ
)
りは
此方
(
こち
)
から
送
(
おく
)
らせうほどにお
良人
(
うち
)
に
願
(
ねが
)
ふて
鳥渡
(
ちよつと
)
來
(
き
)
て
呉
(
く
)
れられまいか、
待
(
ま
)
つて
居
(
ゐ
)
る、と
云
(
い
)
ふ
文面
(
ふみ
)
で
御座
(
ござ
)
ります、
又
(
また
)
まゝ
娘
(
むすめ
)
と
紛紜
(
もめ
)
でも
起
(
おこ
)
りましたのか、
氣
(
き
)
の
狹
(
せま
)
い
人
(
ひと
)
なれば
何事
(
なにごと
)
も
口
(
くち
)
には
得言
(
えい
)
はで、たんと
胸
(
むね
)
を
痛
(
いた
)
くするが
彼
(
あ
)
の
人
(
ひと
)
の
性分
(
しやうぶん
)
、
困
(
こま
)
りもので
御座
(
ござ
)
ります、とて
態
(
わざ
)
との
高笑
(
たかわら
)
ひをして
聞
(
き
)
かせれば、はて
扨
(
さて
)
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
なと
太
(
ふと
)
い
眉
(
まゆ
)
を
寄
(
よ
)
せて、お
前
(
まへ
)
にすればたつた
一人
(
ひとり
)
の
同胞
(
きやうだい
)
、
善惡
(
よしあし
)
ともに
分
(
わ
)
けて
聞
(
き
)
かねばならぬ
役
(
やく
)
を
笑
(
わら
)
ひ
事
(
ごと
)
にしては
置
(
お
)
かれまい、
何事
(
なにごと
)
の
相談
(
さうだん
)
か
行
(
い
)
つて
樣子
(
やうす
)
を
見
(
み
)
たらば
宜
(
よ
)
からう、
女
(
をんな
)
は
氣
(
き
)
の
狹
(
せま
)
いもの、
待
(
ま
)
つと
成
(
な
)
つては
一時
(
いつとき
)
も
十年
(
じふねん
)
のやうに
思
(
おも
)
はれるであらうを、お
前
(
まへ
)
の
懈
(
おこた
)
りを
私
(
わし
)
の
故
(
せゐ
)
に
取
(
と
)
られて
恨
(
うら
)
まれても
徳
(
とく
)
の
行
(
ゆ
)
かぬ
事
(
こと
)
、
夜
(
よる
)
は
格別
(
かくべつ
)
の
用
(
よう
)
も
無
(
な
)
し、
早
(
はや
)
く
行
(
い
)
つて
聽
(
き
)
いて
遣
(
や
)
るがよからう、と
可愛
(
かはゆ
)
き
妻
(
つま
)
が
姉
(
あね
)
の
事
(
こと
)
なれば、
優
(
やさ
)
しき
許
(
ゆる
)
しの
願
(
ねが
)
はずして
出
(
で
)
るに、
飛立
(
とびた
)
つほど
嬉
(
うれ
)
しいを
此方
(
こなた
)
は
態
(
わざ
)
と
色
(
いろ
)
にも
見
(
み
)
せす、では
行
(
ゆ
)
きませうかと
不勝々々
(
ふしよう〴〵
)
に
箪笥
(
たんす
)
へ
手
(
て
)
を
懸
(
かく
)
れば、
不實
(
ふじつ
)
な
事
(
こと
)
を
言
(
い
)
はずと
早
(
はや
)
く
行
(
い
)
つて
遣
(
や
)
れ
先方
(
さき
)
は
何
(
ど
)
れほど
待
(
ま
)
つて
居
(
ゐ
)
るか
知
(
し
)
れはせぬぞ、と
知
(
し
)
らぬ
事
(
こと
)
なれば
佛性
(
ほとけしやう
)
の
旦那
(
だんな
)
どの
急
(
せ
)
き
立
(
た
)
つるに、
心
(
こゝろ
)
の
鬼
(
おに
)
やおのづと
面
(
おも
)
ぼてりして、
胸
(
むね
)
には
動悸
(
どうき
)
の
波
(
なみ
)
たかゝり。
糸織
(
いとおり
)
の
小袖
(
こそで
)
を
重
(
かさ
)
ねて、
縮緬
(
ちりめん
)
の
羽織
(
はおり
)
にお
高祖頭巾
(
こそづきん
)
、
脊
(
せい
)
の
高
(
たか
)
き
人
(
ひと
)
なれば
夜風
(
よかぜ
)
を
厭
(
いと
)
ふ
角袖外套
(
かくそでぐわいとう
)
のうつり
能
(
よ
)
く、では
行
(
い
)
つて
來
(
き
)
ますると
店口
(
みせぐち
)
に
駒下駄
(
こまげた
)
直
(
なほ
)
させながら、
太吉
(
たきち
)
、
太吉
(
たきち
)
と
小僧
(
こぞう
)
の
脊
(
せ
)
を
人
(
ひと
)
さし
指
(
ゆび
)
の
先
(
さき
)
に
突
(
つ
)
いて、お
舟
(
ふね
)
こぐ
眞似
(
まね
)
に
精
(
せい
)
の
出
(
で
)
て
店
(
みせ
)
の
品
(
しな
)
をばちよろまかされぬやうにしてお
呉
(
く
)
れ、
私
(
わたし
)
の
歸
(
かへ
)
りが
遲
(
おそ
)
いやうなら
構
(
かま
)
はずと
戸
(
と
)
をば
下
(
おろ
)
して、
行火
(
あんくわ
)
へ
焙
(
あた
)
るならいつでも
床
(
とこ
)
の
中
(
なか
)
へ
入
(
い
)
れて
置
(
お
)
いては
成
(
な
)
らないぞえ、さんは
臺所
(
だいどころ
)
の
火
(
ひ
)
のもとを
心
(
こゝろ
)
づけて、
旦那
(
だんな
)
のお
枕
(
まくら
)
もとへは
例
(
いつも
)
の
通
(
とほ
)
りお
湯
(
ゆ
)
わかしにお
烟草盆
(
たばこぼん
)
、
忘
(
わす
)
れぬやうにして
御不自由
(
ごふじいう
)
させますな、
成
(
な
)
るたけ
早
(
はや
)
くは
歸
(
かへ
)
らうけれど、と
硝子戸
(
がらすど
)
に
手
(
て
)
をかくれば、
旦那
(
だんな
)
どの
聲
(
こゑ
)
をかけて
車
(
くるま
)
を
言
(
い
)
ふてやらぬか、
何
(
ど
)
うで
歩
(
ある
)
いては
行
(
ゆ
)
かれまいにと
甘
(
あま
)
たるき
言葉
(
ことば
)
、
何
(
なん
)
の
商人
(
あきうど
)
の
女房
(
にようばう
)
が
店
(
みせ
)
から
車
(
くるま
)
に
乘出
(
のりだ
)
すは
榮耀
(
えいえう
)
の
沙汰
(
さた
)
で
御座
(
ござ
)
ります、
其處
(
そこ
)
らの
角
(
かど
)
から
能
(
よ
)
いほどに
直切
(
ねぎ
)
つて
乘
(
の
)
つて
參
(
まゐ
)
りましよ、これでも
勘定
(
かんぢやう
)
は
知
(
し
)
つて
居
(
ゐ
)
ますに、と
可愛
(
かあい
)
らしい
聲
(
こゑ
)
にて
笑
(
わら
)
へば、
世帶
(
せたい
)
じみた
事
(
こと
)
をと
旦那
(
だんな
)
どのが
恐悦顏
(
きようえつがほ
)
、
見
(
み
)
ぬやうにして
妻
(
つま
)
は
表
(
おもて
)
へ
立出
(
たちい
)
でしが
大空
(
おほぞら
)
を
見上
(
みあ
)
げてほつと
息
(
いき
)
を
吐
(
つ
)
く
時
(
とき
)
、
曇
(
くも
)
れるやうの
面
(
おも
)
もちいとゞ
雲深
(
くもふか
)
う
成
(
な
)
りぬ。
何處
(
どこ
)
の
姉樣
(
あねさま
)
からお
手紙
(
てがみ
)
が
來
(
こ
)
やうぞ、
眞赤
(
まつか
)
な
嘘
(
うそ
)
をと
我家
(
わがや
)
の
見返
(
みかへ
)
られて、
何事
(
なにごと
)
も
御存
(
ごぞん
)
じなしによいお
顏
(
かほ
)
をして
暇
(
ひま
)
を
下
(
くだ
)
さる
勿躰
(
もつたい
)
なさ、あのやうな
毒
(
どく
)
の
無
(
な
)
い、
物疑
(
ものうたが
)
ひといふては
露
(
つゆ
)
ほどもお
持
(
も
)
ちなさらぬ
心
(
こゝろ
)
のうつくしい
人
(
ひと
)
を、
能
(
よ
)
うも
能
(
よ
)
うも
舌三寸
(
したさんずん
)
に
欺
(
だま
)
しつけて
心
(
こゝろ
)
のまゝの
不義
(
ふぎ
)
放埒
(
はうらつ
)
、これがまあ
人
(
ひと
)
の
女房
(
にようばう
)
の
所業
(
しわざ
)
であらうか、
何
(
なん
)
といふ
惡者
(
わるもの
)
の、
人
(
ひと
)
でなしの、
法
(
はふ
)
も
道理
(
だうり
)
も
無茶苦茶
(
むちやくちや
)
の
犬畜生
(
いぬちくしやう
)
のやうな
心
(
こゝろ
)
であらう、
此樣
(
このやう
)
ないたづらの
畜生
(
ちくしやう
)
をば、
御存
(
ごぞん
)
じの
無
(
な
)
い
事
(
こと
)
とて
天
(
てん
)
にも
地
(
ち
)
にも
無
(
な
)
いかのやうに
可愛
(
かあい
)
がつて
下
(
くだ
)
すつて、
私
(
わたし
)
が
事
(
こと
)
と
言
(
い
)
へば
御自分
(
ごじぶん
)
の
身
(
み
)
を
無
(
な
)
い
物
(
もの
)
にして
言葉
(
ことば
)
を
立
(
た
)
てさせて
下
(
くだ
)
さる
御思召
(
おぼしめし
)
有難
(
ありがた
)
い
嬉
(
うれ
)
しい
恐
(
おそ
)
ろしい、
餘
(
あま
)
りの
勿躰
(
もつたい
)
なさに
涙
(
なみだ
)
がこぼれる、あのやうな
良人
(
をつと
)
を
持
(
も
)
つ
身
(
み
)
の
何
(
なに
)
が
不足
(
ふそく
)
で
劔
(
つるぎ
)
の
刃渡
(
はわた
)
りするやうな
危險
(
あぶな
)
い
計較
(
たくみ
)
をするのやら、
可愛
(
かあい
)
さうにあの
人
(
ひと
)
の
好
(
よ
)
い
仲町
(
なかまち
)
の
姉
(
ねえ
)
さんまでを
引合
(
ひきあ
)
ひにして
三方
(
さんばう
)
四方
(
しはう
)
嘘
(
うそ
)
で
固
(
かた
)
めて、
此足
(
このあし
)
はまあ
何處
(
どこ
)
へ
向
(
む
)
く、
思
(
おも
)
へば
私
(
わたし
)
は
惡黨
(
あくたう
)
人
(
ひと
)
でなし、いたづら
者
(
もの
)
の
不義者
(
ふぎもの
)
の、まあ
何
(
なん
)
といふ
心得違
(
こゝろえちが
)
ひ、と
辻
(
つじ
)
に
立
(
た
)
つて
歩
(
あゆ
)
みも
得
(
え
)
やらず、
横町
(
よこちやう
)
の
角
(
かど
)
二
(
ふた
)
つ
曲
(
まが
)
りて
今
(
いま
)
は
我家
(
わがや
)
の
軒
(
のき
)
は
見
(
み
)
えぬを、
振
(
ふり
)
かへりては
熱
(
あつ
)
き
涙
(
なみだ
)
のはら〳〵とこぼれぬ。
良人
(
をつと
)
の
名
(
な
)
は
小松原東二郎
(
こまつばらとうじらう
)
、
西洋小間物
(
せいやうこまもの
)
の
店
(
みせ
)
は
名
(
な
)
ばかりに、
有
(
あり
)
あまる
身代
(
しんだい
)
を
藏
(
くら
)
の
中
(
なか
)
に
寐
(
ね
)
かして、さりとは
當世
(
たうせい
)
の
算用
(
さんよう
)
知
(
し
)
らぬ
人
(
ひと
)
よし
男
(
をとこ
)
に、
戀女房
(
こひにようばう
)
のお
律
(
りつ
)
が
手
(
て
)
ばしこさ
奧
(
おく
)
も
表
(
おもて
)
も
平手
(
ひらて
)
に
揉
(
も
)
んで、
美
(
うつ
)
くしい
眦
(
まなじり
)
に
良人
(
をつと
)
が
立
(
た
)
つ
腹
(
はら
)
をも
柔
(
やはら
)
げれば、
可愛
(
かあい
)
らしい
口元
(
くちもと
)
からお
客樣
(
きやくさま
)
への
世辭
(
せじ
)
も
出
(
で
)
る、
年
(
とし
)
もねつから
行
(
ゆ
)
きなさらぬにお
怜悧
(
りこう
)
なお
内儀
(
かみ
)
さまと
見
(
み
)
るほどの
人
(
ひと
)
褒
(
ほ
)
め
物
(
もの
)
の、
此人
(
このひと
)
此身
(
このみ
)
が
裏道
(
うらみち
)
の
働
(
はたら
)
き、
人
(
ひと
)
は
知
(
し
)
らじと
自
(
みづか
)
ら
晦
(
くら
)
ませども、
優
(
やさ
)
しき
良人
(
をつと
)
が
心
(
こゝろ
)
ざし
生憎
(
あやにく
)
纒
(
まつ
)
はる
心地
(
こゝち
)
してお
律
(
りつ
)
は
路傍
(
ろばう
)
に
立
(
たち
)
すくみしまゝ、
行
(
ゆ
)
くまいか
行
(
ゆ
)
くまいか、
寧
(
いつそ
)
思
(
おも
)
ひ
切
(
き
)
つて
行
(
ゆ
)
くまいか、
今日
(
けふ
)
までの
罪
(
つみ
)
は
今日
(
けふ
)
までの
罪
(
つみ
)
、
今
(
いま
)
から
私
(
わたし
)
が
氣
(
き
)
さへ
改
(
あらた
)
めれば、
彼
(
か
)
のお
人
(
ひと
)
とてさのみ
未練
(
みれん
)
は
仰
(
おつ
)
しやるまじく、お
互
(
たが
)
ひに
淺
(
あさ
)
い
交際
(
つきあひ
)
をして
人知
(
ひとし
)
らぬうちに
汚
(
けが
)
れを
雪
(
すゝ
)
いで
仕舞
(
しま
)
つたなら、
今
(
いま
)
から
後
(
のち
)
のあの
方
(
かた
)
の
爲
(
ため
)
、
私
(
わたし
)
の
爲
(
ため
)
、
生中
(
なまなか
)
こがれて
附纒
(
つきまと
)
ふたとて、
晴
(
は
)
れて
添
(
そ
)
はれる
中
(
なか
)
ではなし、
可愛
(
かあい
)
い
人
(
ひと
)
に
不義
(
ふぎ
)
の
名
(
な
)
を
着
(
き
)
せて
少
(
すこ
)
しも
是
(
こ
)
れが
世間
(
せけん
)
に
知
(
し
)
れたら
何
(
なん
)
とせう、
私
(
わたし
)
は
兎
(
と
)
も
角
(
かく
)
あの
方
(
かた
)
はこれからの
御出世前
(
ごしゆつせまへ
)
一生
(
いつしやう
)
を
暗黒
(
くらやみ
)
にさせましてそれで
私
(
わたし
)
は
滿足
(
まんぞく
)
に
思
(
おも
)
はれやうか、おゝ
厭
(
いや
)
な
事
(
こと
)
恐
(
おそ
)
ろしい、
何
(
なん
)
と
思
(
おも
)
ふて
私
(
わたし
)
は
逢
(
あ
)
ひに
出
(
で
)
て
來
(
き
)
たか、よしやお
文
(
ふみ
)
が
千通
(
せんつう
)
來
(
こ
)
やうと
行
(
ゆき
)
さへせねばお
互
(
たが
)
ひ
疵
(
きず
)
には
成
(
な
)
るまいもの、もう
思
(
おも
)
ひ
切
(
き
)
つて
歸
(
かへ
)
りませう、
歸
(
かへ
)
りませう、
歸
(
かへ
)
りませう、
歸
(
かへ
)
りませう、えゝもう
私
(
わたし
)
は
思
(
おも
)
ひ
切
(
き
)
つたと
路
(
みち
)
引違
(
ひきちが
)
へて
駒下駄
(
こまげた
)
を
返
(
かへ
)
せば、
生憎
(
あいにく
)
夜風
(
よかぜ
)
の
身
(
み
)
に
寒
(
さぶ
)
く、
夢
(
ゆめ
)
のやうなる
考
(
かんが
)
へ
又
(
また
)
もやふつと
吹破
(
ふきやぶ
)
られて、ええ
私
(
わたし
)
は
其
(
その
)
やうな
心弱
(
こゝろよわ
)
い
事
(
こと
)
に
引
(
ひ
)
かれてならうか、
最初
(
さいしよ
)
あの
家
(
うち
)
に
嫁入
(
よめいり
)
する
時
(
とき
)
から、
東二郎
(
とうじらう
)
どのを
良人
(
をつと
)
と
定
(
さだ
)
めて
行
(
い
)
つたのでは
無
(
な
)
いものを、
形
(
かたち
)
は
行
(
い
)
つても
心
(
こゝろ
)
は
決
(
けつ
)
して
遣
(
や
)
るまいと
極
(
き
)
めて
置
(
お
)
いたを、
今更
(
いまさら
)
に
成
(
な
)
つて
何
(
なん
)
の
義理
(
ぎり
)
はり、
惡人
(
あくにん
)
でも、いたづらでも
構
(
かま
)
ひは
無
(
な
)
い、お
氣
(
き
)
に
入
(
い
)
らずばお
捨
(
す
)
てなされ、
捨
(
す
)
てられゝば
結句
(
けつく
)
本望
(
ほんまう
)
、あのやうな
愚物樣
(
ぐぶつさま
)
を
良人
(
をつと
)
に
奉
(
たてまつ
)
つて
吉岡
(
よしをか
)
さんを
袖
(
そで
)
にするやうな
考
(
かんが
)
へを、
何故
(
なぜ
)
しばらくでも
持
(
も
)
つたのであらう、
私
(
わたし
)
の
命
(
いのち
)
が
有
(
あ
)
る
限
(
かぎ
)
り、
逢
(
あ
)
ひ
通
(
とほ
)
しましよ
切
(
き
)
れますまい、
良人
(
をつと
)
を
持
(
も
)
たうと
奧樣
(
おくさま
)
お
出來
(
でき
)
なさらうと
此約束
(
このやくそく
)
は
破
(
やぶ
)
るまいと
言
(
い
)
ふて
置
(
お
)
いたを、
誰
(
た
)
れが
何
(
ど
)
のやうに
優
(
やさ
)
しからうと、
有難
(
ありがた
)
い
事
(
こと
)
を
言
(
い
)
ふて
呉
(
く
)
れやうと、
私
(
わたし
)
の
良人
(
をつと
)
は
吉岡
(
よしをか
)
さんの
外
(
ほか
)
には
無
(
な
)
いものを、もう
何事
(
なにごと
)
も
思
(
おも
)
ひますまい
思
(
おも
)
ひますまいとて
頭巾
(
づきん
)
の
上
(
うへ
)
から
耳
(
みゝ
)
を
押
(
おさ
)
へて
急
(
いそ
)
ぎ
足
(
あし
)
に
五六歩
(
ごろつぽ
)
かけ
出
(
いだ
)
せば、
胸
(
むね
)
の
動悸
(
どうき
)
のいつしか
絶
(
た
)
えて、
心靜
(
こゝろしづ
)
かに
氣
(
き
)
の
冴
(
さ
)
えて
色
(
いろ
)
なき
唇
(
くちびる
)
には
冷
(
ひやゝ
)
かなる
笑
(
ゑ
)
みさへ
浮
(
うか
)
かびぬ。(未定稿)
出典:青空文庫(
https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/55667_54792.html
)
青空文庫の奥付
底本:「樋口一葉全集第二卷」新世社
1941(昭和16)年7月18日発行
1942(昭和17)年4月10日再版
底本の親本:「校訂一葉全集」博文館
1897(明治30)年1月9日発行
1897(明治30)年6月再版
初出:「新文壇 二號」
1896(明治29)年2月5日
※送りがな、振りがな、漢字の使い方の不統一は、底本通りです。
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:万波通彦
校正:岡村和彦
2014年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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