別れ霜
樋口 一葉
第一囘
莊子
(
さうし
)
が
蝶
(
てふ
)
の
夢
(
ゆめ
)
といふ
世
(
よ
)
に
義理
(
ぎり
)
や
誠
(
まこと
)
は
邪魔
(
じやま
)
くさし
覺
(
さ
)
め
際
(
ぎは
)
まではと
引
(
ひき
)
しむる
利慾
(
りよく
)
の
心
(
こゝろ
)
の
秤
(
はかり
)
には
黄金
(
こがね
)
といふ
字
(
じ
)
に
重
(
おも
)
りつきて
増
(
ま
)
す
寶
(
たから
)
なき
子寶
(
こだから
)
のうへも
忘
(
わす
)
るゝ
小利
(
せうり
)
大損
(
だいそん
)
いまに
初
(
はじ
)
めぬ
覆車
(
ふくしや
)
のそしりも
我
(
わ
)
が
梶棒
(
かぢぼう
)
には
心
(
こゝろ
)
もつかず
握
(
にぎ
)
つて
放
(
はな
)
さぬ
熊鷹主義
(
くまたかしゆぎ
)
に
理窟
(
りくつ
)
はいつも
筋違
(
すぢちがひ
)
なる
内神田
(
うちかんだ
)
連雀町
(
れんじやくちやう
)
とかや、
友
(
とも
)
囀
(
さへづ
)
りの
喧
(
かしま
)
しきならで
客足
(
きやくあし
)
しげき
呉服店
(
ごふくみせ
)
あり、
賣
(
う
)
れ
口
(
くち
)
よければ
仕入
(
しいれ
)
あたらしく
新田
(
につた
)
と
呼
(
よ
)
ぶ
苗字
(
めうじ
)
そのまゝ
暖簾
(
のれん
)
にそめて
帳場格子
(
ちやうばがうし
)
にやに
下
(
さが
)
るあるじの
運平
(
うんぺい
)
不惑
(
ふわく
)
といふ
四十男
(
しじふをとこ
)
赤
(
あか
)
ら
顏
(
がほ
)
にして
骨
(
ほね
)
たくましきは
薄醤油
(
うすじやうゆ
)
の
鱚
(
きす
)
鰈
(
かれひ
)
に
育
(
そだ
)
ちて
世
(
よ
)
のせち
辛
(
がら
)
さなめ
試
(
こゝろ
)
みぬ
附
(
つ
)
け
渡
(
わた
)
りの
旦那
(
だんな
)
株
(
かぶ
)
とは
覺
(
おぼ
)
えざりけり、
妻
(
つま
)
はいつ
頃
(
ごろ
)
なくなりけん、
形見
(
かたみ
)
に
娘
(
むすめ
)
只一人
(
たゞひとり
)
親
(
おや
)
に
似
(
に
)
ぬを
鬼子
(
おにこ
)
とよべど
鳶
(
とび
)
が
産
(
う
)
んだるおたかとて
今年
(
ことし
)
二八
(
にはち
)
のつぼみの
花色
(
はないろ
)
ゆたかにして
匂
(
にほひ
)
濃
(
こま
)
やかに
天晴
(
あつぱ
)
れ
當代
(
たうだい
)
の
小町
(
こまち
)
衣通
(
そとほり
)
ひめと
世間
(
せけん
)
に
出
(
だ
)
さぬも
道理
(
だうり
)
か
荒
(
あら
)
き
風
(
かぜ
)
に
當
(
あた
)
りもせばあの
柳腰
(
やなぎごし
)
なにとせんと
仇口
(
あだぐち
)
にさへ
噂
(
うはさ
)
し
連
(
つ
)
れて
五十
(
ごとう
)
稻荷
(
いなり
)
の
縁日
(
えんにち
)
に
後姿
(
うしろすがた
)
のみも
拜
(
はい
)
し
得
(
え
)
たる
若
(
わか
)
ものは
榮譽
(
えいよ
)
幸福
(
かうふく
)
上
(
うへ
)
やあらん
卒業
(
そつげふ
)
試驗
(
しけん
)
の
優等證
(
いうとうしよう
)
は
何
(
なん
)
のものかは
國曾議員
(
こくくわいぎゐん
)
の
椅子
(
いす
)
にならべて
生涯
(
しやうがい
)
の
希望
(
きばう
)
の
一
(
ひと
)
つに
數
(
かぞ
)
へいるゝ
學生
(
がくせい
)
もありけり、さればこそ
一
(
ひと
)
たび
見
(
み
)
たるは
先
(
ま
)
づ
驚
(
おどろ
)
かれ
再
(
ふたゝ
)
び
見
(
み
)
たるは
頭
(
かしら
)
やましく
駿河臺
(
するがだい
)
の
杏雲堂
(
きやううんだう
)
に
其頃
(
そのころ
)
腦病患者
(
なうびやうくわんじや
)
の
多
(
おほ
)
かりしこと
一
(
ひと
)
つに
此娘
(
このむすめ
)
が
原因
(
もと
)
とは
商人
(
あきうど
)
のする
掛直
(
かけね
)
なるべけれど
兎
(
と
)
に
角
(
かく
)
其美
(
そのび
)
は
爭
(
あらそ
)
はれず、
姿形
(
すがたかたち
)
のうるはしきのみならで
心
(
こゝろ
)
ざまのやさしさ
情
(
なさけ
)
の
深
(
ふか
)
さ
絲竹
(
いとたけ
)
の
道
(
みち
)
に
長
(
た
)
けたる
上
(
うへ
)
に
手
(
て
)
は
瀧本
(
たきもと
)
の
流
(
なが
)
れを
吸
(
く
)
みてはしり
書
(
がき
)
うるはしく
四書五經
(
ししよごけい
)
の
角々
(
かど〴〵
)
しきはわざとさけて
伊勢源氏
(
いせげんじ
)
のなつかしきやまと
文
(
ぶみ
)
明暮
(
あけくれ
)
文机
(
ふづくゑ
)
のほとりを
離
(
はな
)
さず、さればとて
香爐峯
(
かうろほう
)
の
雪
(
ゆき
)
に
簾
(
みす
)
をまくの
才女
(
さいぢよ
)
めきたる
行
(
おこな
)
ひはいさゝかも
無
(
な
)
く
深窓
(
しんそう
)
の
春
(
はる
)
深
(
ふか
)
くこもりて
針仕事
(
はりしごと
)
に
女性
(
によしやう
)
の
本分
(
ほんぶん
)
を
盡
(
つく
)
す
心懸
(
こゝろが
)
け
誠
(
まこと
)
に
殊勝
(
しゆしよう
)
なりき、
家
(
いへ
)
に
居
(
ゐ
)
て
孝順
(
かうじゆん
)
なるは
出
(
いで
)
て
必
(
かな
)
らず
貞節
(
ていせつ
)
なりとか、これが
所夫
(
をつと
)
と
仰
(
あふ
)
がれぬべく
定
(
さだ
)
まりたるは
天下
(
てんか
)
の
果報
(
くわはう
)
の
一人
(
ひとり
)
じめ
前生
(
ぜんしやう
)
の
功徳
(
くどく
)
いか
許
(
ばか
)
り
積
(
つ
)
みたるにかと
世
(
よ
)
にも
人
(
ひと
)
にも
羨
(
うらや
)
まるゝはさしなみの
隣町
(
となりまち
)
に
同商中
(
どうしやうちゆう
)
の
老舖
(
しにせ
)
と
知
(
し
)
られし
松澤儀右衞門
(
まつざはぎゑもん
)
が
一人息子
(
ひとりむすこ
)
に
芳之助
(
よしのすけ
)
と
呼
(
よ
)
ばるゝ
優男
(
やさをとこ
)
、
契
(
ちぎ
)
りは
深
(
ふか
)
き
祖先
(
そせん
)
の
縁
(
えん
)
に
引
(
ひ
)
かれて
樫
(
かし
)
の
實
(
み
)
の
一人子同志
(
ひとりこどうし
)
、いひなづけの
約
(
やく
)
成立
(
なりたち
)
しはお
高
(
たか
)
がみどりの
振分髮
(
ふりわけがみ
)
をお
煙草盆
(
たばこぼん
)
にゆひ
初
(
そ
)
むる
頃
(
ころ
)
なりしとか、さりとては
長
(
なが
)
かりし
年月
(
としつき
)
、ことしは
芳之助
(
よしのすけ
)
もはや
廿歳
(
はたち
)
今
(
いま
)
一兩年
(
いちりやうねん
)
經
(
へ
)
たる
上
(
うへ
)
は
公
(
おほやけ
)
に
夫
(
つま
)
とよび
妻
(
つま
)
と
呼
(
よ
)
ばるゝ
身
(
み
)
ぞと
想
(
おも
)
へば
嬉
(
うれ
)
しさに
胸
(
むね
)
をどりて
友達
(
ともだち
)
の
嬲
(
なぶり
)
ごとも
恥
(
はづ
)
かしく、わざと
知
(
し
)
らず
顏
(
がほ
)
つくりながらも
潮
(
さ
)
す
紅
(
くれなゐ
)
の
我
(
われ
)
しらず
掩
(
おほ
)
ふ
袖屏風
(
そでびやうぶ
)
にいとゞ
心
(
こゝろ
)
のうちあらはれて
今更
(
いまさら
)
泣
(
な
)
きたる
事
(
こと
)
もあり
人
(
ひと
)
みぬひまの
手習
(
てならひ
)
に
松澤
(
まつざは
)
たかとかいて
見
(
み
)
て
又
(
また
)
塗隱
(
ぬりかく
)
すあどけなさ
利發
(
りはつ
)
に
見
(
み
)
えても
未通女氣
(
おぼこぎ
)
[#「未通女氣」は底本では「末通女氣」]
なり
同
(
おな
)
じ
心
(
こゝろ
)
の
芳之助
(
よしのすけ
)
も
射
(
ゐ
)
る
矢
(
や
)
の
如
(
ごと
)
しと
口
(
くち
)
にはいへど
待
(
ま
)
つ
歳月
(
としつき
)
はわが
爲
(
ため
)
に
弦
(
ゆづる
)
たゆみしやうに
覺
(
おぼ
)
えて
明
(
あ
)
かし
暮
(
く
)
らす
程
(
ほど
)
のまどろかしさよ、
高殿
(
たかどの
)
に
見
(
み
)
る
月
(
つき
)
の
夕影
(
ゆふべかげ
)
を
分
(
わか
)
つはいつぞとしのび、
花
(
はな
)
の
下
(
した
)
ふむ
露
(
つゆ
)
のあした
双
(
なら
)
ぶる
翅
(
つばさ
)
の
胡蝶
(
こてふ
)
うらやましく
用事
(
ようじ
)
にかこつけて
折々
(
をり〳〵
)
の
訪
(
とひ
)
おとづれに
餘所
(
よそ
)
ながら
見
(
み
)
る
花
(
はな
)
の
面
(
おもて
)
わが
物
(
もの
)
ながら
許
(
ゆる
)
されぬ
一重垣
(
ひとへがき
)
にしみ〴〵とは
物
(
もの
)
言交
(
いひかは
)
すひまもなく
兎角
(
とかく
)
うらめしき
月日
(
つきひ
)
なり
隙行
(
ひまゆ
)
く
駒
(
こま
)
に
形
(
かたち
)
もあらば
我
(
わ
)
れ
手綱
(
たづな
)
を
取
(
と
)
り
鞭
(
むち
)
を
揚
(
あ
)
げていそがさばやとまで
思
(
おも
)
ひ
渡
(
わた
)
りぬ、されども
天
(
てん
)
は
美人
(
びじん
)
を
生
(
う
)
んで
美人
(
びじん
)
を
惠
(
めぐ
)
まず
多
(
おほ
)
くは
良配
(
りやうはい
)
を
得
(
え
)
ざらしむとかいへり、
彌生
(
やよひ
)
の
花
(
はな
)
は
風
(
かぜ
)
必
(
かなら
)
ずさそひ
十五夜
(
じふごや
)
の
月
(
つき
)
雲
(
くも
)
かゝらぬはまことに
稀
(
まれ
)
なり、
覺束
(
おぼつか
)
なしや
才子
(
さいし
)
佳人
(
かじん
)
かがなべて
待
(
ま
)
つ
歡
(
よろこ
)
びの
日
(
ひ
)
のいつか
來
(
く
)
べき、あし
分船
(
わけぶね
)
のさはり
多
(
おほ
)
き
世
(
よ
)
なればこそ
親
(
おや
)
にゆるされ
世
(
よ
)
にゆるされ
彼
(
かれ
)
も
願
(
ねが
)
ひ
此
(
これ
)
も
請
(
こ
)
ひよしや
魔神
(
ましん
)
のうかゞへばとてぬば
玉
(
たま
)
の
髮
(
かみ
)
一筋
(
ひとすぢ
)
さしはさむべき
間
(
ひま
)
も
見
(
み
)
えぬを
若
(
もし
)
此縁
(
このゑにし
)
結
(
むす
)
ばれずとせばそは
天災
(
てんさい
)
か
將
(
は
)
た
地變
(
ちへん
)
か。
第二囘
隴
(
ろう
)
を
得
(
え
)
て
蜀
(
しよく
)
を
望
(
のぞ
)
むは
夫
(
そ
)
れ
人情
(
にんじやう
)
の
常
(
つね
)
なるかも、
百
(
ひやく
)
に
至
(
いた
)
れば
千
(
せん
)
をと
願
(
ねが
)
ひ
千
(
せん
)
にいたれば
又
(
また
)
萬
(
まん
)
をと
諸願
(
しよぐわん
)
休
(
やす
)
む
時
(
とき
)
なければ
心
(
こゝろ
)
常
(
つね
)
に
安
(
やす
)
からず、つら〳〵
思
(
おも
)
へば
無一物
(
むいちぶつ
)
ほど
氣樂
(
きらく
)
なるはあらざるべし、
大抵
(
たいてい
)
が
五十年
(
ごじふねん
)
と
定
(
さだ
)
まつた
命
(
いのち
)
の
相場
(
さうば
)
黄金
(
こがね
)
を
以
(
もつ
)
て
狂
(
くる
)
はせる
譯
(
わけ
)
には
行
(
ゆ
)
かず、
花降
(
はなふ
)
り
樂
(
がく
)
きこえて
紫雲
(
しうん
)
の
來迎
(
らいがう
)
する
曉
(
あかつき
)
には
代人料
(
だいにんれう
)
にて
事
(
こと
)
調
(
とゝの
)
はずとは
誰
(
たれ
)
もかねて
知
(
し
)
れたる
話
(
はなし
)
、
鶴
(
つる
)
千年
(
せんねん
)
龜
(
かめ
)
萬年
(
まんねん
)
人間
(
にんげん
)
常住
(
じやうぢう
)
いつも
月夜
(
つきよ
)
に
米
(
こめ
)
の
飯
(
めし
)
ならんを
願
(
ねが
)
ひ
假
(
かり
)
にも
無常
(
むじやう
)
を
觀
(
くわん
)
ずるなかれとは
大福
(
だいふく
)
長者
(
ちやうじや
)
と
成
(
な
)
るべき
人
(
ひと
)
の
肝心
(
かんじん
)
肝要
(
かんえう
)
かなめ
石
(
いし
)
の
固
(
かた
)
く
執
(
と
)
つて
動
(
うご
)
かぬ
所
(
ところ
)
なりとか、そも
松澤
(
まつざは
)
新田
(
につた
)
らが
祖先
(
そせん
)
と
聞
(
きこ
)
えしは
神風
(
かみかぜ
)
の
伊勢
(
いせ
)
の
人
(
ひと
)
にて
夙
(
つと
)
に
大江戸
(
おほえど
)
に
志
(
こゝろざし
)
を
立
(
た
)
てゝ
糶
(
せり
)
呉服
(
ごふく
)
の
見
(
み
)
るかげもなかりしが
六間間口
(
ろくけんまぐち
)
に
黒
(
くろ
)
ぬり
土藏
(
どざう
)
時
(
とき
)
のまに
身代
(
しんだい
)
たち
上
(
あが
)
りて
男
(
をとこ
)
の
子
(
こ
)
二人
(
ふたり
)
の
内
(
うち
)
兄
(
あに
)
は
無論
(
むろん
)
家
(
いへ
)
の
相續
(
あととり
)
弟
(
おとゝ
)
には
母方
(
はゝかた
)
の
絶
(
たえ
)
たる
姓
(
せい
)
を
興
(
おこ
)
させて
新田
(
につた
)
とは
名告
(
なの
)
らすれど
諸事
(
しよじ
)
は
別家
(
べつけ
)
の
格
(
かく
)
に
准
(
じゆん
)
じて
子々孫々
(
しゝそん〳〵
)
の
末迄
(
すゑまで
)
も
同心
(
どうしん
)
協力
(
けふりよく
)
事
(
こと
)
を
處
(
しよ
)
し
相
(
あひ
)
隔離
(
かくり
)
すべからずといふ
遺旨
(
ゐし
)
かたく
奉戴
(
ほうたい
)
して
代々
(
よゝ
)
交
(
まじは
)
りをかさね
來
(
き
)
しが
當代
(
たうだい
)
の
新田
(
につた
)
のあるじは
家
(
いへ
)
につきて
血統
(
ちすぢ
)
ならず
一人娘
(
ひとりむすめ
)
に
入夫
(
にふふ
)
の
身
(
み
)
なりしかば
相
(
あひ
)
思
(
おも
)
ふの
心
(
こゝろ
)
も
深
(
ふか
)
からず
且
(
かつ
)
は
利
(
り
)
にのみ
走
(
はし
)
る
曲者
(
くせもの
)
なればかねては
松澤
(
まつざは
)
が
隆盛
(
りうせい
)
をたのみてあやにかけたる
許嫁
(
いひなづけ
)
のえにし
親
(
おや
)
なり
子
(
こ
)
なり
同舅同士
(
あひやけどうし
)
なり
不足
(
ふそく
)
の
品
(
しな
)
あらば
持
(
も
)
ち
給
(
たま
)
へと
彼方
(
かなた
)
にばかり
親切
(
しんせつ
)
を
盡
(
つく
)
さして
引入
(
ひきい
)
れし
利
(
り
)
も
少
(
すく
)
なからず
世
(
よ
)
は
塞翁
(
さいをう
)
がうまき
事
(
こと
)
して
幾歳
(
いくとせ
)
すぎし
朝日
(
あさひ
)
のかげ
昇
(
のぼ
)
るが
如
(
ごと
)
き
今
(
いま
)
の
榮
(
さかゑ
)
は
皆
(
みな
)
松澤
(
まつざは
)
が
庇護
(
かげ
)
なるものから
喉元
(
のどもと
)
すぐれば
忘
(
わす
)
るゝ
熱
(
あつ
)
さ
斯
(
か
)
く
對等
(
たいとう
)
の
地位
(
ちゐ
)
に
至
(
いた
)
れば
目
(
め
)
の
上
(
うへ
)
の
瘤
(
こぶ
)
うるさくなりて
獨
(
ひと
)
りつく〴〵
案
(
あん
)
ずるやう
徑
(
けい
)
十町
(
じつちやう
)
を
距
(
へだ
)
てぬ
處
(
ところ
)
に
同商業
(
どうしやうげふ
)
を
營
(
いとな
)
むが
上
(
うへ
)
に
彼
(
か
)
れは
本家
(
ほんけ
)
とて
世
(
よ
)
の
用
(
もち
)
ひも
重
(
おも
)
かるべく
我
(
われ
)
とて
信用
(
しんよう
)
薄
(
うす
)
きならねど
彼方
(
かなた
)
に
七分
(
しちぶ
)
の
益
(
えき
)
ある
時
(
とき
)
こゝには
僅
(
わづ
)
かに
三分
(
さんぶ
)
の
利
(
り
)
のみ
我
(
わ
)
が
家
(
いへ
)
繁榮
(
はんえい
)
長久
(
ちやうきう
)
の
策
(
さく
)
は
彼
(
か
)
れ
松澤
(
まつざは
)
の
無
(
な
)
きにしかず
且
(
か
)
つは
娘
(
むすめ
)
の
容色
(
きりやう
)
世
(
よ
)
に
勝
(
すぐ
)
れたれば
是
(
これ
)
とても
又
(
また
)
一
(
ひと
)
つの
金庫
(
かねぐら
)
芳之助
(
よしのすけ
)
とのえにし
絶
(
た
)
えなば
通
(
とほ
)
り
町
(
ちやう
)
の
角
(
かど
)
地面
(
ぢめん
)
持參
(
ぢさん
)
の
聟
(
むこ
)
もなきにはあらじ
一擧兩得
(
いつきよりやうとく
)
とはこれなんめりと
思
(
おも
)
ふ
心
(
こゝろ
)
は
娘
(
むすめ
)
にも
祕
(
ひ
)
め
同氣
(
どうき
)
求
(
もと
)
むる
番頭
(
ばんとう
)
の
勘藏
(
かんざう
)
にのみ
割
(
わつ
)
て
明
(
あ
)
かせば
横手
(
よこて
)
を
拍
(
う
)
つて
賛成
(
さんせい
)
し
主從
(
しゆじゆう
)
日夜
(
にちや
)
額
(
ひたひ
)
をあつめて
其方法
(
そのはうはふ
)
を
講
(
かう
)
じ
居
(
ゐ
)
たりき、
時
(
とき
)
なる
哉
(
かな
)
松澤
(
まつざは
)
はさる
歳
(
とし
)
商法上
(
しやうはふじやう
)
の
都合
(
つがふ
)
に
依
(
よ
)
り
新田
(
につた
)
より
一時
(
いちじ
)
借
(
か
)
り
入
(
い
)
れし
二千許
(
にせんばかり
)
の
金
(
かね
)
ことしは
既
(
すで
)
に
期限
(
きげん
)
ながら
一兩年
(
いちりやうねん
)
引
(
ひき
)
つゞきての
不景氣
(
ふけいき
)
に
流石
(
さすが
)
の
老舖
(
しにせ
)
も
手元
(
てもと
)
豐
(
ゆた
)
かならず
殊
(
こと
)
に
織元
(
おりもと
)
その
外
(
ほか
)
にも
仕拂
(
しはら
)
ふべき
金
(
かね
)
いと
多
(
おほ
)
ければ
新田
(
につた
)
は
親族
(
しんぞく
)
の
間柄
(
あひだがら
)
なり
且
(
かつ
)
は
是迄
(
これまで
)
我
(
わ
)
が
方
(
かた
)
より
立
(
たて
)
かへし
分
(
ぶん
)
も
少
(
すくな
)
からねばよもや
事情
(
じじやう
)
打
(
うち
)
あけて
延期
(
えんき
)
を
乞
(
こ
)
はゞゆるさじと
言
(
い
)
ひもすまじ
他人
(
たにん
)
に
内兜
(
うちかぶと
)
を
見
(
み
)
すかされ
機械仕掛
(
きかいじかけ
)
のあやつり
身上
(
しんじやう
)
松澤
(
まつざは
)
ももう
下
(
くだ
)
り
坂
(
ざか
)
よと
囃
(
はや
)
されんは
口惜
(
くちを
)
しく
脊
(
せ
)
なる
新田
(
につた
)
は
後廻
(
あとまは
)
し
腹
(
はら
)
の
織元
(
おりもと
)
其他
(
そのほか
)
へ
有金
(
ありがね
)
大方
(
おほかた
)
取
(
とり
)
あつめて
仕拂
(
しはら
)
ひたる
噂
(
うはさ
)
こそ
耳
(
みゝ
)
よりのことなれと
平生
(
ひごろ
)
ねらひすませし
的
(
まと
)
彼方
(
かなた
)
より
延期
(
えんき
)
をいひ
出
(
だ
)
さぬ
間
(
ま
)
に、
切
(
きつ
)
て
放
(
はな
)
して
急催促
(
きふさいそく
)
に
言譯
(
いひわけ
)
すべき
程
(
ほど
)
もなく
忽
(
たちま
)
ち
表向
(
おもてむ
)
きの
訴訟沙汰
(
そしようざた
)
とは
成
(
な
)
れりける
素
(
もと
)
松澤
(
まつざは
)
は
數代
(
すだい
)
の
家柄
(
いへがら
)
世
(
よ
)
の
信用
(
しんよう
)
も
厚
(
あつ
)
ければ
僅々
(
きん〳〵
)
千
(
せん
)
や
二千
(
にせん
)
の
金
(
かね
)
何方
(
いづかた
)
にても
調達
(
てうたつ
)
は
出來得
(
できう
)
べしと
世人
(
せじん
)
の
思
(
おも
)
ふは
反對
(
うらうへ
)
にて
玉子
(
たまご
)
の
四角
(
しかく
)
まだ
萬國博覽曾
(
ばんこくはくらんくわい
)
にも
陳列
(
ちんれつ
)
の
沙汰
(
さた
)
をきかねど
晦日
(
みそか
)
に
月
(
つき
)
の
出
(
で
)
る
世
(
よ
)
の
中
(
なか
)
十五夜
(
じふごや
)
の
闇
(
やみ
)
もなくてやは
奧
(
おく
)
は
朦朧
(
もうろう
)
のいかなる
手段
(
しゆだん
)
ありしか
新田
(
につた
)
が
畫策
(
くわくさく
)
極
(
きは
)
めて
妙
(
めう
)
にしていさゝかの
融通
(
ゆうづう
)
もならず
示談
(
じだん
)
を
請
(
こ
)
はゞやと
奔走
(
ほんそう
)
せしかどそれすらも
調
(
とゝの
)
はずして
新田
(
につた
)
は
首尾
(
しゆび
)
よく
勝
(
かち
)
を
制
(
せい
)
し
凱歌
(
かちどき
)
の
聲
(
こゑ
)
いさましく
引揚
(
ひきあ
)
げしにそれとかはりて
松澤
(
まつざは
)
が
周章狼狽
(
しうしやうらうばい
)
まこと
寐耳
(
ねみゝ
)
に
出水
(
でみづ
)
の
騷動
(
さうどう
)
おどろくといふ
暇
(
ひま
)
もなく
巧
(
たく
)
みに
巧
(
たく
)
みし
計略
(
けいりやく
)
に
爭
(
あらそ
)
ふかひなく
敗訴
(
はいそ
)
となり
家藏
(
いへくら
)
のみか
數代
(
すだい
)
續
(
つゞ
)
きし
暖簾
(
のれん
)
までも
皆
(
みな
)
かれが
手
(
て
)
に
歸
(
き
)
したれば
木
(
き
)
より
落
(
おち
)
たる
山猿同樣
(
やまざるどうやう
)
たのむ
木蔭
(
こかげ
)
の
雨森新七
(
あめもりしんしち
)
といふ
番頭
(
ばんとう
)
の
白鼠
(
しろねづみ
)
去年
(
きよねん
)
生國
(
しやうこく
)
へ
歸
(
かへ
)
りし
後
(
のち
)
は
十露盤玉
(
そろばんだま
)
と
筆先
(
ふでさき
)
に
帳尻
(
ちやうじり
)
つくろふ
溝鼠
(
どぶねづみ
)
のみなりけん
主家
(
しゆか
)
一大事
(
いちだいじ
)
の
今日
(
こんにち
)
も
申合
(
まをしあは
)
せたるやうに
富士見
(
ふじみ
)
西行
(
さいぎやう
)
きめ
込
(
こ
)
み
見返
(
みかへ
)
るものさへあらざれば
無念
(
むねん
)
の
涙
(
なみだ
)
を
手荷物
(
てにもつ
)
にして
名
(
な
)
のみ
床
(
ゆか
)
しき
妻戀坂下
(
つまこひざかした
)
同朋町
(
どうぼうちやう
)
といふ
處
(
ところ
)
に
親子
(
おやこ
)
三人
(
みたり
)
雨露
(
あめつゆ
)
を
凌
(
しの
)
ぐばかりの
家
(
いへ
)
を
借
(
か
)
りて
辛
(
から
)
く
膝
(
ひざ
)
をば
入
(
い
)
れたりけり、
海
(
うみ
)
ならず
山
(
やま
)
ならぬ
人世
(
じんせい
)
の
行路
(
かうろ
)
難
(
なん
)
今
(
いま
)
初
(
はじ
)
めて
思
(
おも
)
ひ
當
(
あた
)
り
淵瀬
(
ふちせ
)
ことなる
飛鳥川
(
あすかがは
)
の
明日
(
あす
)
よりは
何
(
なに
)
とせん、もと
富家
(
ふか
)
に
人
(
ひと
)
となりて
柔弱
(
にうじやく
)
にのみ
育
(
そだ
)
ちし
身
(
み
)
は
是
(
こ
)
れと
覺
(
おぼ
)
えし
藝
(
げい
)
もなく
手
(
て
)
に
十露盤
(
そろばん
)
は
取
(
と
)
りならへど
物
(
もの
)
に
當
(
あた
)
りし
事
(
こと
)
なければ
時
(
とき
)
の
用
(
よう
)
には
立
(
た
)
ちもせず
坐
(
ざ
)
して
喰
(
くら
)
へば
空
(
むな
)
しくなる
山高帽子
(
やまたかばうし
)
半靴
(
はんぐつ
)
と
明日
(
きのふ
)
かざりし
身
(
み
)
の
廻
(
まは
)
りも
一
(
ひと
)
つ
賣
(
う
)
り
二
(
ふた
)
つ
賣
(
う
)
りはては
晦日
(
みそか
)
の
勘定
(
かんぢやう
)
さへ
胸
(
むね
)
につかふる
程
(
ほど
)
にもなりぬ。
第三囘
一人並
(
いちにんなみ
)
の
男
(
をとこ
)
になりながら
何
(
なん
)
の
腑甲斐
(
ふがひ
)
ない
車夫
(
しやふ
)
風情
(
ふぜい
)
にまで
落魄
(
おちぶれ
)
ずともの
事
(
こと
)
外
(
ほか
)
に
仕樣
(
しやう
)
のあらうものをと
大言
(
たいげん
)
吐
(
は
)
きし
昔
(
むかし
)
の
心
(
こゝろ
)
の
恥
(
はづ
)
かしさよ
誰
(
た
)
れが
好
(
この
)
んで
牛馬
(
ぎうば
)
の
代
(
かは
)
りに
油汗
(
あぶらあせ
)
ながし
塵埃
(
ぢんあい
)
の
中
(
なか
)
馳
(
は
)
せ
廻
(
めぐ
)
るものぞ
仕樣
(
しやう
)
模樣
(
もやう
)
の
竭
(
つ
)
きはてたればこそ
恥
(
はじ
)
も
外聞
(
ぐわいぶん
)
もなひまぜにからめて
捨
(
す
)
てた
身
(
み
)
のつまり
無念
(
むねん
)
も
殘念
(
ざんねん
)
も
饅頭笠
(
まんぢうがさ
)
のうちに
包
(
つゝ
)
みて
參
(
まゐ
)
りませうと
聲
(
こゑ
)
低
(
びく
)
に
勸
(
すゝ
)
める
心
(
こゝろ
)
いらぬとばかりもぎだうに
過
(
す
)
ぎ
行
(
ゆ
)
く
人
(
ひと
)
それはまだしもなりうるさいはと
叱
(
しか
)
りつけられて
我知
(
われし
)
らずあとじさりする
意氣地
(
いくぢ
)
なさまだ
霜
(
しも
)
こほる
夜嵐
(
よあらし
)
に
辻待
(
つじまち
)
の
提燈
(
ちやうちん
)
の
火
(
ひ
)
の
消
(
き
)
えかへる
迄
(
まで
)
案
(
あん
)
じらるゝは
二親
(
ふたおや
)
のことなり
馴
(
な
)
れぬ
貧苦
(
ひんく
)
に
責
(
せ
)
めらるゝと
懷舊
(
くわいきう
)
の
情
(
じやう
)
のやる
方
(
かた
)
なさとが
老體
(
らうたい
)
の
毒
(
どく
)
になりてや
涙
(
なみだ
)
がちに
同
(
おな
)
じやうな
煩
(
わづら
)
ひ
方
(
かた
)
それも
御尤
(
ごもつと
)
もなり
我
(
われ
)
さへ
無念
(
むねん
)
に
膓
(
はらわた
)
の
沸
(
に
)
え
納
(
をさ
)
まらぬものを
胸
(
むね
)
さける
程
(
ほど
)
にも
思召
(
おぼしめ
)
すなるべし
憎
(
にく
)
きは
新田
(
につた
)
なり
恨
(
うら
)
めしきは
運平
(
うんぺい
)
なりよしや
血
(
ち
)
をすゝり
肉
(
しゝむら
)
をつくすとも
(
あきた
)
るべき
奴
(
やつ
)
ならずと
冷凍
(
ひえこほ
)
る
拳
(
こぶし
)
握
(
にぎ
)
りつめて
當處
(
あてど
)
もなしに
睨
(
にら
)
みもしつ
思
(
おも
)
ひ
返
(
かへ
)
せばそれも
愚痴
(
ぐち
)
なり
恨
(
うら
)
みは
人
(
ひと
)
の
上
(
うへ
)
ならず
我
(
わ
)
れに
男
(
をとこ
)
らしき
器量
(
きりやう
)
あらば
是
(
こ
)
れ
程
(
ほど
)
までには
窮
(
きゆう
)
しもすまじアヽと
歎
(
たん
)
ずれば
吐
(
つ
)
く
息
(
いき
)
しろく
見
(
み
)
えて
身
(
み
)
を
切
(
き
)
る
夜風
(
よかぜ
)
に
破
(
やぶ
)
れ
屏風
(
びやうぶ
)
の
内
(
うち
)
心配
(
しんぱい
)
になりて
絞
(
しぼ
)
つて
歸
(
かへ
)
るから
車財布
(
ぐるまざいふ
)
のものゝ
少
(
すくな
)
き
程
(
ほど
)
苦勞
(
くらう
)
のたかの
多
(
おほ
)
くなりてまたぐ
我家
(
わがや
)
の
閾
(
しきゐ
)
の
高
(
たか
)
さ、アヽお
歸
(
かへ
)
りかと
起返
(
おきかへ
)
る
母
(
はゝ
)
、お
父
(
とつ
)
さんは
御寢
(
げし
)
なツてゞすかさぞ
御不自由
(
ごふじいう
)
で
御座
(
ござ
)
いましたらう
何
(
なに
)
もお
變
(
かは
)
りは
御座
(
ござ
)
いませんかと
裏問
(
うらと
)
ふ
心
(
こゝろ
)
は
疵
(
きず
)
もつ
足
(
あし
)
、オヽお
前
(
まへ
)
の
留守
(
るす
)
に
差配
(
さはい
)
どのが
見
(
み
)
えられてといひさしてしばたゝく
瞼
(
まぶた
)
の
露
(
つゆ
)
白岡鬼平
(
しらをかきへい
)
といふ
有名
(
いうめい
)
の
無慈悲
(
むじひ
)
もの
惡鬼
(
あくき
)
よ
羅刹
(
らせつ
)
よと
蔭口
(
かげぐち
)
するは
澁團扇
(
しぶうちは
)
の
縁
(
えん
)
はなれぬ
店子共
(
たなこども
)
が
得手勝手
(
えてがつて
)
家賃
(
やちん
)
奇麗
(
きれい
)
に
拂
(
はら
)
ひて
盆暮
(
ぼんくれ
)
の
砂糖袋
(
さたうぶくろ
)
甘
(
あま
)
き
汁
(
しる
)
さへ
吸
(
す
)
はし
置
(
お
)
かば
下
(
さ
)
ぐる
目尻
(
めじり
)
と
諸共
(
もろとも
)
に
眉毛
(
まゆげ
)
の
名
(
な
)
によぶ
地藏顏
(
ぢざうがほ
)
にも
見
(
み
)
ゆべけれど、
今
(
いま
)
の
身
(
み
)
の
上
(
うへ
)
には
憎
(
にく
)
くし
剛慾
(
がうよく
)
もの
事情
(
じじやう
)
あくまで
知
(
し
)
りぬきながら
知
(
し
)
らず
顏
(
がほ
)
の
烟草
(
たばこ
)
ふか〳〵
身
(
み
)
に
過
(
あやま
)
りあればこそ
疊
(
たゝみ
)
に
額
(
ひたひ
)
ほり
埋
(
うづ
)
めて
歎願
(
たんぐわん
)
も
吹出
(
ふきい
)
だす
烟
(
けむり
)
の
輪
(
わ
)
と
消
(
け
)
して、
言譯
(
いひわけ
)
きく
耳
(
みゝ
)
はなし
家賃
(
やちん
)
をさめるか
店
(
たな
)
を
明
(
あ
)
けるか
道
(
みち
)
は
二
(
ふた
)
つぞ
何方
(
どちら
)
にでもなされとぽんとはたく
其
(
その
)
煙管
(
きせる
)
で
打
(
うち
)
わつてやりたい
面
(
つら
)
がまち
目的
(
もくてき
)
なしに
今日
(
けふ
)
までと
日
(
ひ
)
を
延
(
の
)
べしは
重々
(
ぢゆう〳〵
)
此方
(
こなた
)
が
惡
(
わる
)
けれど
母上
(
はゝうへ
)
とらへて
何
(
なに
)
言
(
いひ
)
居
(
を
)
つたかお
耳
(
みゝ
)
に
入
(
い
)
れまいと
思
(
おも
)
へばこそ
樣々
(
さま〴〵
)
の
苦勞
(
くらう
)
もするなれさらでもの
御病氣
(
ごびやうき
)
にいとゞ
重
(
おも
)
さを
添
(
そ
)
へたやうなものはて
困
(
こま
)
つたと
言
(
い
)
ひはせで
低頭
(
うつぶ
)
く
心
(
こゝろ
)
思案
(
しあん
)
にくれぬ、
差配
(
さはい
)
どのが
見
(
み
)
えられてと
母
(
はゝ
)
は
詞
(
ことば
)
[#ルビの「ことば」は底本では「こゝば」]
を
繰返
(
くりかへ
)
して
何
(
なに
)
か
譯
(
わけ
)
は
知
(
し
)
らねど
今直
(
います
)
ぐに
此家
(
こゝ
)
を
立
(
た
)
て
一寸
(
いつすん
)
の
猶豫
(
ゆうよ
)
もならぬとそれは〳〵
畫
(
ゑ
)
にもかゝれぬ
談
(
だん
)
じやうお
前
(
まへ
)
にも
料簡
(
れうけん
)
あることゝやうやうに
言延
(
いひの
)
べて
歸
(
かへ
)
ります
迄
(
まで
)
と
頼
(
たの
)
んでは
置
(
お
)
いたれどマアどうしたら
宜
(
よ
)
からうか
思案
(
しあん
)
して
見
(
み
)
てくだされと
小聲
(
こごゑ
)
ながらもおろ〳〵
涙
(
なみだ
)
お
案
(
あん
)
じなされますな
何
(
ど
)
うにかなります
今夜
(
こんや
)
は
大分
(
だいぶ
)
更
(
ふ
)
けましたから
明日
(
あした
)
早々
(
さう〳〵
)
出向
(
でむ
)
きまして
談合
(
はなしあ
)
ひをつけませうナニ
少
(
すこ
)
しの
行違
(
ゆきちが
)
ひでそれほどの
事
(
こと
)
では
御座
(
ござ
)
いませんと
我
(
わ
)
が
親
(
おや
)
にまでいつはるとはさても
後
(
のち
)
のよ
恐
(
おそ
)
ろしゝ、
寢
(
ね
)
ぬに
明
(
あ
)
くる
夜明
(
よあ
)
け
烏
(
がらす
)
もこうと
鳴
(
な
)
きて
反哺
(
はんぽ
)
の
教
(
をしへ
)
となるものを
生甲斐
(
いきがひ
)
なや
五尺
(
ごしやく
)
の
身
(
み
)
に
父母
(
ふぼ
)
の
恩
(
おん
)
荷
(
にな
)
ひ
切
(
き
)
れずましてや
暖簾
(
のれん
)
の
色
(
いろ
)
むかしに
染
(
そ
)
めかへさんはさて
置
(
お
)
きて
朝四暮三
(
てうしぼさん
)
のやつ〳〵しさにつく〴〵
浮世
(
うきよ
)
いやになりて
我身
(
わがみ
)
捨
(
す
)
てたき
折々
(
をり〳〵
)
もあれど
病勞
(
やみつか
)
れし
兩親
(
ふたおや
)
の
寢顏
(
ねがほ
)
さし
覗
(
のぞ
)
くごとに
我
(
われ
)
なくば
何
(
なん
)
とし
給
(
たま
)
はん
勿體
(
もつたい
)
なしと
思
(
おも
)
ひ
返
(
かへ
)
せど
沸
(
わ
)
くは
涙
(
なみだ
)
か
藥鍋
(
くすりなべ
)
の
下
(
した
)
炭火
(
ずみび
)
とろ〳〵と
消
(
き
)
え
勝
(
がち
)
の
生計
(
くらし
)
とて
良醫
(
りやうい
)
の
手
(
て
)
にもかゝられねば
見
(
み
)
す〳〵
重
(
おも
)
り
行
(
ゆ
)
く
心
(
こゝろ
)
ぐるしさよ
思
(
おも
)
へば
天
(
てん
)
も
地
(
ち
)
も
神
(
かみ
)
も
佛
(
ほとけ
)
も
我爲
(
わがため
)
には
皆
(
みな
)
仇
(
あだ
)
か
今
(
いま
)
この
場合
(
ばあひ
)
を
見
(
み
)
すぐしにするとは
何
(
なん
)
の
事
(
こと
)
ぞ
新田
(
につた
)
こそ
運平
(
うんぺい
)
こそ
大惡人
(
だいあくにん
)
の
骨頂
(
こつちやう
)
なれ
娘
(
むすめ
)
ばかりはよもやと
思
(
おも
)
へどそれもこれも
心
(
こゝろ
)
の
迷
(
まよ
)
ひか
姿
(
すがた
)
こそ
詞
(
ことば
)
こそやさしけれ
瓜
(
うり
)
の
蔓
(
つる
)
に
生
(
な
)
らぬ
茄子
(
なすび
)
父親
(
てゝおや
)
と
同
(
おな
)
じ
心
(
こゝろ
)
になつて
今
(
いま
)
の
我身
(
わがみ
)
に
愛想
(
あいそ
)
が
盡
(
つ
)
きて、
人傳
(
ひとづて
)
の
文
(
ふみ
)
一通
(
いつつう
)
それすらもよこさぬとは
外面
(
げめん
)
如菩薩
(
によぼさつ
)
、
内心
(
ないしん
)
はあれも
如夜叉
(
によやしや
)
め。
第四囘
他人
(
ひと
)
はとまれお
前
(
まへ
)
さまばかりは
高
(
たか
)
が
心
(
こゝろ
)
御存
(
ごぞん
)
じと
思
(
おも
)
ふたは
空
(
そら
)
だのめか
情
(
なさけ
)
ないお
詞
(
ことば
)
お
前
(
まへ
)
さまと
縁
(
えん
)
きれて
生存
(
ながら
)
へる
私
(
わたし
)
と
思召
(
おぼしめ
)
すか
恨
(
うら
)
みを
申
(
まを
)
さば
其
(
その
)
お
心
(
こゝろ
)
が
恨
(
うら
)
みなり
父樣
(
とゝさま
)
が
惡計
(
わるだくみ
)
それお
責
(
せ
)
め
遊
(
あそ
)
ばすにお
答
(
こた
)
への
詞
(
ことば
)
もなけれど
其
(
その
)
くやしさも
悲
(
かな
)
しさもお
前
(
まへ
)
さまに
劣
(
おと
)
ることかは
人知
(
ひとし
)
らぬ
夜
(
よ
)
の
家具
(
やぐ
)
の
襟
(
えり
)
何故
(
なにゆゑ
)
にぬるゝものぞ
涙
(
なみだ
)
に
色
(
いろ
)
のもしあらば
此袖
(
このそで
)
ひとつにお
疑
(
うたが
)
ひは
晴
(
は
)
れやうもの
一
(
ひと
)
つ
穴
(
あな
)
の
獸
(
けもの
)
とは
餘
(
あま
)
りの
仰
(
おほ
)
せつもりても
御覽
(
ごらん
)
ぜよ
繋
(
つな
)
がれねど
身
(
み
)
は
籠
(
かご
)
の
鳥
(
とり
)
も
同
(
おな
)
じこと
風呂屋
(
ふろや
)
に
行
(
ゆ
)
くも
稽古
(
けいこ
)
ごとも
一人
(
ひとり
)
あるきゆるされねば
御目
(
おめ
)
にかゝる
折
(
をり
)
もなく
文
(
ふみ
)
あげたけれど
御住所
(
おところ
)
誰
(
たれ
)
に
問
(
と
)
ひもならず
心
(
こゝろ
)
にばかり
泣
(
ない
)
て
泣
(
ない
)
て
居
(
を
)
りましたを
薄情
(
はくじやう
)
もの
義理
(
ぎり
)
しらずと
押
(
おし
)
くるめてのお
詞
(
ことば
)
お
道理
(
だうり
)
なれど
御無理
(
ごむり
)
なり
此身
(
このみ
)
一
(
ひと
)
つに
科
(
とが
)
があらば
打
(
う
)
たれもせん
突
(
つ
)
かれもせん
膝
(
ひざ
)
ともといふ
談合相手
(
だんがふあひて
)
に
遊
(
あそ
)
ばしてよと
涙
(
なみだ
)
ながら
控
(
ひか
)
へる
袂
(
たもと
)
を
鋭
(
するど
)
く
拂
(
はら
)
つてお
高
(
たか
)
どの
詞
(
ことば
)
ばかりは
嬉
(
うれ
)
しけれど
眞實
(
まこと
)
やら
何
(
なに
)
やら
心
(
こゝろ
)
まで
見
(
み
)
る
目
(
め
)
は
芳之助
(
よしのすけ
)
あやにく
持
(
も
)
たず
父御
(
てゝご
)
の
心
(
こゝろ
)
も
大方
(
おほかた
)
は
知
(
し
)
れてあり
甲斐性
(
かひしよ
)
なしの
我
(
わ
)
れ
嫌
(
いや
)
になりて
縁
(
えん
)
の
絶
(
た
)
ちどが
無
(
な
)
さに
計略三昧
(
けいりやくざんまい
)
かゝりし
我等
(
われら
)
は
罠
(
わな
)
のうちの
獸
(
けもの
)
ぞ
手
(
て
)
を
打
(
うつ
)
て
笑
(
わら
)
はるゝ
筈
(
はず
)
を
何
(
なん
)
の
涙
(
なみだ
)
お
化粧
(
つくり
)
がはげては
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
なり
牛
(
うし
)
に
乘換
(
のりか
)
へるうまき
話
(
はなし
)
も
内々
(
ない〳〵
)
は
有
(
あ
)
ることならんを
家藏持參
(
いへくらぢさん
)
の
業平男
(
なりひらをとこ
)
に
見
(
み
)
せ
給
(
たま
)
ふ
顏
(
かほ
)
我等
(
われら
)
づれに
勿體
(
もつたい
)
なしお
退
(
の
)
きなされよ
見
(
み
)
たくもなしとつれなしや
後
(
うしろ
)
むき
憎
(
にく
)
らしき
事
(
こと
)
の
限
(
かぎ
)
り
並
(
なら
)
べられても
口惜
(
くちを
)
しきはそれならず
解
(
と
)
けぬ
心
(
こゝろ
)
にあらはれぬ
胸
(
むね
)
うらめしく
君樣
(
きみさま
)
こそは
何
(
なん
)
とも
思召
(
おぼしめ
)
すまじけれど
物
(
もの
)
ごゝろ
知
(
し
)
る
其頃
(
そのころ
)
よりさま〴〵のこと
苦勞
(
くらう
)
にして
身
(
み
)
だしなみ
物
(
もの
)
學
(
まな
)
び
彼
(
あ
)
れか
此
(
こ
)
れかお
氣
(
き
)
に
入
(
い
)
りたや
飽
(
あ
)
かれまじと
心
(
こゝろ
)
のたけは
君樣故
(
きみさまゆゑ
)
に
使
(
つか
)
はれて
片時
(
かたとき
)
安
(
やす
)
き
思
(
おも
)
ひもせずお
友達
(
ともだち
)
遊
(
あそ
)
びも
芝居
(
しばゐ
)
行
(
ゆ
)
きもお
嫌
(
きら
)
ひと
知
(
し
)
れば
大方
(
おほかた
)
は
斷
(
ことわ
)
りいふて
僻物
(
ひがもの
)
と
笑
(
わら
)
はれしは
誰
(
た
)
れの
爲
(
ため
)
をさな
遊
(
あそ
)
びの
昔
(
むかし
)
は
知
(
し
)
らず
睦
(
むつま
)
じき
中
(
なか
)
にも
恥
(
はづ
)
かしさが
楯
(
たて
)
に
成
(
な
)
りて
思
(
おも
)
ふこと
思
(
おも
)
ふまゝにも
得
(
え
)
いはざりしを
淺
(
あさ
)
き
心
(
こゝろ
)
と
思召
(
おぼしめ
)
すか
假令
(
たとひ
)
どのやうな
事
(
こと
)
あればとて
仇
(
あだ
)
し
人
(
びと
)
に
何
(
なん
)
のその
笑顏
(
わらひがほ
)
見
(
み
)
せてならうことかは
山
(
やま
)
ほどの
恨
(
うら
)
みも
受
(
う
)
くる
筋
(
すぢ
)
あれば
詮方
(
せんかた
)
なし
君樣
(
きみさま
)
に
愛想
(
あいさう
)
つきての
計略
(
たくみ
)
かとはお
詞
(
ことば
)
ながら
餘
(
あま
)
りなり
親
(
おや
)
につながるゝ
子
(
こ
)
罪
(
つみ
)
は
同
(
おな
)
じと
覺悟
(
かくご
)
ながら
其名
(
そのな
)
ばかりはゆるし
給
(
たま
)
へよしや
父樣
(
とゝさま
)
にどのやうなお
憎
(
にく
)
しみあればとて
渝
(
かは
)
らぬ
心
(
こゝろ
)
の
私
(
わたし
)
こそ
君樣
(
きみさま
)
の
妻
(
つま
)
なるものを
何
(
なに
)
とげ〳〵しい
他人
(
たにん
)
あしらひ
聞
(
きこ
)
えぬお
心
(
こゝろ
)
やといひたさを
押
(
おさ
)
ゆる
涙
(
なみだ
)
袖
(
そで
)
に
置
(
お
)
きてモシと
止
(
と
)
めれば
振拂
(
ふりはら
)
ふ
羽織
(
はおり
)
のすそエヽ
何
(
なに
)
さるゝ
邪魔
(
じやま
)
くさし
我
(
われ
)
はお
前
(
まへ
)
さまの
手遊
(
てあそび
)
ならずお
伽
(
とぎ
)
になるは
嬉
(
うれ
)
しからず
其方
(
そなた
)
は
大家
(
たいけ
)
の
娘御
(
むすめご
)
暇
(
ひま
)
もあるべしその
日暮
(
ひぐら
)
しの
身
(
み
)
は
時間
(
じかん
)
もをしく
誰
(
た
)
れぞ
相手
(
あひて
)
をお
探
(
さが
)
しなされと
振
(
ふり
)
はらへば
又
(
また
)
すがり
芳
(
よし
)
さまそれは
御眞實
(
ごしんじつ
)
かと
見上
(
みあ
)
ぐる
面
(
おもて
)
睨
(
にら
)
みかへして
嘘
(
うそ
)
いつはりはお
前
(
まへ
)
さまなどのなさること
義理人情
(
ぎりにんじやう
)
のある
世
(
よ
)
ならよもやと
思
(
おも
)
ふ
生正直
(
きしやうぢき
)
から
飼
(
か
)
ひ
犬
(
いぬ
)
同樣
(
どうやう
)
な
人
(
ひと
)
でなしに
手
(
て
)
をかまれて
暖簾
(
のれん
)
に
見
(
み
)
る
恥
(
はぢ
)
は
誰
(
た
)
れゆゑぞ
原
(
もと
)
を
正
(
たゞ
)
せば
根分
(
ねわ
)
けの
菊
(
きく
)
親子
(
おやこ
)
の
中
(
なか
)
に
知
(
し
)
らぬといふ
道理
(
だうり
)
はなしよし
知
(
し
)
らぬにせよ
知
(
し
)
るにせよそれは
其方
(
そなた
)
の
御勝手
(
ごかつて
)
なり
仇敵
(
かたき
)
の
子
(
こ
)
を
妻
(
つま
)
にもせられず
嫁
(
よめ
)
にもすまじ
言
(
い
)
ふこともなし
聞
(
き
)
くことも
無
(
な
)
し
恨
(
うら
)
みつらみを
並
(
なら
)
べ
立
(
た
)
てなば
力車
(
ちからぐるま
)
に
牛
(
うし
)
の
汗
(
あせ
)
何
(
なん
)
の
積
(
つ
)
み
載
(
の
)
せきれるものかは
言
(
い
)
はぬが
花
(
はな
)
ぞお
前
(
まへ
)
さまは
盛
(
さか
)
りの
身
(
み
)
春
(
はる
)
めき
給
(
たま
)
ふは
今
(
いま
)
の
間
(
ま
)
なるべし
薦
(
こも
)
かぶりながら
見送
(
みおく
)
らんと
詞
(
ことば
)
叮嚀
(
ていねい
)
に
氣込
(
きごみ
)
あらく
齒
(
は
)
の
根
(
ね
)
きり〳〵と
喰
(
く
)
ひしばりて
釣
(
つ
)
り
上
(
あ
)
ぐる
眉根
(
まゆね
)
おそろしく
散髮
(
さんぱつ
)
斜
(
なゝ
)
めに
拂
(
はら
)
ひあげて
白
(
しろ
)
き
面
(
おもて
)
に
紅
(
くれなゐ
)
の
色
(
いろ
)
さしも
優
(
やさ
)
しき
常
(
つね
)
には
似
(
に
)
ず
止
(
と
)
めれば
振
(
ふり
)
きる
袖
(
そで
)
袂
(
たもと
)
まづ
今
(
いま
)
しばしと
詫
(
わ
)
びつ
恨
(
うら
)
みつ
取
(
と
)
りつく
手先
(
てさき
)
うるさしと
立蹴
(
たちげ
)
にはたと
蹴倒
(
けたふ
)
されわつと
泣
(
な
)
く
聲
(
こゑ
)
我
(
わ
)
れとわが
耳
(
みゝ
)
に
入
(
い
)
りて
起
(
お
)
き
返
(
かへ
)
るは
何處
(
いづこ
)
、
平常
(
つね
)
の
部屋
(
へや
)
に
倚
(
よ
)
りかゝる
文机
(
ふづくゑ
)
の
湖月抄
(
こげつせう
)
こてふの
卷
(
まき
)
の
果敢
(
はか
)
なく
覺
(
さ
)
めて
又
(
また
)
思
(
おも
)
ひそふ
一睡
(
いつすゐ
)
の
夢
(
ゆめ
)
夕日
(
ゆふひ
)
かたぶく
窓
(
まど
)
の
簾
(
すだれ
)
風
(
かぜ
)
にあほれる
音
(
おと
)
も
淋
(
さび
)
し。
第五囘
お
珍
(
めづ
)
らしやお
高
(
たか
)
さま
今日
(
けふ
)
の
御入來
(
おいで
)
は
如何
(
どう
)
いふ
風
(
かぜ
)
の
吹
(
ふき
)
まはしか
一昨日
(
をとゝひ
)
のお
稽古
(
けいこ
)
にも
其前
(
そのまへ
)
もお
顏
(
かほ
)
つひにお
見
(
み
)
せなさらずお
師匠
(
ししやう
)
さまも
皆
(
みな
)
さまも
大抵
(
たいてい
)
でないお
案
(
あん
)
じ
日
(
ひ
)
がな
一日
(
いちにち
)
お
噂
(
うはさ
)
して
居
(
をり
)
ましたと
嬉
(
うれ
)
しげに
出迎
(
でむか
)
ふ
稽古
(
けいこ
)
朋輩
(
ほうばい
)
錦野
(
にしきの
)
はな
子
(
こ
)
と
呼
(
よ
)
ばれて
醫學士
(
いがくし
)
の
妹
(
いもと
)
博愛
(
はくあい
)
仁慈
(
じんじ
)
の
聞
(
きこ
)
えたかき
兄
(
あに
)
を
見眞似
(
みまね
)
か
温順
(
おとな
)
しづくり
何某學校
(
なにがしがくかう
)
通學生中
(
つうがくせいちゆう
)
に
萬緑叢中
(
ばんりよくさうちゆう
)
一點
(
いつてん
)
の
紅
(
くれなゐ
)
と
稱
(
たゝ
)
へられて
根
(
ね
)
あがりの
高髷
(
たかまげ
)
に
被布
(
ひふ
)
扮粧
(
でたち
)
廿歳
(
はたち
)
を
越
(
こ
)
しての
肩縫
(
かたぬひ
)
あげ
可愛
(
かはい
)
らしき
人品
(
ひとがら
)
なりお
高
(
たか
)
さま
御覽
(
ごらん
)
なされ
老人
(
としより
)
なき
家
(
いへ
)
の
埒
(
らち
)
のなさ
兄
(
あに
)
は
兄
(
あに
)
とて
男
(
をとこ
)
の
事
(
こと
)
家内
(
うち
)
のことはとんと
棄物
(
すてもの
)
私一人
(
わたしひとり
)
が
拍
(
う
)
つも
舞
(
ま
)
ふもほんに
埃
(
ほこり
)
だらけで
御座
(
ござ
)
いますと
笑
(
わら
)
ひて
誘
(
いざな
)
ふ
座蒲團
(
ざぶとん
)
の
上
(
うへ
)
おかまひ
遊
(
あそ
)
ばすなと
沈
(
しづ
)
み
聲
(
ごゑ
)
にお
高
(
たか
)
うやむやの
胸
(
むね
)
の
關所
(
せきしよ
)
たれに
打明
(
うちあ
)
けん
相手
(
あひて
)
もなし
朋友
(
ともだち
)
の
誰
(
た
)
れ
彼
(
か
)
れ
睦
(
むつ
)
まじきもあれどそれは
春秋
(
はるあき
)
の
花
(
はな
)
紅葉
(
もみぢ
)
對
(
つゐ
)
にして
(
さ
)
す
簪
(
かんざし
)
の
造物
(
つくりもの
)
ならねど
當座
(
たうざ
)
の
交際
(
つきあひ
)
姿
(
すがた
)
こそはやさしげなれ
智慧
(
ちゑ
)
宏大
(
くわうだい
)
と
聞
(
き
)
くは
此人
(
このひと
)
すがりて
見
(
み
)
ばやとこれも
稚氣
(
をさなげ
)
さりながら
姿
(
すがた
)
に
知
(
し
)
れぬは
人
(
ひと
)
の
心
(
こゝろ
)
笑
(
わら
)
ひものにされなばそれも
恥
(
はづ
)
かし
何
(
なに
)
とせんと
思
(
おも
)
ふほど
兄弟
(
きやうだい
)
ある
人
(
ひと
)
羨
(
うらや
)
ましくなりてお
兄樣
(
あにいさま
)
はおやさしいとかお
前
(
まへ
)
さま
羨
(
うらや
)
ましと
口
(
くち
)
を
洩
(
も
)
るれば
花子
(
はなこ
)
少
(
すこ
)
し
笑
(
ゑ
)
みを
含
(
ふく
)
んでこればかりは
私
(
わたし
)
の
幸福
(
しあはせ
)
さりとて
喧嘩
(
けんくわ
)
する
時
(
とき
)
もあり
無理
(
むり
)
な
小言
(
こごと
)
いはれまして
腹立
(
はらだ
)
ち
合
(
あ
)
ふこともあれど
跡
(
あと
)
も
無
(
な
)
し
先
(
さき
)
もなし
海鼠
(
なまこ
)
のやうなと
笑
(
わら
)
はれます
此頃
(
このごろ
)
は
施療
(
せれう
)
に
暇
(
ひま
)
がなうて
芝居
(
しばゐ
)
も
寄席
(
よせ
)
もとんと
御無沙汰
(
ごぶさた
)
その
内
(
うち
)
にお
誘
(
さそ
)
ひ
申
(
まを
)
します
兄
(
あに
)
はお
前
(
まへ
)
さまをといひかけて
笑
(
わら
)
ひ
消
(
け
)
す
詞
(
ことば
)
何
(
なに
)
としらねどお
施
(
ほどこ
)
しとはお
情深
(
なさけぶか
)
い
事
(
こと
)
さぞかし
可哀
(
かあい
)
さうのも
御座
(
ござ
)
いませうと
思
(
おも
)
ふことあれば
察
(
さつ
)
しも
深
(
ふか
)
し
花子
(
はなこ
)
煙草
(
たばこ
)
は
嫌
(
きら
)
ひと
聞
(
きゝ
)
しが
傍
(
かたはら
)
の
煙管
(
きせる
)
とりあげて
一服
(
いつぷく
)
あわたゞしく
押
(
おし
)
やりつそれはもうさま〴〵ツイ
二日計前
(
ふつかばかりまへ
)
のこと
極貧
(
ごくひん
)
の
裏屋
(
うらや
)
の
者
(
もの
)
が
難産
(
なんざん
)
に
苦
(
くるし
)
みまして
兄
(
あに
)
の
手術
(
しゆじゆつ
)
に
母子
(
ふたり
)
とも
安全
(
あんぜん
)
ではありましたれど
赤子
(
あかご
)
に
着
(
き
)
せる
物
(
もの
)
がないとか
聞
(
き
)
きませば
平常
(
つね
)
の
心
(
こゝろ
)
に
承知
(
しようち
)
がならず
其
(
そ
)
の
夜
(
よ
)
通
(
とほ
)
して
針仕事
(
はりしごと
)
着
(
き
)
るもの
二
(
ふた
)
つ
遣
(
つか
)
はしましたと
得意顏
(
とくいがほ
)
の
物語
(
ものがた
)
り
徳
(
とく
)
は
陰
(
かげ
)
なるこそよけれとか
聞
(
きゝ
)
しが
怪
(
あや
)
しのことよと
疑
(
うたが
)
ふ
胸
(
むね
)
に
相談
(
さうだん
)
せばやの
心
(
こゝろ
)
は
消
(
き
)
えぬ
花子
(
はなこ
)
さま〴〵の
患者
(
くわんじや
)
の
話
(
はなし
)
に
昨日
(
きのふ
)
往診
(
みまひ
)
し
同朋町
(
どうぼうちやう
)
とやら
若
(
も
)
しやと
聞
(
き
)
けばつゆ
違
(
たが
)
はぬ
樣子
(
やうす
)
なりそれほどまでにはよもやと
思
(
おも
)
へど
正
(
まさ
)
しくならば
何
(
なん
)
とせん
實否
(
じつぴ
)
くはしく
聞
(
き
)
きたしと
思
(
おも
)
へど
咎
(
とが
)
むる
心
(
こゝろ
)
に
詞
(
ことば
)
つまりて
應答
(
こたへ
)
何
(
なに
)
やらうろうろになりぬお
高
(
たか
)
さま
御
(
ご
)
ゆるりなされ
今
(
いま
)
兄
(
あに
)
も
戻
(
もど
)
りまする
先
(
まづ
)
それよりはお
目
(
め
)
に
懸
(
か
)
けたきもの
往日
(
いつぞや
)
お
話
(
はな
)
し
申
(
まを
)
せし
兄
(
あに
)
が
祕藏
(
ひざう
)
の
畫帖
(
ぐわでう
)
イエお
前
(
まへ
)
さまに
御覽
(
ごらん
)
に
入
(
い
)
るゝに
賞
(
ほ
)
められこそすれ
何
(
なに
)
として
小言
(
こごと
)
聞
(
き
)
くことではなしお
待遊
(
まちあそ
)
ばせよと
待遇
(
もてなし
)
ぶり
詞
(
ことば
)
滑
(
なめら
)
かの
人
(
ひと
)
とて
中々
(
なか〳〵
)
に
歸
(
かへ
)
しもせず
枝
(
えだ
)
に
枝
(
えだ
)
そふ
物
(
もの
)
がたり
花子
(
はなこ
)
いとゞ
眞面目
(
まじめ
)
になりて
斯
(
か
)
う
申
(
まを
)
してはをかしけれどお
前
(
まへ
)
さまはお
一人子
(
ひとりご
)
私
(
わたし
)
とても
兄
(
あに
)
ばかり
女
(
をんな
)
の
同胞
(
きやうだい
)
もちませねば
淋
(
さび
)
しさは
同
(
おな
)
じこと
何
(
なに
)
かにつけて
心細
(
こゝろぼそ
)
し
御不足
(
ごふそく
)
かは
知
(
し
)
らねど
妹
(
いもと
)
と
思召
(
おぼしめ
)
してよと
底
(
そこ
)
にものある
詞遣
(
ことばづか
)
ひそれは
私
(
わたし
)
より
願
(
ねが
)
ふことゝいふ
詞
(
ことば
)
聞
(
き
)
きも
畢
(
をは
)
らずそれならばお
話
(
はなし
)
ありお
聽
(
き
)
き
下
(
くだ
)
さりますかと
怪
(
あや
)
しの
根問
(
ねど
)
ひお
高
(
たか
)
さまお
前
(
まへ
)
さまのお
胸
(
むね
)
一
(
ひと
)
つ
伺
(
うかゞ
)
へば
譯
(
わけ
)
のすむ
事
(
こと
)
外
(
ほか
)
でもなし
實
(
まこと
)
の
姉
(
ねえ
)
さまにおなり
下
(
くだ
)
さらぬかと
決然
(
きつぱり
)
いはれて
御串戯
(
ごじやうだん
)
[#ルビの「ごじやうだん」は底本では「ごじやだん」]
私
(
わたし
)
こそ
實
(
まこと
)
の
妹
(
いもと
)
と
思召
(
おぼしめ
)
してと
言
(
い
)
ふを
遮
(
さへぎ
)
りそれでは
未
(
ま
)
だ
御存
(
ごぞん
)
じの
無
(
な
)
きならん
父御
(
てゝご
)
さまと
兄
(
あに
)
との
中
(
なか
)
にお
話
(
はな
)
し
成立
(
なりた
)
つてお
前
(
まへ
)
さまさへ
御承知
(
ごしようち
)
ならば
明日
(
あす
)
にも
眞實
(
しんじつ
)
の
姉樣
(
あねさま
)
お
厭
(
いや
)
か〳〵お
厭
(
いや
)
ならばお
厭
(
いや
)
でよしと
薄氣味
(
うすきみ
)
わろき
優
(
やさ
)
しげの
聲
(
こゑ
)
嘘
(
うそ
)
か
實
(
まこと
)
か
餘
(
あま
)
りといへば
餘
(
あま
)
りのこと、
亂
(
みだ
)
るゝ
心
(
こゝろ
)
を
流石
(
さすが
)
に
靜
(
しづ
)
めて
花子
(
はなこ
)
さま
仰
(
おほ
)
せまだ
私
(
わたし
)
には
呑込
(
のみこ
)
めませぬお
答
(
こた
)
へも
何
(
なに
)
も
追
(
おつ
)
てのこと
今日
(
けふ
)
は
先
(
ま
)
づお
暇
(
いとま
)
と
立
(
た
)
たんとするを
強
(
しひ
)
ても
止
(
と
)
めず
然
(
さ
)
らばお
歸
(
かへ
)
りか
好
(
よ
)
きお
返事
(
へんじ
)
お
待
(
まち
)
申
(
まを
)
しますと
送
(
おく
)
り
出
(
いだ
)
す
玄關先
(
げんくわんさき
)
左樣
(
さやう
)
ならばを
跡
(
あと
)
になして
乘
(
の
)
り
出
(
いだ
)
す
車
(
くるま
)
の
掛聲
(
かけごゑ
)
に
走
(
はし
)
り
退
(
の
)
く
一人
(
ひとり
)
の
男
(
をとこ
)
あれは
何方
(
いづく
)
の
藥取
(
くすりとり
)
憐
(
あは
)
れの
姿
(
すがた
)
やと
見返
(
みかへ
)
れば
彼方
(
かなた
)
よりも
見返
(
みかへ
)
る
顏
(
かほ
)
オヽ
芳
(
よし
)
さま
詞
(
ことば
)
の
未
(
いま
)
だ
轉
(
まろ
)
び
出
(
い
)
でぬ
間
(
ま
)
に
車
(
くるま
)
は
轣轆
(
れきろく
)
として
轍
(
わだち
)
のあと
遠
(
とほ
)
く
地
(
ち
)
に
印
(
しる
)
されぬ。
第六囘
中硝子
(
なかがらす
)
の
障子
(
しやうじ
)
ごしに
中庭
(
なかには
)
の
松
(
まつ
)
の
姿
(
すがた
)
をかしと
見
(
み
)
し
絹布
(
けんぷ
)
の
四布蒲團
(
よのぶとん
)
すつぽりと
炬燵
(
こたつ
)
の
内
(
うち
)
あたゝかに、
美人
(
びじん
)
の
酌
(
しやく
)
の
舌鼓
(
したつゞみ
)
うつゝなく、
門
(
かど
)
を
走
(
はし
)
る
樽
(
たる
)
ひろひあれは
何處
(
いづこ
)
の
小僧
(
こそう
)
どん
雪中
(
せつちゆう
)
の
一
(
ひと
)
つ
景物
(
けいぶつ
)
おもしろし、とても
積
(
つも
)
らば
五尺
(
ごしやく
)
六尺
(
ろくしやく
)
雨戸
(
あまど
)
明
(
あ
)
けられぬ
程
(
ほど
)
に
降
(
ふ
)
らして
常闇
(
とこやみ
)
の
長夜
(
ちやうや
)
の
宴
(
えん
)
、
張
(
は
)
りて
見
(
み
)
たしと
縺
(
もつ
)
れ
舌
(
じた
)
に
譫言
(
たはごと
)
の
給
(
たま
)
ふちろ〳〵
目
(
め
)
にも
六花
(
りくくわ
)
の
眺望
(
ながめ
)
に
別
(
べつ
)
は
無
(
な
)
けれど、
身
(
み
)
にしむ
寒
(
さぶ
)
さは
降
(
ふり
)
かゝりての
後
(
のち
)
ならで
知
(
し
)
れぬ
事
(
こと
)
なり、うそ
寒
(
さぶ
)
しと
云
(
い
)
ひしも
二日
(
ふつか
)
三日
(
みつか
)
朝來
(
あさより
)
もよほす
薄墨色
(
うすずみいろ
)
の
空模樣
(
そらもやう
)
に
頭痛
(
づつう
)
もちの
天氣豫報
(
てんきよはう
)
相違
(
さうゐ
)
なく
西北
(
にしきた
)
の
風
(
かぜ
)
ゆふ
暮
(
ぐれ
)
かけて
鵞毛
(
がもう
)
か
柳絮
(
りうじよ
)
かはやちら〳〵と
降
(
ふ
)
り
出
(
い
)
でぬ、
入相
(
いりあひ
)
の
鐘
(
かね
)
の
聲
(
こゑ
)
陰
(
いん
)
に
響
(
ひゞ
)
きて
塒
(
ねぐら
)
にいそぐ
友烏
(
ともがらす
)
今宵
(
こよひ
)
の
宿
(
やど
)
りの
侘
(
わび
)
しげなるに
誰
(
た
)
が
空
(
うつ
)
せみの
夢
(
ゆめ
)
の
見初
(
みはじ
)
め、
待合
(
まちあひ
)
の
奧二階
(
おくにかい
)
の
爪彈
(
つめび
)
きの
三下
(
さんさが
)
り
簾
(
すだれ
)
を
洩
(
も
)
るゝ
笑
(
わら
)
ひ
聲
(
ごゑ
)
低
(
ひく
)
く
聞
(
きこ
)
えて
思
(
おも
)
はず
停
(
とま
)
る
行人
(
ゆくひと
)
の
足元
(
あしもと
)
、
狂
(
くる
)
ふ
煩惱
(
ぼんなう
)
の
犬
(
いぬ
)
の
尻尾
(
しつぽ
)
、しまつたりと
飛
(
と
)
び
退
(
の
)
きて
畜生
(
ちくしやう
)
めとはまこと
踏
(
ふ
)
みつけの
詞
(
ことば
)
なり、
我
(
わ
)
が
物
(
もの
)
なれば
重
(
おも
)
からぬ
傘
(
かさ
)
の
白
(
しら
)
ゆき
往來
(
ゆきかひ
)
も
多
(
おほ
)
くはあらぬ
片側町
(
かたかはまち
)
の
薄
(
うす
)
ぐらきに
悄然
(
しよんぼり
)
とせし
提燈
(
ちやうちん
)
の
影
(
かげ
)
かぜに
瞬
(
またゝ
)
くも
心細
(
こゝろぼそ
)
げなる
一輛
(
いちりやう
)
の
車
(
くるま
)
あり、
齒代
(
はだい
)
の
安
(
やす
)
さ
顯
(
あら
)
はれて
剥
(
は
)
げたる
塗
(
ぬ
)
り
破
(
やぶ
)
れし
母衣
(
ほろ
)
、
夜目
(
よめ
)
なればこそ
未
(
ま
)
だしもなれ
晝
(
ひる
)
はづかしき
古毛布
(
ふるげつと
)
に
乘客
(
のりて
)
の
品
(
しな
)
も
嘸
(
さぞ
)
ぞと
知
(
し
)
られて
多
(
おほ
)
くは
取
(
と
)
れぬ
痩
(
やせ
)
せ
田
(
だ
)
作
(
づく
)
り
米
(
こめ
)
の
代
(
しろ
)
ほど
有
(
あ
)
りや
無
(
な
)
しや
九尺二間
(
くしやくにけん
)
の
煙
(
けぶり
)
の
綱
(
つな
)
あはれ
手中
(
しゆちゆう
)
にかゝる
此人
(
このひと
)
腕力
(
ちから
)
おぼつかなき
細作
(
ほそづく
)
りに
車夫
(
しやふ
)
めかぬ
人柄
(
ひとがら
)
華奢
(
きやしや
)
といふて
賞
(
ほ
)
めもせられぬ
力役
(
りきえき
)
社會
(
しやくわい
)
に
生
(
お
)
ひ
立
(
た
)
つた
身
(
み
)
とは
請取
(
うけと
)
れず
履歴
(
りれき
)
は
如何
(
いか
)
に
聞
(
き
)
きたしと
問
(
と
)
ふ
人
(
ひと
)
なければ
我
(
わ
)
れと
唇
(
くちびる
)
開
(
ひら
)
きもならず、アヽと
出
(
で
)
る
溜息
(
ためいき
)
を
噛
(
かみ
)
しめる
齒
(
は
)
の
根
(
ね
)
寒
(
さぶ
)
さにふるひて
打仰
(
うちあふ
)
ぐ
面
(
おもて
)
を
見
(
み
)
れば
扨
(
さて
)
も
美男子
(
びなんし
)
色
(
いろ
)
こそは
黒
(
くろ
)
みたれ
眉目
(
びもく
)
やさしく
口元
(
くちもと
)
柔和
(
にゆうわ
)
に
歳
(
とし
)
は
漸
(
やうや
)
く
二十
(
はたち
)
か
一
(
いち
)
か
繼々
(
つぎ〳〵
)
の
筒袖
(
つゝそで
)
着物
(
ぎもの
)
糸織
(
いとおり
)
ぞろへに
改
(
あらた
)
めて
帶
(
おび
)
に
卷
(
ま
)
く
金鎖
(
きんぐさ
)
りきらびやかの
姿
(
なり
)
させて
見
(
み
)
たし
流行
(
りうかう
)
の
花形俳優
(
はながたやくしや
)
何
(
なん
)
として
及
(
およ
)
びもないこと
大家
(
たいけ
)
の
若旦那
(
わかだんな
)
それ
至當
(
したう
)
の
役
(
やく
)
なるべし、さりとては
是
(
こ
)
れ
程
(
ほど
)
の
人品
(
じんぴん
)
備
(
そな
)
へながら
身
(
み
)
に
覺
(
おぼ
)
えた
藝
(
げい
)
は
無
(
な
)
きか
取上
(
とりあ
)
げて
用
(
もち
)
ひる
人
(
ひと
)
は
無
(
な
)
きか
憐
(
あは
)
れのことやとは
目
(
め
)
の
前
(
まへ
)
の
感
(
かん
)
じなり
心情
(
しんじやう
)
さら〳〵
知
(
し
)
れたものならず
美
(
うつ
)
くしき
花
(
はな
)
に
刺
(
とげ
)
もあり
柔和
(
にゆうわ
)
の
面
(
おもて
)
に
案外
(
あんぐわい
)
の
所爲
(
しよゐ
)
なきにもあらじ
恐
(
おそ
)
ろしと
思
(
おも
)
へばそんなもの、
贔負目
(
ひいきめ
)
には
雪中
(
せつちゆう
)
の
梅
(
うめ
)
春待
(
はるま
)
つまの
身過
(
みす
)
ぎ
世過
(
よす
)
ぎ
小節
(
せうせつ
)
に
關
(
かゝ
)
はらぬが
大勇
(
だいゆう
)
なり
辻待
(
つじまち
)
の
暇
(
いとま
)
に
原書
(
げんしよ
)
繙
(
ひもと
)
いて
居
(
ゐ
)
さうなものと
色眼鏡
(
いろめがね
)
かけて
見
(
み
)
る
世上
(
せじやう
)
の
物
(
もの
)
映
(
うつ
)
るは
自己
(
おのれ
)
が
眼鏡
(
めがね
)
がらなり、
夜
(
よ
)
はまだ
更
(
ふ
)
けねど
降
(
ふり
)
しきる
雪
(
ゆき
)
に
人足
(
ひとあし
)
大方
(
おほかた
)
絶々
(
たえ〴〵
)
になりて
戸
(
と
)
を
下
(
おろ
)
す
商家
(
しやうか
)
こゝかしこ
遠
(
とほ
)
く
引
(
ひ
)
く
按摩
(
あんま
)
の
聲
(
こゑ
)
に
近
(
ちか
)
く
交
(
まじ
)
る
犬
(
いぬ
)
の
子
(
こ
)
の
叫
(
さけ
)
びそれすらも
淋
(
さび
)
しきを
路傍
(
みちばた
)
の
柳
(
やなぎ
)
にさつと
吹
(
ふ
)
く
風
(
かぜ
)
になよ〳〵と
靡
(
なび
)
いて
散
(
ち
)
るは
粉雪
(
こゆき
)
、
物思
(
ものおも
)
ひ
顏
(
がほ
)
の
若者
(
わかもの
)
が
襟
(
えり
)
のあたり
冷
(
ひ
)
いやりとしてハツと
振拂
(
ふりはら
)
へば
半面
(
はんめん
)
を
射
(
ゐ
)
る
瓦斯燈
(
がすとう
)
の
光
(
ひかり
)
蒼白
(
あをじろ
)
し、
行
(
ゆ
)
く
人
(
ひと
)
はなし
乘
(
の
)
る
人
(
ひと
)
は
猶更
(
なほさら
)
なからんを
何
(
なに
)
を
待
(
ま
)
つとか
馬鹿
(
ばか
)
らしさよと
他目
(
よそめ
)
には
見
(
み
)
ゆるゐものからまだ
立去
(
たちさ
)
りもせず
前後
(
ぜんご
)
に
目
(
め
)
を
配
(
くば
)
るは
人待
(
ひとま
)
つ
心
(
こゝろ
)
の
絶
(
た
)
えぬなるべし、
凍
(
こほ
)
る
手先
(
てさき
)
を
提燈
(
ちやうちん
)
の
火
(
ひ
)
に
暖
(
あたゝ
)
めてホツと
一息
(
ひといき
)
力
(
ちから
)
なく
四邊
(
あたり
)
を
見廻
(
みまは
)
し
又
(
また
)
一息
(
ひといき
)
此處
(
こゝ
)
に
車
(
くるま
)
を
下
(
おろ
)
してより
三度目
(
さんどめ
)
に
聞
(
き
)
く
時
(
とき
)
の
鐘
(
かね
)
、
今
(
いま
)
はと
決心
(
けつしん
)
の
臍
(
ほぞ
)
固
(
かた
)
まりけんツト
立上
(
たちあが
)
りしが
又
(
また
)
懷中
(
ふところ
)
に
手
(
て
)
をさし
入
(
い
)
れて
一思案
(
ひとしあん
)
アヽ
困
(
こま
)
つたと
我知
(
われし
)
らず
歎息
(
たんそく
)
の
詞
(
ことば
)
唇
(
くちびる
)
をもれて
其儘
(
そのまゝ
)
に
身
(
み
)
はもとの
通
(
とほ
)
り
舌打
(
したうち
)
の
音
(
おと
)
續
(
つゞ
)
けて
聞
(
きこ
)
えぬ、
雪
(
ゆき
)
はいよ〳〵
降
(
ふ
)
り
積
(
つも
)
るとも
歇
(
や
)
むべき
氣色
(
けしき
)
少
(
すこ
)
しも
見
(
み
)
えず
往來
(
ゆきゝ
)
は
到底
(
とても
)
なきことかと
落膽
(
らくたん
)
の
耳
(
みゝ
)
に
嬉
(
うれ
)
しや
足音
(
あしおと
)
辱
(
かたじけな
)
しと
顧
(
かへり
)
みれば
角燈
(
かくとう
)
の
光
(
ひか
)
り
雪
(
ゆき
)
に
映
(
えい
)
じ
巡囘
(
じゆんくわい
)
の
査公
(
さこう
)
怪
(
あや
)
しげに
目
(
め
)
を
注
(
そゝ
)
いで
行
(
ゆ
)
き
過
(
す
)
ぎられし
後
(
あと
)
に
又
(
また
)
人音
(
ひとおと
)
この
度
(
たび
)
こそはと
見
(
み
)
れげ
情
(
なさけ
)
なし
三軒許
(
さんげんばかり
)
手前
(
てまへ
)
なる
家
(
いへ
)
に
入
(
い
)
りぬ、
流石
(
さすが
)
に
氣根
(
きこん
)
も
竭果
(
つきは
)
てけん
茫然
(
ばうぜん
)
として
立
(
たち
)
つくす
折
(
をり
)
しも
最少
(
もすこ
)
し
參
(
まゐ
)
ると
御座
(
ござ
)
いませうと
話
(
はな
)
し
聲
(
ごゑ
)
して
黒
(
くろ
)
き
影
(
かげ
)
目
(
め
)
に
映
(
うつ
)
りぬ、
天
(
てん
)
の
與
(
あた
)
へ
人
(
ひと
)
こそ
來
(
き
)
つれ
外
(
はづ
)
すまじと
勇
(
いさ
)
み
立
(
たつ
)
て
進
(
すゝ
)
み
寄
(
よ
)
ればはて
何
(
なん
)
とせん、
過
(
すぎ
)
たるは
及
(
およ
)
ばざる
二人連
(
ふたりづれ
)
とは
生憎
(
あやにく
)
や、
車
(
くるま
)
は
一人乘
(
いちにんの
)
りなるを。
第七囘
心
(
こゝろ
)
苛
(
い
)
られのさるゝものは
散曾
(
さんくわい
)
過
(
す
)
ぎて
來
(
こ
)
ぬ
迎
(
むか
)
ひの
車
(
くるま
)
と
數
(
かぞ
)
へ
入
(
い
)
れたし、
待
(
ま
)
たせて
置
(
お
)
きても
宜
(
よ
)
かりしを
供待
(
ともまち
)
ちの
雜沓
(
ざつたふ
)
遠慮
(
ゑんりよ
)
して
時間
(
じかん
)
早
(
はや
)
めに
吩咐
(
いひつけ
)
て
還
(
かへ
)
せしもの
何
(
なん
)
としての
相違
(
さうゐ
)
ぞやよもや
忘
(
わす
)
れて
來
(
こ
)
ぬにはあらじ
家
(
うち
)
にても
其通
(
そのとほ
)
り
何時
(
いつ
)
まで
迎
(
むか
)
ひ
出
(
だ
)
さずには
置
(
お
)
かれまじ、
例
(
れい
)
の
酒癖
(
しゆへき
)
何處
(
どこ
)
の
店
(
みせ
)
にか
醉
(
ゑ
)
ひ
倒
(
たふ
)
れて
寢入
(
ねい
)
りても
仕舞
(
しまひ
)
しものかそれなればいよいよ
困
(
こま
)
りしことなり
家
(
うち
)
にても
嘸
(
さぞ
)
お
案
(
あん
)
じ
此家
(
こゝ
)
へも
亦
(
また
)
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
なり
何
(
なに
)
とせんと
思
(
おも
)
ふ
程
(
ほど
)
より
積
(
つも
)
る
雪
(
ゆき
)
いとゞ
心細
(
こゝろぼそ
)
く
燭涙
(
しよくるゐ
)
ながるゝ
表
(
おもて
)
二階
(
にかい
)
に
一人
(
ひとり
)
取殘
(
とりのこ
)
されし
新田
(
につた
)
のお
高
(
たか
)
、げにも
浮世
(
うきよ
)
か
音曲
(
おんぎよく
)
の
師匠
(
ししやう
)
の
許
(
もと
)
に
然
(
しか
)
るべき
曾
(
くわい
)
の
催
(
もよほ
)
し
斷
(
ことわ
)
りいはれぬ
筋
(
すぢ
)
ならねどつらきものは
義理
(
ぎり
)
の
柵
(
しがらみ
)
是非
(
ぜひ
)
と
待
(
ま
)
たれて
此日
(
このひ
)
の
午後
(
ひるすぎ
)
より、
飾
(
かざ
)
る
錦
(
にしき
)
の
裏
(
うら
)
はと
問
(
と
)
はゞ
涙
(
なみだ
)
ばかりぞ
薄化粧
(
うすげしやう
)
に
深
(
ふか
)
き
苦勞
(
くらう
)
の
色
(
いろ
)
を
隱
(
かく
)
して
友
(
とも
)
が
無邪氣
(
むじやき
)
の
物語
(
ものがた
)
りを
笑
(
わら
)
ふて
聞
(
き
)
く
胸
(
むな
)
ぐるしさ
思
(
おも
)
ひに
痩
(
やせ
)
し
手首
(
たなくび
)
に
取
(
と
)
りすがりてお
羨
(
うらや
)
ましやお
高
(
たか
)
さまのお
手
(
て
)
の
細
(
ほそ
)
さよお
酢
(
す
)
めし
上
(
あが
)
りしか
御傳授
(
ごでんじゆ
)
聞
(
き
)
きたしと
眞面目
(
まじめ
)
に
問
(
と
)
ふ
人
(
ひと
)
可笑
(
をか
)
しくはなくて
其心根
(
そのこゝろね
)
羨
(
うらや
)
ましくなりぬ
其
(
そ
)
の
人々
(
ひと〴〵
)
歸
(
かへ
)
り
果
(
は
)
てゝより
一時間許
(
いちじかんばかり
)
待
(
ま
)
つには
長
(
なが
)
き
時間
(
じかん
)
ながら
車
(
くるま
)
の
音
(
おと
)
門
(
かど
)
にも
聞
(
きこ
)
えず
捨
(
すて
)
置
(
お
)
かれなば
未
(
ま
)
だしもなれどお
茶
(
ちや
)
參
(
まゐ
)
らせよお
菓子
(
くわし
)
あがれ
夜
(
よ
)
はまだそれほど
深
(
ふか
)
くもなしお
迎
(
むか
)
ひも
今
(
いま
)
參
(
まゐ
)
らん
御
(
ご
)
ゆるりなされと
好遇
(
もてな
)
さるゝ
程
(
ほど
)
猶更
(
なほさら
)
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
さ
堪
(
た
)
へ
難
(
がた
)
くなりて
何時
(
いつ
)
まで
待
(
ま
)
ちても
果
(
は
)
て
見
(
み
)
えませねば
憚
(
はゞか
)
りながら
車
(
くるま
)
一
(
ひと
)
つ
願
(
ねが
)
ひたしと
婢女
(
はしため
)
に
周旋
(
しうせん
)
のほど
頼
(
たの
)
み
入
(
い
)
ればそれは
何
(
なん
)
の
造作
(
ざうさ
)
もなきことなれどつひ
行
(
ゆ
)
き
違
(
ちが
)
ひにお
迎
(
むか
)
ひの
參
(
まゐ
)
るまじとも
申
(
まを
)
されず
今少
(
いますこ
)
しお
待
(
まち
)
なされてはと
澁々
(
しぶ〳〵
)
にいふは
車
(
くるま
)
もとめに
行
(
ゆ
)
くがつらさになるべし、それも
道理
(
だうり
)
雪
(
ゆき
)
の
夜道
(
よみち
)
押
(
お
)
してとは
言
(
い
)
ひかねて
心
(
こゝろ
)
ならねど
又
(
また
)
暫時
(
しばらく
)
二度目
(
にどめ
)
に
入
(
い
)
れし
茶
(
ちや
)
の
香
(
かを
)
り
薄
(
うす
)
らぐ
頃
(
ころ
)
になりても
音
(
おと
)
もなければ
今
(
いま
)
は
來
(
こ
)
ぬものか
來
(
く
)
るものか
當
(
あ
)
てにもならず
當
(
あ
)
てにして
何時
(
いつ
)
といふ
際限
(
さいげん
)
もなし
行
(
ゆ
)
き
違
(
ちが
)
ひになるともそれはよし
兎
(
と
)
に
角
(
かく
)
車
(
くるま
)
願
(
ねが
)
ひたしと
押
(
おし
)
かへして
頼
(
たの
)
み
入
(
い
)
るゝに
師匠
(
しゝやう
)
實
(
げ
)
にもと
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
がりて
然
(
さ
)
らばお
止
(
と
)
め
申
(
まを
)
すまじとてもお
歸
(
かへ
)
りなさるゝに
夜
(
よ
)
が
更
(
ふ
)
けてはよろしからず
車
(
くるま
)
大急
(
おほいそ
)
ぎに
申
(
まを
)
して
來
(
こ
)
よと
主
(
しゆ
)
の
命令
(
いひつけ
)
には
詮方
(
せんかた
)
なくてや
恨
(
うら
)
めしげながら
承
(
うけたま
)
はりて
梯子
(
はしご
)
あわたゞしく
馳
(
は
)
せ
下
(
お
)
りしが
水口
(
みづぐち
)
を
出
(
い
)
づる
大黒傘
(
だいこくがさ
)
の
上
(
うへ
)
に
雪
(
ゆき
)
つもるといふ
間
(
ま
)
もなきばかり
速
(
すみや
)
かに
立歸
(
たちかへ
)
りて
出入
(
でいり
)
の
車宿
(
くるまやど
)
名殘
(
なごり
)
なく
出拂
(
ではら
)
ひて
挽子
(
ひきこ
)
一人
(
ひとり
)
も
居
(
をり
)
ませねばお
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
さまながらと
女房
(
にようばう
)
が
口上
(
こうじやう
)
其
(
その
)
まゝの
返
(
かへ
)
り
事
(
ごと
)
に
然
(
さ
)
らば
何
(
なに
)
とせんお
宅
(
たく
)
にお
案
(
あん
)
じはあるまじきに
明早朝
(
みやうさうてう
)
の
御歸館
(
ごきくわん
)
となされよなど
親切
(
しんせつ
)
に
止
(
と
)
められるれど
左樣
(
さう
)
もならず、
雪
(
ゆき
)
こそふれ
夜
(
よ
)
はまだそれほどに
御座
(
ござ
)
りませねばと
歸
(
かへ
)
り
支度
(
じたく
)
とゝのへるにそれならば
誰
(
たれ
)
ぞ
供
(
とも
)
にお
連
(
つれ
)
なされお
歩行
(
ひろひ
)
御迷惑
(
ごめいわく
)
ながら
此邊
(
このほとり
)
には
車
(
くるま
)
鳥渡
(
ちよつと
)
むづかしからん
大通
(
おほどほ
)
り
近
(
ちか
)
くまで
御難澁
(
ごなんじふ
)
なるべし
家内
(
うち
)
にてすら
火桶
(
ひをけ
)
少
(
すこ
)
しも
放
(
はな
)
されぬに
夜氣
(
やき
)
に
當
(
あた
)
つてお
風
(
かぜ
)
めすな
失禮
(
しつれい
)
も
何
(
なに
)
もなしこゝより
直
(
すぐ
)
にお
頭巾
(
づきん
)
召
(
め
)
せ
誰
(
た
)
れぞお
肩掛
(
かたかけ
)
お
着
(
き
)
せ
申
(
まを
)
せと
總掛
(
そうがゝ
)
りに
支度
(
したく
)
手傳
(
てつだ
)
はれて
憚
(
はゞか
)
りさまといひも
敢
(
あへ
)
ず
更
(
ふ
)
けぬ
内
(
うち
)
にお
急
(
いそ
)
ぎなされなまなかお
止
(
と
)
め
申
(
まを
)
さずば
是
(
こ
)
れ
程
(
ほど
)
に
積
(
つも
)
るまいものお
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
のこといたしたりお
詫
(
わび
)
はいづれと
送
(
おく
)
り
出
(
だ
)
す
門口
(
かどぐち
)
犬
(
いぬ
)
の
子
(
こ
)
の
聲
(
こゑ
)
恐
(
おそ
)
ろしけれど
送
(
おく
)
りの
女中
(
ぢよちゆう
)
が
骨
(
ほね
)
たくましきに
心強
(
こゝろづよ
)
くて
軒下傳
(
のきしたづた
)
ひ
三町
(
さんちやう
)
ばかり
御覽
(
ごらん
)
なされませあの
提灯
(
ちやうちん
)
は
屹度
(
きつと
)
車
(
くるま
)
今少
(
いますこ
)
しの
御辛防
(
ごしんばう
)
と
引
(
ひ
)
く
手
(
て
)
も
引
(
ひ
)
かるゝ
手
(
て
)
も
氷
(
こほ
)
りつくやうなり
嬉
(
うれ
)
しやと
近
(
ちか
)
づいて
見
(
み
)
ればさても
破
(
やぶ
)
れ
車
(
ぐるま
)
モシと
聲
(
こゑ
)
はかけしが
後退
(
あとじ
)
さりする
送
(
おく
)
りの
女中
(
ぢよちゆう
)
ソツとお
高
(
たか
)
の
袖引
(
そでひ
)
きてもう
少
(
すこ
)
し
參
(
まゐ
)
りませうあまりといへばと
跡
(
あと
)
は
小聲
(
こごゑ
)
なり
折
(
をり
)
しも
降
(
ふり
)
しきる
雪
(
ゆき
)
にお
高
(
たか
)
洋傘
(
かうもり
)
を
傾
(
かたむ
)
けて
見返
(
みかへ
)
るともなく
見返
(
みかへ
)
る
途端
(
とたん
)
目
(
め
)
に
映
(
うつ
)
るは
何物
(
なにもの
)
蓬頭亂面
(
ほうとうらんめん
)
の
青年
(
せいねん
)
車夫
(
しやふ
)
なりお
高
(
たか
)
夜風
(
よかぜ
)
の
身
(
み
)
にしみてかぶる〳〵と
震
(
ふる
)
へて
立止
(
たちどま
)
りつゝ
此雪
(
このゆき
)
にては
先
(
さき
)
へ
行
(
ゆ
)
きても
有
(
あ
)
るか
無
(
な
)
きか
知
(
し
)
れませねば
何
(
なに
)
にてもよし
此
(
こ
)
の
車
(
くるま
)
お
頼
(
たの
)
みなされてよと
俄
(
にはか
)
に
足元
(
あしもと
)
重
(
おも
)
げになりぬあの
此樣
(
こん
)
な
車
(
くるま
)
にお
乘
(
め
)
しなさるとかあの
此樣
(
こん
)
な
車
(
くるま
)
にと
二度
(
にど
)
三度
(
さんど
)
お
高
(
たか
)
輕
(
かろ
)
く
點頭
(
うなづ
)
きて
詞
(
ことば
)
なし
我
(
わ
)
れも
雪中
(
せつちゆう
)
の
隨行
(
ずゐかう
)
難儀
(
なんぎ
)
の
折
(
をり
)
とて
求
(
もと
)
むるまゝに
言附
(
いひつ
)
くる
那
(
くだん
)
の
車
(
くるま
)
さりとては
不似合
(
ふにあひ
)
なり
錦
(
にしき
)
の
上着
(
うはぎ
)
につゞれの
袴
(
はかま
)
つぎ
合
(
あは
)
したやうなと
心
(
こゝろ
)
をかしく
挽出
(
ひきいだ
)
すを
見送
(
みおく
)
つて
御機嫌
(
ごきげん
)
よう
車夫
(
くるまや
)
さんよくお
氣
(
き
)
をつけ
申
(
まを
)
して。
第八囘
馳
(
は
)
せ
出
(
いだ
)
す
車
(
くるま
)
一散
(
いつさん
)
、さりながら
降
(
ふ
)
り
積
(
つも
)
る
雪
(
ゆき
)
車輪
(
しやりん
)
にねばりてか
車上
(
しやじやう
)
の
動搖
(
どうえう
)
する
割
(
わり
)
に
合
(
あは
)
せて
道
(
みち
)
のはかは
行
(
ゆ
)
かず
萬世橋
(
よろづよばし
)
に
來
(
き
)
し
頃
(
ころ
)
には
鐵道馬車
(
てつだうばしや
)
の
喇叭
(
らつぱ
)
の
聲
(
こゑ
)
はやく
絶
(
た
)
えて
京屋
(
きやうや
)
が
時計
(
とけい
)
の
十時
(
じふじ
)
を
報
(
はう
)
ずる
響
(
ひゞき
)
空
(
そら
)
に
高
(
たか
)
し、
萬世橋
(
よろづよばし
)
へ
參
(
まゐ
)
りましたがお
宅
(
たく
)
は
何方
(
どちら
)
と
軾
(
かぢ
)
を
控
(
ひか
)
へて
佇
(
たゝず
)
む
車夫
(
しやふ
)
、
車上
(
しやじやう
)
の
人
(
ひと
)
は
聲
(
こゑ
)
ひくゝ
鍋町
(
なべちやう
)
までと
只
(
たゞ
)
一言
(
ひとこと
)
、
車夫
(
しやふ
)
は
聞
(
き
)
きも
敢
(
あ
)
へず
力
(
ちから
)
を
籠
(
こ
)
めて
今
(
いま
)
一勢
(
いつせい
)
と
挽
(
ひ
)
き
出
(
いだ
)
しぬ、
皚々
(
がい〳〵
)
たる
雪夜
(
せつや
)
の
景
(
けい
)
に
異
(
かは
)
りはなけれど
大通
(
おほどほ
)
りは
流石
(
さすが
)
に
人足
(
ひとあし
)
足
(
た
)
えず
[#「
足
(
た
)
えず」はママ]
雪
(
ゆき
)
に
照
(
て
)
り
合
(
あ
)
ふ
瓦斯燈
(
がすとう
)
の
光
(
ひか
)
り
皎々
(
かう〳〵
)
として、
肌
(
はだへ
)
をさす
寒氣
(
かんき
)
の
堪
(
た
)
へがたければにや、
車上
(
しやじやう
)
の
人
(
ひと
)
は
肩掛
(
かたかけ
)
深
(
ふか
)
く
引
(
ひき
)
あげて
人目
(
ひとめ
)
に
見
(
み
)
ゆるは
頭巾
(
づきん
)
の
色
(
いろ
)
と
肩掛
(
かたかけ
)
の
派手模樣
(
はでもやう
)
のみ、
車
(
くるま
)
は
如法
(
によほふ
)
の
破
(
や
)
れ
車
(
ぐるま
)
なり
母衣
(
ほろ
)
は
雪
(
ゆき
)
を
防
(
ふせ
)
ぐに
足
(
た
)
らねば、
洋傘
(
かうもり
)
に
辛
(
から
)
く
前面
(
ぜんめん
)
を
掩
(
おほ
)
ひて
行
(
ゆ
)
くこと
幾町
(
いくちやう
)
、
鍋町
(
なべちやう
)
は
裏
(
うら
)
の
方
(
はう
)
で
御座
(
ござ
)
いますかと
見返
(
みかへ
)
れば
否
(
いな
)
鍋町
(
なべちやう
)
ではなし、
本銀町
(
ほんしろかねちやう
)
なりといふ、
然
(
さ
)
らばとばかり
馳
(
は
)
せ
出
(
いだ
)
す
又
(
また
)
一町
(
いつちやう
)
、
曲
(
まが
)
りませうかと
問
(
と
)
へば、
眞直
(
まつすぐ
)
にと
答
(
こた
)
へて
此處
(
こゝ
)
にも
車
(
くるま
)
を
止
(
と
)
めんとはせず
日本橋迄
(
にほんばしまで
)
行
(
ゆ
)
きたしといふに
何
(
なに
)
かは
知
(
し
)
らねど
詞
(
ことば
)
の
通
(
とほ
)
り、
河岸
(
かし
)
につきて
曲
(
まが
)
りてくれよ、とは
何方
(
いづかた
)
右
(
みぎ
)
か
左
(
ひだり
)
か、
左
(
ひだり
)
へいや
右
(
みぎ
)
の
方
(
かた
)
へと
又
(
また
)
一横町
(
ひとよこちやう
)
、お
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
なれど
此處
(
こゝ
)
を
折
(
を
)
れて
眞直
(
まつすぐ
)
に
行
(
ゆき
)
て
欲
(
ほ
)
しゝと
小路
(
こみち
)
に
入
(
い
)
りぬ、
何
(
なん
)
の
事
(
こと
)
ぞ
此路
(
このみち
)
は
突當
(
つきあた
)
り、
外
(
ほか
)
に
曲
(
まが
)
らん
路
(
みち
)
も
見
(
み
)
えねば、モシお
宅
(
たく
)
はどの
邊
(
へん
)
でと
覺束
(
おぼつか
)
なげに
問
(
とは
)
んとする
時
(
とき
)
、
何
(
なん
)
とせん
道
(
みち
)
を
間違
(
まちが
)
へたり
引返
(
ひきかへ
)
してと
復
(
また
)
跡戻
(
あともど
)
り、
大路
(
おほぢ
)
に
出
(
いづ
)
れば
小路
(
こうぢ
)
に
入
(
い
)
らせ
小路
(
こうぢ
)
を
縫
(
ぬひ
)
ては
大路
(
おほぢ
)
に
出
(
い
)
で
走
(
そう
)
幾走
(
いくそう
)
、
轉
(
てん
)
幾轉
(
いくてん
)
、
蹴
(
け
)
立
(
たつ
)
る
雪
(
ゆき
)
に
轍
(
わだち
)
のあと
長
(
なが
)
く
引
(
ひき
)
てめぐり
出
(
いづ
)
れば
又
(
また
)
以前
(
いぜん
)
の
道
(
みち
)
なり、
薄暗
(
うすぐら
)
き
町
(
まち
)
の
片角
(
かたかど
)
に
車夫
(
しやふ
)
は
茫然
(
ばうぜん
)
と
車
(
くるま
)
を
控
(
ひか
)
へて、
仰
(
おほせ
)
の
通
(
とほ
)
りに
參
(
まゐ
)
りましたら
又
(
また
)
以前
(
いぜん
)
の
道
(
みち
)
に
出
(
で
)
ましたが
若
(
も
)
しやお
間違
(
まちが
)
ひでは
御座
(
ござ
)
いますまいか
此角
(
これ
)
を
曲
(
まが
)
ると
先程
(
さきほど
)
の
糸屋
(
いとや
)
の
前
(
まへ
)
眞直
(
まつすぐ
)
に
行
(
ゆ
)
けば
大通
(
おほどほ
)
りへ
出
(
で
)
て
仕舞
(
しま
)
ひますたしか
裏通
(
うらどほ
)
りと
仰
(
おほ
)
せで
御座
(
ござ
)
いましたが
町名
(
ちやうめい
)
は
何
(
なん
)
と
申
(
まを
)
しますか
夫次第
(
それしだい
)
大抵
(
たいてい
)
は
分
(
わか
)
りませうと
問掛
(
とひか
)
けたり、
車上
(
しやじやう
)
の
人
(
ひと
)
は
言葉
(
ことば
)
少
(
すくな
)
に
兎
(
と
)
に
角
(
かく
)
曲
(
まが
)
つて
見
(
み
)
て
下
(
くだ
)
され、たしか
此道
(
このみち
)
と
思
(
おも
)
ふやうなりとて
梶棒
(
かぢぼう
)
を
向
(
む
)
きかへさせぬ、
御覽
(
ごらん
)
なされまし
矢張
(
やは
)
りこゝは
元
(
もと
)
の
道
(
みち
)
これで
宜
(
よろ
)
しう
御座
(
ござ
)
いますかと
訝
(
いぶか
)
しみて
問
(
と
)
ふ
車夫
(
しやふ
)
の
言葉
(
ことば
)
に、ほんにこれは
違
(
ちが
)
ひたりもう
一
(
ひと
)
つ
跡
(
あと
)
の
横町
(
よこちやう
)
がそれなりしかも
知
(
し
)
れずと
曖昧
(
あいまい
)
の
答
(
こた
)
へ
方
(
かた
)
、さればといふて
挽
(
ひ
)
き
返
(
かへ
)
す
一横町
(
ひとよこちやう
)
こゝにもあらず
今
(
いま
)
少
(
すこ
)
し
先
(
さき
)
へといふ
提燈
(
ちやうちん
)
搖
(
ゆ
)
り
消
(
け
)
して
商家
(
しやうか
)
に
火
(
ひ
)
を
借
(
か
)
りしも
二度
(
にど
)
三度
(
さんど
)
車夫
(
しやふ
)
亦
(
また
)
道
(
みち
)
に
委
(
くは
)
しからずやあらん
未
(
いま
)
だ
此職
(
このしよく
)
に
馴
(
な
)
れざるにやあらん
同
(
おな
)
じ
道
(
みち
)
行返
(
ゆきかへ
)
りて
困
(
かう
)
じ
果
(
は
)
てもしたらんに
強
(
つよ
)
くいひても
辭
(
じ
)
しもせず
示
(
しめ
)
すが
儘
(
まゝ
)
の
道
(
みち
)
を
取
(
と
)
りぬ、
夜
(
よ
)
は
漸々
(
やう〳〵
)
に
深
(
ふか
)
くならんとす
人影
(
ひとかげ
)
ちらほらと
稀
(
まれ
)
になるを
雪
(
ゆき
)
はこゝ
一段
(
いちだん
)
と
勢
(
いきほひ
)
をまして
降
(
ふ
)
りに
降
(
ふ
)
れど
隱
(
かく
)
れぬものは
鍋燒饂飩
(
なべやきうどん
)
の
細
(
ほそ
)
く
哀
(
あは
)
れなる
聲
(
こゑ
)
戸
(
と
)
を
下
(
おろ
)
す
商家
(
しやうか
)
の
荒
(
あら
)
く
高
(
たか
)
き
音
(
おと
)
、さては
按摩
(
あんま
)
の
笛
(
ふえ
)
犬
(
いぬ
)
の
聲
(
こゑ
)
小路
(
こうぢ
)
一
(
ひと
)
つ
隔
(
へだ
)
てゝ
遠
(
とほ
)
く
聞
(
きこ
)
ゆるが
猶更
(
なほさら
)
に
淋
(
さび
)
し、さても
怪
(
あや
)
しや
車上
(
しやじやう
)
の
人
(
ひと
)
萬世橋
(
よろづよばし
)
にもあらず
鍋町
(
なべちやう
)
にもあらず
本銀町
(
ほんしろかねちやう
)
も
過
(
す
)
ぎたり
日本橋
(
にほんばし
)
にも
止
(
とゞ
)
まらず
大路
(
おほぢ
)
小路
(
こうぢ
)
幾通
(
いくとほ
)
りそも
何方
(
いづかた
)
に
行
(
ゆ
)
かんとするにか
洋行
(
やうかう
)
して
歸朝
(
きてう
)
の
後
(
のち
)
に
妻
(
つま
)
を
忘
(
わす
)
るゝ
人
(
ひと
)
ありとか
聞
(
き
)
きしがこれは
又
(
また
)
いかに
歸
(
かへ
)
るべき
家
(
いへ
)
を
忘
(
わす
)
れたるか
歳
(
とし
)
もまだ
若
(
わか
)
かるを
笑止
(
せうし
)
といはゞ
笑止
(
せうし
)
思
(
おも
)
へば
扨
(
さて
)
も
訝
(
いぶか
)
しき
事
(
こと
)
なり、
今度
(
こたび
)
は
京橋
(
きやうばし
)
へと
急
(
いそ
)
がせぬ、
裏道傳
(
うらみちづた
)
ひ
二町
(
にちやう
)
三町
(
さんちやう
)
町名
(
ちやうめい
)
は
何
(
なに
)
と
知
(
し
)
れねど
少
(
すこ
)
し
引
(
ひ
)
き
入
(
い
)
りし
二階建
(
にかいだて
)
に
掛行燈
(
かけあんどん
)
の
光
(
ひか
)
り
朧々
(
ろう〳〵
)
として
主
(
ぬし
)
はありやなしや
入口
(
いりぐち
)
に
並
(
なら
)
べし
下駄
(
げた
)
二三足
(
にさんぞく
)
料理番
(
れうりばん
)
が
欠伸
(
あくび
)
催
(
もよ
)
すべき
見世
(
みせ
)
がゝりの
割烹店
(
かつぽうてん
)
あり、
車上
(
しやじやう
)
の
人
(
ひと
)
は
目早
(
めばや
)
く
認
(
みと
)
めて、オヽ
此處
(
こゝ
)
なり
此處
(
こゝ
)
へ
一寸
(
ちよつと
)
と
俄
(
にはか
)
の
指圖
(
さしづ
)
に
一聲
(
いつせい
)
勇
(
いさ
)
ましく
引入
(
ひきい
)
れる
車
(
くるま
)
門口
(
かどぐち
)
に
下
(
お
)
ろす
梶棒
(
かぢぼう
)
と
共
(
とも
)
にホツト
一息
(
ひといき
)
内
(
うち
)
には
女共
(
をんなども
)
が
口々
(
くち〴〵
)
に
入
(
い
)
らつしやいまし。
第九囘
勢
(
いきほ
)
ひよく
引入
(
ひきい
)
れしが
客
(
きやく
)
を
下
(
お
)
ろして
扨
(
さて
)
おもへば
恥
(
はづ
)
かしゝ、
記憶
(
きおく
)
に
存
(
のこ
)
る
店
(
みせ
)
がまへ
今
(
いま
)
の
我
(
わ
)
が
身
(
み
)
には
往昔
(
むかし
)
ながら
世
(
よ
)
の
人
(
ひと
)
は
未
(
ま
)
だ
昨日
(
きのふ
)
といふ
去年
(
きよねん
)
一昨年
(
をとゝし
)
、
同商中
(
どうしやうちゆう
)
の
組合曾議
(
くみあひくわいぎ
)
或
(
あるひ
)
は
何某
(
なにがし
)
の
懇親曾
(
こんしんくわい
)
に
登
(
のぼ
)
りなれし
梯子
(
はしご
)
なり、それと
知
(
し
)
れば
俄
(
にはか
)
に
肩
(
かた
)
すぼめられて
見
(
み
)
る
人
(
ひと
)
なければ
遽
(
あはたゞ
)
しく
片蔭
(
かたかげ
)
のある
薄暗
(
うすくら
)
がりに
車
(
くるま
)
も
我
(
われ
)
も
寄
(
よ
)
せて
憩
(
いこ
)
ひつ、
靜
(
しづ
)
かに
顧
(
かへり
)
みれば
是
(
こ
)
れも
笹原
(
さゝはら
)
走
(
はし
)
るたぐひ、
誰
(
た
)
が
目
(
め
)
に
覺
(
おぼ
)
えて
知
(
し
)
るものぞ
松澤
(
まつざは
)
の
若大將
(
わかたいしやう
)
と
稱
(
たゝ
)
へられて
席
(
せき
)
を
上座
(
かみくら
)
に
設
(
まう
)
けられし
身
(
み
)
が
我
(
わ
)
れすらみすぼらしき
此服裝
(
このなり
)
よしや
面
(
おもて
)
に
覺
(
おぼ
)
えが
有
(
あ
)
ればとて
他人
(
たにん
)
の
空肖
(
そらに
)
、それもあるならひなり
況
(
ま
)
してや
替
(
かは
)
りたる
雪
(
ゆき
)
と
墨
(
すみ
)
おろかなこと
雲
(
くも
)
と
泥
(
つち
)
ほど
懸隔
(
けんかく
)
のおびたゞしさ
如何
(
いか
)
に
有爲轉變
(
うゐてんぺん
)
の
世
(
よ
)
とはいへ
是
(
こ
)
れほどの
相違
(
さうゐ
)
誰
(
た
)
れが
何
(
なん
)
として
氣
(
き
)
のつくべき
心
(
こゝろ
)
の
鬼
(
おに
)
に
見知
(
みし
)
り
越
(
ご
)
しの
人目
(
ひとめ
)
厭
(
いと
)
はしく
態
(
わざ
)
と
横町
(
よこちやう
)
に
道
(
みち
)
を
避
(
さ
)
けて
見
(
み
)
られじとする
氣
(
き
)
あつかひも
他人
(
たにん
)
は
何
(
なん
)
の
感
(
かん
)
じもなく
摺
(
す
)
れ
違
(
ちが
)
つて
見合
(
みあ
)
はす
眼
(
まなこ
)
の
電光
(
いなづま
)
、ハツと
思
(
おも
)
ふは
我
(
わ
)
ればかり、
態
(
わざ
)
とつくるかまこと
見忘
(
みわす
)
れてか
知
(
し
)
らず
顏
(
がほ
)
に
過
(
す
)
ぎ
行
(
ゆ
)
かれて、
撫
(
な
)
で
下
(
お
)
ろす
胸
(
むね
)
にむら〳〵と
感
(
かん
)
じるはさても
人情
(
にんじやう
)
こそ
薄
(
うす
)
きものなれ
紙
(
かみ
)
といはゞ
吉
(
よし
)
の
紙
(
がみ
)
見
(
み
)
えすいたやうな
世
(
よ
)
の
中
(
なか
)
なり、
知
(
し
)
り
顏
(
がほ
)
して
欲
(
ほ
)
しきにもあらず
詞
(
ことば
)
かけられては
身
(
み
)
の
置場
(
おきば
)
もなけれどそれにも
何
(
なに
)
か
色
(
いろ
)
のあるもの、
物
(
もの
)
いはゞ
振切
(
ふりき
)
らんず
袖
(
そで
)
がまへ
嘲
(
あざけ
)
るやうな
尻目遣
(
しりめづか
)
ひ
口惜
(
くちを
)
しと
見
(
み
)
るも
心
(
こゝろ
)
の
僻
(
ひが
)
みか
召使
(
めしつか
)
ひの
者
(
もの
)
出入
(
でいり
)
のもの
指
(
ゆび
)
折
(
を
)
れば
少
(
すくな
)
からぬ
人數
(
にんず
)
ながら
誰
(
た
)
れ
一人
(
ひとり
)
として
我
(
わ
)
れ
相談
(
さうだん
)
の
相手
(
あひて
)
にと
名告
(
なのり
)
出
(
い
)
づるものなし、
富貴
(
ふうき
)
には
寄
(
よ
)
る
親類顏
(
しんるゐがほ
)
幾代先
(
いくだいさ
)
きの
誰樣
(
たれさま
)
に
何
(
なに
)
の
縁故
(
えんこ
)
ありとかなしとか
猫
(
ねこ
)
の
子
(
こ
)
の
貰
(
もら
)
ひ
主
(
ぬし
)
までが
實家
(
さと
)
あしらひのえせ
追從
(
つゐしよう
)
、
槌
(
つち
)
で
掃
(
は
)
く
庭石
(
にはいし
)
の
周旋
(
しゆうせん
)
を
手
(
て
)
はじめに
引
(
ひ
)
き
入
(
い
)
れる
工夫
(
くふう
)
算段
(
さんだん
)
はじいて
見
(
み
)
ねば
知
(
し
)
れぬものゝ
割
(
わ
)
りにも
合
(
あ
)
はぬ
品
(
しな
)
いくら
冠
(
かぶ
)
せて
上穗
(
うはほ
)
は
自己
(
おのれ
)
が
内懷中
(
うちぶところ
)
ぬく〳〵とせし
絹布
(
けんぷ
)
ぞろひは
誰
(
た
)
れ
故
(
ゆゑ
)
に
着
(
き
)
し
物
(
もの
)
とも
思
(
おも
)
はずお
庇護
(
かげ
)
に
建
(
た
)
ちましたと
空
(
そら
)
拜
(
をが
)
みせし
新築
(
しんちく
)
の
二階造
(
にかいづく
)
り
其
(
そ
)
の
詞
(
ことば
)
は
三年先
(
さんねんさき
)
の
阿房鳥
(
あはうどり
)
か、
今
(
いま
)
の
零落
(
れいらく
)
を
高見
(
たかみ
)
に
見下
(
みくだ
)
して
全體
(
ぜんたい
)
意氣地
(
いくぢ
)
が
無
(
な
)
さすぎると
言
(
い
)
ひしとか
酷
(
こく
)
と
思
(
おも
)
ふは
心
(
こゝろ
)
がらなり、
他人
(
たにん
)
が
聞
(
き
)
けば
適當
(
てきたう
)
の
評
(
ひやう
)
といはれやせん
別家
(
べつけ
)
も
同
(
おな
)
じき
新田
(
につた
)
にまで
計
(
はか
)
らるゝ
程
(
ほど
)
の
油斷
(
ゆだん
)
のありしは
家
(
いへ
)
の
運
(
うん
)
の
傾
(
かたぶ
)
く
時
(
とき
)
かさるにても
憎
(
にく
)
きは
新田
(
につた
)
の
娘
(
むすめ
)
なり、うつくしき
顏
(
かほ
)
に
似合
(
にあは
)
ぬは
心
(
こゝろ
)
小學校通
(
せうがくかうがよ
)
ひに
紫袱紗
(
むらさきふくさ
)
對
(
つゐ
)
にせし
頃
(
ころ
)
年上
(
としうへ
)
の
生徒
(
せいと
)
に
喧嘩
(
いさかひ
)
まけて
無念
(
むねん
)
の
拳
(
こぶし
)
を
我
(
わ
)
れ
握
(
にぎ
)
る
時
(
とき
)
同
(
おな
)
じやうに
涙
(
なみだ
)
を
目
(
め
)
に
持
(
も
)
ちて、
口惜
(
くちを
)
しげに
相手
(
あひて
)
を
睨
(
にら
)
みしこともありしがそれは
無心
(
むしん
)
の
昔
(
むかし
)
なり
我
(
わ
)
れ
性來
(
せいらい
)
の
虚弱
(
きよじやく
)
とて
假初
(
かりそめ
)
の
風邪
(
ふうじや
)
にも
十日
(
とをか
)
廿日
(
はつか
)
新田
(
につた
)
の
訪問
(
はうもん
)
懈
(
おこた
)
れば
彼處
(
かしこ
)
にも
亦
(
また
)
一人
(
ひとり
)
の
病人
(
びやうにん
)
心配
(
しんぱい
)
に
食事
(
しよくじ
)
も
進
(
すゝ
)
まず
稽古
(
けいこ
)
ごとに
行
(
ゆ
)
きもせぬとか、お
前
(
まへ
)
さまお
一人
(
ひとり
)
のお
煩
(
わづら
)
ひはお
兩人
(
ふたり
)
のお
惱
(
なや
)
みと
婢女共
(
をんなども
)
に
笑
(
わら
)
はれて
嬉
(
うれ
)
しと
聞
(
き
)
きしが
今更
(
いまさら
)
おもへば
故
(
ことさ
)
らに
言
(
い
)
はせしか
知
(
し
)
れたものならず
此頃
(
このごろ
)
見
(
み
)
しは
錦野
(
にしきの
)
の
玄關
(
げんくわん
)
先
(
さき
)
うつくしく
粧
(
よそほ
)
ふた
身
(
み
)
に
比
(
くら
)
べて
見
(
み
)
て
我
(
わ
)
れより
詞
(
ことば
)
は
掛
(
か
)
けられねど
無言
(
むごん
)
に
行過
(
ゆきす
)
ぎるとは
不埒
(
ふらち
)
ならずや
身
(
み
)
こそ
零落
(
おちぶれ
)
たれ
許嫁
(
いひなづけ
)
の
縁
(
えん
)
きれしならずまこと
其心
(
そのこゝろ
)
なら
美
(
うつ
)
くしく
立派
(
りつぱ
)
に
切
(
き
)
れてやりたし
切
(
き
)
れるといへば
貧乏世帶
(
びんぼふじよたい
)
のカンテラの
油
(
あぶら
)
、
今宵
(
こよひ
)
の
用
(
もち
)
ひだけありしか
如何
(
いか
)
に、さらでも
御不自由
(
ごふじいう
)
のお
兩親
(
ふたり
)
が
燈火
(
ともしび
)
なくば
嘸
(
さぞ
)
お
困
(
こま
)
り
早
(
はや
)
く
歸
(
かへ
)
りて
樣子
(
やうす
)
知
(
し
)
りたきもの、
今
(
いま
)
の
客人
(
きやくじん
)
の
氣
(
き
)
の
長
(
なが
)
さまだ
車代
(
しやだい
)
くれんともせず
何時
(
いつ
)
まで
待
(
ま
)
たする
心
(
こゝろ
)
にやさりとてまさかに
促
(
はた
)
りもされまじ
何
(
なん
)
としたものぞとさし
覗
(
のぞ
)
く
奧
(
おく
)
の
方
(
かた
)
廊下
(
らうか
)
を
歩
(
あゆ
)
む
足音
(
あしおと
)
にも
面
(
おもて
)
赫
(
くわつ
)
と
熱
(
あつ
)
くなりて
我知
(
われし
)
らず
又
(
また
)
蔭
(
かげ
)
に
入
(
い
)
る、
思
(
おも
)
へば
待
(
ま
)
たるゝやうな
待
(
ま
)
たれぬやうな
萬一
(
まんいち
)
車代
(
しやだい
)
を
渡
(
わた
)
す
人
(
ひと
)
知
(
し
)
りし
顏
(
かほ
)
の
女中
(
ぢよちゆう
)
ならば
何
(
なに
)
とせん
詞
(
ことば
)
がけられなば
何
(
なに
)
といはん
恥
(
はぢ
)
の
上塗
(
うはぬ
)
りは
要
(
えう
)
なきことなり
車代
(
しやだい
)
といふも
知
(
し
)
れたもの
受
(
う
)
けずともよし
此
(
この
)
まゝに
歸
(
かへ
)
らんか
否
(
いな
)
是
(
こ
)
れ
欲
(
ほ
)
しければこそ
雪
(
ゆき
)
の
夜
(
よ
)
を
二時
(
ふたとき
)
三時
(
みとき
)
恥
(
はぢ
)
も
外聞
(
ぐわいぶん
)
も
親
(
おや
)
には
換
(
か
)
へられたものならず、はて
誰
(
た
)
れでも
出
(
で
)
て
來
(
こ
)
よ
此姿
(
このすがた
)
に
何
(
なに
)
として
見覺
(
みおぼ
)
えがあるものかと
自問自答
(
じもんじたふ
)
折
(
をり
)
しも
樓婢
(
ろうひ
)
のかなきり
聲
(
ごゑ
)
に、
池
(
いけ
)
の
端
(
はた
)
から
來
(
き
)
た
車夫
(
くるまや
)
さんはお
前
(
まへ
)
さんですか。
第十囘
それは
何
(
なん
)
ぞのお
間違
(
まちが
)
ひなるべし
私
(
わたくし
)
お
客樣
(
きやくさま
)
にお
懇親
(
ちかづき
)
はなし
池
(
いけ
)
の
端
(
はた
)
よりお
供
(
とも
)
せしに
相違
(
さうゐ
)
は
無
(
な
)
けれど
車代
(
しやだい
)
賜
(
たまは
)
るより
外
(
ほか
)
に
御用
(
ごよう
)
ありとは
覺
(
おぼ
)
えず
其譯
(
そのわけ
)
仰
(
おほ
)
せられて
車代
(
しやだい
)
の
頂戴
(
ちやうだい
)
お
願
(
ねが
)
ひ
下
(
くだ
)
されたしと
一歩
(
いつぽ
)
も
動
(
うご
)
かんとせぬ
芳之助
(
よしのすけ
)
を
誘
(
いざな
)
ふ
樓婢
(
ろうひ
)
は
笑
(
ゑ
)
みを
含
(
ふく
)
み、お
間違
(
まちが
)
ひやら
何
(
なに
)
やら
私等
(
わたしら
)
の
知
(
し
)
る
事
(
こと
)
ならねど
只
(
たゞ
)
お
客
(
きやく
)
さまの
仰
(
おほ
)
せには
今
(
いま
)
の
車夫
(
しやふ
)
に
用事
(
ようじ
)
がある
足
(
あし
)
を
洗
(
あら
)
はせて
此室
(
こゝ
)
へ
呼
(
よ
)
びたしと
仰
(
おほ
)
せられたに
相違
(
さうゐ
)
はなし
兎
(
と
)
に
角
(
かく
)
お
上
(
あが
)
りなされよと
洗足
(
すゝぎ
)
の
湯
(
ゆ
)
まで
汲
(
く
)
んでくるゝはよも
串戯
(
じやうだん
)
にはあらざるべし
僞
(
いつは
)
りならずとせば
眞
(
しん
)
以
(
もつ
)
て
奇怪
(
きくわい
)
、
何人
(
なんびと
)
が
何用
(
なによう
)
ありて
逢
(
あ
)
ひたしといふにや
親戚
(
しんせき
)
朋友
(
ほういう
)
の
間柄
(
あひだがら
)
にてさへ
面
(
おもて
)
背
(
そむ
)
ける
我
(
われ
)
に
對
(
たい
)
して
一面
(
いちめん
)
の
識
(
しき
)
なく
一語
(
いちご
)
の
交
(
まじ
)
はりなき
然
(
し
)
かも
婦人
(
ふじん
)
が
所用
(
しよよう
)
とは
何事
(
なにごと
)
逢
(
あひ
)
たしとは
何故
(
なにゆゑ
)
人違
(
ひとちが
)
ひと
思
(
おも
)
へば
譯
(
わけ
)
もなければ
彼處
(
かしこ
)
といひ
此處
(
こゝ
)
といひ
乘
(
の
)
り
廻
(
まは
)
りし
方角
(
はうがく
)
の
不審
(
いぶか
)
しさそれすら
事
(
こと
)
の
不思議
(
ふしぎ
)
なるに
頼
(
たの
)
みたきことあり
足
(
あし
)
を
洗
(
あら
)
ひて
上
(
あが
)
りくれよとは
扨
(
さて
)
も
意外
(
いぐわい
)
わからぬといへば
是
(
こ
)
れ
程
(
ほど
)
わからぬ
話
(
はなし
)
はなし
何
(
なん
)
とせば
宜
(
よ
)
からんかと
佇立
(
たゝづみ
)
たるまゝ
躊躇
(
ためら
)
へば
樓婢
(
ろうひ
)
はもどかしげに
急
(
いそ
)
がしたてゝ、お
客
(
きやく
)
さまも
嘸
(
さぞ
)
お
待
(
まち
)
ちかねお
逢
(
あひ
)
にならば
譯
(
わけ
)
はどの
道
(
みち
)
知
(
し
)
れる
筈
(
はず
)
なり
先
(
ま
)
づお
出
(
いで
)
なされよと
手
(
て
)
をとらへて
引立
(
ひきた
)
つるに
然
(
さ
)
らば
參
(
まゐ
)
るべしお
手
(
て
)
お
放
(
はな
)
しなされ
大方
(
おほかた
)
は
人違
(
ひとちが
)
ひと
思
(
おも
)
へどお
目
(
め
)
にかゝりし
上
(
うへ
)
ならではお
疑
(
うたが
)
ひ
晴
(
は
)
れ
難
(
がた
)
からん
御案内
(
ごあんない
)
お
頼
(
たの
)
み
申
(
まを
)
すと
明瞭
(
めいれう
)
に
答
(
こた
)
へながら
心
(
こゝろ
)
の
裡
(
うち
)
は
依然
(
いぜん
)
濛々漠々
(
まう〳〵ばく〳〵
)
、
靜
(
しづ
)
かに
足
(
あし
)
を
淨
(
きよ
)
め
了
(
をは
)
りていざとばかりに
誘
(
いざな
)
はれぬ、
流石
(
さすが
)
なり
商賣
(
しやうばい
)
がら
燦
(
さん
)
として
家内
(
かない
)
を
照
(
て
)
らす
電燈
(
でんとう
)
の
光
(
ひか
)
りに
襤褸
(
つゞれ
)
の
針
(
はり
)
の
目
(
め
)
いちじるく
見
(
み
)
えて
時
(
とき
)
は
今
(
いま
)
極寒
(
ごくかん
)
の
夜
(
よ
)
ともいはず
背
(
そびら
)
に
汗
(
あせ
)
の
流
(
なが
)
るぞ
苦
(
くる
)
しき、お
客
(
きやく
)
さまはお
二階
(
にかい
)
なりといふ
伴
(
ともな
)
はるゝ
梯子
(
はしご
)
の
一段
(
いちだん
)
又
(
また
)
一段
(
いちだん
)
浮世
(
うきよ
)
の
憂
(
う
)
きといふ
事
(
こと
)
知
(
し
)
らで
昇
(
のぼ
)
り
降
(
くだ
)
りせしこともありし
其時
(
そのとき
)
の
酌取
(
しやくと
)
り
女
(
をんな
)
我
(
わ
)
が
前
(
まへ
)
離
(
はな
)
れず
喋々
(
てふ〳〵
)
しく
待
(
もてな
)
したるが
彼
(
か
)
の
女
(
をんな
)
もし
居
(
を
)
らば
彌々
(
いよ〳〵
)
面目
(
めんぼく
)
なき
限
(
かぎ
)
りなり
其頃
(
そのころ
)
の
朋友
(
とも
)
今
(
いま
)
も
遊
(
あそ
)
びに
來
(
こ
)
んは
定
(
ぢやう
)
の
物
(
もの
)
何
(
なに
)
ぞのはしに
我
(
わ
)
がこと
引
(
ひ
)
き
出
(
だ
)
して
斯々云々
(
かく〳〵しか〴〵
)
とも
物語
(
ものがた
)
りなば
何處
(
どこ
)
まで
知
(
し
)
らるゝ
恥
(
はぢ
)
ならんと
思
(
おも
)
へば
何故
(
なにゆゑ
)
に
登樓
(
あがり
)
たるか
今更
(
いまさら
)
に
詮
(
せん
)
なき
事
(
こと
)
してけりと
思
(
おも
)
ふほど
胸
(
むね
)
さわがれて
足
(
あし
)
ふるひぬ、
案内
(
あんない
)
はかねて
知
(
し
)
る
梯子
(
はしご
)
を
登
(
のぼ
)
り
果
(
は
)
てゝ
右手
(
みぎて
)
の
小座敷
(
こざしき
)
、お
客
(
きやく
)
さまは
此處
(
こゝ
)
にと
示
(
しめ
)
したるまゝ
樓婢
(
ろうひ
)
は
急
(
いそ
)
ぎ
下
(
お
)
り
行
(
ゆ
)
きたり
障子
(
しやうじ
)
の
外
(
そと
)
に
暫時
(
しばし
)
たゆたひしが
果
(
は
)
つべきことならずと
身
(
み
)
を
低
(
ひく
)
くして
靜
(
しづ
)
かに
明
(
あ
)
くる
座敷
(
ざしき
)
の
内
(
うち
)
これは
如何
(
いか
)
に
頭巾
(
づきん
)
に
見
(
み
)
えざりし
面
(
おもて
)
肩掛
(
かたかけ
)
につゝみし
身
(
み
)
今
(
いま
)
ぞ
明
(
あき
)
らかに
現
(
あら
)
はれぬ、
寤寐
(
ごび
)
にも
離
(
はな
)
れず
起居
(
ききよ
)
にも
忘
(
わす
)
れぬ
我
(
わ
)
が
後來
(
のち〳〵
)
の
半身
(
はんしん
)
二世
(
にせ
)
の
妻
(
つま
)
新田
(
につた
)
が
娘
(
むすめ
)
のお
高
(
たか
)
なり、
芳之助
(
よしのすけ
)
はそれと
見
(
み
)
るより
何思
(
なにおも
)
ひけん
前後
(
ぜんご
)
無差別
(
むしやべつ
)
、
踵
(
きびす
)
を
囘
(
かへ
)
してツト
馳出
(
はせい
)
づればお
高
(
たか
)
走
(
はし
)
り
寄
(
よ
)
つて
無言
(
むごん
)
に
引止
(
ひきと
)
むる
帶
(
おび
)
の
端
(
はし
)
振拂
(
ふりはら
)
へば
取
(
とり
)
すがり
突
(
つ
)
き
放
(
はな
)
せば
纒
(
まと
)
ひつき
芳
(
よし
)
さまお
腹
(
はら
)
だちは
御尤
(
ごもつと
)
もなれども
暫時
(
しばし
)
、お
長
(
なが
)
うとは
申
(
まを
)
しませぬ
申
(
まを
)
しあげたきこと
一通
(
ひととほ
)
りと
詞
(
ことば
)
きれ〴〵に
涙
(
なみだ
)
漲
(
みなぎ
)
りて
引止
(
ひきと
)
むる
腕
(
かひな
)
ほそけれど
懸命
(
けんめい
)
の
心
(
こゝろ
)
は
蜘蛛
(
くも
)
の
圍
(
ゐ
)
の
千筋
(
ちすぢ
)
百筋
(
もゝすぢ
)
力
(
ちから
)
なき
力
(
ちから
)
拂
(
はら
)
ひかねて
五尺
(
ごしやく
)
の
身
(
み
)
なよ〳〵となれど
態
(
わざ
)
と
荒々
(
あら〳〵
)
しく
突
(
つ
)
き
退
(
の
)
けてお
人違
(
ひとちが
)
ひならん
其樣
(
そのやう
)
な
仰
(
おほ
)
せ
承
(
うけたま
)
はる
私
(
わたくし
)
にはあらず
池
(
いけ
)
の
端
(
はた
)
よりお
供
(
とも
)
せし
車夫
(
しやふ
)
の
耳
(
みゝ
)
には
何
(
なん
)
のことやら
理由
(
わけ
)
すこしも
分
(
わか
)
りませぬ
車代
(
しやだい
)
賜
(
たま
)
はる
外
(
ほか
)
御用
(
ごよう
)
はなき
筈
(
はず
)
御串戯
(
ごじやうだん
)
はお
措
(
お
)
き
下
(
くだ
)
されと
言
(
い
)
ひ
拂
(
はら
)
つてすつくと
立
(
た
)
てば、あんまりなり
芳
(
よし
)
さま
其
(
その
)
お
心
(
こゝろ
)
ならそれでよし
私
(
わたくし
)
にも
覺悟
(
かくご
)
ありと
涙
(
なみだ
)
を
拂
(
はら
)
つてきつとなるお
高
(
たか
)
、オヽおもしろし
覺悟
(
かくご
)
とは
何
(
なん
)
の
覺悟
(
かくご
)
許嫁
(
いひなづけ
)
の
約束
(
やくそく
)
解
(
と
)
いて
欲
(
ほ
)
しゝとのお
望
(
のぞ
)
みかそれは
此方
(
このはう
)
よりも
願
(
ねが
)
ふ
事
(
こと
)
なり
何
(
なん
)
の
迂
(
まは
)
りくどい
申上
(
まをしあ
)
ぐることの
候
(
さふらふ
)
の
一通
(
ひととほ
)
りも
二通
(
ふたとほ
)
りも
入
(
い
)
ることならず
後
(
のち
)
とはいはず
目
(
め
)
の
前
(
まへ
)
にて
切
(
き
)
れて
遣
(
や
)
るべし
切
(
き
)
れて
遣
(
や
)
らん
他人
(
たにん
)
になるは
造作
(
ぞうさ
)
もなしと
嘲笑
(
あざわら
)
ふ
胸
(
むね
)
の
内
(
うち
)
に
沸
(
わ
)
くは
何物
(
なにもの
)
、お
高
(
たか
)
涙
(
なみだ
)
の
顏
(
かほ
)
恨
(
うら
)
めしげに、お
情
(
なさけ
)
なしまだ
其樣
(
そん
)
なこと
自由
(
まゝ
)
にならば
此胸
(
このむね
)
の
中
(
なか
)
斷
(
た
)
ち
割
(
わ
)
つて
御覽
(
ごらん
)
に
入
(
い
)
れたし。
第十一囘
又
(
また
)
逢
(
あ
)
ふ
場所
(
ばしよ
)
は
某
(
それ
)
の
辻
(
つじ
)
某
(
それ
)
の
處
(
ところ
)
に
待給
(
まちたま
)
へ
必
(
かな
)
らずよと
契
(
ちぎ
)
りて
別
(
わか
)
れし
其夜
(
そのよ
)
のこと
誰
(
た
)
れ
知
(
し
)
るべきならねば
心安
(
こゝろやす
)
けれど
心安
(
こゝろやす
)
からぬは
松澤
(
まつざは
)
が
今
(
いま
)
の
境涯
(
きやうがい
)
あらましは
察
(
さつ
)
しても
居
(
ゐ
)
たものゝそれ
程
(
ほど
)
までとは
思
(
おも
)
ひも
寄
(
よ
)
らざりしが
其御難儀
(
そのごなんぎ
)
も
誰
(
たれ
)
がせし
業
(
わざ
)
ならず
勿躰
(
もつたい
)
なけれど
我
(
わ
)
が
親
(
おや
)
うらみなり
聞
(
き
)
かれぬまでも
諫
(
いさ
)
めて
見
(
み
)
んか
否
(
いな
)
父
(
ちゝ
)
はともあれ
勘藏
(
かんざう
)
といふものある
以上
(
いじやう
)
なまなかの
事
(
こと
)
言出
(
いひだ
)
して
疑
(
うたが
)
ひの
種
(
たね
)
になるまじとも
言
(
い
)
ひ
難
(
がた
)
しお
爲
(
ため
)
にならぬばかりかは
彼
(
か
)
の
人
(
ひと
)
との
逢瀬
(
あふせ
)
のはしあやなく
絶
(
たえ
)
もせば
何
(
なに
)
かせん
然
(
さ
)
るべき
途
(
みち
)
のなからずやと
惑
(
まど
)
ふは
心
(
こゝろ
)
つゝむ
色目
(
いろめ
)
に
何
(
なに
)
ごとも
顯
(
あら
)
はれねど
出嫌
(
でぎら
)
ひと
聞
(
きこ
)
えしお
高
(
たか
)
昨日
(
きのふ
)
は
池
(
いけ
)
の
端
(
はた
)
の
師匠
(
ししやう
)
のもとへ
今日
(
けふ
)
は
駿河臺
(
するがだい
)
の
錦野
(
にしきの
)
へと
駒下駄
(
こまげた
)
直
(
なほ
)
さする
日
(
ひ
)
の
多
(
おほ
)
かるを
不審
(
ふしん
)
といはゞ
不審
(
ふしん
)
もたつべきながら
子故
(
こゆゑ
)
にくらきは
親
(
おや
)
の
眼鏡
(
めがね
)
運平
(
うんぺい
)
が
邪智
(
じやち
)
ふかき
心
(
こゝろ
)
にも
娘
(
むすめ
)
は
何時
(
いつ
)
も
無邪氣
(
むじやき
)
の
子供
(
こども
)
伸
(
の
)
びしは
脊丈
(
せたけ
)
ばかりと
思
(
おも
)
ふか
若
(
も
)
しやの
掛念
(
けねん
)
少
(
すこ
)
しもなくハテ
中
(
なか
)
の
好
(
よ
)
かりしは
昔
(
むかし
)
のことなり
今
(
いま
)
の
芳之助
(
よしのすけ
)
に
何
(
なに
)
として
愛想
(
あいそ
)
の
盡
(
つき
)
ぬものがあらうか
娘
(
むすめ
)
はまして
孝心
(
かうしん
)
ふかし
親
(
おや
)
の
命令
(
いひつけ
)
ること
背
(
そむ
)
く
筈
(
はず
)
なし
心配無用
(
しんぱいむよう
)
と
勘藏
(
かんざう
)
が
注意
(
ちゆうい
)
をさへ
取
(
と
)
りあげもせず
錦野
(
にしきの
)
が
懇望
(
こんまう
)
恰
(
あたか
)
もよし
彼
(
か
)
れは
有徳
(
うとく
)
の
醫師
(
いし
)
なりといふ
故郷
(
こきやう
)
某
(
なにがし
)
の
地
(
ち
)
には
少
(
すくな
)
からぬ
地所
(
ぢしよ
)
をさへ
持
(
も
)
てりと
聞
(
き
)
くに
娘
(
むすめ
)
の
爲
(
ため
)
にも
我
(
わ
)
が
爲
(
ため
)
にも
行末
(
ゆくすゑ
)
わろき
縁組
(
えんぐみ
)
ならずとより〳〵の
相談
(
さうだん
)
も
洩
(
も
)
れきく
身
(
み
)
の
腹
(
はら
)
だゝしさ
縱令
(
たとひ
)
身分
(
みぶん
)
は
昔
(
むかし
)
の
通
(
とほ
)
りならずとも
現在
(
げんざい
)
ゆるせし
良人
(
をつと
)
ある
身
(
み
)
に
忌
(
いま
)
はしき
嫁入
(
よめいり
)
沙汰
(
ざた
)
きくも
厭
(
いや
)
なり
表
(
おもて
)
にかざる
仁者顏
(
じんしやがほ
)
は
畢竟
(
ひつきやう
)
何事
(
なにごと
)
かの
手段
(
しゆだん
)
かも
知
(
し
)
れたことならず
優
(
やさ
)
しげな
妹御
(
いもとご
)
も
當
(
あ
)
てにならぬよし
折々
(
をり〳〵
)
見
(
み
)
たこともあり
毒蛇
(
どくじや
)
のやうな
人々
(
ひと〴〵
)
信用
(
しんよう
)
なさるお
心
(
こゝろ
)
には
何
(
なに
)
ごと
申
(
まを
)
すとも
甲斐
(
かひ
)
はあるまじさりとて
此儘
(
このまゝ
)
に
日
(
ひ
)
を
送
(
おく
)
らば
悲
(
かな
)
しきことの
來
(
こ
)
んは
目
(
め
)
の
前
(
まへ
)
なり
聞
(
き
)
かせて
心配
(
しんぱい
)
さするも
憂
(
う
)
ければ
頼
(
たの
)
むは
彼
(
か
)
の
人
(
ひと
)
の
力
(
ちから
)
のみ
男
(
をとこ
)
の
智慧
(
ちゑ
)
には
良
(
よ
)
き
考
(
かんが
)
へもなからずやと
思
(
おも
)
ひたてば
心
(
こゝろ
)
は
矢竹
(
やたけ
)
、はやるほど
猶
(
なほ
)
落附
(
おちつき
)
てお
友達
(
ともだち
)
の
誰
(
たれ
)
さま
御病氣
(
ごびやうき
)
ときく
格別
(
かくべつ
)
に
中
(
なか
)
の
好
(
よ
)
き
人
(
ひと
)
ではあり
是非
(
ぜひ
)
お
見舞
(
みまひ
)
申
(
まを
)
したく
存
(
ぞん
)
じますがと
許容
(
ゆるし
)
を
請
(
こ
)
へば
平常
(
つね
)
の
氣
(
き
)
だてに
有
(
あ
)
るべき
願
(
ねが
)
ひとて
疑
(
うたが
)
ひもなく
運平
(
うんぺい
)
點頭
(
うなづ
)
きて
然
(
さ
)
らば
疾
(
と
)
く
行
(
ゆ
)
きて
疾
(
と
)
くかへれ
病人
(
びやうにん
)
の
處
(
ところ
)
に
長居
(
ながゐ
)
はせぬもの
供
(
とも
)
には
鍋
(
なべ
)
なりと
連
(
つ
)
れて
行
(
ゆ
)
きなされと
氣
(
き
)
をつくればイエそれには
及
(
およ
)
びませぬ
裏通
(
うらどほ
)
りを
行
(
ゆ
)
けばつい
其處
(
そこ
)
なり
鍋
(
なべ
)
も
家
(
うち
)
のことが
忙
(
いそが
)
しう
御座
(
ござ
)
いますツイ
行
(
ゆき
)
てツイ
歸
(
かへ
)
るに
供
(
とも
)
などゝは
大層
(
たいそう
)
すぎます
支度
(
したく
)
も
何
(
なに
)
も
入
(
い
)
りませぬ、
此儘
(
このまゝ
)
すぐにとそこ〳〵
身仕度
(
みじたく
)
して
庭口
(
にはぐち
)
出
(
い
)
でんとする
途端
(
とたん
)
孃
(
ぢやう
)
さま
今日
(
けふ
)
もお
出
(
で
)
かけか
何處
(
どこ
)
へぞと
勘藏
(
かんざう
)
がぎろ〳〵
目
(
め
)
恐
(
おそ
)
ろしけれど
臆
(
おく
)
してなるまじと
態
(
わざ
)
とつくる
笑顏
(
ゑがほ
)
愛
(
あい
)
らしく
今日
(
けふ
)
もとは
勘藏
(
かんざう
)
酷
(
ひど
)
いぞや
今日
(
けふ
)
はと
言
(
い
)
はねばてにをはが
違
(
ちが
)
ふ
所
(
ところ
)
ぞとほゝ
笑
(
ゑ
)
みて
何氣
(
なにげ
)
もなしに
家
(
いへ
)
を
出
(
い
)
でぬ
約束
(
やくそく
)
の
辻
(
つじ
)
往
(
ゆき
)
つ
返
(
かへ
)
りつ
待
(
ま
)
てどもまてども
今日
(
けふ
)
はいかにしけん
影
(
かげ
)
も
見
(
み
)
えず
誰
(
た
)
れに
聞
(
き
)
かんもうしろめたし
何
(
なに
)
とせん
必
(
かなら
)
ず
訪
(
と
)
ひ
給
(
たま
)
ふな
我家
(
わがいへ
)
知
(
し
)
られんは
恥
(
はづ
)
かしとて
丁所
(
ちやうどころ
)
つげ
給
(
たま
)
はねど
曩
(
さき
)
に
錦野
(
にしきの
)
にてそれとなく
聞
(
き
)
きしはうろ
覺
(
おぼ
)
えながら
覺
(
おぼ
)
えあり
縱
(
よ
)
しお
怒
(
いか
)
りにふれゝばそれまで、
空
(
むな
)
しく
物
(
もの
)
をおもふよりは
寧
(
いつそ
)
お
目
(
め
)
にかゝりしうへにて
兎
(
と
)
も
角
(
かく
)
もせんと
心
(
こゝろ
)
に
答
(
こた
)
へて
妻戀下
(
つまこひした
)
とばかり
當所
(
あてど
)
なしにこゝの
裏屋
(
うらや
)
かしこの
裏屋
(
うらや
)
さりとては
雲
(
くも
)
掴
(
つか
)
むやうな
尋
(
たづ
)
ねものも
思
(
おも
)
ふ
心
(
こゝろ
)
がしるべにや
松澤
(
まつざは
)
といふか
何
(
なに
)
か
知
(
し
)
らねど
老人
(
としより
)
の
病人
(
びやうにん
)
二人
(
ふたり
)
ありて
年若
(
としわか
)
き
車夫
(
しやふ
)
の
家
(
いへ
)
ならば
此裏
(
このうら
)
の
突當
(
つきあた
)
りから
三軒目
(
さんげんめ
)
溝板
(
どぶいた
)
の
外
(
はづ
)
れし
所
(
ところ
)
がそれなりとまで
教
(
をし
)
へられぬ
時
(
とき
)
は
夕暮
(
ゆふぐれ
)
の
薄
(
うす
)
くらきに
迷
(
まよ
)
ふ
心
(
こゝろ
)
もかき
暮
(
くら
)
されて
何
(
なに
)
と
言
(
いひ
)
入
(
い
)
れん
戸
(
と
)
のすき
間
(
ま
)
よりさし
覗
(
のぞ
)
く
家内
(
かない
)
のいたましさよ
頭巾
(
づきん
)
肩掛
(
かたかけ
)
に
身
(
み
)
はつゝめど
目
(
め
)
をもるものは
紅
(
くれなゐ
)
の
涙
(
なみだ
)
。
第十二囘
さらでも
老
(
おい
)
ては
僻
(
ひが
)
むものとか
況
(
いは
)
んや
貧
(
ひん
)
にやつれ
苦
(
く
)
にやつれ
人
(
ひと
)
恨
(
うら
)
めしく
世
(
よ
)
の
中
(
なか
)
つらく
明
(
あ
)
けては
歎
(
なげ
)
き
暮
(
く
)
れては
怒
(
いか
)
り
心
(
こゝろ
)
晴間
(
はれま
)
なければさまでには
無
(
な
)
き
病氣
(
びやうき
)
ながら
何時
(
いつ
)
癒
(
なほ
)
るべき
景色
(
けしき
)
もなくあはれ
枯木
(
かれき
)
に
似
(
に
)
たる
儀右衞門夫婦
(
ぎゑもんふうふ
)
待
(
ま
)
ちわびしきは
春
(
はる
)
ならで
芳之助
(
よしのすけ
)
の
歸宅
(
かへり
)
の
遲
(
おそ
)
さよ
好
(
よ
)
き
[#「好き」は底本では「好さ」]
客
(
きやく
)
ありて
遠
(
とほ
)
くまで
行
(
ゆ
)
きたるにやそれにしても
最
(
も
)
う
歸
(
かへ
)
りさうなもの
日沒
(
ひぐれ
)
まへに
一度
(
いちど
)
づゝ
樣子見
(
やうすみ
)
に
戻
(
もど
)
るが
常
(
つね
)
なるを
何
(
なに
)
として
今日
(
けふ
)
はと
頸
(
うなじ
)
を
延
(
の
)
ばす
心
(
こゝろ
)
は
同
(
おな
)
じ
表
(
おもて
)
のお
高
(
たか
)
も
路次口
(
ろじぐち
)
顧
(
かへり
)
みつ
家内
(
かない
)
を
覗
(
のぞ
)
きつ
芳
(
よし
)
さまはどうでもお
留守
(
るす
)
らしく
御相談
(
ごさうだん
)
すること
山
(
やま
)
ほどあるをお
目
(
め
)
に
懸
(
かゝ
)
らでは
戻
(
もど
)
らるゝことかはさるにても
此病人
(
このびやうにん
)
のうへに
此
(
この
)
お
生計
(
くらし
)
右
(
みぎ
)
も
左
(
ひだり
)
もお
身
(
み
)
一
(
ひと
)
つに
降
(
ふ
)
りかゝる
芳
(
よし
)
さまが
御心配
(
ごしんぱい
)
は
嘸
(
さぞ
)
なるべし
尋常
(
つねなみ
)
ならば
御兩親
(
ごりやうしん
)
の
見取
(
みと
)
り
看護
(
かんご
)
もすべき
身
(
み
)
が
餘所
(
よそ
)
に
見聞
(
みき
)
く
苦
(
くる
)
しさよと
沸
(
わ
)
き
返
(
かへ
)
る
涙
(
なみだ
)
胸
(
むね
)
に
呑
(
の
)
みて
差
(
さし
)
のぞかんとする
二枚戸
(
にまいど
)
を
内
(
うち
)
より
明
(
あ
)
けて
面
(
おもて
)
を
出
(
いだ
)
すは
見違
(
みちが
)
へねども
昔
(
むかし
)
は
殘
(
のこ
)
らぬ
芳之助
(
よしのすけ
)
の
母
(
はゝ
)
が
姿
(
すがた
)
なり
待
(
ま
)
つ
人
(
ひと
)
ならで
待
(
ま
)
たぬ
人
(
ひと
)
の
思
(
おも
)
ひも
寄
(
よ
)
らず
佇
(
たゝず
)
むかげに
驚
(
おどろ
)
かされて
物
(
もの
)
をいはず
見
(
み
)
つむる
目元
(
めもと
)
も
疎
(
うと
)
くなりてや
不審
(
いぶかし
)
げに
誰何
(
どなた
)
さまぞと
問
(
と
)
はるゝもつらしお
高
(
たか
)
頭巾
(
づきん
)
を
手早
(
てばや
)
く
取
(
と
)
りてお
忘
(
わす
)
れ
遊
(
あそ
)
ばしたかと
取
(
とり
)
すがりて
啼
(
な
)
く
音
(
ね
)
に
知
(
し
)
るゝ
燒野
(
やけの
)
の
雉子
(
きゞす
)
我子
(
わがこ
)
ならねど
繋
(
つな
)
がる
縁
(
えん
)
とて
母
(
はゝ
)
は
女
(
をんな
)
の
心
(
こゝろ
)
も
弱
(
よわ
)
くオヽお
高
(
たか
)
か
否
(
いな
)
お
高
(
たか
)
どのか
何
(
なん
)
として
此樣
(
このやう
)
な
處
(
ところ
)
へ
何
(
ど
)
う
尋
(
たづ
)
ねて
知
(
し
)
れましたとおろ〳〵
涙
(
なみだ
)
の
聲
(
こゑ
)
きゝ
附
(
つ
)
けてや
膝行出
(
いざりい
)
づる
儀右衞門
(
ぎゑもん
)
はくぼみし
眼
(
め
)
にキツと
睨
(
にら
)
みてコレ
何
(
なに
)
を
云
(
い
)
つて
居
(
ゐ
)
るぞ
夕方
(
ゆふがた
)
は
別
(
べつ
)
して
風
(
かぜ
)
が
寒
(
さむ
)
し
其
(
その
)
うへに
風
(
かぜ
)
でも
引
(
ひ
)
かば
芳之助
(
よしのすけ
)
に
對
(
たい
)
しても
濟
(
す
)
むまいぞやといふ
詞
(
ことば
)
の
尾
(
を
)
に
附
(
つ
)
いてお
高
(
たか
)
おそる〳〵
顏
(
かほ
)
をあげ
御病氣
(
ごびやうき
)
といふことを
人傳
(
ひとづて
)
に
聞
(
き
)
きましてお
怒
(
いか
)
りにふれるとは
知
(
し
)
るも
御樣子
(
ごやうす
)
が
伺
(
うかゞ
)
ひたさに
出
(
で
)
にくい
所
(
ところ
)
を
繕
(
つくろ
)
つて
漸
(
やうや
)
うの
思
(
おも
)
ひで
參
(
まゐ
)
りましたお
父樣
(
とつさま
)
にもお
執成
(
とりなし
)
をとしほ〳〵として
言
(
いひ
)
出
(
い
)
づるを
取次
(
とりつ
)
ぐ
母
(
はゝ
)
が
詞
(
ことば
)
も
待
(
ま
)
たず
儀右衞門
(
ぎゑもん
)
冷笑
(
あざわら
)
つて
聞
(
き
)
かんともせずさりとは
口賢
(
くちがしこ
)
くさま〴〵の
事
(
こと
)
がいへたものかな
父親
(
てゝおや
)
に
薫陶
(
しこま
)
れては
其筈
(
そのはず
)
の
事
(
こと
)
ながらもう
其手
(
そのて
)
に
乘
(
の
)
りはせぬぞよ
餘計
(
よけい
)
な
口
(
くち
)
に
風引
(
かぜひ
)
かさんより
早
(
はや
)
く
歸宅
(
きたく
)
くさるゝが
宜
(
よ
)
さゝうなもの
誠
(
まこと
)
と
思
(
おも
)
ひて
聞
(
き
)
くものは
此家
(
このや
)
の
内
(
うち
)
に
一人
(
ひとり
)
もなし
老婆
(
ばあ
)
さまも
眉毛
(
まゆげ
)
よまれるなと
憎々
(
にく〳〵
)
しく
言
(
い
)
ひ
放
(
はな
)
つて
見返
(
みかへ
)
りもせずそれは
御尤
(
ごもつとも
)
の
御立腹
(
ごりつぷく
)
ながら
是
(
こ
)
れまでのこと
露
(
つゆ
)
ばかりも
私
(
わたくし
)
知
(
し
)
りての
事
(
こと
)
はなしお
憎
(
にく
)
しみはさることなれど
申譯
(
まをしわけ
)
の
一通
(
ひととほ
)
りお
聞
(
き
)
き
遊
(
あそ
)
ばして
昔
(
むかし
)
の
通
(
とほ
)
りに
思召
(
おぼしめ
)
してよと
詫入
(
わびい
)
る
詞
(
ことば
)
聞
(
き
)
きも
敢
(
あ
)
へず
何
(
なん
)
といふぞ
父親
(
てゝおや
)
の
罪
(
つみ
)
は
我
(
わ
)
れは
知
(
し
)
らぬ
今
(
いま
)
まで
通
(
どほ
)
り
嫁舅
(
よめしうと
)
になりたしとか
聞
(
きい
)
て
呆
(
あき
)
れるなり
考
(
かんが
)
へて
見
(
み
)
よ
人非人
(
にんぴにん
)
の
運平
(
うんぺい
)
の
娘
(
むすめ
)
を
妻
(
つま
)
に
持
(
も
)
つ
芳之助
(
よしのすけ
)
と
思
(
おも
)
ふかよしや
芳之助
(
よしのすけ
)
が
持
(
も
)
つといふとも
我
(
わ
)
れある
以上
(
いじやう
)
は
嫁
(
よめ
)
にすること
毛頭
(
もうとう
)
ならぬ
汚
(
けが
)
らはしゝ
運平
(
うんぺい
)
の
名
(
な
)
思
(
おも
)
ひ
出
(
だ
)
しても
胸
(
むね
)
が
沸
(
わ
)
くなり
況
(
まし
)
てやそれが
娘
(
むすめ
)
を
嫁
(
よめ
)
になんど
思
(
おも
)
ひも
寄
(
よ
)
らぬことなり
詞
(
ことば
)
かはすも
忌
(
いま
)
はしきに
疾々
(
とく〳〵
)
歸
(
かへ
)
らずやお
歸
(
かへ
)
りなされエヽ
何
(
なに
)
をうぢ〳〵
老婆
(
ばあ
)
さま
其處
(
そこ
)
を
閉
(
し
)
めなさいと
詞
(
ことば
)
づかひも
荒々
(
あら〳〵
)
しく
怒
(
いか
)
りの
面色
(
めんしよく
)
すさまじきを
母
(
はゝ
)
は
見
(
み
)
かねてそれはあまりに
短氣
(
たんき
)
なりあの
子
(
こ
)
の
詞
(
ことば
)
も
一通
(
ひととほ
)
りは
聞
(
きい
)
てお
遣
(
や
)
りなされませぬかと
執成
(
とりな
)
すをハタと
睨
(
にら
)
んで
汝
(
そち
)
までが
同
(
おな
)
じやうに
何
(
なん
)
の
囈語
(
たはごと
)
最早
(
もはや
)
何事
(
なにごと
)
聞
(
き
)
く
耳
(
みゝ
)
もなし
汝
(
そち
)
が
追
(
お
)
ひ
出
(
だ
)
さずば
我
(
わ
)
れ
自身
(
じしん
)
にと
止
(
と
)
むる
妻
(
つま
)
を
突
(
つき
)
のけつゝ
病勞
(
やみつか
)
れても
老
(
おい
)
の
一徹
(
いつてつ
)
上
(
あが
)
りがまちに
泣頽
(
なきくづ
)
れしお
高
(
たか
)
が
細腕
(
ほそうで
)
むづと
取
(
と
)
りつ
力
(
ちから
)
を
極
(
きは
)
めて
押出
(
おしだ
)
す
門口
(
かどぐち
)
お
慈悲
(
じひ
)
に
一言
(
ひとこと
)
お
聞
(
き
)
き
入
(
い
)
れをと
詫
(
わび
)
るも
泣
(
な
)
くも
何
(
なん
)
の
用捨
(
ようしや
)
あらくれし
詞
(
ことば
)
に
怒
(
いか
)
りを
籠
(
こ
)
めて
嫁
(
よめ
)
でなし
舅
(
しうと
)
でなし
阿伽
(
あか
)
の
他人
(
たにん
)
の
來
(
く
)
る
家
(
いへ
)
でなし
何
(
なん
)
といふとももう
逢
(
あ
)
はぬぞ、ハタとたて
切
(
き
)
る
雨戸
(
あまど
)
の
閾
(
しきゐ
)
くちしは
溝
(
みぞ
)
か
立端
(
たちは
)
もなくわつと
泣
(
な
)
く
空
(
そら
)
に
闇
(
やみ
)
を
縫
(
ぬ
)
ひ
行
(
ゆ
)
く
烏
(
からす
)
の
兩三聲
(
りやうさんせい
)
。
第十三囘
覺悟
(
かくご
)
の
身
(
み
)
に
今更
(
いまさら
)
の
涙
(
なみだ
)
見苦
(
みぐる
)
しゝと
勵
(
はげ
)
ますは
詞
(
ことば
)
ばかり
我
(
わ
)
れまづ
拂
(
はら
)
ふ
瞼
(
まぶた
)
の
露
(
つゆ
)
の
消
(
き
)
えんとする
命
(
いのち
)
か
扨
(
さて
)
もはかなし
此處
(
こゝ
)
松澤
(
まつざは
)
新田
(
につた
)
が
先祖累代
(
せんぞるゐだい
)
の
墓所
(
ぼしよ
)
晝
(
ひる
)
猶
(
なほ
)
暗
(
くら
)
き
樹木
(
じゆもく
)
の
茂
(
しげ
)
みを
吹拂
(
ふきはら
)
ふ
夜風
(
よかぜ
)
いとゞ
悲慘
(
ひさん
)
の
聲
(
こゑ
)
をそへて
梟
(
ふくろふ
)
の
叫
(
さけ
)
び
一段
(
いちだん
)
と
物
(
もの
)
すごしお
高
(
たか
)
決心
(
けつしん
)
の
眼光
(
まなざし
)
たじろがずお
心
(
こゝろ
)
怯
(
おく
)
れかさりとては
御未練
(
ごみれん
)
なり
高
(
たか
)
が
心
(
こゝろ
)
は
先
(
さき
)
ほども
申
(
まを
)
す
通
(
とほ
)
り
決
(
きは
)
めし
覺悟
(
かくご
)
の
道
(
みち
)
は
一
(
ひと
)
つ
二人
(
ふたり
)
の
身
(
み
)
を
犧牲
(
ぎせい
)
にしてもお
前
(
まへ
)
さまのお
心
(
こゝろ
)
伺
(
うかゞ
)
ふ
先
(
さき
)
に
生
(
い
)
きて
還
(
かへ
)
る
念
(
ねん
)
はなし
父御
(
てゝご
)
さまの
今日
(
けふ
)
の
仰
(
おほ
)
せ
人非人
(
にんぴにん
)
の
運平
(
うんぺい
)
が
娘
(
むすめ
)
を
嫁
(
よめ
)
になどゝは
思
(
おも
)
ひも
寄
(
よ
)
らぬことなり
芳之助
(
よしのすけ
)
は
兎
(
と
)
もあれ
我
(
わ
)
れ
許
(
ゆる
)
さずと
御立腹
(
ごりつぷく
)
の
數々
(
かず〳〵
)
それいさゝかも
御無理
(
ごむり
)
ならねどお
前
(
まへ
)
さまと
縁
(
えん
)
きれて
此世
(
このよ
)
何
(
なん
)
の
樂
(
たの
)
しからずつらき
錦野
(
にしきの
)
がこともあり
所詮
(
しよせん
)
は
此命
(
このいのち
)
一
(
ひと
)
つぞと
覺悟
(
かくご
)
の
道
(
みち
)
も
同
(
おな
)
じやうに
行逢
(
ゆきあ
)
つてお
前
(
まへ
)
さまのお
心
(
こゝろ
)
伺
(
うかゞ
)
へば
其通
(
そのとほ
)
りとか
今更
(
いまさら
)
御違背
(
ごゐはい
)
のある
筈
(
はず
)
なし
私
(
わたし
)
は
嬉
(
うれ
)
しう
存
(
ぞん
)
じますをと
美事
(
みごと
)
に
言放
(
いひはな
)
つて
噛
(
か
)
む
襦袢
(
じゆばん
)
の
袖
(
そで
)
、
未練
(
みれん
)
などがあることかは
我
(
わ
)
れ
男
(
をとこ
)
の
一疋
(
いつぴき
)
ながら
虚弱
(
きよじやく
)
の
身
(
み
)
の
力
(
ちから
)
及
(
およ
)
ばず
只
(
たゞ
)
にもあらで
病
(
やま
)
ひに
臥
(
ふ
)
す
兩親
(
ふたおや
)
にさへ
孝養
(
かうやう
)
、
抱持
(
はうぢ
)
の
不十分
(
ふじふぶん
)
さ
甲斐
(
かひ
)
なき
身
(
み
)
恨
(
うら
)
めしくなりて
捨
(
す
)
てたしと
思
(
おも
)
ひしは
咋日
(
きのふ
)
今日
(
けふ
)
ならず
我々
(
われ〳〵
)
二人
(
ふたり
)
斯
(
か
)
くと
聞
(
き
)
かば
流石
(
さすが
)
運平
(
うんぺい
)
が
邪慳
(
じやけん
)
の
角
(
つの
)
も
折
(
を
)
れる
心
(
こゝろ
)
になるは
定
(
ぢやう
)
なり
我
(
わ
)
が
親
(
おや
)
とても
其
(
そ
)
の
通
(
とほ
)
り
一徹
(
いつてつ
)
の
心
(
こゝろ
)
和
(
やは
)
らぎ
寄
(
よ
)
らば
兩家
(
りやうけ
)
の
幸福
(
かうふく
)
この
上
(
うへ
)
やある
我々
(
われ〳〵
)
二人
(
ふたり
)
世
(
よ
)
にありては
如何
(
いか
)
に
千辛萬苦
(
せんしんばんく
)
するとも
運平
(
うんぺい
)
に
後悔
(
こうくわい
)
の
念
(
ねん
)
も
出
(
で
)
まじく
況
(
ま
)
してや
手
(
て
)
を
下
(
さ
)
げての
詫
(
わび
)
ごと
何
(
なん
)
としてするべきならずよしや
膝
(
ひざ
)
を
屈
(
ま
)
げればとて
我親
(
わがおや
)
決
(
けつ
)
して
肯
(
きゝい
)
れはなすまじく
乞食
(
こつじき
)
非人
(
ひにん
)
と
落魄
(
おちぶ
)
るとも
新田如
(
につたごと
)
きに
此口
(
このくち
)
腐
(
くさ
)
れても
助
(
たす
)
けを
求
(
もと
)
むることはせずとそれ
平生
(
へいぜい
)
の
詞
(
ことば
)
なるもの
盡未來
(
じんみらい
)
この
不和
(
ふわ
)
の
中
(
なか
)
解
(
と
)
ける
筈
(
はず
)
なし
數代
(
すだい
)
續
(
つゞ
)
きし
兩家
(
りやうけ
)
のよしみ
一朝
(
いつてう
)
にして
絶
(
た
)
やさんこと
先祖
(
せんぞ
)
の
遺旨
(
ゐし
)
にも
違
(
たが
)
ふことなり
世
(
よ
)
の
人
(
ひと
)
は
愚
(
ぐ
)
とも
笑
(
わら
)
はん
痴
(
ち
)
とも
見
(
み
)
ん、さりながら
先祖
(
せんぞ
)
に
對
(
たい
)
し
家
(
いへ
)
に
對
(
たい
)
する
孝
(
かう
)
は
二人
(
ふたり
)
が
命
(
いのち
)
なり
捨
(
す
)
てゝ
榮
(
はえ
)
ある
身
(
み
)
ぞと
思
(
おも
)
へば
何處
(
いづく
)
に
殘
(
のこ
)
る
未練
(
みれん
)
もなしいざ
身支度
(
みじたく
)
をと
最期
(
さいご
)
の
用意
(
ようい
)
あはれ
短
(
みじか
)
き
契
(
ちぎ
)
りなるかな
井筒
(
ゐづゝ
)
にかけし
丈
(
たけ
)
くらべ
振
(
ふり
)
わけ
髮
(
がみ
)
のかみならねば
斯
(
か
)
くとも
如何
(
いかゞ
)
しら
紙
(
かみ
)
にあね
樣
(
さま
)
こさへて
遊
(
あそ
)
びし
頃
(
ころ
)
これは
君
(
きみ
)
さまこれは
我
(
われ
)
今日
(
けふ
)
は
芝居
(
しばゐ
)
へ
行
(
ゆ
)
くのなり
否
(
いや
)
花見
(
はなみ
)
の
方
(
はう
)
が
我
(
わ
)
れは
宜
(
よ
)
しと
戯
(
たはむ
)
れ
交
(
か
)
はせしそれ
一
(
ひと
)
つも
願
(
ねが
)
ひの
叶
(
かな
)
ひしことはなく
待
(
まち
)
にまちし
長日月
(
ちやうじつげつ
)
のめぐり
來
(
き
)
て
見
(
み
)
れば
果敢
(
はか
)
なしや
世
(
よ
)
は
桑田
(
さうでん
)
の
海
(
うみ
)
ともならねど
變
(
かは
)
るは
現在
(
げんざい
)
親
(
おや
)
の
心
(
こゝろ
)
、ましてや
他人
(
たにん
)
の
底
(
そこ
)
ふかき
計略
(
けいりやく
)
の
淵
(
ふち
)
知
(
し
)
るべきならねば
陷
(
おとしい
)
れられて
後
(
のち
)
の
一悔恨
(
ひとくわいこん
)
空
(
むな
)
しく
呑
(
の
)
む
涙
(
なみだ
)
の
晴
(
は
)
れ
間
(
ま
)
は
無
(
な
)
くて
降
(
ふ
)
りかゝる
憂苦
(
いうく
)
と
繋
(
つな
)
がるゝ
情緒
(
じやうちよ
)
に
思慮
(
しりよ
)
分別
(
ぶんべつ
)
も
烏羽玉
(
ぬばたま
)
の
闇
(
やみ
)
くらき
中
(
なか
)
にも
星明
(
ほしあか
)
りに
目
(
め
)
と
目
(
め
)
見合
(
みあは
)
せて
莞爾
(
につこ
)
とばかり
名殘
(
なごり
)
の
笑顏
(
ゑがほ
)
うら
淋
(
さび
)
しくいざと
促
(
うなが
)
せばいざと
答
(
こた
)
へて
流石
(
さすが
)
にたゆたはるゝ
幾分時
(
いくぶんじ
)
思
(
おも
)
ひ
定
(
さだ
)
めてツト
立
(
たち
)
よりつ
用意
(
ようい
)
の
短刀
(
たんたう
)
とり
直
(
なほ
)
せば
後
(
うしろ
)
の
藪
(
やぶ
)
に
何
(
なに
)
やら
物音
(
ものおと
)
人
(
ひと
)
もや
來
(
き
)
つると
耳
(
みゝ
)
を
澄
(
す
)
ますに
吹
(
ふ
)
き
渡
(
わた
)
る
風
(
かぜ
)
定
(
さだ
)
かに
聞
(
きこ
)
えぬ
扨
(
さて
)
[#「
扨
(
さて
)
」は底本では「
扨
(
さて
)
て]
追手
(
おつて
)
にもあらざりけりお
高
(
たか
)
支度
(
したく
)
は
調
(
とゝの
)
ひしか
取亂
(
とりみだ
)
さんは
亡
(
な
)
き
後
(
のち
)
までの
恥
(
はぢ
)
なるべし
心靜
(
こゝろしづ
)
かにと
誡
(
いまし
)
める
身
(
み
)
も
詞
(
ことば
)
ふるひぬ
慘
(
いた
)
ましゝ
可惜
(
あたら
)
青年
(
せいねん
)
の
身
(
み
)
花
(
はな
)
といはゞ
莟
(
つぼみ
)
の
枝
(
えだ
)
に
今
(
いま
)
や
吹
(
ふ
)
き
起
(
おこ
)
らん
夜半
(
よは
)
の
狂風
(
きやうふう
)
、お
高
(
たか
)
が
胸先
(
むなさき
)
くつろげんとする
此時
(
このとき
)
はやし
間一髮
(
かんいつぱつ
)
、まち
給
(
たま
)
へとばかり
後
(
うしろ
)
の
藪垣
(
やぶがき
)
まろび
出
(
い
)
でゝ
利腕
(
きゝうで
)
しつかと
取
(
と
)
る
男
(
をとこ
)
誰
(
た
)
れぞ
放
(
はな
)
して
死
(
し
)
なしてと
脆弱
(
かよわ
)
き
身
(
み
)
にも
一心
(
いつしん
)
に
振切
(
ふりき
)
らんとするをいつかな
放
(
はな
)
さず、いや
放
(
はな
)
しませぬ
放
(
はな
)
されませぬお
前
(
まへ
)
さま
殺
(
ころ
)
しては
旦那
(
だんな
)
さまへ
濟
(
す
)
みませぬといふは
正
(
まさ
)
しく
勘藏
(
かんざう
)
か、とお
高
(
たか
)
の
詞
(
ことば
)
の
畢
(
をは
)
らぬ
内
(
うち
)
闇
(
やみ
)
にきらめく
白刄
(
しらは
)
の
電光
(
いなづま
)
アツと
一聲
(
ひとこゑ
)
一刹那
(
いつせつな
)
はかなく
枯
(
か
)
れぬ
連理
(
れんり
)
の
片枝
(
かたえ
)
は。
第十四囘
こぼれ
松葉
(
まつば
)
の
土
(
つち
)
になるまで
二人
(
ふたり
)
ともにと
契
(
ちぎ
)
りしものを
我
(
われ
)
ばかり
何
(
なに
)
として
後
(
おく
)
るべきと
足
(
あし
)
ずりして
歎
(
なげ
)
きしが
命
(
いのち
)
果敢
(
はか
)
なく
止
(
とゞ
)
められて
再
(
ふたゝ
)
び
見
(
み
)
んとも
思
(
おも
)
はざりし
六疊敷
(
ろくでふじき
)
の
我
(
わ
)
が
部屋
(
へや
)
をその
儘
(
まゝ
)
の
座敷牢
(
ざしきらう
)
縁
(
えん
)
の
障子
(
しやうじ
)
の
開閉
(
あけたて
)
にも
乳母
(
うば
)
が
見張
(
みは
)
りの
目
(
め
)
は
離
(
はな
)
れず
況
(
ま
)
してや
勘藏
(
かんざう
)
が
注意
(
ちゆうい
)
周到
(
しうたう
)
翼
(
つばさ
)
あらば
知
(
し
)
らぬこと
飛
(
と
)
ぶ
鳥
(
とり
)
ならぬ
身
(
み
)
に
何方
(
いづく
)
ぬけ
出
(
い
)
でん
隙
(
すき
)
もなしあはれ
刄物
(
はもの
)
一
(
ひと
)
つ
手
(
て
)
に
入
(
い
)
れたや
處
(
ところ
)
は
異
(
かは
)
れど
同
(
おな
)
じ
道
(
みち
)
に
後
(
おく
)
れはせじの
娘
(
むすめ
)
の
目色
(
めいろ
)
見
(
み
)
てとる
運平
(
うんぺい
)
が
氣遣
(
きづか
)
はしさ
錦野
(
にしきの
)
との
縁談
(
えんだん
)
も
今
(
いま
)
が
今
(
いま
)
と
運
(
はこ
)
びし
中
(
なか
)
に
此
(
この
)
こと
知
(
し
)
られなば
皆
(
みな
)
畫餠
(
ぐわべい
)
なるべし
包
(
つゝ
)
まるゝだけはと
祕
(
ひ
)
しかくして
宥
(
なだ
)
めてみつ
賺
(
すか
)
してみつ
意見
(
いけん
)
に
手
(
て
)
をかへ
品
(
しな
)
をかふれど
袖
(
そで
)
の
涙
(
なみだ
)
晴
(
は
)
れんともせず
兎
(
と
)
もすれば
我
(
われ
)
も
倶
(
とも
)
にと
決死
(
けつし
)
の
素振
(
そぶり
)
に
油斷
(
ゆだん
)
ならず
何
(
なに
)
はしかれ
命
(
いのち
)
ありての
物
(
もの
)
だねなり
娘
(
むすめ
)
の
心
(
こゝろ
)
落附
(
おちつ
)
かすに
若
(
し
)
くはなしと
押
(
お
)
しては
婚儀
(
こんぎ
)
をすゝめもなさず
去
(
さ
)
るものは
日々
(
ひゞ
)
に
疎
(
うと
)
しの
俚諺
(
ことわざ
)
もあり
日
(
ひ
)
をだに
經
(
ふ
)
れば
芳之助
(
よしのすけ
)
を
追慕
(
つゐぼ
)
の
念
(
ねん
)
も
薄
(
うす
)
らぐは
必定
(
ひつぢやう
)
なるべし
心
(
こゝろ
)
ながく
時
(
とき
)
を
待
(
まつ
)
て
春
(
はる
)
の
氷
(
こほり
)
に
朝日
(
あさひ
)
かげおのづから
解
(
と
)
けわたる
折
(
をり
)
ならでは
何事
(
なにごと
)
の
甲斐
(
かひ
)
ありとも
覺
(
おぼ
)
えず
誰
(
た
)
れも〳〵
異見
(
いけん
)
は
言
(
い
)
ふな
心
(
こゝろ
)
の
浮
(
う
)
く
話
(
はなし
)
に
氣
(
き
)
をなぐさめて
面白
(
おもしろ
)
き
世
(
よ
)
をおもしろしと
思
(
おも
)
はするのが
肝要
(
かんえう
)
ぞと
我
(
われ
)
先立
(
さきだ
)
ちて
機嫌
(
きげん
)
を
取
(
と
)
りつ
慰
(
なぐさ
)
めつ
一方
(
かたへ
)
は
心
(
こゝろ
)
を
浮
(
う
)
かせんと
力
(
つと
)
め
一方
(
かたへ
)
は
見張
(
みは
)
りを
嚴
(
げん
)
にして
細
(
ほそ
)
ひも
一筋
(
ひとすぢ
)
小刀
(
こがたな
)
一挺
(
いつてふ
)
お
高
(
たか
)
が
眼
(
め
)
に
觸
(
ふ
)
れさせるな
夜
(
よる
)
は
別
(
べつ
)
して
氣
(
き
)
をつけよと
氣配
(
きくば
)
り
眼配
(
めくば
)
り
大方
(
おほかた
)
ならねば
召使
(
めしつか
)
ひの
者
(
もの
)
も
心
(
こゝろ
)
を
得
(
え
)
て
風
(
かぜ
)
の
音
(
おと
)
をも
只
(
たゞ
)
には
聞
(
き
)
かず
鼠
(
ねづみ
)
の
荒
(
あ
)
れにも
耳
(
みゝ
)
そばだてつ
疑心
(
ぎしん
)
は
暗鬼
(
あんき
)
を
生
(
しやう
)
ずる
奧
(
おく
)
の
間
(
ま
)
に
其人
(
そのひと
)
現在
(
げんざい
)
坐
(
ざ
)
すを
見
(
み
)
ながら
孃
(
ぢやう
)
さまは
何處
(
いづこ
)
へぞお
姿
(
すがた
)
が
見
(
み
)
えぬやうなりと
人騷
(
ひとさわ
)
がせするもあり
乳母
(
うば
)
は
夜
(
よ
)
の
目
(
め
)
ろく〳〵
合
(
あは
)
さずお
高
(
たか
)
が
傍
(
かたへ
)
に
寢床
(
ねどこ
)
を
並
(
なら
)
べ
浮世
(
うきよ
)
雜談
(
ざふだん
)
に
諷諫
(
ふうかん
)
の
意
(
い
)
をこめつ
可笑
(
をか
)
しく
面白
(
おもしろ
)
く
物
(
もの
)
がたりながら
沈
(
しづ
)
みがちなる
主
(
しゆ
)
の
心根
(
こゝろね
)
いぢらしくも
氣遣
(
きづか
)
はしく
離
(
はな
)
れぬ
守
(
まも
)
りにこれも
一
(
ひと
)
つの
關所
(
せきしよ
)
なり
如何
(
いか
)
にしてか
越
(
こ
)
えらるべき
如何
(
いか
)
にしてか
遁
(
のが
)
るべきお
高
(
たか
)
髮
(
かみ
)
とりあげず
化粧
(
けしやう
)
もせず
粧
(
よそほ
)
ひし
昔
(
むかし
)
の
紅白粉
(
べにおしろい
)
は
誰
(
た
)
れが
爲
(
ため
)
の
色
(
いろ
)
ならず
君
(
きみ
)
におくれて
鏡
(
かゞみ
)
の
影
(
かげ
)
に
合
(
あは
)
す
面
(
おもて
)
つれなしとて
伽羅
(
きやら
)
の
油
(
あぶら
)
の
香
(
かを
)
りも
留
(
と
)
めず
亂
(
みだ
)
れ
次第
(
しだい
)
の
花
(
はな
)
の
姿
(
すがた
)
やつれる
身
(
み
)
を
我
(
われ
)
と
頼母
(
たのも
)
しく、ならば
此儘
(
このまゝ
)
に
死
(
し
)
にたしと
願
(
ねが
)
へど
命
(
いのち
)
は
心
(
こゝろ
)
のまゝならず
病
(
や
)
むともなく
煩
(
わづら
)
ふともなくつく〴〵と
眺
(
なが
)
めてつくづくと
泣
(
な
)
く
涙
(
なみだ
)
と
空
(
そら
)
とを
意中
(
いちゆう
)
の
友
(
とも
)
として
送
(
おく
)
らねど
迎
(
むか
)
へねど
來
(
く
)
るものは
月
(
つき
)
改
(
あらた
)
まるは
歳
(
とし
)
ちりて
返
(
かへ
)
らぬ
君
(
きみ
)
を
思
(
おも
)
へば
何
(
なん
)
ぞ
櫻
(
さくら
)
の
春
(
はる
)
しり
顏
(
がほ
)
に
今歳
(
ことし
)
も
咲
(
さ
)
ける
面
(
つら
)
にくさよ
又
(
また
)
しても
聞
(
き
)
く
堀切
(
ほりき
)
りの
菖蒲
(
しやうぶ
)
だより
車
(
くるま
)
をつらねて
見
(
み
)
に
行
(
ゆ
)
きしはそもいつの
世
(
よ
)
の
夢
(
ゆめ
)
になりて
精靈棚
(
しやうりやうだな
)
の
眞
(
ま
)
こもの
上
(
うへ
)
にも
表
(
おもて
)
だちては
祀
(
まつ
)
られずさりとては
世
(
よ
)
の
中
(
なか
)
うらめしゝ
照
(
て
)
る
月
(
つき
)
の
秋
(
あき
)
の
夜
(
よ
)
草葉
(
くさば
)
に
脆
(
もろ
)
き
白玉
(
しらたま
)
の
露
(
つゆ
)
と
答
(
こた
)
へて
消
(
き
)
えかぬる
身
(
み
)
を
何
(
なん
)
と
御覽
(
ごらん
)
じて
何
(
なん
)
とお
恨
(
うら
)
みなさるべきにや
過
(
す
)
ぎし
雪
(
ゆき
)
の
夜
(
よ
)
の
邂逅
(
かいごう
)
に
二
(
ふた
)
つなき
貞心
(
ていしん
)
嬉
(
うれ
)
しきぞとてホロリとし
給
(
たま
)
ひし
涙
(
なみだ
)
の
顏
(
かほ
)
今
(
いま
)
も
眼
(
め
)
の
前
(
さき
)
に
存
(
のこ
)
るやうなりさりながら
思
(
おも
)
ふ
心
(
こゝろ
)
は
幽冥
(
ゆうめい
)
の
境
(
さかひ
)
にまでは
通
(
つう
)
ずまじきにや
無情
(
つれな
)
く
悲
(
かな
)
しく
引止
(
ひきと
)
められし
命
(
いのち
)
を
未練
(
みれん
)
に
惜
(
をし
)
みてとも
思召
(
おぼしめ
)
さん
苦
(
くる
)
しさよと
思
(
おも
)
ひやりては
伏
(
ふ
)
し
沈
(
しづ
)
み
思
(
おも
)
ひ
出
(
いだ
)
してはむせ
返
(
かへ
)
り
笑
(
ゑ
)
みとは
何
(
なん
)
ぞ
夢
(
ゆめ
)
にも
忘
(
わす
)
れて
知
(
し
)
るものは
人生
(
じんせい
)
の
憂
(
う
)
きといふ
憂
(
う
)
きの
數々
(
かず〳〵
)
來
(
く
)
るものは
無意
(
むい
)
無心
(
むしん
)
の
春夏秋冬
(
しゆんかしうとう
)
落花
(
らくくわ
)
流水
(
りうすゐ
)
ちりて
流
(
なが
)
れて
寄
(
よ
)
せ
返
(
かへ
)
る
波
(
なみ
)
の
年
(
とし
)
又
(
また
)
年
(
とし
)
今日
(
けふ
)
は
心
(
こゝろ
)
の
解
(
と
)
けやする
明日
(
あす
)
は
思
(
おも
)
ひの
離
(
はな
)
れやするあはれ
榮花
(
えいぐわ
)
の
身
(
み
)
にしたし
娘
(
むすめ
)
にも
綺羅
(
きら
)
かざらせて
我
(
わ
)
れも
安心
(
あんしん
)
の
樂隱居
(
らくいんきよ
)
願
(
ねが
)
はくは
家運長久
(
かうんちやうきう
)
なれ
子孫
(
しそん
)
繁昌
(
はんじやう
)
なれ
兎角
(
とかく
)
は
身
(
み
)
の
上
(
うへ
)
に
凶事
(
きようじ
)
あらせじとの
親心
(
おやごゝろ
)
に
引
(
ひき
)
かへし
願
(
ねが
)
ひも
逆
(
さか
)
さまながら
今日
(
けふ
)
身
(
み
)
をすてんか
明日
(
あす
)
こそはと
窺
(
うかゞ
)
ふ
心
(
こゝろ
)
に
怠
(
おこた
)
りなけれど
人目
(
ひとめ
)
の
關守
(
せきもり
)
何
(
なん
)
として
隙
(
ひま
)
あるべき
此處
(
こゝ
)
に
七年
(
しちねん
)
身
(
み
)
はまだ
籠中
(
ろうちゆう
)
の
鳥
(
とり
)
。
第十五囘
お
父樣
(
とつさま
)
にも
勘藏
(
かんざう
)
にも
乳母
(
ばあや
)
には
別
(
べつ
)
しての
事
(
こと
)
いろ〳〵と
苦勞
(
くらう
)
をかけまして
今更
(
いまさら
)
おもへば
恥
(
はづ
)
かしいやらお
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
やら
幼心
(
をさなごゝろ
)
のあと
先
(
さき
)
見
(
み
)
ずに
程
(
ほど
)
のない
無分別
(
むふんべつ
)
さりながら
盡
(
つ
)
きぬ
命
(
いのち
)
かや
事
(
こと
)
も
無
(
な
)
く
助
(
たす
)
かりしを
嬉
(
うれ
)
しいとは
思
(
おも
)
ひもせでよしなき
義理
(
ぎり
)
だてに
心
(
こゝろ
)
ぐるしく
芳
(
よし
)
さまのお
跡
(
あと
)
追
(
お
)
ふてと
思
(
おも
)
ひしは
幾
(
いく
)
たびかさりとては
命
(
いのち
)
二
(
ふた
)
つあるかのやうに
輕々
(
かる〴〵
)
しい
思案
(
しあん
)
なりしと
後悔
(
こうくわい
)
して
見
(
み
)
れば
今
(
いま
)
までの
事
(
こと
)
口惜
(
くちを
)
しくこれからの
身
(
み
)
が
大切
(
たいせつ
)
になりました
阿房
(
あほう
)
らしい
死
(
し
)
んだ
人
(
ひと
)
への
操
(
みさを
)
だて
何
(
なに
)
に
成
(
なる
)
ことでもなきを
何時
(
いつ
)
まで
獨身
(
ひとり
)
で
居
(
ゐ
)
る
心
(
こゝろ
)
が
數
(
かぞ
)
へる
歳
(
とし
)
の
心細
(
こゝろぼそ
)
さ
是
(
これ
)
ほどならばなぜ
昔
(
むかし
)
お
詞
(
ことば
)
そむいて
厭
(
いと
)
ひしか
我
(
わ
)
れと
我
(
わ
)
が
身
(
み
)
知
(
し
)
れませぬ
母
(
はゝ
)
さまなしのお
手
(
て
)
一
(
ひと
)
つに
御苦勞
(
ごくらう
)
たんと
懸
(
か
)
けまして
上
(
うへ
)
の
上
(
うへ
)
にも
又
(
また
)
幾年
(
いくねん
)
お
心
(
こゝろ
)
休
(
やす
)
めぬ
不料簡
(
ふれうけん
)
不孝
(
ふかう
)
のお
詫
(
わび
)
は
向後
(
きやうこう
)
さつぱり
芳
(
よし
)
さまのこと
思
(
おも
)
ひ
切
(
き
)
つて
何方
(
いづかた
)
への
縁組
(
えんぐみ
)
なれ
仰
(
おほ
)
せに
違背
(
ゐはい
)
はいたしませぬ
勘藏
(
かんざう
)
も
乳母
(
ばあや
)
も
長
(
なが
)
の
間
(
あひだ
)
の
心
(
こゝろ
)
づかひ
嘸
(
さぞ
)
かしと
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
な
私
(
わたし
)
の
心
(
こゝろ
)
は
今
(
いま
)
もいふ
通
(
とほ
)
り
晴
(
はれ
)
てみれば
迷
(
まよ
)
ひは
雲霧
(
くもきり
)
これまでの
氣
(
き
)
は
少
(
すこ
)
しもなし
必
(
かなら
)
ず
必
(
かなら
)
ず
心配
(
しんぱい
)
して
下
(
くだ
)
さるなよと
流石
(
さすが
)
に
心
(
こゝろ
)
の
弱
(
よわ
)
ればにや
後悔
(
こうくわい
)
の
涙
(
なみだ
)
を
目
(
め
)
にたゝへてお
高
(
たか
)
斯
(
か
)
くとは
言
(
いひ
)
出
(
だ
)
しぬ
歳月
(
としつき
)
心
(
こゝろ
)
を
配
(
くば
)
りし
甲斐
(
かひ
)
に
漸
(
やうや
)
く
此詞
(
このことば
)
にまづ
安心
(
あんしん
)
とは
思
(
おも
)
ふものゝ
運平
(
うんぺい
)
なほも
油斷
(
ゆだん
)
をなさず
起居
(
たちゐ
)
につけて
目
(
め
)
をそゝぐにお
高
(
たか
)
は
詞
(
ことば
)
に
違
(
たが
)
ひもなく
愁
(
うれひ
)
の
眉
(
まゆ
)
いつしかとけて
昨日
(
きのふ
)
にかはるまめ〳〵しさ
父
(
ちゝ
)
のもの
我
(
わ
)
がもの
云
(
い
)
へば
更
(
さら
)
に
手代
(
てだい
)
小僧
(
こぞう
)
の
衣類
(
いるゐ
)
の
世話
(
せわ
)
縫
(
ぬ
)
ひほどきにまで
氣
(
き
)
を
用
(
もち
)
ひて
浮々
(
うき〳〵
)
とせし
樣子
(
やうす
)
に
扨
(
さて
)
は
眞
(
まこと
)
に
悔悟
(
くわいご
)
して
其心
(
そのこゝろ
)
にもなりぬるかと
落附
(
おちつ
)
くは
運平
(
うんぺい
)
のみならず
内外
(
うちと
)
のものも
同
(
おな
)
じこと
少
(
すこ
)
し
枕
(
まくら
)
を
安
(
やす
)
んじけりさるにても
訝
(
いぶか
)
しきは
松澤夫婦
(
まつざはふうふ
)
が
上
(
うへ
)
にこそ
芳之助
(
よしのすけ
)
在世
(
ざいせ
)
の
時
(
とき
)
だに
引窓
(
ひきまど
)
の
烟
(
けぶり
)
たえ〴〵なりしを
今
(
いま
)
はたいかに
其日
(
そのひ
)
を
送
(
おく
)
るや
可惜
(
あたら
)
若木
(
わかき
)
の
花
(
はな
)
におくれて
死
(
し
)
ぬべき
病
(
やまひ
)
は
癒
(
いえ
)
たるものゝ
僅
(
わづ
)
か
手内職
(
てないしよく
)
の
五錢
(
ごせん
)
六錢
(
ろくせん
)
露命
(
ろめい
)
をつなぐ
術
(
すべ
)
はあらじを
怪
(
あや
)
しのことよと
尋
(
たづ
)
ねるに
澆季
(
げうき
)
の
世
(
よ
)
とは
聞
(
き
)
くものゝ
猶
(
なほ
)
陰徳者
(
いんとくしや
)
なきならで
此薄命
(
このはくめい
)
を
憐
(
あはれ
)
みてや
惠
(
めぐ
)
むともなき
惠
(
めぐ
)
みに
浴
(
よく
)
して
鹽噌
(
えんそ
)
の
苦勞
(
くらう
)
は
知
(
し
)
らずといふなるそは
又
(
また
)
何處
(
いづこ
)
の
誰
(
た
)
れなるにや
扨
(
さて
)
も
怪
(
あやし
)
むべく
尊
(
たつと
)
むべき
此慈善家
(
このじぜんか
)
の
姓氏
(
せいし
)
といはず
心情
(
しんじやう
)
といはず
義理
(
ぎり
)
の
柵
(
しがらみ
)
さこそと
知
(
し
)
るは
唯
(
ひと
)
りお
高
(
たか
)
の
乳母
(
うば
)
あるのみ
忍
(
しの
)
び〳〵の
貢
(
みつぎ
)
のものそれからそれと
人手
(
ひとで
)
を
換
(
か
)
へて
誰
(
た
)
れと
知
(
し
)
らさぬ
用心
(
ようじん
)
は
昔
(
むかし
)
氣質
(
かたぎ
)
の
一
(
いつ
)
こくを
立通
(
たてとほ
)
さする
遠慮
(
ゑんりよ
)
心痛
(
しんつう
)
おいたはしや
右
(
みぎ
)
に
左
(
ひだり
)
に
御苦勞
(
ごくらう
)
ばかり
世
(
よ
)
が
世
(
よ
)
ならばお
嫁
(
よめ
)
さまなり
舅御
(
しうとご
)
なり
御孝行
(
ごかうかう
)
に
御遠慮
(
ごゑんりよ
)
は
入
(
い
)
らぬ
筈
(
はず
)
をと
或時
(
あるとき
)
泣
(
な
)
きしにお
高
(
たか
)
同
(
おな
)
じく
涙
(
なみだ
)
になりて
私
(
わたし
)
の
心
(
こゝろ
)
知
(
し
)
るものは
和女
(
そなた
)
ばかり
芳
(
よし
)
さまのことは
思
(
おも
)
ひ
切
(
き
)
りても
御兩親
(
ごりやうしん
)
の
行末
(
ゆくすゑ
)
が
心配
(
しんぱい
)
なり
明日
(
あす
)
が
日
(
ひ
)
我
(
わ
)
が
身
(
み
)
縁
(
えん
)
に
附
(
つ
)
きなば
兎
(
と
)
に
角
(
かく
)
自由
(
じいう
)
は
叶
(
かな
)
ふまじ
其時
(
そのとき
)
たのむは
和女
(
そなた
)
ぞかし
父
(
とゝ
)
さまのお
心
(
こゝろ
)
よく
取
(
と
)
りて
松澤
(
まつざは
)
さまとの
中
(
なか
)
昔
(
むかし
)
の
通
(
とほ
)
りにして
欲
(
ほ
)
しゝ
是
(
こ
)
れ
一
(
ひと
)
つがお
頼
(
たの
)
みぞとて
兩手
(
りやうて
)
を
合
(
あは
)
せて
伏
(
ふ
)
し
拜
(
をが
)
みぬ
失
(
う
)
せし
芳之助
(
よしのすけ
)
を
悼
(
いた
)
まぬならねど
主
(
しゆ
)
の
身
(
み
)
の
上
(
うへ
)
猶
(
なほ
)
さらに
氣
(
き
)
づかはしく
陰
(
かげ
)
になり
日向
(
ひなた
)
になり
意見
(
いけん
)
の
數々
(
かず〳〵
)
貫
(
つらぬ
)
きてや
今日
(
けふ
)
此頃
(
このごろ
)
の
袖
(
そで
)
のけしき
涙
(
なみだ
)
も
心
(
こゝろ
)
も
晴
(
は
)
れゆきて
縁
(
えん
)
にもつくべし
嫁
(
よめ
)
にも
行
(
ゆ
)
かんと
言出
(
いひい
)
でし
詞
(
ことば
)
に
心
(
こゝろ
)
うれしく
七年越
(
しちねんご
)
しの
苦
(
く
)
も
消
(
き
)
えて
夢安
(
ゆめやす
)
らかに
寢
(
ね
)
る
夜
(
よ
)
幾夜
(
いくよ
)
ある
明方
(
あけがた
)
の
風
(
かぜ
)
あらく
枕
(
まくら
)
ひいやりとして
眼覺
(
めさむ
)
れば
縁側
(
えんがは
)
の
雨戸
(
あまど
)
一枚
(
いちまい
)
はづれて
並
(
なら
)
べし
床
(
とこ
)
はもぬけの
殼
(
から
)
なりアナヤとばかり
蹴
(
け
)
かへして
起
(
た
)
つ
枕元
(
まくらもと
)
の
行燈
(
あんどん
)
有明
(
ありあけ
)
のかげふつと
消
(
き
)
えて
乳母
(
うば
)
が
涙
(
なみだ
)
の
聲
(
こゑ
)
あわたゞしく
孃
(
ぢやう
)
さまが
孃
(
ぢやう
)
さまが。
渝
(
かは
)
らぬ
契
(
ちぎ
)
りの
誰
(
た
)
れなれや
千年
(
せんねん
)
の
松風
(
しようふう
)
颯々
(
さつ〳〵
)
として
血汐
(
ちしほ
)
は
殘
(
のこ
)
らぬ
草葉
(
くさば
)
の
緑
(
みどり
)
と
枯
(
か
)
れわたる
霜
(
しも
)
の
色
(
いろ
)
かなしく
照
(
て
)
らし
出
(
い
)
だす
月
(
つき
)
一片
(
いつぺん
)
何
(
なん
)
の
恨
(
うら
)
みや
吊
(
とぶら
)
ふらん
此處
(
こゝ
)
鴛鴦
(
ゑんあう
)
の
塚
(
つか
)
の
上
(
うへ
)
に。
出典:青空文庫(
https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/55665_54779.html
)
青空文庫の奥付
底本:「樋口一葉全集第一卷」新世社
1942(昭和17)年1月30日発行
底本の親本:「校訂一葉全集」博文館
1897(明治30)年1月9日発行
1897(明治30)年6月再版
初出:「改進新聞」
1892(明治25)年3月31~4月10日、4月12日、14日~17日
※初出時の署名は、「浅香のぬま子」です。
※「提燈」と「提灯」、「脊」と「背」、「
小僧
(
こそう
)
」と「
小僧
(
こぞう
)
」、「
平生
(
ひごろ
)
」と「
平生
(
へいぜい
)
」、「
恥
(
はぢ
)
」と「
恥
(
はじ
)
」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による脚注は省略しました。
入力:万波通彦
校正:岡村和彦
2014年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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