暁月夜
樋口 一葉
第
(
だい
)
一
回
(
くわい
)
櫻
(
さくら
)
の
花
(
はな
)
に
梅
(
うめ
)
が
香
(
か
)
とめて
柳
(
やなぎ
)
の
枝
(
えだ
)
にさく
姿
(
すがた
)
と、
聞
(
き
)
くばかりも
床
(
ゆか
)
しきを
心
(
こヽろ
)
にくき
獨
(
ひと
)
りずみの
噂
(
うはさ
)
、たつ
名
(
な
)
みやび
男
(
を
)
の
心
(
こヽろ
)
を
動
(
うご
)
かして、
山
(
やま
)
の
井
(
ゐ
)
のみづに
浮岩
(
あくが
)
るヽ
戀
(
こひ
)
もありけり、
花櫻
(
はなざくら
)
香山家
(
かやまけ
)
ときこえしは
門表
(
もんへう
)
の
從
(
じゆ
)
三
位
(
み
)
よむまでもなく、
同族中
(
どうぞくちう
)
に
其人
(
そのひと
)
ありと
知
(
し
)
られて、
行
(
ゆ
)
く
水
(
みづ
)
のながれ
清
(
きよ
)
き
江戸川
(
えどがは
)
の
西
(
にし
)
べりに、
和洋
(
わやう
)
の
家
(
や
)
づくり
美
(
び
)
は
極
(
きは
)
めねど、
行
(
ゆ
)
く
人
(
ひと
)
の
足
(
あし
)
を
止
(
と
)
むる
庭木
(
にはき
)
のさまざま、
翠色
(
すゐしよく
)
したヽる
松
(
まつ
)
にまじりて
紅葉
(
もみぢ
)
のあるお
邸
(
やしき
)
と
問
(
と
)
へば、
中
(
なか
)
の
橋
(
はし
)
のはし
板
(
いた
)
とヾろくばかり、
扨
(
さて
)
も
人
(
ひと
)
の
知
(
し
)
るは
夫
(
それ
)
のみならで、
一重
(
ひとへ
)
と
呼
(
よ
)
ばるヽ
令孃
(
ひめ
)
の
美色
(
びしよく
)
、
姉
(
あね
)
に
妹
(
いもと
)
に
數多
(
かずおほ
)
き
同胞
(
はらから
)
をこして
肩
(
かた
)
ぬひ
揚
(
あ
)
げの
幼
(
をさ
)
なだちより、いで
若紫
(
わかむらさき
)
ゆく
末
(
すゑ
)
はと
寄
(
よ
)
する
心
(
こヽろ
)
の
人々
(
ひと〴〵
)
も
多
(
おほ
)
かりしが、
空
(
むな
)
しく二八の
春
(
はる
)
もすぎて
今歳
(
ことし
)
廿
(
はたち
)
のいたづら
臥
(
ぶし
)
、
何
(
なに
)
ごとぞ
飽
(
あ
)
くまで
優
(
やさ
)
しき
孝行
(
かう〳〵
)
のこヽろに
似
(
に
)
す、
父君
(
ちヽぎみ
)
母君
(
はヽぎみ
)
が
苦勞
(
くらう
)
の
種
(
たね
)
の
嫁
(
よめ
)
いりの
相談
(
さうだん
)
かけ
給
(
たま
)
ふごとに、
我
(
わが
)
まヽながら
私
(
わたく
)
し
一生
(
いつしやう
)
ひとり
住
(
ず
)
みの
願
(
ねが
)
ひあり、
仰
(
おふ
)
せに
背
(
そむ
)
くは
罪
(
つみ
)
ふかけれど、
是
(
こ
)
ればかりはと
子細
(
しさい
)
もなく、
千扁一律
(
せんべんいちりつ
)
いやいやを
徹
(
とほ
)
して、はては
世上
(
せじやう
)
に
忌
(
いま
)
はしき
名
(
な
)
を
謠
(
うた
)
はれながら、
狹
(
せま
)
き
乙名
(
をとめ
)
の
氣
(
き
)
にもかけず、
更
(
ふ
)
けゆく
歳
(
とし
)
を
惜
(
を
)
しみもせず、
靜
(
しづ
)
かに
月花
(
つきはな
)
をたのしんで、
態
(
わざ
)
とにあらねど
浮世
(
うきよ
)
の
風
(
かぜ
)
に
近
(
ちか
)
づかねば、
慈善會
(
じぜんくわい
)
に
袖
(
そで
)
ひかれたき
願
(
ねが
)
ひも
叶
(
かな
)
はず、
園遊會
(
ゑんいうくわい
)
に
物
(
もの
)
いひなれん
頼
(
たの
)
みもなくて、いとヾ
高嶺
(
たかね
)
の
花
(
はな
)
ごヽろに
苦
(
く
)
るしむ
人
(
ひと
)
多
(
おほ
)
しと
聞
(
き
)
きしが、
牛込
(
うしごめ
)
ちかくに
下宿住居
(
げしゆくずまゐ
)
する
森野敏
(
もりのさとし
)
とよぶ
文學書生
(
ぶんがくしよせい
)
、いかなる
風
(
かぜ
)
や
誘
(
さそ
)
ひけん、
果放
(
はか
)
なき
便
(
たよ
)
りに
令孃
(
ひめ
)
のうはさ
耳
(
みヽ
)
にして、
可笑
(
をか
)
しき
奴
(
やつ
)
と
笑
(
わら
)
つて
聞
(
き
)
きしが、その
獨栖
(
ひとりずみ
)
の
理由
(
わけ
)
、
我
(
わ
)
れ
人
(
ひと
)
ともに
分
(
わか
)
らぬ
處
(
ところ
)
何
(
なに
)
ゆゑか
探
(
さぐ
)
りたく、
何
(
なん
)
ともして
其女
(
そのをんな
)
一目
(
ひとめ
)
見
(
み
)
たし、
否
(
いな
)
見
(
み
)
たしでは
無
(
な
)
く
見
(
み
)
てくれん、
世
(
よ
)
は
冠
(
かぶ
)
せ
物
(
もの
)
の
滅金
(
めつき
)
をも、
秘佛
(
ひぶつ
)
と
唱
(
とな
)
へて
御戸帳
(
みとちやう
)
の
奧
(
おく
)
ぶかに
信
(
しん
)
を
増
(
ま
)
さするならひ、
朝日
(
あさひ
)
かげ
玉
(
たま
)
だれの
小簾
(
をす
)
の
外
(
と
)
には
耻
(
はぢ
)
かヾやかしく、
娘
(
むすめ
)
とも
言
(
い
)
はれぬ
愚物
(
ばか
)
などにて、
慈悲
(
じひ
)
ぶかき
親
(
おや
)
の
勿体
(
もつたい
)
をつけたる
拵
(
こしら
)
へ
言
(
ごと
)
かも
知
(
し
)
れず、
夫
(
そ
)
れに
乘
(
の
)
りて
床
(
ゆか
)
しがるは、
雪
(
ゆき
)
の
後朝
(
あした
)
の
末
(
すゑ
)
つむ
花
(
はな
)
に
見參
(
げんざん
)
まへの
心
(
こヽろ
)
なるべし、
扨
(
さて
)
も
笑止
(
せうし
)
とけなしながら
心
(
こヽろ
)
にかヽれば、
何時
(
いつ
)
も
門前
(
もんぜん
)
を
通
(
とほ
)
る
時
(
とき
)
は
夫
(
そ
)
れとなく
見
(
み
)
かへりて、
見
(
み
)
ることも
有
(
あ
)
れかしと
待
(
ま
)
ちしが、
時
(
とき
)
はあるもの
飯田町
(
いひだまち
)
の
學校
(
がくかう
)
より
歸
(
かへ
)
りがけ、
日暮
(
ひく
)
れ
前
(
まへ
)
の
川岸
(
かし
)
づたひを
淋
(
さび
)
しく
來
(
く
)
れば、うしろより、
掛
(
か
)
け
聲
(
ごゑ
)
いさましく
駈
(
か
)
け
拔
(
ぬ
)
けし
車
(
くるま
)
のぬしは
令孃
(
ひめ
)
なりけり、
何處
(
いづく
)
の
歸
(
かへ
)
りか
高髷
(
たかまげ
)
おとなしやかに、
白粉
(
おしろい
)
にはあるまじき
色
(
いろ
)
の
白
(
しろ
)
さ、
衣類
(
きもの
)
は
何
(
なに
)
か
見
(
み
)
とむる
間
(
ま
)
もなけれど、
黒
(
くろ
)
ちりめんの
羽織
(
はおり
)
にさらさらとせし
高尚
(
けだか
)
き
姿
(
すがた
)
、もしやと
敏
(
さとし
)
われ
知
(
し
)
らず
馳
(
は
)
せ
出
(
だ
)
せば、
扨
(
さて
)
こそ
引
(
ひき
)
こむ
彼
(
か
)
の
門内
(
もんない
)
、
車
(
くるま
)
の
輪
(
わ
)
の
何
(
なん
)
にふれてか、がたりと
音
(
おと
)
して一ゆり
搖
(
ゆ
)
れヽば、するり
落
(
おち
)
かヽる
後
(
うし
)
ろざしの
金簪
(
きんかん
)
を、
令孃
(
ひめ
)
は
纎手
(
せんしゆ
)
に
受
(
う
)
けとめ
給
(
たま
)
ふ
途端
(
とたん
)
、
夕風
(
ゆふかぜ
)
さつと
其袂
(
そのたもと
)
を
吹
(
ふ
)
きあぐれば、
飜
(
ひる
)
がへる八つ
口
(
くち
)
ひらひらと
洩
(
も
)
れて
散
(
ち
)
る
物
(
もの
)
ありけり、
夫
(
そ
)
れと
知
(
し
)
らねば
車
(
くるま
)
は
其
(
その
)
まヽ
玄關
(
げんくわん
)
にいそぐを、
敏
(
さとし
)
何
(
なに
)
ものとも
知
(
し
)
らず
遽
(
あわたヽ
)
しく
拾
(
ひろ
)
ひて、
懷中
(
ふところ
)
におし
入
(
い
)
れしまヽ
跡
(
あと
)
も
見
(
み
)
ずに
歸
(
かへ
)
りぬ。
乘
(
の
)
り
入
(
い
)
れし
車
(
くるま
)
は
確
(
たし
)
かに
香山家
(
かやまけ
)
の
物
(
もの
)
なりとは、
車夫
(
しやふ
)
が
被布
(
はつぴ
)
の
縫
(
ぬひ
)
にも
知
(
し
)
れたり、十七八と
見
(
み
)
えしは
美
(
うつ
)
くしさの
故
(
ゆゑ
)
ならんが、
彼
(
あ
)
の
年齡
(
としごろ
)
の
娘
(
むすめ
)
ほかに
有
(
あ
)
りとも
聞
(
き
)
かず、
噂
(
うは
)
さの
令孃
(
ひめ
)
は
彼
(
あ
)
れならん
彼
(
あ
)
れなるべし、さらば
噂
(
うは
)
さも
嘘
(
うそ
)
にはあらず、
嘘
(
うそ
)
どころか
聞
(
き
)
きしよりは
十倍
(
じふばい
)
も
二十倍
(
もつと
)
も
美
(
よ
)
し、さても、
其色
(
そのいろ
)
の
尋常
(
なみ
)
を
越
(
こ
)
えなば、
土
(
つち
)
に
根生
(
ねお
)
ひのばらの
花
(
はな
)
さへ、
絹帽
(
しるくはつと
)
に
挾
(
はさ
)
まれたしと
願
(
ねが
)
ふならひを、
彼
(
あ
)
の
美色
(
びしよく
)
にて
何故
(
なにゆゑ
)
ならん、
怪
(
あや
)
しさよと
計
(
ばか
)
り
敏
(
さとし
)
は
燈下
(
とうか
)
に
腕
(
うで
)
を
組
(
く
)
みしが、
拾
(
ひろ
)
ひきしは
白絹
(
しろぎぬ
)
の
手巾
(
はんけち
)
にて、
西行
(
さいぎやう
)
が
富士
(
ふじ
)
の
烟
(
けむ
)
りの
歌
(
うた
)
を
繕
(
つく
)
ろはねども
筆
(
ふで
)
のあと
美
(
み
)
ごとに
書
(
か
)
きたり、いよいよ
悟
(
さとり
)
めかしき
女
(
をんな
)
、
不思議
(
ふしぎ
)
と
思
(
おも
)
へば
不思議
(
ふしぎ
)
さ
限
(
かぎ
)
りなく、あの
愛
(
あい
)
らしき
眼
(
め
)
に
世
(
よ
)
の
中
(
なか
)
を
何
(
なん
)
と
見
(
み
)
てか、
人
(
ひと
)
じらしの
振舞
(
ふるま
)
ひ
理由
(
わけ
)
は
有
(
あ
)
るべし、
我
(
わ
)
れ
夢
(
ゆめ
)
さら
戀
(
こひ
)
なども
厭
(
い
)
やらしき
心
(
こヽろ
)
みぢんも
無
(
な
)
けれど、
此理由
(
このわけ
)
こそ
知
(
し
)
りたけれ、
若
(
わか
)
き
女
(
をんな
)
の
定
(
さだ
)
まらぬ
心
(
こヽろ
)
に
何物
(
なにもの
)
か
觸
(
ふ
)
るヽ
事
(
こと
)
ありて、
夫
(
そ
)
れより
起
(
おこ
)
りし
生道心
(
なまだうしん
)
などならば、かへすがへす
淺
(
あさ
)
ましき
事
(
こと
)
なり、
第
(
だい
)
一は
不憫
(
ふびん
)
のことなり、
中々
(
なか〳〵
)
に
高尚
(
けだか
)
き
心
(
こヽろ
)
を
持
(
もち
)
そこねて、
魔道
(
まだう
)
に
落入
(
おちい
)
るは
我々
(
われ〳〵
)
書生
(
しよせい
)
の
上
(
うへ
)
にもあるを、
何
(
なに
)
ごとにも
一
(
ひ
)
と
筋
(
すぢ
)
なる
乙女氣
(
をとめぎ
)
には
無理
(
むり
)
ならねど、さりとは
歎
(
なげ
)
かはしき
迷
(
まよ
)
ひなり、
兎
(
と
)
も
角
(
かく
)
も
親
(
した
)
しく
逢
(
あ
)
ひて
親
(
した
)
しく
語
(
かた
)
りて、
諫
(
いさ
)
むべきは
諫
(
いさ
)
め
慰
(
なぐさ
)
むべきは
慰
(
なぐさ
)
めてやりたし、さは
言
(
い
)
へど
知
(
し
)
りがたきが
世
(
よ
)
の
中
(
なか
)
なれば
令孃
(
ひめ
)
にも
惡
(
わろ
)
き
虫
(
むし
)
などありて、
其身
(
そのみ
)
も
行
(
ゆ
)
きたく
親
(
おや
)
も
遣
(
や
)
りたけれど
嫁入
(
よめい
)
りの
席
(
せき
)
に
落花
(
らつくわ
)
の
狼藉
(
らうぜき
)
を
萬一
(
もし
)
と
氣
(
き
)
づかへば、
娘
(
むすめ
)
の
耻
(
はぢ
)
も
我
(
わ
)
が
耻
(
はぢ
)
も
流石
(
さすが
)
に
子爵
(
ししやく
)
どの
宜
(
よ
)
く
隱
(
か
)
くして、
一生
(
いつしやう
)
を
箱入
(
はこい
)
りらしく
暮
(
く
)
らさせんとにや、さすれば
此歌
(
このうた
)
は
無心
(
むしん
)
に
書
(
か
)
きたるものにて
半文
(
はんもん
)
の
價値
(
ねうち
)
もあらず、
否
(
いな
)
この
優美
(
いうび
)
の
筆
(
ふで
)
のあとは
何
(
なん
)
としても
破廉耻
(
はれんち
)
の
人
(
ひと
)
にはあらじ、
必
(
かな
)
らず
深
(
ふか
)
き
子細
(
しさい
)
ありて
尋常
(
なみ
)
ならぬ
思
(
おも
)
ひを
振袖
(
ふりそで
)
に
包
(
つヽ
)
む
人
(
ひと
)
なるべし、
扨
(
さて
)
もゆかしや
其
(
その
)
ぬば
玉
(
たま
)
の
夜半
(
よは
)
の
夢
(
ゆめ
)
。
はじめは
好奇
(
かうき
)
の
心
(
こヽろ
)
に
誘
(
さそ
)
はれて、
空
(
むな
)
しき
想像
(
おもひ
)
をいろいろに
描
(
ゑが
)
きしが、
又
(
また
)
折
(
をり
)
もがな
今
(
いま
)
一
(
ひ
)
と
度
(
たび
)
みたしと
願
(
ねが
)
へど、
夫
(
それ
)
よりは
如何
(
いか
)
に
行違
(
ゆきちが
)
ひてか
後
(
うし
)
ろかげだに
見
(
み
)
ることあらねば、
水
(
みづ
)
を
求
(
もと
)
めて
得
(
え
)
ぬ
時
(
とき
)
の
渇
(
かわ
)
きに
同
(
おな
)
じく、
一念
(
いちねん
)
此處
(
こヽ
)
に
集
(
あつ
)
まりては
今更
(
いまさら
)
に
紛
(
まぎ
)
らはすべき
手段
(
しゆだん
)
もなく、
朝
(
あさ
)
も
晝
(
ひる
)
も
燭
(
しよく
)
をとりても、はては
學校
(
がくかう
)
へ
行
(
ゆ
)
きても
書
(
しよ
)
を
開
(
ひ
)
らきても、
西行
(
さいぎやう
)
の
歌
(
うた
)
と
令孃
(
ひめ
)
の
姿
(
すがた
)
と
入
(
い
)
り
亂
(
み
)
だれて
眼
(
め
)
の
前
(
まへ
)
を
離
(
はな
)
れぬに、
敏
(
さとし
)
われながら
呆
(
あき
)
れる
計
(
ばか
)
り、
天晴
(
あつぱ
)
れ
未來
(
みらい
)
の
文學者
(
ぶんがくしや
)
が
此樣
(
このやう
)
のことにて
如何
(
どう
)
なる
物
(
もの
)
ぞと、
叱
(
しか
)
りつける
後
(
あと
)
より
我
(
わ
)
が
心
(
こヽろ
)
ふらふらと
成
(
な
)
るに、
是非
(
ぜひ
)
もなし
是上
(
このうへ
)
はと
下宿
(
げしゆく
)
の
世帶
(
しよたい
)
一切
(
いつさい
)
たヽみて、
此家
(
こヽ
)
にも
學校
(
がくかう
)
にも
腦病
(
なうびやう
)
の
療養
(
れうやう
)
に
歸國
(
きこく
)
といひ
立
(
た
)
て、
立
(
たち
)
いでしまヽ
一月
(
ひとつき
)
ばかりを
何處
(
いづく
)
に
潜
(
ひそ
)
みしか、
戀
(
こひ
)
の
奴
(
やつこ
)
のさても
可笑
(
をか
)
しや、
香山家
(
かやまけ
)
の
庭男
(
にはをとこ
)
に
住
(
す
)
み
込
(
こ
)
みしとは。
第
(
だい
)
二
回
(
くわい
)
敏
(
さとし
)
おさなきより
植木
(
うゑき
)
のあつかひを
好
(
す
)
きて、
小器用
(
こぎよう
)
に
鋏
(
はさみ
)
も
使
(
つか
)
へば、
竹箒
(
たけばヽき
)
にぎつて
庭男
(
にはをとこ
)
ぐらゐ
何
(
なん
)
でもなきこと、
但
(
たゞ
)
し
身
(
み
)
の
素性
(
すじやう
)
を
知
(
し
)
られじと
計
(
ばか
)
り、
誠
(
まこと
)
に
只今
(
たヾいま
)
の
山出
(
やまだ
)
しにて、
土
(
つち
)
をなめても
是
(
こ
)
れを
立身
(
りつしん
)
の
手始
(
てはじ
)
めにしたき
願
(
わが
)
[#ルビの「わが」はママ]
ひと、
我
(
わ
)
れながら
宜
(
よ
)
くも
言
(
い
)
へたる
嘘
(
うそ
)
にかためて、
名前
(
なまへ
)
をも
其通
(
そのとほ
)
り、
當座
(
たうざ
)
にこしへらて
[#「こしへらて」はママ]
吾助
(
ごすけ
)
とか
言
(
い
)
ひけり、さても
氣
(
き
)
の
利
(
き
)
かぬとて
是
(
こ
)
れほどの
役廻
(
やくまは
)
りあるべきや、
浮世
(
うきよ
)
の
勤
(
つとめ
)
めを
一巡
(
いちじゆん
)
終
(
をは
)
りて、さても
猶
(
なほ
)
かヽるべき
子
(
こ
)
の
怠惰
(
のら
)
にてもあらば、
如來樣
(
によらいさま
)
お
出迎
(
でむか
)
ひまで
此口
(
このくち
)
つるしても
置
(
お
)
かれず、
草
(
くさ
)
むしりに
庭掃除
(
にはさうぢ
)
ぐらゐはとて、六十
男
(
をとこ
)
のする
仕事
(
しごと
)
ぞかし、
勿躰
(
もつたい
)
なや
古事記
(
こじき
)
舊事記
(
くじき
)
を
朝夕
(
あさゆふ
)
に
開
(
ひ
)
らきて、
万葉集
(
まんえふしふ
)
に
不審紙
(
ふしんがみ
)
をしたる
手
(
て
)
を、
泥鉢
(
どろばち
)
のあつかひに
汚
(
け
)
がす
事
(
こと
)
と
人
(
ひと
)
は
知
(
し
)
らねど、
埒
(
らち
)
もなく
万年青
(
おもと
)
の
葉
(
は
)
あらひ、さては
芝生
(
しばふ
)
を
這
(
は
)
つて
木
(
こ
)
の
葉
(
は
)
を
拾
(
ひろ
)
ふ
姿
(
すがた
)
、
我
(
われ
)
ながら
見
(
み
)
られた
体
(
てい
)
でなく、これを
萬一
(
もし
)
も
學友
(
とも
)
などに
見
(
み
)
つけられなばと、
心
(
こヽろ
)
笹原
(
さヽはら
)
をはしりて、
門外
(
もんぐわい
)
の
用事
(
ようじ
)
を
兎角
(
とかく
)
に
厭
(
いと
)
へば、
勝手
(
かつて
)
ばたらきの
女子
(
をんな
)
ども
可笑
(
をか
)
しがりて、
東京
(
とうきやう
)
は
鬼
(
おに
)
の
住
(
す
)
む
處
(
ところ
)
でもなきを、
土地
(
とち
)
なれねば
彼
(
あ
)
のやうに
怕
(
こは
)
きものかと、
美事
(
みごと
)
田舍
(
ゐなか
)
ものにしてのけられぬ。
君
(
きみ
)
ゆゑこそ
可惜
(
あたら
)
青年
(
わかもの
)
一人
(
ひとり
)
、
此處
(
こヽ
)
にかく
淺
(
あさ
)
ましき
躰
(
てい
)
たらくと、
窓
(
まど
)
の
小笹
(
をざヽ
)
を
吹
(
ふ
)
く
風
(
かぜ
)
そよとも
告
(
つ
)
げねば、
知
(
し
)
らぬ
令孃
(
ひめ
)
は
大方
(
おほかた
)
部屋
(
へや
)
に
籠
(
こも
)
りて、
琴
(
こと
)
の
音
(
ね
)
などにいよいよ
心
(
こヽろ
)
を
腦
(
なや
)
まさせけるが、
折
(
をり
)
ふしの
庭
(
には
)
あるきに
微塵
(
みぢん
)
きずなき
美
(
うつ
)
くしさを
認
(
みと
)
め、
我
(
わ
)
れならぬ
召使
(
めしつか
)
ひに
優
(
やさ
)
しき
詞
(
ことば
)
をかけ
給
(
たま
)
ふにても
情
(
なさけ
)
ふかき
程
(
ほど
)
は
知
(
し
)
られぬ、
最初
(
はじめ
)
の
想像
(
さう〴〵
)
には
子細
(
しさい
)
らしく
珠數
(
じゆす
)
などを
振袖
(
ふりそで
)
の
中
(
なか
)
に
引
(
ひ
)
きかくし、
經文
(
きやうもん
)
の
讀誦
(
どくじゆ
)
に
抹香
(
まつかう
)
くさくなりて、
娘
(
むすめ
)
らしき
匂
(
にほ
)
ひは
遠
(
とほ
)
かるべしと
思
(
おも
)
ひしに、
其
(
その
)
やうの
氣
(
け
)
ぶりもなく、
柳髮
(
りうはつ
)
いつも
高島田
(
たかしまだ
)
に
結
(
むす
)
ひ
上
(
あ
)
げて、
後
(
おく
)
れ
毛
(
げ
)
一
(
ひ
)
と
筋
(
すぢ
)
えりに
亂
(
み
)
ださぬ
嗜
(
たしな
)
みのよさ、さても
好
(
この
)
みの
斯
(
か
)
くまでに
上手
(
じやうず
)
なるか、
但
(
たゞ
)
しは
此人
(
このひと
)
の
身
(
み
)
に
添
(
そ
)
ひし
果報
(
くわはう
)
か、
銀
(
しろかね
)
の
平打
(
ひらうち
)
一つに
鴇色
(
ときいろ
)
ぶさの
根掛
(
ねがけ
)
むすびしを、
優
(
いう
)
にうつくしく
似合
(
にあ
)
ひ
給
(
たま
)
へりと
見
(
み
)
れば、
束髮
(
そくはつ
)
さしの
花
(
はな
)
一輪
(
いちりん
)
も
中々
(
なか〳〵
)
に
愛
(
あい
)
らしく、
此處
(
こヽ
)
一つに
美人
(
びじん
)
の
價値
(
ねうち
)
定
(
さだ
)
まるといふ
天然
(
てんねん
)
の
衣襟
(
えもん
)
つき、
襦袢
(
じゆばん
)
の
襟
(
えり
)
の
紫
(
むらさき
)
なる
時
(
とき
)
は
顏色
(
いろ
)
こと
更
(
さら
)
に
白
(
しろ
)
くみえ、
態
(
わざ
)
と
質素
(
じみ
)
なる
黒
(
くろ
)
ちりめんに
赤糸
(
あかいと
)
のこぼれ
梅
(
うめ
)
など
品
(
ひん
)
一層
(
いつそう
)
も
二層
(
にそう
)
もよし、あるが
中
(
なか
)
にも
薄色綸子
(
うすいろりんず
)
の
被布
(
ひふ
)
すがたを
小波
(
さヾなみ
)
の
池
(
いけ
)
にうつして、
緋鯉
(
ひごひ
)
に
餌
(
ゑ
)
をやる
弟君
(
おとヽぎみ
)
と
共
(
とも
)
に、
餘念
(
よねん
)
もなく
麩
(
ふ
)
をむしりて、
自然
(
しぜん
)
の
笑
(
ゑ
)
みに
睦
(
むつ
)
ましき
(
さヽや
)
きの
浦山
(
うらやま
)
しさ、
敏
(
さとし
)
もとより
築山
(
つきやま
)
ごしに
拜
(
をが
)
むばかりの
願
(
ねが
)
ひならず、あはれ
此君
(
このきみ
)
が
肺腑
(
はいふ
)
に
入
(
い
)
りて
秘密
(
ひみつ
)
の
鍵
(
かぎ
)
を
我
(
わ
)
が
手
(
て
)
にしたく、
時機
(
をり
)
あれかしと
待
(
ま
)
つま
待遠
(
まちどほ
)
や、
一月
(
ひとつき
)
ばかりを
仇
(
あだ
)
に
暮
(
くら
)
して
近
(
ちか
)
づく
便
(
たよ
)
りの
無
(
な
)
きこそは
道理
(
だうり
)
なれ、
令孃
(
ひめ
)
は
高嶺
(
たかね
)
の
花
(
はな
)
これは
麓
(
ふもと
)
の
塵
(
ちり
)
、なれども
嵐
(
あらし
)
は
平等
(
びやうどう
)
に
吹
(
ふ
)
く
物
(
もの
)
ぞかし。
甚之助
(
じんのすけ
)
とて
香山家
(
かやまけ
)
の
次男
(
じなん
)
、すゑなりに
咲
(
さ
)
く
花
(
はな
)
いとヾ
大輪
(
おほりん
)
にて、
九
(
こヽの
)
つなれども
權勢
(
いきほひ
)
一
家
(
か
)
を
凌
(
しの
)
ぎ、
腕白
(
わんぱく
)
さ
限
(
かぎ
)
りなく、
分別顏
(
ふんべつがほ
)
の
家扶
(
かふ
)
にさへ
手
(
て
)
に
合
(
あ
)
はず、
佛國
(
ふつこく
)
に
留學
(
りうがく
)
の
兄上
(
あにうへ
)
御歸朝
(
ごきてう
)
までは、
此君
(
このきみ
)
にあたる
人
(
ひと
)
あるまじと
見
(
み
)
えけるが、
孃
(
ひめ
)
とは
隨一
(
いつ
)
の
中
(
なか
)
よしにて、
何
(
なに
)
ごとにも
中姉樣
(
ちうねえさま
)
と
慕
(
した
)
ひ
寄
(
よ
)
れば、もとより
物
(
もの
)
やさしき
質
(
たち
)
の、これは
又
(
また
)
一段
(
いちだん
)
に
可愛
(
かあい
)
がりて、
物
(
もの
)
さびしき
雨
(
あめ
)
の
夜
(
よ
)
など、
燈火
(
ともしび
)
の
下
(
もと
)
に
書物
(
しよもつ
)
を
開
(
ひ
)
らき、
膝
(
ひざ
)
に
抱
(
いだ
)
きて
畫
(
ゑ
)
を
見
(
み
)
せ、これは
何時何時
(
いつ〳〵
)
の
昔
(
むか
)
し
何處
(
どこ
)
の
國
(
くに
)
に、
甚樣
(
じんさま
)
のやうな
剛
(
つよ
)
き
人
(
ひと
)
ありて、
其時代
(
そのとき
)
の
帝
(
みかど
)
に
背
(
そむ
)
きし
賊
(
ぞく
)
を
討
(
う
)
ち、
大功
(
たいこう
)
をなして
此畫
(
このゑ
)
は
引上
(
ひきあげ
)
の
處
(
ところ
)
、この
馬
(
うま
)
に
乘
(
の
)
りしが
大將
(
たいしやう
)
と
説明
(
はな
)
せば、
雀躍
(
こをどり
)
して
喜
(
よろこ
)
び、
僕
(
ぼく
)
も
成長
(
おほきく
)
ならば
素晴
(
すば
)
らしき
大將
(
たいしやう
)
に
成
(
な
)
り、
賊
(
ぞく
)
などは
何
(
なん
)
でもなく
討
(
う
)
ち、そして
此樣
(
このやう
)
に
書物
(
ほん
)
に
記
(
か
)
かれる
人
(
ひと
)
に
成
(
な
)
りて、
父樣
(
とうさま
)
や
母樣
(
かあさま
)
に
御褒美
(
ごはうび
)
を
頂
(
いたヾ
)
くべしと
威張
(
ゐば
)
るに、
令孃
(
ひめ
)
は
微笑
(
ほヽゑ
)
みながら
勇
(
いさ
)
ましきを
賞
(
ほ
)
めて、その
樣
(
やう
)
な
大將
(
たいしやう
)
に
成
(
な
)
り
給
(
たま
)
ひても、
私
(
わた
)
しとは
今
(
いま
)
に
替
(
かは
)
らず
中
(
なか
)
よくして
下
(
くだ
)
されや、
大姉樣
(
おほねえさま
)
も
其外
(
そのほか
)
のお
人
(
ひと
)
も
夫々
(
それ〳〵
)
に
片付
(
かたづき
)
て、
人
(
ひと
)
の
奧樣
(
おくさま
)
に
成
(
な
)
り
給
(
たま
)
ふ
身
(
み
)
、
私
(
わた
)
しにはお
兄樣
(
にいさま
)
とお
前樣
(
まへさま
)
ばかりが
頼
(
たよ
)
りなれど、
誰
(
た
)
れよりも
私
(
わた
)
しはお
前樣
(
まへさま
)
が
好
(
す
)
きにて、
何卒
(
どうぞ
)
いつまでも
今
(
いま
)
の
通
(
とほ
)
り
御一處
(
ごいつしよ
)
に
居
(
を
)
りたければ、
成長
(
おほき
)
くなりてお
邸
(
やしき
)
の
出來
(
でき
)
し
時
(
とき
)
、かならず
伴
(
とも
)
なひてお
茶
(
ちや
)
の
間
(
ま
)
の
御用
(
ごよう
)
にても
爲
(
さ
)
せ
給
(
たま
)
へ、お
分
(
わか
)
りに
成
(
な
)
りしかと
頬
(
ほヽ
)
ずりして
言
(
い
)
へば、しだらも
無
(
な
)
く
抱
(
だ
)
かれながら
口
(
くち
)
ばかりは
大人
(
おとな
)
らしく、それは
僕
(
ぼく
)
が
大將
(
たいしやう
)
に
成
(
な
)
りて、そしてお
邸
(
やしき
)
が
出來
(
でき
)
さへすれば、
其處
(
そこ
)
に
姉樣
(
ねえさま
)
を
連
(
つ
)
れて
行
(
ゆ
)
きて、いろいろの
御馳走
(
ごちそう
)
をなし、いろいろの
面白
(
おもしろ
)
きことをして
遊
(
あそ
)
ぶべし、
大姉樣
(
おほねえさま
)
や
小姉樣
(
ちひねえさま
)
は
僕
(
ぼく
)
を
少
(
すこ
)
しも
可愛
(
かあい
)
がりて
呉
(
く
)
れねば、
彼
(
あ
)
んな
奴
(
やつ
)
には
御馳走
(
ごちそう
)
もせず、
門
(
もん
)
をしめて
内
(
うち
)
へ
入
(
い
)
れずに
泣
(
な
)
かしてやらん、と
言
(
い
)
ふを
止
(
と
)
めて、
其樣
(
そのやう
)
な
意地
(
いぢ
)
わるは
仰
(
おつ
)
しやるな、
母樣
(
かあさま
)
がお
聞
(
きヽ
)
にならば
惡
(
わ
)
るし、
夫
(
そ
)
れでも
姉樣
(
ねえさま
)
たちは
自分
(
じぶん
)
ばかり
演藝會
(
えんげいくわい
)
や
花見
(
はなみ
)
に
行
(
ゆ
)
きて、
中姉樣
(
ちうねえさま
)
は
何時
(
いつ
)
もお
留守居
(
るすゐ
)
のみし
給
(
たま
)
へば、
僕
(
ぼく
)
が
我長
(
おほきく
)
ならば
中姉樣
(
ちうねえさま
)
ばかり
方々
(
はう〴〵
)
に
連
(
つ
)
れて
行
(
ゆ
)
きて、ぱのらまや
何
(
なに
)
かヾ
見
(
み
)
せたきなり、
夫
(
そ
)
れは
色々
(
いろ〳〵
)
の
畫
(
ゑ
)
が
活
(
いき
)
たる
樣
(
やう
)
に
描
(
か
)
きてありて、
鐵砲
(
てつぱう
)
や
何
(
なに
)
かも
本當
(
ほんたう
)
の
樣
(
やう
)
にて、
火事
(
かじ
)
の
處
(
ところ
)
もあり
軍
(
いくさ
)
の
處
(
ところ
)
もあり、
僕
(
ぼく
)
は
大變
(
たいへん
)
に
好
(
す
)
きなれば、
姉樣
(
ねえさま
)
も
御覽
(
ごらん
)
にならば
吃度
(
きつと
)
お
好
(
す
)
きならん、
大姉樣
(
おほねえさま
)
は
上野
(
うへの
)
のも
淺草
(
あさくさ
)
のも
方々
(
はう〴〵
)
のを
幾度
(
いくど
)
も
見
(
み
)
しに、
中姉樣
(
ちうねえさま
)
を
一度
(
いちど
)
も
連
(
つ
)
れて
行
(
ゆ
)
かぬは
意地
(
いぢ
)
わるでは
無
(
な
)
きか、
僕
(
ぼく
)
は
夫
(
そ
)
れか
憎
(
に
)
くらしければと、
思
(
おも
)
ふまヽを
遠慮
(
ゑんりよ
)
もなく
言
(
い
)
ふ
可愛
(
かあい
)
さ、
左樣
(
さう
)
おもふて
下
(
くだ
)
さるは
嬉
(
うれ
)
しけれど、
其樣
(
そのやう
)
のこと
他人
(
ひと
)
に
言
(
い
)
ふて
給
(
たま
)
はるなよ、
芝居
(
しばゐ
)
も
花見
(
はなみ
)
も
行
(
ゆ
)
かぬのは
私
(
わた
)
しの
好
(
す
)
きにて、
姉樣
(
ねえさま
)
たちの
御存
(
ごぞん
)
じはなき
事
(
こと
)
なり、もう
此話
(
このはな
)
しは
廢
(
よ
)
しまするほどに、
何
(
なん
)
ぞお
前樣
(
まへさま
)
が
今日
(
けふ
)
あそびて、
面白
(
おもしろ
)
く
思
(
おも
)
ひしお
話
(
はな
)
しがあらば
聞
(
き
)
かして
下
(
くだ
)
され、
今日
(
けふ
)
は
吾助
(
ごすけ
)
がどの
樣
(
やう
)
なお
話
(
はな
)
しをいたしました。
この
大將
(
たいしやう
)
の
若樣
(
わかさま
)
難
(
なん
)
なく
敏
(
さとし
)
が
擒
(
とりこ
)
になりけり、
令孃
(
ひめ
)
との
中
(
なか
)
の
睦
(
むつ
)
ましきを
見
(
み
)
るより、
奇貨
(
きくわ
)
おくべしと
竹馬
(
たけうま
)
の
製造
(
せいざう
)
を
手
(
て
)
はじめに、
植木
(
うゑき
)
の
講譯
(
かうしやく
)
、いくさ
物語
(
ものがたり
)
、
田舍
(
ゐなか
)
の
爺
(
ぢい
)
婆
(
ばあ
)
は
如何
(
いか
)
にをかしき
事
(
こと
)
を
言
(
い
)
ひて、
何處
(
いづこ
)
の
野山
(
のやま
)
は
如何
(
いか
)
にひろく、
某
(
それ
)
の
海
(
うみ
)
には
名
(
な
)
のつけ
樣
(
やう
)
もなき
大魚
(
たいぎよ
)
ありて、
鰭
(
ひれ
)
を
動
(
うご
)
かせば
波
(
なみ
)
のあがること
幾千丈
(
いくせんぢやう
)
、
夫
(
そ
)
れが
又
(
また
)
鳥
(
とり
)
に
化
(
け
)
してと、
珍
(
めづ
)
らしきこと
怪
(
あや
)
しきこと
取
(
とり
)
とめなく
詰
(
つま
)
らなきことを、
可笑
(
をか
)
しらしく
話
(
はな
)
して
機嫌
(
きげん
)
を
取
(
と
)
れば、
幼
(
おさ
)
な
心
(
こヽろ
)
に
十倍
(
じふばい
)
も
百倍
(
ひやくばい
)
も
面
(
おも
)
しろく、
吾助々々
(
ごすけ〳〵
)
と
付
(
つ
)
きまとひて
離
(
はな
)
れず、
我
(
わ
)
が
心
(
こヽろ
)
に
面白
(
おもしろ
)
しと
聞
(
き
)
けば
夫
(
そ
)
れを
其
(
その
)
まヽ
令孃
(
ひめ
)
に
語
(
かた
)
りて、
吾助
(
ごすけ
)
が
話
(
はな
)
しは
何
(
なに
)
ごとも
嘘
(
うそ
)
ならぬ
顏
(
かほ
)
つき、
眞面目
(
まじめ
)
らしく
取
(
と
)
りつぐを
聞
(
き
)
けば、
時鳥
(
ほとヽぎす
)
と
鵙
(
もず
)
の
前世
(
ぜんせ
)
は
同卿人
(
どうきやうじん
)
にて、
沓
(
くつ
)
さしと
鹽賣
(
しほうり
)
なりし、
其時
(
そのとき
)
に
沓
(
くつ
)
を
買
(
か
)
ひて
價
(
だい
)
をやらざりしかば、
夫
(
そ
)
れが
借金
(
しやくきん
)
になりて
鵙
(
もず
)
は
頭
(
あたま
)
が
上
(
あ
)
がらず、
時鳥
(
ほとヽぎす
)
の
來
(
く
)
る
時分
(
じぶん
)
に
餌
(
ゑ
)
をさがして
蛙
(
かへる
)
などを
道
(
みち
)
の
草
(
くさ
)
にさし、
夫
(
そ
)
れを
食
(
く
)
はせてお
詫
(
わび
)
をするとか、
是
(
こ
)
れは
本當
(
ほんたう
)
の
本當
(
ほんたう
)
の
話
(
はな
)
しにて
和歌
(
うた
)
にさへ
詠
(
よ
)
めば、
姉樣
(
ねえさま
)
に
聞
(
き
)
きても
分
(
わか
)
ることヽ
吾助
(
ごすけ
)
が
言
(
い
)
ひたり、
吾助
(
ごすけ
)
は
大層
(
たいそう
)
な
學者
(
がくしや
)
にて
何
(
なに
)
ごとも
知
(
し
)
らぬ
事
(
こと
)
なく、
西洋
(
せいやう
)
だの
支那
(
しな
)
だの
天竺
(
てんじく
)
や
何
(
なに
)
かのことも
宜
(
よ
)
く
知
(
し
)
りて、
其話
(
そのはな
)
しが
面白
(
おもしろ
)
ければ
姉樣
(
ねえさま
)
にも
是非
(
ぜひ
)
お
聞
(
き
)
かせ
申
(
まうし
)
たし、
從來
(
まへかた
)
の
爺
(
ぢい
)
と
違
(
ちが
)
ひ
僕
(
ぼく
)
を
可愛
(
かあい
)
がりて
姉樣
(
ねえさま
)
を
賞
(
ほ
)
めて、
本當
(
ほんたう
)
に
好
(
い
)
い
奴
(
やつ
)
なれば、
今度
(
こんど
)
僕
(
ぼく
)
の
沓
(
くつ
)
したを
編
(
あ
)
みてたまはる
時
(
とき
)
彼
(
あ
)
れにも
何
(
なに
)
か
製
(
こし
)
らへて
給
(
たま
)
はれ、
宜
(
よろ
)
しきか
姉樣
(
ねえさま
)
、
屹度
(
きつと
)
ぞかし
姉樣
(
ねえさま
)
、と
熱心
(
ねつしん
)
にたのみて、
覺束
(
おぼつか
)
なき
承諾
(
しようだく
)
の
詞
(
ことば
)
を
其通
(
そのとほ
)
り
敏
(
さとし
)
に
傳
(
つた
)
ふれば、
此消息
(
このせうそく
)
は
人目
(
ひとめ
)
の
關
(
せき
)
の
憚
(
はヾか
)
りもなく、
玉簾
(
たまだれ
)
やすやす
越
(
こ
)
えて、
見
(
み
)
るは
邂逅
(
たま
)
なる
令孃
(
ひめ
)
の
便
(
たよ
)
りを
敏
(
さとし
)
は
日毎
(
ひごと
)
に
手
(
て
)
に
取
(
と
)
るばかり、
事故
(
よし
)
ありげなる
心
(
こヽろ
)
の
底
(
そこ
)
も、
此處
(
こヽ
)
にはじめて
朧々
(
おぼろ〳〵
)
わかれば、
可憐
(
いとほし
)
の
念
(
ねん
)
むらむらと
堪
(
た
)
へがたく、
君
(
きみ
)
ゆゑにこそ
斯
(
か
)
くまでに
身
(
み
)
を
盡
(
つ
)
くす
我
(
われ
)
、
木石
(
ぼくせき
)
ならぬ
令孃
(
ひめ
)
に
憎
(
に
)
くかるべき
筈
(
はず
)
なし、
此荊棘
(
このいばら
)
の
中
(
なか
)
すくひ
出
(
だ
)
してと、
影
(
かげ
)
も
未
(
ま
)
だなる
戀
(
こひ
)
に
竹
(
たけ
)
の
柱
(
はしら
)
の
詫住居
(
わびずまゐ
)
を
思
(
おも
)
ひぬ。
第
(
だい
)
三
回
(
くわい
)
闇
(
やみ
)
を
常
(
つね
)
なる
人
(
ひと
)
の
親
(
おや
)
ごヽろ、
子
(
こ
)
故
(
ゆゑ
)
の
道
(
みち
)
に
迷
(
まよ
)
はぬは
無
(
な
)
きものをと
敏
(
さとし
)
此處
(
こヽ
)
に
眼
(
め
)
を
止
(
と
)
むれば、
香山家
(
かやまけ
)
三人
(
みたり
)
の
女子
(
むすめ
)
の
中
(
うち
)
、
上
(
かみ
)
は
氣
(
き
)
むづかしく
末
(
すゑ
)
は
活溌
(
はね
)
にて、
容貌
(
きりやう
)
大底
(
たいてい
)
なれども
何
(
なん
)
として
彼
(
か
)
の
君
(
きみ
)
に
及
(
およ
)
ぶ
者
(
もの
)
なく、
是
(
こ
)
れにても
同胞
(
はらから
)
かと
思
(
おも
)
ふばかりの
相違
(
さうゐ
)
なるに、
怪
(
あや
)
しきは
母君
(
はヽぎみ
)
の
仕向
(
しむけ
)
にて、
流石
(
さすが
)
かるがるしき
下々
(
しも〴〵
)
の
目
(
め
)
に
立
(
たち
)
し
分
(
わ
)
け
隔
(
へだ
)
ては
無
(
な
)
けれども、
同
(
おな
)
じ
物言
(
ものい
)
ひの
何處
(
どこ
)
やら
苦
(
に
)
がく、
愁
(
つ
)
らかるべしと
思
(
おも
)
ふこと
折々
(
をり〳〵
)
に
見
(
み
)
えけり。
子爵
(
ししやく
)
の
君
(
きみ
)
最愛
(
さいあい
)
のおもひ
者
(
もの
)
など、
桐壼
(
きりつぼ
)
の
更衣
(
かうい
)
めかしき
優
(
や
)
さ
形
(
がた
)
なるが、
此奧方
(
このおくがた
)
の
妬
(
ねた
)
みつよさに、
可惜
(
あたら
)
花
(
はな
)
ざかり
肺病
(
はいびやう
)
にでもなりて、
形見
(
かたみ
)
の
止
(
とゞ
)
めし
令孃
(
ひめ
)
ならんには、
父君
(
ちヽぎみ
)
の
愛
(
あい
)
いかばかり
深
(
ふか
)
かるべきを、いよいよ
胸
(
むね
)
わるく
憎
(
に
)
くらしく
思
(
おも
)
ひ、
然
(
しか
)
るべき
縁
(
えん
)
にもつけず
生殺
(
なまごろ
)
しにして、
他處目
(
よそめ
)
ばかりは
何處
(
どこ
)
までも
我儘
(
わがまヽ
)
らしき
氣隨
(
きずゐ
)
ものに
言
(
い
)
ひ
立
(
た
)
て、
其長
(
そのなが
)
き
舌
(
した
)
に
父君
(
ちヽぎみ
)
をも
卷
(
ま
)
き
込
(
こ
)
みしか、この一
家
(
け
)
に
令孃
(
ひめ
)
ありと
見
(
み
)
て
心
(
こヽろ
)
を
盡
(
つ
)
くす
者
(
もの
)
なく、
有
(
あ
)
るは
甚之助殿
(
じんのすけどの
)
と
我
(
わ
)
れ
計
(
ばかり
)
なる
不憫
(
いぢら
)
しさよ、いざや
此心
(
このこヽろ
)
筆
(
ふで
)
に
言
(
い
)
はして、
時機
(
あは
)
よくは
何處
(
いづこ
)
へなりとも
暫時
(
しばし
)
伴
(
とも
)
なひ、
其上
(
そのうへ
)
にての
策
(
さく
)
は
又
(
また
)
如何樣
(
いかやう
)
にもあるべく、よし
一時
(
いちじ
)
は
陸奧
(
みちのく
)
の
名取川
(
なとりがは
)
、
清
(
きよ
)
からぬ
名
(
な
)
を
流
(
なが
)
しても
宜
(
よ
)
し、
憚
(
はゞ
)
かりの
世
(
よ
)
の
中
(
なか
)
打割
(
うちわ
)
りて
見
(
み
)
れば、
天縁
(
てんえん
)
我
(
わ
)
れに
有
(
あ
)
つて
此處
(
こヽ
)
に
運
(
はこ
)
びしかも
知
(
し
)
れず、
今
(
いま
)
こそ
一寒
(
いつかん
)
書生
(
しよせい
)
の
名
(
な
)
もなけれど、やがては
令孃
(
ひめ
)
をも
幸福
(
かうふく
)
の
位置
(
ゐち
)
に
据
(
す
)
ゑて、
不名譽
(
ふめいよ
)
の
取
(
と
)
り
返
(
か
)
へしは
譯
(
わけ
)
もなきことなり、
扨
(
さて
)
も
濱千鳥
(
はまちどり
)
ふみ
通
(
かよ
)
ふ
道
(
みち
)
はと
夜
(
よ
)
もすがら
筆
(
ふで
)
を
握
(
にぎ
)
りしが、もとより
蓮葉
(
はすは
)
ならぬ
令孃
(
ひめ
)
の、
殊
(
こと
)
に
我
(
わ
)
れ
庭男
(
にはをとこ
)
などに
目
(
め
)
の
付
(
つ
)
く
筈
(
はず
)
なければ、
最初
(
はじめ
)
より
艷書
(
ふみ
)
と
知
(
し
)
りては、
手
(
て
)
に
觸
(
ふ
)
れ
給
(
たま
)
ふか
否
(
いな
)
か
其處
(
そこ
)
まことに
危
(
あや
)
ふし、
如何
(
いか
)
にせんと
思案
(
しあん
)
に
苦
(
くるし
)
みしが、
夫
(
そ
)
れよ、
人目
(
ひとめ
)
にふるヽは
何
(
ど
)
の
道
(
みち
)
おなじこと、
何
(
なに
)
も
度胸
(
どきよう
)
と
半紙
(
はんし
)
四五
枚
(
まい
)
二つ
折
(
をり
)
にして、
墨
(
すみ
)
つぎ
濃
(
こ
)
く
淡
(
うす
)
く
文
(
ふみ
)
か
有
(
あ
)
らぬか
書
(
か
)
き
紛
(
まぎ
)
らはし、
態
(
わざ
)
と
綴
(
と
)
ぢて
表紙
(
へうし
)
にも
字
(
じ
)
を
書
(
か
)
き、
此趣向
(
このしゆかう
)
うまくゆけかしと
明
(
あ
)
くるを
待
(
ま
)
ちけるが、
人
(
ひと
)
しらぬこそ
是非
(
ぜひ
)
なけれ、
此處
(
こヽ
)
は
隣
(
とな
)
りざかひの
藪際
(
やぶぎは
)
にて、
用心
(
ようじん
)
の
爲
(
ため
)
にと
茅葺
(
かやぶき
)
の
設
(
まう
)
けに
住
(
す
)
まはする
庭男
(
にはをとこ
)
、
扨
(
さて
)
も
扨
(
さて
)
も
此曲物
(
このくせもの
)
とは。
日影
(
ひかげ
)
うらうらと
霞
(
かす
)
みて
朝
(
あさ
)
つゆ
花
(
はな
)
びらに
重
(
おも
)
く、
風
(
かぜ
)
もがな
蝴蝶
(
こてふ
)
の
睡
(
ねむ
)
り
覺
(
さ
)
ましたきほど、
靜
(
しづ
)
かなる
朝
(
あした
)
の
景色
(
けしき
)
、
甚之助
(
じんのすけ
)
子供
(
こども
)
ごヽろにも
浮
(
う
)
き
立
(
たち
)
て、
何時
(
いつ
)
より
早
(
はや
)
く
庭
(
には
)
にかけ
下
(
お
)
りれば、
若樣
(
わかさま
)
、と
隙
(
す
)
かさず
呼
(
よ
)
びて、
笑顏
(
ゑがほ
)
をまづ
見
(
み
)
する
庭男
(
にはをとこ
)
に、
其
(
その
)
まヽ
縋
(
すが
)
りて
箒木
(
はヽき
)
の
手
(
て
)
を
動
(
うご
)
かせず、
吾助
(
ごすけ
)
お
前
(
まへ
)
は
畫
(
ゑ
)
がかけるかと
突然
(
とつぜん
)
に
問
(
と
)
ふ
可笑
(
をか
)
しさ。
畫
(
ゑ
)
もかきまする
歌
(
うた
)
も
詠
(
よ
)
みまする
騎射
(
きしや
)
でも
打毬
(
だきう
)
でもお
好
(
この
)
み
次第
(
しだい
)
と
笑
(
わら
)
へば、
夫
(
それ
)
ならば
畫
(
ゑ
)
を
描
(
か
)
きて
呉
(
く
)
れよ、
夕
(
ゆふ
)
べ
姉樣
(
ねえさま
)
と
賭
(
かけ
)
をして、これが
負
(
ま
)
ければ
僕
(
ぼく
)
の
小刀
(
ないふ
)
を
取
(
と
)
られる
約束
(
やくそく
)
、
夫
(
そ
)
れは
吾助
(
ごすけ
)
のことからにて、
僕
(
ぼく
)
は
吾助
(
ごすけ
)
に
畫
(
ゑ
)
が
描
(
か
)
けると
言
(
い
)
ひしを、
姉樣
(
ねえさま
)
はかけまじと
言
(
い
)
ひたり、
負
(
ま
)
けては
口惜
(
くや
)
しければ
姉樣
(
ねえさま
)
が
驚
(
おど
)
ろくほど
上手
(
じやうず
)
に、
後
(
のち
)
と
言
(
い
)
はずに
今
(
いま
)
直
(
すぐ
)
に
畫
(
か
)
きて
呉
(
く
)
れよ、
掃除
(
そうぢ
)
などは
爲
(
せ
)
ずとも
宜
(
よ
)
しとて
箒木
(
はヽき
)
を
奪
(
うば
)
へば、
吾助
(
ごすけ
)
少
(
すこ
)
し
困
(
こま
)
りて、
描
(
か
)
きてはあげまするが
今
(
いま
)
は
少
(
すこ
)
し、
後
(
のち
)
に
吾助
(
ごすけ
)
の
部屋
(
へや
)
へお
出
(
いで
)
なされ
騎馬武者
(
きばむしや
)
をかきて
參
(
まゐ
)
らせん、
夫
(
そ
)
れとも
山水
(
さんすゐ
)
の
景色
(
けしき
)
にせんかと
紛
(
まぎ
)
らせば、
嫌
(
いや
)
、
嫌
(
いや
)
、
嫌
(
いや
)
、
今
(
いま
)
でなくては
何
(
なん
)
でも
嫌
(
いや
)
なり、
後
(
のち
)
になぞと
言
(
い
)
はヾ
其
(
その
)
うちに
僕
(
ぼく
)
は
負
(
ま
)
けて、
小刀
(
ないふ
)
を
取
(
と
)
られるから
嫌
(
いや
)
、どうぞ
是非
(
ぜひ
)
今
(
いま
)
直
(
すぐ
)
に
描
(
かき
)
て
呉
(
く
)
れよ、
紙
(
かみ
)
や
筆
(
ふで
)
は
姉樣
(
ねえさま
)
のを
借
(
か
)
りて
來
(
く
)
べし、と
箒木
(
はヽき
)
を
捨
(
す
)
てヽ
欠
(
か
)
け
出
(
だ
)
すに、
先
(
ま
)
づお
待
(
まち
)
なされと
遽
(
あわ
)
たヾしく
止
(
と
)
め、
直
(
す
)
ぐと
仰
(
おつ
)
しやれば
是非
(
ぜひ
)
なけれど、
下手
(
へた
)
に
出來
(
でき
)
なば
却
(
かへ
)
りて
姉樣
(
ねえさま
)
に
笑
(
わら
)
はれ、
若樣
(
わかさま
)
の
負
(
まけ
)
と
言
(
い
)
ふ
物
(
もの
)
なり、
斯
(
か
)
うなされ、
畫
(
ゑ
)
はゆるゆると
後日
(
ごにち
)
の
事
(
こと
)
になし、
吾助
(
ごすけ
)
は
畫
(
ゑ
)
よりも
歌
(
うた
)
の
名人
(
めいじん
)
にて、
田舍
(
ゐなか
)
に
居
(
を
)
りし
時
(
とき
)
は
先生
(
せんせい
)
なりし
故
(
ゆゑ
)
、
其和歌
(
そのわか
)
を
姉樣
(
ねえさま
)
にお
目
(
め
)
にかけて
驚
(
おどろ
)
かし
給
(
たま
)
へ、
夫
(
それ
)
こそ
必
(
かな
)
らず
若樣
(
わかさま
)
の
勝
(
かち
)
に
成
(
な
)
るべしと
言
(
い
)
へば、
早
(
はや
)
く
其歌
(
そのうた
)
を
詠
(
よ
)
めと
せがむ
に
懷中
(
ふところ
)
より
彼
(
か
)
の
綴
(
と
)
ぢ
文
(
ぶみ
)
を
出
(
いだ
)
し、
是
(
こ
)
れは
極
(
ごく
)
大切
(
たいせつ
)
の
歌
(
うた
)
にて
人
(
ひと
)
に
見
(
み
)
すべきでは
無
(
な
)
けれど、
若樣
(
わかさま
)
をお
勝
(
か
)
たせ
申
(
まうし
)
たく、
他
(
ほか
)
の
人
(
ひと
)
に
内證
(
ないしよ
)
にて
姉樣
(
ねえさま
)
ばかりに
御覽
(
ごらん
)
に
入
(
い
)
れ
給
(
たま
)
へ、
早
(
はや
)
く、
内證
(
ないしよ
)
で、
姉樣
(
ねえさま
)
にお
上
(
あ
)
げなされ、と三つ四つに
折
(
を
)
りて
甚之助
(
じんのすけ
)
の
懷中
(
ふところ
)
に
押
(
おし
)
いれしが、
無心
(
むしん
)
の
處
(
ところ
)
何
(
なん
)
とも
氣
(
き
)
づかはしく、
落
(
おと
)
さぬやうに
人
(
ひと
)
に
見
(
み
)
せぬ
樣
(
やう
)
にと
呉々
(
くれ〳〵
)
をしへ、
早
(
はや
)
くお
出
(
い
)
でなされと
言
(
い
)
へば、
兩手
(
りやうて
)
に
胸
(
むね
)
を
抱
(
いだ
)
きて一
心
(
しん
)
に
駈
(
か
)
け
出
(
だ
)
す
甚之助
(
じんのすけ
)
、お
落
(
おと
)
しなさるな、と
呼
(
よ
)
びもならず、
俄
(
には
)
かに
心付
(
こヽろづき
)
て
四邊
(
あたり
)
を
見
(
み
)
れば、
花
(
はな
)
に
吹
(
ふ
)
く
風
(
かぜ
)
我
(
わ
)
れを
笑
(
わら
)
ふか、
人目
(
ひとめ
)
はなけれど
何處
(
どこ
)
までも
恐
(
おそ
)
ろしく、
庭掃除
(
にはそうぢ
)
そこそこに
唯
(
たヾ
)
人
(
ひと
)
に
逢
(
あ
)
はじと
計
(
はか
)
り、
敏
(
さとし
)
これほどの
小膽
(
せうたん
)
とも
思
(
おも
)
はざりしを。
我
(
わ
)
が
思
(
おも
)
ふ
人
(
ひと
)
ほど
耻
(
はづ
)
かしく
恐
(
おそ
)
ろしき
物
(
もの
)
はなし、
女同志
(
をんなどし
)
の
親
(
した
)
しきにても
此人
(
このひと
)
こそと
敬
(
うやま
)
ふ
友
(
とも
)
に、さし
向
(
むか
)
ひては
何
(
なに
)
ごとも
言
(
い
)
はれず、
其人
(
そのひと
)
の
一言
(
ひとこと
)
二言
(
ふたこと
)
に、
耻
(
はづ
)
かしきは
飽
(
あ
)
くまで
耻
(
はづ
)
かしく、
恐
(
おそ
)
ろしきは
飽
(
あ
)
くまで
恐
(
おそ
)
ろしく、
塵
(
ちり
)
ほどの
事
(
こと
)
身
(
み
)
にしみぬべし、
男女
(
なんによ
)
の
中
(
なか
)
もかヽる
物
(
もの
)
にや、
甚之助
(
じんのすけ
)
の
吾助
(
ごすけ
)
を
慕
(
した
)
ふは
夫
(
そ
)
れとも
異
(
こと
)
なりて
淡
(
あは
)
き
物
(
もの
)
なれど、
我
(
わが
)
が
好
(
この
)
む
人
(
ひと
)
の
一言
(
いちごん
)
重
(
おも
)
く、
文
(
ふみ
)
を
懷
(
ふところ
)
にして
令孃
(
ひめ
)
の
部屋
(
へや
)
に
來
(
き
)
し
時
(
とき
)
は、
末
(
すゑ
)
の
姉君
(
あねぎみ
)
此處
(
こヽ
)
にありて、お
細工物
(
さいくもの
)
の
最中
(
もなか
)
なるに、
今
(
いま
)
見
(
み
)
せては
惡
(
わ
)
るかるべしと、
情實
(
わけ
)
は
素
(
もと
)
より
知
(
し
)
る
筈
(
はず
)
なけれど、
吾助
(
ごすけ
)
とも
言
(
い
)
はで
遊
(
あそ
)
び
居
(
ゐ
)
けるが、
甚樣
(
じんさま
)
私
(
わた
)
しの
部屋
(
へや
)
へもお
出
(
いで
)
なされ、
玉突
(
たまつき
)
して
遊
(
あそ
)
びますほどに、と
面白
(
おもしろ
)
げに
誘
(
さそ
)
ひて
座
(
ざ
)
を
立
(
た
)
つ
姉君
(
あねきみ
)
、
早
(
はや
)
く
去
(
い
)
ねがしに
はたはた
と
障子
(
しやうじ
)
を
立
(
た
)
てヽ、
姉樣
(
ねえさま
)
これ、と
懷中
(
ふところ
)
より
半
(
なか
)
ば
見
(
み
)
せ、
吾助
(
ごすけ
)
は
畫
(
ゑ
)
も
上手
(
じやうず
)
なれど
歌
(
うた
)
の
方
(
はう
)
が
猶
(
なほ
)
名人
(
めいじん
)
ゆゑ、これを
御覽
(
ごらん
)
に
入
(
い
)
れさへすれば、
僕
(
ぼく
)
が
勝
(
か
)
つと
吾助
(
ごすけ
)
が
言
(
い
)
ひたり、
勝
(
か
)
てば
僕
(
ぼく
)
の
小刀
(
ないふ
)
は
僕
(
ぼく
)
のにて、
姉樣
(
ねえさま
)
のごむ
人形
(
にんぎやう
)
はお
約束
(
やくそく
)
ゆゑ
頂
(
いたゞ
)
くのなり、さあ
賜
(
たま
)
はれと
手
(
て
)
を
重
(
かき
)
[#ルビの「かき」はママ]
ねれば、
令孃
(
ひめ
)
は
微笑
(
ほヽゑ
)
みながら、
嫌
(
いや
)
、
嫌
(
いや
)
、お
約束
(
やくそく
)
は
畫
(
ゑ
)
なるに
歌
(
うた
)
にては
嫌
(
いや
)
よ、ごむ
人形
(
にんぎやう
)
は
上
(
あ
)
げまじと
頭
(
かしら
)
をふるに、
夫
(
そ
)
れでも
姉樣
(
ねえさま
)
この
歌
(
うた
)
は
極
(
ごく
)
大切
(
たいせつ
)
のにて、
人
(
ひと
)
にも
見
(
み
)
せず
落
(
おと
)
さぬ
樣
(
やう
)
に
御覽
(
ごらん
)
に
入
(
い
)
れろと
吾助
(
ごすけ
)
の
言
(
い
)
ひしは、
畫
(
ゑ
)
よりも
良
(
よ
)
きに
相違
(
さうゐ
)
はなし、
是非
(
ぜひ
)
人形
(
にんぎやう
)
を
賜
(
たま
)
はれとて
手渡
(
てわた
)
しするに、
何心
(
なにごヽろ
)
なく
開
(
ひ
)
らきて
一
(
いち
)
二
(
に
)
行
(
ぎやう
)
よむとせしが、
物言
(
ものい
)
はず
疊
(
たヽ
)
みて
手文庫
(
てぶんこ
)
に
納
(
をさ
)
めれば、
其顏
(
そのかほ
)
を
不審
(
いぶかし
)
げに
仰
(
あふ
)
ぎて、
姉樣人形
(
ねえさまにんぎやう
)
は
下
(
くだ
)
さるか、
進
(
あ
)
げますると
僅
(
わづ
)
かに
諾
(
うなづ
)
く
令孃
(
ひめ
)
、
甚之助
(
じんのすけ
)
は
嬉
(
うれ
)
しく
立
(
たち
)
あがつて、
勝
(
か
)
つた
勝
(
か
)
つた。
第
(
だい
)
四
回
(
くわい
)
此思
(
このおも
)
ひ
通
(
つう
)
じさへせば
此心
(
このこヽろ
)
安
(
やす
)
かるべしと
願
(
ねが
)
ふは
淺
(
あさ
)
し、
入立
(
いりた
)
つまヽに
欲
(
よく
)
は
増
(
ま
)
さりて、はてなき
物
(
もの
)
は
戀
(
こひ
)
なりとかや、
敏
(
さとし
)
はじめての
艷書
(
ふみ
)
に
心
(
こヽろ
)
をいためて、
萬一
(
もし
)
落
(
お
)
ち
散
(
ち
)
りもせば
罪
(
つみ
)
は
我
(
わ
)
れのみならず、
知
(
し
)
らじとて
令孃
(
ひめ
)
も
免
(
ゆ
)
るされまじ、さらでもの
繼母御前
(
まヽはヽごぜ
)
如何
(
いか
)
にたけりて、どの
樣
(
やう
)
の
事
(
こと
)
にまで
立
(
たち
)
いたるべきか、
思
(
おも
)
へば
我
(
わ
)
が
思慮
(
しりよ
)
あさはかにて、
甚之助殿
(
じんのすけどの
)
に
頼
(
たの
)
みしは
萬々
(
ばん〴〵
)
の
不覺
(
ふかく
)
なりし、とも
思
(
おも
)
ひ
又
(
また
)
自
(
みづ
)
から
勵
(
はげ
)
ましては、
何
(
なん
)
の
譯
(
わけ
)
もなきこと、
大英斷
(
だいえいだん
)
の
庭男
(
にはをとこ
)
とさへ
成
(
な
)
りし
我
(
われ
)
、
此上
(
このうへ
)
の
出來
(
でき
)
ごと
覺悟
(
かくご
)
の
前
(
まへ
)
なり、
只
(
たゞ
)
あやふきは
令孃
(
ひめ
)
が
心
(
こヽろ
)
にて、
首尾
(
しゆび
)
よく
文
(
ふみ
)
は
屆
(
とヾ
)
きたりとも、つれなく
返
(
か
)
へされなば
甲斐
(
かひ
)
もなきこと、
兎角
(
とかく
)
に
甚之助殿
(
じんのすけどの
)
の
便
(
たよ
)
り
聞
(
き
)
きたしと
待
(
まち
)
けるが、
其日
(
そのひ
)
の
夕方
(
ゆふがた
)
彼
(
か
)
の
人形
(
にんぎやう
)
を
持
(
も
)
ちて
例日
(
いつ
)
よりも
嬉
(
うれ
)
しげに、お
前
(
まへ
)
の
歌
(
うた
)
ゆゑ
首尾
(
しゆび
)
よく
我
(
わ
)
が
勝
(
かち
)
に
成
(
な
)
り、
此樣
(
このやう
)
な
人形
(
にんぎやう
)
を
取
(
と
)
りしと
誇
(
ほこ
)
り
顏
(
かほ
)
に
來
(
き
)
て
見
(
み
)
すれば、
姉樣
(
ねえさま
)
は
彼
(
あ
)
の
歌
(
うた
)
を
御覽
(
ごらん
)
なされしや、して
何
(
なん
)
と
仰
(
おつ
)
しやりしと
問
(
と
)
へば、
何
(
なん
)
とも
言
(
い
)
はずに
文庫
(
ぶんこ
)
に
入
(
いれ
)
てお
仕舞
(
しまひ
)
なされしが、
今度
(
こんど
)
も
又
(
また
)
あの
樣
(
やう
)
な
歌
(
うた
)
を
詠
(
よ
)
みて、
姉樣
(
ねえさま
)
の
御覽
(
ごらん
)
に
入
(
い
)
れよかし、お
前
(
まへ
)
が
褒
(
ほ
)
められなば
我
(
わ
)
れとても
嬉
(
うれ
)
しき
物
(
もの
)
をと
可愛
(
かあゆ
)
く
言
(
い
)
ふに、
思
(
おも
)
ひある
身
(
み
)
一層
(
いつそう
)
たのもしく
樣々
(
さま〴〵
)
に
機嫌
(
きげん
)
を
取
(
と
)
りて、
姉樣
(
ねえさま
)
も
定
(
さだ
)
めし
和歌
(
うた
)
はお
上手
(
じやうず
)
ならん、
是非
(
ぜひ
)
吾助
(
ごすけ
)
も
拜見
(
はいけん
)
が
仕
(
し
)
たければ、
此頃
(
このごろ
)
に
姉樣
(
ねえさま
)
にお
願
(
ねが
)
ひなされ、お
書
(
か
)
き
捨
(
す
)
てを
頂
(
いたゞ
)
きて
給
(
たま
)
はれ、
必
(
かな
)
らず、
屹度
(
きつと
)
と
返事
(
へんじ
)
の
通路
(
つうろ
)
を
此處
(
こヽ
)
にをしへ、
一日
(
いちにち
)
を
待
(
ま
)
ち
二日
(
ふつか
)
を
待
(
ま
)
ち、
三日
(
みつか
)
に
成
(
な
)
りても
音沙汰
(
おとさた
)
の
無
(
な
)
きに
敏
(
さとし
)
こヽろ
悶
(
もだ
)
え、
甚之助
(
じんのすけ
)
を
見
(
み
)
るごとに
夫
(
そ
)
れとなく
促
(
うな
)
がせば、
僕
(
ぼく
)
も
貰
(
もら
)
つて
遣
(
や
)
りたけれど
姉樣
(
ねえさま
)
が
下
(
くだ
)
さらねばと、
哀
(
あは
)
れ
板
(
いた
)
ばさみに
成
(
な
)
りて
困
(
こま
)
り
入
(
い
)
りし
体
(
てい
)
、
子心
(
こごヽろ
)
にも
義理
(
ぎり
)
に
引
(
ひ
)
かれてか
中
(
なか
)
に
立
(
た
)
ちて
胡亂胡亂
(
うろうろ
)
するを、
敏
(
さとし
)
いろ〳〵に
頼
(
たの
)
みて
此度
(
このたび
)
は
封
(
ふう
)
じ
文
(
ぶみ
)
に、あらん
限
(
かぎ
)
りの
言葉
(
ことば
)
を
如何
(
いか
)
に
書
(
か
)
きけん、
文章
(
ぶんしやう
)
の
艶麗
(
えんれい
)
は
評判
(
ひやうばん
)
の
男
(
をとこ
)
なりしが。
見
(
み
)
る
目
(
め
)
に
見
(
み
)
なば
美男
(
びなん
)
とも
言
(
い
)
ふべきにや、
鼻筋
(
はなすぢ
)
とほり
眼
(
め
)
もと
鈍
(
にぶ
)
からず、
豐頬
(
しもぶくれ
)
の
柔和顏
(
にうわがほ
)
なる
敏
(
さとし
)
、
流石
(
さすが
)
に
學問
(
がくもん
)
のつけたる
品位
(
ひんゐ
)
は、
庭男
(
にはをとこ
)
に
成
(
な
)
りても
身
(
み
)
を
放
(
はな
)
れず、
吾助吾助
(
ごすけ〳〵
)
と
勝手元
(
かつてもと
)
に
姦
(
かし
)
ましき
評判
(
ひやうばん
)
は、お
茶
(
ちや
)
の
間
(
ま
)
を
越
(
こ
)
して
大奧
(
おほおく
)
にも
高
(
たか
)
く、お
約束
(
やくそく
)
の
聟君
(
むこぎみ
)
洋行中
(
やうかうちう
)
にて、
寐覺
(
ねざめ
)
を
寫眞
(
しやしん
)
に
物
(
もの
)
がたる
總領
(
そうりやう
)
の
令孃
(
ひめ
)
さへ、
垣根
(
かきね
)
の
櫻
(
さくら
)
折
(
を
)
れかし
吾助
(
ごすけ
)
、いさヽかの
用事
(
ようじ
)
にて
大層
(
たいそう
)
らしく、
御褒美
(
ごはうび
)
に
賜
(
たま
)
はる
菓子
(
くわし
)
の
花紅葉
(
はなもみぢ
)
、お
手
(
て
)
づからなる
名譽
(
めいよ
)
はあれど、
戀
(
こひ
)
に
本尊
(
ほんぞん
)
あれば
傍
(
わき
)
だちに
觸
(
ふ
)
れる
眼
(
め
)
なく、一
心
(
しん
)
おもひ
込
(
こ
)
みては
有
(
あり
)
し
昔
(
むか
)
しの
敏
(
さとし
)
ならで、
可惜
(
あたら
)
廿四の
勉強
(
べんきやう
)
ざかりを
此体
(
このてい
)
たらく
殘念
(
ざんねん
)
とも
思
(
おも
)
はねばこそ、
甚之助
(
じんのすけ
)
に
追從
(
つゐしよう
)
しあるきて、
本心
(
ほんしん
)
には
成
(
な
)
るまじき
文
(
ふみ
)
の
趣向
(
しゆかう
)
、
案外
(
あんぐわい
)
のことにて
拍子
(
へうし
)
よく
行
(
ゆ
)
き、
文庫
(
ぶんこ
)
に
納
(
をさ
)
め
給
(
たま
)
ひしとは
最
(
も
)
う
我
(
わ
)
がもの、と一
度
(
たび
)
は
勇
(
いさ
)
みけるが、
夫
(
それ
)
より
後
(
のち
)
の
幾度
(
いくど
)
幾通
(
いくつう
)
かき
送
(
おく
)
りし
文
(
ふみ
)
に一
度
(
たび
)
の
返事
(
へんじ
)
もなく、さりとて
無情
(
つれなく
)
は
投
(
なげ
)
かへしもせねど、
披
(
ひ
)
らきて
讀
(
よ
)
みしや
否
(
いな
)
や
甚
(
じん
)
之
助
(
すけ
)
が
答
(
こた
)
へぶりの
果敢
(
はか
)
なさに、
此度
(
このたび
)
こそと
書
(
かき
)
たるは、
長
(
なが
)
さ
尋
(
ひろ
)
にあまり
思
(
おも
)
ひ
筆
(
ふで
)
にあふれて、
我
(
わ
)
れながら
斯
(
か
)
くまでも
迷
(
まよ
)
ふ
物
(
もの
)
かと、
文
(
ふみ
)
を
投出
(
なげだ
)
して
嘆息
(
たんそく
)
しけるが、
甚
(
じん
)
之
助
(
すけ
)
に
向
(
むか
)
ひては
猶
(
なほ
)
さら
悲
(
かな
)
しげに、
姉樣
(
ねえさま
)
はあくまで
吾助
(
ごすけ
)
を
憎
(
に
)
くみて、あれほど
御覽
(
ごらん
)
に
入
(
い
)
れし
歌
(
うた
)
に一
度
(
たび
)
のお
返歌
(
へんか
)
もなく、あまつさへ
貴君
(
あなた
)
にまで、この
樣
(
やう
)
の
取次
(
とりつぎ
)
するなとさへ
仰
(
おつ
)
しやりし
無情
(
つれな
)
さ、これ
程
(
ほど
)
の
耻
(
はぢ
)
を
見
(
み
)
て
我
(
わ
)
れ
男
(
をとこ
)
の
身
(
み
)
の、をめをめお
邸
(
やしき
)
に
居
(
を
)
られねば、
暇
(
いとま
)
を
賜
(
たま
)
はりて
歸國
(
きこく
)
すべけれど、
聞
(
き
)
き
給
(
たま
)
へ
我
(
わ
)
れ
田舍
(
ゐなか
)
には
兩親
(
りやうしん
)
もなく、
只
(
たヾ
)
一人
(
ひとり
)
ありし
妹
(
いもと
)
の
我
(
わ
)
れと
非常
(
ひじやう
)
に
中
(
なか
)
よかりしが、
今
(
いま
)
は
亡
(
う
)
せて
何
(
なに
)
もなき
身
(
み
)
、その
妹
(
いもと
)
が
姉樣
(
ねえさま
)
に
正寫
(
そつくり
)
にて、
今
(
いま
)
も
在世
(
あら
)
ばと
戀
(
こひ
)
しさ
堪
(
た
)
へがたく、お
前樣
(
まへさま
)
に
姉樣
(
ねえさま
)
なれば
我
(
わ
)
れには
妹
(
いもと
)
の
樣
(
やう
)
に
思
(
おも
)
はれて、
其
(
その
)
お
書
(
か
)
き
捨
(
す
)
ての
反古
(
ほご
)
にても
身
(
み
)
に
添
(
そ
)
へて
持
(
も
)
たば
本望
(
ほんまう
)
なるべく、
切
(
せ
)
めて一
筆
(
ふで
)
の
拜見
(
はいけん
)
が
願
(
ねが
)
ひたきなり、されども
斯
(
か
)
く
下賤
(
げせん
)
の
我
(
わ
)
れ、いか
樣
(
やう
)
に
思
(
おも
)
ふとも
及
(
およ
)
びなき
事
(
こと
)
にて、
無禮
(
ぶれい
)
ものとお
叱
(
しか
)
りを
受
(
う
)
ければ
夫
(
それ
)
まで、なれどもお
厭
(
いや
)
ならばお
厭
(
いや
)
にて、
寧
(
むしろ
)
、
斷然
(
さつぱり
)
、
目通
(
めどほ
)
りも
厭
(
いや
)
やなれば
疾
(
と
)
く
此處
(
こヽ
)
を
去
(
い
)
ねかし、とでも
發言
(
あり
)
て、いよ〳〵
成
(
な
)
るまじき
事
(
こと
)
と
知
(
し
)
らば
其上
(
そのうへ
)
に
覺悟
(
かくご
)
もあり、
斯
(
か
)
くまでの
思
(
おも
)
ひ
何
(
なん
)
としても
消
(
き
)
ゆる
筈
(
はず
)
なけれど、
覺悟
(
かくご
)
次第
(
しだい
)
に
斷念
(
あきらめ
)
もつくべし、
今
(
いま
)
一
度
(
ど
)
此文
(
これ
)
を
進
(
あ
)
げて、
明
(
あき
)
らかのお
答
(
こた
)
へ
聞
(
き
)
いて
給
(
たま
)
はれ、
夫
(
そ
)
れ
次第
(
しだい
)
にて
若樣
(
わかさま
)
にもお
別
(
わか
)
れに
成
(
な
)
るべければと
虚實
(
きよじつ
)
をまぜて、
子心
(
こごヽろ
)
に
哀
(
あは
)
れと
聞
(
き
)
くやう
頼
(
たの
)
みければ、
甚
(
じん
)
之
助
(
すけ
)
もとより
吾助
(
ごすけ
)
贔負
(
びいき
)
にて、
此男
(
このをとこ
)
のこと一も十も
成就
(
じやうじゆ
)
させたく、
喜
(
よろこ
)
ぶ
顏
(
かほ
)
見
(
み
)
たさの一
心
(
しん
)
に、これまでの
文
(
ふみ
)
の
幾通
(
いくつう
)
も
人目
(
ひとめ
)
に
觸
(
ふ
)
れぬ
樣
(
やう
)
とヾこほり
無
(
な
)
く
屆
(
とヾ
)
け、
令孃
(
ひめ
)
の
心
(
こヽろ
)
も
知
(
し
)
らず
返事
(
へんじ
)
をと
責
(
せ
)
めしが、
此
(
この
)
迫
(
せま
)
りたる
詞
(
ことば
)
に
我
(
わ
)
れまづ
悲
(
かな
)
しく、
今日
(
けふ
)
こそは
必
(
かな
)
らず
返事
(
へんじ
)
を
取
(
と
)
り、
其方
(
そち
)
の
喜
(
よろこ
)
ぶ
樣
(
やう
)
にすれば、
田舍
(
ゐなか
)
へ
行
(
ゆ
)
くことは
廢
(
や
)
めになし、
何時
(
いつ
)
までも
此處
(
こヽ
)
に
居
(
ゐ
)
て
呉
(
く
)
れよ、
突然
(
だしぬけ
)
に
田舍
(
ゐなか
)
へ
行
(
ゆ
)
きては
嫌
(
い
)
やぞと
泣
(
な
)
き、
其涙
(
そのなみだ
)
を
敏
(
さとし
)
に
拭
(
ぬぐ
)
はれて
猶
(
なほ
)
かなしく、
手
(
て
)
にすがりて
何時
(
いつ
)
までも
泣
(
な
)
きしが、
三歳子
(
みつご
)
の
魂
(
たましひ
)
いつはりには
有
(
あ
)
らで、
此
(
この
)
こと
心根
(
しんこん
)
にしみて
悲
(
かな
)
しければこそ、
其夜
(
そのよ
)
閑燈
(
かんとう
)
のもとに
令孃
(
ひめ
)
を
拜
(
を
)
がみて、
吾助
(
ごすけ
)
は
斯
(
か
)
く
思
(
おも
)
ひて
斯
(
か
)
く
言
(
い
)
ふを、
後生
(
ごしやう
)
、
姉樣
(
ねえさま
)
返事
(
へんじ
)
を
賜
(
たま
)
はれ、
决
(
けつ
)
して
此後
(
こののち
)
我
(
わが
)
まヽも
言
(
い
)
はず
惡戯
(
いたづら
)
もなすまじければ、
吾助
(
ごすけ
)
の
田舍
(
ゐなか
)
へ
歸
(
かへ
)
らぬやう、
今
(
いま
)
まで
通
(
どほ
)
り一
處
(
しよ
)
に
遊
(
あそ
)
ばれるやう
返事
(
へんじ
)
を
賜
(
たま
)
はれ、
只
(
たヾ
)
一寸
(
ちよつと
)
で
宜
(
よ
)
し
吾助
(
ごすけ
)
は
一筆
(
ひとふで
)
にてもと
言
(
い
)
ひたれば、
此卷紙
(
このまきがみ
)
へ
何
(
なに
)
か
書
(
かき
)
て
僕
(
ぼく
)
に
賜
(
たま
)
はれ、
吾助
(
ごすけ
)
は
田舍
(
ゐなか
)
へ
歸
(
かへ
)
りても
行
(
ゆ
)
く
處
(
ところ
)
の
無
(
な
)
き
身
(
み
)
なれば、
大方
(
おほかた
)
は
乞食
(
こじき
)
に
成
(
な
)
るべきにや、
夫
(
それ
)
[#ルビの「それ」はママ]
れでは
僕
(
ぼく
)
どうしても
嫌
(
い
)
やなり、
是非
(
ぜひ
)
此文
(
これ
)
を
御覽
(
ごらん
)
なされて、
一寸
(
ちよつと
)
何
(
なに
)
とか
言
(
い
)
ふて
下
(
くだ
)
され、よう
姉樣
(
ねえさま
)
、よう
姉樣
(
ねえさま
)
、お
願
(
ねが
)
ひ、
此拜
(
これ
)
、とて
紅葉
(
もみぢ
)
の
手
(
て
)
を
合
(
あ
)
はす
可憐
(
いぢら
)
しさ、
情
(
なさけ
)
ふかき
女性
(
によしやう
)
の
身
(
み
)
の、
此事
(
これ
)
のみにても
涙
(
なみだ
)
の
價値
(
あたひ
)
はたしかなるに、よし
山賤
(
やまがつ
)
にせよ
庭男
(
にはをとこ
)
にせよ、
我
(
わ
)
れを
戀
(
こ
)
ふ
人
(
ひと
)
世
(
よ
)
に
憎
(
に
)
くかるべきか、
令孃
(
ひめ
)
の
情緒
(
こヽろ
)
いかに
縺
(
もつ
)
れけん、
甚
(
じん
)
之
助
(
すけ
)
母君
(
はヽぎみ
)
のもとに
呼
(
よ
)
ばれ、
此返事
(
このへんじ
)
を
聞
(
き
)
く
間
(
ま
)
なく、
殘
(
のこ
)
り
惜
(
を
)
しげに
出行
(
いでゆき
)
たるあとにて、
玉
(
たま
)
の
腕
(
かひな
)
に
此文
(
これ
)
を
抱
(
いだ
)
き、
胸
(
むね
)
に
當
(
あ
)
てヽ
夜
(
よ
)
もすがら
泣
(
な
)
きけり。
第
(
だい
)
五
回
(
くわい
)
二十
(
はたち
)
の
春
(
はる
)
を
夢
(
ゆめ
)
と
暮
(
く
)
らして、
落花
(
らくくわ
)
の
夕
(
ゆふ
)
べに
何
(
なに
)
ごとを
思
(
おも
)
ひつきてか、
令孃
(
ひめ
)
は
別莊住居
(
べつさうずまゐ
)
したき
願
(
ねが
)
ひ、
鎌倉
(
かまくら
)
の
何處
(
どこ
)
とやらに、
眺望
(
てうばう
)
を
撰
(
えら
)
んで
去年
(
こぞ
)
買
(
か
)
はれしが、
話
(
はな
)
しのみにて
未
(
ま
)
だ
見
(
み
)
ぬも
床
(
ゆか
)
かしく
[#「床かしく」はママ]
、
別亭
(
はなれ
)
の
洒落
(
しやれ
)
たるがありて、
名物
(
めいぶつ
)
の
松
(
まつ
)
がありてと
父君
(
ちヽぎみ
)
の
自慢
(
じまん
)
にすがり、
私
(
わたく
)
し
年來
(
としごろ
)
我
(
わ
)
が
儘
(
まヽ
)
に
暮
(
くら
)
して、
此上
(
このうへ
)
のお
願
(
ねが
)
ひは
申
(
まうし
)
がたけれど、とてもの
世
(
よ
)
を
其處
(
そこ
)
に
送
(
おく
)
らしては
給
(
たま
)
はらぬか、
甚之助樣
(
じんのすけさま
)
成長
(
おうきう
)
ならば、
遣
(
つか
)
はさるべきお
約束
(
やくそく
)
とや、
夫
(
それ
)
までのお
留守居
(
るすゐ
)
、
又
(
また
)
は
父樣
(
とうさま
)
折
(
をり
)
ふしのお
出遊
(
いで
)
に、
人任
(
ひとま
)
かせ
成
(
な
)
らずは
御不自由
(
ごふじいう
)
も
少
(
すく
)
なかるべく、
何卒
(
なにとぞ
)
其處
(
そこ
)
に
住
(
す
)
まはせて、
世
(
よ
)
を
白波
(
しらなみ
)
に
浦風
(
うらかぜ
)
おもしろく、
梅
(
うめ
)
の
花貝
(
はながひ
)
でも
拾
(
ひろ
)
はせて
給
(
たま
)
はれとの
願
(
ねが
)
ひ、
不憫
(
ふびん
)
や
如何樣
(
どのやう
)
な
子細
(
しさい
)
あればとて、
月花
(
つきはな
)
をかしき
盛
(
さか
)
りの
歳
(
とし
)
に、
千人
(
せんにん
)
萬人
(
まんにん
)
すぐれし
美色
(
びしよく
)
を、
鏡
(
かヾみ
)
は
無
(
な
)
きか
知
(
し
)
らぬかの
樣
(
やう
)
な
身
(
み
)
の
上
(
うへ
)
、
他人
(
ひと
)
ごとにして
嬉
(
うれ
)
しとは
聞
(
き
)
かれぬを、
親
(
おや
)
といふ
名
(
な
)
のまして
如何
(
いか
)
ならん、さりとは
隱居樣
(
いんきよさま
)
じみし
願
(
ねが
)
ひも、
令孃
(
ひめ
)
が
心
(
こヽろ
)
には
無理
(
むり
)
ならぬこと、
生中
(
なまなか
)
都
(
みやこ
)
に
置
(
お
)
きて
同胞
(
きやうだい
)
どもが、
浮世
(
うきよ
)
めかすを
見
(
み
)
するも
愁
(
つ
)
らし、
何
(
なに
)
ごとも
望
(
のぞ
)
みに
任
(
まか
)
[#ルビの「まか」はママ]
かせて、
住
(
す
)
みたしとならば
彼地
(
かしこ
)
に
住
(
す
)
ませ、
好
(
す
)
きな
琴
(
こと
)
でも
松風
(
まつかぜ
)
に
彈
(
ひ
)
き
合
(
あ
)
はし、
氣儘
(
きまヽ
)
に
暮
(
くら
)
させるが
切
(
せ
)
めてもと、
父君
(
ちヽぎみ
)
此處
(
こヽ
)
にお
許
(
ゆ
)
るしの
出
(
い
)
でければ、あまりとても
可愛想
(
かあいさう
)
のこと、よし
其身
(
そのみ
)
の
願
(
ねが
)
ひとて
彼
(
あ
)
の
樣
(
やう
)
な
遠
(
とほ
)
くに、
路
(
みち
)
は
夫
(
そ
)
れほどで
無
(
な
)
けれど
行
(
ゆ
)
き
限
(
き
)
りにては
我
(
わ
)
れも
心配
(
しんぱい
)
なり
子供
(
こども
)
たちも
淋
(
さび
)
しかるべく、
甚之助
(
じんのすけ
)
は
其
(
その
)
うちにも
慕
(
した
)
ひて、
中姉樣
(
ちうねえさま
)
ならでは
夜
(
よ
)
の
明
(
あ
)
けぬに、
朝夕
(
あさゆふ
)
の
駄々
(
だヾ
)
いかに
増
(
ま
)
さりて、
姉
(
あね
)
たちの
難義
(
なんぎ
)
が
見
(
み
)
ゆる
樣
(
やう
)
なれば、
今
(
いま
)
しばらく
止
(
と
)
まりてと、
母君
(
はヽぎみ
)
は
物
(
もの
)
やはらかに
曰
(
のたま
)
ひたれど、お
許
(
ゆる
)
しの
出
(
いで
)
しに
甲斐
(
かひ
)
なく、
夫々
(
それ〳〵
)
に
支度
(
したく
)
して
老實
(
まめやか
)
の
侍女
(
つき
)
を
撰
(
え
)
らみ、
出立
(
しゆつたつ
)
は
何日々々
(
いつ〳〵
)
と
内々
(
ない〳〵
)
に
取
(
とり
)
きめけるを、
甚之助
(
じんのすけ
)
かぎりなく
口惜
(
くや
)
しがり、
先
(
ま
)
づ
父君
(
ちヽぎみ
)
に
歎
(
なげ
)
き
母君
(
はヽぎみ
)
を
責
(
せ
)
め、
長幼
(
ふたり
)
の
令孃
(
ひめ
)
に
當
(
あた
)
りあるきて、
中姉樣
(
ちうねえさま
)
を
窘
(
いぢ
)
め
出
(
だ
)
すことヽ
恨
(
う
)
らみ、
僕
(
ぼく
)
をも
一處
(
とも
)
にやれと
迫
(
せ
)
まり、
令孃
(
ひめ
)
に
對
(
むか
)
へば
譯
(
わけ
)
もなく
甘
(
あま
)
へて、
取
(
と
)
りつきしまヽ
泣
(
な
)
きて
離
(
はな
)
れず、
姉樣
(
ねえさま
)
何
(
なに
)
ごとを
腹
(
はら
)
たちて
鎌倉
(
かまくら
)
なぞへお
出
(
いで
)
なさるぞ、
夫
(
そ
)
れも一
月
(
つき
)
や
半月
(
はんつき
)
ならば
宜
(
よ
)
けれど、お
歸邸
(
かへり
)
は
何時
(
いつ
)
とも
知
(
し
)
れずと
衆人
(
みな
)
が
言
(
い
)
ひたり、どの
樣
(
やう
)
に
仰
(
おつ
)
しやる
共
(
とも
)
それは
嘘
(
うそ
)
にて、
鎌倉
(
かまくら
)
へ
行
(
ゆ
)
かばお
歸
(
かへ
)
りの
無
(
な
)
きに
極
(
き
)
まりたれば、
殘
(
のこ
)
りて
淋
(
さび
)
しからんより
我
(
わ
)
れも
一處
(
とも
)
にゆき、
我
(
わ
)
れも
此邸
(
こヽ
)
に
歸
(
かへ
)
るまじ、
父樣
(
とうさま
)
も
嫌
(
い
)
や
母樣
(
かあさま
)
も
嫌
(
い
)
や、
誰
(
た
)
れを
捨
(
す
)
てヽも
諸共
(
もろとも
)
に
行
(
ゆ
)
かんと
計
(
ばか
)
り、
令孃
(
ひめ
)
は
靜
(
しづ
)
かに
諭
(
さと
)
して、
其身
(
そのみ
)
もほろりとし、
可愛
(
かあゆ
)
き
事
(
こと
)
いふて
泣
(
な
)
かし
給
(
たま
)
ふな、
鎌倉
(
かまくら
)
へ
行
(
ゆ
)
きて
歸
(
かへ
)
らぬとは
誰
(
た
)
れが
言
(
い
)
ひしか、
夫
(
それ
)
こそは
嘘
(
うそ
)
にて、
遂
(
つ
)
ひ
一寸
(
ちよつと
)
あそびに
行
(
ゆ
)
き、
其
(
その
)
うちに
歸
(
かへ
)
つて
來
(
き
)
まする
程
(
ほど
)
に、おとなしう
待
(
ま
)
ちて
給
(
たま
)
はれ、よし
歸
(
かへ
)
らずとて
彼地
(
あしこ
)
はお
前樣
(
まへさま
)
のお
邸
(
やしき
)
ゆゑ、
成長
(
おほきう
)
なり
給
(
たま
)
ふまでのお
留守居
(
るすゐ
)
、
今
(
いま
)
もお
連
(
つ
)
れ
申
(
まうし
)
たけれど
夫
(
それ
)
こそ
淋
(
さび
)
しく、
直
(
す
)
ぐ
嫌
(
い
)
やに
成
(
な
)
りて
母樣
(
かあさま
)
こひしかるべし、
何
(
なに
)
も
柔順
(
おとな
)
しう
成長
(
おほきう
)
なり
給
(
たま
)
へと、
詫
(
わび
)
るやうに
慰
(
なぐさ
)
められて、
夫
(
それ
)
でもと
椀白
(
わんぱく
)
も
言
(
い
)
へず、しくしく
泣
(
な
)
きに
平常
(
つね
)
の
元氣
(
げんき
)
なくなりて、
悄然
(
しよんぼり
)
とせし
姿
(
すがた
)
可憐
(
いぢら
)
し。
令孃
(
ひめ
)
が
鎌倉
(
かまくら
)
ごもりの
噂
(
うはさ
)
、
聞
(
き
)
く
胸
(
むね
)
とヾろきて
敏
(
さとし
)
しばしは
呆
(
あき
)
れしが、
猶
(
なほ
)
甚之助
(
じんのすけ
)
に
委
(
くは
)
しく
問
(
と
)
へば、
相違
(
さうゐ
)
なき
物語
(
ものがたり
)
半
(
なかば
)
は
泣
(
な
)
きながらにて、
何卒
(
なにとぞ
)
お
廢
(
や
)
めに
成
(
な
)
る
樣
(
やう
)
な
工風
(
くふう
)
は
無
(
な
)
きかと
頼
(
たの
)
まれて、
扨
(
さて
)
も
何
(
なに
)
とせん、
組
(
く
)
む
腕
(
うで
)
の
思案
(
しあん
)
にも
能
(
あた
)
はず、
凋
(
しほ
)
れかへる
甚之助
(
じんのすけ
)
が
人目
(
ひとめ
)
に
遠慮
(
ゑんりよ
)
なきを
浦
(
うら
)
やみて、
心
(
こヽろ
)
空
(
そら
)
になれど
土
(
つち
)
を
掃
(
は
)
く
身
(
み
)
に
箒木
(
はヽき
)
の
面倒
(
めんだう
)
さ、
此身
(
このみ
)
に
成
(
な
)
りしも
誰
(
た
)
れ
故
(
ゆゑ
)
かは、つれなき
令孃
(
ひめ
)
が
振舞
(
ふるまひ
)
其理由
(
そのわけ
)
も
探
(
さ
)
ぐれず、
此處
(
こヽ
)
に
捨
(
す
)
てられて
取
(
とり
)
のこされん
我
(
われ
)
、いでや
出立前
(
しゆつたつまへ
)
の一
目
(
め
)
をと
心
(
こヽろ
)
に
願
(
ねが
)
ひしが、
空
(
むな
)
しく
影
(
かげ
)
も
見
(
み
)
ずに
明日
(
あす
)
の
早朝
(
さうてう
)
と
恨
(
うら
)
めしき
便
(
たよ
)
り、
今
(
いま
)
は
何
(
なに
)
も
捨
(
す
)
てヽ一
日
(
にち
)
病氣
(
びやうき
)
と
伏
(
ふ
)
しけるが、
戀
(
こひ
)
に
亂
(
みだ
)
るヽ
心
(
こヽろ
)
あはれ
悲
(
かな
)
しくも、
令孃
(
ひめ
)
が
部屋
(
へや
)
の
戸
(
と
)
一
枚
(
まい
)
を
隔
(
へだ
)
てに、
今宵
(
こよひ
)
かぎりの
名殘
(
なごり
)
を
惜
(
を
)
しまんとて、
心
(
こヽろ
)
も
空
(
そら
)
も
宵闇
(
よひやみ
)
の
春
(
はる
)
の
夜
(
よ
)
、
落花
(
らくくわ
)
の
庭
(
には
)
に
踏
(
ふ
)
む
足
(
あし
)
の
音
(
おと
)
なきこそよけれ、
切
(
せ
)
めては
夢
(
ゆめ
)
に
入
(
い
)
れかしと
忍
(
しの
)
びぬ。
更
(
ふ
)
けて
軒
(
のき
)
ばに
風鈴
(
ふうりん
)
のおと
淋
(
さび
)
しや、
明日
(
あす
)
は
此音
(
このおと
)
いかに
戀
(
こひ
)
しく、
此軒
(
こののき
)
ばのこと
部屋
(
へや
)
のこと、
取分
(
とりわ
)
けては
甚樣
(
じんさま
)
のこと、
父君
(
ちヽぎみ
)
のこと
母君
(
はヽぎみ
)
のこと、
平常
(
つね
)
は
左
(
さ
)
までならぬ
姉妹
(
しまい
)
のこと、
戀
(
こひ
)
しかるべき
物
(
もの
)
をと
今
(
いま
)
も
戀
(
こひ
)
しく、
寐
(
ね
)
ぬ
夜
(
よ
)
の
床
(
とこ
)
に
物
(
もの
)
おもふ
令孃
(
ひめ
)
、
甚之助
(
じんのすけ
)
の
暫時
(
しばし
)
も
傍
(
かたはら
)
はなれず、
今宵
(
こよひ
)
も
此處
(
こヽ
)
に
寐
(
ね
)
んと
言
(
い
)
ひしを、
明日
(
あす
)
の
朝
(
あさ
)
の
邪魔
(
じやま
)
なればと
母君
(
はヽぎみ
)
遠慮
(
ゑんりよ
)
して、
連
(
つ
)
れ
行
(
ゆ
)
かれしあとの
猶
(
なほ
)
さら
淋
(
さび
)
しく、
思
(
おも
)
へば
明日
(
あす
)
よりの
閑居
(
かんきよ
)
いかならん、
甚樣
(
じんさま
)
はしばしこそ
我
(
わ
)
れを
慕
(
した
)
ひて
泣
(
な
)
きもし
給
(
たま
)
はめ、
程
(
ほど
)
へなば
自
(
おの
)
づと
忘
(
わす
)
れて、
姉樣
(
ねえさま
)
たちに
馴
(
な
)
れ
給
(
たま
)
はんは
必定
(
ひつぢやう
)
、
我
(
わ
)
れは
紛
(
ま
)
ぎるヽこと
無
(
な
)
き
身
(
み
)
の
戀
(
こひ
)
しさ
日毎
(
ひごと
)
に
増
(
ま
)
さりて、
彼
(
あ
)
の
笑顏
(
ゑがほ
)
みたしとても
及
(
およ
)
ぶ
事
(
こと
)
にあらず、
父君
(
ちヽぎみ
)
とても
左
(
さ
)
なりかし、
遠
(
とほ
)
く
離
(
はな
)
れて
面影
(
おもかげ
)
をしのばヽ、
近
(
ちか
)
きには十
倍
(
ばい
)
まして、
深
(
ふか
)
かりし
慈愛
(
じあい
)
の
聲
(
こゑ
)
この
耳
(
みヽ
)
を
離
(
はな
)
れざるべし、
是
(
こ
)
れによりてこそ
此處
(
こヽ
)
をも
捨
(
す
)
て、いとヾしき
思
(
おも
)
ひに
身
(
み
)
を
苦
(
く
)
るしむれど、
吾助
(
ごすけ
)
のことも
忘
(
わす
)
れがたし、
免
(
ゆ
)
るせよ
吾助
(
ごすけ
)
、
夢
(
ゆめ
)
さらさら
憎
(
に
)
くからねばこそ、
戀
(
こひ
)
すまじとて
退
(
の
)
く
身
(
み
)
ぞかし、うつせみの
世
(
よ
)
に
斯
(
か
)
かる
身
(
み
)
の
例
(
ため
)
し
又
(
また
)
ありや、
知
(
し
)
らぬ
心
(
こヽろ
)
に
恨
(
うら
)
みもせん
憎
(
に
)
くみもせん、
其
(
その
)
憎
(
に
)
くまるヽを
本望
(
ほんまう
)
にての
處爲
(
しよゐ
)
、
貰
(
もら
)
ひし
文
(
ふみ
)
は
何處
(
どこ
)
までも
惜
(
を
)
しきに、
封
(
ふう
)
こそ
切
(
き
)
らぬ
手文庫
(
てぶんこ
)
に
秘
(
ひ
)
めて、一
生
(
しやう
)
の
際
(
きは
)
までは
友
(
とも
)
とせん
心
(
こヽろ
)
、さりとては
我
(
わ
)
れ
生先
(
おひさき
)
のある
身
(
み
)
、
憂
(
う
)
きに
月日
(
つきひ
)
の
長
(
なが
)
からん
事
(
こと
)
愁
(
つ
)
らや、
何事
(
なにごと
)
もさらさらと
捨
(
す
)
てヽ、
憂
(
う
)
からず
面白
(
おもしろ
)
からず
暮
(
くら
)
したき
願
(
ねが
)
ひなるに、
春風
(
はるかぜ
)
ふけば
花
(
はな
)
めかしき、
枯木
(
かれき
)
ならぬ
心
(
こヽろ
)
のくるしさよ、
哀
(
あは
)
れ
月
(
つき
)
は
無
(
な
)
きか
此胸
(
このむね
)
はるけたきにと、
押
(
お
)
す
手
(
て
)
にいよいよ
動悸
(
どうき
)
たかく、
噛
(
か
)
みしめる
袖
(
そで
)
に
涙
(
なみだ
)
こぼれて、
令孃
(
ひめ
)
は
暫時
(
しばらく
)
うち
伏
(
ふ
)
して
泣
(
な
)
きけるが、
吹入
(
ふきい
)
る
夜風
(
よかぜ
)
たが
魂
(
たましひ
)
か、あくがるヽ
心
(
こヽろ
)
此處
(
こヽ
)
に
堪
(
たへ
)
がたく、
靜
(
しづ
)
かに
立
(
た
)
つて
妻戸
(
つまど
)
を
押
(
お
)
せば、
今
(
いま
)
ぞ
廿日
(
はつか
)
の
月
(
つき
)
面
(
おも
)
かげ
霞
(
かす
)
んで、さし
昇
(
のぼ
)
る
庭
(
には
)
に
木立
(
こだち
)
おぼろおぼろと
暗
(
くら
)
く、
似
(
に
)
たりや
孤徽殿
(
こきでん
)
の
細殿口
(
ほそどのぐち
)
、
敏
(
さとし
)
が
爲
(
ため
)
には
若
(
し
)
くものもなき
時
(
とき
)
ぞかし。
第
(
だい
)
六
回
(
くわい
)
言
(
い
)
はぬ
浮世
(
うきよ
)
の
樣々
(
さま〴〵
)
には
如何
(
いか
)
なることや
潜
(
ひそ
)
むらん、
今
(
いま
)
は
昔
(
むか
)
しの
涙
(
なみだ
)
の
種
(
たね
)
、
我
(
わ
)
が
戀
(
こひ
)
ならぬ
懺悔物
(
ざんげもの
)
がたり、
聞
(
き
)
くも
悲
(
かな
)
しき
身
(
み
)
の
上
(
うへ
)
あり、
春
(
はる
)
の
夜
(
よ
)
ふけて
身
(
み
)
にしむ
風
(
かぜ
)
に、
寐屋
(
ねや
)
の
燈火
(
ともしひ
)
またヽく
影
(
かげ
)
もあはれ
淋
(
さび
)
しや
丁字頭
(
ちやうじがしら
)
の、
花
(
はな
)
と
呼
(
よ
)
ばれし
香山家
(
かやまけ
)
の
姫
(
ひめ
)
、
今
(
いま
)
の
子爵
(
ししやく
)
と
同
(
おな
)
じ
腹
(
はら
)
に、
双玉
(
さうぎよく
)
の
稱
(
とな
)
へは
美色
(
びしよく
)
に
勝
(
かち
)
を
占
(
し
)
めしが、さりとて
兄君
(
あにぎみ
)
に
席
(
せき
)
を
越
(
こ
)
えず、
物靜
(
ものしづ
)
かにつヽましく
諸藝
(
しよげい
)
名譽
(
めいよ
)
のあるが
中
(
なか
)
に、
琴
(
こと
)
のほまれは
久方
(
ひさかた
)
の
空
(
そら
)
にも
響
(
ひヾ
)
きて、
月
(
つき
)
の
前
(
まへ
)
に
柱
(
ちゆう
)
を
直
(
なほ
)
す
時
(
とき
)
雲
(
くも
)
はれて
影
(
かげ
)
そでに
落
(
お
)
ち、
花
(
はな
)
に
向
(
むか
)
つて
玉音
(
ぎよくおん
)
を
弄
(
もてあそ
)
べば
鶯
(
うぐひす
)
ねを
止
(
とヾ
)
めて
節
(
ふし
)
をや
學
(
まな
)
びけん、
子爵
(
ししやく
)
の
寵愛
(
ちようあい
)
子
(
こ
)
よりも
深
(
ふか
)
く、
兩親
(
おや
)
なき
妹
(
いもと
)
の
大切
(
たいせつ
)
さ
限
(
かぎ
)
りなければ、
良
(
よ
)
きが
上
(
うへ
)
にも
良
(
よ
)
きを
撰
(
え
)
らみて、
何某家
(
なにがしけ
)
の
奧方
(
おくがた
)
とも
未
(
ま
)
だ
名
(
な
)
をつけぬ十六の
春風
(
はるかぜ
)
、
無慘
(
むざん
)
や
玉簾
(
たますだれ
)
ふき
通
(
とほ
)
して
此初櫻
(
このはつざくら
)
ちりかヽりし
袖
(
そで
)
、
馬廻
(
うままは
)
りに
美男
(
びなん
)
の
聞
(
きこ
)
えは
有
(
あ
)
れど、
月
(
つき
)
の
雲井
(
くもゐ
)
に
塵
(
ちり
)
の
身
(
み
)
の
六三
(
ろくさ
)
、
何
(
なん
)
として
此戀
(
このこひ
)
なり
立
(
たち
)
けん、
夢
(
ゆめ
)
ばかりなる
契
(
ちぎ
)
り
兄君
(
あにぎみ
)
の
眼
(
め
)
にかヽりて、
或
(
あ
)
る
日
(
ひ
)
遠乘
(
とほのり
)
の
歸路
(
かへりみち
)
、
野末
(
のずゑ
)
の
茶店
(
ちやてん
)
に
女
(
をんな
)
を
拂
(
はら
)
ひて、
因果
(
いんぐわ
)
を
含
(
ふく
)
めし
情
(
なさけ
)
の
詞
(
ことば
)
さても
六三
(
ろくさ
)
露顯
(
ろけん
)
の
曉
(
あかつき
)
は、
頸
(
くび
)
さし
延
(
の
)
べて
合掌
(
がつしやう
)
の
覺悟
(
かくご
)
なりしを、
物
(
もの
)
やはらかに
若
(
し
)
かも
御主君
(
ごしゆくん
)
が、
手
(
て
)
を
下
(
さ
)
げるぞ
六三
(
ろくさ
)
邸
(
やしき
)
を
立退
(
たちの
)
いて
呉
(
く
)
れ、
我
(
わ
)
れも
飽
(
あく
)
まで
可愛
(
かあゆ
)
き
其方
(
そち
)
に、
遣
(
つか
)
はさるべくは
遣
(
つか
)
はしたけれど、
七萬石
(
ひちまんごく
)
の
先祖
(
せんぞ
)
が
勳功
(
くんこう
)
に
對
(
たひ
)
し、
皇室
(
くわうひつ
)
の
藩屏
(
はんべい
)
といふ
名
(
な
)
に
對
(
たい
)
し、
此
(
この
)
こと
許
(
ばかり
)
はなし
難
(
がた
)
きに
表立
(
おもてだ
)
ちては
姫
(
ひめ
)
も
邸
(
やしき
)
に
置
(
おき
)
がたけれど、
我
(
わ
)
れには
一人
(
ひとり
)
の
妹
(
いもと
)
、ことに
兩親
(
りやうしん
)
老後
(
らうご
)
の
子
(
こ
)
にて、
形見
(
かたみ
)
と
思
(
おも
)
へば
不憫
(
ふびん
)
さ
限
(
かぎ
)
りのなきに、
其方
(
そち
)
が
心
(
こヽろ
)
一つにて
我
(
わ
)
れも
安堵
(
あんど
)
姫
(
ひめ
)
に
疵
(
きず
)
もつかず、
此處
(
こヽ
)
をよく
了簡
(
れうけん
)
なし
斷念
(
さつぱり
)
と
退
(
のい
)
て
呉
(
く
)
れかし、さりながら
此後
(
こののち
)
の
身
(
み
)
の
有
(
あり
)
つきにと
包物
(
つヽみもの
)
を
賜
(
たま
)
はりて、
言
(
い
)
はねど
手切
(
てき
)
れの、
端金
(
はした
)
にはあらざりけんを、
六三
(
ろくさ
)
此金
(
これ
)
に
眼
(
め
)
も
止
(
とヾ
)
めず、
重々
(
ぢゆう〳〵
)
の
大罪
(
だいざい
)
頸
(
くび
)
と
仰
(
おふ
)
せらるヽとも
恨
(
う
)
らみは
無
(
な
)
きを、
情
(
なさけ
)
のお
詞
(
ことば
)
身
(
み
)
に
徹
(
てつ
)
しぬとて
男一匹
(
をとこいつぴき
)
美事
(
みごと
)
なきしが、さても
下賤
(
げせん
)
に
根
(
ね
)
を
持
(
も
)
てば、
戀
(
こひ
)
を
金
(
かね
)
ゆゑするとや
思
(
おぼ
)
す、
是
(
これ
)
より
以後
(
いご
)
の
一生
(
いつしやう
)
五十
年
(
ねん
)
姫樣
(
ひめさま
)
には
指
(
ゆび
)
もさすまじく、
况
(
まし
)
て
口外
(
こうぐわい
)
夢
(
ゆめ
)
さら
致
(
いた
)
すまじけれど、
金
(
かね
)
ゆゑ
閉
(
と
)
ぢる
口
(
くち
)
には
非
(
あら
)
ず、
此金
(
これ
)
ばかりはと
恐
(
おそ
)
れげもなく、
突
(
つき
)
もどして
扨
(
さて
)
つくづくと
詫
(
わ
)
びけるが、
歸邸
(
きてい
)
その
儘
(
まヽ
)
の
暇乞
(
いとまごひ
)
、
惜
(
を
)
しき
名殘
(
なごり
)
を
姫
(
ひめ
)
とも
言
(
い
)
はず、
生
(
うま
)
れかはらば
華族
(
くわぞく
)
にと
計
(
ばか
)
り、
此處
(
こヽ
)
を
出
(
い
)
でヽ
何處
(
いづこ
)
へ
行
(
ゆき
)
けん、
忘
(
わす
)
れぬ
姫
(
ひめ
)
のこと
忘
(
わす
)
れねばこそ、
義理
(
ぎり
)
といふ
字
(
じ
)
に
涙
(
なみだ
)
を
呑
(
の
)
んで、
心
(
こヽろ
)
は
邸
(
やしき
)
を
離
(
はな
)
れざりしが、
帳臺
(
ちやうだい
)
ふかくに
物
(
もの
)
おもふ
姫
(
ひめ
)
、
六三
(
ろくさ
)
暇
(
いとま
)
を
傳
(
つた
)
へ
聞
(
き
)
くより、
心
(
こヽろ
)
むすぼほれて
解
(
と
)
くること
無
(
な
)
く、
扨
(
さて
)
も
慈愛
(
じあい
)
ふかき
兄君
(
あにぎみ
)
が
罪
(
つみ
)
とも
言
(
い
)
はでさし
置給
(
おきたま
)
ふ
勿体
(
もつたい
)
なさ、
身
(
み
)
は
七万石
(
ひちまんごく
)
の
末
(
すゑ
)
に
生
(
うま
)
れて
親
(
おや
)
は
玉
(
たま
)
とも
愛給
(
めでたま
)
ひしに、
瓦
(
かはら
)
におとる
淫奔
(
いたづら
)
耻
(
はづ
)
かしく、
猶
(
なほ
)
其人
(
そのひと
)
の
戀
(
こひ
)
しきも
愁
(
つ
)
らく、
涙
(
なみだ
)
に
沈
(
しづ
)
んで
送
(
おく
)
る
月日
(
つきひ
)
に、
知
(
し
)
らざりしこそ
幼
(
をさ
)
なけれ、
憂
(
う
)
き
身
(
み
)
の
上
(
うへ
)
に
憂
(
う
)
きを
重
(
かさ
)
ねて、
宿
(
やど
)
りし
胤
(
たね
)
の
五月
(
さつき
)
とは、
扨
(
さて
)
もと
計
(
ばか
)
り
身
(
み
)
を
投
(
なげ
)
ふして
泣
(
なき
)
けるが、
今
(
いま
)
は
人
(
ひと
)
にも
逢
(
あ
)
はじ
物
(
もの
)
も
思
(
おも
)
はじ、
唯
(
たヾ
)
死
(
し
)
ねかしと
身
(
み
)
を
捨
(
すて
)
ものにして、
部屋
(
へや
)
より
外
(
そと
)
に
足
(
あし
)
も
出
(
だ
)
さず、
一心
(
いつしん
)
悔
(
くや
)
み
初
(
そ
)
めては
何方
(
いづかた
)
に
訴
(
うつた
)
ふべき、
先祖
(
せんぞ
)
の
耻辱
(
ちじよく
)
家系
(
かけい
)
の
汚
(
けが
)
れ、
兄君
(
あにぎみ
)
に
面目
(
めんもく
)
なく
人目
(
ひとめ
)
はずかしく、
我心
(
わがこヽろ
)
我
(
わ
)
れを
責
(
せ
)
めて
夜
(
よ
)
も
寐
(
ね
)
ず
晝
(
ひる
)
も
寐
(
ね
)
ず、
一身
(
いつしん
)
つかれて
痩
(
や
)
せに
痩
(
や
)
せし
姿
(
すがた
)
、
見
(
み
)
る
兄君
(
あにきみ
)
の
心
(
こヽろ
)
やみに
成
(
な
)
りて、
醫藥
(
いやく
)
の
手當
(
てあて
)
に
手
(
て
)
づからの
奔走
(
ほんそう
)
いよいよ
悲
(
かな
)
しく、
果
(
はて
)
は
物言
(
ものい
)
はず
泣
(
なみだ
)
のみ
成
(
な
)
りしが、
八月
(
やつき
)
の
壽命
(
じゆみやう
)
此子
(
このこ
)
にあれば、
月足
(
つきた
)
らずの、
聲
(
こゑ
)
いさましく
揚
(
あ
)
げて、
玉
(
たま
)
の
姫樣
(
ひめさま
)
御出生
(
ごしつしやう
)
と
聞
(
き
)
きも
敢
(
あ
)
へず、
散
(
ち
)
るや
櫻
(
さくら
)
の
我
(
わ
)
が
名
(
な
)
空
(
むな
)
しく
成
(
なり
)
ぬるを、
何處
(
いづく
)
に
知
(
し
)
りてか
六三
(
ろくさ
)
天地
(
てんち
)
に
哭
(
なげ
)
きて、
姫
(
ひめ
)
が
命
(
いのち
)
は
我
(
わ
)
れ
故
(
ゆゑ
)
と
計
(
ばかり
)
、
短
(
みじ
)
かき
契
(
ちぎ
)
りに
淺
(
あさ
)
ましき
宿世
(
しゆくせ
)
を
思
(
おも
)
へば、
一人
(
ひとり
)
殘
(
のこ
)
りて
我
(
わ
)
れ
何
(
なん
)
とせん、
待給
(
まちたま
)
へ
諸共
(
もろとも
)
にの
心
(
こヽろ
)
なりけん、
見
(
み
)
し
忍
(
しの
)
び
寐
(
ね
)
に
賜
(
たま
)
はりし
姫
(
ひめ
)
が
しごき
の
緋縮緬
(
ひぢりめん
)
を、
最期
(
さいご
)
の
胸
(
むね
)
に
幾重
(
いくへ
)
まきて、
大川
(
おほかわ
)
の
波
(
なみ
)
かへらずぞ
成
(
な
)
りし。
不幸
(
ふかう
)
の
由來
(
もと
)
に
悟
(
さと
)
り
初
(
そ
)
めて、
父
(
ちヽ
)
戀
(
こひ
)
し
母
(
はヽ
)
戀
(
こひ
)
しの
夜半
(
よは
)
の
夢
(
ゆめ
)
にも、
咲
(
さ
)
かぬ
櫻
(
さくら
)
に
風
(
かぜ
)
は
恨
(
うら
)
まぬ
獨
(
ひと
)
りずみの
願
(
ねが
)
ひ
固
(
かた
)
くなり、
包
(
つヽ
)
むに
洩
(
もれ
)
ぬ
身
(
み
)
の
素性
(
すじやう
)
、
人
(
ひと
)
しらねばこそ
樣々
(
さま〴〵
)
の
傳手
(
つて
)
を
求
(
もと
)
めて、
香山
(
かやま
)
の
令孃
(
ひめ
)
と
立
(
た
)
つ
名
(
な
)
くるしく、
一切
(
いつさい
)
衆生
(
しゆうじやう
)
すて
物
(
もの
)
に、
我
(
わが
)
まヽらしき
境界
(
きやうがい
)
こヽろには
涙
(
なみだ
)
を
呑
(
の
)
みて、
憂
(
う
)
しや
廿歳
(
はたち
)
のいたづら
臥
(
ぶし
)
、一
念
(
ねん
)
かたまりて
動
(
うご
)
かざりけるが、
岩
(
いは
)
をも
徹
(
とほ
)
す
情
(
なさけ
)
の
矢
(
や
)
の
根
(
ね
)
に
敏
(
さとし
)
がこと
身
(
み
)
にしみ
初
(
そめ
)
て、
其人
(
そのひと
)
床
(
ゆか
)
しからねど
其心
(
そのこヽろ
)
にくからず、
文
(
ふみ
)
を
抱
(
いだ
)
きて
幾夜
(
いくよ
)
わびしが、
我
(
わ
)
れながら
弱
(
よわ
)
き
心
(
こヽろ
)
の
淺
(
あさ
)
ましさに
呆
(
あき
)
れ、
見
(
み
)
ればこそは
聞
(
き
)
けばこそは
思
(
おも
)
ひも
増
(
ま
)
すなれ、いざ
鎌倉
(
かまくら
)
に
身
(
み
)
を
退
(
の
)
がれて
此人
(
このひと
)
のことをも
忘
(
わす
)
れ、
世
(
よ
)
に
引
(
ひ
)
かるヽ
心
(
こヽろ
)
も
斷
(
た
)
ちたきものと、
决心
(
けつしん
)
此處
(
こヽ
)
に
成
(
な
)
りし
今宵
(
こよひ
)
、
切
(
せ
)
めては
妻戸
(
つまど
)
ごしのお
聲
(
こゑ
)
きヽたく、
見
(
み
)
とがめられん
罪
(
つみ
)
も
忘
(
わす
)
れて
此處
(
こヽ
)
に
斯
(
か
)
く
忍
(
しの
)
ぶ
身
(
み
)
と
袖
(
そで
)
にすがりて
敏
(
さとし
)
なげヽば、これを
拂
(
はろ
)
ふ
勇氣
(
ゆうき
)
今
(
いま
)
は
無
(
な
)
く、よし
人目
(
ひとめ
)
には
戀
(
こひ
)
とも
見
(
み
)
よ
我
(
わ
)
が
心
(
こヽろ
)
狂
(
くる
)
はねばと
燈下
(
とうか
)
に
對坐
(
むかひ
)
て、
成
(
な
)
るまじき
戀
(
こひ
)
に
思
(
おも
)
ひを
聞
(
き
)
く
苦
(
く
)
るしさ、
敏
(
さとし
)
はじめよりの一
念
(
ねん
)
を
語
(
かた
)
り、
切
(
せ
)
めてはあはれと
曰
(
のたま
)
へと
恨
(
うら
)
むに、
勿体
(
もつたい
)
なきことヽて
令孃
(
ひめ
)
も
泣
(
な
)
き、お
志
(
こヽろざ
)
しの
文
(
ふみ
)
封
(
ふう
)
は
切
(
き
)
らねど
御覽
(
ごらん
)
ぜよ
此通
(
このとほ
)
りと、
手文庫
(
てぶんこ
)
に
誠
(
まこと
)
を
見
(
み
)
せしが、
扨
(
さて
)
も
我
(
われ
)
故
(
ゆゑ
)
と
聞
(
き
)
けば
嬉
(
うれ
)
しきか
悲
(
かな
)
しきか、
行末
(
ゆくすゑ
)
いかに
御立身
(
ごりつしん
)
なされて
如何樣
(
どのやう
)
なお
人物
(
ひと
)
に
成
(
な
)
り
給
(
たま
)
ふお
身
(
み
)
にや、
思
(
おも
)
へば
尊
(
たつ
)
とき
御勉強
(
ごべんきやう
)
ざかりを
我
(
わ
)
れなどの
爲
(
ため
)
にとは
何事
(
なにごと
)
ぞや、いよいよ
戀
(
こひ
)
は
淺
(
あさ
)
ましきもの
果敢
(
はか
)
なきもの
憎
(
に
)
くきもの、
我
(
わ
)
が
生涯
(
しやうがい
)
の
此樣
(
このやう
)
に
悲
(
かな
)
しく、
人
(
ひと
)
に
言
(
い
)
はれぬ
物
(
もの
)
を
思
(
おも
)
ふも、
淺
(
あさ
)
ましき
戀
(
こひ
)
ゆゑぞかし、
我
(
わ
)
れには
有
(
あ
)
らぬ
親
(
おや
)
の
昔
(
むか
)
し、
語
(
かた
)
るまじき
事
(
こと
)
と
我
(
わ
)
れも
秘
(
ひ
)
め、
父君
(
ちヽぎみ
)
は
更
(
さら
)
なり
母君
(
はヽぎみ
)
にも
家
(
いへ
)
の
耻
(
はぢ
)
とて
世
(
よ
)
に
包
(
つヽ
)
むを、
聞
(
き
)
かせ
參
(
まゐ
)
らするではなけれど、一
生
(
しやう
)
に一
度
(
ど
)
の
打明
(
うちあ
)
け
物
(
もの
)
がたり、
聞
(
きい
)
て
給
(
たま
)
はれ
憂
(
う
)
き
身
(
み
)
の
素性
(
すじやう
)
と、
此處
(
こヽ
)
に
涙
(
なみだ
)
を
盡
(
つ
)
くして
語
(
かた
)
り
明
(
あか
)
せば、
夢
(
ゆめ
)
とや
言
(
い
)
はん
春
(
はる
)
の
夜
(
よ
)
あげ
方
(
がた
)
ちかく、
鳥
(
とり
)
がね
空
(
そら
)
に
聞
(
きこ
)
えて
扨
(
さて
)
も
忙
(
せは
)
しなし、
君
(
きみ
)
は
都
(
みやこ
)
に
我
(
わ
)
れは
鎌倉
(
かまくら
)
に、
引
(
ひき
)
はなれて
又
(
また
)
何時
(
いつ
)
かは
逢
(
あ
)
ふべき、
定離
(
ぢやうり
)
の
例
(
ため
)
しを
此處
(
こヽ
)
に
見
(
み
)
れば、
戀
(
こひ
)
は
一人
(
ひとり
)
ぞ
安
(
やす
)
かりける、
何事
(
なにごと
)
も
言
(
い
)
はじ
思
(
おも
)
はじ、
仰
(
おふ
)
せられても
給
(
たま
)
はるなとて、
曉
(
あかつき
)
の
月
(
つき
)
に
影
(
かげ
)
を
別
(
わか
)
ちしが、これより
姫
(
ひめ
)
は
如何
(
いか
)
に
成
(
な
)
りけん、
扨
(
さて
)
も
敏
(
さとし
)
は
如何
(
いか
)
に
成
(
な
)
りけん、つれなく
見
(
み
)
えし
有明
(
ありあけ
)
の
月
(
つき
)
の
形見
(
かたみ
)
を
空
(
そら
)
に
眺
(
なが
)
めて、(
曉
(
あかつき
)
ばかり)と
※
(
うめ
)
[#「口+斗」、U+544C、29-11]
きけんか
知
(
し
)
らず。
出典:青空文庫(
https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/55659_51158.html
)
青空文庫の奥付
底本:「都の花 第百一號」金港堂
1893(明治26)年2月19日
初出:「都の花 第百一號」金港堂
1893(明治26)年2月19日
※初出時の署名は、「一葉女史」です。
※表題は底本では、「
曉月夜
(
あけつきよ
)
」となっています。
※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。
※「
文
(
ふみ
)
」「
文
(
ぶみ
)
」「
此文
(
これ
)
」に使用されている「文」は「
首尾
(
しゆび
)
よく
文
(
ふみ
)
は」を除きくずし字的な文字を使用していますが、通常の「文」で入力しました。
※「ゞ」と「ヾ」の混在は、底本通りです。
入力:万波通彦
校正:Juki
2013年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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