「親分、お願ひだ。ちよいとお
八五郎のガラツ八は額際に
「何を拜んでゐるんだ。お御輿は明神樣のお祭りが來なきや上らねえよ」
錢形の平次は驚く色もありません。裏長屋の狹い庭越しに、梅から櫻へ移り行く春の風物を眺めて、
「三河町の殺しの現場へ行つて見ましたがね、何しろ若い女が四人も五人も居て、銘々勝手なことを言ふから、何時までせゝつて居たつて、眼鼻は明きませんよ」
ガラツ八は
「八は男つ振りが良過ぎるからだよ。岡つ引は
「さうでもありませんがね。何しろ右から左から、胸倉まで掴んであつしを物蔭へ引張つて行つて自分の都合の宜いことばかり言ふんでせう」
「宜い加減にしないかよ、馬鹿だなア」
「へエ――」
「
「へエ――」
「折角お前の手柄にさせようと思つてやつたのに、仕樣のない奴ぢやないか」
平次は小言をいひ乍らも、手早く身仕度をして、ガラツ八と一緒に外へ出ました。
まだ三十前と言つても、平次とあまり年の違はない八五郎に、一と
平次は途々八五郎の説明を聽きました。
「三河町の奈良屋三郎兵衞つていふと、親分も知つて居る通り、公儀の御用を勤める大層な材木屋だが――金に不自由がなくなると、人間はどうしても
「無駄を言ふな、奈良屋三郎兵衞の放埒がどうしたといふのだ」
「放埒は伜の幾太郎の方ですよ。二十六にもなるが、遊び好きで可愛らしい
「フーム、變つた殺しだな」
「ところが、變つてゐるのはその先なんで、圍ひの中で殺されてゐたのは、伜の幾太郎と思ひきや」
「思ひきやと來たね、お前何時からそんな學者になつたんだ」
「へツ、學者はあつしの地ですよ」
「無筆は
「からかつちやいけません。兎に角、今朝圍ひの中で、人間が殺されてゐるのを見付けたのは下女のお仲、二十五六のこいつは良い年増ですよ」
「無駄が多いね、早く筋を通しな」
「下女のきりやうも筋のうちですよ。兎も角、大騷動になつて、血だらけな死骸を引起して見るとそれが、伜の幾太郎と思ひきや――てんで」
「又思ひきやか。お前の學はよく解つたよ、先を申上げな」
「手代分で店の方をやつてゐる
「フーム」
「驚くでせう、こいつは。あつしのところへ知らせて來たのは、まだ夜が明けたばかりの時だ。親分へ
「合の手が多過ぎるよ、叔母さんなんか引つ込めて話を運びな」
平次も少しジレ込みました。ガラツ八の話術で展開する筋は、なか〳〵面白さうです。
「若い女が多勢居て、
「何をつまらねエ、向ふでもさう言つて居るよ、岡つ引は苦手だ――とね」
「へツ、違えねえ」
「ところで、伜の行方はそれつきり知れずか」
平次は少し眞面目になりました。
「皆目解らねえ」
「圍ひの戸は開いて居たのか」
「大一番の
「鍵は?」
「旦那の三郎兵衞が持つてゐた筈だが、それは表向きで、
「その鍵はあるだらうな」
「ないから不思議で」
「成程そいつは面白さうだ」
「だから親分を
「恩に着せる氣なら俺は歸えるぜ」
「あつ、あやまつた。親分、切角此處まで來たんだから、先づチヨイト覗いてやつて下さい。若い女が五六人居て銘々良い子になる氣だから、そりや賑やかな殺しですよ」
「賑やかな殺し――てえ奴があるかい」
そんな事を言ひ乍ら、平次は八五郎の
奈良屋三郎兵衞は五十五六、江戸の大町人で、
「錢形の親分か、御苦勞樣」
「飛んだことでしたね。――ところで、殺された
平次は早速事務的な調子になります。
「さア、そいつはこの私にも解らない」
「若旦那の幾太郎さんは、何處へ行きなすつたんでせう」
「氣の毒だが、そいつも私には解らない。そんな事は奉公人達が思ひの外知つてゐるものだが――親分の前でそんな指圖がましい事を言ふのも變だね」
今度は三郎兵衞の頬に、本當の微笑が浮びました。大町人らしい柔かい風格です。
「それぢや圍ひの中を見せて貰ひませうか」
平次はガラツ八に眼で合圖して、番頭の佐助に案内されて奧の方に通りました。番頭の佐助は六十を四つ五つ越したらしい、
「此處でございますよ、親分」
佐助が指したのは、店から奧へ通ふ廊下の中程から、少しばかり右へ入つた土藏の
さすがに
「何だつて若旦那をそんなところへ入れることになつたんだ」
平次はそれが
「よくあることですが、許嫁のお
佐助は言つて宜いか惡いか解らないらしく、恐ろしくおど〳〵した調子で斯う言ふのでした。
「そんな事で、座敷牢は少し亂暴ぢやないかね」
「へエ、でも、店の大事な品を持出したり、小言を言ふ親旦那に喰つてかゝつたりしますので、
佐助は
「そのお艶といふのは何處に居るんだ」
「それがよく解りません」
「八、直ぐ行つて見てくれ。幾太郎はその女のところに居るに違ひあるまい」
平次はガラツ八の方を振り返つて無造作に
「へエ――」
「變な顏をするなよ。――お艶の家が判らないつて言ふんだらう。馬鹿だなア、――先刻旦那がさう言つたぢやないか、そんなことは奉公人が知つてゐるものだ――とね」
「なア――る」
「間違ひがあつちやならねえ。飛んで行くんだぜ」
「合點ツ――だがね、一つだけ言つて置き度えことがあるんだが」
「何だい、早く申上げて了ひな」
「今朝この圍ひの中で、女物の
「何處にあるんだ」
「これですよ、あつしが拾つたんで」
八五郎は懷紙に包んだ
「何だ、早くさう言や宜いのに。こんなものを温めて置く奴があるもんか」
「それからもう一つ」
「文句の多い野郎だな」
「あつしが親分を迎ひ行つてゐる間に、お
「そんな事はどうだつて宜いぢやないか」
「へエ――」
ガラツ八が飛び出すと、平次は圍ひの中へ入つて行きました。
六疊の半分をひたす血の海の中に俯向きになつて居る梅吉の死骸を引起して見ると、二十七八の小肥りの男で、脇差で横から首筋を縫はれ、そのまゝ前へのめつたらしく、急所の
「見付けたのは?」
「下女のお仲と申す者で」
「呼んで貰はうか」
「お仲、――其處に居るなら出て來るが宜い。呼ばれてから、あわてて引つ込むやつがあるものか」
「へエ――」
佐助に叱られて、恐る〳〵出て來たのは、二十四五の、一寸良い年増でした。
「今朝死骸を見付けた時の樣子を、
平次は
「雨戸を開けて、ヒヨイと覗くと――中は一パイの血で、梅吉どんが殺されてゐるんです」
「最初から梅吉と判つたのか」
「いえ、初めは若旦那だと思ひました。大きな聲を出すと、皆んな飛んで來て、鍵が見えないのでコジ開けて入つて、死骸を引起して初めて梅吉どんと判りました」
お仲の話はなか〳〵確りして居ります。
「この
「――」
お仲は一文字に口を結んでしまひました。
「言ひ度くないと見えるね。まさかお前のぢやあるまいな」
「飛んでもない、親分さん」
お仲はあわてて打ち消しました。
奉公人達の説明で夜中人に知られずに、此圍ひの前へ來られるのは、主人の三郎兵衞と、女房のお
あとは五六人の若い奉公人だけ。それは嚴重に仕切られた
「親分、何んでも訊いて下さい。私の知つて居ることは、皆んな言つてしまひますよ、――兄さんの事ですつて? 兄さんが圍ひなんかに入れられた事でせう。え、判りますわ。少しばかり物を持出したり、お父さんに一寸
と言つた調子、こんなのに引つ掛つてゐると、要領を得ないうちに、うけ合ひ日が暮れてしまひます。きりやうも滿更でないのが、何だつて馬鹿〳〵しく
次に逢つたのは、三郎兵衞の後添ひのお條、これが奈良屋の内儀かしらと最初は平次も驚いたほどです。三郎兵衞は五十七八とすれば、どうしても二十五六も
「御苦勞樣でございます」
お條は
「御新造さんは、お屋敷奉公をしたことがあるんでせうな」
平次の問ひは少し無作法で唐突でした。
「え」
お條は心持鼻白みます。
「それぢや、ヤツトウの方の心得もあるんでせうね」
「いえ、――ほんの少し
お篠は本當に消え入り度い姿でした。青々とした眉の跡、頬の美しい曲線、襟元の凉しさ――平次もこんな女は、舞臺でしか見たことのないやうな心持がするのでした。
「この
平次の掌の上には、半分紙に包んだ
「私のですが――」
何といふ穩やな調子でせう。
「この櫛が、死骸の側にあつたのですよ、御新造」
「まア」
「圍ひの中へ入らなかつたんでせうな」
平次もツイ、この當惑した美女のために、助け舟を出してやる氣になりました。
「入れる筈もございません。幾太郎さんは大變私をにくんで居りました」
「すると此中へ入るのは?」
「お仲と、お榮だけでございます」
「この櫛はふだん何處に置いてあるんです」
「ツイ隣の
「持つて歩くやうな事はないでせうな」
「
大きな
「此家の中に御新造さんを怨んでゐる者はありませんか」
「飛んでもない」
お篠は
最後に平次が逢つたのは、若旦那幾太郎の許嫁で、遠縁に當るといふ、お桃でした。三郎兵衞には恩人筋の娘とかで、三四年前に田舍から引取られ、厭應言はさず幾太郎の許嫁と披露して、行儀見習
「お前の在所はどこだい」
「川越です」
「此家の住心地はどうだ」
「皆んな親切な良い方ばかりですから」
「若旦那の幾太郎も親切か」
お桃の顏はサツと暗くなりました。
「若旦那を怨んでゐる者は誰だ」
「――」
「お前は、どう思ふ」
「――」
お桃は何とも言ひませんが、襟に埋めた頬は、したゝか涙に洗はれて居ります。
「お前の外に、若旦那を怨んでゐる者はないのか」
「ございません」
「御新造を怨んでゐる者はあるだらう。あの通り若くて綺麗で、
お桃は默つて頭を振りました。
「お仲は御新造にひどく叱られた事があるだらう」
「え」
「何か
「いえ」
お桃は又口を
「親分」
ガラツ八は少し息をきつて囁やくのでした。
「何だ、幾太郎は矢張り女のところに居るんだらう」
「居ましたよ。そこを、お神樂の清吉の野郎が、バツサリ縛つて行つたんだから、腹が立つぢやありませんか」
「お前の手落ちだよ。腰を
「だつて親分」
「まア宜いやな、――縛るには縛るわけがあつたんだらう」
平次は調子を變へて、腹が立つてたまらないと言つたガラツ八の不平のハケ口を
「あの野郎はあつしの鼻を明かせるつもりですよ。何もわざ〳〵
「岡つ引に繩張りなんかあるもんか、縛るのは向うの働きだ。――が、こいつは働き過ぎたかも知れないよ。腹ばかり立てずに、清吉が縛つたワケを言ひな」
「幾太郎はこの圍ひの鍵を持つて居たんですよ。――梅吉を引入れて刺し殺し、錠をおろして逃げ出したと讀んだ清吉は、
「ま、待つてくれ。――わざ〳〵錠前をおろしたのは、死骸が逃げ出すとでも思つたのかい」
平次の問ひはさすがに皮肉でした。
「そんな事は解るものですか」
「で、お艶とかに逢つたのかい」
「逢ひましたよ。芳町の藝者だつたさうで、凄い女ですよ。此家のお内儀も綺麗だが、お艶と來たらポトポト水が滴れさうで」
「八五郎と來た日にや、
「へツ、冗談でせう。全く良い女ですぜ、親分。半歳ばかり前に、幾太郎が根引いて、圍つたまままだ
「で、昨夜幾太郎は何刻に行つたんだ」
「宵のうちに來て、曉方は歸つたがまた戻つて來たといふから變ぢやありませんか」
「フーム」
「その上、お艶に驅落をすゝめたさうですよ」
「お艶は幾太郎を
「へエ――」
「薄情な女だな。それに比べると、物を言はないお桃の方が餘つぽど
「――」
「打ち殺してもやり度いほど幾太郎に未練があるんだ」
「すると?」
ガラツ八はゴクリと
「あわてるな、お桃が下手人だとは言はないぜ」
「親分」
「俺の見當ぢや、圍ひの中の玉が入れ變つてゐるとも知らずに、幾太郎を殺すつもりで、梅吉を殺したに違えねえと思ふんだ」
「ぢや、矢張り、幾太郎が下手人ぢやないと言ふんでせう」
「幾太郎が下手人だつた日にや、自分が自分を殺した下手人だつて事になるよ」
「本當ですか、親分」
「幾太郎は梅吉に身代りを頼んで、夜中
「へエ――」
「曉方歸つて來て、梅吉と代らうとして、氣が付くと、錠がおりてゐる。柱から鍵を外してあけて入つて、梅吉の殺されて居ることに氣が付いたんだらう。あんまり吃驚して、あわてて錠をおろして逃げ出し、もう一度お艶のところへ行つた――?」
平次の空想は飛躍します。
「幾太郎が梅吉を殺す氣なら、何も圍ひの中なんかで殺さなくたつて宜いわけだ。自由に圍ひから出られるんだからな。――それに鍵を持つて居るのは、面喰つた證據にはなるが、梅吉を殺した證據にはならねえ」
「有難てえ、それで
「待てよ。圍ひの戸へ鍵をおろしたのは、幾太郎ぢやないかも知れないな。
平次は深々と考へ込みました。恐ろしく簡單に見えてゐて、この殺しはなか〳〵奧がありさうです。
「八、此方にもいろ〳〵面白いことがあつたんだ。第一にこの
「それが何うかしましたかえ」
「この櫛はお内儀のお
「――」
「それをわざ〳〵捨てて來るのは、大間拔けでなきや、恐ろしい智慧者だ」
「――」
ガラツ八は默つて眼を見張りました。親分平次の推理の發展を、斯う見詰めて居るのは、ガラツ八に取つては、たまらない嬉しさだつたのです。
「だから、お内儀のお篠が、自分とあまり年の違はない
「――」
「昨夜は良い月だつたな。八」
「結構な十五夜でしたよ。あつしはそとで『
「つまらねえ物の稽古をしたものだね。あいつは色氣がなさ過ぎるよ。――ところで下女のお仲をちよいと呼んでくれ。此處なら人に聽かれる樣な事はあるまいから、内緒に一と
「あの女は思ひの外
ガラツ八は飛んで行くと、少し反抗的なお仲の
「お仲、手數をかけるぢやないか。馬鹿な細工を皆んな言つてしまつちや何うだ」
「――」
高飛車に出る平次を、白い眼で見て、一寸良い年増のお仲はツンとするのでした。
「皆んな解つてゐるよ。今朝、隣の納戸の鏡臺から、お内儀の櫛を持出して、圍ひの中へ投り込んだのもお前さ。圍ひ戸へ錠をおろしたのもお前だらう。幾太郎が鍵を持つて行つた事に氣が付いて人殺しの罪を其方へ
「――」
「驚くなお仲、梅吉を殺したのもお前だ。最初幾太郎と間違へたんだらう」
「違ふ、違ひますよ。人殺しなんか、この私がするものか」
お仲は
「主殺しは
「親分、私ぢやない、私は何にも知らない。た、助けて下さい」
お仲は自分の位置の恐ろしさを
「八、縛つてしまひな」
「へエ――、本當に縛つて構ひませんか。やい女、
「あツ助けて、私ぢやない。私は何んにも知らない――」
お仲は必死と爭ひ續けます。
「ぢや皆んな言ふか」
「言ふ、言ひますよ。あの女が若旦那を殺したに違ひないと思つたから、口惜しくて口惜しくて、
「あの女――といふのは御新造のことだらう。お前にはお
「でも繼子くらゐは殺し兼ねませんよ。お屋敷
「
お仲はさめ〴〵と泣きだしました。
「ところで、八」
「へエ――」
「幾太郎が曉方歸つて來たと言つたね」
「え、お艶に言はせると、夜が明けてからだつたさうですよ」
「お前が此處へ來たのは?」
「
「血は
「
「殺したのは宵だな。――幾太郎が本當に曉方來たのなら、下手人ぢやない。自分が宵に梅吉を殺して出かけたなら、曉方にもう一度歸つて、面喰つて鍵を持つて行く筈はない」
「それは大丈夫で、あの薄情なお艶がペラペラ
「薄情な女が一番結構な證人になるわけだな」
「お蔭でお神樂の清吉は馬鹿を見ますよ」
ガラツ八は妙なところへ
「つまらねえところで溜飮を下げたつて、お前の男があがるわけぢやあるめえ。それより下手人を擧げる工夫をするが宜い」
「まるつきり見當が付きませんよ、親分」
「幾太郎でもなく内儀のお篠でないとすると、あとはお仲と三郎兵衞と、佐助とお榮とお桃だけぢやないか」
「私ぢやありませんよ、親分」
お仲は顏を擧げました。
「よし〳〵餘つ程命が惜しいと見えるな。その心持で、人樣なんかを無實の罪に落しちやならねえ。
平次は苦笑ひしました。これがお神樂の清吉の手にでも入つて居たら、今頃お篠はどうなつて居たか判りません。
「親分、今度は何をやらかしや宜いんで――?」
「夜になるのを待つんだ。――幾太郎が縛られたことは――まだ默つて居るが宜い。檢屍が濟んだ上で又考へやうがあるだらうよ」
平次はまだ高い陽を仰いで、斯う言ふのでした。
「親分、お茶が入りました」
檢屍が濟んで、妙に長い日を持て餘したやうに、平次と八五郎がウロウロして居ると、轉婆娘のお榮が奧の方から燃え上るやうな派手な聲を掛けるのでした。
「有難う。――八、一服やらうか」
平次は八五郎を
「親分、何にもないが、先づ一服やつて下さい」
主人の三郎兵衞は、娘のお榮と、伜の許嫁のお桃にお茶を入れさせたり、結構な菓子を出させたり、ひどく打ち解けた樣子で迎へてくれます。
「有難う御座います。それぢや遠慮なく頂きますよ」
平次は澁い茶を呑んで、菓子をつまみ乍ら、相手の出やうを待つて居りました。
「親分、伜が見付かつたさうぢやありませんか」
「え、その上、お神樂の清吉が縛つたさうで。あの男はなか〳〵容捨しませんよ」
平次の調子は妙に人を
「その事に就て、親分に聽いて貰ひ度いことがあるんだが――」
「――」
「實は伜が梅吉に身代りを頼んで圍ひを拔け出すのは
「誰がそんな事に氣が付いて居ました」
平次は靜かに問ひ返しました。
「これですよ。默つて居るから、何にも知らずに居ると思ふと、女は矢張り氣が廻るんだね――」
半分は獨り言のやうに
「お桃さんが知つて居たんですね」
「昨夜も伜が梅吉と相談して居るのを、これが、風呂場で聽いたさうですよ。――だから梅吉を殺したのは、伜ぢやないといふことになりやしませんか。伜がわざ〳〵身替りに頼んだ人間を、自分が入つて居る筈の圍ひの中で殺す筈はない――」
三郎兵衞はそれが言ひ度かつたのです。多分、幾太郎が縛られたと聽いて、驚いて身代りの祕密を打明けたお桃の言葉を聽くと、矢も
平次は默つて顏をあげました。まだ言ひ足りない、聽き足りないもののあるやうな氣がしたのでした。
「親類一統に相談した上とは言ひ乍ら、座敷牢の中へ入れられて、逃げ出せば出られるのに、默つて二た月も我慢して居た伜の心持も、少しは考へてやる氣になりましたよ。伜は道樂者で、始末の惡い人間には違ひないが、その伜の
三郎兵衞の述懷は、次第に父親らしい
「で、その絲を引いてるのは誰で?」
「殺された梅吉ですよ。伜をけしかけて私の手文庫から、
「それは何うして解つたのです」
「みんなお桃が探つたり聽いたりして、胸一つに疊んでいたのを、伜が縛られたと聽いてみんな私に話しましたよ。番頭の佐助もその邊のことを薄々は知つて居たやうで――」
「お桃さんがね」
平次は妙に裏切られたやうな心持でした。大して聰明さうにも見えない、平凡そのものの娘が、捕物の名人錢形平次の先を潜つて、裏の裏まで物を
だが
それからほんの半刻、平次も八五郎も、不思議な
店の小僧達――よく
坊つちやん育ちで人の好い幾太郎は、完全に梅吉の
十六夜の月は少し遲く、
「親分」
「八」
「こんな事では、人相まで判りますね」
「その上昨夜は十五夜で宵のうちは晝のやうに明るい月夜だつた」
「それでも親分」
フエミニストの八五郎は、お桃を助けることの方が、下手人を縛るより重要な仕事になつて居るのでした。
「これ位の明りなら、家の者が梅吉と幾太郎を間違へる筈はない――梅吉と知つて殺したのだ」
「親分、そんな意地の惡いことを言つちやいけませんよ」
「意地が惡いわけぢやない。幾太郎もお仲も、内儀も、三郎兵衞も、お榮も下手人でないと決ると、こいつは厄介なことになるぜ、八」
平次の聲には妙に
「脇差は一體誰のだい」
平次は今頃そんな事を聽くほど、得物を問題にはして居なかつたのです。
「納戸の
「脇差を刺した時、少しは返り血が飛んだらうと思ふが。奉公人の着物を見たかい」
「見ましたよ。血の附いたものなんかありやしません」
「お桃は力がありさうだね」
「田舍で育つて居るから力もあるでせうよ」
二人は圍ひの中から出て、まだ斯んな事を言ひ合つて居ります。幾つかの證據は、眞つ直ぐお桃の方を指して居りますが、あの純情らしい娘――許嫁の夫を救ふために、人一人殺したのではないかと思はれる、聰明な娘を縛る勇氣がなかつたのです。
「も一度考へて見ようよ、八」
「何を考へるんで」
「先づ第一に三郎兵衞は伜を殺す筈はないな。――内儀のお
「年寄の側に居るんですもの、そつと人殺しに起き出すことなんか出來るものですか」
とガラツ八。
「えらいツ、八。其處まで氣が付けば大したものだ」
「
「ところで、お榮は?」
「あのお轉婆娘は、眼で殺す方で、へツ、へツ」
「お前も殺されかけたらう。――その次はお仲だ。あの女は少しタチが惡いぞ」
「タチは惡くたつて人なんか殺せやしません。御新造が憎くて、
「大層肩を持つやうだが、大丈夫かい、八」
「先刻親分にうんと
「えらいツ、愈々以つて八五郎親分は大した眼力だぞ」
「親分、冗談ぢやありませんよ」
「それで臭いのが總仕舞か、――あとはお桃一人だ。氣の毒だが、當つて見なきやなるまいな。あの取り立ての桃のやうな、うぶな娘を見ると、俺は十手をチラ付かせるのが淺ましくなるが、どうだい八」
「御免
「役目は役目だ。一應引立てて見なきやなるまいな」
二人は立上りました。奧の一と間には、三郎兵衞と四人の女が一團になつて、平次の來るのを待つて居る筈です。今となつては其處へ踏込んで、お桃を縛る外に、恰好の付けやうがなくなつたのです。
晝のうち檢屍に來た係り同心には、幾太郎の無實を細々と説明した上、『
「待ちなよ」
「へ――」
「お桃を縛る前に、もう一人調べるのがあつた筈だが」
平次は唐紙へかけたガラツ八の手を止めました。フト
「もう一人?」
「ウン」
「誰で――」
「忘れて居るんだよ。あんまり人殺しと縁のないやうな人間だから。それ、まだ番頭の佐助といふものがあるだらう」
「いけませんよ、親分。ありや
「でも人間には相違あるまい」
「人間の
「いや、あの番頭なら、梅吉の惡事を知つて居るし、若旦那の幾太郎を手鹽にかけて育てて居る。――それに、お桃が聽いたといふ、昨夜の身代りの相談だつて、何處かで聽いて居たかも知れない」
「でも」
「間違ひはないよ、八。お桃は一應下手人のやうだが、幾太郎の事をあんなに思ひ詰めて、一生懸命幾太郎を
平次の推理は次第に不思議な方へ發展して行きます。
「佐助だつて同じことでせう。若旦那に疑ひのかゝる場所で殺す筈はないぢやありませんか」
ガラツ八の反辯も尤もでした。
「待て、佐助が店から出て、裏の方へ行くぢやないか」
「あツ、逃げ出すんぢやありませんか、縛つてしまひませう」
飛出さうとするガラツ八、平次はその
「待て、あんな恰好で逃げ出す人間があるものか、トボトボと地獄へでも行く人の姿ぢやないか。あツ
「親分」
「後の始末をした上で、死ぬ氣だつたんだ」
「引とめませうか、親分」
佐助の姿は眞にトボトボと裏口の闇の中に消えて行くのです。
「――いや、放つて置いちや惡い。あれを獄門臺に
「へエ――」
八五郎は飛んで行きました。
平次は自分の胸の前に
「番頭さん」
「番頭さん」
二人ばかり小僧が
「番頭さんは裏へ出て行つたよ」
平次は闇の中を指します。
「提灯を持つて來るが宜い」
「へエ――」
何にか狩り立てられるやうな心持で裏へ出ると、月の光の中に、眞つ黒に立つたのは、大きな物置です。八五郎はそれに氣が付かずに、お
默りこくつて、その開いた戸の中へ提灯を入れた平次。
「あツ、矢張り」
何も彼も手遲れでした。平次の探索が身近く來て、不意にお桃の方へ外れると知るや、忠義な番頭の佐助は其處で首を
帳場
多分何も彼も濟んで、
「
さう言ひ乍ら錢形平次は、忠義な老番頭の死骸の前に兩掌を合せました。
× × ×
それから幾日か經ちました。
「親分、幾太郎は
早耳の八五郎が、嬉しいニユースを持つて來てくれました。
「それで目出度し目出度しさ」
「危いところでしたね、親分」
「お桃を縛つた日にや、十手捕繩返上しても追付かなかつたよ」
「のべつに
ガラツ八は妙なところで、平次をけしかけます。
「それで宜いのさ、岡ツ引が氣が強かつた日にや、どんな罪を作るか解らない。――出來ることなら俺は、佐助も助けたかつたよ」
平次はつく〴〵さう言ふのでした。