「親分、面白い話があるんだが――」
ガラツ八の八五郎は、木戸を開けて、長んがい顏をバアと出しました。
「あ、驚いた。俺は
錢形平次は大尻端折の植木の世話を燒く恰好で、さして驚いた樣子もなく、こんな馬鹿なことを言ふのです。それが一の子分ガラツ八に對する、何よりの好意であり、最上等の歡迎の
「ジヨ、冗談でせう。糸瓜が物を言や、
「面白い話てえのはそれかい、八」
「混ぜつ返しちやいけませんよ。親分が糸瓜に物を言はせるから、あつしは
「大層こんがらがりやがつたな、――ところでその面白い話てエのは何んだい」
平次は縁側に腰をおろすと、煙管の
あまり結構でない煙草の煙が、風のない庭にスーツと棚引くと、形ばかりの糸瓜の棚に、一
「狐の嫁入なんですがね、親分」
「狐の嫁入?――娘のおチウを番頭の忠吉に
「そんな馬鹿々々しい話ぢやありませよ。何しろ町中の物持が
「獨りで呑み込まずに、さつさとブチまけて了ひな。狐の嫁入がどうしたんだ」
平次も少し乘氣になりました。この話はどうやら筋になりさうです。
「ツイ十日ばかり前から、荒川
「おこなはれるは變だね」
「最初は丁度この月の始め、雨のシヨボシヨボ降る晩でした。
「川向うが騷いで、小臺の方ぢや騷がなかつたのかい」
平次は早くもガラツ八の話の中から疑問をたぐりました。
「そこですよ親分。尾久の方からは、川向うの土手を、提灯が六つゆらり〳〵と練つて行くのが見えるが、土手下の小臺の方からは、たつた一つもそんなものが見えなかつたといふから不思議ぢやありませんか」
「フーム、器用なことをするおコンコン樣だね」
「王子が近いから、いづれ
「どうしてでつかいと解つた」
「その時は提灯が倍の十二でさ。土手を十二の提灯が行儀よく練るのが川に
「お前はそれを見てゐたのかい」
「あつしが見たのは三度目ので」
「三度もあつたのかい」
「だからお話になりますよ。――それから五日目の昨夜、晝頃から
「フーム」
「尾久の友達が前から、打合せてあつたんで、大急ぎで出かけました。こんな晩は又狐の嫁入があるかも知れない、なかつたら向う川岸を眺め乍ら、夜つぴて飮まう――てえ寸法で」
「
「尾久の喜八で、いゝ年をして居るくせにろくな捕物をしたことはないが、酒は滅法強い」
「何んて口をきくんだ。それから何うした」
平次はこの狐の嫁入話が、すつかり氣に入つた樣子です。
「待つほどに醉ふほどに」
「氣取らずに筋を通しな」
「何しろ日が暮れる前からやつて居るでせう。
「――」
「喜八の家は坐つて居て
「それからどうした」
「シヨボシヨボ雨の向う川岸へ出た提灯の數は、何んと今度は三倍の十八ぢやありませんか。それが六つづつ三つになつて、行儀よく千住の方へ
「お前はそれを默つて見てゐたのか」
「其邊に舟はなし、川へ飛込んだところで、親分が知つてなさる通り徳利でせう。仕方がないから指をくはへて、喜八と二人であれよ〳〵」
「間拔けだなアー、何んだつて宵のうちから向う川岸に廻つて、狐の嫁入を見極めなかつたんだ」
「向う川岸の小臺の方からは、提灯が一つも見えなかつたといふから不思議ぢやありませんか。――小臺の衆は、尾久の奴等は
「話はちよいと面白いが、それつきりぢや仕樣がない。お狐にしちや手數がかゝるから、いづれは誰かの
平次は輕く片付けて、もとの植木の方へ、注意が外れて了ひさうです。
「親分、話はこれからですよ」
ガラツ八は乘出しました。低い鼻が少しばかり
「大層手數のかゝる話ぢやないか。早く筋をブチまけて了ひな」
平次は不精無精の顏をネヂ向けました。
「狐の嫁入見物で、どの家も空つぽになつたところへ、
「何んだ、そんな事か」
「物持と思はれる家は、大抵やられましたよ。尤も動けない老人や病人が仕樣事なしに留守番をしてゐる家は助かりましたがね」
「大層手數のかゝる空巣だが、餘つぽど盜られたのか」
「盜られた家は七八軒。金は田舍のことだから、五兩か十兩でせうが、品物は隨分やられましたよ」
「三代前から傳はつた紋附といつたやうな品だらう」
「それから生物――」
「牛かい、馬かい」
「人間なんで」
「人間?」
「清水和助といふ町一番の大地主で、
「フーム」
「あつしが見たわけぢやありませんが、綺麗な娘だつたさうですよ」
「それから」
「それつきりで、尾久の喜八も、――こいつはこちとらの手に
「それで尾久から飛んで來たのか」
「へエ――」
「馬鹿だなア、そんな事は尾久で調べ上げれば、半日で解るのに」
「半日や一日ぢや解りませんよ」
「急所を外れるからいけないんだ。例へばあの邊から江戸へかけて
「喜八の子分が暗いうちに手を廻しましたよ」
「提灯を十八も揃へるには、一人で二つづつ持つても、九人の手が要るだらう。多勢組んでゐる惡者を搜し出せば、思ひの外早く埒があくぢやないか」
「九人組なんて
「他に手の付けやうがあるものか。――尾久の喜八
錢形の平次は餘り相手になり度くない樣子です。
「でも、親分。喜八は飮みつ振りも、氣前も良い男ですよ」
「呆れた野郎だ。いやに喜八兄哥の肩を持つてると思つたら、そんな事なのか」
「頼みますよ、親分。折角喜八があんなに言ふんだから」
「ぢや手前だけ行つて見るが宜い。どうしても手に了へなきや、その時俺が行つてやらう」
尾久まで乘出すのは、さすがに氣がさしたか、平次は容易に御輿をあげようともしません。
ガラツ八は
それから二日、
「た、大變ツ、親分」
ガラツ八の大變が
「何をあわてるんだ。――尾久から大變の百萬遍をやつて來たんぢやあるまいな」
「親分、落ち着いてゐちやいけませんよ。大變な事が始まつたんだ。あつ喉が
「お靜、八が水を欲しいとよ。そんな小さい茶碗で間に合ふものか、
「人間が二人やられて、その上清水の息子が行方
「成程そいつは大變だ。
「詳しくにもざつにも、これつきりですよ。村のあぶれ者で、
「フーム」
「その晩、地主の清水和助の一人息子、清次郎といふ
粉「昨夜は狐の嫁入はなかつたのか」
「生憎雨が降らなかつたせゐか何んにもありません。
「無駄を言ふな、兎に角行つて見ようか、少し遠いが」
「有難てえ、さう來なくちや――」
ガラツ八の八五郎は、額を叩いて先に立ちました。神田から尾久まで二里に餘る道ですが、斯う調子づくと、八五郎は調法なことに殆んど疲れを知らぬ人間です。
尾久の土手へ行つて見て、さすがに平次も驚きました。田舍のことで、檢屍の手が廻らないのか、二人の死骸は
「お、錢形の」
喜八の顏には、救はれた者の喜びが
「尾久の
「達者なのは口と酒ばかりだ。見てくれ、この通り血の海だが、俺ぢや手の付けやうはねエ。八州の役人が來ないうちに目鼻を付けなきや、又うんと小言を言はれるだらう。それに他の御用聞に嗅ぎ出されて、馬鹿にされるのも
喜八がさう言ふのも無理はありません。千住の先は江戸の町奉行の
尾久の喜八は土地に根を
「それぢや、ちよいと覗かして貰はうか。成程こいつは?」
平次は
わけても伊太郎は全身數十ヶ所の傷を受け、最後に左の胸を突かれたのが致命傷で、
「錢形の兄哥、もうお役人の見える頃だ。此場の恰好だけでも付かないものだらうか」
喜八は獨りで氣を
「待つてくれ、――此場の恰好だけなら、何んとか付くだらう。其代り後で樣子が違つても構はないだらうな」
「構はないとも」
「もう一つ、念のために二人の懷を洗つてくれ。金は持つて居ないだらうと思ふが――」
「不斷百も持つて居ない人間だが、この二三日馬鹿に景氣がよくて、伊太郎などは近在の
「ところが、伊太郎は
「おや、變なことがあるものだね、錢形の」
「大方そんな事だらうと思つたよ」
「――」
そんな事を話してゐるところへ、土地の御用聞に案内させて、檢屍の役人が乘込んで來ました。
「ひどい事をするな。――下手人の目星は付いたのか、喜八」
役人も現場の
「へエー、大概見當は付いた
喜八は平次に教へられた通り、ひどく簡單に答へました。
「どう付いたんだ」
「伊太郎と照吉は無二の仲でしたが、近頃伊太郎が何にかで
「フーム」
喜八の鑑定の要領のよさに、役人も、役人と一緒に來た御用聞達も
「二人は此處で、人交へもせずに斬り合つて居るうち、伊太郎の斬つた刀と、照吉の突いた刀とが一緒になり、相討ちになつて死んだもので御座いませう。その證據には、二人の長脇差はこの通り血だらけで、一間とは離れずに死んで居ります」
「フム」
「若し、誰か他の者が、この二人を斬つたとすれば、これだけの傷をつけたんですから、うんと返り血を浴びたことでせう。その邊にマゴマゴして居れば直ぐ知れて了ひます。土地者には、この二人のあぶれ者を一緒に相手にして、見事に斬り伏せるやうな、そんな腕の立つ人間はありません」
喜八の説明は如何にもよく行屆きます。それを口移しに教へた平次は、八五郎と一緒に役人達に背を見せて、群がる彌次馬を追つ拂つて居ります。
「有難てえ。これで俺も坊主にならずに濟んだよ、錢形の」
役人と、役人について來た二三人の御用聞の後ろ姿を見送つて、尾久の喜八はホツとしました。
「その代り、これからが大變だよ、喜八兄哥」
平次は引返してもう一度二つの死骸を
「大變といふと?」
「下手人を
「二人は相討で死んだんぢやないのか」
喜八の鼻はキナ臭く動きました。
「それは兄哥の顏をつぶさないやうに此場のがれの言ひ譯さ。相討なんかぢやない、立派な下手人があつたんだ」
「誰だい、そいつは」
「あわてちやいけない。俺は江戸の町方の御用聞だから、八州の役人が
「へエー」
平次の話の意外さ、喜八はすつかり
「第一、昨夜まで恐ろしく景氣のよかつたといふ、伊太郎が百も持つちや居ないだらう」
「フーム」
「小判は
「――」
「二人が死んだ後で、誰か伊太郎の懷ろを拔いたに違げえねえ。が、こんな
「成程」
「それに、伊太郎の傷は前から突いた傷だが、照吉は後ろから
「フーム」
「伊太郎は自分の胸を突かれ乍ら、踏臺をして照吉の肩先を斬り下げたか。――照吉が大地に坐つて肩先を大袈裟に斬られ乍ら、伊太郎の胸を突いたか」
「すると、どんな事になるんだ、錢形の」
喜八はすつかり壓倒されて了ひました。
「照吉は伊太郎より、ぐんと腕が上だらう」
「その通りだ。二人が相討になつたと聞いて、照吉の野郎餘つ程運が惡かつたらうと思つたよ」
と喜八。
「照吉はほんのかすり傷を受けただけだが、伊太郎は滅茶々々に斬られて居る。多分照吉は伊太郎の胸を一と突き、――首尾よく片付けて了つてほツとしたところを、誰かに後ろから
「成程その通りだ」
平次の説明は
「それだけは解つたが、照吉を殺して財布を拔いたのは誰か。それをこれから搜さなきやなるまい」
「?」
「養ひ娘を
「へエ――」
八五郎は喜八の子分を二三人狩り出して、八方に散りました。二つの死骸はもう檢屍が濟んで、町役人に引渡したのです。
清水和助といふのは、尾久の半分ほども持つて居ると言はれた大地主で、先代は
尤も親類から預つたお房といふ二十歳の娘があり、世間ではそれを清次郎に
「江戸の町方のお方?――さうですか。私は和助、伜の行方を突き留めて下すつて、無事に戻りさへすれば、お禮はどんなにでもします。どうぞ、一骨折つて見て下さい」
主人の和助は、喜八、平次の二人を迎へて斯んな事を言ふのです。五十前後の
「養ひ娘のお房さんといふのがあるのに、どうして、そのお夏さんといふのを嫁にすることになつたんです」
平次の最初の問ひは斯う言つたものでした。
「お夏の父親は私の昔の友達で、恩がありますよ。それに、伜がお夏でなきやと言ふので――」
和助の顏には
「そのお房さんとやらに逢はせて下さい」
平次はこの慾の深さうな主人と長く話して居るのが
お房といふのは二十歳といふにしては少し
「お前さんはお房さんといふんだね」
「ハイ」
お房は淋しく
「此家とどんな係り合があるんだ」
「私は旦那樣の
「主人はよくしてくれるだらうね」
「それはもう」
辯解するやうな調子のうちに、何かしら悲しい語氣が
「お前さんは此處の嫁になる筈ぢやなかつたのか」
喜八は遠慮のない事を言ひました。
「いえ、飛んでもない」
「すると、お夏が嫁になつても、不服はないわけだね」
「――」
お房はうなづきました。
それから平次は主人の部屋、お夏の部屋、伜の部屋などを見せて貰ひ、物置と納戸と土藏まで念入りに調べさせて貰ひました。
「まさか土藏に隱れてゐるやうな事はあるまい」
と喜八。
「人間は隱れちやゐないが、――俺は提灯の數を勘定したんだ」
平次は變なことを言ひます。
「提灯がどうしたといふんだ」
「これ程の大家に提灯が二つしかないのを變だとは思はないか、
「さう言へばその通りだが――」
「狐が持出したかも知れない。兎に角、提灯を掛ける釘が十三遊んで居るよ」
二人は
「親分」
清水の門を出ると、不意に聲を掛けた者があります。
「あ、
喜八は鷹揚に挨拶しました。相手は四十年輩の堅氣ともやくざ者ともつかぬ男。
「ちよいとお耳に入れ度いことがありますが」
「此處で言ふが宜い。――この人は俺の友達だよ。構はないとも」
喜八は平次を友達にして了ひました。幸ひ江戸を離れると、神田の錢形平次もあまり顏を知られては居ません。
「外ぢや御座いませんが、――行方
「それはどう言ふわけだ」
「親分は御存じぢやありませんか、――大井さんといふのは、あの娘の後を慕つて、此處へ來た人ですよ」
「――」
「お夏さんの父親は清水の旦那の若い時分の友達で、昔は江戸で一緒に仕事をしたが、清水の旦那はすつかり殘して尾久に引込んであの
「フーム」
「その娘を清水の旦那が引取ると、浪人者の大井半之助さんが附いて來て、近所に家を借りて見張つて居るんです。大變な
「有難う。それだけ訊くと大變役に立つ、――一つその大井とか言ふ人に逢つて見ようか、兄哥」
平次は早速新しい手掛りをたぐりました。
「無駄だらうと思ふよ。浪人者と言つても、生つ白い弱さうな武家で、朝から晩まで本を讀んだり歌を作つたり、女のするやうな事ばかりしてゐる男だ。若い娘を
喜八は頭から相手にしません。
「でも、武家は心得がありますよ。弱いやうでも、いざとなれば、こちとらの二人や三人はどうにでもなりまさア」
與三松もなか〳〵主張がありさうです。
「ぢや行つて見るとしようか」
平次はその弱い武家に興味を持ち始めた樣子です。
二人は直ぐ近所にさゝやかな借屋住ひをしてゐる、浪人大井半之助を訪ねました。『弱い武家』で通つてゐるだけに、二十五六の良い男ですが、
「お聞きでせうが、清水屋敷のお夏さんが行方不知になりました。旦那は前からお夏さんを御存じのやうですが、お心當りはございませんか」
喜八の言葉は丁寧ですが、拔差しならぬ言質を
「知らない。――何んにも知らない。それで實は私も心配して居るのだが――」
讀みさしの本も手に付かない樣子、腕を
「お夏さんと、清水の旦那はどんな係り合ひになつて居りませう」
「その事ならよく知つて居る」
大井半之助の説明は長いものでしたが、一と口に言ふと、今から二十五六年も前お夏の父石崎金次といふ浪人者と、今は清水の主人になつてゐる和助が、江戸で落合つて
その後和助は尾久に歸つて清水の養子になり、持參金で財産を整理して、今日の大地主になりましたが、石崎金次はその後も清水和助の資本でいろ〳〵の仕事を續け、二三年前舊惡が露見して、千住の宿で自殺して相果てました。
石崎金次の死には、かなり疑はしいものがありましたが、日蔭者の悲しさは、それを
大井半之助は石崎金次の惡事を憎み乍らも、その娘のお夏の美しさに引かされ、子供の時から親しくして居りましたが、お夏が尾久に引取られてからは、浪人者の氣樂さ、後を慕つて此處へ移り住み、蔭乍らお夏の安否を見護つて居たのです。
「こんなわけだ。――これ以上の事は何んにも知らない。お夏が逃げ出したものなら、
半之助はさう言つて暗然と眼を垂れるのです。
平次と喜八は浪宅を出て二三十歩行きましたが、フト平次は立止つて、
「どうかすると、あの家にゐるかも知れない。行つて見ようか、兄哥」
「何んだい」
「まア、見付けてからの事だ。この八
二人はもとの大井半之助の家へ引返すと、一應斷つて、裏の物置を開けて貰ひました。
「この物置は滅多に使ふことはあるまいね」
平次は案内の婆やさんに訊きます。
「もと百姓家で使つた物置だから、あんまり廣くて役に立たねえよ。近頃は三月も開けたことがねえだ」
「さうだらう」
さう言ひ乍ら中へ入つた二人、
「あつ」
喜八は思はず聲をあげました。廣い物置の隅に、各種各樣の提灯が十七八、
「こんな事だらうと思つたよ。狐の嫁入の道具が、矢張り川の此方にあつたんだ」
平次はそれを豫期した樣子で一向驚く色もありません。
「縛つて了はうか」
喜八は
「誰を?」
「知れたこと、あの弱い浪人者だよ」
「冗談ぢやない。自分が
「それぢや?」
「もう少しあちこち歩いて見よう」
二人はまた川岸つぷちの方に取つて返すと、八五郎と下つ引二三人が
「親分」
「
「皆んな判りましたよ。それから蝋燭を買つた野郎も――」
ガラツ八はすつかり
「成程、其處まで氣が付けば大したものだ。ところで、そいつは、伊太郎か照吉か」
「あツ、親分も訊いて歩いたんで?」
「歩きはしないが、見當だけは付いてゐるのさ」
「そんなによく解つてゐるなら、あつしが汗を
「まア怨むな。足で取つた證據でなきや、眞實の證據にならない」
平次は八五郎を
「何を搜すんだ、兄哥」
と喜八。
「あれだよ」
「こいつは、清水屋敷の舟だが?」
平次の指さしたのは此邊の川を渡すのに使ふ舟で、何の變哲もなく、岸の杭に
「この舟で渡つて、川向うの土手で狐の嫁入をやつたのさ」
「この小さい舟に九人も乘つたかい」
喜八はまだ狐の嫁入行列を九人以下ではないと信じて居る樣子です。
「いや、たつた三人さ。その舟の中に三間以上の
「?」
「川舟の棹は大抵二本に決つたものさ。一本では流した時困るが、三本は多過ぎるよ」
「その棹一本に提灯を六つづつブラ下げられるだらう。――最初の晩は一人でやつたから提灯が六つさ。二度目は二人でやつて、三度目は三人でやつた。三人の人間が銘々提灯を六つづつブラ下げた棒を持つて川向うの土手を歩いたから、
平次の繪解きは奇拔ですが、今はもう何んの疑ひもありません。
「さう言へば提灯は六つづつ三ツ別々に揃つて居た樣な氣がする」
ガラツ八もその晩のことを思ひ出します。
「此方からだけ提灯が見えて、川向うの小臺の方からは何んにも見えなかつたのはどう言ふわけだらう」
と喜八。
「俺には見當だけは付いてゐるが、これも證據がないからはつきりは言へない。――多分提灯一つに
平次はそんな事まで考へて居るのです。
此處まで突き留めて、これから先はハタと行詰りました。
相變らずお夏と清次郎の行方は解らず、伊太郎と照吉の相棒の見當も付きません。
日が暮れると、一應喜八の家へ引揚げて、平次と八五郎と三人、額を
「たつた一つ
平次は言ひ度くないことを言ふ樣子でした。
「何んでもやつて見ようぢやないか、錢形の。考へがあるなら言つてくれ」
喜八は膝を乘出します。
「變なことを訊くやうだが、この邊で俺の名前を知つてる者はあるだらうか」
平次は恐る〳〵こんな事を言ふのです。
「神田の錢形平次兄哥を知らない者があるものか。顏を知らなくとも、名前だけは子供でも知つて居るよ。身に覺えのある野郎は、錢形と聽いただけでも
氣の良い喜八は立て續けにこんな事を言ふのです。
「そんなに
「何を觸れるんだ」
「――神田の平次が來て、下手人の目星が付いたさうだから、明日は伊太郎照吉殺しも、お夏と清次郎の
「本當かい、そいつは」
「まア、本當にして置いてくれ。――髮結床、居酒屋、出來ることなら村中の者皆んなに聽かせ度い」
「そんな事ならわけがあるもんか。サアもう一度皆んなで行つてくれ」
「合點だ」
子分達はゾロゾロと出動して行きました。
「あつしは? 親分」
殘つたのは八五郎と喜八だけ。
「さて、一番怪しいと思ふのは誰だらう」
平次は妙な事を言ひ出しました。
「浪人者の大井半之助かな」
喜八は言下に
「川向うで嫁入行列をやつたのは三人、その間に空巣狙ひをやつたのと、お夏を
と平次。
「あと二人あるわけだね、親分」
「三人かも知れない。が、もう尾久には居ないだらう。一と晩五兩十兩の仕事になれば、江戸から
と平次。
「ぢや皆んな逃げたかも知れないといふんで?」
八五郎は少しがつかりしました。
「いや一人だけは殘つて居る。大事の仕事が殘つて居る筈だ。――そろ〳〵出かけて見ようか」
「何處へ――」
「ツイ其處だ」
平次は八五郎と喜八を
五六丁行くと、清水屋敷の前へ出ます。
「八と喜八
「親分は?」
「裏に居るよ。――
三人は二た手に分れました。
それから一
闇の中から湧いたやうな男が一人、清水屋敷の表からそつと入つて行つて、四半刻ほど經つと、もとの表口から
「御用ツ」
前後から飛び付いた喜八と八五郎。
「何をツ」
曲者は身を
平次の注意がなかつたら、二人のうち一人は間違ひなくやられたことでせう。
「神妙にせいツ」
危ふくかはして、二人は呼吸を揃へて打つてかゝりました。
「どうだ、無事に捕つたか」
「親分は」
「俺も一人縛つたよ、見るが宜い」
雨戸を一枚繰ると、部屋の中に、主人の和助を縛つて
「そいつは、親分」
「曲者の一人さ。――お前達の縛つたのは和助の子分の與三松だ。高飛の路用を
「へエ――」
八五郎も喜八も開いた口が
與三松を責めて、お夏は川向うの百姓家に隱して居ることが判り、清次郎は千住の與三松の仲間のところに隱してあることが判りました。
直ぐ樣川向うの百姓家へ行つて、
「あ、こいつだ」
ガラツ八は平次の慧眼にお辭儀をして了ひました。
その晩のうちにお夏を浪人大井半之助に手渡してその保護に
× × ×
「親分あの浪人者は喜んで居ましたぜ」
歸る路々、ガラツ八は又繪解きの
「お房も喜んで居るだらうよ」
平次は別の事を考へて居る樣子です。
「清水和助は、何んだつて與三松なんかに
ガラツ八にはまだ何んにも解つては居なかつたのです。
「お夏を與三松に
「へエ――」
「
「へエ――」
「和助は惡黨の
「――」
「丁度の時、狐の嫁入騷ぎが始まつた。惡黨同士の
「成程ね」
「清次郎が狐の嫁入を見物に出た後、お夏を首尾よくさらつた與三松は、今度は、お夏の隱れ家を教へてやるからと、和助の伜の清次郎をおびき出し、千住の仲間のところに隱して、和助を
「――」
「俺の名をエラさうに觸れるのはイヤだが、うつかりするとどんな事になるかも知れないと思つたからあんな
平次は何時でもそんな事を考へて居るのでした。
「伊太郎と照吉が殺されたのは?」
「與三松の細工さ。――お夏を
「いやアな事だね。――ところで清水の
とガラツ八。
「いづれはお上で
「お夏はあの弱い浪人と一緒ですかえ」
「
平次はカラカラと笑ひました。
江戸の街へ入るとすつかり夜が明けて、すが〳〵しい夏の朝風が頬を撫でます。