その前の晩、
田住生が訪ねて来た。
一昨年の暮に
亡なつた
湯村の弟、六郎の親友である。今度福岡大学へ行く途中とあつて立寄つた。
此間の洪水で鉄道が不通ゆゑ神戸までは汽船にすると云ふ。
白絣の
あらい浴衣に、黒の帯、新しい
滝縞の袴をシヤンと
穿いて居た。お国風に
衛さん衛さんと七つも違ふ湯村の名を呼んで居た。
「六郎さんが丈夫ですと、今年は一緒に大学へ来るんでした。一昨日の晩
停車場でお母様が
然う云つて泣かれました。」と、坐ると
行也、その事を云出す。
「然うです。」と湯村は答へた。
「この人は矢張、二高出身で、六郎さんとも友達、東京の法科へ今度来たのです。」と云つて、一緒に来た小村と云ふ学生を紹介した。先きでは会つた事があると云ふが、湯村は飽くまで初対面に構へた。丁度、朝からムシヤクシヤして居る所ゆゑ、日比谷見物に行くと云ふ二人を無理に引留めてビールにした。トマトに鎌倉ハム、都焼の角鑵も切らせた。
酒が
やゝ荒んで来た頃、その小村は急に改つた調子で、「貴方に伺つたら解るでせう。全体ラブつてどんなものでせう。」と問ふ。好くある事で、大抵の人はこの問題を芸術家の所へ持込んで来る――何も芸術家のみに解せらるる問題と思つてる訳でもあるまいが。
尚ほ云つて置くが、湯村衛はK―氏の門生で近頃世に知られた小説家である。今年三十になるが未だ独り者、妹夫婦を相手に暮して居る。
「恋は恋さ、何んだつて
そんな事を聞くんです。」と湯村は
痩せた肩を
聳てた。
「然し、何か変つた御意見があるでせうと思ひまして。」
「別に無いね、或る男と或る女と二人集つて、従来より更に複雑な、そして美しさうな生活を見出さうと勉める時、
他はこれを恋と云ひます。
詰り勉めて見るだけでさ。」と投出すやうに云つて、オリエントの
脂をペツと袖へ吐く。
「そんな単純なものでせうか。」
「単純も何も、恋は苦しく触れるべき事実、興味をもつて論ずる問題ぢやない。」
「でも、それだけぢや満足が出来ない。」と小村もツイ深入りした。
「満足出来ない?」と、小さいが光る目で見て、「一体そんな事を云つて、君は恋した経験があるのか。」と、湯村は
食指で小村を指した。
田住の方が
却つて恐縮して、ヘツと
頸をちゞめて友達の足の裏を
些と突いた。
小村は真面目に、「は、有ります、尤もあれが真の
恋と云ふものか
何か、そこは分りませんが。」と云ふ。
「
何した、別れたらう。」
「え、別れました。」
「君は?」と今度は田住を指す。
「僕ア有りません。」と田住は袴に手を入れて堅くなつた。
「そして何故別れたんだ、小村君。」
「さ、両親の承諾しないのも理由の一つでした、それに。」と言終らぬ中から、
「憎いだらう、君、女が憎いだらう。」と、湯村は自分の言葉ばかりサツサと
搬ぶ。
「いゝえ、別に憎いたア思ひません、事情を聞きましたもの。余儀ない訳なんです。」
湯村は酔うた頭を前後にフラ〳〵させながら、「女の云ふ事情なんて
的になるものか。」と、でも思出しては手酌でガブ〳〵
呷つて居る。
「そんな事ア有りません、僕は今でもその女を信じて居ますもの。」
すると湯村は
突然に、「君、寝たかい。」と問ふ。
「僕は決して、決して
そんな事。」と、小村は真赤な顔して
不興気に口を閉ぢた。
「駄目だよ。君は矢張り物語か詩にある恋をして居るんだ。僕もやつた。しかもツイ近頃の事よ。そして別れた、同じく事情ありさ。見たらう君、新聞に出て居た、湯村は某女学生に恋して、
懊悩煩悶の極、小説が書けないんだつて、あれさ。」
「国民新聞に有りました。」と田住が云ふ。「一体あれは本当の事なんですか。」
「本当とも、今でこそ笑ひ事だが、その当時はこれでも真剣さ。いや、真剣だと思つたんだ。何しろ僕も矢張り詩にある恋を現実にしようと思つた、馬鹿だからね。」
「然し世間のラブと云ふものは、貴方の云ふやうな、
そんな冷たい
冷かなものばかりでも無いでせう。」
「駄目だ。君等は未だ若いんだ。」
「然うでせうかね。」と二人は押しても争ひは
為無い。今来たシチウを
せつせと強い胃袋へ詰込んで居た。
湯村はこの日、朝ツから
癇が立つて、妹ばかり叱つて居た。
塩鰺の塩加減、座敷の掃除、
銅壺に湯を
断らしたの、一々癪に触る。襦袢の洗濯を忘れて居たのでは、妹が泣出すほど叱り付けてやつた。「馬鹿、不親切
極る、何を着れば好いんだ。
如何に田舎者だつて、それ位の注意が出来んで
何うなる。」と散々毒づいて見たが、妹は
病上りの蒼い顔して黙つて
俯向いてばかり居るので、終にはじれ出して、「
こんな事ぢや
所詮駄目だ。下女を一人傭はう、幸ひ先生から話がある。然うすりやお前達はお客さまになつて、三度々々
あげ膳で喰はれる。」とまで突込んだ。これだけはと思つて居たのに、到頭口へ出して了つた。果して妹はオロ〳〵声で謝る。気の付かない所は改めるから、今日の所は勘弁して下さい。「今下女なぞ置かれては、私共お気の毒で、御厄介になつて居られません。」と、畳へ手をついてシク〳〵泣く。でも湯村は、「駄目だ〳〵、
そんな不親切な
兄妹の世話になるより、金で傭つた他人の方が幾ら好いか知れない。」と云ひ〳〵書斎へ引込んだ。妹が
襖越しに
切りと謝るのに返事も
為ない。
妹婿が商法上の失敗から、夫婦して湯村の家へ
寄つてから最う三月近くになる。気の小さい二人は、「済まない〳〵。」と、口癖に云つては居るが、さて
恰好な仕事口も無いので、兄の筆耕をしたり、走使なぞしてブラ〳〵日を送つて居る。常の湯村はたゞ
鷹揚に、「
何有、喰べる位の事なら何時まで居ても好い、ユツクリ勤口を探すさ。」
と然う云つて慰めて居る。妹と云つても
これは早くから里子に行つて居て、里子流れに
先方へ取られたのを、ツイ四年前に返つて来たのゆゑ、自然湯村とは兄妹の情愛もうすい。教育も受けず、生れたまゝに育つて来たのだ。婿はもと湯村の故郷仙台に銀行員の頃、伯母の世話で一緒にしたのだ。生れは東京の者である。今朝仕事口を探しに家を出た
限未だ帰つて来ない。下町に親戚があるから、大方そこへ泊る気かも知れぬ。
まづい晩飯を済まして、湯村は独り縁側に寝転んで居た。仕事の机へ向ふ気も無い。酒屋と魚屋は月末の勘定を延して居る事ゆゑ、是非書かなければ約束の五日の間に合はぬと思ふが、それでも筆が取れない。書き掛けの分など仕上げねばならぬのだが、それも厭である。遊びに行く所をとも思つたが、面白い話のありさうな所も無い。K―先生からは絶交状が来て居る。辰馬が家を持つたと聞いたが、
何れ
あれも今度の絶交一件に関連して居るだらうから、尋ねて行くのも変なものだ。それに、第一まだ宿所の通知も無い。
K―先生に絶交状を附けられたのは
最う度々の事で、
他に話しても、「又ですか。」と笑はれる。感情の強い人ゆゑ、
些とした事で騒ぎたてるが、直る事もすぐ直る。十日か十五日も遠ざかつて居ると、直ぐ迎の人か、手紙が来る。この前、後の月の晩、酒の上から同門の誰彼を捉へて、
ひどい暴言を浴せかけた際も、その時は大した立腹であつたが、ものの一月と先生の強情はつゞかなかつた。今度だつて数は知れて居る。事柄が事柄だ。根も葉も無い蔭口が新聞へ麗々しく出たのでそれを湯村の
悪戯と察して怒つただけだ。日を腐らした上、
此方から謝つて行けば何の事なく収るに相違ない。そして又
些と酒が廻つて来ると湯村の手を握つて、「憎い奴だ、君のやうな
面憎い男は無い。今度こそ今度こそとは思ふが、別れて見れば寂しい、何しても別れる事が出来ぬ。君とは全く腐れ縁と云ふんだらうね。」と
斯う云ふのも見え透いてる。無論気にする程の事では無い。
然し、とも湯村は思つた。現に二十三日の晩、最後に会つた時でも別に変つた様子は無く、常の如く快く飲んで別れたのに、
踵なぐりに十日と経たぬ昨日、唯あの新聞記事だけで絶交するとは
可笑しい。何か無ければならぬ、と考へた。自分の態度のあまり強情なのも癪に触つたらう、事を好んで好く面倒事を引起すのも癪に触つたらう。近頃遠々しくして居るのも癪に触つたらう、と思つた。然しそれだけでは足らぬ。何かある、何かあると
切りに考へた。
湯村はボンヤリ空を見上げた。行く夏の夕、静けさは水のやうである。
湯村は可也酔つて居た。そこに出たビール七本の中、五本は彼が飲んだのだ。痩せた
頬殺げした顔は蒼く、目が鋭かつた。
烟管へつめる左の指がピク〳〵
顫へて居る。
何の
機会からか、話は、信仰問題に落ちた。
尤も二人共に
基督教へ籍を置くゆゑ、自然そこへ行つたのだらう。でも二人共酒は飲む、教会を離れて信仰が得られないものなら、宗教に背いても好いなぞ云つてる。
湯村は急に力を
籠めて、「今の世に
最う信仰は無い、神の権威は地に
墜ちた。有るものは唯理解だけ、理解を離れては神の存在すら信ずる事の出来ぬ、浅間しい時代だ。」と云出した。
二人の学生は正直に顔を見合した。
湯村は続けて云ふ。「夫婦だ、親友だ、恋人だと云つても皆然うだ。互に信じて胸と胸とが触れ合つて、あやしい
温味がその間に交流するなんて云つたのは、ズツト〳〵以前の事さ。今の世は詩や物語から分離して居る。唯相互の心を理解し合はうとする外に何の愛情も無い。今の世には唯
むごい冷かな目の愛だけが残つて居るんだ。」と。
「然う考へたら、然し、人生は寂しいものになるでせうね。」と小村が云ふ。
「寂しいとも、無論寂しい。」
「そんなにして迄、寂しがる必要がありますか、損な事です。」
「損得で論じやしない、これが人生の実相さ。吾々現代の人と生れたのが不幸なんさ。」と声が憤つてる。
「そんなら、
強ひても信仰を求めたら
何でせう。或る場合には
築上げるんですね。無信仰の時代なんて、そんな事を考へただけでも恐ろしいですね。」
「築上げる? そりや好いかも知れん。然し、築上げたいにも築けん人がある。僕なぞもその一人だ。君等のやうに降誕も奇蹟も
甦生も、何の苦も無く信じ得る人は幸福だよ。そりや幸福だよ。」と然う云つて、ランプの
心をグツと
捩上げた。
小村も
流石にムツとした。「然し僕等は降誕や奇蹟を離れても基督を信ずる事が出来ます。
主の生涯が既に絶大な詩です、宗教です。」
「それが基督の人格美と云ふんだらう、度々聞く言葉だ。詰り理解ぢやないか、確実を信ずると云ふ事は既に信仰の範囲を脱して居る。」とグイ〳〵酒をあふる。
「では宗教を原始時代に
復さうと云ふんだ。」
「無論、
総ゆる事が原始に復らんきア駄目だ。」と叫んだ。
「それぢや、どこに吾々の安心を得ませう。」と田住は
謙遜つた声で尋ねた。
「安心なんか現代にあるものか。
新しき幸福とか
知られざる神とか云ふものが、西洋詩人の理想通り見付かりや結構だが、さも無い間の人間はたゞ動揺あるのみさ。世の冷たい波に揺られ揺られて

き苦しむのみさ。」
「迷信は何うです。」
「迷信も好い、けど僕等にや最う迷信も得られまい。」
「何う云ふもんでせう。詰り近代科学の影響なんでせうか。」
「根本は無論それだらう。人間の心に驚異心が無くなつた、見えざる目を恐れると云ふ事が無くなつた。」
「然うですかね。」
「雨に驚き、風に驚く頃の人間でなきア真の宗教は
有ち得ない。驚くと云ふ大なる力が人間に真の信仰を与へる。詰り近代の人間は余り自然に馴れ過ぎた。」
この続きの話が長い間取交された。
喋るのは湯村一人。二人の学生は黙つて聞くより外はなかつた。
「何うも有益な話を伺つて、非常に啓発する所がありました。」と二人の学生は厚く礼を述べて帰つた。
二人が帰つた後、湯村は妹に
蚊帳を釣らせて寝たが、今の話に目が冴えて、何うしても眠られない。酒も醒めた。
信仰と理解、何うも大なる問題らしい。
慥かに小説になる。無信仰の現代に産れて、信仰に
憧れる主人公は面白い、
屹度書ける。辰馬が喜びさうな小説が出来よう。尤もこの事に付いては、是迄深く考へもしなかつた。今日
偶と、偶然と云はば偶然、口を
衝いて出た言葉だ。湯村の癖で、ある時、偶然にある問題に触れると、話の中に皮が着き肉がついて動かす可からざる問題に成長する。今夜も
慥にそれだ。
今の議論を実際に
当嵌めて見た。恋、交友、夫婦、みなよく合理する。それと共に、先生に対する事件、彼女に対する事件、みな解決される。嬉しくて〳〵ならなかつた。
翌朝目が覚めると、辰馬から移転の通知が来て居た。もう耐らなくなつて、直ぐ車を命じて家を乗出した。
高田馬場四百何番地、あの湯屋より少し早稲田寄りの北側と細かく書いてあるので、辰馬の家は直ぐ知れた。仕立もの所、田中、と標札が出て居る。車を下りた。
辰馬は湯村と同じ門生である。長年そこの玄関に居ただけ先生との因縁も深く、先づ
外様と譜代ぐらゐの違はある。痩せた、眉毛の恐ろしい太い、目の沈んだ男で、比喩と謎だけで小説を書かうと焦つて居る。起きてる事も事実なら、夢の生涯も事実に相違ないとは、その好く云ふ所である。未だ
纏つた作は無いが、いづれその内に書く〳〵と云つて居る。筆で書くより魂で書きたいと云つてる。例の朝寝、今起きた所と見えて昼飯の膳に牛乳がついて居た。
一閑張の机の上には「恋の挿話」に「聖僧の罪」ゾラの小説が二冊乗つて居た。
「相変らずだね、
関はずやり給へ。」と、湯村は縁の照返しを恐れて、座敷の真中へと坐つた。
「では失敬するよ。」と土瓶をかけた箱火鉢を、客へ
あてがつて自分は食事にかゝる。兎のやうに前歯でチヤキ〳〵ものを噛むのがこの人の癖。
「実は今日、小説の趣向を相談しに来たんだ、批評を聞かうと思つて。」
「又書くのかね、
好く続く事だね。」と
箸を膝に置いて云ふ。
「書かんきア喰はれん。」
湯村は昨夜田住に話したことを
委しく説明した上、「ねえ君、吾々は不幸にして無信仰に生れたんだ。不幸な時代だよ、人が人を信じないで何うなるだらう。不安、懐疑、実に恐ろしくなるね。夫が妻を信ぜず、友が友を疑ひ、親は子を疑ふ時代だ。考へただけでも恐ろしい。僕はこの恐怖を書いて見ようと思ふんだ。何かしら安心のサジェスションは無いかと
悶え苦む
現代の児を主人公とした小説を書きたいと思ふんだ。」
「さア。」と辰馬の答はこれだけであつた。
「然し君は何う思ふね。信ずると云ふ事の無い世の中を不安とも不幸とも思はんかね。」
「思つても好い。然し、自意識の発達した我々時代には、それが余儀ない傾向だらう。」とサラ〳〵と茶漬を掻込む。
「不安は無いかね、煩悶は無いかね。」と湯村の調子は
急込んで来た。
「然し自意識が発達すると云ふ事は、他人の間から自己を独立させると云ふ事になる、また
囚れた自分を
活さうと云ふ事にもなる。」と膳を
押遣つて、心静かに落着いて煙草を
吹して居る。
「又例のレクチュアだ、僕は講義を聞くんぢや無い。」
「だつて然うだもの、吾々の時代が既に〳〵信仰と遠ざかつてる事は、何人も等しく認めて居る事だもの。」
「それだけか。」
「それだけとは?」
「然うさ、君は唯然う他の耳から理解してるんだ。僕は自分の心に
湧上つて、自分の口から云ふんだ。」
「それが何う違ふだらう。」
「それ、それだ、その口の冷かな事を見給へな。」
「然し不思議だね。自然も自然、極端な純自然。第一性論を主張する君としては大分変つた議論だね。」
「君は
何故然う熱が無いんだね。」
「君こそだ、思想と実在とを混同して居る傾があるもの。」
「最う好いよ、最う分つた、君は何事にも驚かない人なんだ。今に作品としてお目に掛けよう。」と湯村は話を切つた。大概はこの言葉に終る。どんな問題を提出しても、ツヒぞ一度辰馬は血を騒がせた事が無い。冷かに分解されるか、批判されるかの二つである。その時は此方でも、「書いて見せよう。」と云ふ一語を放つのだ。体力も精力も弱い辰馬は、未だ一部と纏つたものを書いた事がない。それは自分にも残念がつて居る弱点である。湯村は
他の弱点を遁さぬ男である。
落着いて茶を飲むと辰馬は又云ふ。「時に君、又先生に絶交されたつてね。」
「された、あゝ、
為れたよ。」
「何う云ふ心なんだね。」
「僕ア知るものか、為れた方なんだもの。蔭口を利いたとか利かぬとか云ふ、言訳するにも
為様の無い馬鹿々々しい問題だから、僕は
打遣つて置く事に決めた。」
「僕昨日初めてその話を聞いてね、君の所へ行かうと思つて居た所だ。」
「
御免蒙らう。昨日まで親友で
候の何のと云つて居ながら、詰らない愚にも付かぬ
瑣小事で直ぐ絶交騒ぎだ。成程、僕は我儘だつたよ。他から見たら師弟の間ぢやないと思ふ程の我儘を働いたに相違ない。だが僕は、先生に信じられてるとばかり思ふからね、少々の事は許されるものと思つて居た。」
「間違だね、芸術家に他を信ずるなぞと云ふ事があるものか。」
「
何故々々。」
「皆、自意識を持つてるもの。」
「それで好く君は不満がないね。信じられない人間の中に活きて居て何とも思はんかね。」
「
為方がないね、時代だもの。」
「時代なら、極めて
悪しき時代だ。」
「ぢや何んだね、君の今話した小説の趣向と云ふのも、詰りその絶交一件から思付いたんだ。」と沈んだ大きな目で湯村を見る。
「僕は君と違ふ。信のない世界には生きられない。理解だけぢや到底満足されない、第一寂しくて耐らない。」
「常の君のやうにも無い、今日は存外弱い事を云ふね。」
「弱いんぢや無い。僕ア今まで世間を
謬つて見て居た。少くとも僕だけは他に信じられると思ふから、思ふ存分に我儘もやり強情も張つて居たんだ。馬鹿だつたね。」
二人はやゝ暫く黙つて居た。辰馬は何服も〳〵煙草ばかり吸つて居た。湯村はゾラの小説を取つて表紙を
啓けたり、広告を見たり、妙に落着かない様子を見せて居た。辰馬は
終の灰殻を火鉢の縁へ強く叩いて、
「そして、何うだね。竜子さんのその後は。」と
眩しいやうな目を見せる。
「何うするもんか、あの儘さ。」
「時々は思出すだらう。」
「誰が?」と云ふ湯村の声は
険しかつた。
又言葉が切れる。表の通りを、鈍い調子の広告楽隊が通り過ぎた。
「ぢや僕失敬しよう。」と急に立上る。
「何故? まだ好いだらう、久振りだ大に話さうよ。」
「またの時だ、僕は帰つて書くんだ。」
「
羨しい精力だな。」と真実羨しさうに見上げた。
「ぢや君、先生へも宜しくね。」
「何うしたんだ、本当に絶交する気か。」
「するんぢやない、されたんだ。僕は謬つて居たよ。ね、人は信ずる者だとばかり思つて居た。」
「信じなくとも好いぢやないか、理解でも交友は続き得るよ。」
「僕は理解の交友は欲しくない、誰でも好い、これから後は信じられる人を求めるんだ。」と冷かに云つて表へ出た。
思ひ切悪さうに辰馬は門口まで送つて来た。
「君、馬鹿に通り一遍になつたね。」と車へ乗るのを見て居る。
「なつたんぢや無い、されたんだ。失敬。」と湯村は云つた。
茗荷畠を突切つて、
大隈伯の邸について曲ると、新開の早稲田鶴巻町になる、たしか角は文房具屋と思つた。
「旦那、市ヶ谷へ廻りますか。」と年寄の車夫はそこに立停つて後を振向いた。
「いや、家だ――急いで。」と湯村は車上にあせつた。直ぐ帰つて創作の机へ向ふ積りなのである。なあに負けるものか、書いて見せると心が叫んで居た。
二三日続いての雨、上るには上つたが、夜上りだから長くはあるまいと人は云ふ。
カツと晴れた秋日和の午後、二時は過ぎて居たらう、濃い蒼空にはカツキリ白い雲が
雲母のやうに輝いて居る。九月の日は明るかつた。夏よりも明るい。然しジツと物の色に
滲入る光では無く、軽く物の表に
浮ついて動く光である。向うから高下駄を
穿いて、雨傘をさした職工らしい男が来る。番傘がキラ〳〵と目に
閃いた。鉛に喰はれた蒼い顔であつた。
この町の
目貫、
唐物店と洋服屋の四つ角まで来ると、長い町並が山伏町近くまで真直に見えた。大学が休暇の間は町の姿まで怠けて
赭色に長く見える。若い望に充ちた声や叫び声は何所の隅にも聞えない。自転車、人力車、
彩色した配達車、そんなものは一輛も見当らぬ。通る人も通る人も皆
歩調をゆるめて、日当りを選んで、秋蠅の力無く歩んで居る。下宿屋は二階中を
開ひろげて
蚊帳や
蒲団を乾して居る。店の装飾に斬新をほこる唐物屋や洋酒店の中には、半ば大戸を下した所も見えた。姿見を沢山かけ並べた
理髪店には
鋏の音が
閑さうに見えた。派手な誇張な看板に唯日が明るく射して居る。そして、
檐も柱も濃い色のペンキで塗上げた支那料理屋や、下町の活々した街から
追詰られて来たと思ふ寂れた古本屋や、外に通ふ亭主の手助けする薄資本の煙草屋やが、カツ〳〵店を張つて居た。
ロゼッチかの詩に「昼の女王座」と云ふのがあつた。札場の若い男が昼の
桝に長々と寝て
西瓜の皮をペン
小刀でむいて居る詩であつた。何の関係も無い事だがその詩を思出した。そして、「寂れた
沈着の無い町だ。」とこの町を見た。「魂が抜けて居る。」とも思つた。
秋の光を総身に浴びて、年季らしい小僧が胸を張つて真直に来る。固く乾いた雨上りの道を素足で蹈んで居る、
眸の黒い児であつた。口をキツと結つて居た。腹掛のドンブリには大きな
棕梠の塗ブラシを突立て、片手に
蒼色のペンキを入れた壺を下げて居た。
摩違ひざまに沈んだ目で車を見上げて過ぎた。憤を歯から出さぬと云つた意気込が
小児ながらその顔に見えた。湯村は後から振返つたが、
母衣が
覆さつてゐるので無論見えぬ。どんな目付をして後から見たか、恐ろしく気になる。見えざる蔭の目、見えざる蔭の目、手を握締めたいほど気がいらつ。
ホツ、ホツと
締の無い笛を鳴らして、自動車が過ぎた。湯村の車が右に避けようとしたその車輪の
際どい間をくゞり、重い強い発動器の響を聞かせて、
砂埃の無い路を太いゴム輪が真直に
向へ
馳せた。
「あ、危ねえ。」と車夫の叫んだは十間も
距つた後である。そして、暫時車を停めて汗を拭いた。車上には軽い服を着た貴婦人が二人、振向きもしない。
「大隈さんのだよ。」と一人の細君が荒物屋から飛出した。
「色が違ふ、三越だよ。」と今ひとりの細君、これは
蓋ものをさげて居た。手を額にかざして見送つた。
湯村は
偶と気が付いて当月の収入を胸の中に
算へ上げた。間に合ふだけはある。来月も来々月も書きさへすれば充分に
暮は立つ。先生の周旋は無くとも買ひに来る本屋も二三軒はある。先づ大丈夫と思つた。書く、書く、と心に誓つた。ズウデルマンは、「芸術家よ、
画け、語る
勿れ。」と云つたと聞いた。自分は
慥に語り過ぎた。交り過ぎた。黙して、そして黙して書かなきアならぬ。馴れた机、馴れた窓明り、黙して書かなきアならぬ。空には蒼、土には緑、濃い〳〵色に画き上げねばならぬ。
山吹町の通りへ出た。曲り角に大勢人が立つて居た。腰から下のバツと
ひらいた
清国学生が五六人何やら大声に
罵つて居た。
両側は低い屋根の家が続いて居る。この頃の大水に浸つた家々の
牀は、まだ乾かない。夜は焼鳥と
おでんやの出る
角端の
明店の前へ棚を据ゑて、葉の
しなびた朝顔鉢が七つばかり並べてあつた。
うりものと仮名で貼札してある。
蔓が長く〳〵延びて居た。この辺へも、人は
どよみをつくつて居る。大きな乳房の胸を
露はに一人の女が
店頭に、
壜詰の酒を日に透して見て居た。
「おい、
母衣を
外してくれ。」と車の上で突然湯村が叫んだ。
「へえ?」
「母衣を取るんだ。」と叫んだ。
車夫は
梶棒を下ろして、オゾ〳〵母衣を後へはねた。
「これで好うがすかい。」
蒼い顔を日に
曝して、帽子も被らぬ湯村は
うなづいた。車夫は又梶棒を握つた。そして、又駈出した。
むきみやの
老爺で、店はお喋りな
上さんに任せてある、定七と云ふ、今年五十六になる。酒が好きで好く上さんに隠れて湯村へ来ては
盛切酒の振舞になつてゐる。心臓が悪いから稼業は今年限りだと云つて居る。
桜木町の橋へ出た。丁度、葬式と通り合し、車は橋袂の青物屋の前に止つた。
橋を渡つて長い葬式は明るい日の下をしづ〳〵練つて行く。先手の竜燈は
久世山の下にかゝつて居た。
白木づくりに
鋲打の寝棺を十幾人の人夫が
担いだ。
萌黄に緑色の
変
を
襲ねた
白無垢を見せて、鋲がキラキラと揺れ動く。
編笠扮装の施主が新らしい紋付の肩を揃へて静かに
俯いて行く。導師、副導師の馬車。その後から会葬の車が幾十台、みな塗色美しい母衣を下して長く〳〵続いた。
「おい、何所か外を廻つて行けないか。」と湯村は身を乗出して車夫をせめた。
「
改代町を廻つちや大変です、
何有最少しですよ。」と車夫は動かない。
行列を越して
音羽の大通を見た。九丁目から一丁目まで真直である。空気は澄切つて遠くも近くも総て同じ色に見える。白いものは益

白く、白地の袖が糊ばんで冷たさう。人の唇も手足も
脂が切れて美しく乾いて見える。
湯村は
袂から巻煙草を出してマッチを擦つた。何本も無駄にした揚句、やつと
点いたのをろくにも吸はずに、忙しく河へ投込んだ。前は青物屋である、市場の荷が未だ着かぬと見えて、店はヒツソリ寂れて居る。それにトマトや西瓜や、人の目をひく色濃い夏の
果は大方
場退けになつて、淡々しい秋の果がボツ〳〵ならべられてある。水に流された
梨子を大山に盛つて附木の札を立ててあつた。
葬式は未だ通り切らぬ。
湯村はたゞ気をあせつた。久世山の下、音羽の九丁目にはもとの恋人がある。万一出ては居まいかとも思つたので。今日ばかりは、遇ひたく無い、見たく無い。何時もは何ともなく
往来して居たが、今日は不思議なほど心が騒ぐ。自分も諦めて、他とヱンゲーヂする事を許した、
謂はば路傍の人、何うあらうと差支はない筈だが――さて、然うは行かぬ。先方は洋行帰りの会社員、西洋の派手な
活々した社交を経て来た男。土産のトランクの中には指環やらブロッチやら
露西亜更紗の派手な模様もあつたと聞く。今ごろは世の栄華に誇り切つた目を上げて、新らしい恋人の耳に
私語いて居ぬとも限らぬ。「昔の事は昔の事。」と男の肩に
掴つて居るかも知れぬ。片手を男の肩に置いて、片手で男の髪をまさぐるのが癖であつた。足を横に投出して、片手でヒタヒタと乳の
辺を叩くのも癖であつた。人を打つ
掌は痛かつた。
「私は忘れません、私は生涯忘れません。」これが別れ際の言葉であつた。「忘れるな、キツト忘れてくれるな。」と湯村は念をついた。
青物屋の
葱は日に光つた。
燐のやうに光つた。湯村は
晒者になつたやうに思つて蒼白い額を両手に
抑へた。
葬式は通り過ぎた。
書いて見せる、書いて見せる、と湯村は声に出して然う云つた。
外から入つた家の中は暗かつた。
「お帰りなさい。」と妹は然う云つて出た。
「
油井は何所へ行つた、未だ帰らんのか。」と怒つた声である。油井は妹婿の名である。
「何うしたんですか、未だ帰らないで。」と言葉尻が恐れに半分消える。
「何?」
態と聞返したのである。
「未だ帰りませんで……。」とそこへ窮屈さうに小さく坐つて、何時も叱られる
胸前の
拡りを取締て居る。
「あつちへ行け。」と然う怒鳴つて、足音荒く湯村は書斎へ引込んだ。
原稿紙を出した、
硯に墨も流した。途中考へて来た「信仰の力」と云ふ題を書いた。手が
顫へて居る。世に信じる力は無く、唯理解のみになつたと悟れる人の寂しみ、
悶え、それを書く積りなのである。二三行書いたが何うも文章をなさない。三枚書損つた。今度は題を「見えざる後より」とも、「見えざる目」とも
更めた。矢張り書けなかつた。直ぐ前の井戸傍へ子供が大勢集つて、何かガヤ〳〵
喚き始めた。湯村は筆を投出して、ゴロリと寝た。
巻紙を出してスラ〳〵と書く。私は
謬つて居た、余り接近したのは悪い。絶交は謹んで受ける。そして私は孤独を守つて飽迄製作に従事する積りと書きかけた。K―氏へのである。辰馬へはたゞ短かく、「余は活き得る途ありと信ず。」と
筆太に大きく書いた。
風は冷々と吹入つて、襦袢着ぬ肌に寒い。今晴れたかと思ふと直ぐ曇る、
まことに
沈着の無い空である。庭の松、
葉銀杏、
吉野檜、遠くでは向う屋敷の
欅、
朴の木、柳、庭の隅の秋草まで、見る限りの葉が皆動く。ザワ〳〵と葉裏を見せて皆動く。
「おい。」と湯村は寝ながら叫んだ。熱いお茶が欲しかつたのである。
聞えない。
「おい、おい。」と二三度呼んだが返事がない。ツカ〳〵と立つて台所の戸を明けた。妹は出窓際に鏡を置いて、身仕舞に気をやつして、
切りと鏡に見惚れて居る。白いものも幾らか付けたやうだ。
「おい、
あんなに呼んだのに聞えないのか。」と冷たい
閾の上に立つた。
「あら。」と妹は最う真蒼になつて鏡を隠した。
「何をしてる。馬鹿!
おしやれか。」
妹は黙つて
俯向いてる。
「なんだ、その面で。宿場の
飯盛ぢやあるまい、この部屋の
態は何だ。」
二畳の女中部屋の壁際にガラス鏡を飾り、小棚の上には安香油だの百合の花のレッテルの付いた
白粉だの、鑵に入つた洗粉だのを並べ立てて居る。角な食塩の
明壜に真赤な葡萄酒のやうな髪油も入つて居た。「おしやれ所の身の上か、馬鹿め、自分々々の身を考へて見ろ。居候して居る分際で頭ばかり光らせても何になる、百姓め。」と口から出任せに怒鳴つた、妹は蒼くなつてブル〳〵顫へてゐる。
「何故自分達の身を立てる事を考へない。いかに馬鹿だと云つて、その位の気が付かないか。」と又怒つた。
「ですから、今日油井も……。」
「何? ハツキリ云へ。」
妹は泣出した。
「
厭な色だ、何んだ。」と湯村は
行也その髪油の壜を取つて流しに投付けた。
三和土になつてる。ひどい音して粉々に壊れた。
「お
兄さん、私悪かつた……堪忍して……。」と妹はそこの板の間へ
突伏した。
「何が悪いんだ。何が悪い。」と
やたらに激して、白粉壜も洗粉も、一つ〳〵みな投付けた。
「貴様は一体兄を兄と思はない。亭主より外に大事なものが無いんだ。へん、亭主は大事よ。」と
咽低く
嘲笑つて又書斎へ戻つた。
原稿に向つたが気が
興つて書けない、妹の泣声がシク〳〵聞える。
「今日は駄目だ。」と
独言云つて、シャボンを手に湯へ出掛けたのは余程過ぎてである。外はもう暗かつた。
夕方、油井は帰つて来た。昨日来浅草の親戚へ泊つて、方々歩いて見たが、思はしい口も見当らない。
兜町の仲買屋に書記が入用との話ゆゑ、行つて見ると
最う新しい人が入つて居た。「運の悪い時は何所まで行つても駄目です。」と
悄げ切つて居る。
実体な気の弱い男で、借金の言訳にさへ始終
まごついて居る。
「
為方がないさ、まア
緩り探す事です。」と湯村は鷹揚に云つた。
「でも、何時々々まで斯うして御厄介になるのもお気の毒でして、
どんな所でも口さへあれば勤めて見る気で居ます。」
「
何有、
関はんさ、お互の事だもの。」
「然し夫婦連れですからな。それに、御覧の通り気の廻らん奴ですから、
嘸、お気に合はぬ事もありませうと思つてな。」
「だつて、僕にや妹だもの。」と笑つた。然し目は不安さうに相手をはかつて居た。
膳拵へして妹が持つて来た。二人はお先に済ましたからとて、湯村だけ膳へ向つた。ランプの
心を高く上げさせた。
妹は最う
先刻の事をケロリ忘れたやうに、夫の傍へ坐つて活々した話振である。油井は又途中見て来た色々の話をして聞かせる。下町の物価の高い事、風俗の派手になつた事、三軒が三軒見て来た芝居の木戸留であつた事、
秩父縞の月賦売が
却つて格安の事や何かを話して聞かせる。妹はそれを聞いて、何時か一度是非その下町へ連れて行つてくれと
せがんで居た。妹は二月前に東京へ来たなり、未だ一度も外へ出掛けた事がないのである。
「
何れ連れて行くよ。その内には、芝居も見せてやるよ。」と油井は答へた。
「貴方のその内は
的にならないから、その内〳〵つて最う二月になりますもの。」と
粘つた調子である。
「今度は本当だよ。」
「
屹度々々屹度ですよ。」と念を押す。
「う、好い〳〵。」と笑つてゐる。
湯村は箸を投げるやうに置いて、「陸さん」と呼ぶ。陸三郎は油井の名である。
「陸さんは感心だな、これを連れて電車へも乗る気か。紡績の女工と云はれるよ。」
「ヘツヘツ。」と
煙管で頭を掻いて、「でも
為方がアせんもの。」
「好い気だよね、二人共。」と湯村は書斎へ引込んだ。
書くのを思切つて、そこに
腹這になつて、新刊書など出して見た。口絵や序文や飛び〳〵に眺めたばかり、身を入れて読まれさうにもない。
痒いのに気が付いて見ると足に蚊が留つて居る。
忌々しさうに
掌打にすると、血は掌を汚した。妹夫婦は自分の間と定まつた玄関脇へ集つて、ヒソ〳〵声で話して居る。笑ふ声も聞える。「あれだ。」と湯村は苦い顔をした。
書架から
手擦のした、羊皮表紙の新約全書を引ずり出した。
盲目さぐりに開くと、
約幹伝の十一章が出た、七節から読始めたが気も無く止した。又開けたのは
馬太伝の六章、有名な山上の垂訓である。
小児の時からの愛読書ゆゑ、詩を読む心で読んだ。唯読んだ。果ては声を立て朗読した。そして、「それ狐に穴あり、鳥に巣あり、されど人の子は枕する所なし。」と云ふ一節まで来ると、われとわが身に聞く声が次第に乱れて顫へて居る。又続けて読んだ。
偶と耳を立てると、妹夫婦が何か言争つて居る。声を
憚つては居るが、室が浅いから手に取るやうに聞える。
「馬鹿を云へ、何所に遊ぶ銭がある。気楽な事を云つてやがる。」と油井の声である。
「だつて金でばかり遊ぶんぢやないもの。」
「では何で遊ぶ、握り拳でか、貝殻でか。」
「知つてるもんか。」
「え、何んで遊ぶよ。教へてくれよ、俺は
些つとは人並に遊んで見たいから。」
「また国に居た時のやうに?」
「然う〳〵、あの時の事云はれると一言も無い。」
「決つてるんだから、病気だね貴方の。」
「病気にしちや好い病気だね、手数がかゝらないで。」
「その気だもの、呆れて了ふね。」
「ヘツ、この気か。」と何か
おどけた仕方をして見せたらしい。妹はぷツと吹出した。
湯村は
忌々しさうに聖書をドシンと
襖へ投付けた。
「馬鹿だね、静にしろよ。兄さんが勉強してお出なさる。」
二人は又
睦しさうに、声を低めてヒソ〳〵話し始めた。
「
何故不可ないんです、え、何故?」と今度は妹が何か
ねだつて居る。
「不可ないよ。」
「まア
可笑しい、何故だらう。」
油井は黙つて新聞でも読んでるらしい。妹は耳根ツこへ寄つて承知しないらしい。
「だから、何故不可ないんです、東京々々と思つて東京へ来て、浅草も見ないなんて、こんな詰らない話は無い。」
「上野を見たから好いだらう。」
「上野だつて、博覧会も過ぎて居たもの。私イルミネーションを見たかつた。」
「電燈がドツサリ
点くばかりよ。水道町でだツて見られらア。」
「自分ばかり方々歩いて。」
「今に見せるよ。馬車に乗せて、三越で着物を買つて、白
ぼたんで指環を買つて、そして奥山の玉乗りを見せよう。」
「馬鹿だね、私は出掛けて見たい。」
それから話は奥山の話になる。
山雀の芸当やら、花屋敷の人形やら、珍世界、水族館などと色々出る。妹は気をゆるめて
もう話に酔つて居る。
湯村は蒼い顔して
起上つた。そして、三畳に出て行つてそこの襖を開けると、寝転んで居た妹は飛んで起きて、窮屈さうに坐つた。世間話を二つ三つしたが、油井は「は、は。」と謹んで挨拶して、煙草ばかり吹いて居る。妹は勿論一言も云はぬ。
額越に兄の気色を
窺つて見る。
又書斎へ戻つた。
十時頃だつた。湯村は突然、「陸さん、一杯飲みに行かう。」と誘出す。
「は、私は。――兄さん召上るなら
麦酒を
買つて参りませう。」
「馬鹿な事、お酌が無い。」と家を出た。
水道町のある洋食屋へ入つた。二階へ上つて見ると、客は二組ばかり居た。殊に向隅に陣取つたのは清国留学生が七八名、遠い本国の言葉で高声に
喋り散らして居る。
酒はウヰスキイにビール、割つて飲むのが湯村の癖である。油井は日本酒の方が勝手だと云つてその方ばかりやつて居た。
湯村の方では打解けた調子で話しかけるが、油井は唯々恐縮して居る。
談がトンと
興まない。特に女中を
捉へてキヤツ〳〵騒ぎ立てる支那人の
傍若無人さに、湯村は眉を
顰めて
たゞガブ〳〵酒を
呷上げて居る。
「兄さん、
最う帰りませう。」と油井が云出したのは十二時近くであつた。二組共客は帰つて、下では最う戸を閉め始めた。
「何所かへ行つて飲直さう。」と湯村の声は大分もつれて居る。
「何所と云つて、最う遅ござんすよ、十二時ですもの。」
「十二時だつて好いさ、
神楽坂にや起きてる家がある。」と
性急に帽子を取つて立たうとする。
「でも今夜は遅いから。」とモゾ〳〵して居る。
「大に騒がう、わあツと。そして飲むんだ。」
「それに、
家でも待つてゐますしな。」
「それで帰らうと云ふんだな、帰り給へ。」と
注置きのビールを一息に呷つて、「君は帰る家があるから好い。僕は無い。」と唇に流れる
雫を平手でペツと拭いた。
「だつて、兄さん、今から飲んだつて同じ事ですよ。又明日召上がれば好いでせう。」
「僕ア大に話がある。」とそこへ坐込んで動かぬ。
「お話なら伺ひます。」と油井は迷惑して居る女中に
目配して椅子へ掛けた。
「君ア女房が可愛いかね。」
「さア、困りましたね。」と頭を掻く。女中がクス〳〵
噴出した。
「人間女房が可愛いやうぢや駄目だ。事業のためにや犠牲にする位の意気込で居るんだね。」
「そりや然うですな。」
「駄目だよ、君は。駄目だ。駄目だ。」と頭をフラ〳〵させる。
「だつて、私があれを出したら兄さんが困るでせう。だから私は我慢して居るんだ。」と笑つた。
「然うだらうな、はゝはゝゝゝ。ぢや、礼を云ふ。礼を云ふ。」
二人はそこを出た。途中でも何度か
愚図るのを無理になだめて、家へ帰ると妹と二人がゝりで寝床へかつぎこんだ。
夢でも見たのか、三十分
許りすぎると、湯村は目を
醒して、
「陸さん〳〵。」と呼ぶ。二度も三度も呼ぶ。ランプを持つて妹が恐る恐る枕元へ来た。
「何の御用ですか、私致しませう。もうスツカリ酔つて了つて、正体なく眠つて居ます。」
「ときか。」と湯村は
爛れた息を吐いた。
「貴様達は幸福だよ、実に羨しい。然うあるのが本当なんだ。何時までも何時までも然うして暮らせよ。」
と云ふ。
妹は何と云つたら好いか分らなかつた。
「手を貸せ、手を。」と恐るる妹の手を固く握つて、振つて、「あゝ一生然うして送つてくれ。」と離した。
(明治四十年十一月)