いがみの権太は「
義経千本桜」
三段目、
木の実と
鮨屋とにて、局部の主人公と
看做すべきものなり。作者
出雲、
松洛、
千柳等はこの権太によりて
大物の浦、芳野山の様なる大時代の中に、一の世話場を現ぜしめたり。権太の性質はおよそ三段に分る。木の実と鮨屋の上三分一即ち弥左衛門の出までとの権太は純粋なる
悪棍なれど、なほ親子の情愛を解せるものとし、鮨屋の中三分一即ち二度目の出より弥左衛門に突込まるるまでの権太は
已に善心に
復りたれど、なほ悪棍を装ふものとし、鮨屋の後三分一即ち弥左衛門に突込まれてよりの権太は善心に復りしことを自白せるものとしたるなり。権太の悪棍となりしは隠し女に
嵌り、親には勘当せられ、賭事に掛りしためなれば、この道行は
尤なれど、善心に復りしを
維盛の大事を聞きたるためとしながら、その前に
騙りし金を「維盛様御夫婦の路用にせんと盗んだ金」といふは、
太だ矛盾せり。権太の苦心の水泡となりしは、作者の懐ける因果応報主義を発表せしものにて「思へばこれまで
衒つたも、後は命を
衒らるゝ種と知らざる浅間しや」といへる一句はいはゆる狂言の山なるべし。この権太は大和国下市村の男なるに、芝居にて江戸風の大いなせにすることにつきては、
已に前人も不審を懐きし所なるが、

は深く
咎むべきにも
非ざるべし。とにかく五代目幸四郎の今の権太の
粉本を作り、三代目菊五郎のこれを潤飾し、今の菊五郎のこれを相承したるは、何人も認めざること
能はざる所ならむ。
宜なるかな、この頃明治座にての興行に、またかともいはず人波うちての大景気を見ること。今左に菊五郎が権太の
科白を細叙して、世の好劇家に示さんとす。
木の実の場にて、権太は舞台の上手より出づ。
仮髪は
逆熊にて、
髷は右へ曲ぐ。
豆絞の手拭を後より巻き、前に
交叉はせ、その端を髷の後へ返して、突つ込む。この手拭の
被りかたは、権太に限りたるものなりと。顔は
僅にとのこをつけしのみにて、
下瞼に墨をうすく入れ、
青鬚を
顎に画く。
着附は
盲目縞の腹掛の上に、紫の肩いれある、紺と白とのらんたつの
銘撰に、
絳絹裏をつけ、
黒繻子の襟かけたるを着、紺の白木の三尺を締め、
尻端折し、上に盲目縞の
海鼠襟の
合羽に、胴のみ
鼠甲斐絹の裏つけたるをはおる。
脚絆を着け、素足に麻裏
穿き、
柳行李と
袱裹を
振分にして、左の肩に懸け、右の手にさんど笠を
提げ、早足に出づ。舞台の下手まで来て「あゝ、
草臥た〳〵」と腰を伸し、空を見上げて「まだ日が高けえや、一服
遣つて
往かう」と下手の
床几に腰を掛け、膝を
撫り「悪い道だなあ、この間の雨からすつかり道を悪くした」といひ「お神さん、茶を一杯くんねえ」と茶店を見込み「
明けつ
放してだれも居ねえのか、この開帳で人の出るのに」とかます
烟草入と
真鍮の
煙管を出し「何だ火もねえや」といひ、上手に向ひて「火を一つ戴きたうございます」と吸ひ付け「あなた方あ、お開帳参でございますね、
若子様は道草だ、わつちどもの在処の子供と違ひ、お
綺麗のお生れでございますねえ」と首を
細く振りて云ひ「旦那え、こゝに堕ちて居るのを拾つて居らつしやるが、それはみんな虫つ喰でございます、木にあるのをお取んなさい」といふ。小金吾が取れずといふに「なあに、
造作はございません、そつちへよつておつもりを気を付けてお出なさい」と
華道のすつぽん辺まで来て、右の
偏袒となり、小石を拾ひ「いよ、どつこいしよ」と椎の木に打ち付く。これにて椎の実ぱらぱらと落つ。この仕打再びあり。また舞台に戻り「こんな大なのが落ちて居ます」と己が
笠の裏に拾ひ入れ、それを小金吾の笠に
承けしむ。「ぼつちやん、どうでございます、爺いやあは
旨うございませうえへゝゝ」といひ「もちつと採つて上げたうございますが、
遠道を抱へて居りますから、これで御免を蒙ります」と肌を収め、空を見上げて「大分遅くなつた」と己が荷を小金吾が荷と取り換へ、中ぐくりを持ちし上を笠にて覆ひ「御縁があらば、重ねて御目に懸りませう」と会釈し、花道つけ際にて「どつこいしよ」と
裹を左の肩にかけ、右に笠をさげ、足早に向うへ入る。
二度目の出は、右に笠を持ち、左に包をぶら下げ、不審らしく眺めながら出で来り、花道の中ほどにて、小金吾にいで逢ふ。笠を左に持添へ、右手にて包を指し、また舞台を指し「まあ〳〵〳〵〳〵」と押し戻しつつ舞台に来る。下手にしやがみ「
檀那、飛んだ粗相を致しました」と息を切りて言ひ「日は暮れかゝる、心は急く、重い軽いに気もつかず、途中に行つて心づき」とぽんと手を
拍ち「あなたのお包はお返し申します、全く粗相でございます」と包を出す。小金吾がちちうがあつたら許さぬといふを「そりやあ何がさて、お荷物にちちうがあつたら、旦那、
私やあ
台座の
別でございます」と右手にて軽く首筋を
敲く。小金吾が包を改めるうち
四辺へ目を配り「左様なら、旦那、あなたのお荷物にちちうはございませんか、あのお荷物にちちうはございませんか、どうなることかと思つた」と
做大に胸をさすり「それぢやあ私の荷物をお貰ひ申ても
宜うございますか」と受取り「そんな事はございませんが、念には念とやら申しますから、私どもの荷物を改めましても宜うございませうか」と云ひ、包に手を掛け「おやこの中ぐくりのほどけたのは」と云ひ、見たばかりと聞き「へえ左様でございますか」と小金吾を尻目にかけ、ふくれたやうに言ふ。改めて「おや」と飛上り「
襦袢の間にもねえ、
袷の間にもねえ、さあねえ〳〵」といふ。小金吾問へば「檀那、お聞なすつて下さいまし、村の者から預つて来た、
高野へ納める
祠堂金の廿両、この袷の間へ入れて置いたのがございません、さあ大変だ、金がねえ」と、小金吾の方へ向けて
袱を振ひ、
柳行李の蓋にてそこらを叩き立て「へえ、旦那、
御常談をなすつちやあいけません、わつちが道を急いで居るものだから、お
隠なすつてからかはうと思つていらつしやるのでせう」といふ。小金吾
屹となるを見「旦那、そんなこえゝ顔をして、お
睨なすつちやあいけません、旦那あ立派なお侍だ、わつちやあ田舎ものでございます、さう目に角をたてゝ
仰しやると私も言はなけりやあなりません、旦那、先ほどは何と仰やつた、ちちうがあつたら許さないと仰やいましたらう、そつちの包にこれほどでもちちうは有やあしますまい、この
皮行李の中ぐくりはどうして解けました、何と理窟ぢやあございませんか、そんなしらを切らねえで、早く金を出して下さい、悪い常談だ」と包を片付く。合羽を脱ぎて、下手を向き畳む。この内小金吾
頻に
侘ぶ。初は軽く「やかましい」と三度いひ、終に「やかましい〳〵〳〵えゝやかましいや、なに、今聞いたら
足弱を連れた、足弱を連れたなあ盗つ人の
附目だ、何万両はいらねえ、たつた廿両だ、早く金を出せ」といふ。小金吾が身どもを盗人と申すかといふに「しれたこつたい」といふ。小金吾刀を抜かんとす。これにて
体を右に倒し、右の
偏袒ぎたる手を
下手に突つ張り、左の手を背後へ廻し、左の足を挙げて、小金吾の右の
肘を留め「なんだ〳〵〳〵刀の柄へ手を掛けて、おれを
斫る気か、べらばうめえ、金を取られた上に
截られてたまるものか、さつきてめえの方の
裹にちちうが有つたら
赦さねえと云つたろう、有つたか、有りやあしめえ、おれの包の中にちゝうがあつたから盗つ人といつたのがどうしたんだ、いやさ、盗つ人と言つたが、なななあんとしたんだ」と時代に
緩めていひ「
一人ならず
二人三人、
首綱」にて右手を頸へやり「の
罹らぬ内、早く金を出しやあがれ」にて肘をつき離し、体を起して左へ
捩り、右手にて手拭を脱いで右の肩に掛け、左の足を持つて来て、
高胡座をかき、左手はやや曲げて左の膝にあてぐつと睨む。小金吾を見て「なんだ、泣つ面をしやがつて、
其方よりは
此方が泣きてえ」と立掛り「さあ金を出さねえか、脇へこかしたな、
好し、尼あ引きずつて行つて、叩き売つて金にする」と
内侍を
引立に掛る。小金吾額をはたくと仰向に返り、起き上りて「あゝ痛え〳〵目から火が出る」と額を
撫づ。小金吾金を
抛出すを見「持つていかなくて、
己が金だ」と云ひかけ「あゝ痛え〳〵、ひどい事をしやあがる」と尻を

り撫づ。「己が金をおれが持つて行くに、だれがなななんと云ふものか」とこはごは引つたくる如く取つて下手に来り「これだ、この金だ、己がちやあんとこの紙に
裹んで置いた、おれの金に相違ねえといふ証拠は、一枚々々桐の極印が打つてあらあ、すんでのとこで玉なしにする処だ」といふ。小金吾意気込むと花道まで逃げ「
斫るならこゝまで来い、
手前がこゝまで来りやあ、己は逃げてしまふ、
截つて赤い血が出なけりやあ、銭は取らねえ、己の腕にはな、
条鉄がへえつて居る」といふ。小金吾上手に入ると肌を入れ「弱い奴だ、逃げて行きやあがる」と舞台に来て、上手を見「やい若衆、そんなに
睨めるな、人を睨めると手前
比目魚になるぞ」といひ、
床几に上り「前髪を一本々々抜いてぬたにしてくつてしまふぞ、あ、曲つちまやがつた」と降りて「ざまあ見やがれ、なんのかんのと言ふものゝ、
本手いらずの廿両、いゝ
商売だなあ、これからお袋をいたぶつて、二、三貫目ゆすぶり出して、
昨夜の穴あ埋めにやあならねえ、日が暮れらあ」と包を笠へ入れて右に抱へ下手にゆかんとす。女房と
倅を見て「かゝあ、
手前店をあけてどこへいつた」といひ、薬を買ひに往きぬと聞きて「手前が居るときつと今の仕事の邪魔をしたのだ、居ねえといふのは
誂へたやうだ」といふ。女房が話ありといふと「
己は用があるから聞いちやあ居られねえ」と往かんとする仕打一、二度ありて、女房が下に居やしやんせと両手を権太の右の肩へかけ押据ゑんとするを
外す。女房が「お前はなあ〳〵」といふと「そおりや初まつた」とさんど笠をひつくりかへして下に置き、その中に腰を入れ、手拭を右の肩にかけ、両膝を立てて足をちがはせ、膝の上にて両手を組み、やや、上方に向ひて
空嘯く。女房がみんながお前の事を何といふぞいなあといふ所にて、女房の方を振向き、女房が「かたりの権太といふはいなあ」と、のりになりて首を
揺かすと、権太も釣込まれてその通に首を揺かし、極りの悪き風にて顔を下げ、
月代の上に右の手を
載す。女房の
詞切るると、床几の上の土瓶より茶碗に茶をつぎて盆にのせ「お茶を一つお上りなさいまし」と出す。女房がひつくりかへすを見て笑ひ、女房の方へ向き直り、ぽんと手を拍ち「なるほどなあ、持つべきものは女房だ、先ほどから段々の御神さんの御異見、
重々恐れ入りました」と手を
突てあやまり、調子を交へて「しかし
手前が今の様におつう
七目題目を並べたつて理窟をいへば、己もいはなくつちやあならねえ」といふ。女房がどうしてといふと「何というつて、手前
覚があらう、それおれがまだすつぺかしたての時分よ、親父の
云付で、
御所の町へ鮨を商ひにいつたらう、その時は手前も振袖かなんか着込んで、赤い
巾を頭へかけ、今たあちがつて、ごうせい
見世付がよかつたから、友達と一所に遊びにいつたのが初まりで、
掛先をみんな集めて、手前の所へ入れ揚げてしまつた」といふ。女房がまあようござんすといふと「なによかあねえ、掛先を集めては、手前の所へ埋めてしまつた、その時因果と善太が手前の腹にできたもんだから、親方がいふにやあ、もし権太さん、かういふ体になつたものを店へも出せませんから、
立金をしてくれろといふ、まとまつた金の算段はできはしねえから、
年貢米の金を盗んで立金に入れ、手前の方の仕末はついた所が、そのぼくがわれたもんだから、すんでのことで手が後へ廻る所を」と左の手を後へ廻す真似をし「庄屋の旦那が口を聞いて下すつて、年賦にして納めるといふことでやう〳〵済んだが、そのためにとう〳〵勘当よ、その
中大勢寄つて来て初つたのはれこだ」と右の手にて壺皿を伏する真似をし「さあ悪いことには染み易く、
露天賭博やおいそれ
騙、たつた今も廿両」と懐から最前の金包を出して見せ「これだからやめられねえのだ、これからお袋の所へ入つて、二、三貫目ゆすぶり出してくるから、手前は先へけえつて、酒でも買つて
俟つて居てくれ」と立上らうとする。女房が一所に帰つてくれといひても「晩には
帰るが、今は
帰られねえ」といふ。善太来て権太の肩につかまり「ちやん、帰つてくんねえ」といふ。権太これを見て「おつかあにおそはつて来たな、泣くな〳〵、泣くとちやんの子ぢやあねえぞ」と手拭にて目を拭いてやり「ちえつ」と舌打し「餓鬼には負けろだ、けふはそれぢやあ
帰つてやらう」といふ。女房が帰つて下さるかといふと「善太坊が泣いて留るのだ、仕方がねえ、負けてやらう」と立上り、手拭を肩にかけ、自分で前の床几を
倒にして後の床几に重ね、店の側に片寄す。女房の店を片付くる間、善太の持ち居る三文笛をとり、ぴいぴいと吹きて見て「こんなつまらねえお手遊を持つて居やがる、ちやんのお手遊を見せてやらう」と懐より
烟草入を出し、笛を入る。これを後に
維盛夫婦を呼び出す相図に使ふ。その代に
采を出し「これを覚えなくつちやあいけねえ」といひ、しやがみて善太の持ち居る手遊の
竹笊に入れて伏せ「勝負」と声をかけ「二六の長よ」といひて笊を取る。「さあやつて見ろ」と今度は懐より銭を出して置く。善太真似をするを女房が引のくると「なあに今から教へて置いて丁度いゝ加減だ」といひながら采と銭とを懐へ入る。先へ往く権太に善太つかまると「餓鬼はうるさくつていけねえ」と女房の方へつきやる。女房また権太の方へ押しやる。この仕打二、三度ありて、権太は左の手にて善太の右の手をひいて「つめてえ手だなあ」と両手にて暖めやり、花道の手前に来て善太を背負ひ、女房と入替りて先へやる。花道に掛りて「かゝあ
裾がずる〳〵ひきずつて居る、はしよつていけ」といふ。女房が
否むと「おつう色気がある、誰が見て居るものか」と
四辺を見廻す。なほ聞かぬ故、しやがみて右の手を伸し、裾をずつとまくる。女房「あれえ」と声を立つ。権太苦笑をなし「善太、よくつかまつて居ろ、手を出すのは面倒臭え」といひて、腕組して揚幕に入る。
鮨屋の場にては「この家の惣領いがみの権太」といふちよぼにて、花道より出づ。
仮髪は前幕の通にて、着附は茶の細い
弁慶縞(木綿と見するも、実は姿を好くするため、
結城紬を用ゐる)に、
浅黄のもうか木綿の裏ついたる
袷と白紺の弁慶の縞の太さ一寸八分なる
単衣とを重ね、前幕の三尺を締め、左の肩に豆絞りの手拭をかけ、右の手にてやざうを
拵へ、左の裾を二枚重ねたるまま引上げて左の脇に挟み、せんぼんといふ草履をはく。門口に来て裾を卸し、左の肩の手拭を取りて右の肩にかけ「ごめんなさい」といひて格子戸をあけ、弥助とお里とが寄り添ひ居るを見て、慌てて戸をしめ、下手の方へ三足四足戻り「こいつは困つた、けえるにもけえられず」と頭へ手をやり、また引つ返して格子前に来り「えへん〳〵〳〵」と
咳払し、どんどんと足踏し、さて戸をがらりとあく。これにて弥助とお里と飛びのく。弥助がようお出でといふと「よくこなくつて、おれが家へおれが来るに誰が何といふものか」といひつつ
這入りかかり、気が付いて「弥助、ちよいと顔を借してくれ」といひて格子戸の外に出づ。弥助出口に来てかしこまると「立つてそつちを向いて見ろ」といひつつ左の袖口より絵姿を出し、左の手にて絵姿の上の端を持ち、右の手にて下の端を持ち、やや斜に拡げて弥助と
見較べ「こつちを向いて見ろ」といひ、絵姿を拡げしまま右手の方へ廻して見較べ「これに
違えねえ」といひて、絵姿を思はず前の方へ持つて来て、慌てて後へ廻し、
巻て
内懐に入れ、弥助に向ひて「いゝ男だなあ」とてれかくしをいふ。家に入りて弥助に向ひ「昼日中に店つつあきでとつついたり、ひつついたり、人が見たらげえぶんが悪いや、ちつと離れて居ろ」といひ、お里に向ひ「けふの所は黙つて居てやるから、お兄いさんに一升買へえ、へゝゝ」といふ。またお里に「親父は家に居るか」といひ、留守と聞いて「そいつは丁度いゝ、お袋は居るだらう」といふ。お里がはいといふと「よし」といひ、弥助に「それぢやあ、おれが来たといつて、ちよつと呼んでくれ、いやおれが来たといつちやあいけねえ、どつかの金の有りさうな立派な旦那がお出でなすつて、御相談申したいことがあるといつていらしつたといつてくれ」といふ。この中弥助とお里とが両方から手真似をして段々寄り来て、権太の背につき当る。これにて権太びつくりし「何をして居やがるのだ」と
叱りつけ「早くいつてさういへ」といひつつ
立身にて土瓶をとり、茶をついで飲まんとす。お里がびびびびびいといひて引つ込むに呆れて「お兄いさんをつかまへてびゝゝゝゝい」と口真似なし、茶を注ぎて飲み、煙草盆をもち来て、舞台下手に坐り、着物の裾を両足の間に
挿み込み、煙草を吸ひ居る。奥より母親出で来り「どなたでございます」といふと「おつかさん、私でございます」といふ。母親が「出て失せう」といひて奥へ
這入らんとするを、慌てて立ち上り、袂をつかまへ「おつかさん、そんなに腹を立てずに、ちよいとまあ下に居ておくんなさいまし」といひ引留め、母親の物言ふ度にぴよこぴよこ頭を下げ「立ちかはつたる機嫌にぐんにやり」にて頭をかき
衣紋を壊して、体をぐたりとならしむ。「直ぐではいかぬと」にて正面を見て顔を
顰め「思案しかへて」にて真顔になり、膝をぽんとうち、気を替へしほしほして「おつかさん、私が今晩参りましたのは、御無心では御座りませぬ、お
暇乞に参りました」といふ。母親が尋ぬると「私は
仔細あつて遠い所へ参りますから、親父様も、あなた様も随分御無事で御出なすつて下さいまし」といひ「しほれかければ」のちよぼにて「はあゝ」と
做大に溜息をつく。「さあしてやつた」にて舌を出し、ぽんと手を拍ち、気を替へて「目をしばたゝき」にて、両手で手拭を持ちて目に当てがひ、首を刻んで縦に振る。「私のお話し申す
一と
通お聞きなすつて下さいまし、これまでもあなた様へこそ御無心を申せ、つひに人様の物、箸かたし、いがめたことは御座りませぬに、不孝の罰か、
夜前私やあ、
大盗人にあひました」といふ。母親が何か盗まれたかといふと「私の物はとられましても
宜うございますが、その中に代官所へ納める
年貢の
銀、三貫目といふものを盗み取られました、常が常でございますから、人様がほんたうにしては下さいません、表向になりますれば、お仕置になるは知れて居ります、あゝゝ情ない目に、逢ひました」といふ末の句を間を延ばしていひ「しやくり上げても出ぬ涙」にて
如何に泣いて見ても涙の出ぬに呆れ、右の
示指にて自分の顔を指し、また右の平手にて右の
頬をうち、横手なる茶碗に目をつけ、左の袖をかざして母親の方を遮り、右の指に茶をひたし、それを眼の縁に塗り、顔を母の方へ差向け「おつかさん、こんなに涙がこぼれます」といひ「おゝゝ」と声を挙げ、手拭をあてて泣く真似をする。母親が「こりややい」といふ詞を「はい〳〵」といひて受く。金を内所にてやると聞き、体をひよいと上へ
反し「その金を下さいますか」と思はず右の手を出し、その手をすぐひつこめ「持つべきものは親だなあ」と感心せしやうなる調子にて下を向き首をかしげていふ。押入の戸が明かぬと聞き「鍵はございませんか」といひ、また「鍵は親父が持つて往つた、なに鍵がなければ、こち〳〵がようございます」といひ、烟草入から煙管を出し、
敲く真似をして見せ、
二重へ上り、下手に向ひて戸棚の前にしやがみ、
雁首にてこちこちと錠をうちて明け「へえおつかさん、この
通でござります」と錠を母へ渡す。母親が渡す
銀を「一貫目、二貫目、三貫目」と一々母の口真似をして数へて頂き、手拭を拡げて包み、内懐に入れ「それぢやあ
直に代官所へ持つて参ります、これからはすつかり心を改めてしまひます」と二重を下り辞義をなす。下手へ来て舌を出し、格子戸をあけて「おつかさん、左様なら」といひながら表に出で、戸をしめて、「狸ばゝあめ」と小声にいひて、左の裾を重ねしまま脇へ挿み花道にかかる。「親父が帰つて来やがつた」と向ひを指して頭へ手をやり、急いで家に入り、戸じまりをして母に向ひ「親父様が帰つて来ました」といひ「この金を持つて居ては邪魔になる、どつか隠して置きたいもんだ」とうろうろと上手を見廻し、隠し場なきに困り、二度ほど
股をくぐらせ、股の間に挿んで座り「かうやつても居られねえ」と立上り、
鮨桶に目をつけ「鮨桶へ入れて置けば、知れはしません」といひ、四つ並びし中、上方から二つ目の鮨桶をとりて金を入れ、蓋をして
旧の所に置き「奥と口とへ引別れ」のちよぼにて、二重の端に出で、左の裾を重ねしままとりて、脇に挿み、揚幕の方を見込み、後向にて大股に
暖簾口に入る。
「様子を聞いたか」のちよぼにて暖簾の中にてどんどんどんどんと足音を響かせ、出の
拵は弁慶の
単衣に三尺を締め、手拭を浅く輪の様にして
向鉢巻をなし、
留をやや左に寄せV字状になし、右の
偏袒になりて白木綿の腹巻を見せ、裾を高く尻端折し、袖をたくし上げ、両手にて暖簾をかかげ、股を開きて向を見込む。この鉢巻の留を真中にするは高麗屋流にて、音羽屋流にては左へ寄するを例とすといふ。二重に出でて向を見込みて突立ち「聞いた〳〵、お
触のあつた
内侍六代、維盛弥助を引つくくつて金にすらあ」と一杯にいひながら三尺の締りを直し、二重から平舞台の上手へ足を揃へて勢よく飛び下る。お里が頼む中、両手を後へ廻し、端折を直し「べらばうめえ、
大金になる大仕事だ、そこ放しやあがれ」と両手の掌に軽く
唾をふきかけて、その掌を
揉合せ、下手へ行く。お里の三尺の後にかくる手を二、三度振払ひ、体をねぢ向けて、右の足を挙げ、お里のひはらを
蹴上ぐ。そのまま花道中ほどまで往きかけ、思ひ出したる模様にてぽんと手をうち、
体のはずみにて前に傾くを踏み留まり、体を向けかへて、やや屈み、両手をぶらりと下げ、
躍る様に安く振りて、舞台に来り、二重へ上り、四つ並びし鮨桶の中、一番
上手の分を右手に提げて重みを試み、次に一番
下手の分を試み、終に下手より二番目の首の入りし分を提げて見て
首肯き、そのまま提げて花道附際まで来て、左の脇に抱へ、右の手にて桶を押へ、反身になり、
屹と揚幕を見込み、つけをうたせ、大見得あり。次で大股に歩みて、向へ入る。
次の出は揚幕の内にて高声に「内侍六代、維盛弥助をいがみの権太が召捕つた」といひ、拵は引つ込の時と同様にて、右の脇に鮨桶を抱へ、左の手に
縄尻をとりて舞台へ来り「
下に居ろ」といひて
縄付を坐らせ、自分も下手に坐り、鮨桶を置き、肌を入れ鉢巻をとり、梶原に向ひ「親父の
売僧が熊野から維盛をつれけえり、道にて頭をすりこぼち、この間はいやらしい
婿詮索、引つくくつてつら恥とおめえの外、手ごえゝやつ、村のやつら」にて向うを指し「の手を借りて、首にして」にて首桶を指し「持つてめえりやした、どうか御実検なすつて下せえやし」といひ、鮨桶を梶原の前に持ち行きて据ゑ、下手に帰り縄尻をたくりてしやがむ。梶原が実検する中、その方を
上目に見、顔を
顰めつつ両手を膝につき、膝頭を揃へ、段々と背延して、中腰になりて
緊と見て居る。梶原が「相違なし」といふを聞き、ほつとして体を少し前に屈め、また
旧の通りしやがむ。梶原の「いがみの権太とやら」といふ詞にて坐り頭を下げ「でかした」といふ詞にてまた頭を下げ「生捕つたな」にてまた下ぐ。「
面をあげさせえ」にてぎつくりし、うなづいて立上り、縄付の後に廻り「さあ
面をあげろい」とやうやくいひ、思ひ切つて左の手にて小せんの下げ髪をとり、左の足を上げ、膝を曲げ、小せんの
頤へ足首をかけて仰向かせ、右の手にて善太の
髻をつかまへて引つ立て、二人とちよと顔を見合せて、ぢりぢりと自分の首を右の方にそむく。次で下手に来てしやがむ。梶原が親の命を助くと聞き「もし〳〵」にて右の平手を前へ出し「親の命ぐれえ助けて貰はうつて、命がけの働をしやあ致しません」といふ。梶原が褒美が
欲いかといふと「親父の命は、そいつはどうぞ親と御相談なすつて下さいまし、わつちはやつぱりれこ」といひて、右の
拇指と
示指とにて丸い輪を拵へ「お金が欲しうございます」といふ。この間始終袖をたくし上ぐ。「それぢやあ頂きます」と陣羽織を拡げて見て「こりやあ何だ」とややふくれていふ。
所由を聞き「なるほど解りやした、当節
衒がはやるから、それで二重どりをさせねえ
魂胆、よくしたものでごぜえやすねえ」といふ。次で「縄付はお渡申します」といひて渡し「これはお預申します、大層立派なものでございます」といひつつ陣羽織を提げて立上り、小せんの方を見て鼻をすすり、二重の下へ後向にしやがむ。梶原がずつと下手に来り「それえ出え」といふ詞にて、舞台のやや下手に出で、手拭もて下をはたき、そこに手拭を置き、その上に陣羽織を載せ、自分は梶原に向ひて坐り頭を下げ「
面を上げえ」にて「へえ」といひて顔をやや顰めて上ぐ。「預けるぞよ」にて「お気づけえなせえやすな」といひかけて、左の示指にて弥左衛門等を指し「貧乏ゆるぎも」といひ、右の拳の腹にて「くん」と鼻を右の方へ向けてかむ真似し「さすこつちやあごぜえやせん」と時代に調子をゆるめて云ふ。梶原の花道へかかる間に、中腰になり、手拭を右の手に、陣羽織を左の手に持ちて膝につき、小せんが
此方へ思ひ入れするを、首を振り、またあつちへ行けと顎にて知らする仕草二度あり。その中向うへ
這入るを見て、右の手拭持つ手を膝頭よりすべらすること二度あり。一同向うへ這入ると、顔をぶるぶるふるはせ、肩で息をする仕打あり。延び上りて向うを見込み「もし〳〵これと引きげえの褒美を忘れちやあいけませんぜ」といひ「おたのみ申しやすぜ」は声をふるはせいふ。
この向うに見とれ居る隙に、弥左衛門一太刀右の肩を切る。これにて「あゝ」と
苦み、
髻節をつかまへられしまま一つ廻る中に右の
偏袒となる。ここにてまた左の下腹につつこまる。これにて「あつゝう」といひて体を反らし、突込みし傷口の刀を手拭を持ちたる左手にて押へ、どうと下に居り、下手に向ひて
胡坐をかく。弥左衛門が「こんな奴を」の詞の中、やや後向になり、のり紅を右の肩口と右の頬へ塗り、次で左の下腹と腹巻の上に塗る。弥左衛門がえぐると体を上下に揺かし、とど右の足を上げて、刀持つ弥左衛門の手元を力一杯
蹴る。これにて刀をつき立てたるまま、弥左衛門は刀より手を放す。その足で弥左衛門の手首を踏まへ、左手にて刀を押へ「とゝとつつあん〳〵、こうれ」と右の手にて下を
敲き「親父様」といひて体をのす。弥左衛門が「何ぢやい」といふと、掌へ一面血のつきし右の手を前につき、左の手にて手拭を持添へて刀を押へ、やや体を屈めて首を上げ「こんたの智恵で維盛を、助けることは、そいつあいけねえ、そいつはいけねへ〳〵」と首を左右に振りつつ声をすかせていふ。「打眺め」のちよぼにて弥左衛門の顔を眺め「おいとしや親父様、己の
性根が悪い故」にて自分を指し「御相談の相手もなく、
前髪の首を
惣髪にして渡さうたあ、量見ちげえのあぶねえ仕事だ」にて体をのし、息をつく。この間に
髻はじく。「梶原ほどのさむれえが、弥助といつて
青二才、下男に仕立つてあることを、知れえで討手に来ませうか」といふ。これにて弥左衛門「えゝ」と請く。「それといはぬはあつちの
巧、維盛様御夫婦の路用にせんと盗んだ金、
重えを証拠に取りちがへ」にて重味をひく手振を右の手にてなす。「もつてけえつて鮨桶を、明けて見たりやあ」にて蓋をとる手振を見せ「中には
銀」にて示指にて桶の中を指す。「はつと思へどこれ幸」にてのり「前髪剃つてつきつけたあ、とつつあん、やつぱりこんたが」にて弥左衛門を指し「仕込の首だあ」といひて伏す。弥左衛門が何故内侍六代を渡したと云ふと「その内侍様、六代様と見えたのは」といふ。弥左衛門が見えたのはと問ひ反すと「ありやあこの権太郎の女房、
倅だあ」と右の手にて弥左衛門の左の肩口を突く。「そのおふた方には今己が逢せます、案じる事はねえ」と両親を押へ、腹巻の中より烟草入を出し「この烟草入の
段口に笛がへえつて居る、それを吹くのが相図だ」といふ。これにて母親が下手に向ひ吹く。維盛夫婦が出づると、平手にて上手へ進ます。この
中に
鬢の毛が両方より前へ長く下がる。皆の者の悔みを聞き、竹笛入の相方になり、正面に向ひ「そのお
悔は無用々々、常が常なら梶原が身替くつちやあけえりませぬ、まだそれさへも疑ぐつて、親の命を褒美にくりやう、かたじけねえといふと早、詮義に詮義をかける所存、いがみと見た故、油断して、一ぺえくつて
帰りしは」といひ「禍も三年と、悪い性根の
年の明き時」をちよぼに預け、悪い性根にて自分の顔を打つ。「生れ付いて賭勝負に魂奪はれ、けふもあなたを廿両」といひて内侍の方へ
思入あり「
衒り取つたる荷物の内に、
恭しき高位の絵姿、弥助がつらに」といひかけ「あなたのお顔に生きうつし」と云替へ、維盛に思入をなし「合点ゆかずと、母者人へ、金の無心とおとりに入り込み、忍んで聞けば維盛卿の、御身に迫る難義の段々」にて膝をうち「こゝで性根を入れかへずば」の詞に力を入れ「これ
母様、いつ親父様の」にて弥左衛門に思入し「御機嫌の直る時節もあるまいと、打つて交へたる悪事の裏、維盛様の首はあつても、内侍若君の替りに立てる人もなく、あゝどうしやうか、かうしやうかと、途方に
呉れしその所へ、女房小せんが倅を連れ、これ権太どの、何うろてえることがあらう、親御の勘当、古主へ忠義、わしと善太をこれかうと、手を廻すれば倅めも、これちやん、おいらもおつかあと一所にと、共に廻して縛り縄、かけても〳〵手が外れ、結んだ縄もしやらほどけ、いがんだ己が
直な子を、持つたは何の因果ぞと、思つては泣き、締めては泣き、
後手にしたその時やあ、どうしてもう、いかな鬼でも蛇心でも、こてえられたもんぢやあねえ、不便や可愛や女房、ぢやあねえ倅めが、わつとひと声その時は、これちゝゝゝゝゝゝ」にて顔を指し「血を吐きました」といひて、身をふるはせ頭を下ぐ。この物語の
中始終
示指にて話の調子をとり、せつなき思入にていふ。弥左衛門が孫と知らぬが残念なりと向ひを指し嘆くにつれ、権太も一所に向ひを指して嘆く。維盛が晋の
予譲云々といふ詞にて上手を向き「及ばぬ智恵で梶原を、たばかつたと思つたが、あつちは何にも皆合点、思へばこゝまで
衒つたも、後は命を
衒らるゝ」といひかけ「あゝ〳〵」と苦む。「種と知らざる浅間しやなあ」をちよぼにてとる。これにて面目ないといふ心にて頭へ手をやり「わあつ」と反りかへる。「親子の名残」にて弥左衛門の手を握り、顔を見合せ、またお里を指して両親に頼むといふ思入あり。やや下手に向ひ、右の片膝をつき、刀を抜きて下に置く。さて両手にて空を
掴む模様ありて、合掌し、うつとりとなり、前へうつむけにのめり、これにて幕となる。
以上記する所は菊五郎が権太の
科白につきての大概なり。見せ場の二、三について評すれば、木の実を落す仕草はいかにも調子よく、舞台賑かになりて、内侍主従の一杯はめらるるも無理ならず思はる。
行李を受取りてだめを押す工合隙なく「何と理窟ぢやあございませんか」と突つ込むところえぐし。「早く金を出しやあがれ」にて幸四郎は首を振ると、
冠りし手拭の端に鉛の入りしため、ぱらりととれて肩に掛る工夫ありしよしなるが、菊五郎は自身に手拭をとりての見え
応へたり。女房との昔し語より引つ込みまでは
垢ぬけしたる道楽物の心意気ありて面白し。
母親を欺す
空泣の気の替り目
手軽にて「聞いた〳〵」の出にて二重より飛び下るる所は、舞台もゆるぐばかりの勢にて気味よし。鮨桶を抱へ、花道にて反身になりての見えの極めて
凄かりしため、幸四郎はいつもわつと受けさせしよしなるが、菊五郎もなかなかの大舞台なりき。
梶原の実検を見込む様子「
面あ上げろ」のせつなき工合、共に得心がゆきたり。「貧乏ゆるぎも」のせりふ廻しは大時代にて立派なりき。手負の物語はだれ
易きものなるをだれさせぬ腕前
天晴にて「結んだ縄もしやらほどけ」あたりの名文句を例のどすのきく調子にて
上手に云ひ廻し、充分に泣かせたり。しかしここは受の弥左衛門に扮せる松助も
大に
与かりて力あり。
女房に茶を汲んで出し、善太に賭事を教へ、金を
股倉へくぐらするなどの仕草は場当りなれど、本文の権太ももどりにならぬまでは
極の
安敵なれば深く咎むるにも及ばざるべし。とにかく権太は菊五郎が一世に名を
擅にせる
色悪を代表すべきほどのものにて、
燕翁が三代目菊五郎の権太はやや意気に過ぎて、この役は五代目の方
却りて幸四郎に近きが如しといひしは、けだしその当を得たるものならん。