日の光を浴びて
水野 仙子
(一)
日
(
ひ
)
は
照
(
て
)
れど、
日
(
ひ
)
は
照
(
て
)
れど
君
(
きみ
)
を
見
(
み
)
る
日
(
ひ
)
の
來
(
こ
)
なければ
わたしの
心
(
こゝろ
)
はいつも
夜
(
よる
)
日
(
ひ
)
は
照
(
て
)
れど、
日
(
ひ
)
は
照
(
て
)
れど
わたしは
目盲
(
めし
)
ひ、
耳聾
(
みゝし
)
ひ、
唖者
(
おふし
)
君
(
きみ
)
を
見
(
み
)
もせず、
聞
(
き
)
きも
得
(
え
)
ず
「
日
(
ひ
)
が
照
(
て
)
つてゐる……。」
さう
呟
(
つぶや
)
きながら、
私
(
わたし
)
は
部屋
(
へや
)
の
隅
(
すみ
)
から
枕
(
まくら
)
を
巡
(
めぐ
)
らして、
明
(
あか
)
るい
障子
(
しやうじ
)
の
方
(
はう
)
にその
面
(
おもて
)
を
向
(
む
)
けた。
南向
(
みなみむ
)
きといふ
事
(
こと
)
は
何
(
なん
)
といふ
幸福
(
かうふく
)
な
事
(
こと
)
であらう、それは
冬
(
ふゆ
)
の
滋養
(
じやう
)
を
大半
(
たいはん
)
領有
(
りやういう
)
する。
日
(
ひ
)
の
光
(
ひかり
)
は
今
(
いま
)
頑固
(
かたくな
)
な
朝
(
あさ
)
の
心
(
こゝろ
)
を
解
(
と
)
いて、その
晴
(
はれ
)
やかな
笑顏
(
ゑがほ
)
のうちに
何物
(
なにもの
)
をも
引
(
ひ
)
きずり
込
(
こ
)
まないでは
置
(
お
)
かないやうに、こゝを
開
(
あ
)
けよとばかり
閉
(
と
)
ぢられた
障子
(
しやうじ
)
の
外
(
そと
)
を
輝
(
かゞや
)
きをもつて
打
(
う
)
つてゐる。
私
(
わたし
)
はそれに
從
(
したが
)
はないではゐられなかつた。
手
(
て
)
をのべて、しかしなか〳〵
屆
(
とゞ
)
きさうもなかつたので
半身
(
はんしん
)
を
乘
(
の
)
り
出
(
だ
)
して、それでも
駄目
(
だめ
)
だつたのでたうとう
起
(
お
)
き
上
(
あが
)
つてまで、
障子
(
しやうじ
)
を
左右
(
さいう
)
に
開
(
ひら
)
いた。
日光
(
につくわう
)
は
柔
(
やはら
)
かに
導
(
みちび
)
かれ、
流
(
なが
)
れた。その
光
(
ひかり
)
が
漸
(
やうや
)
く
蒲團
(
ふとん
)
の
端
(
はし
)
だけに
觸
(
ふ
)
れるのを
見
(
み
)
ると、
私
(
わたし
)
は
跼
(
かゞ
)
んでその
寢床
(
ねどこ
)
を
日光
(
につくわう
)
の
眞中
(
まなか
)
に
置
(
お
)
くやうに
引
(
ひ
)
いた。それだけの
運動
(
うんどう
)
で、
私
(
わたし
)
の
息
(
いき
)
ははづみ、
頬
(
ほゝ
)
に
血
(
ち
)
がのぼつた。そして
暫
(
しばら
)
く
枕
(
まくら
)
についてからも
皷動
(
こどう
)
が
納
(
をさま
)
らなかつた。
「
日
(
ひ
)
が
照
(
て
)
つてゐる……。」
それはほんたうに
幸福
(
かうふく
)
な
事
(
こと
)
である。けれども……
皷動
(
こどう
)
が
全
(
まつた
)
く
靜
(
しづ
)
まつて、
血
(
ち
)
の
流
(
なが
)
れがもとのゆるやかさにかへつた
頃
(
ころ
)
、
極
(
きは
)
めて
靜
(
しづ
)
かに
歩
(
あゆ
)
み
寄
(
よ
)
つて
來
(
く
)
るもの
侘
(
わ
)
びしさを、
私
(
わたし
)
は
心
(
こゝろ
)
に
迎
(
むか
)
へなければならなかつた……それは
力
(
ちから
)
の
弱
(
よわ
)
い
冬
(
ふゆ
)
の
日
(
ひ
)
だからだらうか?
否
(
いや
)
! どうして
彼女
(
かのぢよ
)
の
力
(
ちから
)
を
侮
(
あなど
)
る
事
(
こと
)
が
出來
(
でき
)
よう。お
聞
(
き
)
きでないかあのもの
靜
(
しづ
)
かな
筧
(
かけひ
)
の
音
(
おと
)
を。
見
(
み
)
る
通
(
とほ
)
りに
雪
(
ゆき
)
は
眞白
(
ましろ
)
く
山
(
やま
)
に
積
(
つも
)
つてゐる。そして
日蔭
(
ひかげ
)
はあらゆるものの
休止
(
きうし
)
の
姿
(
すがた
)
で
靜
(
しづ
)
かに
寒
(
さむ
)
く
默
(
だま
)
りかへつてゐる。それだのに
同
(
おな
)
じ
雪
(
ゆき
)
を
戴
(
いたゞ
)
いたこゝの
庇
(
ひさし
)
は、
彼女
(
かのぢよ
)
にその
冷
(
ひ
)
え
切
(
き
)
つた
心
(
こゝろ
)
を
温
(
あたゝ
)
められて、
今
(
いま
)
は
惜
(
を
)
しげもなく
愛
(
あい
)
の
雫
(
しづく
)
を
滴
(
したゝ
)
らしてゐるのだ。
(二)
タツ! タツ! タツ! あゝあの
音
(
おと
)
を
形容
(
けいよう
)
するのはむづかしい、
何
(
なん
)
といふ
文字
(
もんじ
)
の
貧
(
まづ
)
しい
事
(
こと
)
であらう、あれあんなに
優
(
やさ
)
しい
微妙
(
びめう
)
な
音
(
おと
)
をたてゝゐるのに……。それは
如何
(
いか
)
にも、あの
綺麗
(
きれい
)
な
雪
(
ゆき
)
が
溶
(
と
)
けて、
露
(
つゆ
)
の
玉
(
たま
)
になつて
樋
(
とひ
)
の
中
(
なか
)
へ
轉
(
まろ
)
び
込
(
こ
)
むのにふさはしい
音
(
おと
)
である……
轉
(
まろ
)
び
込
(
こ
)
んだ
露
(
つゆ
)
はとろ〳〵と
響
(
ひゞき
)
に
誘
(
いざな
)
はれて
流
(
なが
)
れ、
流
(
なが
)
れる
水
(
みづ
)
はとろ〳〵と
響
(
ひゞき
)
を
導
(
みちび
)
いて
行
(
い
)
く。
何
(
なん
)
といふ
靜
(
しづ
)
かさだらう!
絶
(
た
)
え
間
(
ま
)
もなく
庇
(
ひさし
)
から
露
(
つゆ
)
が
散
(
ち
)
る。
水晶
(
すゐしやう
)
が
碎
(
くだ
)
けて
落
(
お
)
ちるやうに、
否
(
いや
)
、
光
(
ひかり
)
そのものが
散
(
ち
)
つ
來
(
く
)
る
[#「
散
(
ち
)
つ
來
(
く
)
る」はママ]
やうに……。
日
(
ひ
)
は
照
(
て
)
れど、
日
(
ひ
)
は
照
(
て
)
れど
日
(
ひ
)
の
照
(
て
)
る
間
(
ま
)
は
短
(
みじか
)
いに
いつまでわたしが
待
(
ま
)
つたなら
凝乎
(
じいつ
)
と、
冬
(
ふゆ
)
の
日
(
ひ
)
の
中
(
なか
)
に
横
(
よこた
)
へられた
私
(
わたし
)
の
體
(
からだ
)
の
中
(
なか
)
で、
柔
(
やはら
)
かな
暖
(
あたゝ
)
かさに
包
(
つゝ
)
まれながら、
何
(
なん
)
といふもの
寂
(
さび
)
しい
聲
(
こゑ
)
をたてゝ
私
(
わたし
)
のこゝろの
唄
(
うた
)
ふ
事
(
こと
)
だらう!
一寸
(
ちよつと
)
でも
身動
(
みうご
)
きをしたらその
聲
(
こゑ
)
はすぐに
消
(
き
)
えよう、
瞬
(
まばた
)
きをしてさえもその
聲
(
こゑ
)
は
絶
(
た
)
える。
馬
(
うま
)
の
背中
(
せなか
)
に
鞍
(
くら
)
おいて
淺間
(
あさま
)
の
煙
(
けむり
)
仰
(
おほ
)
ぎつゝ
麓
(
ふもと
)
をめぐり
來
(
き
)
ますらむ……
古
(
ふる
)
い
名
(
な
)
を
持
(
も
)
つ
草津
(
くさつ
)
に
隱
(
かく
)
れて、
冬籠
(
ふゆごも
)
る
身
(
み
)
にも、
遙々
(
はる〴〵
)
と
高原
(
かうげん
)
の
雪
(
ゆき
)
を
分
(
わ
)
けて、うらゝかな
日
(
ひ
)
は
照
(
て
)
つてゐる。
「
日
(
ひ
)
が
照
(
て
)
つてゐる……。」
さうしみ〴〵
思
(
おも
)
つた
時
(
とき
)
に、
涙
(
なみだ
)
らしいものが
暖
(
あたゝ
)
かく
私
(
わたし
)
の
瞳
(
ひとみ
)
をうるほしてゐた。
○
短
(
みじか
)
い
命
(
いのち
)
ではあつた。それは
冬
(
ふゆ
)
の
日
(
ひ
)
の
定
(
さだ
)
められた
運命
(
うんめい
)
である。
内端
(
うちは
)
な
女心
(
をんなごゝろ
)
の
泣
(
な
)
くにも
泣
(
な
)
かれず
凍
(
こほ
)
つてしまつた
檐
(
のき
)
の
雫
(
しづく
)
は、
日光
(
につくわう
)
を
宿
(
やど
)
したまゝに
小
(
ちひ
)
さな
氷柱
(
つらゝ
)
[#ルビの「つらゝ」は底本では「つゝらい」]
となつて、
暖
(
あたゝ
)
かな
言葉
(
ことば
)
さへかけられたら
今
(
いま
)
にもこぼれ
落
(
お
)
ちさうに、
筧
(
かけひ
)
の
中
(
なか
)
を
凝視
(
みつ
)
めてゐる。
夕暮
(
ゆふぐれ
)
と
共
(
とも
)
に
寒
(
さむ
)
さは
急
(
いそ
)
いで
歸
(
かへ
)
つて
來
(
き
)
た。
雨戸
(
あまど
)
をさす
間
(
ま
)
もなく、
今
(
いま
)
まで
遠
(
とほ
)
くの
林
(
はやし
)
の
中
(
なか
)
に
聞
(
きこ
)
えてゐた
風
(
かぜ
)
の
音
(
おと
)
は、
巨人
(
きよじん
)
の
手
(
て
)
の一
煽
(
あふ
)
りのやうに
吾
(
われ
)
にもない
疾
(
はや
)
さで
驅
(
かけ
)
て
來
(
き
)
て、その
勢
(
いきほ
)
ひの
中
(
なか
)
に
山
(
やま
)
の
雪
(
ゆき
)
を一
掃
(
は
)
き
捲
(
ま
)
き
込
(
こ
)
んでしまつた。その
音
(
おと
)
づれにすつかり
目
(
め
)
を
覺
(
さま
)
した
地上
(
ちじやう
)
の
雪
(
ゆき
)
は、
煽
(
あふ
)
られ〳〵て
來
(
く
)
る
風
(
かぜ
)
の
中
(
なか
)
にさら〳〵と
舞
(
ま
)
ひ
上
(
あが
)
り、くる〳〵と
卷
(
ま
)
かれてはさあつと
人
(
ひと
)
の
家
(
いへ
)
の
雨戸
(
あまど
)
や
屋根
(
やね
)
を
打
(
う
)
つ
事
(
こと
)
に
身
(
み
)
を
委
(
まか
)
してゐる。その
風雪
(
ふうせつ
)
の一
握
(
にぎ
)
りのつぶては、
時々
(
とき〴〵
)
毛
(
け
)
のやうな
欄間
(
らんま
)
の
隙
(
すき
)
や
戸障子
(
としやうじ
)
の
仲
(
なか
)
を
盜
(
ぬす
)
み
入
(
い
)
つて、
目
(
め
)
に
見
(
み
)
えぬ
冷
(
つめ
)
たいものをハラ〳〵と
私
(
わたし
)
の
寢顏
(
ねがほ
)
にふりかけてゆく。
寢息
(
ねいき
)
もやがて
夜着
(
よぎ
)
の
襟
(
えり
)
に
白
(
しろ
)
く
花咲
(
はなさ
)
くであらう、これが
草津
(
くさつ
)
の
常
(
つね
)
の
夜
(
よる
)
なのである。けれども
馴
(
な
)
れては
何物
(
なにもの
)
も
懷
(
なつか
)
しい、
吹雪
(
ふゞき
)
よ、
遠慮
(
ゑんりよ
)
なく
私
(
わたし
)
の
顏
(
かほ
)
を
撫
(
な
)
でゝゆけ!
(三)
クリスマスの
裝飾
(
さうしよく
)
に
用
(
もち
)
ゐた
寄生木
(
やどりぎ
)
の
大
(
おほ
)
きなくす
玉
(
だま
)
のやうな
枝
(
えだ
)
が、ランプの
光
(
ひかり
)
に
枝葉
(
えだは
)
の
影
(
かげ
)
を
見
(
み
)
せて
天井
(
てんじやう
)
に
吊
(
つる
)
されてゐる。
夜
(
よる
)
の
色
(
いろ
)
にその
葉
(
は
)
の
緑
(
みどり
)
は
黒
(
くろ
)
ずみ、
可愛
(
かあい
)
らしい
珊瑚珠
(
さんごじゆ
)
のやうな
赤
(
あか
)
い
實
(
み
)
も
眠
(
ねむ
)
たげではあるけれど、
荒涼
(
くわうりやう
)
たる
冬
(
ふゆ
)
に
於
(
お
)
ける
唯
(
ゆゐ
)
一の
彩
(
いろど
)
りが、
自然
(
しぜん
)
の
野
(
の
)
からこの
部屋
(
へや
)
に
移
(
うつ
)
されて、
毎日
(
まいにち
)
どれだけ
私
(
わたし
)
の
眼
(
め
)
を
慰
(
なぐさ
)
める
事
(
こと
)
であらう。しかしあの
赤
(
あか
)
い
水々
(
みづ〴〵
)
した
實
(
み
)
は、
長
(
なが
)
い〳〵
野山
(
のやま
)
の
雪
(
ゆき
)
が
消
(
き
)
えるまでの
間
(
あひだ
)
を、
神
(
かみ
)
が
小鳥達
(
ことりたち
)
の
糧食
(
りやうしよく
)
にと
備
(
そな
)
へられたものではないかと
思
(
おも
)
ふと、
痛々
(
いた〳〵
)
しく
鉈
(
なた
)
を
入
(
い
)
れた
人
(
ひと
)
の
罪
(
つみ
)
が
恐
(
おそ
)
ろしい。その
時
(
とき
)
あの
赤
(
あか
)
い
小
(
ちひ
)
さな
實
(
み
)
がどんなにほろ〳〵と
雪
(
ゆき
)
の
上
(
うへ
)
にこぼれた
事
(
こと
)
であつたらう!
病
(
や
)
んでゐる
胸
(
むね
)
には、どんな
些細
(
ささい
)
な
慄
(
ふる
)
えも
傳
(
つた
)
はり
響
(
ひゞ
)
く。そして
死
(
し
)
を
凝視
(
みつめ
)
れば
凝視
(
みつめ
)
る
程
(
ほど
)
、
何
(
なん
)
といふすべてが
私
(
わたし
)
に
慕
(
した
)
はしく
懷
(
なつか
)
しまれる
事
(
こと
)
であらう。
火鉢
(
ひばち
)
の
火
(
ひ
)
が
赤
(
あか
)
いのも、
鐵瓶
(
てつびん
)
が
優
(
やさ
)
しい
響
(
ひゞ
)
きに
湯氣
(
ゆげ
)
を
立
(
た
)
てゝゐるのも、ふと
擡
(
もた
)
げてみた
夜着
(
よぎ
)
の
裏
(
うら
)
が
甚
(
はなはだ
)
しく
色褪
(
いろあ
)
せてゐるのも、すべてが
皆
(
みな
)
私
(
わたし
)
に
向
(
むか
)
つて
生
(
い
)
きてゐる――この
年
(
とし
)
、この
月
(
つき
)
この
夜
(
よる
)
――すべてが
私
(
わたし
)
にそれでいゝ!おゝ、
外
(
そと
)
にはますます
吹雪
(
ふゞき
)
の
暴
(
あ
)
れる
事
(
こと
)
よ。
「あれが
人世
(
じんせい
)
なのだ!」
「そして
室内
(
こゝ
)
は?」
「これもやつぱり!」
私
(
わたし
)
は
戸外
(
そと
)
に
耳
(
みゝ
)
を
聳
(
そばだ
)
て、それから
少
(
すこ
)
し
首
(
くび
)
をもたげて
靜
(
しづ
)
かな
部屋
(
へや
)
の
中
(
なか
)
を
見廻
(
みまは
)
しながら、
自問自答
(
じもんじたふ
)
をした。
○
ぽかりと
目
(
め
)
を
開
(
あ
)
いたら、
朝
(
あさ
)
が
待
(
ま
)
ち
構
(
かま
)
へたやうに
硝子
(
ガラス
)
の
外
(
そと
)
から
私
(
わたし
)
を
覗
(
のぞ
)
いてゐた。
夢
(
ゆめ
)
と
現
(
うつゝ
)
の
境
(
さかひ
)
ごろに、
近
(
ちか
)
くで一
發
(
ぱつ
)
の
獵銃
(
れふじう
)
の
音
(
おと
)
が
響
(
ひゞ
)
いたやうだつけ、その
響
(
ひゞき
)
で一
層
(
そう
)
あたりが
靜
(
しづ
)
かにされたやうな
朝
(
あさ
)
である。
山
(
やま
)
を
切
(
き
)
り
崩
(
くづ
)
して、それに
引添
(
ひきそ
)
ふやうに
建
(
た
)
てられたこの
家
(
いへ
)
の二
階
(
かい
)
からは、
丁度
(
ちやうど
)
迫
(
せま
)
らぬ
程度
(
ていど
)
にその
斜面
(
しやめん
)
と
空
(
そら
)
の一
部
(
ぶ
)
とが、
仰臥
(
ぎやうぐわ
)
してゐる
私
(
わたし
)
の
目
(
め
)
に
入
(
はい
)
つて
來
(
く
)
る。
雪
(
ゆき
)
に
覆
(
おほ
)
はれたその
切
(
き
)
り
崩
(
くづ
)
しの
斜面
(
しやめん
)
に、
獸
(
けもの
)
の
足跡
(
あしあと
)
が、
二筋
(
ふたすぢ
)
についてゐるのは、
犬
(
いぬ
)
か
何
(
なに
)
かゞ
驅
(
か
)
け
下
(
お
)
りたのであらう、それとも、
雪崩
(
なだれ
)
になつて
轉
(
ころ
)
げ
下
(
お
)
りて
來
(
き
)
た
塊
(
かたま
)
りの
走
(
はし
)
つた
跡
(
あと
)
でもあらうかと、そんな
事
(
こと
)
を
私
(
わたし
)
は
思
(
おも
)
ふともなく
思
(
おも
)
つてゐた。
空
(
そら
)
は
蒼
(
あを
)
かつた。それは
必
(
きつ
)
と
風雪
(
ふうせつ
)
に
暴
(
あ
)
れた
翌朝
(
よくてう
)
がいつもさうであるやうに、
何
(
なに
)
も
彼
(
か
)
も
拭
(
ぬぐ
)
はれて
清
(
きよ
)
く
青
(
あを
)
かつた。
混沌
(
こんとん
)
として
降
(
ふ
)
り
狂
(
くる
)
つた
雪
(
ゆき
)
のあとの
晴
(
はれ
)
た
空位
(
そらぐらひ
)
又
(
また
)
なく
麗
(
うる
)
はしいものはない。
地
(
ち
)
には
光
(
ひかり
)
があり
反射
(
はんしや
)
があり、
空
(
そら
)
には
色
(
いろ
)
と
霑
(
うるほ
)
ひとがある。
空氣
(
くうき
)
は
澄
(
す
)
んで〳〵
澄
(
すみ
)
み
切
(
き
)
つて、どんな
科學者
(
くわがくしや
)
にもそれが
其處
(
そこ
)
にあるといふ
事
(
こと
)
を一
時
(
じ
)
忘
(
わす
)
れさせるであらう。
その
美
(
うつく
)
しい
空
(
そら
)
に
奪
(
うば
)
はれてゐた
眼
(
め
)
を、ふと一
本
(
ぽん
)
の
小松
(
こまつ
)
の
上
(
うへ
)
に
落
(
お
)
すと、
私
(
わたし
)
は
不思議
(
ふしぎ
)
なものでも
見付
(
みつ
)
けたやうに、
暫
(
しばら
)
くそれに
目
(
め
)
を
凝
(
こ
)
らした。その
小松
(
こまつ
)
は、
何處
(
どこ
)
からか
光
(
ひかり
)
を
受
(
う
)
けてるらしく、
丁度
(
ちやうど
)
銀
(
ぎん
)
モールで
飾
(
かざ
)
られたクリスマスツリーのやうに、
枝々
(
えだ〳〵
)
が
光榮
(
くわうえい
)
にみちてぐるりに
輝
(
かゞや
)
いてゐた。
「
朝日
(
あさひ
)
が
出
(
で
)
て
來
(
き
)
たのらしい。」
さう
思
(
おも
)
つて
私
(
わたし
)
はまだ
自分
(
じぶん
)
の
眼
(
め
)
には
隱
(
かく
)
されてゐる
太陽
(
たいやう
)
の
笑顏
(
ゑがほ
)
を
想像
(
さうざう
)
の
中
(
なか
)
に
探
(
さが
)
し
求
(
もと
)
めた。けれども
私
(
わたし
)
はそれをさう
長
(
なが
)
く
待
(
ま
)
つには
及
(
およ
)
ばなかつた。
小松
(
こまつ
)
は
刻々
(
こく〳〵
)
に
輝
(
かゞや
)
きを
増
(
ま
)
して
行
(
い
)
つた。そして、
今
(
いま
)
までその
背景
(
はいけい
)
をなしてゐた
空
(
そら
)
は、その
青
(
あを
)
さは、
刻々
(
こく〳〵
)
に
光
(
ひかり
)
の
海
(
うみ
)
と
化
(
か
)
しつゝあつた。
眩
(
まぶ
)
しいものが一
閃
(
せん
)
、
硝子
(
ガラス
)
を
透
(
とほ
)
して
私
(
わたし
)
の
眼
(
め
)
を
射
(
い
)
つた。そして一
瞬
(
しゆん
)
の
後
(
のち
)
、
小松
(
こまつ
)
の
枝
(
えだ
)
はもう
無
(
な
)
かつた。それは
光
(
ひかり
)
の
中
(
なか
)
に
光
(
ひか
)
り
輝
(
かゞや
)
く
斑點
(
はんてん
)
であつた。
太陽
(
たいやう
)
が、
朝日
(
あさひ
)
が、
彼
(
かれ
)
自
(
みづか
)
らが、
山
(
やま
)
と
空
(
そら
)
とを
劃
(
かぎ
)
つた
雪
(
ゆき
)
の
線
(
せん
)
に、その
輝
(
かゞや
)
く
面
(
おもて
)
を
表
(
あら
)
はしかけてゐた。
光
(
ひかり
)
は
直線
(
ちよくせん
)
をなしてその
半圓
(
はんゑん
)
の
周圍
(
しうゐ
)
に
散
(
ち
)
つた。
彼
(
かれ
)
を
見
(
み
)
ようと
思
(
おも
)
へば
私
(
わたし
)
は
眼
(
め
)
をつぶらなければならなかつた。そのために
幾度
(
いくたび
)
か
瞼
(
まぶた
)
を
閉
(
と
)
ぢ〳〵した。
涙
(
なみだ
)
が
徐
(
おもむろ
)
にあふれ
出
(
い
)
でゝもう
直視
(
ちよくし
)
しようとはしない
眼瞼
(
まぶた
)
に
光
(
ひかり
)
を
宿
(
やど
)
して
止
(
と
)
まつてゐた。
それは
太陽
(
たいやう
)
の
強烈
(
きやうれつ
)
な
光線
(
くわうせん
)
が
私
(
わたし
)
の
瞳
(
ひとみ
)
を
射
(
い
)
つたからではなかつた。
反對
(
はんたい
)
に、
光
(
ひかり
)
は
柔
(
やはら
)
かに
私
(
わたし
)
の
胸
(
むね
)
に
滲
(
し
)
み
入
(
い
)
つたのである……。
「……いゝ、それでいゝのだ、たとひ
私
(
わたし
)
が
明日
(
あした
)
死
(
し
)
ぬとしても!一
生
(
しやう
)
をかけて
目指
(
めざ
)
して
來
(
き
)
た
私
(
わたし
)
の
仕事
(
しごと
)
に
少
(
すこ
)
しもまだ
手
(
て
)
がつけられなかつたとて、たとひ
手紙
(
てがみ
)
が
書
(
か
)
きかけてあつたとて、
糸
(
いと
)
を
通
(
とほ
)
した
針
(
はり
)
がまだ
半襟
(
はんえり
)
から
拔
(
ぬ
)
かれないであつたとて、それで
死
(
し
)
んだとて、それでいゝのだ! いつ
私
(
わたし
)
がこの
世
(
よ
)
から
消
(
け
)
されたつて、あの
光
(
ひかり
)
は
少
(
すこ
)
しも
變
(
かは
)
りなく
照
(
て
)
る。それと
同樣
(
どうやう
)
に、いつまで
私
(
わたし
)
がこの
世
(
よ
)
に
役
(
やく
)
に
立
(
た
)
たなく
生
(
い
)
きてゐても、やつぱり
變
(
かは
)
りなくあの
光
(
ひかり
)
は
照
(
て
)
る!」
あゝ、おてんとうさま!
私
(
わたし
)
は
起
(
お
)
き
上
(
あが
)
つて、
折
(
をり
)
から
運
(
はこ
)
ばれて
來
(
き
)
た
金盥
(
かなだらひ
)
のあたゝな
湯氣
(
ゆげ
)
の
中
(
なか
)
に、
草
(
くさ
)
の
葉
(
は
)
から
搖
(
ゆる
)
ぎ
落
(
お
)
ちたやうな
涙
(
なみだ
)
を
靜
(
しづ
)
かに
落
(
おと
)
したのであつた。
(一九一九、一月)
出典:青空文庫(
https://www.aozora.gr.jp/cards/000112/files/50344_42141.html
)
青空文庫の奥付
底本:「讀賣新聞」讀賣新聞社
1919(大正8)年2月6日、7日、9日
※底本で「…」は3点ではなく4点になっています。
※「得ず」「襟」「枝」「枝葉」「枝々」「光榮」「枝」「半襟」のルビに使われていた、「江」を字母とする変体仮名は、普通仮名にあらためました。
入力:林 幸雄
校正:小林 徹
2011年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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