猫の蚤とり武士

国枝 史郎


「蚤とりましょう。猫の蚤とり!」
 黒の紋付きの着流しに、長目の両刀を落として差し、編笠をかむった浪人らしい武士が、明暦三年七月の夕を、浅草の裏町を歩きながら、家々の間でそう呼んだ。
 お払い納め、すたすた坊主、太平記よみ獣のしつけ師――しがない商売もかずかずあるが、猫にたかっている蚤を取って、鳥目ちょうもくをいただいて生活くらすという、この「猫の蚤とり」業など、中でもしがないものであろう。
 町人百姓でもあろうことか、両刀さした武士の身分で、この賤業にたずさわるとは、よくよくの事情があるからであろう。
「蚤とりましょう、猫の蚤とり!」
 蚤とり武士は歩いて行く。
 と、一軒の格子づくりの、しもた家らしい家の奥から、
「もし蚤とりさん、取っていただきましょう」
 と、けた女の呼ぶ声が聞こえた。
「へい、有難う存じます」
 と、何んとこの武士の気さくなことか、板についた大道の香具師やしの調子で、そう云いながら格子戸をあけた。
 乳母らしい老女が烏猫を抱いて、三畳の取次ぎに坐ってる。その背後にこの家の娘でもあろう、十八、九の小ぶとりの可愛らしい娘が、好奇の眼を張って立っていた。
「ま、これはお武家様で」
 はいって来た蚤とり武士を見ると、乳母は驚いて叫ぶように云った。
「身分は武士、業は蚤とり、浮世はさまざま、アッハッハッ……おお、おおこれは可愛らしい猫で。年齢としは一歳か。二、三ヵ月越すか。その辺の見当でありましょうな……蚤に食わせては可哀そうじゃ。どれどれ取って進ぜよう。……が、ちとばかり無心がある。……湯をつかわせていただきたいもので」
 武士は上がりがまちへ腰をかけて云った。
「湯をつかわせとおっしゃいますと?」
「ナニさ、その猫に風呂をあびさせることじゃ」
「おやまあさようでございましたか」
 乳母は奥へ引っ込んだが、間もなく行水を使ったらしい猫の、濡れた体を吊るしながら、三畳の間へ帰って来た。
 その間に武士は腰に巻いて差した、白猫の皮のなめしたのを取り出し、畳の上へ延ばしたが、
「では拝借」
 と猫を受け取り、皮でクルクルと引っ包み、その上を片手でそっと抑えた。
 扱い方にコツがあると見えて、猫は啼きもせず足掻あがきもせず、皮の外れから顔を出し、金色の眼で武士を眺め、緋の編紐の巻いてある咽喉を、ゴロゴロ鳴らして静もっていた。
 編笠ごしに家の奥を、それとなく武士は窺ったが、
「ひそやかな生活、結構でござるな」
「人が少のうございますので」
「お嬢様かな、背後におられるのは」
「はいさようでございます」
「ご主人ご夫婦に娘ごにそなた、下女一人に下男一人――といったようなお生活くらしではござらぬかな」
「よくご存知、さようでございます」
 薄気味悪いというように、乳母は武士をジロジロ見た。
「アッハッハッ」
 と、武士は笑った。
「ナニさ商売道によって賢く、猫の蚤とりのこの業で、諸家様へ立ち入り立ち寄りますので、自然家族の多寡有無、知られ感じられるというまでで。……薄痘痕うすあばたのある四十男など、ご家内中にはおりますまいな?」
「え、何んでございますって?」
「アッハッハッ何んでもござらぬ。……もうよかろう、蚤とれた筈じゃ」
 云い云い武士は猫を包んだ皮の、一方の端へ手をかけた。

 濡れている猫の毛に住んでいる蚤が、乾いている猫の皮へ住居を移す。これはありそうなことであり、この理を商売化したものが、すなわち「猫の蚤とり」なのである。
 蚤を移らせた猫の皮を、巻物のように細く巻くと、武士はそれを帯へ差し、いくらかの鳥目を戴いて、その家から外へ出た。
「蚤とりましょう、猫の蚤とり!」
 それからまたもこう叫んで、裏町を武士は歩いて行った。
 さわやかな仲夏の季節であった。生け垣の裾には紫苑しおんだの松虫草だのが、しっとりと露をあびて咲き、百日紅の薄紅い花弁などが、どこからともなく散って来た。風鈴を鳴らしている家などもあった。
 そこを武士は歩いて行く。
 でもやがて月が出て、そうして地上にはもやが立って、大江戸が夜にはいった時には、どこへ行ったものか蚤とり武士の姿は、もうどこにも見られなかった。

 入谷田圃も月夜であった。
 遠くにはくるわの燈火が見え、近くでは虫がすだいていた。
 畷道なわてみちを人影が通って行く。
※(歌記号、1-3-28)様と逢うならのう
 夜道かけて百里
 唄声がそこから流れて来た。
 でも人影は農家の蔭へかくれ、もう唄声も聞こえなくなった。
 と、またもポッツリと、一つの人影が畷道に現われて廓の方へ歩いて行った。
 それは蚤とり武士であった。
 畷道から外れた一所に、寮めいた家が立っていて、浅く木立に囲まれていたが、その近くまでやって来た時、けたたましい数人の喚声が起こり、一人の男が矢のような速さで、畷道の方へ走って来、十数人の武士がその後から、猛犬のように追って来た。
「や、貴殿は」
 と逃げて来た男と、蚤とり武士とがぶつかった時、蚤とり武士が仰天したように叫んだ。
「五十嵐殿! ……五十嵐右内殿!」
「やあ」
 とその男も仰天したように云った。
「そういう貴殿は……鵜の丸兵庫殿かア――ッ」
「あいつらは? あいつらは? ……追い迫るあいつらは?」
「紀州の手の者! ……無念! 残念! ……見現わされて!」
「貴殿紀州より江戸入りしたと、内報あったれば町家武家屋敷等、今日までそれとなくお尋ねいたしたが……」
「無念! 紀伊殿また違約され、彼の地の同志ら一網打尽! ……」
「ナニ、同志が、一網打尽……」
「それらの事情お知らせしようと、江戸入りいたしたが紀州の藩士ら、付け廻し追い廻し捕えようと……そのため今日まで諸所に潜在……」
 ――が、追い迫った紀州藩士らが、この時二人を引っ包んだ。
れ!」
からめろ!」
「逃がすな逃がすな!」
「鵜の丸殿オーッ」
 と五十嵐右内は、薄痘痕の顔を月光に怒らせ、
「今はこれまで、斬って斬って!」
「斬り抜けましょうぞ」
 と答えた瞬間、
「ワッ」
 斃れたは紀州藩の武士で、月をさすように振り上げられたは、鵜の丸兵庫の血刀であった。

 五十嵐右内をおっとり囲み、捕えようとする紀州藩士の群と、それを助けようとする鵜の丸兵庫を、やるまいとする紀州藩士の群――この二組の人渦が、田圃の二所で渦巻いている。
 悲鳴!
 太刀音!
 仆れる音!
 二つの人渦は次第次第に、その間隔を大きくして来た。
 多勢に無勢、刻一刻、右内は気力を失って来た。一人二人は斬ったらしい、血にぬれた刀を握っている手が、しこりで今は動かなくなった。足もよろめきを覚えて来た。
 と見てとった紀州藩士達は、左右前後から襲いかかった。
 兵庫に至ってはそうではなかった。
 生死は知らず三人あまり、紀州藩士を斬って仆し、懲りずまに尚もかかって来る藩士を、刀上段に振りかぶり、睨みながらあしらっていた。
 と、その眼に見えたのは、十数間の彼方において、同志の右内が紀州藩士に、捕えられようとする姿であった。
(一大事!)
 と兵庫は思った。
「五十嵐殿オ――ッ」
 と大音に声かけ、
「しっかりなされい! お助けに参る!」
 前にある敵を一刀に仆し、左右にいた敵が驚いて、飛び退いた隙を真一文字に、右内の方へ駆けつけようとした。
 と、これより少し以前から、数間はなれて立っているところの、積みわらの蔭にたたずんで、様子を見ていた武士があったが、この時ソロリと刀を抜くと、平青眼にピタリとつけてすべるがようにスルスルとで、兵庫の行手をさえぎった。
(あッ)
 と兵庫は心の中で叫び、踏み出した足を後へ返した。
 覆面をしたその奥から、右半面が見えていた。左半面の黒いのは、大きなあざがあるからであろう。着流しで素足で草履ばきであった。で、紀州の藩士ではなく、浪人者のように思われるのであるが、平青眼に太刀づけた構えが、何とも云えず物凄く、まさに一流の達人であり、眼の前に蛇の腹かのように、蒼白く延びているそれの刀身は、生臭くさえ思われるほどに、殺気と毒気とを持っていた。
(凄い!)
 と兵庫は戦慄を感じた。
(が、それにしても不届き至極!)
 紀州藩士でもないそんな武士が、このような時にあらわれて、自分に刃向かって来るとは何んだ! ――という怒りの感情が、兵庫を改めて身顫みぶるいさせた。
 と、その武士が呟くように云った。
「紀州藩の方々この男にかまわず、もう一人の男におかかりなされ。……拙者この男を抑え申す」
 低くはあったが冷たく鋭く、人の心を滅入らせて、ゾッとさせるような声であった。
 この浪人の出現した時から、その出現に驚いて、左右に開いて刀を構え、様子を見ていた紀州藩士たちは、この浪人の言葉を聞くと、一斉に喜びの声をあげた。
「どなた様かは存じませぬが、助太刀感謝、お礼申す」
「その者お抑えくだされい」
「行け!」
 ド、ド、ド、ド――ッと右内目がけて、紀州藩士たちは走り出した。

うぬ!」
 と怒りを心頭に発し、兵庫は浪人へ斬り込んだ。
 が、空を斬ったばかりであった。
 今までの位置よりはほんのわずか、左の方へ片寄った位置に、痣の浪人は依然として静もり、依然として刀を平青眼につけて、こっちを凝然ぎょうぜんと睨んでいた。
なのれ! 何者! 云え! 意趣を!」
 兵庫は嗄れた声で叫んだ。
「何者が何んの意趣あって、拙者に向かって手向かうぞ! ……酔狂ならば度が過ぎる、意趣あらば意趣を仰せられい! ……拙者にとっては必死の場合、一人の盟友の生死の境いじゃ! ……邪魔せずにそこをお退きくだされい! ……退け退け、お退きくだされい!」
「…………」
 痣の浪人は無言であった。
 しかしどうやら笑ったらしく、前歯が白くチラリと見えた。
 その憎々しさ、その大胆さ、思慮に富んでいる兵庫ではあったが、怒り以上の怒りを感じ、生死かまわず斬り込もうとしたとたん、
「捕ったア――ッ」
 という声が遙かから聞こえた。
 ギョッとして声の来た方角に向かい、眼を走らせた兵庫の眼に、五十嵐右内が捕えられ、紀州藩士達に手籠めにされ、宙に高くかつぎ上げられ、町の方へ畷道を一散に、走っていくところの姿が見えた。
「南無三宝! ム――ッ」
 とばかりに、兵庫は心顛倒てんとうし、痣の浪人の存在を忘れ、右内の方へ駈け出そうとした。
 と痣の浪人の体が、ユラリとそっちへ位置を変えた。
 依然として蛇の腹かのような、蒼白い刀身が差しつけられている。
「ムーッ」
 と息を詰め呻いたものの、兵庫はその刀の切っ先に抑えられ圧せられくじかれて、一歩も進むことが出来なかった。
 その間も右内の舁ぎ上げられた体は、月光と靄との畷道の上を、町の方へ運ばれて行く。
 やがて姿が見えなくなった。
 と、痣の浪人であるが、そう知ったと見えてスルスルと下がり、クルリと兵庫へ背中を向けると、まったく兵庫を無視した態度で、これも燈火のチラツイている、町の方へしとしとと歩き出した。
 あくまでも嘲弄ちょうろうしたこの態度に、兵庫の心は掻きむしられた。
「悪漢!」
 背後から右肩を袈裟掛け!
「うふ」
 鬼神だ! その早業! 痣の浪人は振り返りざま!
 閃光!
「わッ」
「チェッ」という舌打ち!
 見よ兵庫は地に仆れ、舌打ちをした痣の浪人は、いつか刀を鞘に納め、懐手ふところでをしたまま悠々と、町の方へ歩いて行くではないか。

 それから十日ほどの日が経った。
 本所割下水の露路の奥の、浪宅の裏縁に二十一、二の、美しいが凛々りりしい武家娘が、鞣した猫の皮を陽に干していた。
「お兄様ご覧なさりませ、この蚤どもの可愛らしいこと」
 その娘はこういいながら、座敷の方へ眼をやった。


「蚤ばかりではない、生きとし生けるもの、何んであろうと可愛いものでござる」
 戸外の日光が部屋の中へ射し込み、古びた畳、古びた襖、黒光っている柱などを照らし、みすぼらしいながらも清掃されている様子を床の間に置いてある花瓶の花や、掛け物と一緒に浮き出させていた。
 床の間を背に負い小机にり、思案に耽っていた鵜の丸兵庫は、ましげにそう云って娘の方を見た。
 その娘の名は菊女きくめといい、世間へは妹と称していたが、その実血統の方から云えば、全然関係のない他人なのであった。
 とはいえ深い関係はあった。
 勤王倒幕の同志としての。
 鵜の丸兵庫は慶安三年に勤王思想を旗標として、多数の浪人を糾合し、徳川幕府を倒壊し、王政復古の実をあげようと、いわゆる慶安騒動を起こした、由井正雪の異母弟なのである。
 そうして菊女は正雪の同志、熊谷三郎兵衛の妹なのである。
 二人ながらきわめて幼少の頃に、養子養女として他家へやられていた。そこで慶安騒動が破れ、正雪はじめ一味の人々、ことごとく刑殺されたばかりか、その血縁も刑に行われたが、この二人だけは幸いにがれ、今に生存しているのであった。
 兵庫は正雪の異母弟だけに、幕府に対する反感と、勤王の血とに燃えていた。で慶安の義挙が破れ、正雪一味が殲滅せんめつされるや、その遺業を継ごうものと、ひそかに同志を集め出した。
 同志は集まり多数となった。
 江戸と京都と紀州とに、同志たちは別れて活動した。
 菊女は女ではあったけれど、熊谷三郎兵衛の妹だけに、やはり勤王と倒幕とに、その心は燃えていた。
 で、兵庫の同志となった。
 兄弟と称して同居しているのは、策謀に都合がよいからであったが、そうやって同居をしているうちに、菊女の心はいつの間にか、兵庫へ恋となって傾いて行った。
 その菊女の膝の先に、なめされた白猫の皮が敷いてあり、日盛りの陽があたっているので、蚤は熱さに堪えられないからか、黒茶色の猪のような小さいからだを、綿のように白く柔かく、絹のように艶のある毛並みの間を、抜けつ潜りつさせてうごめいていた。
 数十匹も蠢めいていた。
 いやらしい気味の悪い光景なのではあるが、その前に坐って眺めている菊女が、色白の細面、高い鼻の切れ長の眼、いかにも上品で美しい上に、着ている衣裳が水玉模様の単衣ひとえ、清楚でしかもなまめかしいので、いやらしい光景が緩和されて見えた。
「お兄様」と菊女は云った。「何をむずかしいお顔をして、考えておいでなされます」
「さあ」
 と兵庫は微笑したが、
「うしろ斬りのあの難剣を、よくもあの時遁がれたものと、それについて考えているのでござる」
「入谷田圃でお逢いなされたという、浪人者のことでございますのね。……その男の使った難剣のこと?」
「さようさようその難剣でござる。……あの瞬間石につまずいて、自分から地上へ仆れたため、遁がれることが出来たものと、今にして思えば思われるものの、あの時はてっきり肩をやられたと、そう思って覚悟しましたっけ」
「その浪人何者でござりましょう」
「それについて今日まで探りましたが……」

「お解りになりまして?」
「解りませぬ」
 ここで二人は沈黙した。
 狭い裏庭の植え込みの楓へ、どこかから逃げて来たらしい、金糸鳥が留まって啼いていた。
「五十嵐様のその後のご様子、これはお解りでござりましたか?」
 ややあって菊女きくめは小声で訊いた。
 入谷田圃でのあの夜の出来事を、あの夜兵庫はこの家へ帰るや、菊女へ細かく物語った。爾来じらい菊女は同志の一人として、紀州藩士に捕えられた右内を――五十嵐右内の身の上を、絶えず案じているのであった。
「これとてハッキリとは解りませぬが、近々に紀州へひそかに護送し、彼の地で捕えた他の同志と共々、斬殺するとか申すことで……」
 切歯せんばかりに兵庫は云った。
「怨めしきは紀伊殿でござる」
 兵庫は無念そうに云い続けた。
「兄正雪義挙の際にも、一旦加担を約しながら、中頃に至って違約され、今回も加担し置きながら、この頃に至って違約したばかりか、紀州の同志を捕縛して、無残にも斬殺されようとなさる。……何が英傑の南龍公じゃ! 臆病者の頼宣卿に過ぎぬわ!」
 文机から躰を前へのり出し、眼の前に紀州公がいるかのように、罵るように兵庫は云った。
「この怨みあくまで晴らさでは置かぬ、――五十嵐氏は申すに及ばず、捕えられた紀州の同志たちは、どうあろうと助けずば置かぬ! ……ことに五十嵐右内殿は、軍用の金の保管方を、ご依頼いたせし重要人物! 今回紀州より江戸へ出られたも、一つはその金の保管の場所を、拙者に告げようためだった筈じゃ……あの人物を抑えられては、経済方面にて忽ち逼塞ひっそく。どうあろうと奪い返さねばならぬ」
「でもどのようなご手段で、五十嵐様を、お取り返しなされます?」
 菊女は不安そうに熱心に訊いた。
「紀州へ護送する途中において、拙者必ず奪い返しまする」
「鵜の丸殿おいでなさるか」
 とこの時玄関から声をかけ、案内も待たず心安そうに、ツカツカはいって来た武士があった。
 同志の一人の松浦民弥たみやで、年二十五歳の美貌の武士で、京師の公卿姉小路大納言、このお方の家臣であった。情熱家ではあり正義派ではあり、才気煥発でもあったけれど、若いだけに性急であり、これが唯一の欠点であった。
 とはいえ同志中での花形で、誰にでも好感を持たれていた。
 京都において活躍している、義党の中心人物でもあった。
 主人の姉小路大納言家が、何か政治上の談合があって、幕府の閣老と逢わねばならず、それで秘密に個人の資格で、今よりちょうど一月ほど前に、京都から江戸へやって来た。それに扈従こじゅうして民弥も来、江戸の同志と久々で逢い、連絡をとっているのであった。
「松浦殿か、どうなされた、例によって性急、あわただしい」
 先輩だけにたしなめるように、兵庫はそう云って苦い顔をした。
 が、民弥は意にも介せず、朗らかに微笑しちょっとうなずき、菊女へも会釈の一揖いちゆうをしてから、
「耳よりの話聞きましてござるぞ」
 と、兵庫と向かい合って座を占めた。

「耳よりの話? 何事でござるな?」
 云い云い兵庫は膝を進めた。
「紀伊殿寵愛の萩丸殿が……」
「萩丸殿? ご愛孫じゃな」
「紀伊殿ご愛孫にござります」
「その萩丸殿何んとされました?」
「紀州より江戸表へ出府され、侍臣を連れて物珍らしそうに、毎日江戸中をご見物とか……」
「…………」
「剛愎無比の頼宣卿も、このご愛孫のお言葉とあれば、どのようなことでも聞かれますとのこと……」
「な、かるがゆえにそのご愛孫を、我らの手にて……我らの手にて……そうしてそれをおとりといたし、五十嵐殿や紀州表において、捕縛された同志の方々を……」
「なるほど」
 と兵庫は頷いた。
「これは妙案、たしかに有効……が、しかし、いかがいたして……」
 兵庫はここで打ち案じた。
「萩丸殿、幾歳でしたかな?」
「十八歳かと存じまする」
「十八歳。……ふむなるほど。……とするとまんざらでもない年じゃ」
 ここで兵庫は菊女きくめの方を見た。
「ひょっとかすると菊女殿に……」
「はい、何んでございますか?」
 菊女はいくらか頬を染めて、兵庫を見ながら不安そうに云った。
「お願いいたすかも知れませぬよ」
「…………」
「厭なことでも義党のためじゃ」
「それはもう……もうもうそれは」
 菊女はこう云うと眼を伏せた。
 しばらく三人は黙っていた。
 金糸鳥の啼き声も聞こえなくなった。
 どこかへ飛んで行ったのであろう。
「さて今度は日と時と場所だが……」
 ややあってから兵庫が云った。
「萩丸殿いつ何時頃、どこへ行くかということを、確実に知りたいものでござるな」
「拙者探るでござりましょう」
 民弥は自信があるように云った。
「そうしてお知らせいたすでござろう」
 またここで兵庫は菊女を見た。
「菊女殿、腕ふるわれい」
「まあ」
 と菊女は怨ずるように、そうして無情を訴えるように、眼に薄く涙を溜めて、兵庫の顔を睨むように見た。
「腕揮えなどと……そのようなお言葉……毒婦か妖婦ででもあるかのように……わたしは嫌いでござります。……党のおためと仰せられたればこそ……心定めてはおりまするが……兵庫様! あなた様のお口から……妾お怨みに存じまする!」
「いやこれはわしが悪かった」
 事実悪かったと思ったらしく、兵庫はそう云うと頭さえ下げた。
「戯言今後は申しますまいよ」
 兵庫にしてからがこの菊女が、自分を愛しているということを、ひそかに知っているのであった。そうして自分もこの菊女を、憎からず思っているのでもあった。
 その菊女を党のため、同志を助けるためにとはいえ、そんな仕事にたずさわらせることを、快よく思ってもいないのであった。

 数日経った日の夕暮れであったが、貴公子風の若侍が、家来を連れて浅草境内の、雑踏の巷を歩いていた。


 それは紀州頼宣卿の愛孫、萩丸殿に他ならなかった。
 もうこの時代から浅草境内は、盛り場として栄えてい、水茶屋、見世物、香具師やし、楊枝店、そんなものが客を呼んでいた。
「いつもながらここは賑やかだのう」
 帷子かたびらに薄羽織長目の袴、編笠を冠った萩丸は、近習の杉本伊織へ云った。
「いつもお賑やかにござります」
 伊織は二十一歳で、萩丸のよき遊び相手であった。
わしにとっては久しぶりの出府じゃ、見るもの聞くもの珍らしいぞ」
「は、さようにござりましょうとも」
「祖父様(頼宣卿)この頃お体衰え、自然お気象も弱られたらしく、ずっと国表にご座あって、わしをどこへも手放そうとなされぬ。それを無理無理にわしは願うて、江戸見物にやって来たのだが、来て見ると国へなど帰りとうない」
「これは難儀にござりますな」
 伊織は編笠の中で微笑した。
「でも頃加減になさりまして、一日も早くご帰国なされねば……」
「厭だよ、わしは帰らぬつもりじゃ」
「大殿様ご心配なされましょう」
「祖父様少しく愚に帰ったのう」
「何を仰せられます、滅相もない」
 こう云って伊織は背後を見た。
 近習頭の気むずかしやの、五十八歳の皆川作右衛門が、少し離れて附いて来ていた。
 毎日若殿のお供をして、面白くもない江戸見物、作右衛門にとっては迷惑らしく、編笠の中の顔はしかんでいるのであった。
 にわかに人なだれが打って来た。
掏摸すりだ!」
 と喚く声がした。
 人なだれは三人の方へ襲いかかった。
 と、それに溺れたかのように、一人の娘が萩丸の胸へ、縋るようにぶつかった。
「あれ、ご免あそばしませ」
「いや」
 と萩丸は面食らって云った。
 と、もうその時には萩丸の手は、娘の柔かい暖かい手に、グッとばかりに握られていた。
「…………」
「…………」
 ひょっと娘は編笠の中を覗き、萩丸の眼を見詰めニッと笑った。
 瞬間に萩丸はフーッとなった。
 が、次の瞬間には、娘の躰は萩丸から離れ、山門の方へ歩き出していた。
 萩丸は足を止め恍惚とした気持ちで、娘の姿を眼で追った。
「伊織」
 と萩丸はうつろ声で云った。
「山門の方へ行ってみよう」
「は」
 と伊織は解せないように、
「山門の方から参りましたのに……」
「山門の方へ行ってみよう。……娘が……いやいや……行ってみよう」
 萩丸はそっちへ歩き出した。
(変だなあ)と思いながら、伊織はその後からいて行った。
(若い奴らは何をすることやら)
 こう思いながら作右衛門も、ソロソロとその後から従いて行った。
 と、そういう三人を、群集に雑って松浦民弥が、微笑を含みながら眺めていたが、
「菊女殿なかなかお上手じゃ。……とうとう萩丸殿をお釣りなされた」と、口の中で呟いた。
 ところがそういう民弥の姿を、水茶屋の牀几しょうぎに腰をかけて、眺めている妖艶の年増女があった。

 めざましいまでに美しい女であった。
 京都型とでも形容しようか、どっちかといえばふとりじしで、顎は二重にさえくくれていたが、それさえ美しく眺められた。身長も充分高かった。
 この日は大店の内儀風に、その躰を装っていたが、櫛巻に絞りの浴衣ゆかた、そういう伝法の姿をしても、金糸銀糸で刺繍ししゅうをした裲襠うちかけ、そういうもので飾っても、どっちも似合いそうな女であった。
 年は三十に近いであろうか。
 名は梶子と云うのであった。
(まあ民弥様がおいでなさる。姉小路様のお供をして、江戸へ来られたとは聞いていたが、ここでお見かけしようとは)
 思慕に堪えないというような眼付きで、梶子は民弥に見入っていた。
 その梶子という年増女に、見入っていられるとは夢にも知らず、民弥はソロソロと歩き出した。
 菊女きくめを追って萩丸の一行が、山門の方へ歩いて行くのを、民弥はけて行くのであった。
 と、梶子は立ち上がった。
 いくらかの鳥目ちょうもくを牀几へ置くと、急いで茶店から外へ出た。
 これは民弥を追うのらしい。
 その梶子は茶店を出る時、同じ茶店の隅の牀几に、これも腰かけて茶を飲んでいた、編笠を冠った浪人らしい男へ、チラリと合図の眼まぜをした。
 と、その浪人も茶店を出て、ずっと梶子とは離れながらも、梶子の後から従いて行った。
 もし誰かが編笠の中の、浪人の顔を覗いたなら、左半面に黒いあざが、ベッタリと出来ているのを見、おそらくゾッとしたことであろう。
 入谷田圃で紀州藩士に味方し、鵜の丸兵庫と刀を交じえた、あの浪人がこの男なのである。
 名をねたば三十郎と云い、最近京都のある方面から、梶子に対する附け人として遣わされたところの男なのである。
 菊女は山門の方へ歩いていた。
 いかに同志のためとはいえ、いかに兵庫の頼みとはいえ、色仕掛けで萩丸を誘惑することなど、彼女としては不本意なのであったが、のっぴきならぬ破目はめとなって、今実行しているのであった。
 菊女を追って行く萩丸の心は、狂人じみたものであった。
 彼は紀州家の御曹子おんぞうしで、世間知らずの初心の若殿で、それに年も十八で、その上おく手で早熟ませていなかった。で、これまでは女に対しては、ほとんど関心を持っていず、女からも関心を持たれなかった。その彼が美しい清らかの娘に、手を握られて笑いかけられたのである。
 全くはじめての経験であり、奇蹟のような出来事であった。
 で、ほとんど狂気じみた心で、ウカウカと追って行くのであった。
 菊女はやがて山門を出た。
 山門を出ると大通りで、商家がビッシリと並んでいる。
 そこを菊女は歩いて行った。
 と、急に振り返り、充分にこびを含ませて、萩丸の顔へ笑いかけ、それから露路へ駆け込んだ。
 萩丸は全身一刹那、麻痺を感じたほどであった。
 そうしてその次の瞬間には、家来のことなど打ち忘れ、見えなくなった菊女の後を追い、電光のように露路へ駈け込んだ。
 仰天したのは二人の家来――皆川作右衛門と杉本伊織とで、
「殿、若様、いかがなされた!」
 と、思わず大声で叫びながら、一散に露路へ駈け込んだ。
「アッハッハッ」
 とそのとたんに、松浦民弥は往来に立って、思わず笑声を大きく立てた。
「菊女殿とうとう成功なされたわい」

 菊女にもしものことがあったら、助太刀せよという兵庫の命により、見え隠れに尾行けて来た民弥なのであった。
 うまうま菊女が成功したので、つい笑い声を立てたのである。
(お気の毒なは二人の家来さ、せっかく露路へ駈け込んでも、萩丸殿は行衛不明、そこでションボリ屋敷へ帰り、厳罰を受けるということになる……)
 しかし民弥はヒヤリとした。
 不意に横から女の声で、
「民弥様大変でございましたねえ」
 と、こう云われたからである。
 声の来た方を民弥は見た。
「あッ、あなたは梶子様!」
「お久しぶりでございますこと」
 梶子が近々と立っていた。
 露でも垂れそうなほどつやのある、びっくりするほど大きな眼へ、笑いと皮肉とを湛えながら、梶子は民弥を見詰めていた。
綺麗きれいな娘の後を追って、露路へ駈け込んで行かれましたは、紀州の萩丸様でございましたのね」
「知りませぬ、拙者は知らぬ」
「さああの娘何者か? あの誘惑ただの色気か? それとも深い理由があるのか? 大問題でございますのねえ」
「何を云われる。拙者は存ぜぬ」
「あなた様に関わりあるかないか、これも問題でございます」
「…………」
「姉小路様に扈従なされて、江戸へおいでとは承わりましたが、どこにお泊まりでございますやら」
「…………」
「姉小路様のご下向も、秘密で個人のご資格とのこと、では大仰に伝奏屋敷などへ、お泊まりとは存じ上げませぬが」
「ご懇意の板倉周防守様の、お下屋敷にお泊まりでござる」
「ああではきっとあなた様も」
「さよう拙者も同じお屋敷に」
わたしの住居は下谷の鳥越、中山様のお屋敷の裏手、わかりよい所でござります。一度お訪ねくださりませ」
「用事がありましたらお訪ねもしましょう」
「京都でも幾度かお眼にかかり、大坂でも幾度かお眼にかかり、紀州でもお眼にかかりましたのねえ。……わたしにとりましてあなた様は、おなつかしいお方なのでございますのに、その妾をあなた様には、邪魔物のようにお扱いなさる。情なしのお方、何んで情なしの……」
 流しという眼で民弥を見た。
 民弥は何がなしに身を縮めた。
 さりとて決してこの女を、民弥は嫌っているのではなかった。いやむしろ好いていた。とはいえどうにもこの女の素姓と、その行動とが不可解だったので、気味悪く思う感情の方が、一番彼には多かった。
 今も現にこの女が云ったように、京都へも行けば大坂へも行き、紀州へも行けば江戸にも来ている。日本国中この女は、どこへでも出かけて行くらしい。
 そうして行った先の上流、中流、最下等から最上流の、あらゆる人間に知己があって、交わりを結んでいることなども、民弥には気味が悪かった。
 派手で目立って金使いが荒くて、どこででも評判の女となる。――このことも民弥には気味悪いのであった。
 秘密を持って秘密の仕事に、従事している危険な女!
 そんな女のように思われるのであった。
 二人の立って話している、大通りにあたっていた夕暮れの光が、そろそろ消えて行こうとしていた。

 民弥と梶子との立ち話を、家の蔭にかくれて眺めている、刃三十郎の眼の中に、殺気と恐怖の色のあるのは、いったいどうしたというのだろう。
(ありゃア松浦勘解由かげゆせがれだ。わずかの意趣から太秦うずまさの野道で、その勘解由を討って取り、爾来自分でも世を狭めていたが、こんな江戸の地でその勘解由の忰の、民弥に逢おうとは思わなかった)
 彼は心中でこう思った。
 勘解由は姉小路卿の諸太夫で、和漢の学に精通した、人格高朗とした人物であった。
 ところでその頃刃三十郎は、京の地にささやかな町道場を開き、所司代詰めの武士や、公卿武士などをわずか集め、剣道指南をして生活していた。
 彼は公卿の中では裕福であり、権勢も持っている姉小路卿に取り入り、多くの公卿衆方に入り込もうとし、その斡旋あっせんを勘解由に頼んだ。
 勘解由は聡明の士だったので、一見して三十郎が心よこしまであり、公卿衆などの間へ推薦することなど、不可能の人間だということを知り、その依頼を断わった。
 と、この事が門弟たちへ知れた。
「あの人格者の松浦勘解由様が、排斥をした三十郎だ、ろくな人間ではないらしい。我らも教えを受けないことにしよう」
 こう云い合って一人去り二人去り、三十郎から門弟たちは離れた。
(これも勘解由の指金さしがねだな)
 ひがんだ三十郎はそう思い、深い怨みを勘解由に持った。
 と一日一僕を従え、勘解由は太秦うずまさへ秋景色を見に出た。
 そこを狙って三十郎は勘解由を討って取ってしまった。
 爾来勘解由の忰の民弥が、自分を父の敵として、狙っているということを知り、三十郎は身を隠した。
 が、縁あってあるお方から、隠れ扶持を貰うことになり、その人の云いつけで梶子の後見――附け人として江戸の地へ、今度派遣されて来たのであった。
 三十郎は家の蔭から、梶子と民弥とを尚見守った。
 宵の色が次第に濃くなって来る往来で、まだ二人はささやき合っていた。
(それにしても梶子殿と民弥とが、親しい仲だとは知らなかった)
(二人が親しい仲だとすると、よほど用心しなければならない)
 三十郎はそう思った。
 民弥の父親を自分が殺した。で民弥が父の敵として、自分を探し求めている。――ということを梶子に知られでもしたら、梶子の口から民弥に話され、自分は民弥に討たれようも知れない。
(梶子には絶対に明かしてはならない)
 三十郎はそう思った。
(それではむしろ消極的だ。……いっそ後腹あとばら痛めぬよう、民弥めを討って取ってやろう!)
 邪悪の心の持ち主の上に、惨酷の心の持ち主であった。そう三十郎は決心した。

 菊女きくめと萩丸とを乗せた駕籠が二挺、この頃本所の亀沢町の辺を、深川の方をさして走っていた。
 菊女は絶えず背後を振り返って、萩丸に向かって秋波をおくり、萩丸はそれに引きつけられ、菊女の駕籠を見失わないように、自分の乗っている駕籠きに命じ、後を追わせているのであった。
 次第に宵の色が濃くなって来た。
 夜になるのも間近であった。
 走り走って菊女の駕籠は、安宅町の外れまで来た。
 と、そこで駕籠を下り、菊女は露路へ駈け込んだ。

 それと見てとった萩丸は、
「駕籠を止めろ!」
 と駕籠舁きに云い [#「云い 」はママ]駕籠が止まると素早く下り、無造作に小判を抛り出し、駕籠舁きが驚いて囁いている隙に、萩丸は露路へ駈け込んだ。
 露路はいわゆる袋路で、つきあたりが人家になっていた。
 と、その門口に例の娘がいて、こっちを見ながら頷いてみせ、すぐに家の中へ駈け込んだ。
 そこで萩丸も家の中へはいった。
 かなり宏大な屋敷ではあるが、百姓家のように荒れていて、一向人のいる気配もなく、ひどく寂しくひっそりとしていた。
 門口をはいると広い土間で、土間は奥まで通ってい、その向こうは裏庭らしく、どうやら娘はその裏庭の方へ、小走って行ったように思われた。
 萩丸は土間に佇んで、ちょっとの間考えた。
 浅草の大通りから娘を追って、小路へ駈け込んで行ったところ、そこに二挺の駕籠があり、その一挺の駕籠に乗り、娘は大急ぎで走り出した。
 と見てとった萩丸は、何んの躊躇ちゅうちょするところもなく、もう一挺の駕籠に乗って、娘の後を追わせたのであった。
 そんな所に二挺の駕籠が、ぼんやり客待ちをしていたということ、そのことがもう胡散うさんであって、萩丸が普通の市井人だったら、早速疑がいを起こしただろう。ところが萩丸はそうではなく、紀州家の御曹司で世間知らず、ことには菊女の媚態に魅せられ、心を乱している時だったので、躊躇せず駕籠に乗って追わせたのであった。
 が、そういう萩丸ではあったが、さすがにこういう屋敷へ来て、こういう土間へ立って見れば、考え込まざるを得なかった。
(変に気味の悪い屋敷だなあ!)
 まず萩丸はそう思った。
 土間を中心にしてその右には、無数の部屋があるらしく、古障子や古襖や、古板戸がタラタラと並んでいた。そうして左には馬小屋らしいもの、鶏小屋らしいもの、物置らしいものが、太い格子や細い格子を、こっちへ向けて立っており、二階へ行ける箱梯子が斜めに高くかかっていた。
 でも森閑として人気がなかった。
(無断に奥へはいって行って、咎められるようなことはないだろうか?)
 つづいてこれが心配になった。
 しかし萩丸は娘に対し、今も心は夢中であった。
 その娘は鼻の先の、裏庭のどこかにいるような気がする。
(咎められたら詫びるまでのことよ)
 とうとう萩丸はこう心を決め、裏庭の方へ突き進んだ。
 裏庭における光景には、これといって変わったところもなかった。
 広い空地に三棟の家が、間隔を置いて立っていて、二軒の家は戸締まりがしてあり、燈火一つ射していなかったが、一軒の家だけは窓からも門口からも、明るく燈火が射しており、その門口に例の娘が、こっちを見ながら立っている。――と云った光景に過ぎなかった。
「お、娘が!」
 と声を上げ、萩丸は嬉しさにそっちへ走った。
 と、娘は家の中へはいった。
 つづいて萩丸も雀躍こおどりするように、その家の中へ駈け込んだが、それと同時に他の二軒の家から、数人の男が走り出て来て、その家の窓際と門口とへ近寄り、外から窓を閉じ門口の戸をとじた。
 でその家も宵空の下に、何んの明るさも持たないところの、盲目じみた家として、広い裏庭に立つことになった。


 それから数日の日が経った。
 と、深川のこの家へ、十数人の人々が集まって来た。
 鵜の丸兵庫、松浦民弥、熊谷菊女をはじめとし、柴田一角、金井半九郎、加藤東作、吉田彦六、足洗主膳、有竹松太郎、鈴木権太左衛門、関口勘之丞、戸島粂之介、僧範円、等の人々であった。
 由井正雪の遺業を継ぎ、倒幕の快挙をとげようとし、同志獲得に努めているところの、義党中での頭領株なのである。
 土間を上がると幾個かの座敷で、その奥に大きさ三十畳敷きはあろうか、そういう広い部屋があったが、その部屋に一同は集まって、密議に耽っているのであった。
 正雪筆に成るところの「至誠貫天」の四文字を書いた幅が、巨大の床の間にかかってい、その前に置かれた三方には、これも正雪が秘蔵したところの、楠木流の兵法の書が、巻軸三巻となって置かれてあった。
 戸外に燈火の洩れるのをはばかり、百目蝋燭一本を立てた、黒塗りの燭台が中央に置かれ、それを囲んで十数人が、各自の職業に似つかわしい姿で、端然と坐り静まっていた。
 の刻を過ごした深夜なのである。
「語るべきことはおおかた語り、云うべきことはおおかた云うてござる。この辺で決を取ってはいかが?」
 さすが一党の首領だけに、鵜の丸兵庫は悠々とした態度で、こう云って一座を見廻した。
 一座は寂然として声がなかった。
 いずれも眼を据えて膝の辺を見詰め、考えにふけっているらしかった。
 と、不意に柴田一角が、短気らしい語調でののしるように云った。
「決を取るの取らぬのとまどろッこしゅうござる。今夜ただちに命を奪い、一つには我らの先輩ともいうべき、慶安義挙の人々の、修羅の妄執もうしゅうを晴らすがよく、二には我らが義党の多数を、生け捕りいたした暴状への返報、これを致すがよろしゅうござる!」
 一角は柴田三郎兵衛の、遠縁にあたる人物で、牛込藁店に神道無念流の町道場を開いている、四十に近い人物であった。
 三郎兵衛は正雪の股肱ここうとして、思慮深遠智謀衆秀と、こう称されていた人物であったが、一角はむしろ情熱家で、実行力には富んでいたが、思慮にはむしろ欠けていた。
 で、性急にそう云って、捕えられている萩丸の命を、今夜奪えというのであった。
 一座はしばらく黙っていた。
 どうやら夜風が出たと見えて、裏庭の方から戸の軋む音や、枝葉の騒ぐ音が聞こえて来た。
 と、鈴木権太左衛門が、やおら膝を進めて云った。
「さようさこれは一思いに、殺してしまった方がようござろう。第一我らの眼から見た時、貴族の御曹司と申す奴、変に高慢でわがままで、何んとも虫が好きませぬ」
 肺を患っている権太左衛門であった。
 余命少ないと自分自身を、諦めている彼であった。
 若い壮健な人間を見ると、反感ばかりが感ぜられるらしい。
「紀州の御曹司萩丸殿か、アッハッハ、何を馬鹿な、たかが大名の小忰じゃ、鶏を締めるように締めるがよろしい」
 それから烈しく咳入った。
 一座何んとなく鬼気に襲われた。
 で、寂然と静かであった。

 と、三十七、八歳の、足洗主膳が静かに云った。
「既に紀州の萩丸殿は、我らの手中にありまして、監禁されておりますれば、活かすも殺すも自由自在、でそう性急に命を奪うことに努力する必要はありますまい。……」
 主膳は祖父以来福島家の家臣、福島家お取り潰しになってからは、ずっと浪人しているのであって、今はしがない売卜者として、両国辺へ店を出していたが、学問もあり思慮にも富んでいる、なかなか立派な人物なのであった。
「さようさよう」
 と吉田彦六が云った。
「人の命を奪うは易く、助けて効を納めるのは難い、辛抱して効を納むる方、よろしかろうと存ぜられますな」
 この彦六は慶安義徒の一人の、吉田初右衛門に有縁の者で、五十に近い年であり、業は寺小屋の師匠であった。年輩だけに穏健で、それになかなかの功利主義者でもあった。
「手ぬるい手ぬるい!」
 と一座の中から、怒鳴るがように叫ぶ者があった。
「裏切り者の紀州公へは、ご愛孫の生首を差しつけて、思い知らせるが何より必要、萩丸の首斬るがよろしい!」
 これは金井半九郎であった。
 慶安義徒の重鎮の一人に金井半兵衛という痛快児があり、剣道にかけては正雪以上、党内に比肩者なしと云われた。
 では金井半九郎は、その半兵衛の血縁者なのであろうか?
 いやいや決してそうではなく、半兵衛の人物にあやかりたいものと、そう思って金井半九郎となのり、武を練り文を修めている者で、本名は市川準五郎と云った。職業は柴田一角と同じく、町道場の主人なのであった。
「というのは今日まで萩丸殿に対し、我ら手をかえ品を代えて、紀州公への宥免ゆうめん状を、したためさせようといたしましたが、萩丸殿頑として聞き入れませぬ。……で、いつまでもべんべんと、このまま日時を費やしましたなら、紀州藩の者や町方の者に、この本部を突き止められたあげく、萩丸殿を奪い返されましょう。そうなりましては虻蜂あぶはち捕らず! ……いやそればかりでなく捕えられたところの、紀州における我らが同志に、おそらく一段の憎しみかかり、急速に刑殺されましょう! ……かずそれよりも我らが方より、急速にで機先を制し、萩丸殿の首を斬り、それをひっさげて紀州に潜入し、紀州公をおびやかし、破獄して同志を奪還いたすこそ、策の得たるものと存ぜられ申す!」
 そう云うと半九郎は肱を張り、軒昂とした意気で一座を見た。
「それよかろう!」
 と応じたものがあった。
 それは有竹松太郎であった。
 松太郎の現在の身分といえば、大道香具師の独楽こま廻しであったが、本来は佐竹家の家臣であり、主家滅亡して以来、深く徳川に怨みを持つに至った。自然、したがって慶安義挙の復活、徳川幕府倒壊のことを、目的としているこの義党に、加盟するようになったのである。
「たかが十八歳の小冠者萩丸、あのような者を今日まで、持てあましおりましたのが我らの不覚、いよいよ用に立たぬとなら、首斬って血祭りにした方がよろしい。拙者首斬りの役負いましょう。行って叩っ斬って参りましょう」
 こう云うと松太郎はそばの刀を掴み、ノッソリとばかり立ち上がった。
「しばらくお待ちくださいませ」
 この時菊女きくめが声をかけた。

 一同は期せずして菊女の方を見た。
 諸同志の言葉をずっとそれまで、聞き澄ましていた彼女であったが、この時はじめて云い出したのであった。
「萩丸様を捕えましたは、最初から殺そうためではなく、萩丸様に筆をとらせ、紀州において捕えられましたところの、我々義党の同志の体を、至急獄屋から放すよう、頼宣卿への宥免状を、認めさせるためと存じまする」
「さようさよう、申すまでもござらぬ」
 と、関口勘之丞という武士が云った。
 三十七、八の痩せた武士で、食えないところから虚無僧こむそうとなって、田舎などへ出かけて行く男であった。
「さようさよう、申すまでもござらぬ。……が、萩丸様今日まで、を張って宥免状したためませぬ。じゃによって殺そうと申すまでで」――
 ――知れた事よ! と云ったように少しく冷笑的に勘之丞は云った。
「では萩丸様意を翻えされ、その宥免状認めましたなら、殺す必要がござりますまいが」
「知れたことで、申すまでもござらぬ」
「では妾が何んとかして……」
「ナニあなたが何んとかして……」
 と、加藤東作という太平記読みが――これもその日の生活のために、しがない大道の太平記読みをして、かつかつ暮している男が云った。
「宥免状書かせると仰せられるか?」
「出来るか出来ないかは二の次としまして、ともかくも致して見ましょうほどに……」
「駄目じゃ! 手ぬるい! 今さらそんな!」
 こう癇癖かんぺきに云ったのは、やっと前髪を取ったばかりの、寺侍の戸島粂之介であった。
「今日まで我々の云うことをきかず、宥免状書かぬあの萩丸、女の身の菊女殿が策したとて、何んのオイソレと書きましょうぞ!」
「そう云ったものでもござりますまいよ」
 と菊女は自信がありそうに云った。
「手を代え品を変えて説いたとはいい条、まだまだ他に二つばかり残っている手がござりまする」
「ナニ他に? 手が二つ?」
 これは墨染めの法衣姿の僧範円の言葉であった。
「愚僧には萩丸殿殺された後で、経読む以外手はないに」
 これにはみんな笑い出してしまった。
 と、はじめて松浦民弥が、少しく膝を進めて云った。
「冗談事はさておいて、まこと菊女殿に策あって、萩丸殿に宥免ゆうめん状を、認めさせること出来ますなら、何よりのことと存じ申す、二つの手があると仰せられる。その手菊女殿仰せられたい」
 それに勇気をつけられたように、菊女はいよいよ熱心に云った。
「その一つの手は萩丸殿を、虫部屋の中へ入れまして、一種の拷問をいたしますことで……」
「ナニ虫部屋へ!」
「おお虫部屋へ!」
「なるほど虫部屋!」
「これは凄い!」
「いかさま名案!」
「名案名案!」
「あの虫部屋へ入れられようものなら……」
「いかな強情の萩丸殿であろうと恐怖に堪えず苦痛に堪えず……」
「我々の云うこと聞きましょうぞ」
 同志たちは口々に云い出した。
「もう一つの手は?」
 と鵜の丸兵庫が、重々しい口調でこの時訊いた。

 すると菊女はどうしたことか、ボッとその顔を赧らめたが、
「もともと萩丸様を党のおために、ここまで誘惑おびきよせいたしましたは、この菊女でござりまして、どうして妾が萩丸様を、易々やすやすここまで連れ参りましたか、それをお考え遊ばしましたら、妾の申しまする第二の手口、自ずとお解りでござりましょうよ」
 こう云うとまたも顔を赧らめた。
 一同は顔を見合わせた。
 そうしていずれも胸に落ちたような「ははあ」というような表情をした。
「で」
 と菊女は云い進んだ。
「下世話に申せば色仕掛け、これでわたくしは萩丸様を、ここまでおびきよせ参りました。ではもう一度色仕掛けで……」
「それよかろう」
 と云ったのは、案外にも坊主の範円であった。
「色即是空とは申すものの、色はなかなか有効なもので。それを使っての戦術と来ては、成功疑がいあるべからず。外面如菩薩内心如夜叉げめんにょぼさつないしんにょやしゃの菊女殿の本性をあらわして、萩丸殿を口説きましたなら、いかにも年若の萩丸殿、身も魂もトロトロとなり、云いなり次第に宥免状など、早速認めるでござりましょうよ」
 と、やや道化た口調で云った。
 と民弥が苦々しそうに、
「ご坊ご坊、おつつしみなされ」
 と、少しく声を強めて云った。
「菊女殿にとりましては、色仕掛けなどというが如き、不純の策を用いること、心外千万であられる筈、それを押し切ってやらるるというは、党のため同志のためを思えばこそでござる。それを何んぞや面白そうに、からかう如き不謹慎のお言葉、ちとおたしなみなさるがよろしい」
 それから菊女を気の毒そうに見たが、
天晴あっぱれのあなた様のご決心、同志一同感謝いたすでござろう。では菊女殿明日ともいわず、今夜忽ちに二つの手をもって……」
 それから鵜の丸兵庫に向かい、
「鵜の丸殿、いかがでござるな?」
「よろしかろう」
 兵庫は云った。
 兵庫にしてからが菊女という娘が、この自分を愛していること、だからそのような色仕掛けなどで、萩丸に対するということなど、彼女が嫌いだということは、充分心では知っていた。また自分にしてからが、憎からず思っている菊女をして、そのようなことをさせることは、甚だ心外ではあったけれど、他にとるべき手段がなかった。
 で、同意をすることにした。
「では」
 と云うと松浦民弥は、やおら席から立ち上がった。
「女の身にして菊女殿は、難役をお引き受けなされました。なろうことならそのような難役、幸いにお勤めなされぬ先に、拙者において萩丸殿を説きつけ、宥免状を認めさせたいもので。……ついては拙者萩丸殿を、虫部屋に入れて一種の拷問、――拷問をして是が非であろうと、宥免状書かせるよう致すでござろう」
「おおそれでは貴殿において、萩丸殿を虫部屋に入れる役目、お引き受けくださると仰せられるか」
 喜ばしそうに兵庫は云った。
「さよう拙者お引き受け致す」
 云いすてると民弥は刀を提げ、襖をあけて外へ出た。

 この頃萩丸はこの屋敷の一画、裏庭に建ててある別棟の家の、奥の一室に監禁されていた。
(俺はどうなることだろう?)
 不安と怒りとを顔に現わし、黙然と座敷に坐っていた。


 娘を尾行けて浅草から、この屋敷へまでやって来た。と、娘はこの家へはいった。そこで自分もこの家へはいった。すると外から戸をとざされ、自分はこの家へ監禁され、娘はそれ以来姿を見せない。――というのが萩丸にとっての、この数日間の出来事であった。
 もっともその間に入りかわり立ちかわり、いろいろの男がはいって来て、
「今回紀州において捕えられたところの、明暦義党の釈放方を、頼宣卿へその方直々じきじき、書面をもってお願いくだされ。それを頼宣卿お聞き入れあって、義党の人々をご放免あらば、その方をも放免いたすでござろう。それまではその方は我々の人質」
 と、こういう意味のことを繰り返し云い、書面を書くべく強要はした。
 で萩丸は何んのために、自分がここに監禁されたかを、それによってはじめて知ることが出来、菊女――さよう浅草境内から、自分をここまで誘惑して来た娘が、菊女という名の持ち主の、やはり義党の一人だということを、その立ちかわり入りかわりして、接近して来た男たちから聞いたが、その菊女が何んのために、自分にあんな素振りをしたかをも、はじめてハッキリ知ることが出来た。
 萩丸は人々の強要を、頑強に今日まで拒絶して来た。
(祖父様〈頼宣卿〉のなされた国のお政治を、孫たる自分が容喙ようかいしてはならない)
 というところの建前からして、彼は頑強に拒絶しつづけた。
(どんなに自分が迫害されようと、どんなに自分が苦痛であろうと、それを訴えてお祖父様を動かし、正しいお政治を歪めさせてはならない)
 こう彼は思うのであった。
(自分の今の境遇を訴え、囚人宥免方の書面を送ったら、愚に返ったのではあるまいかと、そう疑がわれるほどこの自分を愛し、何んでも聞いてくださる祖父様には、どのような無理をなされても、その義党の同志とやらを、きっと放免なされるだろう。だからそんなこと訴えてはやれない)
 こうも彼は思うのであった。
 そうして彼としてはこうしているうちには、自分を見失った二人の家来が――皆川作右衛門と杉本伊織とが、屋敷へ帰って大騒ぎをし、家中の者たちを手分けをして、自分を探し市中を調べ、間もなく自分を発見して、連れ帰ってくれるに相違ない。――とそんなようにも考えられるのであった。
(菊女という娘、どうしているやら?)
 菊女に対する彼の感情は、かなり変わったものであった。
 彼をこのような境遇へ落とした、その元兇こそ彼女なのであるから、憎く思わなければならない筈だのに、彼にはそうは思われなかった。
(自分をこんな目にあわせたのも、党のためとやらに相違ない)
 そう彼は解釈した。
 彼には彼に笑いかけてくれた、美しい清らかな優しそうな、菊女の顔が今もハッキリ、眼底に焼きついているのであった。
(是非ともあの娘に逢いたいものだ)
 その後一度も顔を見せない彼女が、彼には物足りなくてならなかった。
(もうこの屋敷にはいないのかしら?)
 今も萩丸はそのことを考え、ぼんやりと坐っているのであった。
 何んの装飾もない部屋であった。
 それに雨戸がとざされているので、――昼も終日とざされているので、かびくさく湿けていた。
 行燈の光が薄黄色く弱く、四辺をかすかに明るめてい、それに照らされた萩丸の顔は、さすがにやつれて痛々しく見えた。
 と、隣室で足音がした。

(誰か来たな)
 と萩丸は思った。
(茶でもれて来たのだろう)
 三度の食事、朝晩の茶、そういうものには萩丸は、ここでは充分恵まれていた。
 というのは義党の人々にとって萩丸は大事の人質であった。で、充分に飲食させ、健康を保たせる必要があった。そこで飲み物や食物については、不自由させなかったからである。
 襖をあけてはいって来たのは、一切飲食の世話をしている、いつもの老爺でも老婆でもなく、一、二度ここで顔見知りの、松浦民弥という武士だったので、萩丸は不快そうに横を向いてしまった。
 そう、民弥は他の同志と同じく、萩丸をして宥免状を書かせようと、一、二度この部屋へやって来て、それを萩丸へ強いたことがあって、二人はとうに知己なのであった。
「萩丸殿ご機嫌はいかが?」
 にこやかに民弥はこう云いながら、萩丸の前へ端座した。
「…………」
 萩丸は返辞をしなかった。
 いずれ宥免状を書けなどと云って、強要するに相違ないが、俺は断じて宥免状は書かない! こう決心をしているからで、それで素ッ気なく沈黙し、横を向いてしまったのであった。
 そういう萩丸の態度によって、民弥は萩丸の決心を知った。
(これは説いても仕方がないな)
 こう思わざるを得なかった。
(気の毒だが断行しなければなるまい)
「萩丸殿」
 とそこで云った。
「我々同志今日まで、入りかわり立ちかわりあなた様に対し、あなた様の祖父君頼宣卿のために、捕えられました我々同志への、宥免状お認めくださるよう、懇願いたしましてござります。が、あなた様におかれましては、頑としてご承引くだされず、今日に及びましてござります。……今日私参りましたも……」
 ここで民弥は幽かに笑い、萩丸の顔を改めて凝視し、
「その宥免状の認め方を、お願いいたそうためでござった」
 ここで民弥は苦く笑った。
「が、断念いたしましてござる。……あなた様のご様子拝見いたしましたところ、依然として断乎としてご承引ない! ということを知りましたからで……ついては……」
 と民弥は笑っていた顔を、ここでにわかにいかめしく!
「ついてはまことにお痛わしゅうござるが、虫部屋と称する特殊の部屋へお住居をお移し致さねばならず、いやお移しいたすでござろう!」
「虫部屋?」
 と萩丸は怪訝けげんそうに、その清らかな少年らしい眼へ、疑惑の色を浮かべたが、
「何か? 虫部屋とは? え、何か?」
「そこへおいでになりましたら、自ずと知れるでござりましょうよ」
「そうか、行こう、どこへでも行く」
「ではおいでなさりませ」
 云って民弥は立ち上がった。
「どこにあるのだ、その虫部屋は?」
「私についておいでなされ、おのずと知れるでござりましょう」
「おおそうか、では行こう」
 間もなく二人は月の光で、蒼白く見える裏庭へ出た。
 その裏庭には尚二軒の、独立した建物が立っていたが、その一軒の門口へ、つかつかと民弥は寄って行った。
「爺、いるか、用意は出来たか」
「へい」
 と云いながら一人の老人が、門口へ姿をあらわした。

 それは義党の本部ともいうべき、これらの建物を管理している、万平という老人であり、萩丸へ飲食の世話をしていた、その同じ老人であった。
「へい、用意はお云い付けどおり、致し置きましてござります」
「そうか」
 と云うと背後を見、
「いざ萩丸殿、おはいりくだされ」
「うむこれが虫部屋か」
 萩丸は躊躇せずに家の中へはいった。

 いま萩丸は虫部屋にいた。
 二十畳敷きぐらいの部屋であって、四方は装飾のない板壁であり、床は畳なしの板張りであった。
 金網張りの窓が一つ、高いところに付いていて、そこから月光が射し込んでいるばかりで、燈火さえついてはいなかった。
 床の間もなければ違い棚などもなかった。
 敷き物なども敷いてない。
 それは人間の住む部屋というより、動物などの住むおりともいうべき、殺風景きわまる部屋なのであった。
 萩丸は坐りもせず佇んで、部屋の四方を見廻した。
(虫部屋だというが何が虫部屋だ)
 こう思わざるを得なかった。
 虫部屋などというのであるから、いろいろの虫を籠にでも入れて、飼って置くところの部屋なのであろうと、そうひそかに思っていたのであったが、そんな虫籠などどこにもなかった。
(何んだ馬鹿な)
 とこう思った。
 立っていたところで仕方がないので、敷き物はなかったが板敷きの上へ、萩丸は無造作に坐り込んだ。
 と、すぐに膝から股、腰から腹までムズがゆくなった。
「痒い!」
 と思わず声を上げ、萩丸は床から立ち上がった。
 が痒さは止まなかった。
 数百の蚤が彼の体へ、一時にたかって刺すようであった。
 腕から頸筋から背から肩から、ムズムズとはいり、シクシクと刺し、ピチピチとねる気味の悪い、小動物の感触が、萩丸の心を狂わせようとした。
「ひどい蚤だ! どうしたんだ!」
 萩丸は部屋中を駈け歩き出した。
 蚤は益※(二の字点、1-2-22)数を増したらしく、頭髪にたかり眉にたかり、全身を掻き立てる萩丸の手の、十本の指にさえたかった。
 萩丸は床をころげ廻った。
 蚤は顔へも飛びかかった。
 鼻の穴へ飛び込み耳の穴へ飛び込み、喚く口の中へさえ飛び込んだ。
「あッ」
 と萩丸は声を上げた。
 四方の壁を何物とも知れず、細長い動物がほとんど無数に、紐のようにつながって這っているではないか。音を立てずただウネウネと、壁にしまをなして這っている。
 見る見る数が増して行って、壁は今にもその小動物に、全面を蔽われてしまいそうであった。
 それは蜈蚣むかでの大群なのであった。
 と思う間もあらばこそであった。萩丸が茫然として佇んでいる床を、四、五寸ほどの小動物が、これも無数に右往左往しはじめた。壁に添って走る物、萩丸の足の方へ走って来る物、その横を擦り抜けて走る物、――数百匹をもって数えられた。
 それは蜥蜴とかげの群であった。
 無数の羽虫がどこからとも知れず、蒼白い月光がほんのかすかに、射し込んでいるだけのこの部屋の中へ、その月光を消すばかり多数に、舞い込んで来て渦巻き出したのは、それから間もなくのことであった。

 立派な武士の身でありながら、猫の蚤とりというような、最下等の職業に鵜の丸兵庫が、平然として従事しているのは、一つには生活のためではあったが、二つには彼が虫類に対し、愛と興味とを持っていたからであった。
 兵庫に関する伝説によれば、彼はこれと云って正式立った、昆虫学者ではなかったけれど、すなわち正式に昆虫学を修めた、正当の学者ではなかったけれど、趣味をもっていろいろの虫を集め、興味をもって研究して行くうちに、実験から得た知識の堆積たいせきが、自ずと彼を昆虫学者にし、一家をなしていたと云われている。
 彼は採集して来たさまざまの虫を、それぞれ区別して籠や瓶や、箱や檻などに大切に納め、飼養したということであるが、その虫類の飼養場が、この屋敷のこの家であり、今萩丸が苦しめられている部屋にも、先刻まではそれらの瓶や、籠や箱などがあったのであるが、萩丸をその部屋へ入れるについて、それらのものを隣室に移し、空部屋のようにしたのであった。
 だからこの部屋の隣り部屋には、それら虫を入れた箱や瓶が、うず高いまでに積まれてあり、その間に松浦民弥がいて、それらの虫類を秘密の穴から、次々にこの部屋へ送り入れている。――さよう、送り入れているのであった。
 萩丸の苦痛と恐怖とは、ほとんど彼を気絶させようとした。
 彼は部屋の中を駈け歩いた。
 走っても走っても走る方へ、蚤と蜈蚣と蜥蜴と蛾と、さらにそれからも送り込まれた、蛇と蜘蛛くもと蝶の群は、後を追い飛びかかり、纒いつき、搦みつき、食いつ刺しつ締めつした。
「助けてくれ――ッ」
 と萩丸は叫んだ。
 まだ十八歳の少年であり、これまでほとんど恐ろしいことなど、経験したことなど一度もない、紀州家の御曹司の彼だった。
 助けを呼ぶのは当然だろう。
 もっともこれが戦場などで、大勢の敵に取り捲かれたと、そういうことであったならば、まさかに助けを呼ばなかったであろうが、相手はいやらしい虫類であった。隣り部屋には人がいるらしかった。
 そこで助けを呼んだのである。
 隣り部屋から民弥の声がした。
「お助けいたすでござりましょうが、その代り我々がお願いいたした、例の同志の宥免ゆうめん状、萩丸殿にはお書きくださるか!」
「厭だ厭だ!」
 と駄々ッ児のように、この境遇になっても萩丸は叫んだ。
「宥免状は書かぬ、厭だ厭だ! 助けてくれ――ッ、助けてくれ――ッ」
「宥免状書かぬとあるからは、何んのお助けいたそうぞ! 部屋より決して出さぬばかりか、いよいよ悪虫毒蛇の類を、これより益※(二の字点、1-2-22)め入れましょう! さそりも入れる守宮やもりも入れる、やがてはまむしも入れましょう」
「助けてくれ――ッ助けてくれ――ッ」
 叫び、身もだえし、走り、狂い、萩丸は助けを呼ぶばかりであった。
「お父上よ、母上よ、祖父様! 祖父様! 祖父様! ……助けてくれ――ッ、助けてくれ――ッ」
 逃げるその後から蜥蜴の群は、吹矢のような速さで走り、十数匹の蛇は鎌首を持ち上げ、波のように背中をうねらせて追い、蜈蚣の大群は壁から下りて、床の上をさながらさざなみのように、騒ぎ立てながら追いかけた。
「苦しい! 恐い! おお、おお、おお! ……助けてくれ――ッ、助けてくれ――ッ」
 突然萩丸は床へ仆れた。
 その気絶した萩丸を目ざし、虫類は一時に寄せて行った。


 その萩丸がよみがえった時に、彼の眼にはいった光景といえば、恐ろしかった虫部屋は消えて、虫部屋に彼がはいる前に、住居していたいつもの部屋で、彼が今日までも恋こがれていた、そうして彼が後をつけて来た、美しい娘に優しく柔かく、介抱されているという姿であった。
「おッ、そなたは!」
 と思わず叫び、疲労と恐怖とで今も全身が、衰弱しふるえているその全身を、娘の方へいざらせた。
「娘じゃ! 娘じゃ! あの時の娘じゃ!」
「萩丸様!」
 と菊女きくめは云い、気の毒そうにまた不愍ふびんそうに、萩丸の顔を見守ったが、
「さぞまアお驚きでございましたでしょう! ……もう大丈夫でございます! この菊女が身に代えて、お守りいたすでござりましょう。……二度とふたたび恐ろしい、虫部屋などへはお入れしませぬ」
「菊女? そうか、菊女というか! ……菊女よ菊女よわしはどんなに、どんなにそなたのことを思っていたか! ……虫部屋! おおおお恐ろしい! ……生まれてはじめての恐ろしさ! ……もう充分だ、二度とは厭だ! ……二度とあのような目に逢おうものなら、わしは死ぬだろう、きっと死ぬ! ……菊女菊女助けておくれ! この屋敷からわしを逃がしておくれ!」
 まだ十八歳の少年であった。
 少年らしく萩丸は叫んで、姉のような菊女の腕へ縋った。
 それを引き寄せその体を抱き、やさしく菊女は締めてやったが、
「何んのあなた様を二度とふたたび、あのような所へ入れましょう。あのような目に逢わせましょう……この屋敷から出たいと仰せられる。はいはいわたしが、この菊女が、お供をしてお逃がせいたしますとも……」
「お前がわしを逃がしてくれるか……頼む菊女逃がしておくれ! ……でも、お前はどういう女なのじゃ! ……こんな所に、こんな所にいる。……そうしてわしあんなにして、こんな所へおびきよせた! ……いったいお前はどういう女なのじゃ! ……いやいやよい、どんな女でもよい。……わしは好きじゃ、お前が好きじゃ! ……ね、行こう、一緒に行こう。……わしの館へ一緒に行こう! ……そうして一緒にくらすとしよう。……さあ出よう、ここを出よう」
 貴族の御曹司おんぞうしの一本気と、世間知らずのわがままと、若さから来る直情とで、萩丸はこう云うとヒョロヒョロした体で、立ち上がって部屋を出ようとした。
「萩丸様」
 としかし菊女は、にわかにここで冷やかになり、たしなめるような声で云った。
「まずお坐りなさりませ。……ご一緒に出ようと仰せらるるなら、妾ご一緒に出ましょうが、その前になにとぞわたくしどものお願い、おきき届けてくださりませ」
「ナニ願い? 願いをきけ? ……おお聞くとも、何んでもきく、そちの願いなら何んでもきく!」
「宥免状お書きくださりませ」
「…………」
「あなた様の祖父様、紀州大納言頼宣様、わたくしどもの同志数十人を、紀州表におきまして、お捕え遊ばしましてござります。……この頃に処刑遊ばすとか。……これらの人々をお助けくだされと、あなた様より大納言様へ、一筆おしたためくださりませ」
「菊女!」
 と萩丸は眼を据えて云った。
「ではそなたも、同志の一人か?」
「同志の一人にござります」
「この治まれる徳川の御代みよを、くつがえそうとする姦党の一人か!」
「何んの姦党でありましょうぞ! 何んの治まれる御代でしょう! ……関ヶ原の合戦以来、諸大名多くとり潰され、浪人数万でましたが、仕官は出来ずえに迫り、一家離散、親子別離、ある者は猫の蚤とりなどという、賤業にさえたずさわり、かつかつその日をくらすありさま! ……不平は巷に満ちております! ……何んの治まれる御代でしょう!」
「そういう事はわしには解らぬ。……ただ祖父様が仰せられた。正雪は姦物、油断のならない煽動家であり山師であったと。……そなたたちはその余類じゃそうな」
わたしことはその正雪様の、股肱ここうの一人とたのまれました、熊谷三郎兵衛の妹の菊女」
「ナニ熊谷三郎兵衛の……」
「はい妹にござります」
「でははなからこのわしを惑わし? ……」
「はい惑わしておびきよせ、宥免状是が非でも書かせようと……」
「憎い女め! おのれがおのれが!」
「憎くばお斬りなさりませ! ……があくまでも宥免状は……」
「書かぬ! 何んの、何んの書こうぞ!」
「お書きなされねばまた虫部屋へ……」
「厭だ厭だ助けてくれ!」
 萩丸は恐怖を眼に現わし、やにわに菊女へ縋ったが、
「憎い女め、宥免状は書かぬ! ……厭だ厭だ虫部屋へは厭だ! ……菊女よ菊女よ、わしはお前を! ……おおおおおお、わしは好きじゃ! ……そなたが好きじゃそなたが好きじゃ! ……そなたのためなら何んでもやる! ……書こう宥免状、書こう書こう!」
「それでこそいとしい萩丸様、わたしの萩丸様にござります! ……さあこの筆で、さあこの紙へ! ……」
 備えてあった硯箱から、筆を取り上げ墨を含ませ、菊女は萩丸へ渡したが、つづいて料紙を突きつけた。
「何と書くのじゃ、菊女菊女!」
 一方には虫部屋の恐怖があり、一方には恋しい菊女がいる。
 二つの間に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)まれた上に、気絶からよみがえった直後とあって、心身ともに衰弱しており、ほとんど意志は消耗していた。
 萩丸は夢中で書くのであった。
「『祖父様』と、お書きなさりませ」
「『祖父様』と、こう書くのか。書いた、菊女、さあ、それから……」
「『孫の萩丸の一生のお願い、どうぞおきき届けくださりませ』」
「『孫の萩丸の一生のお願い、どうぞおきき届けくださりませ』こう書くのだな、さあ書いた」
「『祖父様がお捕えあそばしました、明暦義党の数十人の方を……』」
「『……明暦義党の数十人の方を……』」
「『ご宥免なされてくださりませ』」
「『ご宥免なされてくださりませ』」
「『ご宥免なければ孫の萩丸は』」
「『ご宥免なければ孫の萩丸は』」
「『江戸にいる明暦義党の者に、なぶり殺しにされまする。今萩丸はその人々の手で、恐ろしいところに捕えられ、監禁されておりまする』」
「ほんとにそうだ、ほんとにそうだ、恐ろしい所にとらえられている。嬲り殺しにされるだろう。……さあ書いた、菊女よ書いた。……」

 その翌日のことであったが、梶子は自分の屋敷にいた。


 下谷鳥越の一所に、中山右京という大旗本の、豪奢な屋敷が立っていたが、その裏手にこれも立派な、梶子の家が立っていて、その一室に梶子はいた。
 髪を洗い髪にして無造作に束ね、あいの棒縞の単衣ひとえの襟から、たっぷりとした胸元を覗かせ、膝を崩して横坐りをし、茶を長閑のどかそうに飲んでいる様子は、大姐おおあねごとでもいいたげであった。
 小間使いに下働きに飯たき婆さんに、庭掃き爺さんに下男一人二人。七、八人の家内なのであった。
「お梅や」
 と隣室で梶子の外出の、お召しや帯などを畳んでいた、十七、八の小間使いへ、不機嫌そうに声をかけた。
「三十郎さん、まだ帰らないのかねえ」
「さあ」
 とお梅は首をかしげ、
「もう一度見に行って参りましょうか」
「そうだねえ、そうしておくれ」
 お梅は立って出て行った。
 梶子の附け人で用心棒で、かつは梶子の監視人でもある、ねたば三十郎は梶子の家から、約二町ほどへだっている、同じ町内に住んでいた。
 今朝から呼びに行くのであるが、昨夜外泊して以来、いまだに帰宅しないとのことで、そこで梶子は少なからず、イライラして怒っているのであった。
 しかしお梅とひき違いのように、三十郎ははいって来た。
「おや三十郎さん今お帰りか」
 梶子はすかさず声をかけた。
「吉原でしたかえ、お楽しみだったねえ」
「…………」
 笑いもせず厭な顔もせず、左半面額から頤まで、ペッタリ墨でも塗ったように、黒痣くろあざのある妖怪のような顔を、無表情にして三十郎は坐った。
「いまだ手がかりござりませぬ」
 ――が、ややあってそう云った。
 聞く人の心をヒヤリとさせるような、冷たい厳しい声であった。
「そう」
 と梶子は軽く受けた。
 こっちも「驚く」ということや「恐れる」ということを知らないかのような、ふてぶてしい心の持ち主だったので、そう軽く受けたのだった。
「それじゃア昨夜もそっちの方で。……わたしゃアお楽しみ筋かとねえ……今朝から二度ほど呼びに行ったんだが……まあまあそれはご苦労さまでした。……手がかりがない? まるっきりない?」
「今のところ、まずさよう」
「ふうん」
 と梶子は裏庭の方へ、縁越しに眼をやって不満そうにいった。
 過ぐる日梶子は浅草境内で、紀伊家の御曹司萩丸君が、若い美しい娘によって、誘惑されたのを親しく見た。
 で、それ以来三十郎をして、萩丸のその後の消息と、誘惑をした娘の素姓とを、かり立てるようにして探らせた。
 その結果今日までに知れたことといえば、萩丸はあれ以来行方不明、そこで紀伊家では大騒ぎをし、紀伊家としても極力探しているが、南北町奉行にも事情を告げ、同じく探して貰っていること、しかし行衛は今に知れず、そうして萩丸を誘惑した娘の、素姓も住居も解らない。――というそういうことであった。
 手がかりがないという三十郎の言葉は、その娘の素姓と住居とが、今に解らないという意味なのであった。
「わたしはねえ、三十郎さん」
 と、ややあって梶子は考え考え云った。
「娘一人の仕事ではなく、背後に恐ろしい徒党があって、その徒党が娘を使って、ああいうことをしたらしいと、そんなように思われてならないのだよ」

「私にも、そんなように思われます」
「それで妾としてはあの娘の素姓と、あの娘の住居とをつき止めて、それからそれと手操たぐって行って、その徒党の正体と、徒党の根拠のあり場所とその人数などを知りたいのだが、肝腎の娘の素姓も住居も、今に一向知れないとあっては、そんな望みはとげられそうもない。……あんたにしてからが意気地いくじがないねえ」
 たしなめるように梶子は云った。
 が、三十郎はそう云われても、たいして意にもかけないように、やはり冷然として動じなかった。が、
「梶子様」
 と探るように、
「あの時の、若侍何者でござるな?」
 と、ややあって詰問するように云った。
「ナニ、あの時の若侍とは?」
「萩丸様が誘拐されて、山門より外へ出ました時、あの娘の後をつけるようにして、往来へ出て行った武士がありまして、あなた様にはその若侍と、親しそうに立ち話なされましたが、あれは何者でござりまするかな?」
 民弥のことを云っているのであった。
 そうして三十郎は云うまでもなく、民弥のことはよく知っていた。
 が、民弥と梶子との間に、どんなつながりや関係があるのか? これについては知らなかった。
 でそれを知ろうとして、そうカマをかけて訊いたのであった。
 梶子はちょっとヒヤリとし、そうして心もち頬を染めた。
 というのは彼女の心の奥で、かなり熱烈に松浦民弥を恋しく思っているからであった。
 それにしても彼女は何者なのであろう?
 そうして今日までどういう機会から、民弥と再々逢っているのだろう?
 彼女は実に時の閣老、出頭第一と称されている、松平伊豆守信綱の、私設細作かんじゃの一人なのであった。
 で、彼女は伊豆守から、多額の報酬と手当てを受け、ある時は伊豆守の指図に従い、江戸、京都、大坂、その他、到る所へ出かけて行き、命ぜられた仕事をやるかと思うと、ある時は命令をされないことでも、これは怪しいと思った時には、その事件を独断で探り知り、それを伊豆守へ告げるのであった。
 各地の大名の動静や、その領内の民意や民情や、または浪人者の起居動作や――そういうものを探るのであった。
 伊豆守から命ぜられて、何らかの事件を知ろうとする際には、必要に応じて伊豆守から、誰へでも紹介の書き附けを貰った。
 で、あらゆる地方地方の、さまざまの階級の人々と、彼女は知己となり得たのである。
 松浦民弥と京都や大坂や、紀伊などで数回逢ったのも、そういう事情から逢ったのであった。
 民弥の主人の姉小路卿は、公卿の中での野心家で、政治に関心を持っていた。
 で不断にいろいろの地方の、大名や豪商や学者や僧侶と、消息をし合う必要があり、その使いにはお気に入りの民弥が、おおかたの場合立っていた。
 で、いろいろの地方地方で、梶子と落ち合うことになったのである。
 若くて美貌で颯爽さっそうとしている、その民弥の人物は、梶子にも好もしいものであった。
 で、いつの間にか心の奥で、恋するようになったのであったが、しかし未だに恋心を、民弥にうちあけてはいないのであった。
「梶子様」と三十郎は云った。
「お見受けしましたところあの若侍と、あなた様とは一通りならぬ……」

「何をお云いなのさ、ばからしい」
 民弥を恋している心持ちなどを、三十郎などに見透かされたら、恥ずかしくもあれば面倒でもあると、そう思ったのでわざと梶子は、怒ったような言葉つきで云った。
「ありゃア京都の姉小路様の、大変お気に入りのご家臣なのだよ。……妾が京都で仕事をした時、ちょっとばかり懇意にした人さ。それであの時逢ったので、つい立ち話をしただけさ。……姉小路様が何かのご用で、こっそり江戸へおいでになったのについて、江戸へ来たとか云っていたっけ。……松浦民弥っていう人さ」
「ははあさようでございますか。……が、わたくしにはあの若侍が、今度の事件に関係あるよう……」
「そうかねえ、そんな筈はないが……」
 こう梶子は云ったものの、実は梶子もそのことについては、多分に疑がいを持っているのであった。
(あの時あの娘を松浦様は、たしかにつけて行ったような気がする。あの娘と松浦様とが手を組んで、萩丸様を誘拐したような気がする)
 こんなように思われてならないのであった。
 では何故彼女は民弥の方へ、探索の手を延ばさないのであろう?
 それは恋する心からであった。
(今度の事件は背景が大きく、恐ろしい事件であるような気がする。そんな事件に、民弥様など、どうぞ関係ないように! ……ナーニ関係なんかありゃアしないよ! あるものか、ありゃアしない!)
 この矛盾した心持ちが、民弥の方へ探索の手を、いまだに延ばさない原因なのであった。
「いや」
 と三十郎は執拗に云った。
「あの日松浦と申されるじん、たしかにあの娘と連絡をとり、萩丸様を誘拐しましたよう、この私には見えましたが」
「そうかねえ、そんな筈はないが……妾にはそんなようには見えなかったよ」
「疑がわしきは探りました方が、よろしいように存ぜられまするな」
「…………」
 梶子は憎さげに三十郎を睨んだ。
「そうかえ、それじゃア探ってごらん」
「どこにあの仁お住居なので?」
「自分で探ったらいいじゃアないか」
「あの仁と大変お親しいご様子、それで住居もご存知と思い……」
「うるさいねえ何を云うんだよ、そんなに親しい仲じゃないよ」
「さあいかがのものですかな」
「…………」
「姉小路様に扈従こじゅうして、江戸へ参られたとあるからは、姉小路様と同じ住居に、すまいしているは知れたこと、では姉小路様のお住居をさがし……」
「めんどくさいねえ云ってあげよう、姉小路様はお親しい仲の、板倉周防守様のお下屋敷に、微行でご滞在しているそうだよ」
「ははあさようでございますか」
 ちょっと二人は沈黙した。
 一種の不安を覚えながら、しかし梶子は平然とした態度で裏庭の方へ眼をやった。
 その妖艶な横顔を見ながら、
(いい女だ、素晴らしい女だ)
 と、三十郎は躍る胸で思った。

 実は三十郎はずっと前から――というより梶子の附け人として、梶子のもとへやって来て、梶子とはじめて逢った時から、梶子のずばぬけた美しさと、男勝りの気象とに、すっかり心を奪われて、燃えるように恋しているのであった。
「梶子様」
 と三十郎は、変ににわかに語調を変えて、媚びるような声で云い出した。
「お互いこのようにお親しくし、行動を一所に致しおります以上は、心にわだかまりありましては、面白くないように思われまする」
「そうとも」
 と梶子は軽く受けた。
 だが心では(変だね)と思った。(何を今になって云い出すのだろう)
「そうともさ、そのとおりだよ」
「そこで私は申し上げまするが、私はあなた様が大好きなので」
(おやおや)
 と梶子はゾッとしながら思った。
あざ半面のこんな男に、好かれるなんて嬉しくないよ)
 とはいえそうも云えなかったので、
「おやそうですか、それはそれは有難いとでも云っておきましょうよ」
「ところがどうやらあなた様には、私如き眼中になく……」
「…………」
「愛するお方が他にあるようで」
 無言ではあったがジロリとばかり、梶子は三十郎を睨むように見た。
「他でもありませぬあの仁で、松浦民弥というあの仁で」
「バ、馬鹿な、何をいうんだよ!」
「それそれ、それがいけませぬ」
 三十郎は意地悪い眼付きで、真正面から梶子を見詰めた。
「一度あの男の話になると、あなた様には血相変えて、弁解したり庇護ひごなさる! ……これが臭い! ……臭うござる!」
 ――で、じっと見詰めつづけた。
 梶子は何がなしにヒヤリとし、
(油断はならない)
 と瞬間思った。
 二人はしばらく沈黙した。
 床の間に置いてある香炉から、相当高価らしい香の匂いが、煙りと共にただよって来た。
 飼い猫が庭から縁へ上がり、梶子の膝へノッソリと上がり、そこで香箱を作ってしまった。
「そこで」
 と三十郎はどうしたものか、白い前歯を覗かせて、かすかに苦く凄く笑った。
「そこで拙者思いましたよ。……拙者がもしもあなた様を恋し、その恋心いよいよ募り、どうにもならなくなりました際には、邪魔な恋敵のあの仁を、まず真っ二つに叩き斬ると!」
「三十郎さん!」
 ととうとう梶子は、がまん出来ないというように、癇癪かんしゃくらしい声を立てた。
「馬鹿も休み休み云うがいいよ! ……いったい何んだいお前さんは! ……いえさいったいお前さんは、あたしの何んにあたるんだい! ……たかが附け人、用心棒だよ!」
「…………」
「云ってみりゃアお抱え人さ!」
「…………」
「家来だよ! そうともさ!」
「…………」
「それを何んだい変にネチネチと、恋したの惚れたの好きだのと! ……そのあげくにはおどしかけ、誰かを真っ二つにするとかしないとか! ……嘗めちゃアいけないんだ! ね、嘗めちゃア!」

 三十郎の眼はギロリと光った。
「附け人、用心棒、まさにさよう。……が、拙者は一面において、隠密役にもござります。……さよう、あなた様に対する目附け役で」
「そうともさ、知っているよ」
 梶子は負けずに云い返した。
「京都所司代の厭な爺さんが、松平伊豆守様への忠義顔に、お前さんという人へ隠れ扶持をくれて、あたしの所へ附け人としてよこし、伊豆守様へはもっともらしく『梶子と申す女隠密、女のことゆえ恋などに眼くらみ、お役目おろそかに致すかもしれず、かかる場合には注意されたく、それに女のことでござれば、一人腕利きの男を附けて、介添かいぞえいたす必要もあり、ねたば三十郎と申す男を、附け添わせましてござります』などと、申し入れたというじゃアないか。……はなからあたしにゃア解っていたのさ」
「でわたくしはあなた様の、目附け役にござります」
「それがどうしたというのだえ」
「眼にあまる所業ありました際には、所司代様に報告し……」
「すると所司代から伊豆守様へ、そいつが伝わるというわけだね」
「するとお気の毒ながらあなた様は……」
「首になるというわけかね」
「お命にかかわるかもしれませぬ」
「嚇しがだんだん凄くなるねえ。……が、あたしゃア大丈夫さ。眼にあまる所業なんかしていないからね」
「萩丸様誘拐の事件において、疑がわしく思われる民弥という男へ、探索の手を延ばさぬという一条、眼にあまりますでござりますな」
「ふん」
 と梶子は鼻で笑った。
「またそこへ因縁をつけるのかえ。……おかしいわねえ、少しおかしいよ」
 云い云い梶子は疑がわしそうに、三十郎の眼を覗くように見た。
「今までこんなことなかったに」
「梶子様、何んでござるな」
「お前さんという人今日が日まで、一人の人間にこだわって、いつまでもネチネチ云ったことなど、かつて一度もなかったのに、今度に限って民弥さんのことを、いやにしつこくネチネチ云うが……おかしいねえ、何かあるね」
 今度は三十郎がヒヤリとした。
(これはいけない)
 とまず思った。
(こんなことから尻尾しっぽを出し、民弥の父親の松浦勘解由を、この俺が討って取り、民弥が俺を父のかたきとして、狙っているということなど、知られようものなら一大事だ)
 こう思わざるを得なかった。
 そこでわざと高笑いをした。
「何んのこれとても恋からでござるよ。……拙者梶子様に首ったけで。そこで恋敵の民弥殿を、眼の敵にして申しますので。アッハハハ、恋は曲者、拙者もヤキが廻ってござる。……が、姓をねたばと申すほどあって、恋も怨みも人一倍、深く感ずる拙者でござれば、梶子様にも民弥殿にも、ご用心肝要でござりましょうよ。……抜けば必ず血を見る長船おさふね! この長船を抜かせぬよう、ご注意! ご用心! ご注意! ご用心!」
 ここで黒痣半面の顔を、ひん曲げて厭らしく憎々しく笑った。
「またこわもてかい! こわかアないよ」
 云ったものの梶子は厭な気がした。
(こいつは随分執念深そうだよ)
 膝の上の猫の背をさすりながら、ふっと不安を覚えさえした。


 それから二日の日が経った。
 姉小路卿は使命を終って、江戸から京都へかえることになり、柳営諸閣老に別れを告げるべく、それぞれのお屋敷へ伺候した。
 保科正之、松平伊豆守、阿部豊後守、酒井忠勝、こういう人々が幼年の将軍、家綱公を補佐していた。
 それらの人々のお屋敷へ行った。
 姉小路卿は老人ではあったが、才幹胆力二つながら勝れ、かつ素晴らしい外交家であった。
 卿が江戸表へやって来たのは、京都の公卿衆が古来の習慣の、典籍や和歌の研究ばかりに、安逸の日を送るのを廃し、ひそかに兵学や武術等を学ぼうと、鷹司たかつかさ関白家をはじめとし、多くの公卿衆がよりより集まり、その実行にとりかかったのを、京都所司代が耳に入れ、これを幕府へ通達した。
 ということを公卿衆が知って、今にも江戸の幕府方から、問いただしという形式の下に、一大弾圧が来るかもしれない。――という不安でおびえ込んだ。
 心痛したのは鷹司関白で、ひそかに親しい姉小路卿を招き、どうしたものかと相談をかけた。
「では私が私人の資格で、関東へ下向仕り、諸閣老方にお目にかかり諒解を得ることにいたしましょう」
 こう姉小路卿は関白家へ云った。
 その結果江戸へ来たのであった。
 姉小路卿の外交手腕は、諸閣老方の感情を柔げ、
「将来はそのことなきように」
 と、こういう注意があったばかりで、京都方に対して、それ以上に何ら交渉しないことになった。
 上々首尾の下に姉小路卿は、諸閣老においとまを告げたのである。
 最後にいとまごいに行ったのは、松平伊豆守のお屋敷であった。
 智恵伊豆と呼ばれ剃刀かみそりと呼ばれる、聡明達識の伊豆守は、今回の事件では姉小路卿に、もっとも好意を寄せた方で、めでたく解決のついたことを、自分のことのように喜んだ。
「まずまずゆっくりお話しなされ」
 壮麗な書院へ卿を招じ、茶菓を出し打ちくつろぎ、親友同志でもあるかのように、伊豆守は歓待した。
「何んとお礼を申してよいやら、まこと今回は伊豆守殿には、分外のご厚情にあずかりまして、かたじけない儀にござります」
 豊かな頬、広い額、おだやかな眼の姉小路卿、外交に慣れた柔かい調子で、いかにも嬉しいといったように、こう云って改めて会釈をした。
「お互いに安堵いたしましたよ」
 伊豆守は朗かに云った。
 伊豆守も老境であった。もう六十歳を過ごしていた。
 しかし元気は壮者をしのぎ、頭脳も今に明晰めいせきであった。
 それに京都の殿上人たる、姉小路卿などとは事かわり、生きた日本の政治に参与し、永らく執政にいた人だけに、鋭さは遙かに上であった。
 容貌なども引き締まっていて、切れ長の眼、薄い唇、険しいまでに高い鼻など、寸分の隙さえ見られなかった。
「いよいよ明後日ご出立かな?」
 と、何気ないように伊豆守は訊いた。
「さよう」
 と姉小路卿も何んでもないように云った。
「あの地のどなたかにご伝言でもござらば、お伝えいたすでござりましょう」
「忝けのうござる、では一つ……」
 こう伊豆守は云ってから、しばらく言葉を途切らせた。
 姉小路卿は不安になった。
(あの地の面倒な公卿の誰かに、面倒な伝言でも頼まれたら、厄介なことになろうかもしれない)
 こう思ったからであった。
 迂濶うかつに外交的辞令など云って、藪蛇やぶへびなどにならなければよいが!
 相手が寸分隙がないので、有名な評判の智恵伊豆であった。
 一言の失言にもつけ込んで来よう。
(俺は馬鹿なことを云ったかもしれない)
 姉小路卿は不安になった。
 が、伊豆守はなおしばらく、無気味の沈黙をつづけていたが、
「鷹司卿には今回のことで、ご辛労なされたと存じまするが、ご健康はいかがでござりまするかな?」
 と、ややあってまた何気ないように云った。
「いや、ご壮健にござります」
 と、姉小路卿はホッとした様で、安堵したようにそう云った。
 鷹司卿なれば自分と親友、たいがいのことなら承知してくれる、伊豆殿から難題的伝言があっても、先が卿なればまず安心と、そう思ったからであった。
 が、伊豆守はそう云ったままで、またしばらく黙っていた。
 日暮れに近い時刻であって夕陽が後苑の松の梢を、明るい色に染めていた。
「実は私にとりまして、あのお方はなつかしいお方でしてな」
 こう伊豆守はやがて云った。
「ははあさようでございますかな」
「さあ今から二十年前……まだ私が四十歳ぐらいの頃に、京都へ参って一月あまり、滞在致したことがございましたが……」
「…………」
「鷹司卿には一方ならぬ好意を、その際お寄せくださいましてな、再々お館へもお召しくだされ、家族的におつきあいくだされましたよ」
「ははあさようでございましたか」
 姉小路卿はこう云ったが、
(今より二十年前の昔といえば、まだ加判にも列していず、至極身分の軽い時代だった筈だ。……ははあそんな頃に京都へ来て、鷹司卿あたりに歓迎されたら、終生好意は忘れられないであろうよ)
 と、こんなことがふと思われた。
 また伊豆守は沈黙した。
 それは大変おだやかな、そうして何んとなく懐古的な、なつかしさを持った沈黙であった。
「その頃鷹司卿には二十歳ぐらいの、簾子れんこ様と仰せられたお妹ご様を、お持ちの筈でございましたが……」
 ややあってから伊豆守は云った。
 どういう訳かそう云った時に、この有名な老宰相の眼もとに、漠とした紅味が一瞬間潮し、眼が熱をもって輝いた。
 まるで青年に返ったようであった。
(はてな?)
 と姉小路卿は不思議に思った。
 が、何気ない穏かな声で、
「今もおいでにござりまする」
「おいで? おいでと仰せられるは?」
「お館においでにござりまする」
「ではどこへもお輿入れなく?」
「はいさようにござりまする」
「一度も、どこへも、お輿入れなく?」
「はいさようにござりまする」
「…………」
 伊豆守はまたも沈黙した。
 眼に涙が光ったようであった。

(はてな?)と思う疑がいが、また姉小路卿の心に涌いた。
(この老獪ろうかいな宰相殿と、あの清浄な簾子姫との間に、どんな関係があったのだろう?)
 で、伊豆守の口から出る、次の言葉を待ち受けた。
 伊豆守はポツポツと云った。
「その際わたくしは簾子姫と、お親しくしたのでございますよ……気高く美しい簾子姫と。……ただそれだけでございます。……さようそれだけではありまするが……簾子姫に対するわたくしの心――尊敬、崇拝、私淑、憧憬――恋! いやいやアッハッハッ……何んの何んの恋などと……で、爾来わたくしの心の中には、その後簾子姫におかせられては、どうしておられるやらと申すことばかりが……それにいたしてもご独身とは……しかも一度もお輿入れないとは……」
 伊豆守は眼を伏せた。
 その唇は痙攣けいれんし、その頬も痙攣していた。
(これは美しい感情だ)
 姉小路卿はそう思った。
(このような一代の大政治家が――鉄のような意志と神のような智恵との、権化そのもののようなこの人が、壮年の頃とは云いながら、女に対して恋などをし、しかもそれを今日が日まで、二十年後の今日が日まで、思い出として持っていたとは! ……これは美しい感情だ!)
 自分にも涙が催された。
 で、二人はまた黙した。
「これはお噂ではございますが」
 と、姉小路卿はやがて云った。
「簾子姫には幾度となく、お輿入れの話がありましてな、九条家や中山家や近衛家などから、懇望されたそうにございますが、どうしたことかどれにもこれにも、厭じゃとばかり仰せられて、お断りなされたと申しますことで。……それで今日では尼僧かのように、いつも一室にとじこもりまして、香をたき花を活け、写経をし古書籍を読み、浮世をすてたようなありさまで、お暮らしなされておられますそうで」
「ははあ」
 と伊豆守はそれを聞くと、空洞のような声でそう云った。そうしてまたも思いに沈んだ。が、ややあって云いにくそうに云った。
「実は、そこで、ご迷惑でも――充分ご迷惑とは存じますが、簾子姫様へ私より、贈物いたしたく存じますので、それをご帰京のあなた様に託し……」
「いと易いことでございます」
 姉小路卿は心を延ばし、ほんとうに安堵して頷いて云った。
「何品であれ必ず私が、お届けいたすでござりましょう」
 そうして心中では微笑して思った。
(政治上のむずかしい掛け合いに来て、その帰りには恋の贈物を、敵方の一人から託される! これは何んという朗かなことだ!)
 この時伊豆守は鈴を鳴らした。
 と、小姓があらわれた。
「いいつけた物を」
 と伊豆守は云った。
 間もなく巨大な桐の箱が、二人の近習によってにない出されて来た。
 そうしてそのふたが取り去られた時、三尺大の女男めおの人形が、籠めてあるのが見てとられた。

 この日民弥は自分の部屋にいた。
 板倉周防守様のお屋敷内の、お長屋の一構えが彼の住居で、その住居の一室に、松浦民弥はいたのである。


 虫部屋に入れて拷問し、そこから出して菊女きくめの手により、萩丸をたらして宥免ゆうめん状を書かせた。
 その宥免状を紀州に行って、直接頼宣卿に手渡して、紀州において捕えられたところの、義党の人々を助け出す。――その役目を引き受けたのが、ほかならぬ松浦民弥であった。
 民弥は近日その主人の、姉小路卿に扈従こじゅうして、京都の地へ帰って行く筈である。姉小路卿の家臣として、京都まで行くことは道中何より、これより安全のことはない。関所などでも咎められない。彼が宥免状をたずさえていようと、安全に京都までは持って行ける。京都から紀州までは間近である。で、京都へ着いてから、姉小路卿に暇を貰い、紀州へ行ってつてを求め、頼宣卿へ宥免状を渡す。――これはやり易いことである。
 そこでこの任を松浦民弥は、自分からも進んで引き受けたし、同志からも懇望されたのであった。
 明後日出発というのであるから、民弥は細々と身のまわりの物を、とりあつめて荷づくりなどした。
 と、その時小侍が来て、姉小路卿の帰館を知らせた。
 民弥は主人の部屋へ行った。
 周防守様のご本殿の、大奥の結構な一構えが、姉小路卿の住居であった。
「おお民弥か、これをご覧」
 民弥が部屋へはいって行くや、姉小路卿はこう云って、巨大な桐の箱を指さした。
「これは何んでございますか?」
 民弥は驚いてこう訊いた。
「まあ蓋をあけて見るがいいよ」
 そこで民弥は蓋をあけて見た。
 三尺大の女男めおの人形が、精巧を極めた細工の下に、活けるがように作られたのが、箱一杯に現われた。
 それはいうところの内裏雛だいりびな型で、男の方は衣冠束帯、女の方は十二単衣の、艶麗を極めたものであった。
「これはお見事、これはお美しい」
 と、民弥は思わず声をあげた。
「見事な人形でございますなア」
「さよう、まことに見事なものじゃ」
 姉小路卿は微笑しながら云った。
「作も見事だが装飾の方が、一段見事で高価じゃそうな」
「ははあさようでございますかな」
「お姫様の方のかむっていられる金冠、それは純粋の黄金で、真ん中に嵌めてある光の強い宝玉、わしにはハッキリ解らないが、イスパニアあたりの紅毛人が、向こうの国から持って来たもので、向こうの国では黄金などより、幾百倍となく珍重する、金剛石という宝石じゃそうな」
「金剛石でございましたら、私もそれの高価のことを、以前に承わりましてござります。拇指おやゆびの先ほどの大きさで、幾千両と申しますことで」
「さようさよう、そうだそうだね」
「男雛の差している太刀の柄にも、同じほどの大きさの金剛石が、嵌め込まれおりますでございますな」
「さようさよう嵌めこまれているよ」
「としますとこの雛一対の値……」
「一万両じゃということじゃ」
「一万両! それはそれは! まことに胆のつぶれるような話で」
「贈るお方がご老中筆頭、松平伊豆守信綱公で、贈られるお方が関白職の、鷹司卿のお妹君、簾子れんこ様とあってはその贈物が、一万両ぐらいしなければのう。……ところで……」
 と云って来て姉小路卿は、困ったような顔をした。
「わしは明後日江戸はたつが、ほかへこっそり廻らねばならぬ」
 この言葉は民弥にとって、全く寝耳に水であった。
「どこへおいでなのでござりますかな?」
「保養じゃ保養じゃ」
 と姉小路卿は笑った。
「こっそり伊香保の温泉へ行ってノンビリ湯治するつもりじゃ」
「それは結構にござりますなあ」
 こうは民弥は云ったものの、
(大変だ)
 と、心中では当惑した。
(頼宣卿へ手渡す密書、同志宥免の嘆願書は、一日を争う火急のものなのだ。まごまごしていて期におくれたなら、同志は刑殺されてしまう。……明後日江戸を立って京都へ帰る――ということであったればこそ、宥免状をたずさえて紀州へ行くことを、自分でも引き受けたしまた同志にも、ああねんごろに頼まれたのだ。それだのにご主人姉小路卿には、伊香保あたりへ湯治に行って、悠々滞在なさるという。ではこの俺もご主人について、その地へ行って滞在しなければならない。……これはどうしたことだろう)
 当惑せざるを得なかった。
「では私も伊香保へ参り、当然滞在いたしませねば……」
「それがさ」
 と姉小路卿は気の毒そうに、
「そういかないことになっているのさ」
「ははあ、それでは、私だけが……」
「さようさようあのお荷物を持って、やはり明後日江戸を立って、京都へ帰って貰いたいのじゃ」
(しめた)
 と民弥は喜んだ。
「帰ります段ではございません。では私が一足お先に……で、あの人形箱を私が守護し……」
「さようさよう、あれを守護して、先へ帰ってもらいたいのじゃ……そうして京都へ着くと同時に、鷹司関白家へ伺候して、『老中松平伊豆守様より、簾子姫君へ献上の品物、姉小路託され持参いたしました』と、こう云うて叮嚀ていねいにお渡ししてくれ」
「かしこまりましてござります」
「実は」
 と姉小路卿は人のよさそうな、好意的微笑を浮かべたが、
「お前も伊香保へわしと一緒に行って、湯治ぐらいしてもよいのだが……あの内裏雛の贈物、実は恋の進物でな。……伊豆守殿より簾子姫様へさ。……アッハッハッハッ、面白いのう、ああいう鹿爪しかつめらしいお方にも、そういう優しい半面があるのさ。……で、恋の贈物などというものは、なるべく早く届けた方が、頼んだお方は感謝するものだ……。そこで急いでお前を帰して、あれを簾子姫にお届けするのさ……それにさどうやらあの贈物、ただあれだけの贈物ではなくて、もっと大事な贈物が……フッハッハッハッ、恋文のようなものが、附随しているように思われるのでな……ちょいとご覧、こんなカラクリがある」
 云い云い姉小路卿は立ち上がり、人形箱の側へ行き、男雛のいている太刀の柄の、金剛石へ手をいれて、グッと強く一押しした。
 と、胸の辺りへ穴があいた。
 人形の胸の一所が、蝶つがい細工になっていて、そこへ穴があいたのである。
「ご覧、この中に何があるか」

 民弥は穴をのぞいて見た。
 書状らしいものが入れてあった。
「これはどうも見事な細工で」
 民弥は感心して心から云った。
「わしもこれには驚いたくらいさ。……なにの、人形を持って帰ってから、あんまり金剛石が綺麗だったので、何気なく手をふれて押して見たところ、ポカリと穴があいたというものさ。こっちばかりでなくそっちもこうだ」
 こう云うと気軽に姉小路卿は、女雛の方へ手を延ばし、金冠についている金剛石へ、拇指をあてて一押しした。
 と、女雛の胸の辺へ、同じような穴があいた。
「面白い細工でございますなア」
 民弥はまた感心してそう云った。
「面白い細工じゃ、巧みな細工じゃ。……がこういう巧みな細工物は、こわれやすいので閉口じゃ。……で、こいつをこわれないように、お前上手に荷づくりをし、大切に京都まで持って行っておくれ。……さあさあ人形と人形箱とを、お前の部屋へ持って行って、まず荷づくりをするがよい」
「かしこまりましてござります」
 人に手つだわせて人形を入れた箱を、民弥は自分の部屋へ持って来た。そうして民弥はその前へ坐り、会心の笑みを口もとに浮かべた。
(女雛の秘密の隠し穴の中へ、宥免状を入れて置こう)と、この品は――(この人形は、姉小路卿のお荷物として、道中安全に取りあつかわれる。開封されて調べられることなど、どの土地へ行こうと絶対にない。……なまじ俺が宥免状などを、自分の身につけて置いたらば、かえって奪われるおそれがある。盗難というおそれもあるし、それでなくとも紀州の藩士などが、秘密をさぐり知って俺を襲い、奪いとる懸念だってあるのだから)
 宥免状の隠し場所の、絶対安全の場所が出来た。――この喜びが民弥をして、口もとへ微笑させたのであった。
 彼は部屋の中を見廻して見た。
 誰も人はいなかった。
 襖をあけて四方を見た。
 誰も人はいなかった。
 で、人形箱の前へ来て坐り、おもむろに懐中へ手をさし入れ、胴巻の中をかい探り、宥免状をとり出した。
 それからそれを小さくたたみ、片手の指先で女雛の王冠の、金剛石を一押し押し、胸の辺へ出来た隠し所の中へ、そっと宥免状を送り込み、金剛石から指を放した。
 と、穴はふさがった。
 ホッとしたような心持ちで、民弥は人形をつくづくと見た。
 燭台の光に照らされて、箱の中の男女の内裏雛は――男の方も女の方も――若く美しく生けるがように、笑みを含んで静もってい、そのような大切な秘密の書状など、胎内に蔵していようなどとは誰にも感づかれそうにも思われなかった。
(これでよし、安心だ)
 箱へ蓋をして床脇へ置き、民弥はそれから外出衣に着かえた。
 ――これらの事情を鵜の丸兵庫へ、一応話して置く必要があると、兵庫の住居へ出かけて行こうと、こう思ったからである。
 民弥はお屋敷から外へ出た。そうして兵庫の住居の方へ歩いた。
 と、一人の覆面をした武士が、その後をひそかにつけ出した。


 姉小路卿は自分の居間で、一人で長閑のどかそうに茶をのんでいた。
 厄介だった柳営との交渉、それが首尾よくかたづいて明日から暢気のんきな身の上になれる。湯治場へ行って骨休めが出来る。
 このことがひどく嬉しいのであった。
(さて今夜もこれで休むか)
 こんなことを思いながら、なお長閑に茶をのんでいた。
 と、小侍がはいって来た。
「ご来客にござりまする」
「ナニ来客? こんな夜分に? ……で、どのようなお方かな?」
「ご婦人の方にござります」
「女? ほほう、それはそれは。……が、何というご婦人かな?」
「梶子様と申されましてござります」
「おお梶子! さようかさようか、存じております、ではお通しを」
 小侍が立ち去ってしばらく経つと、その小侍に案内されて、梶子がしとやかにはいって来た。
 高禄の武家の奥方のような、威も品もある装いであった。
 坐るとうやうやしく一礼し、
「久々にてお目通り仕りまする。……当地へご下向と承わりまして、一度お目もじ仕りたく、参上いたしました次第にござります。……周防守様よりも常日頃から、ご贔屓ひいきお受けいたしおりますので……かたがた今夜、このような時刻に。……ホホ、ホ」
 とあでやかに笑い、
「ご機嫌よろしいご様子を拝し、梶子うれしく存じ上げまする」
 ここでまた梶子はあでやかに笑った。
「ようこそ、梶子殿、ようこそ参られた」
 姉小路卿もなつかしそうに云って、
「ゆっくりなされ、ゆっくり話そう。……それにしても相変わらず美しいのう」
 二人は京都での知己であった。
 というのは梶子はいうところのスパイ――女細作であるところから、京都にいるうち姉小路卿家や、鷹司関白家や所司代邸へ、時々伺候したからであった。
「相変わらずのお口のうまさ、このお婆アさんをとらまえて、美しいなどとホ、ホ、ホ」
 堂々たる公卿の外交家を相手に、冗談めいた口を平然と利く。――ここがこの女の偉いところであり、そうしてこの女の背景に、大きな力のある証拠でもあった。
「その若さ美しさで、お婆アさんなどとは面妖な話、そういう美しいお婆アさんなら、このお爺さん大満足、アッハッハッ、ご用に立ちましょうわい」
 公卿とも思われぬ平民的口調で、姉小路卿も受け答えした。
 ここがこの公卿の偉いところであったが、一方卿は梶子という女が、幕府の細作だということを充分知っているところから、わざと心を打ちあけ顔に、気軽そうに応対するのであって、いわば狐と狸との、化け比べのようなものなのであった。
「ずっとご滞在でござりまするか?」
 ややあって梶子は何気なげに訊いた。
「いや明後日出発しますじゃ」
「明後日? まあまあ、それは急な。……で、ずっと京都のお館へ?」
「ところがよそへ立ち寄りまする。……骨休めにな、湯治に行きます」

「骨休めのお湯治? それはそれは、結構、おうらやましく存じまする。……で、ご同勢お引き連れで?」
「同勢といってもほんの少数。今回は忍びでありましたからな。……その同勢も追い返し、一人二人連れて参りますじゃ」
「あのう……たしか……ご同勢の中に……松浦様もおいででございましたわね」
 とうとう梶子は云い出してしまった。
 今夜彼女がここへ来たのは、何も老いたる姉小路卿などに興味を持って来たのではなく、恋している民弥の顔が見たい。――そう思って来たのであった。
 それに、もう一つ、萩丸事件に――萩丸が誘拐された例の事件に、民弥がはたして関係しているかどうか? ……このことも一応探って見たい。……関係していたら困ったことだが、でも一応は探って見なければと、こうも思って来たのでもあった。
「民弥でござるか、民弥もおります。……が彼は明後日、恋の進物を警護して、京の屋敷へ帰りますじゃ」
「恋の進物? 恋の進物とは?」
(しまった)
 と公卿の老外交家は、自分の失言に後悔した。
「いやナニ、人形じゃ、女男めおの人形じゃ」
「女男の人形? それはお優しい? ……どなた様からどなた様への?」
(しまった)
 と姉小路卿はまた思ったが、
「伊豆守殿から簾子れんこ姫へな」
「伊豆守様? 松平伊豆守様?」
「さよう」
 と云ったが姉小路卿は、いよいよしまったと後悔した。というのは梶子というこの女を、女細作として使っているのが、松平伊豆守だということを、うすうすながらも知っていたので、その梶子には主人ともいうべき、伊豆守よりの進物を、恋の進物だなどと不謹慎に、つい失言してしまったことが、ひどく後悔されるのであった。
 梶子は用捨しなかった。
(何かしらこれは臭い!)
 そんなように感じられた。
 で、彼女一流の、女細作らしい執拗さと、根強さとをもってグングン訊いた。
「伊豆守様とありましては、以前よりわたしをご贔屓くだされ、何彼とお心添えくだされまする殿様、そのお殿様の進物とあっては――恋の進物とありましては、ホ、ホ、ホ、聞きずてになりませぬ。……どなた様への進物なのでございましょう? ……簾子姫とおっしゃったよう存じまするが?」
 ここでジロリと姉小路卿を見た。
 卿はすっかりステバチになった。
(かまうものか、ブチマケてしまえ。なまじこういう女には、隠しだててはよくあるまい)
 で、平然とした口調で云った。
「関白鷹司卿のお妹君、簾子姫様へでござりますじゃ」
「まあまあまあ、あのお姫様へ! ……簾子姫君様でござりましたら、このわたしもなみなみならず、お目かけくだされましてござりまする。……あのお方へ伊豆守様より恋の進物?」
 またジロリと姉小路卿を見た。

(こいつは苦手だ)
 と姉小路卿は思った。
かぶとを脱がなければいけないらしい)
 そこで剽軽ひょうきんに額のあたりを、姉小路卿はポンと打ち、
「梶子殿あやまる、わしの失言じゃ! そうそういじめるものではない。――恋の進物などと申したこと、わしの失言、あやまるあやまる!」
 ここでまたポンと額を叩いた。
 梶子もこれには吹き出してしまった。
 が、なかなか妥協しようとはしないで、
「いえいえ仮りにも姉小路様、京都にお公卿様は多うございましても、随一の智恵者と立てられまするお方が……」
「千慮の一失! 千慮の一失!」
「失言などと、何んの何んの」
「それがやっぱり失言での」
「などと卑怯にお逃げなされても……」
「逃げますな、相手が悪い」
「え?」
「ホイ、これは、また失言!」
 またもやポンと額を叩き、
「ざっとこの辺でご勘弁なされ。……でないとわしの禿げた額が、減って行きます、窪んで行きます」
 また梶子は笑い出してしまった。
「そうまでおっしゃるならこの梶子、特別をもちまして姉小路様の失言、お許しすることにいたしましょうが、それに致しましてもご進物の品が人形――内裏雛とはお優しい。……ほんとにこれは恋の進物……」
「いけない、梶子殿、それに触れては……アッハッハッ、恋にふれては」
「ホッホッホッ、ようございます。……でも伊豆守様と簾子姫君様とが……」
「それも困る、もうお止めなされ」
「はいはいやめるでござりましょうよ」
 こう云って来て梶子の胸に、一つの計画が突然浮かんだ。
「姉小路様」
 と真面目に云った。
「…………」
 姉小路卿は眼をみはった。
「いっそ妾がその進物を、京都まで持参いたしましょう」
「ナニお前様が? 人形箱を?」
「持参いたすでござります」
「あなたも京都へおいでかな?」
「はい明後日参ります」
「…………」
「これが太刀とかよろいとか、そういう進物でございましたら、お武家様が警護して、お送りいたすももっともながら、やさしい内裏雛の恋の進物……いえいえ恋でなかろうと、お雛様の進物でありますのなら、女がお守りしてお送りするが至当……わたし、持参いたしましょうよ」
「さあ……そいつは……どうであろうかな……」
「わたくしをご信用あそばさぬそうな」
「とんでもない話、そうではないが」
「ではなぜでございますか?」
なぜという訳も別にないが。……わしが伊豆守殿よりお預かりした品を……」
「その伊豆守様は梶子の身にとり、申してみますればご主人様のようなもの。家来がご主人様のご進物を。……何んの理不尽でござりましょうぞ」

(どうしたものかな?)
 と姉小路卿は思った。
 しかしかえって考えようによっては、好都合のようにも思われた。
(民弥にしてからがこわれやすい品物、人形などをたずさえて、長い道中を京都まで行くこと、迷惑であるに相違ない。破損でもしたら責任問題、伊豆守殿に申し訳ない。梶子という女は伊豆守殿とは、特別の関係にある女だ。この女が品物を送って行って、よし途中で間違いがあっても、何んとかうまくとりさばくであろう。……それにこの女のいうとおり、人形――雛などというような品物は、男手にかけるより女手にかけて、優しくあつかった方がいいらしい)
「梶子殿、これはもっとも」
 と、とうとう姉小路卿はそう云った。
「あなたに送っていただきましょうよ」
「とうとうご納得あそばしたそうな」
 梶子は満足して嬉しそうに云った。
「わたくしお送りいたしましょうとも。……で、その人形はただ今どこに?」
「民弥の部屋にありますじゃ」
「では民弥様のお部屋へ参って。……」
「ところが民弥は留守でしてな」
「留守?」
「さっき方出かけましたよ。……友達に逢うとか云いましてな」
「…………」
 梶子は少なからず失望した。
 その人と逢いたいばっかりに、ここへやって来た彼女だったので。
 が、留守のものは仕方がなかった。
「それではお人形はわたしの屋敷へ、すぐにこれからどなたかにになわせ……」
「よろしゅうござる、運ばせましょう」
 間もなく梶子と人形箱とをかついだ、二人ばかりの人間が、周防守様のお屋敷を出た。

 覆面をした一人の武士に、後をつけられているともしらず、松浦民弥は鵜の丸兵庫の、本所割下水の住居の方へ、心せきながら歩みを運んだ。曇天ではあったが雲切れがして、時々星が光をこぼした。
 やがて兵庫の住居まで来た。
 と、つけて来た武士であったが、民弥がその家へはいるのを見ると、ひそかに身を返し露路を巡り、裏庭の方へ歩いて行った。
 それはねたば三十郎であった。
 三十郎の姿はそれから間もなく、兵庫の家の裏庭にある、八ツ手の茂みの暗い蔭に、巨大ながまのようにかしこまって見えた。
 夜になっても暑いからであろう、兵庫の家では雨戸もとざさず、裏庭に向けて障子さえも開け、燈火の光を射し出させていた。
 座敷には人が三人いた。
 兵庫と民弥と菊女きくめとであった。
 三十郎は思わずうなった。
 萩丸を浅草で誘拐した女を、発見することが出来たからである。
 それにもう一つ入谷田圃で、自分と刃を交えた武士を、そこに見ることが出来たからである。
(そうか、みんな徒党だったのか)
 三十郎は思わず唸った。
(やはりつけて来ていいことをした)
 ――で、話を聞き澄ました。


 距離がはなれているがために、三人の話はききにくかった。
 さりとてこれ以上接近しては、こっちが見あらわされる恐れがある。――こう思って三十郎はただひたすら、聞き耳を立てて静まっていた。
 彼が民弥をつけて来たのは、萩丸誘拐の今度の事件に、彼がたしかに関係があると、そう思われてならなかったので、彼の動静に留意しよう、彼の行為を探り知ろう、それには彼の住居附近に、立ち廻ってみる必要があると、こう思ったので彼の住居の、板倉周防守様の下屋敷附近に、今夜やって来て逍遙しょうようしていたところ、民弥が屋敷からあらわれた。
 で、つけて来たのであった。
 八ツ手の葉蔭にかくれながら、三十郎は耳を澄ましている。
 三人の話はヒソヒソとしていて、聞きとることが困難であった。
 それに指の先で畳の上へ、文字らしいものを書いたりして、ヒソヒソ話をするのでもあった。
 と、突然民弥の声が、こうハッキリ云ったのが聞こえた。
「……では鵜の丸兵庫殿にも、明後日江戸をお立ちになり、紀州をさしておいでになる?」
「さよう」
 と相手の武士の声が、それに答えて云うのが聞こえた。
「同志五十嵐右内殿を……紀伊殿江戸屋敷の手の者が警護し、明後日紀州へ護送するとのこと。……されば拙者後をつけ、途中において奪い取る所存……」
わたしもご一緒に参りますことに、話ととのいましてござります」
 と、例の娘の云う声も聞こえた。
「ははあ、それでは菊女きくめ殿も」
 民弥の云う声もきこえて来た。
「ただ――一緒とはいうものの、菊女殿には例のおとりを……萩丸殿をお守りして……介抱してと云った方がよかろう……紀州へ行くという次第でござる」
「萩丸殿を紀州へ送る?」
 民弥の声は驚いていた。
「それはいったいどういう事情で?」
「囮としてじゃ! ……こういう事情で……」
 また三人は畳の上へ、指で文字を書きはじめた。
 三十郎はニヤリとした。
 ――それだけの会話を聞いたことによって、彼三十郎の知ったことといえば、入谷田圃で太刀を合わせた武士が、鵜の丸兵庫という武士だということと、萩丸を誘拐した美しい娘が、菊女という女だということと、明後日兵庫が江戸を立って、紀州に向かうということと、その目的が同志の一人を、奪い取ることだということと、そうして菊女という美しい娘が、萩丸君を介抱しながら、これも明後日江戸を立って、紀州へ向かうということと――大略こういうことであった。
(民弥をここまでつけて来て、何んという素晴らしい収穫を得たか!)
 三十郎はゾクゾクした。
(図太くもっと忍んでいて、一切立ち聞きしてやろう)
 こう思って彼はなおしばらく、八ツ手の葉蔭にかくれていた。
 民弥の声が聞こえて来た。
「申し上げましたとおり江戸を立って、私も明後日京へ参ります。……と、我々三人の者が同日に旅へ出るという次第。……では旅の間何んとかいたして、互いに連絡とりたいもので。……」
「さようさようそれがよろしい」
 鵜の丸兵庫がこう云った。
「では旅籠はたごにつきました時、こういたそうではございませんか」
 菊女がこういうように云ったので、三十郎は思わず乗り出した。

 乗り出したとたんに八ツ手の葉の先が上唇と鼻の間に触れた。
「むっ」
 こらえたが駄目であった。
 はげしいくしゃみが突発した。
(しまった!)
 と思ったその時には、もう兵庫が座敷から縁、縁から庭、庭から裏木戸――裏木戸の前に立っていた。
「松浦氏、曲者でござるぞ! 曲者庭に忍び入り、我らの話を盗み聞きしてござるぞ! ……八ツ手の葉蔭が怪しい怪しい! ……貴殿そっちからお攻めくだされ!」
「心得てござる!」
 と云った時には、民弥も庭へ飛び下りていた。
「拙者こなたより攻めるでござろう、鵜の丸殿にはそなたより!」
 民弥は抜き身を中段につけ、用心しながらソロリソロリと、八ツ手の方へすり足して進んだ。
「よろしい拙者こなたより参る」
 云い云い兵庫も抜いた刀を、これも中段にひっ構え、これもすり足してソロソロと進んだ。
 菊女も短刀を引き抜いて、縁に立って暗い庭を、首をのばして窺った。
 猟り出されて窮鼠となり、座敷などへもしも飛び込んで来たら、仕止めてやろうと決心し、そう構えているのであった。
 三十郎は平蜘蛛ひらぐものように、ピッタリ地面へ身を伏せていた。
(あぶない、危険だ、手ごわい相手だ!)
 鵜の丸兵庫の剣技については、入谷田圃で試験ずみであった。自分と伯仲の間にあった。ただ自分に背後斬りという、特殊のワザがあったため、悠々あの時は引き上げ得られたが、二度とは同じ相手に対して、使うことの出来ない悪剣であった。
 使っても無効の悪剣であった。
 民弥の技倆は未知であったが、相当の使い手と思わなければならない。菊女という女はたかが女、とはいえ今見る縁の上での、身の構えから推察すれば、女としては水準以上の、これも使い手と見なければならない。
 要するに相当の使い手ばかりを、三人向こうへ廻したのである。
(あぶない)
 と三十郎はつくづく思った。
(が、どうともしてがれねばならぬ)
 これも引き抜いた刀を構え、なおも地面にひれ伏していた。
 八ツ手の葉が座敷からの燈の光をさえぎり、そこはとりわけ暗かった。
 そこに身を伏せている三十郎であった。
 兵庫にも民弥にも見えないらしい。
 とはいえ確かにそこにいると、見当をつけてソロリソロリと、今二人は寄せて来る。
 ついには発見をされなければならない。
(どうしたものか?)
 と三十郎は思った。
(民弥は俺を父の敵として、平素から探し狙っている男だ。……俺にしてからがこの男は、どうでも討って取らなければならない! ……ヨーシ、それではこいつを斬って!)
 ――そうして、一方の血路を開き、そこから遁がれ逃げてやろう!
 ここへ三十郎は、心を集めた。
 で、地面へ腹這ったまま、ソロリソロリジリジリと、民弥の方へ姿勢を向け、地面へ敷いて延ばしていた刀を、手もとへ引き寄せ脇構えとし、踏み込んで来たら掬い斬りに、腰のつがいをぶっ放そうと、息を呑んで待ち構えた。
 その間も正面からは民弥が近づき、背後からは兵庫が寄せて来た。
「いた――ッ」
 と突然民弥が叫んだ。


 瞬間三十郎は突っ立った。
「むッ」
 一刀!
 横に払った!
「おッ」
 見事!
 民弥は飛んだ。
 そこへ踏み込んだ鵜の丸兵庫、
「何奴!」
 背後からガーッと一刀!
 何んの!
 三十郎!
 うしろざまに払った。
 その神妙剣!
 感付いた兵庫、
「やアおのれは! 入谷田圃での……」
 サーッと引いたのへ付け入った三十郎、烈風のように斬り込んだ。
 太刀音!
 火花!
 二合した!
「肩を!」
 と背後から民弥は廻った。
 が、兵庫が声をかけた。
「あぶない、松浦氏、背後うしろからはあぶない!」
 ハッと退いた間一髪に、疾風迅雷! うしろ斬り!
「あッ」
 民弥だ!
 斬られたか?
 いや助かった助かった!
 背後からはあぶないと云われたとたんに、さてはいつぞや鵜の丸殿に、話しに聞いた入谷田圃の、うしろ斬りの悪剣の持ち主か! ……で、横斜めに退いたからで、辛うじて難をまぬかれた。
 が、その二人が相手を知って、さすがにギョッとした隙を狙い、三十郎は脱兎の如く、裏木戸の方へ走り出した。
「エイ」
 菊女が声をかけた。
 夜空を切ってひらめいたは、三十郎を目がけて菊女の投げた、短刀の刃に他ならなかった。
 振りかえりざま、
 バッ!
 叩き落とした。
 と、三十郎の覆面が、その一刹那地へ落ちた。
「やア汝は刃三十郎!」
 叫んだは松浦民弥であった。
「父の敵! 汝! おのれ――ッ」
 今は夢中、復讐の一念、危険も忘れて斬り込んだ。
 鏘然しょうぜん
 一合!
 飛び違った。
 父のかたきを討つのであった。
 民弥の意気は天をき、鉄壁をも貫く勢いであったが、三十郎はこれに反し、敵を討たれるという弱味があって、太刀先がにわかに鈍って来た。
「松浦氏、こいつが敵か?」
 以前から民弥が父の敵として、刃三十郎という浪人者を、探しているということを、鵜の丸兵庫は聞いていた。
 そこで驚いてそう訊いたのであった。
「さようでござるさようでござる! この人間こそ刃三十郎と申し、拙者の父を討ち取ったる悪漢! 尋ねあぐんでおりましたが、先方より飛び込んで参りましたは、まことに天の与うる幸い!」
「欣快! しからば拙者は助太刀!」
わたしわたしもお助太刀を!」
 幾腰となく用意してある刀を、手早く押入れより引き出すや、菊女は抜きそばめて庭へ飛び下りた。
 取りかこまれた三十郎、ほとんど進退きわまったが、そこは図太い悪侍であった、がばとばかりに大地に仆れ、
「斬れ! 殺せ! さあさあ斬れ!」

 この命の瀬戸際にあたって、大地へ仆れてふんぞりかえり、斬れ殺せと怒鳴っているのである。
 大胆不敵の三十郎の態度に、さすがの兵庫も民弥も菊女も、気を呑まれて茫然とした。
 得たりとばかりに三十郎は怒鳴った。
「さあ斬れ殺せなぶり殺しにしろ! こうやって仆れている以上、俺は死骸と同じようなものだ! 死骸を斬ったらさぞ名誉、――名誉の敵討ちとなるだろうよ! さあ殺せ殺してくれ! ……いかにも俺は刃三十郎だ! 松浦氏の父親を殺した、その刃三十郎だ! そうして俺はいつぞやの晩、入谷田圃でそこにいられる鵜の丸氏とやらと太刀を合わせた、うしろ斬りの使い手だ! ……だからよ貴殿方ご両人にとっては、拙者は憎い敵の筈じゃ! だから斬れサアサア斬れ! ……が死骸と同様の俺を、なますサイノメに斬ったところで、そうして息の根止めたところで、世間では笑ってクサシこそすれ、名誉だといって褒めはしまい! ……どうでもいいサア斬ってくれ! ……俺はこうやっていつまでも寝ている。……だからよ縦からでも横からでも、頭からでも足からでも、思う存分に斬ってくれ!」
「黙れ! こいつ! 卑怯者!」
 民弥は歯を※(「口+它」、第3水準1-14-88)しったした。
「立て! そうして刀を持て! ……そうして尋常に勝負をしろ! ……親の敵、なんで遁がそう! ……が、貴様も云うとおり、死骸さながらのそういうおのれを、何んで討とう討たれるものか……立て立て立て! かかって来い!」
 油断なく刀を中段に構え、足ずりをし、足ずりをした。
「これ、その前に聞くことがある!」
 これも、刀を構えたままで、兵庫は憎さげにののしるように云った。
「入谷田圃で何んの意趣あって、拙者に刃向かい大事の場合に、憎さも憎し邪魔だてして、我らが同志の五十嵐右内氏を、おめおめ紀州藩に捕えさせたぞ? 云え、聞こう、意趣を聞こう!」
「ないわえ、意趣など、意趣などないわえ!」
 依然として寝たままで三十郎は、依然としての刀を抛り出したままで、小面憎く吼えるように云った。
「なんの意趣など半カケもあろうか! 鵜の丸殿とやらに逢ったのも、あの時が初じゃ、恩怨ではない! ……だからよ意趣などある筈はないわえ! ……が、鵜の丸兵庫殿とやら、俺はあの時こう思ったのじゃ。……一方は紀州の藩士で多勢、それが貴殿と五十嵐氏とやらに――その五十嵐とか仰せられる仁とも、拙者まったく未知でござってな、今貴殿があの武士のことを、五十嵐右内と仰せられたゆえ、ハハアそういう名の武士であったかと、はじめて知ったというくらいのものじゃ。……がまあそんなことはどうでもよい、多勢の紀州武士が二人の浪人ずれに、いいかげん他愛なくあしらわれている。しかも一人の浪人と来ては――鵜の丸兵庫殿、貴殿のことでござるが、貴殿の神妙の剣技と来ては、まこと素晴らしいものでござった。……そこで拙者しゃくにさわり! ……さようさよう拙者という男は、そんなことにムラムラする人間でしてな。……というのも本来が善人だからで。……で、しゃしゃり出て貴殿に向かい、刀をまじえたというまででござるよ。……いやまだまだもう一つある。さよう理由がもう一つある。……それとて拙者が善人で、かつ正義の士であったからで。……で、そのもう一つの理由というやつは……」

 ヤケかそれとも策略あってか、三十郎は大地へ寝たまま、ペラペラとへらず口を叩くのであった。
「もう一つの理由というやつは、貴殿方が何やら悪事を企て、逃げかくれしているやつを、紀州藩士が追っかけ廻し、その結果あの時目つけ出し、捕えようとしているらしいと、そう思われたことでござって、拙者はあの際好きな女が、吉原に一人ありましたのでな、そこへ参ろうと差しかかったまでの、どっちにも恩怨ない身ではござったが、悪事を企てる人間へは、どうにも味方することは出来ぬ。――というのは拙者が善人で、かつ正義の士だからで。アッハッハッまことにさよう、拙者は正義の士でござるよ。……そこで紀州の藩士に味方し、貴殿に刃向かったというわけで。……どうやら拙者が刃向かっている間に、五十嵐氏とやらは紀州藩士に、とらえられたようでござりますなあ」
 喋舌りながら八方へ眼をくばり、どうぞして一方の血路をひらき、逃げに行こうと三十郎は、工夫をこらしているのであった。
(よし)
 と三十郎は心で思った。
(しめた! あそこから逃げられる!)
 燈火のついている座敷の方へ、ジロリとばかり視線を送り、それからその座敷へ背中を向け、自分の横手に刀を構え、女だてらに狙っている菊女の、立ち姿へジッと眼をつけた。
「そこでもう一つ訊くことがある」
 と、鵜の丸兵庫はおもむろに云った。
「なんと思ってこの家へ忍び、あのようなところに隠れていたのじゃ?」
「それは……」
 と云ったが三十郎は、ヒヤリとせざるを得なかった。
 が、すぐにもっともらしく云った。
「途中において松浦氏を――拙者を親の敵と狙う、松浦氏を見かけましたのでな、生かしておいては何かと邪魔、いっそ返り討ちにかけてやろうと……」
「極悪人め! こいつがこいつが!」
「アッハッハッ、善人で。ナーニ拙者は善人で」
「これ三十郎正直に申せ、我らの話、盗み聞いたであろう」
「え?」
 とまたもヒヤリとしたが、さあらぬ様子で、もっともらしく、
「聞こう聞こうとあせったは確かで。が、距離が少しく遠く、それに貴殿方はヒソヒソ声、それに指などで畳の上へ字をかき、しめやかに話しておられましたのでな、とんと耳にははいりませんでしたよ」
「そうか」
 と兵庫は安心したように云ったが、
「聞こうと聞くまいとどうでもよい。どうせ即刻討って取るおのれだ! ……松浦氏」
 と眼で合図し、
「こいつ悪智恵たくましく、このように大地に伏し仆れ、死骸同様じゃなどとほざいている以上、なかなか立ち上がりはいたすまい。……死骸でも構わぬ討ってお取りなされ。……といっても貴殿には気持ち悪うござろう、よろしい拙者一太刀加える! いかな卑怯ひきょうなこやつでも、立ち上がって刀取るでござろう、そこを斬り伏せ復讐なされ。……参るぞーッ」
 と兵庫は刀をふり冠った。
 とたんに、
「蛇だ――ッ、まむしだ――ッ」
 と、三十郎が怒号した。

「あれ――ッ」
 とこんな場合でも、蛇だ蝮だと叫ばれては、女の身としては気味悪く、菊女は思わずそう叫び、思わず背後へ飛びのいた。
 得たりとばかり飛び上がったのは、刀を拾いあげた三十郎で、さながら脱兎の勢いをもって、庭を突っ切り座敷へ飛び上がり、燭台を蹴仆し暗黒とし、座敷を縦断して表戸口へ走り、そこを駈け抜け露路を出で、そのまま姿をくらましてしまった。
 その素早さ眼にもとまらず、兵庫も民弥も菊女も茫然と、たたずんで見送ったばかりであった。

 この夜おそく民弥は板倉様のお長屋――自分の住居へ帰って来た。
 せっかくめぐり逢った親の敵の、三十郎を討ち損じ、無念残念に思ったが、どうすることも出来なかったので、住居へ帰って来たのであった。
 自分の部屋へはいって見た。
 と、どうだろう人形箱がない。
「や!」
 とばかり驚き顔色を変えたが、なお押入れや戸棚などを探した。
 ない!
 人形箱はどこにもない。
 萩丸の書いた宥免ゆうめん状、紀州表で捕えられた、同志十数人の生死にかかわる、大切至極の宥免状を、隠して置いた人形の箱!
 それがないのだ!
 それがないのだ!
 民弥は卒倒しようとした。
(もしや使僕こものなどが気を利かせすぎて、あらぬ所へ仕舞ったのかもしれない)
 こう思って使僕を呼んだ。
「ああその箱でございましたら、姉小路のお殿様が、人をして担がせて先刻どこぞへ、運ばせやりましてござります」
 と、こう忠実な使僕は云った。
「ナニ姉小路様が人をしてどこぞへ?」
 いよいよ民弥は仰天し、すぐに姉小路卿のお部屋へ行った。
 卿はまだ寝てはいなかった。
「人形箱なら心配せんでもよい」
 と、姉小路卿は長閑のどかそうに云った。
「お前も知っている梶子という婦人、あれが先刻やって来て、そういう人形でありましたら、わたしも明後日京へ参りますゆえ、わたしが持って参りましょうとな、大変親切に云ってくれたので、ではお願いいたしますとな、早速頼んでそういうことにし、梶子殿の家へ運ばせてやった。……お前も助かったというものさ、あんなこわれ易い品物などを、長の道中送って行くこと、随分迷惑なことだのに、うまくそいつが遁がれられたのだから。……ええとそこでお前としては、明後日京都へ帰ってもよければ、わしと一緒に伊香保へ行って、ゆっくり湯治をしてもよい。どうするな、伊香保へ行くか?」
「…………」
 民弥には返辞さえ出来なかった。
 冷や汗が全身に湧いて流れ、胴顫どうぶるいがガタガタした。
「どうした大変顔色が悪いが」
 と、姉小路卿は不思議そうに云った。
「は、にわかに腹痛が……」
「それはいけない、ではお休み。……伊香保へ行くか京都へ帰るか、明日中にゆっくり考えるとよい」
「…………」
 民弥は自分の部屋へ帰って来た。


 その翌日の午前であった。
「あのうお客様でございます」
 と、小間使いのお梅が手をついて云った。
 ここは梶子の家なのである。
 今日は朝寝の梶子であった。
 やっとこさ今しがた床から起き、ざっと顔を洗ったばかりで、まだ朝化粧も施していず、寝巻のままで縁へ出て、そこに釣るしてある金糸鳥の籠を覗き、あっちへ飛んではパチパチと啼き、こっちへ飛んではピ――チクと啼く、ばかに元気のよい小鳥の動作を、微笑しながら見ていた時だった。
「こんなに早く、うるさいねえ、いったい誰が来たんだい」
 不機嫌そうに梶子は云った。
「はじめてのお方でございます」
「なおのことそんなもの困るじゃアないか。いないと云って帰しておしまい」
「かしこまりましてございます」
「まあお待ちどんな人だえ!」
「お武家様でございます」
「お武家様、誰だろう」
「若いお武家様でございます」
「若いお武家様、へえ、そうかい」
「好い男でございます」
「ばか、いやだねえ、チビのくせに、もう色気がついているんだよ」
「ホッホッホッ、まあ奥様」
「気味の悪い笑い方するものじゃアないよ」
「ホッホッホッホッ、まあ奥様」
「お名前何んとかおっしゃったかい?」
「松浦民弥とおっしゃいました」
「ナ、何んだって!」
 と飛び上がった。
「あれ、ご免、ご免あそばして!」
「ナ、何んだって? 何んておっしゃったって?」
「マ、松浦、タ、民弥様!」
「馬鹿!」
 ギュッとお梅の胸もとを、梶子は掴んで締め上げた。
「ヒ――ッ、ご免! ご免あそばしませ!」
「ナ、なぜ早く! ナ、なぜ早く!」
「ヒ――ッ、奥様! 追い返しますほどに!」
「ば、馬鹿馬鹿! そうならそうと、ノッケにお名前云えばいいに! ……こいつがこいつが! ホッホッホッ! ……急いで飛んでってご丁寧に、ご案内してお茶やお煙草盆を……」
「それじゃア奥様、お上げしますので」
「あたりまえだよ、何をマゴマゴ! ……まだマゴマゴしているのかい!」
「ヒーッ」
 とお梅はころがって走った。
「さあ大変、お化粧がしてない! ……お化粧をして、お召しかえをして、……それにしてもマアマア民弥様が……夢のようだよ、マアマアマア……お化粧をして、お召しかえをして、綺麗になって出て行って……それから、ホッホッホッ……よういらせられました! ……こう云ってお化粧をして……アレマアわたしどうかしているよ! ホッホッホッ!」
 お化粧部屋をさして、梶子は一散にころがり込んだ。

 民弥は座敷に坐っていた。
 周文の大幅を床にかけ、宗丹筆の六曲屏風を、部屋の一方へ立てまわした、随分贅沢で華やかな部屋を、押し据えた眼で見廻しながら、民弥は心をイライラさせていた。
(梶子殿と逢ってかけ合って、人形を当方へ取り返さなければおかぬ!)
 で緊張しているのであった。
 ずいぶん長く待たせた後で、梶子は部屋へはいって来た。
 一時も早く逢いたいのであったが、お化粧とお召しかえに時を費やし、そう長く待たせたのであった。
 長くお化粧をしただけに、梶子の美しさは見事なもので、見とれてウットリするほどであった。
 大旗本などのお部屋様――上品ではあるが色気もたっぷり……と云ったような着つけをしていた。
「まあまあこれは松浦様、どうした風の吹きまわしか、こんな妾のところへなど。……でもようこそ……ほんにようこそ」
 坐りもしないうちからこう云って、どんな鉄腸の男であろうと、トロリとさせるような妖艶の笑いを、惜し気もなく豊麗な顔に湛え、ムーッとするような凄い色気を、腰のあたりのうねりに見せ、さてそれからヤンワリと、民弥に近々と寄って坐った。
 そうして民弥が時候の挨拶から、来訪した理由を真面目の調子で、少しばかりコワ張って云い出したのを抑え、
「まあよいではございませんか。……平几帳面ひらきちょうめんのご挨拶は、知らない仲じゃアあるまいし、抜きといたそうではございませんか。……ホッホッホッいつお目にかかっても、あなた様にはお美しく……いいえ冴え冴えとしたご様子で、結構様にございます」
 ――ここでグラリと肉附きのよい躯を、左の方へ蜒らせて、腰のつがいの軟かさを示し、眼を細くしてウットリかんと、民弥の顔に見入りかけたが、ハッと気がついて少し赧くなり、
「今日もどうやら蒸し暑く、厭なお天気でございますねえ」
 と、自分の方から気候の話をテレかくしに云い出した。
「梶子殿」
 と民弥は云った。
 民弥の心持ちはそれどころではなく、悶えに悶えているのであった。
 捕えられた同志の命にかかわる、大切至極の宥免状を入れた、女男めおの人形を正体不明の、梶子などという女に横取りされた。
 もしも梶子にその宥免状の、重大な秘密を知られたなら、そうして宥免状の隠し場所を知られ、その宥免状を横取りされたら――相手が名に負う梶子だけに、何をやられるかわからない。
(もう宥免状の隠し場所が知れ、横取りされているかもしれない?)
 このことを思えば身も心も、戦慄せんりつを感ぜざるを得なかった。
「梶子殿、本日拙者が……」
「はいはい何、なんでございますか……ほんとにようこそおいでくださいました。……ほんとに今日は何んというよい日で……どうぞごゆっくりお話しくださいまして……ホッホッホッ、もうもうわたし、どうでも夜までおとどめして、帰すことではございません。……それにいたしましても何んて情なし――情なしのあなた様でございますことか、……あちこちで絶えずお目にかかり、充分お親しい仲ですのに、今日が日までお越しくだされず……でもマア今日は、ほんとにようこそ……ですから今日こそは日頃の思いを、どうでも妾は……あれあれマア……ホッホッホッ、厭なお婆さんで……さぞまア松浦様こんな妾など、厭アなお婆さんとおぼしめすでしょうねえ」
 ――まんざらそうでもござんすまいと、そう云いたげに今度は梶子は、グラリと躰を右の方へうねらせ、ムーッとするような濃厚な色気をまた腰のつがいに見せた。

「梶子殿!」
 と語気を強め、いよいよ民弥はイライラしながら云った。
 彼には梶子の不真面目とも見える、ひどく色っぽい誘惑的態度が、がまん出来なくなって来た。
 もちろん彼は梶子その人の、美貌や才気や胆力やに、好奇心を持ち感心もしてい、かなり好きでもあるのであったが、しかし現在の彼の心は、そうして彼の境遇は、そんな好悪の感情などに、関心出来ないところにあった。
「拙者本日参上しましたは、姉小路様よりあなた様に、お預けして、京都へ送る筈の人形、あの女男の人形を拙者の手へ返戻へんれい――お返し願いたく存じましてな、それでお伺いいたしましたので。……なにとぞお返しくだされますよう」
「おやまア」
 と梶子は驚いたように――事の意外に驚いたように艶の眼を張って民弥を見詰めた。
「それはいったいどうしたわけで?」
「どうしたわけとおっしゃいますと?」
「では……それでは、姉小路様がそのようにあなた様におっしゃいまして、それで人形を妾の手から……」
「いえ、決して姉小路様には……」
「それでは変じゃアありませんか」
「…………」
「『明後日妾は京へ帰ります。ですから人形は妾が持参し、京都へお送り致しましょう』『さようか、それではお願いしましょう』と、姉小路様からご依頼されて、お預かりいたした人形ですのに、それをあなた様が返せとあっては……それも独断で仰せられる。姉小路様に関係なく。……ホッホッホッ、変ですわねえ」
「いやそれは……その儀なれば……」
 こうは云ったが民弥の心は、ここですっかり狼狽してしまった。
(しまった!)
 と思わざるを得なかった。
 いかにも梶子の云うとおりであった。
 人形を京都へ送るべく、梶子へ預けたのは姉小路様で、決して自分ではなかったのである。
 それを独断で姉小路様にも計らず、自分へ返してくれと云う。――これはなるほど理不尽らしい。
 が、そう云ってしまったのであり、それを梶子に突っ込まれたのである。
(しまった!)
 と思わざるを得なかった。
 いかに自分があわてていて、人形取り返しに夢中になっていて、前後を忘れていたとはいえ、このかけあいの失敗は、許されがたく思われた。
(何んとか――そうだ、何んとか云って、云いまぎらわさなければ大変だ!)
 相手が梶子というしたたか者だけに、民弥は心を苦しめた。

 この頃この家の玄関先で、ねたば三十郎とお梅とが――小間使のお梅とが声を忍ばせ、ヒソヒソ話をとり交わせていた。
「おいお梅さん、これ心附けだよ」
 三十郎はこう云いながら、紙にひねった小粒を出した。
「ありがとう、済みませんねえ」
 云い云いお梅は小粒をいただき、帯の間へ押し込んだ。
「へえ、それじゃア松浦って人が、梶子様を訪ねて来たんだね」
「いえ、それが大変でしてねえ」
 と、お梅はクスクス笑いながら云った。

「大変? ふうん、大変なんだね? ……が、どんな風に大変なんだえ」
 三十郎はケシカケるように、面白そうにこう訊いた。
「あの梶子様が、ねえ、あの梶子様が、おハシャギなされて大騒ぎ、お化粧じゃ、お召しかえじゃと、お部屋の中をテンテコ舞い、大変なさわぎかたでございましたよ」
 そう云ってお梅は口に袖をあて、たまらないというようにクスクス笑った。
 三十郎はイヤな気がした。
 嫉妬しっとの感情がムラムラと、胸へ込み上げて来たのである。
「お化粧じゃ、お召しかえじゃ……! なるほど、で、テンテコ舞いか! クソ! まあまあそれもいいさ。……で、それからどうしたのだえ?」
「それから只今は奥のお部屋で、お話しあそばしていらっしゃいます」
「なるほどな、奥の部屋で、お話し遊ばしていらっしゃるのか! ……ええとそこでお梅さんにだが、頼みたいことがあるんだがねえ」
「ハイハイ何んなとおっしゃいまし。妾の力で出来ますことなら」
 鼻薬を貰った効果は覿面てきめん、お梅は頼まれそうな顔をした。
「二人の話をこっそり聞いて、そいつを知らせて貰いたいのさ」
 三十郎は梶子を口説いて、口説きそこなって恥をかいた。で、爾来梶子から避けて、顔を合わせないように気をつけた。
 が、昨夜民弥の後をつけて、鵜の丸兵庫の住居へ行き、あんな事件を惹起じゃっきさせ、そうして彼らの秘密を知った。萩丸様を誘拐したところの、元兇や一味を知ることが出来、しかもそれらの連中が、明日江戸の地を立って、旅へ行くことまで知ることが出来た。
 そこで三十郎は厭でも応でも、梶子と逢って以上の事情を、報告しなければならなかった。
 そこで今日出かけて来たのであったが、来て聞いてみると意外も意外、松浦民弥が来ているという。
 大変もないことであった。
 というのは民弥はこの自分を、父の敵として狙っている人物。で、うっかり逢おうものなら、復讐の挙に出られるだろう。
(これは絶対に逢われない)
 とはいえ民弥が梶子に対して、どんな話をするであろうか? これは聞かなければ不安であった。
 そこでお梅に鼻薬をくれて、立ち聞きをさせようとしたのである。
「ハイハイ妾立ち聞きして、お話しすることにいたしましょうが、どこでいつあなた様にお目にかかりましょう」
 お梅は引き受けてこう云った。
「夕方中山様のお屋敷の角で、こっそり逢うということに……」
「ようござんす、そういうことに」
「頼むよ」
 と云うと三十郎は、お梅と別れ往来の方へ出た。

 奥の座敷では梶子と民弥とが、微妙な話をつづけていた。
「いえ梶子殿、実はこうで」
 民弥はようやく自分の失言を、弁解すべき辞を目付け出した。
 で、随分胡散うさんではあったが、まことしやかに云い出した。
「あの人形と申すもの、本来拙者が姉小路様から、京都へ持って帰るようにと、命ぜられましたものでございましてな……で、拙者といたしましては、一旦の主命でございますゆえ、やはりあくまでもそれを通して……」

「何をまアまアおっしゃいますことやら」
 と、梶子は笑って取り合わなかった。
「ご主人様のおいいつけであろうと、女子供の玩具のような、あのような人形をお武家様たるあなたが、大切らしく京まで送る! ばからしいではございませんか。ご主人様のおいいつけであろうと、お断りするのが当然というもの、それを無理にも送ろうなどと……これは少し変ですわねえ」
 ここで梶子は民弥の顔を、いぶかしそうにジロリと見た。
 民弥はまたもヒヤリとした。
 そうしてまたも失言したぞと、そう思わざるを得なかった。
 そういう民弥の狼狽した様子を、尚も梶子は見守ったが、何かを心に思いついたらしく、気味悪い笑いをチラリと浮かべた。
 それから少しく膝を進めると、色っぽい仇っぽい姿態を作り、
「民弥様よいことがございますよ」
 こう云ってまたも意味ありそうに笑い、
「二人でお送りいたしましょうよ」
「二人で?」
 と民弥は怪訝けげんそうに云った。
「はい二人であの人形を、都までお送りいたしましょうよ」
「…………」
「承わればあなた様も、明後日――いいえ今日から云えば明日、京へお帰りでございますとのこと」
「さよう明日帰ります」
わたしも明日帰ります」
「…………」
「ちょうど幸いでございますのねえ。あの人形を二人して、送って行こうではございませんか」
「なるほど」
 と民弥は頷いた。
「それよろしいかもしれませぬな」
「姉小路様からお頼み受けてどうあろうと妾はあの人形を、京まで送らねばなりませぬ。お気の毒ではございますが、あなた様へは渡されませぬ。……が、どうやらあなた様にも、あの人形に執着あって! ……」
「いや、決して執着などは……」
「ホ、ホ、そうかもしれませぬが、でも妾から拝見しましたところ、あなた様にはあの人形に並々ならぬ未練を持たれ……」
「いやいや別に未練なども……」
「まあまあよろしゅうございます。……で、ともかくもあの人形を二人で大切に京都まで、お送りしようではございませぬか」
「さようでござるな。よろしゅうござろう」
 ――この塩梅あんばいではこの梶子、あの人形を容易のことでは、こっちの手へ渡してくれそうもない。無理に渡せなどと云い張ったならば、いよいよ怪しく見てとられ、どのような姦策を施されるかも知れない。
 それに要するに自分としては、宥免状を蔵したまま、あの人形を京まで無事に、送って行けばよいのであって、梶子と一緒に旅をして、あの人形を二人で守って、京まで行くことが出来たならば、かえって好都合ということが出来る。
 それに道中機会を目付けて、あの人形を梶子の手から、奪い取ることも出来そうである。
 こう考えたので松浦民弥は、納得の意を洩らしたのであった。
 民弥が一緒に旅をする! このことは一方梶子にとっては、たまらなく嬉しいことであった。
「おおそれではご承知か」
 声をはずませトロンコの眼をし、膝を進めて梶子は云った。
わたしと一緒に松浦様、では道中を、東海道を……」
「はい、旅するでござりましょう」

「まあ嬉しいじゃアございませんか」
 梶子はハシャイだ甘酸っぱい声で、こう云いながらまた膝を進め、
「一緒に旅をするからには、宿も一つでございましょうねえ」
「さよう、当然そうなりましょう」
「まあ嬉しいじゃアございませんか」
 梶子はまたもや膝を進め、
「座敷も一緒でございましょうねえ」
「さあそれは……が、まずそれも……」
「まずそれも一緒でございますとも……ホッホッホッ、何んて嬉しい……宿も一緒、座敷も一つ……夫婦のように寝泊まりして」
「…………」
「東海道を内裏雛だいりびなと一緒に……これはどうでもしまいには……」
「…………」
「なるようになることでござりましょうよ」
「…………」
女男めおの人形は二人の仲人なこうど……」
「…………」
「人形様が夫婦なら、お守りの私達二人の者も……」
 またジワジワと膝を進め、
「夫婦でなければ格好がつかず……」
「…………」
「オホ、嬉しいじゃアございませんか。……お梅や!」
「は――い」
 すぐ隣室から、お梅の答える声がして、襖がとたんにひらかれた。
「おやお梅そこにいたのかえ?」
「イ、い――え、来かかりまして……」
「そうかえ、それならいいけれど、立ち聞きなんかしちゃアいけないよ」
「まあそんなこと……まア奥様……」
「何をマゴマゴ! ……お酒の仕度おしな」
「いや梶子殿、酒などなかなか……」
 驚いて民弥は手を振った。
「明日は出立でございますれば、これより屋敷へかえりまして、万端用意いたしませねば……」
「そうでしたねえ、そうおっしゃられれば、妾も明日出立ゆえ、諸事あらかた取りまとめねば……」
「梶子殿、今日はこれで……」
 と、民弥は一礼して立ち上がった。
「お酒はゆっくり泊まり泊まりの旅籠はたごで。……ホ、ホ、……妾は何んだかこう……」
 これほどの女ではあったけれど、恋にかかっては全く盲目、娘の子のようになってしまい、梶子はソワソワウロウロした。

 その日の夕方、黄昏たそがれ時に、中山様のお屋敷の角で、――柳の木蔭に佇んで、三十郎とお梅とが話していた。
「……よく立ち聞きしてくだされた。いやよく話してくだされた。……ほほうそれでは梶子殿には、松浦という若い武士と、女男めおの人形とやらを警護して一緒に旅するというのだね。……松浦という武士がやって来たのは、その人形を梶子殿より、取り返すためだというのだね。……ふうん」
 というと考え込んだ。
(梶子と民弥と一緒に行く! ということであってみれば、俺は梶子とは一緒に行けない。梶子の附け人というお役目も、今日かぎりオサラバだ。……女男の人形? 女男の人形? こいつに何かいわくがあるな。……ヨーシ、こうなればヤブレカブレだ! ……途中に要して民弥を討ちとり、梶子を手に入れて腕ずくでも、想いを懸けた、想いを晴らし、女男の人形というやつも、こっちの手へ捲きあげてやろう!)


 その翌日のことであった、東海道は賑わっていた。
 おりからの好天気で朝から暑く、街道は砂塵と陽炎かげろうとで、茫と霞んでいるほどであったが、松の並木には微風が渡り、江戸湾の潮には白帆が浮かび、眺望はまことに美しかった。
 そういう街道を行くものは、旅の武士、僧侶、道中師、女子供を引き連れて、ポツポツ歩く町人や百姓、威勢のよいのは通し駕籠で、江之島見物に行くらしい大尽だいじん、それよりいかめしく感じられるのは、槍を立て馬に乗り供人多数に、囲まれて行く大身のお武家。そうかと思うと巾着きんちゃく切りや、ごまのはいなどもまじって行き、艶めかしいは駈け落ち者の、若い美しい男女であろう。
「駕籠どうじゃな、これお女中、その足じゃ日のうちに神奈川までは行けめえ。安く行くによ、乗っておくんなせえ」
 などと無理強いに強いる雲助。
「馬どうだな。え、坊さん、帰り馬だによ、乗っておくんなせえ。メッカチでビッコで馬ア悪いが、その代りおとなしい牝馬で、振り落とすような事アねえ。……ソレ馬には乗って見ろ、女には添って見ろッていうじゃアねえか、坊さんだろうと女ほしかろう。ところが坊さん女禁制だ。そこでよ牝馬にでも乗んなせえ。ナニ厭だ! こんななまぐさ! まる儲けの身分して何んちゅうケチンボだ! ハイハイドー、ハイハイドー!」
 と悪態をつく馬方。
 チャリンチャリンと鈴の音。
※(歌記号、1-3-28)泊まり泊まりで酒さえ飲めば、大目桟留さんとめ着た心……
 などと、欲のない歌など唄う奴もある。
 東海道は百三十里、駅路の数は、五十三、京都までは二十日の長旅、この時代では人生の大事、そこで旅へ出る人々など、水盃をして別れたという。
 さてそういう東海道を、多くの旅人の群に雑り、鵜の丸兵庫が歩いていた。
 その兵庫の姿はといえば、例によってまことにみすぼらしい、蚤とり武士の姿であった。すなわち着流しで草履ばき、編笠で深く面を隠し、腰になめした猫の皮を、筒のように巻いて差していて、しかも長目の両刀を、落としざしにして差している。
 が、兵庫は兵庫一人で、決して旅をしているのではなかった。
 同志五人と同伴なのであった。
 すなわち神道無念流の使い手、柴田一角をはじめとし、これも剣道では党中無類と、恐れられている金井半九郎、同じく有竹松太郎――これは商売が独楽こま廻しなので、身装いでたちもそれにやつしてい、さらに虚無僧こむそうに身を変えている、関口勘之丞と僧の範円――以上が同伴しているのであった。
 とはいえもちろんお互い同志は、全く他人であるかのように、相当離れた距離を保ち、そしらぬ顔をして行くのであった。
 が、そういう六人の者が、決して少しの油断もせず、見詰めているところの一物があった。
 十五人の武士に警護されて行く怪しい一挺の駕籠なのである。
 何んと日中暑いのに、その駕籠は上から油単ゆたんをかけ、内に乗っている主人の姿を、全然人に見せないではないか。
 が、その駕籠に乗っている者は、手錠をかけられた武士であって、それは五十嵐右内なのであった。
 そうしてそれを警護して行く武士は、紀州藩の武士なのであった。

 それにしてもどうして紀州藩では、五十嵐右内を国元へ送るに、罪人として網打ち駕籠へ乗せ、公然と送って行かないのであろうか?
 いやそれは出来なかった。
 罪人として扱う以上、罪状を白洲で調べなければならず、調べたが最後紀州頼宣卿が、明暦義党の企てに一時なりとも加盟したことが、表面へあらわれて来るからであった。
 さりとて普通の士人として、普通の駕籠で送ったなら、途中で逃亡されようもしれず、あるいは同志の連中が、同じく途中で奪うかもしれない。
 そこでこのような変則な駕籠で、街道を送って行くのであり、もしもの事件に備えるため、藩中にあっても武術名誉の、十五人の武士が、警護の任に、このようにあたっているのであった。
 が、この警護方も妙なものであった。
 というのは道中目立たぬよう、注意をしなければならなかったので、十五人が駕籠脇に付き添おうとはせず、ただ数人が左右に附き、その他の者は前と後とに、かなりへだたった間隔を置いて、それとなくいて行くのであった。
 ところが同じ東海道を、さらに二組の特殊の旅人が、京の方へ向かって旅をしていた。
 その一組は梶子と民弥で、もう一組は萩丸と菊女きくめで、いずれも同じ日に立ったのであった。
 梶子は旅なれた武家の女房、そういったような扮装をし、道行みちゆきなどを軽やかに着、絹の手甲てっこう脚絆きゃはんなどをつけ、菅笠などをかむっていた。
 民弥はその梶子の亭主かのように、これも旅なれた武士の扮装――すなわち野袴に背割羽織、草鞋わらじばきに深編笠――と云った扮装で、梶子と親しそうに連れ立って歩いた。
 が、この二人の傍には、小荷駄をつけた一頭の馬が、馬子に曳かれて歩いていた。
 巨大な箱がつけてある。
 人形の箱なのである。
 そうしてこの小荷駄の面には、墨黒々と太い文字で「姉小路様御用」としたためてある。
 萩丸と菊女の一行こそは、まことに変な一行であった。
 二人ながら駕籠に乗っていた。二人ながら反対に変装をしていた。
 反対というのは菊女の方が、前髪立ての若衆武士、そう変装をしているのであり、萩丸の方は武家娘風に、変装をしているからで、すなわち男女が反対に、変装をしているのであった。
 二人の駕籠を囲繞して、これは公然たる供人かのように、八人の武士や若党が、旅装甲斐甲斐しく従っていた。
 が、これらの供人は、実はいずれも明暦義党の、一騎当千の同志なので、その中には加藤東作、吉田彦六、戸島粂之介、足洗主膳、これらの人々も雑っていた。
 相当大身の武家の子弟――兄と妹とが供人をつれて、遊山の旅へ出かけて来た。――といったような姿であった。
 ところでこの日ねたば三十郎も、民弥を討つべく梶子を奪うべく、人形箱をも奪うべく、同じこの道を京に向かい、旅に出かけた筈なのであるが、さてどこにいるのであろう?
 その姿はわからなかった。
 が、いやらしく気味の悪い、問屋から追い出された雲助と、馬を取り上げられた博労と、乞食の一群とが合併したような、そんな一組がこの街道を、何んとはなしに連絡れんらくとって、わが物顔にぞめいて歩き、旅人にぶつかって喧嘩を売ったり――わけても民弥と梶子との二人へ、悪てんごうを仕掛けるのが、苦にかかる現象というべきで、その中に三十郎がいるのかもしれない。
 数日の間はこともなかった。
 が、数日を経過した夜、浜松の城下で事件が起こった。
 城下の外れにかなりみすぼらしい、諸人宿が一軒立っていたが、その門口から浪人らしい武士が、フラリとばかり外へ出た。
 蚤とり武士の兵庫であった。
 と、次々に五人の男が、その宿から外へ出て、城下の夜の景気見物――といった風にブラブラ歩き、兵庫の後へ従ったが、他人顔して同じ宿へ泊まった、明暦義党の同志なのであった。
 町の外れの野の一所に、常夜燈の光ほそぼそとともった、村社の森が茂っていたが、いつかそれらの人々は、その森の中へ集まって来た。
「方々ご苦労」
 と兵庫は云って、拝殿の縁へ腰をかけた。
「いよいよ今夜決行いたそう」
「それよろしゅうござりましょう」
 こう云ったのは性急の、柴田一角その人で、喜色を顔に浮かべていた。
「策戦はいかがなされまするな?」
 こう訊いたのは思慮に富んだ、金井半九郎その人であった。
「慶安義党の佐原重兵衛殿が、巧みに考案なされたところの、竹筒仕込みの地雷火をもって、五十嵐右内殿が宿泊しておられる、本陣備前屋に火災を起こさせ、混乱に乗じて潜入し、五十嵐氏を奪い取る。――というのが策戦でござる」
「妙案」
 と云ったのは柴田一角で、手を拍たんばかりの様子を見せたが、
「その地雷火、鵜の丸殿には……」
「既に三本製造しました。……その一本は表門へ、その一本は裏門へ、もう一本は予備として、拙者手もとに保存し置きます」
「で、地雷を仕掛ける役は?」
 こう訊いたのは有竹松太郎、
「もちろん拙者がいたします」
 躊躇ちゅうちょせず兵庫はそう云った。
「口火のつけ方その他いろいろ、秘密の処方ござりますれば、拙者ならではいたしかねまする」
「五十嵐氏を奪い取り、おちつく所はどこでござるかな?」
 僧の範円が不安そうに訊いた。
「この森より西南の方へ、三里あまり参りましたところに、青塚と申すさとがござる。家数はわずか二十軒ながら、木曽義仲の残党によって、形成された郷との取り沙汰、住民は一種の郷侍でござって、いわば大和の十津川辺の、農兵のような風格の人々、しかもその郷の長というのが、今も申した佐原重兵衛殿の、遠縁にあたる人でござって、佐原嘉門と申す老人、拙者とは以前より懇意でござって、本来なれば我々義党に、加盟いたすべき人ながら、かえって本格に加盟いたすより、傍流として外にあって、援助を受けた方よろしかろうと存じ、さよういたして置きましたじん。で、今回この宿において、決行いたす事件についても、既に話をつけてあります、そういう人物とそういう郷とが、この地にあるゆえこの城下において、事件遂行と決しました次第で」
 弁舌さわやかに兵庫は云った。
 一同ほとんど感にたえ、
「いつもながら思慮ある鵜の丸殿の計らい……」
「それなら成功疑がいござらぬ」
 と、口を揃えて人々は云った。
「ところで今夜決行いたす事件を、松浦民弥殿や菊女殿へ、お知らせいたさねばなりますまいな」
 と、こう云ったのは関口勘之丞で、そう云うと兵庫の顔を見た。
「さよう」
 と兵庫は頷いた。
「それらの方々へは拙者これより、その宿元までひそかに参り、申し伝える所存でござる」


 この同じ夜のことであった。
 この同じ浜松城下の、脇本陣の柊屋ひいらぎやに、萩丸と菊女きくめとの一行が、幾部屋かを占領して泊まっていた。
「妹ご様は精神のご病気」
 こういうことに宿の者へは、それとなく云って予防して置いた。
 というのは萩丸は女装した男、で時々男となって、男の言葉で宿の女中などへ、話しかけることがあろうもしれないと、それを案じたからであった。裏庭に面して作られてある、別棟になっている離れ座敷へ、萩丸と菊女とは居を占めていた。
 萩丸は全く痴呆状態にあった。
 虫部屋の恐怖が十八歳の、貴族の御曹司おんぞうしをそうさせたので、その萩丸の痴呆状態は、菊女達義党の人々にとっては、しかし勿怪もっけの幸いであった。
 痴呆状態でなかろうものなら、こうなかなか容易のことでは、秘密に旅などへ出られるものではない。
 駕籠の中から往来の者へ、
「余は、紀州の萩丸じゃ、悪漢どもに誘拐されて行く、助けてくれ!」
 と叫ぶことも出来、叫べば人が怪しんで、一応調べることとなり、それからそれと手続きされ、紀州やかたへ帰されよう。
 正気であったなら、そうするだろう。
 ところが、萩丸は痴呆状態にあった。
 それに大好きな恋しい菊女が、自分の傍らに引き添っていた。
 で、もう萩丸は大満足なのであった。
 どこへ行こうと、どうされようと、もうもう萩丸は大喜びなのであった。
 が、さすがに時々には、不安そうにいろいろのことを、菊女に向かって訊くことはあった。
 この夜も結構な小広い座敷の、床の間を背にして坐りながら、向かい合って坐っている菊女に云った。
「菊女や、紀州へ行くのだったねえ」
「はい、さようでございます」
 と、男装して凛々しく美しくなった、年長の菊女は教えるように云った。
「紀州へ参って祖父様へ、お逢いいたすのでございます」
「紀州のご殿でお前と一緒に、いつまでもわしたちは住むんだねえ」
「はいはい、さようでございますとも」
「祖父様はお前を可愛がるよ」
「さあ、どうでございますか」
「俺が好きなお前だもの、祖父様もきっとお前が好きだよ」
「そうならよろしゅうございますが」
「俺は、ほんとうにお前が好きだよ」
「妾も大好きでございます。萩丸様が大好きで」
 そう、まさに、その通りであった。
 女装していよいよ美しく、痴呆状態となっていよいよ無邪気に、あどけなくなった萩丸の姿は、菊女には可愛く可愛く可愛く、取って食べたいほどにも可愛いのであった。
 しかしもちろん恋ではなかった。
 恋人はほかにあった。
 鵜の丸兵庫その人である。
 萩丸に対しては、ただに可愛く、弟さながらに思われるまでであった。
(でも可哀そうにこの萩丸様、萩丸様の書いた宥免ゆうめん状が、紀州様のお手に届いても、捕えられた義党の人々が、尚もし許されないその時には、血祭りとして殺される筈! いわば萩丸様は犠牲の小羊! ほんとにほんとに可哀そうに! ……でも妾としてはどうあろうと、こんな可愛らしいこんな無邪気な、女の子のような萩丸様の、無残に殺されるのを無視は出来ない。身をもってお助けしなければ!)
 こう決心しているのであった。
「ねえ菊女や」
 と当の萩丸は、一向無邪気にあどけなく云った。
「俺は昨夜夢を見たよ」

「夢を? おやおや、どんな夢を?」
「俺たち随分苦労するんだよ」
「まあまあ苦労を? いやでございますねえ」
「こわい人達に追われるのさ」
「追われる? まあまあ、こわい人たちにねえ」
「わしもお前も逃げて行くのだよ。手を取り合って逃げて行くのだよ」
「手を取り合って? 仲のよいこと」
「でもだんだん追いつめられるのさ」
「困ったでしょうねえ、どうなさいました?」
「わしはそこで飛び上がったのさ」
「飛び上がった? 空へねえ」
「すると自然とけられるのだよ」
「へえ翔けられる? 空をねえ」
「お前も一緒に翔けるのだよ」
「妾もねえ? うれしいこと」
「でも行手に山があってねえ」
「山が? へえ、高いんでしょうねえ」
「そりゃア天より高いんだよ」
「たいへん高いんでございますねえ」
「でもわしたちは翔け上がって、山の頂きを越そうとするのさ」
「それはそれは、越せましたかしら?」
「うしろからはドンドン追ってくるのだよ」
「それは恐ろしゅうございますねえ」
「山の頂きまで翔けたんだけれど、どうにも足の先が山に引っかかって、向こうへ越せそうもないんだよ」
「そうして背後からは恐ろしい者が追ってくるのでございましょう」
「あ、そうなのさ、追ってくるのさ。恐ろしい恐ろしい恐ろしい者が。それでわしは叫んだよ『菊女や菊や助けておくれ――ッ』てねえ。……するとその拍子に眼がさめてしまった」
 萩丸はこう云ってあどけなく笑った。
 菊女は涙が出そうであった。
(夢の中でも妾のようなものに、助けて貰おうとなさるのだよ。なんてまア! なんてまア!)
 萩丸が可愛くてならなかった。
 で、思わず膝を寄せ、
「まあまあ助けをお呼びなされた。妾のようなこんなものへ! ハイハイお助けいたしますとも! ……夢の中ばかりでなくうつつの世でもねえ」
 萩丸の肩を抱こうとした。
 と、廊下に足音がし、襖の外でしわぶく声がし、
「菊女殿、開けまする」
 と、四辺をはばかった声がした。
 菊女はあわてて膝を退け、
「どうぞおはいりくださりませ」
 と云った。
 はいって来たのは供人にやつした、同志の足洗主膳であった。
「菊女殿、ちょっと戸外へ」
「戸外へ? ……では……どなたかが?」
「鵜の丸殿が……で、ちょっと」
「はい」
 と菊女は立ち上がった。
「菊女、いけないよ、行ってはいけないよ」
 萩丸はあわてて菊女の袖を、両方の手でしっかりと握り、悲しそうな眼で菊女を見上げた。
「まア萩丸様、大丈夫。……わたしどこへも行きはしませぬ。……すぐに帰って参ります。……ですからあなた様はここで穏しく……」
「そう」
 と萩丸は手をはなした。
わしを置いて行くんじゃアないね」
「なんのなんのあなた様を、そんなに可愛らしいあなた様を、後に残してどこへ行きましょう」
「すぐに帰ってくるんだねえ」
「すぐに帰って参りますとも」
「そう。それじゃア行ってもいいよ」
 菊女は涙が出そうになった。
 それを笑いにまぎらせて、主膳と一緒に玄関へ出た。
 とすぐに番頭や大勢の女中が、バタバタと玄関へ送って来た。

「あのお出かけでござりまするか」
「お城下の夜景を見に参る」
「ごゆっくりご見物なさりませ」
 ――で菊女は供のように、主膳を連れて往来へ出た。
 旅籠はたごの格子戸の一所へ、素早く眼をやってチラリと見た。
 わらしべがこっそり結び付けてあった。
 互いに連絡をとるために、泊まった旅籠はたごへ藁しべをつける。――と云うことになっていたからであった。
 往来の人通りはまばらであった。
 少しく夜が更けたからである。
 でも六万一千石、井上河内守様のお城下なので、宵は相当賑わうのであった。
 往来の一所に着流し姿――みすぼらしい猫の蚤とり商売、それに姿をやつしたところの、鵜の丸兵庫が佇んでいた。
 で、菊女と主膳とは、そっちへ向かって歩いて行った。
 と、兵庫も歩き出した。
 こうして三人肩を揃えたが、風采が全然身分違いであった。知己と見られては疑がわれるだろう。で、三人は素知らぬ様子で、行きずりの人のように振る舞いながら、小声で忙しく囁き合った。
「火急の場合、用件のみ申す」
 とまず兵庫はそう云った。
「五十嵐右内殿を奪取するので。……右内殿の宿所は本陣備前屋。で今夜丑の刻に、竹筒仕込みの地雷火を仕掛け、備前屋に不意の火災を起こさせ、混乱にまぎれて奪い取り申す。……で備前屋に火災ありと聞かば、そなたたちにおいては萩丸殿を連れ、直ちに宿を出裏道づたいに、西南へ三里走られて、青塚と申すさとへいで、そこの郷長さとおさ佐原嘉門、このじんの屋敷へおいでくだされ。……我らも右内殿を奪取して、嘉門殿の屋敷へ参るのでござれば。……この城下にはご存知の通り、紀州の藩士どもおりますれば、萩丸殿を奪われぬよう、よくよくご注意くだされい。……もっとも萩丸殿女装なれば、めったに見あらわされはしますまいが、用心の上にも用心をし、頭巾で顔など包むがよろしい。……これは図面じゃ。青塚までの図面! 道順を書いた図面でござる」
 こう云って兵庫は一葉の紙片を、そっと菊女の手へ渡した。
「これにてご免、いずれ後刻」
 云いすて兵庫は行こうとした。
「ま、兵庫様、それではあんまり」
 思わず菊女はそう云って、男装を忘れ女となり、スルスルと兵庫へ寄り添った。
「それではあんまり素ッ気ない。……何かお話が……まだ何か!」
 これはまさしく当然であった。
 恋人同志であるのだから。
 しかも江戸の地にいた頃には、一つ家に住んでいた二人であった。
 それが旅へ出ると分れ分れとなり、顔を逢わせることもなかった。
 数日ぶりで逢ったのである。
 だのに何んというあわただしさぞ! いかに大事の前とはいえ、用件ばかりを手短かに述べ、それだけで別れて行こうとは。
「兵庫様」
 と怨ずるように、
「まだお話が、何かお話が……」
 そう云う菊女きくめを睨むように見、
「拙者は多用、手間どってはいられぬ。……そなたもご存知の松浦民弥氏、同じこの城下の桔梗ききょう屋というに、宿泊をしておらるる筈、松浦氏にも今夜の決行、一応至急話して置かねばならぬ。……ただし同氏におかれては、右内殿奪取に関係なく、例の宥免状たずさえて、紀州へ急がねばならないのでござるが。……ご免!」
 と兵庫は小路へそれた。

 脇本陣柊屋と同格の旅籠、桔梗屋の奥の静かな部屋に、民弥と梶子とは泊まっていた。
 床の間の脇の壁に寄せかけて、巨大な箱が置いてあった。
 人形を入れた箱であった。
 本来なれば問屋にあずけ、問屋の手によって道中安全に、京まで送るのが順当なのであるが、二人はそれをしなかった。
 ただし別々の目的から。
 民弥としてはこの人形を――宥免状を入れた人形を、いつまでも梶子にまかせて置くことが、不安に思われてならなかった。まだ人形の胸の中に、宥免状が隠されてある、――という秘密を幸いにも、梶子は感づいていないらしい。
 がもし彼女が感づいたなら、正体のわからない陰謀好きらしい、バンパイヤともいうべきこの女は、それを有用な種にして、どんな策略を講ずるかもしれない。
 で彼としては人形の胸から、宥免状を取り返したい。それには人形を問屋などへかけずに、いつも自分の手もとに置きたい。……で、手もとに置いているのであった。
 梶子は全く反対であった。
 彼女は民弥が人形について、非常な関心を持っている。
 どうも変だ! 何かある! 何かの秘密が人形にある。ヨーシ秘密を目付け出してやろう。それには問屋などへかけないで、自分の手もとへ置いた方がいい――で、手もとに置いているのであった。
 その彼女は長の道中を、民弥と一緒に寝泊まりして来た。
 民弥に対する恋の心は、この間に幾倍か加わった。
 彼女のような妖婦型の女は、精神的の恋愛とか、心ばかりの愛情とか、そんなものは全く問題でなかった。
 肉体と肉体との接触から来る、麻痺的陶酔的の恍惚感、そればかりが目的であった。
 で、彼女はどうあろうと、この京までの道中で、民弥を手中に入れなければと、そう決心しているのであった。
 で、今夜も酒をすすめての、誘惑の手を延ばしていた。
 二人の前には酒やさかなが、かなり荒らされて置いてあった。
 二人は酔っているのであった。
 酔っていながらも松浦民弥は、絶えずそれとなく人形箱の方へ、視線を送り送りした。
「梶子殿」
 と、とうとう云った。
「われらこのように酒などいただき、同じ部屋に起居いたし、外見から見ますると夫婦かのように――そのように仲よく見えまするが、まこと夫婦である女男めおひなは、いつも狭い箱の中にこめられ、さぞ窮屈でござりましょうのう。ハッハッハッ、窮屈のようで」
 子供のように他愛のないことを――こんなことを何気なげに云い出したのには、他に深い意味があるのであった。
 そう云ってまず女男の人形を、箱の中より取り出してやろう。――という考えから云ったのである。
「まあまあ民弥様には、小娘かのような、何を他愛ないことおっしゃいますやら」
 梶子は充分酔っていたので、胸もとをくつろげ膝なども崩しあでやかさをいっそうあでやかにしたが、
「でもねえそのようにおっしゃられれば、ほんにお雛さまは窮屈やもしれず……」
「お互い窮屈は厭なもので。そこで窮屈の内裏雛さまを、出してあげようではございませんか」
 民弥はこんなことを云い出した。
 酒の酔いにかこつけて、娘の云いそうな舌たるい、こんな他愛のない厭味なことを、冗談めかしく云い出したのではあったが、その本心は真剣で、そういってともかくも女男の人形を、箱より出そうとするのであった。
「それよろしゅうございましょうよ」
 梶子も素直に同意した。
 彼女は今は民弥の云うことなら、何んでも穏しく聞いてやろう、そうして充分歓心を得よう、そうして歓心を得た上で、こっちの望みもとげてやろうと、こう考えているのであった。
 それに彼女は今夜あたりは、どうあろうと民弥を手に入れたいとそう熱望しているのでもあった。
(だんだん京都も近くなる。二人の道中も短くなる。うかうかしてはいられない)
 こんな焦燥が感じられるのであった。
 やがて人形は箱から出され、床の間に行儀よく据えられた。
 人形は美しく上品であった。
 やはり特別に目立つのは、男雛の太刀柄につけられてある、素晴らしく高価な宝玉と、女雛の冠につけられてある、同じ高価な宝玉とであった。
 それが燈火の淡い光を、五彩の虹のように刎ね返して、二人の眼を幻惑させるのであった。
「まあ」
 と梶子はつくづくと云った。
「あの宝玉の美しさ、女の髪の飾りにでもしたら、なんと見事でございましょう」
 云い云い人形の方へ躰を寄せ、本能的に指を持って行った。
「梶子殿」
 と民弥は驚き、全身に冷や汗をかきながら、
「雛は雛同士そっとして置き、さあ我々は我々同士、酒だ酒だ、酒のみましょう」
 云い云い銚子をとりあげた。
(それへさわられてたまるものか! それへさわられて人形の胸に、ポッカリ例の穴があき、そこに大切な宥免状がある。――ということでも知られようものなら、これまでの苦心水の泡となる)
「さあ、梶子殿酒じゃ酒じゃ」
「はいはい」
 と梶子は笑いながらも、人形の側からやっと離れた。
「わたし何んだかすっかり酔って、胸は苦しく頬はほてり……ホッホッホッ、胸の苦しさは、酒ばかりではございませんが……」
 杯を受け、口にあて、いやらしいほどにもこびのある眼で、民弥の顔をながし眼に見、
「人じらしの民弥様、推量が悪いのやら、よすぎるのやら、もうもうわたしはじれったいようで……でもどうにもこのことばかりは、一人でじれておりましてもねえ」
 云い云い膝をよせて行った。
「云ってみますればお預けをくった、チンコロというのが今のわたし、おいしいたべものが眼の前にある、でもどうにも手が出せない。……いっそおいしい食物がねえ、眼の前にさえなかったなら。……いいえ、眼の前になかろうものなら、なおのこと妾は寂しくて、いたたまれないでござりましょうよ。……はいご返杯」
 と杯を出した。
「いただきましょう」
 と民弥は云い、男としては優しすぎるような手を、つと延ばして杯を受けた。
 と、杯の底の下から、梶子の指が民弥の指を抑えた。

「ホ、ホ、ホ」
「ハッハッハッ」
「これお解り?」
「さあ、それは……」
「おわかりにならない?」
「さあ何んとも……」
「一本の指で抑えましたは……」
「一本の指で抑えられました」
いこうかという意味ですの」
「一本だからいこうかとな」
「で、あなたさまにおぼしめしがあったら」
「…………」
「三本の指で妾の指を……」
「ははあ拙者の三本の指で……」
「妾の指をグッと握る」
「あなたの指をグッと握る」
「と、さんせいということになり……」
「ははあなるほど、三本だからさんせい
「今夜ビロードの夜具の襟へ、二つ枕を並べまして……」
「…………」
「と、いうことになりますのよ」
「なるほど」
「いかが?」
「ハッハッハッ」
「女の口からこうあからさまに、心うちあけ口説きかけましたに、あっさり笑って外されては、どうにも妾としては胸のしこりが……お厭かそれとも応でござんすか? ……おっしゃるまではこの杯も、抑えた指も放しはしませぬ。……民弥様、さあいかが?」
 年は上なり手練者なり、浮世の表裏人情の機微に、厭というほど通じている梶子は、こう云うと執拗な眼ざしで、民弥の顔を怨ずるように見詰めた。
 民弥は心が動揺した。
 決して嫌いな女ではなく、むしろ好きな女であった。ただいかにも正体がわからず、それに段違いに凄くもあり、かつまた今の自分というものが、大事を持っている身の上だったので、そういう色恋にかかり合うことが、不可能でもあれば出来がたくもあった。で、今日まで梶子と一緒に、同じ部屋に寝泊まりして来たが、心は人形の胸にかくした、宥免ゆうめん状を取り返すこと――そればかりに熱中し、梶子の艶色や誘惑などには、心を動かそうともしなかった。
 が、今夜は酔ってもいたし、このように指をからませ合って――すなわち肉体の一部と一部とを、接触してみれば木石でない彼は、動揺せざるを得なかった。
 それにもう一つの考えもあった。
(この女とほんとうの恋仲となったら、この女も心許すであろう。その油断を見すまして、宥免状を人形の胸から、こっちの手へこっそり取ることが出来る)
「梶子殿」
 と、とうとう云った。
「何んの否やなど……何んの何んの……その美しいあなた様に、そうまで云われて何んの拙者が……」
「おおそれではわたしの願いを……」
 梶子は頬をパーッと燃やした。
「叶えて……きいて……それでは今夜……ではギューッとこの指を……三本の指で……あなた様の……」
「こうでござるかな、こうギューッと!」
 三本の指へ力をこめ、民弥が握ろうとしたとたんに、隣室の間の襖の隅が、そっと開いて窺う者があった。
「や!」
「あれ!」
「誰かが!」と云って、民弥は思わず手を引いた。

 が、もうその時には開いた襖が、向こう側から閉じられていた。
 そうして誰かが忍びやかに立ち去る、急ぎ足の音がした。
 二人は改めて顔を見合わせたが、
「たしかに何者か隣りの部屋で、たちぎきしたようでござりますな」
「はい、どうやらそんなようで……」
 と、さすがにテレて恥ずかしそうに云った。
「宿の女中でございましょうよ」
「さよう恐らく女中でござろう」
 ――しかし決して女中ではなかった。
 二人の話を立ち聞きした男が、今廊下を歩いて行く。
 それはねたば三十郎であった。
 三十郎も同じ日に江戸を立って、京への旅へ出たのであった。
 その目的は云うまでもなく、民弥を返り討ちにすることと、恋している梶子を奪うことと、何か秘密を持っているらしい人形――それを奪い取ることであった。
 道中彼はあぶれものの雲助や、同じくあぶれものの馬子の類を集め、それとなくしばしば民弥と梶子をとらえ、喧嘩を仕掛け物云いをつけたが、先方が相手にしなかったので、事を起こすことが出来なかった。
 そのうち、とうとうこの城下へ来た。
 この浜松の城下へ来た。
 この辺で如上の計画を、そろそろ実行しなかろうものなら、ついには画餅に帰するかもしれない。
 こう思ったのでその意となり、それには彼らと同じ宿に泊まり、彼らの起居や動静などを、一応しらべる必要があると思い、今夜この桔梗屋へ泊まったのであった。
 そうして今しがた自分の部屋を出、二人の部屋をうかがったのであった。
 裏木戸に近い座敷の一つが、三十郎の部屋であった。
 そこへ三十郎は帰って来た。
「チェッ」
 と彼は舌うちをした。
 恋する梶子が憎い民弥へ、女だてらに、口説きかけ、それを民弥が受け入れたらしい様子を、隣りの部屋から隙見した彼は、気を悪くせざるを得なかった。
(今夜あたりあの二人め、ほんとにしっぽり濡れるかもしれない。チェッ)
 とまたも舌うちをした。
(さてどうしたものだろう?)
 冷えた茶を急須から茶碗へしぼり、不味まずそうに唇をぬらしながら、行燈あんどんの光でぼんやり見える、床の間の掛け物へ眼をやりながら、彼は考えに沈み込んだ。
 他にとるべき手段はなかった。
 今夜民弥を叩っ斬り、梶子と人形とを奪い取るばかりだ。
(そうだ)
 と彼は考えた。
(気の毒だがこの宿へ火をつけて、火事だ火事だと騒がせて、その混乱につけ入って、手なずけ連れて来たあばれ者どもと一緒に、民弥たちの部屋へ乱入し、一気に目的をとげてやろう)
 あばれ者どもはこの宿の附近の、馬借宿ばしゃくやどに束にして泊めてあった。
(あいつらに逢って手筈をつけよう)
 で三十郎はノッソリと立ち、深い編笠をスポリとかむり、玄関の方へはかからずに、庭下駄を穿き庭へ出で、裏木戸をあけて外へ出た。
 すすけた行燈のともっている、馬借宿越後屋の門口へ、三十郎が姿をあらわしたのは、それから間もなくのことであった。
「これはいらっしゃい」
 と云ったものの、宿の男や女たちは、変な顔をして眼を見合わせた。
 着流しで浪人の姿ではあったが、しかし立派な若い武士が、馬借宿などへ来たのであるから。

「泊まりではない、心配するな」
 三十郎は笠の中で笑った。
「由蔵という博労がおろう、当家に宿を借りたであろう」
「へい、さようで、お泊まりでござんす」
「ちょっとその男を呼んでくれ」
「かしこまりました、ちょっとお待ちを」
 男衆が奥へ素っ飛んで行ったが、すぐに三十一、二にもなろうか、博労らしい男を引っ張って来た。
「こりゃア旦那、おいでなさいまし」
「由蔵、ちょっと耳を貸しな」
「へい、よろしゅうございます」
 二人は揃って戸外へ出た。
「一件いよいよ今夜やるよ」
「一件、旦那、一件といえば?」
「野郎を俺が叩っ斬り、女と人形とをお前たちがさらう……」
「ああなるほどあの一件で」
「そのためいて来た貴様たちじゃアないか」
「ちげえねえ、そうでした」
「で今夜火事を出す」
「火事を? へえ、どこへですい?」
「奴らの泊っている桔梗屋へよ」
「で、誰が火事を出すんで?」
「俺よ、刃三十郎よ」
「荒療治だ! 荒すぎますねえ」
「火事でドタバタ騒いでいるところを、例の一件やろうというのだ」
「火事はひでえ、何んとかほかに。……火事は兇状でも重い方だ。……火焙ひあぶりってやつにされるんですからねえ」
「厭か※(感嘆符疑問符、1-8-78)
 と三十郎はグッと睨んだ。
「という訳でもねえんですが。……」
「厭ならこれだ!」と刀の柄を叩いた。
「嚇しちゃアいけません、何ですい旦那!」
「応というならこっちの方だ」
 云い云い三十郎は懐中へ手を入れ、小判を五枚引き出した。
「両方とも金に相違ないが、どっちの金を取るつもりだ」
「そりゃア旦那、山吹色の方をねえ」
「じゃア応か」
「応にしやしょう」
「それよ」
「こいつア」
 チャリンと音がして、小判は由蔵の手へ移った。

 菊女きくめや足洗主膳に別れ、露路へはいった鵜の丸兵庫は、間もなく桔梗屋の店先へ、みすぼらしい猫の蚤とり姿を、恥ずかし気もなく現わしたが、
「ごめん」
 と云って土間へはいり、
「蚤とりましょう猫の蚤とり! これこれ当家に猫がおるであろう、連れておいで蚤を取ってあげる」
 こう云ってかまちへ腰をおろし、腰に差していた猫の皮の、巻物のようなのを取り出した。
 驚いたのは店にいた女中や、番頭や帳つけや男衆であった。
「猫の蚤とり? 何んでございますな?」
 相手がかりにも武士だったので、突剣呑つっけんどんの挨拶も出来ず、当惑しながら番頭が云った
「猫の蚤とり、存ぜぬかな、……すなわち猫にたかっている蚤を、このなめした猫の皮に移し、取りつくしてやる商売じゃ」
「器用な芸当でございますなあ」
「こういう田舎にはないかもしれぬが、江戸では大分流行はやっている。……拙者は江戸から参ったものじゃ」
「へえ、さようでございますか。……が、当家には猫というものが……」
「偽りを申すな、そこへ来たではないか」
「アレマア勘の悪いドラ猫だよ」

「その方らにとってはカンの悪い、ドラ猫であるかは存ぜぬが、拙者にとっては救いの神、さてこの猫の蚤をとる。ついては行水をさせていただきたいもので、さようさよう猫に行水を。……それへ腰につけた猫の皮を、スポリとかぶせて抑えつけますと、猫にいた蚤どもが、こっちの皮へことごとく移る……何んでもないが理屈に合った話。さあさあ猫に行水さしてくだされ」
 兵庫は愉快そうに云うのであった。
 が、鵜の丸兵庫としては、なにもこの猫の蚤をとって、金にしようというのではなく、猫の蚤とり猫の蚤とりと、そういうことを云うことによって、奥の部屋にいる松浦民弥に、自分が来たことを感じさせ、往来へまで出て来て貰いたい。――ただそのための策略なのであった。
 自分の身なりがあんまり悪い。で玄関から民弥に対し、表立って面会申し込んでは、宿の者に異様に思われようもしれない。
 で、そういう策をとったのであった。
 その猫の蚤をとってしまうと、フラリと兵庫は往来へ出、家蔭にかくれて待っていた。
 と、はたして民弥の姿が、宿の門口からあらわれた。
 ここじゃというように兵庫は手を上げ、知らぬ顔をして先へ進んだ。
 すぐに民弥が追いついた。「女中どもが猫の蚤とりじゃと、面白そうに話すのを聞き、さてはご貴殿所用あって、拙者を呼ぶものと存じましてな」
 こう民弥はささやくように云った。
「カンがよろしい、そのとおりでござる」
 と、兵庫も小声で囁くように云った。
「で、お変わりはござらぬかな? ……宥免状は依然として、人形の胸の中にあるのでござるか?」
「は、さようにございます」
「梶子という女にも変わりはござらぬか?」
「は、変わりござりませぬ」
「物騒の女らしい、油断なさるな」
「決して油断いたしませぬ」
「人形の胸より宥免状を、どうともして貴殿の手に入れねば、何んとはなしに不安でのう」
「は、御意ぎょいにございます」
「梶子という女を道中に置き去り、貴殿一人で紀州へ参り、宥免状を紀州侯へ手渡さねば、何んとなくわれわれには不安でのう」
「お言葉どおりにござります」
「神奈川の宿で貴殿の口より、その事情拙者承わった時には、これは一大事と思ったが……」
「万事拙者の不行き届きで……」
 松平伊豆守信綱侯より、鷹司関白家のご令妹、簾子れんこ姫へ人形を贈る。その送り方を頼まれたのが、民弥の主人の姉小路卿で、それを実際に送って行くのは、松浦民弥その人である、そこで道中安全のため、隠し所のある人形の胸へ、宥免状を隠したところ、まことに意外な行き違いから、その人形は正体不明の、梶子という女が送ることになった。これは一大事と思ったが、ほかに手段がないところから、民弥も梶子と一緒に旅し、一緒に人形を送って行くことになったと、江戸を発足しての最初の宿の、神奈川の宿で連絡をとるため、今夜のような策略のもとに、宿の往来で民弥と逢った時、兵庫は民弥から聞かされて、少なからず仰天し、一方ならず心痛したが、そうなったからは仕方がないと、その後の民弥のとるべき手段を、いろいろこまごまと注意をし、他の同行の同志へも、この事をつぶさに話したことであった。
「ところで松浦氏今夜いよいよ、右内殿奪取を実行仕る」
 と、兵庫は厳めしい声で云い、その手筈をくわしく話した。

 同じこの夜のことである。
 本陣備前屋の奥の部屋に、五十嵐右内が端座していた。
 罪状があってないようなもの、それに身分が武士であり、人格も勝れているところから、手錠なども外されて、普通の士人としてあつかわれていた。
 隣室幾間かには警護の武士が、十五人がところ泊まっていた。
 もう夜はずっと更けていた。
 かすかな行燈あんどんの火に照らされた、右内の姿はやつれていて囹圄れいごの人、らしいところはあったが、眼には活気と精気とがあり、気力の衰えていないことを、それによってあらわしていた。
 紀州表へ護送されたあげく、その地で多くの他の同志と共に、曖昧のうちに吟味もされず、刑殺されるのだということは、彼にもハッキリわかっていた。
(大事を企てた男子としては、一旦事が破れた暁、この世を辞するは当然のことだ)
 こういう考えを持っていたので、刑殺される一点については、さして苦痛も感じなかった。
 が、彼としてはただ一つだけ、まことに心外のことがあった。
 党の会計方にあずかっていて、軍用金とすべき大金を、ある一所に隠して置いた。で、もし自分がこのまま死んだら、生き残っている党の者のうち、誰一人としてその隠し場所を、知っている者はなくなるであろう。
 これが心外にたえないのであった。
(誰でもよいから同志の一人が、忍んで逢いに来てくれればよいが)
 彼はひたすらにそう思った。
(智謀にも勇気にもひいでている、鵜の丸兵庫殿であるから、この俺を救い出そうとして、いろいろ苦心していることではあろうが、名に負う相手は大藩の紀州、それに今日までの厳重の警戒、助けることが出来ないのであろう)
 万感がこもごも湧くのであった。
(入谷田圃で短い時間ながら、兵庫殿に逢った時に、軍用金の隠し場所を、一口明かせばよかったのだが、捕えられようとは思わなかったので、ついその機会を失ってしまった)
 万感がこもごも湧くのであった。
「五十嵐氏おやすみなさりませ」
 と、この時あいの襖をあけて、警護の武士の一人が云った。
「はい」
 と右内は一揖いちゆうした。
 間もなく右内は床へはいった。
 警護の武士たちも眠ったらしく、いびきの声などが聞こえて来た。
 次第に夜が更けて行き、室内一統眠ったとみえ、四辺闃寂げきせきとして音もなくなった。
 と、突然宿の門口の辺で、大爆発の音が聞こえた。
「はてな?」
 と右内は眼をさまし、そのままじっと聞き耳をすました。
 つづいて宿の裏口の辺で、同じような爆発の音が響き、
「火事だ――ッ」
「焼き打ちだ――ッ」
 と喚く声が、女の悲鳴や泣き声と共に、家の内外から聞こえて来た。
 素破すわや! と右内は蹶起けっきした。
 とたんに間の襖が二枚、蹴外されて投げ出され、警護の武士がおっ取り刀で、ドカドカとこの部屋へ乱入し、右内の周囲を取り巻いて叫んだ。
「火事でござる、避難仕る! 五十嵐右内殿神妙に! お騒ぎあれば斬りすてまするぞ!」
 この火事が尋常の火事ではないと、そうさすがに感じたらしく、警護の武士は威嚇するように叫んだ。
 戸を開ける音! 走り廻る音!
 煙り! 臭気! 火のほてり
 それらが一つになって届いて来た。


「表は危険、裏口から!」
 と、警護の武士の一人が叫んだ。
 右内を包んだ十五人の武士は、入り乱れ走り廻る同宿の者や、下女や番頭の間を分け、その二、三人は抜刀し、それを左右に振り廻し、
「どけ! よけろ!」
 と喚いて走った。
 裏庭へ出た。
 カーッと火の手!
 火の粉がバラバラ! バラバラ! バラバラ! と、梨子地のように降って来た。
 裏門も、別建ての離れ座敷も、火に包まれて燃え上がっている。
「危険でござるぞ! 後へ後へ! ……表より外へ! 表より外へ!」
 が、振り返って眺むれば、表も火焔に包まれているのか、大屋根を越して火の束が、黒煙りと共に立ちのぼっている。
「行けない行けない、表へも行けない!」
「塀を乗りこせ! 側面の塀を!」
 裏庭を囲繞した土塀の一方、南に向いたそこだけは、まだ火に襲われてはいなかった。
 警護の武士たちは右内を引き上げ、一斉に外へ飛び下りた。
 とたんに、
「ワッ」
 と一人の武士が、もんどり打って地に仆れた。
「どうした!」
 と一同寄ろうとした時、
「ワッ」
 またも一人が仆れた。
 瞬間地上に腹這って、石かのように見せていた、黒装束に黒覆面の、五人の武士が立ち上がった。
「曲者!」
素破すわこそ!」
「おのれら何者!」
 二人の味方を討ってとられ、かなり気おくれはしていたけれど、警護の武士はそう叫び、一斉に刀を引っこ抜いた。
 と、一人の頭領らしい、黒装束の武士が進み出たが、
「我らは明暦義党の者、同志の一人五十嵐右内氏を、当方へ頂戴いたしたく、うち揃って推参仕ってござる。旅舎へ火かけたもわれわれでござる! ……五十嵐氏、おいでなされ!」
 これは鵜の丸兵庫であった。
「感謝!」
 と一句! 五十嵐右内は、翻然として飛び出した。
「ならぬ!」
 と駈けへだてた紀州藩士!
 ガッ!
 その一人の刀を奪い、右内は一刀に斬って捨て一文字に走って来た。
「引け!」
 と兵庫の大音声!
「それ!」
 とばかりに義党の面々は、右内を真ん中に引っ包み、嵐のように走り出した。
「逃がしては一大事! それ方々追いつめて!」
「捕らえろ!」
「ならずば斬り捨てろ!」
 紀州藩士は後を追った。
 追い詰められたと見てとるや、
「やれ!」
 と兵庫の凄い声!
 グルリ!
 瞬間!
 振りかえり!
 義党の面々は逆襲的に、紀州藩士の群へ斬り込んだ。
 バタバタと斬られて仆れる奴!
 背景は火事だ!
 叫喚、悲鳴!
 火の粉の雨! 火龍のような焔!
 ド、ド、ド、ド、ド――ッと逃げる藩士!
「ソレ引け!」
 とまたも兵庫の声!
 が、懲りずまにまた追う藩士!
 引っ返しては逆襲し、機を見て引く義党の面々! 進退駈け引き神妙無類!

 だいたい同じ時刻であった。
 桔梗屋の座敷では民弥と梶子とが、人形を入れた例の箱を、さすがに二人の間に置き、間をへだてて寝についていた。
 二人とも眠ってはいなかった。
 梶子は梶子で考えていた。
(今夜こそは、どうともして日頃の想いを!)
 このことを考えているのであった。
 さっき二人で酒を飲みながらの、うちとけての話で民弥の心が、とうとう常になく軟化して、恋を受け入れてくれそうになった。
(なんてまアまア嬉しいことか!)
 で梶子は体中の血が熱く燃えて胸をち、体中の肉がうずき痲痺しびれ、眠るどころではないのであった。
(妾の方から行こうかしら?)
 まさかそれだけは! と思うのであった。
 幾度となく寝返りを打ったり、咳をして見せたりするのであった。
(こうなると、間をへだてている、人形様が邪魔になるよ)
 ――で、憎さげに人形箱――とりわけ今夜は大きく見えるのへ、幾度となく眼をやって睨んだりした。
(あの人形箱が、あるばっかりに、民弥様の可愛らしい寝顔が見えない)
 そんなようにさえ思うのであった。
 民弥の心はどうなのだろう?
 梶子とは全然反対であった。
 なるほどさっきは梶子に口説かれ、ふと浮いた気持ちになり、一面梶子の恋を入れ、油断をさせて人形の胸から、宥免状を取り出そうと、そういう功利的の考えもあって、今夜梶子と恋をとげようと、思ったことは思ったのであったが、その直後に鵜の丸兵庫に逢い、今夜同志が死を覚悟して、本陣備前屋に火を放し、同志の一人五十嵐右内を、奪い取って青塚の郷の、佐原嘉門という郷長さとおさの家まで、引き上げて行くと明かされた。
(同志がそのように苦心をする今夜だ、宥免状を取り返すに便利――そういう事情があろうとも、恋の遊戯などどうして出来よう!)
 で、止めだと決心しているのであった。
 そればかりでなく本陣備前屋に、火災が起こり討ち入りがあったら、十町とは距離のへだたっていない、ここらあたりも騒動しよう。宿の者なども戸外へ出よう。と、梶子も女心から、とつかわと外へ出るであろう。その隙に人形の箱をあけ――一旦封をした箱なのであるが――そこから宥免状を取り出してやろうと、そう考えているのであった。
 で、民弥は寝につくや、梶子への約束など忘れたかのように、わざと冷淡に振る舞って、寝息さえ立てず静まっていた。
 梶子はとうとうがまん出来ずに、
「民弥様」
 と声をかけた。
「何んでござるな」
 といかつい声で、民弥は物々しく返辞をした。
 寄っつけないような声だったので、梶子は失望し溜息をし、しばらくは二の句をつがなかったが、やがて勇気を揮いおこし、
「民弥様さっき……お酒をのみながら……」
「はい、酒は飲みました」
「あのう、……その際、……あなた様には……」
「拙者なんとかいたしましたかな」
「……いいえ別に……でも……あのう……」
「あのう……ハイ……あのう……それから……」
わたしの心をお汲みくだされて……」
「エヘン!」
 とひどい咳をした。
 でも梶子は一生懸命に、
「恋を……想いを……妾の想いを……」
 この時備前屋の方角から、爆発の音がかすかに聞こえた。

 素破すわや! と民弥は半身を起こした。
 梶子も思わず耳を立てた。
 とまたも爆発の音がした。
(さてこそ!)
 と民弥はいよいよ思った。
(表門に仕掛けた地雷火と、裏門に仕掛けた地雷火とが、つづけざまに爆発したらしい!)
 間もなく備前屋の方角から、喧騒の音が聞こえて来た。
(いよいよ火事になったらしい。……同志の方々討ち入ったであろう)
 民弥は武者ぶるいを感じて来た。
 と、何んという奇怪なことか、この部屋の中へ濛々もうもうと、煙りが侵入して来たではないか!
「や、煙りが! ……どうしたのだ!」
 と、民弥は床から飛び起きた。
 梶子も驚き床から起き、
「まあどうしたのでござりましょう」
 こうは云ったもののすぐにも民弥を、口説き落として自分のものにしようと、決心をした時だったので、こんなことで二人ながら起き上がったことが、どうにも残念でならなかった。
(あれまた機会が逃げてしまったよ!)
 こう思われて口惜しいのであった。
 民弥は不思議でならなかった。
(備前屋とは距離がへだたっている。備前屋で起こした火事の煙りが、こうも濛々とこんな所まで、侵入して来る筈はない!)
 忽ち屋内が騒がしくなった。
「火事だ!」
「大変だ!」
「放火だ放火だ!」
 悲鳴!
 足音!
 叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)の声!
 戸障子を開け、襖を蹴破り、器物を投げる音! 音! 音!
 と、ワーッと叫喚が起こった。
「強盗だ――ッ」
「切り込みだ――ッ」
 民弥はことごとに仰天し、
「梶子殿一大事! 何かこの宿に騒動起こり、放火強盗切り込みの類、起こりました様子にござりますぞ!」
 梶子も今は色も恋も、おアズケにせざるを得なかった。
「ほんにどうやらとんでもない事件が、起こりましたようにござります……うかうかしてはいられません! ……急いで部屋を脱け出して……いいえこの宿を脱け出さねば……」
「さようさよう一刻も早く、この宿を脱け出さねばなりませぬが……何より大事は人形箱!」
「ほんにさようでございました! ……人形箱を取り出さねば! ……えいもうこうなればこんな人形、ほんにほんに足手まといな!」
 ――とはいえうっちゃっては置けなかった。
 二人は人形箱へ飛びついて行った。
 その間も煙りは火気を雑えて、濛々と部屋へはいって来た。
 ねたば三十郎がならず者どもと一緒に、この旅籠へ放火したのであった。
 見よその刃三十郎は、黒の頭巾で顔をつつみ、着流しの裾高々と端折り、手なずけた博労や雲助や、浪人くずれの無頼漢、十数人と乱入し、さえぎる宿の者や旅人どもを、撲り仆し蹴倒し無二無三に――民弥と梶子を探しながら、今こっちへ走って来ていた。
「松浦という侍と、梶子という女の部屋はどこだ!」
「ここか?」
「違った!」
「こっちだこっちだ」
 喚きながら走って来ていた。
 それとも知らぬ民弥と梶子とは、人形箱を持ち合って、部屋から廊下へ走り出た。
「いた――ッ」
 と三十郎は大音をあげた。
「それその箱をひっさらえ! ……それその女をかついで行け!」

 一方鵜の丸兵庫の一党は、取り返した五十嵐右内を囲み、火事と事変とを聞き込んで、備前屋の方へ馳せ集まる、火消し、町の者、見廻りの藩士、そういう人々が満ち満ちている巷を、かき分け押しわけ一散に、桔梗屋の方へ走って行った。
 この往来を真っ直ぐに走り、桔梗屋の前を走りぬけ、さらに脇本陣柊屋を通り、二町あまり行った地点から、西南の方へ野道へ出、それを三里あまり行ったなら、めざす青塚の郷へ行ける。
 その青塚へ行こうとして、一散に走っているのであった。
 その後からは紀州藩士が、必死となって追って来た。
 追いかけながら口々に叫んだ。
「我らは紀州藩士でござるが、大切の囚人を護送して、本日このお城下へ参りましたところ、囚人の同類と申す者、五、六人して囚人を奪い、只今向こうへ逃げ行きまする! ……お見受けいたせばここのご領主、井上河内守様のご家来衆が、道を通っていられるご様子、我らにお味方くだされて、囚人お取り返しくだされい!」
 これを耳にすると井上家の藩士は、うっちゃって置くことが出来なかった。
(紀州家といえば三家ご親藩、その囚人とあるからは、幕府の囚人と同じようなもの、それを奪われたとあるからは、奪われた土地が我が君の領だけに、後日苦情を持ちこまれるやもしれない。これは味方して取り返さねばならぬ)
「それ!」
 とばかりに井上家の藩士たちは、紀州藩士と一団となり、義党の面々を追っかけた。
 これは兵庫をはじめとし、明暦義党の面々にとっては、思いもよらなかった出来事で、苦痛とせざるを得なかった。
 で、今は死に物狂い、引っ返しては切りはらい、切り払っては走って逃げた。
 と、行手からも火の手があがった。
 桔梗屋からの出火の火の手であった。
 往来はいよいよ混乱した。
 逃げ迷う人々、家財道具を運ぶ、荷車などが右往左往した。これが義党の面々にとり、せめてもの有利の助けであった。
 追って来る二藩の武士たちの数は、今は数十人になっていたが、道は狭く人混んでいる。で、一度にかかることが出来なかった。
 が、義党の面々が桔梗屋の前まで走って来た時、心を寒くする出来事が、忽然として起こって来た。
 ほのおと煙りとで包まれている、その桔梗屋の門口から、覆面をした一人の武士が、一人の女をひっ抱え、片手に抜刀をひっさげて、嵐のように走り出して来た後から、雲助や博労や浪人くずれらしい、数人の者によって大きな木箱が、家財かのように運び出され、その後から民弥が衣紋とり乱し、頭髪を乱し血相変え、抜刀を揮って追っかけて出た。――という意外な出来事であった。
 兵庫は眼早く民弥を認めた。
「松浦氏そのありさまは?」
「鵜の丸殿か! 無念無念無念! ……宥免状入れました人形箱を……ご存知の刃三十郎と、其奴そやつとの一味の無頼の徒に、ウ、奪われ、ト、取られ! ……あれあれあそこへ担がれて行く箱こそ、人形箱にござります! ……女を抱えて走ってゆく武士こそ、刃三十郎にござります! ……攫われて行く女は梶子!」
 民弥はこう叫ぶと地団太を踏んだ。
「宥免状入りの人形箱、奪われたとは我らに致命! ……やあ方々!」
 と鵜の丸兵庫は、同志に向かって大音に叫んだ。
「あの箱をこっちへ! ……死を期してもこっちへ! ……取り返されい取り返されい!」
 自身真っ先に後を追った。

 それにつづいて義党の面々、民弥を雑えて後を追ったが、こうなると往来の混雑が、妨害をして人形箱を担いだ、三十郎配下の無頼漢の群へ、容易に追いつくことが出来なかった。
 走りながらも鵜の丸兵庫は、五十嵐右内を取り返したことを、言葉せわしく物語り、幸い取り返しは取り返したものの、紀州藩士と井上家の士とが、見られる通り大挙して、追い迫って来ると物語った。
 民弥は民弥で意外の出来事を――すなわち桔梗屋が出火したことや、それは三十郎とその一味とが、放火した結果らしいということや、火事より避難しようとして、人形箱を梶子とにない、宿の廊下まで出たところを、三十郎と一味とに襲われて、衆寡敵せずこのありさまと、面目なげに物語った。
 語るも聞くもあわただしかった。
「やあ菊女きくめ殿が萩丸殿を連れ、同志の面々とそこにおられるぞ!」
 と兵庫が嬉しそうに叫んだ時には、兵庫たちはいつか脇本陣の、柊屋の前まで走って来ていた。
 菊女たちも兵庫たちに気がついた。
「鵜の丸様か! ……松浦様にも! ……五十嵐様にも……皆々様にも! ……おおおおそれではご無事で!」
 と、菊女は叫んで駈け寄って来た。
 足洗主膳をはじめとし、八人の同志も喜こばしそうに、兵庫達の方へ馳せ寄って来た。
 女装の上に編笠をかぶせた、萩丸は菊女に手を引かれていた。
「方々!」
 と兵庫は大音に叫んだ。
「無事ではござらぬ、一大事の場合! ……後より追い来る武士どもは、紀州藩士と井上家の藩士、五十嵐氏を取り返そうと、あのように追って来るのでござる! ……そればかりでない、アレアレ向こうへ、雲助、博労、無頼漢によって、運び去られ行く木箱こそ、宥免状を入れた人形箱! 以前にお話し致したところの、刃三十郎という浪人者と、その一味とに奪われて、あのように運ばれて行くのでござる! ……女を引っかかえて走って行く武士こそ、その刃三十郎! ……方々、こうなっては一団となって、背後の敵、前方の敵に、おあたりくだされおあたりくだされ!」
 この言葉を聞くと菊女をはじめ、その供人にやつして来たところの、明暦義党の同志らは、愕然がくぜんとして驚いたが、
「承われば一大事! ……しからば我々一団となり、前後の敵へ! ……前後の敵へ!」
 こう叫んだ時二藩士の群が、一団へ追いつき斬り込んだ。
「やれ!」
 とばかり義党の面々、これを迎えて斬り返したが、一方背後の逃げて行く敵――宥免状を入れた人形箱を担いだ、三十郎一味の無頼漢を、このまま見すてて置く時には、致命的に大切の宥免状を、全く失うことになる。
(どうしたらよかろう?)
 とこの一事が、義党の誰にもの心にあった。
 さりとてその方へ力を分け、一部の同志が走ったなら、数十人の二藩士の前面の敵に、圧倒されるは知れていた。
 焦燥が同志の人々を襲った。
 と、忽然兵庫の脳裡へ素晴らしい考えが浮んで来た。
 兵庫は萩丸へ躍りかかった。
 そうして萩丸の冠っている笠――編笠を引き千切り投げすてると、グッと片手で抱き上げ、片手で抜刀をその胸へ差しつけ、紀州藩士へ見せつけて叫んだ。
「紀州の方々ご覧なされ、女装こそいたしおりまするが、これこそは貴殿方藩侯の、頼宣卿のご愛孫、最近何者かに誘拐されました筈の、萩丸君にござりまするぞ! 顔に見覚えがあるでござろう! ……貴殿方我々に手向かいいたさば、用捨はいたさぬこの萩丸君を、眼前において刺し殺し申す!」

 ワーッという声がまず起こり、
「いかにも藩侯ご愛孫じゃ!」
「萩丸様に相違ない!」
「誘拐されて藩中動揺、ことごとく憂愁にとらえられていたが、さてはこいつらが誘拐したのか」
「どっちにいたしても一大事! 萩丸様に異変あっては、我らは生きてはいられない」
「囚人などは問題でない」
「退け! 後へ! ……静まれ静まれ!」
 と、紀州藩士たちは口々に叫び、ジタジタと残念そうに後へ退いた。
「さあこの隙に貴殿方は、人形箱の後を追い!」
 兵庫の言葉を背後に聞き、
「行け! 取り返せ!」
 と義党の面々、三十郎の一味の後を、真一文字に追っかけたが、南無三宝機を失した! 三十郎もその一味も、どこへ行ったものか見えなくなっていた。

 その翌日のことであった。
 犬帰いぬき村という貧弱な村の、博労佐治平のあばら家の一間に、刃三十郎と梶子とが、睨み合うようにして坐っていた。
「まだご機嫌直りませぬかな」
 そう云った三十郎の満面には、得意と皮肉とがただよっていた。
 想いをかけたこの女を、とうとう今こそ手に入れてしまった。焼いて食おうと煮て食おうと、こっちの自由勝手になる。
 それにしても利発聡明で、大胆不敵で見識高かった女が――この梶子が何んとまア、今はすっかり悄気しょげていることか!
 ――こう思うと三十郎には得意と皮肉とが、つくづく感じられてならないのであった。
 梶子は眉間へ縦皺を寄せ、不快と怒りと憎しみとを、あからさまに顔にあらわしていたが、
「機嫌など何んで直るものかよ。……こんな目にあわされて何んの機嫌が! ……何んと云おう、乱暴狼藉! ……馬鹿にするにも程があるよ!」
 梶子の態度は伝法であった。
 さすがに伊豆守の女隠密、これまで生死の巷などへは、幾度となく立ち入った経験はあり、それに貞操というようなことなど、何んとも思っていない女だったので、こんな境遇になった今も、恐怖などは少しも感じていなかった。
 以前は自分の用心棒、いわば部下だった三十郎ずれに、こんな目に逢わされたということについて、癪にさわっているばかりであった。
 二人はそれっきり黙ってしまった。
 古い障子、破れた襖、煤の落ちそうな黒い天井、この穢い部屋の中へも、真昼の陽は明るく射して来ていて、壁に添って置いてある人形箱の、白い木地ばかりが清らかに見えた。
「ねえ三十郎さん」
 と梶子は云った。
「これから妾をどうする気なのさ」
「さあ」
 と三十郎は苦笑いをしたが、
「さあ……しかし……まあまあそれは……それはどうでもよろしいとしまして、当分ここでご静養、ご静養なさるがようございます」
「静養も何もありゃアしないよ。……あたしゃア病人じゃアないんだからね」
「はいさようでございますとも」
「あたしゃア人形の箱を持って、京都へ行かなけりゃアならないのだよ」
「さあその人形でございますが、いわくがありそうでございますなあ」
「そうだよ妾もそう思うのさ。どうやら曰くがありそうだってね」
「へえ、それじゃアあなた様も、その曰くご存知ありませんので?」
「実はあたしも知らないのさ」
「そいつ変じゃアありませんか」
「変だといったってそうなんだよ」


「それではこれから私ども二人で、その人形の曰くってやつ、調べようではござりませぬか」
 こう三十郎は興味をもって云った。
「いいだろうねえ、調べてみようよ」
 こう梶子は云ったものの、実は人形の曰くなど、今の彼女にはどうでもいいので、唯一に心にかかっているのは、松浦民弥の消息であった。
「ねえ三十郎さん」
 と梶子は云った。
「由蔵、何をしているのだろうねえ?」
「さぐっているのでござりましょうよ」
「さぐっているといったところで、わずかの道程みちのりの浜松まで行って、その後の成り行きをさぐるだけじゃないか。そうそう時間をとるわけはないよ」
「わけはないように思われますが、帰って来ないところをみますると、わけがあるのでござりましょうよ」
 昨夜の浜松の火事の様子や、松浦民弥があの火事によって、災難を受けはしなかったか? そんなことが心にかかったので、梶子は三十郎を無理に勧めて、配下の博労の由蔵を、今朝ほど早く浜松へやり、それらを探るようにさせたのであった。
 その由蔵が今になっても、帰って報告しないので、梶子はジリジリしているのであった。
「例によりまして梶子殿には、松浦民弥殿の身の上になると、一生懸命でござりますなア」
 三十郎は皮肉に云った。
 このことが彼には腹立たしいのであった。
 自分を親の敵と狙う、その民弥を恋しがり、梶子が夢中の態でいる! ……このことが三十郎には腹立たしいのであった。
 と云うのは三十郎が梶子に対し、恋を感じているからで。……
「そうとも」
 と梶子は思い切って云った。
「あたしゃア民弥さんに首ったけなのさ!」
 この思い切った言葉というものは、梶子としてもこれまでにない、文字通り思い切った言葉であった。
(どうせ自分が民弥さんを、烈しく恋しているということ、三十郎は察しているのだよ。隠したところで仕方がない。……よしんば隠していたところで、この邪智ぶかい三十郎が、眩まされる筈はないのだから)
 こう思って思い切って云ったのであった。
「首ったけ! フフン、なるほどなあ」
 三十郎は不快そうに云った。
 梶子が民弥に首ったけだ! ……ということは云われないでも、三十郎にはわかっていたが、しかし自分が恋しているところの、梶子によってそんなように、ズバリとばかり云われては、不快に思わざるを得なかった。
「おおかたそうとは存じていましたが、そうハッキリと仰せられては、拙者テレざるを得ませんなあ」
「テレるような言葉を云い出させたのも、お前さんのやり口が悪いからさ」
「やり口が悪い? やり口とは?」
「このようにあたしを手籠めにして、こんなところへ連れて来たことさ」
「それというのもあなた様を、わたくし恋しておりますのでな」
「そこでハッキリと云っておくが、あたしにゃア今も云ったとおり、民弥さんという人があるのだから、色だの恋だのとイヤラシイことを、今後は云って貰いますまいよ」
「そうか!」
 と腹に据えかねたように、三十郎は悪党の本性、そいつを露骨にあらわして、威嚇するように荒々しく云った。
「そうか、なるほど、よく云った! そうハッキリと心持ちを、臆面もなく明かした以上、覚悟も出来ておりましょうな!」
「覚悟! 何んだよ、覚悟とは?」
「一旦おもいを懸けたからは、必ず通す三十郎、何をそなたに要求するか?」
「手足を縛って力ずくで、想いをとげるとでもいうのだろう?」
「いざとなればそこまで行く!」
「面白いねえ、やってごらん!」
「ヨーシ!」
 ヌッと三十郎は、片膝を立ててノシ上がった。

 が、急に苦笑いをし、穏かに元の座に直った。
 少し前まで用心棒として、仕えていたところの梶子であった。
 傍若無人の彼ではあったが、そういう梶子を暴力にうったえ、我慾をとげるということが、どうやら良心に咎めたらしい。
 で、苦笑して座に直った。
 気まずい感情を持ちながら、二人はそのまましばらくの間、横を向いて黙っていた。
 開けられてある障子の間から、野良の風景が見えていた。
 大根畑、葱畑は、青く耕地にひろがってい、稲は相当にたけを延ばし、葉を微風に靡かせてい、鳥の群は空ひくく舞い、それに驚いたか雀の大群が、パッと一時に立ったりした。
 野良唄の声なども聞こえて来、モーッと鳴くノンビリした牛の声も、どこからともなく聞こえて来た。
「三十郎さんどうしたんだよ」
 やがて梶子は笑いながら云った。
「お前さんらしくないじゃアないか。……思い込んだら是が非であろうと、想いをとげるのがお前さんの気象、それが中折れするなんて、少しヤキが廻ったねえ」
 何んと大胆不敵のことか、暴力で体を穢されるのは、他人ではなくて自分だのに、人事かのようにそんなように云って、梶子は笑っているのであった。
「いやどうも、アッハッハッ」
 三十郎は声に出して笑った。
「ほかのこととは事かわり、何んと申しても恋でござれば、いかな性急の三十郎も、そこまではどうも、そこまではどうも……」
「じゃア腕ずくは止めなのかい?」
「今のところは、止めでござります」
「いつになったら何をするのだえ?」
「気長くお待ちいたします」
「妾の心の靡くのを、気長く待とうというのだね」
「ざっとさようでございます」
「あたしにゃア一番迷惑さ」
「…………」
「あたしゃア人形の箱を持って、一日も早く京都へ行って……」
「やりませんな、京都へはやらぬ」
「といってこんな山の中に、いつまでもいられやアしないじゃアないか」
「わたくしとしましてはあなた様を靡かせ、女房にいたして江戸へ行き……」
「ふふん」
 と梶子は鼻を鳴らした。
「あたしが亭主に持とうっての、お前さんじゃアない筈だよ」
「民弥! 松浦民弥だというので?」
「さっきハッキリ云ったわね。……その通りさ、お気の毒だね」
「…………」
 また三十郎の胸の中へ、民弥を憎む感情が、蛇のように鎌首をもたげて来た。
「梶子殿!」
 と凄まじく云った。
「もし松浦氏この世になくば?」
「何んだとえ? 何んだって?」
「民弥殿この世に生きおる以上は、拙者の恋はとげられぬと、このように仰せられるのか?」
「…………」
 今度は梶子が沈黙し、ヒヤリと寒い気持ちになり、じっと三十郎を凝視した。
「よもや……」
 と梶子はやっと云った。
「よもや民弥さんを手にかけて……よもやそんなことあるまいねえ?」
「…………」
「もしそんなことしようものなら、……」
「…………」
「怨むよ! ……怨むよ! ……怨むよ! ……怨むよ!」
(この女何んにも知らねえなア)
 三十郎は腹の中で、セセラ笑いながらそう思った。
(恋の敵でなかろうと、この俺を親の敵と狙う、あの松浦民弥の命を、取らないで置く俺と思うか!)
 三十郎は立ち上がった。
「おい三十郎さん、どこへ行くんだよ?」
 怯えた声で梶子は訊いた。

「ご心配なさるな、大丈夫で、民弥殿を討ちには参りませぬよ。……人形を調べようと存じましてな」
 云い云い三十郎は人形箱の前へ、ノッソリと行ってしゃがみ込み、人形箱の蓋をあけ、男女の人形を取り出して、畳の上へ並べて据えた。
 絢爛けんらん豪奢ごうしゃに出来ているところの、この人形は穢い部屋の中に、高貴高価そのもののように、燦然として静もっていた。
「立派なものじゃ、立派なものじゃ」
 と三十郎は感嘆しながら、恍惚とした眼で見守ったが、
「伊豆守様より鷹司家の姫君、簾子様へ贈る品物とのこと、梶子殿さようでありましたな」
「そうなんだよ」
 と云いながら、梶子も人形の側へ寄り、
「女雛の冠と男雛の太刀柄とに、はめこまれてある素晴らしい宝石、それが大変高価なもので、日本などには滅多にない品とか。そうだろうねえ光の美しさ、見ていてウットリとしてしまうよ」
「贈る人が贈る人、贈られる人が贈られる人、品物が立派で高価なのは、当然のことでござりましょう」
 云い云い三十郎は手を延ばし、美しい物へは触れて見たいという本能、それで男雛の太刀柄にある、宝玉を指でまさぐった。
 と、忽然と雛の胸へ、長方形の穴があいた。
「これは!」
「まあ!」
「これはこれは」
 二人は驚いて眼を見合わせたが、
「カラクリでござるな、精妙なカラクリ」
「そうとも精妙なカラクリだよ」
「何かはいっていませぬかな」
 三十郎は顔を持って行き、その穴を覗いて見た。
「書状らしい物が入れてあります」
「何んだろう? 取り出してごらんよ」
 三十郎は書状を取り出した。
 表に簾子姫への宛名があり、裏に伊豆守の名が書いてあった。
 また二人は顔を見合わせ、
「恋文なのさ、ホッホッホッ」
「でありましょうな、偉い方々の」
「ああいう上の方の恋の消息、どんなものだろう、見たいねえ」
「と申してもまさか封を切って……」
「そうねえ」
 と梶子は考えたが、
(伊豆守様の妾は隠密、隠密というものは不安なもので、ご用がなくなるとお暇になったり、まごまごすると殺されさえする。そんな時主人の弱点か秘密を、一つしっかり握っておけば、それが助けの神となる。……伊豆守様の恋文を見て、その秘密を知ってやろう)
 こう決心すると大胆不敵にも、
「その書状ちょいと貸してごらん」
 と、三十郎より書状を取ると、髪からかんざしをスルリと抜き、そこは隠密の巧妙な手捌てさばき、書状の封目へ簪を入れ、見事に封目を解いてあけた。
 細字で認めた部厚い書面と、一葉の地図とがあらわれて来た。
 地図は島の地図であった。
「地図!」
「まあ……」
「地図とは妙だ」
「そうとも恋文に地図があるなんて」
「これは尋常の恋文ではない」
「読んでみよう、面白くなって来たよ」
 二人は顔を一つに集め、松平伊豆守の書面に見入った。
 読んで行く二人の顔の表情は、刻々に微妙に変化した。
 最初は二人ながら微笑した。
 甘い昔の追憶の情と、地位高い幕府の老権臣が、長く心に持っていたところの、恋慕の感情とが細々と、文字に書かれてあるからであった。
 が、にわかに二人の顔は、真面目になり好奇的になった。


 その書面の内容というものは、
 伊豆守が壮年であった頃、京都にしばらく滞在していた。そうしてその時代に鷹司家から、一方ならぬ懇情こんじょうを受けた。そうして簾子れんこ姫とはわけても親しく、絶えず逢い絶えず話し合った。
 その頃のなつかしさ今に忘れず、その後もどうあろうかと心にかけていた。……
 などということを情こまやかに、縷々るるとした文体で認めてあり、さらにそれから一変し――
「その頃あなた様(簾子姫)には、怪奇な冒険的な幽幻な、物語を聞くことを好まれました。で、私(伊豆守)は、いろいろその種の変ったお話をお逢いするごとにお話ししましたが、久々でご消息をいたすについて、またそういうお伽噺とぎばなしを、お話しすることにいたしましょう」
 と、このようなことが書いてあり、つづいて「黄金島」の伝説について、次のようなことが書いてあった。
(一)その島は瀬戸内海の一所にあり、その位置とその島の地理に関しては、同封した地図によって知られたし。
(二)その島は有名な堺の豪商、魚屋ととや助右衛門が闕所になる前に、財産の大半を隠した所である。
(三)その財産を発見した者が、その財産の所有者になれる。
(四)黄金が主にはなっているが、助右衛門は有名な貿易商だったので、異国の珍奇な器具や織物、宝石類もその中にある。
(五)あなた様に差し上げるこの人形の、宝冠や太刀柄につけてある宝玉、これも助右衛門の所有品であった。
 このようなことを書いた後に、
「この物語をお伽噺として、差し上げました地図の上だけで、空想におふけりなされましても、興味あることと存じまするが、あなた様の勇ましい男勝りの気象で、いっそその島へ押し渡り、地図を手引きとしてその財宝を、実際に発見なさいましたなら、いっそう面白かろうかと存ぜられます」
 とこのようなことが記してあり、
「どうして私がこのような秘密を、お伽噺を知っているか、そうして何故今頃になって、このようなことを申し上げるか、その辺の事情につきましては、後日申し上げるでござりましょう」
 と、このように追記してあった。
 三十郎と梶子とは眼を見合わせた。
「三十郎さん」
 と梶子は云った。
「こりゃア決してお伽噺じゃアないね」
「お伽噺ではございませんとも」
「その島には実際に魚屋助右衛門の隠した、素晴らしい財宝があるのだよ」
「それに相違ございません」
「かりにもご老中の筆頭の、松平伊豆守様ともあろうお方が、関白鷹司卿のお妹ご様に対し、ただ漫然とそんな話を――お伽噺など話す訳はなし、お伽噺に例えたのは、表立って云えない訳があるからなんだよ」
「おそらくさようでございましょう」
「三十郎さん」
 と梶子は云った。
「いい物が手にはいったねえ」
「…………」
 ジロリと梶子を見たばかりで、三十郎は黙っていた。
「人形は簾子様へお届けするとしても、この書面とこの地図とは、簾子様へは届けられないねえ」
「…………」
「私達二人で持っていようよ」
「ははあなるほど。……で、その上で……」
「船を仕立ててその島へ行き、その財宝をさがそうじゃアないか」
「結構! ……是非ともそういうことに!」と三十郎も意気込んだ。
「女雛の方にも同じような秘密が、かくしてあるかもしれないねえ。どれ……」と云うと手を延ばし、梶子は女雛の冠についた、宝石へ指の先を持って行った。

 この時門口の方角から、由蔵の声がきこえて来た。
「三十郎の旦那大変でーッ」
「由蔵だ!」
 と三十郎は叫んだ。
「浜松の城下から帰ったと見える!」
「人形を見せては悪かろう」
 すぐに梶子は不安そうに云った。
「このように高価の人形を見せたら、フラフラと出来心を起こすかもしれない」
「ごもっともで。……押し入れへでも……」
「それがいいねえ箱へ入れて。……そうして押し入れへかくすとしよう。……が、書面と島の地図とは?」
「これもひとまず男雛の胸へ、かくした方が安全らしい」
「それがいいねえ、そういうことにしよう」
 万事その通りに運ばれて、人形箱は二人の手で、傍の押し入れへ仕舞い込まれた。
 そこへ由蔵が駈け込んで来た。
「浜松のお城下は大変で。……謀叛人が出たので大騒ぎで……俺らは桔梗屋へ火をかけやしたが、おんなじ晩に本陣備前屋へも、火をかけた奴があったそうで。……そいつがつまり謀叛人なので。……明暦義党とかいう奴らだそうで。……頭は何んでも鵜の丸兵庫! ……そうそうそんな名でございましたっけ。……そいつらが備前屋へ火をかけて、そこへ泊まっていた紀州藩士を、メチャメチャに斬って斬りまくり、紀州藩士に捕えられていた、これも義党の同志だそうですが、五十嵐右内とかいうお侍さんを奪い、ここの村からは二里の彼方、浜松お城下からは三里の向こうの、青塚というさとへ逃げ、……ところでどうです同じ昨夜、柊屋という旅籠にも、やはり明暦義党の同志の、菊女という女が泊まっていて、そいつが紀州の若殿様で、萩丸様という十八歳になるお方と、乳操ちちくり合ったということで……つまり駈け落ちして来たんですなアこいつアあっしゃア不賛成で……」
「馬鹿野郎!」
 と三十郎は一喝した。
「ムダ事云うな、後を云え!」
「へい、ところでその菊女も萩丸様も青塚の郷へ、同じように落ちて行ったそうで」
「民弥様は? 民弥様は?」
 と、梶子は性急にもどかしそうに訊いた。
「その民弥様も青塚の郷へ、一緒に落ちたということで。……それからが実は大変なんで、そんなだいそれた謀叛人が、紀州様の藩士へ楯ついたあげく、領内の青塚などへ落ちたとあっては、井上家として傍観は出来ぬ。早速城内から兵を出し、紀州の藩士がたと力を合わせ、青塚の郷を攻撃し、まず紀州様の御曹司おんぞうし、萩丸様を取り返し、明暦義党の謀叛人どもを、一人のこらず討ってとれと、一万にあまる大兵を出し……」
「何を馬鹿な!」
 と三十郎は怒鳴った。
「一万とは何んだ、大袈裟な!」
「実は数百人でございますがな、お城からお侍さんが出ましたそうで。そうして青塚へ行きましたそうで。……ですから青塚はもう今頃は大戦争なのでございますよ。……ところが一方その青塚をですな、背後から攻めようといいまして、百人あまりのお城方の勢が、この村へやって参りますそうで。……ハイこの村を根拠として、二里のあなたの青塚の郷を、攻めるのだそうでございます。……あれ、人声がする、足音がする! ……お城方の勢が来ましたんで」
 いかにもその時大勢の足音や、物の触れ合いぶつかり合う音や、喚き声や怒鳴り声や制止の声などが、この家の前の空地の辺から、さもけたたましく聞こえて来た。
「これこれ百姓ども炊き出しをいたせ!」
「これこれ人夫を五十人ほど出せ!」
 こんな声も聞こえて来た。
 梶子と三十郎は顔を見合わせたが、揃って立ち上がり部屋から出、前庭の方へ行って見た。
 弓、鉄砲などの飛び道具さえ持った、軽い武装をした武士たちが、百人ほど空地に屯ろしていた。


 ここは青塚の郷である。
 四方山々に囲まれてい、その中央に盆地があり、その盆地には丘や森や、川や沼が点在してい、それらの間に二十軒ほどの家が、飛び飛びに建っているというのが、青塚の郷のありさまであった。
 郷長さとおさ嘉門は六十歳ほどで、土着の武士であるだけに、容貌魁偉かいい風采堂々、まことに立派なものであったが、伊賀袴を穿き陣羽織を着し、自分の屋敷の母屋の縁に、寛々と腰をかけていた。
 その左右に腰かけているのは、鵜の丸兵庫、松浦民弥、五十嵐右内をはじめとし、明暦義党の面々であり、屋内の座敷に坐っているのは、萩丸を側へ引きつけたところの、菊女と嘉門の家族とであった。
 前庭にはこの郷の老若男女が、百人近くも集まっていた。
 男たちは武器の手入れをし、女たちは炊き出しに精出している。
 弓、鉄砲、竹槍、竹楯、破裂弾の類までが、立てられたり積まれたりしていた。
 走って行く者、走って来る者、喚くもの、笑うもの……光景は殺伐ではあったけれど、また一面陽気でもあった。
 耕地を越し丘を越した、遙かあなたの森林の中から、煙りが一筋あがっていたが、そこにお城方と紀州藩士との、連合軍がいるのであった。
 馬や牛や犬までが、前庭の隅に引き出されていた。
 それよりの啼き声も賑やかであった。
 昨夜浜松で騒動を起こし、同志の五十嵐右内を奪い、紀州藩士や井上家の家士と、戦い戦い戦いながら、民弥や菊女や萩丸をも加え、それでも一方の血路をひらき、明暦義党の面々は、一人の落伍者死者も出さず、この郷へ引きあげて来たのであった。
 と、郷長さとおさ佐原嘉門は、あらかじめ鵜の丸兵庫から、こうあることを聞かされていたので、少しも恐れず躊躇ちゅうちょせず、ほとんど土兵、郷士として、日頃から充分訓練してある、郷民を屋敷へ招集し、今回の事情をくわしく語り、あくまで明暦義党の同志を、保護することを言明し、いずれご領主井上河内守様より、義党同志の引き渡しや、萩丸様の引き渡しなどを、武力を用いて強要するであろうが、その際には一同死を賭して、反抗するようにと決心をうながした。
 郷民たちは誰一人として、反対しようとはしなかった。
 一夜のうちに戦備をととのえ、やがて今日となったのである。
 ご領主の兵と戦っては、千に一つの勝ち目もなく、青塚の郷は亡ぼされ、郷民は鏖殺おうさつされるのであったが、ここに一つだけ味方にとって、非常に有利なことがあった。
 紀州家の御曹司萩丸様を人質として取ってあることで、どのように敵方が傍若無人でも、この萩丸様の命の安危を、多少でも顧慮に入れたならば、理不尽に打ってはかかるまい。――これがこっちの強味であった。
 はたして敵は今日の朝から、あなたの森までは進んで来たが、そこにいつまでも止まっていて、火ぶたを切ろうとはしなかった。
「鵜の丸殿」
 と嘉門は云った。
「そろそろ使者が来る頃でござるな」
「さよう」
 と兵庫も笑ましげに云った。
「使者が来る頃でござります」
「使者とのかけあいがむずかしいて」
「かなりむずかしゅうござります」
「どんな人物がやって来るか、相手の使者の人物次第で戦いとなるか和睦わぼくとなるか……」
「なるべく事を穏便にし、和睦したいものでございます」
「や、来たらしいぞ、使者が来たらしい」
 遙かの森から騎馬の武士が二人、供人ともを連れて現われた。

 やはりそれは使者であった。
 一人は井上家の郡奉行、志水但馬たじまという武士であり、一人は紀州藩士であって、五十嵐右内を警護して来た、その警護方の隊長であったところの、加藤源兵衛という武士であった。
 嘉門の屋敷の前まで来ると、二人はさすがに馬から下り、供人一人を走らせてよこし、
「申し入れたき一議ござって、志水但馬、加藤源兵衛、二人揃って参上いたした。ついては佐原嘉門殿に、是非密々に、御意ぎょい得たい」
 と、このように申し込んで来た。
「承知いたしてござる」
 と嘉門は答えた。
 間もなく但馬と源兵衛とが来た。
 それを嘉門は奥の座敷へ通した。
 それから縁へ引っ返して来、
「鵜の丸殿」
 と兵庫へ云った。
「どのようなこと申し入れるものか、とにかく拙者瀬踏みとして、一人で面会いたしてみましょう」
「それは結構にござります」
「が、貴殿におかれても、隣室において話の始終を、是非ともお聴き取りねがいたいもので」
「よろしゅうござる、そういうことにしましょう」
 ――そこで嘉門は奥の座敷へ行き、兵庫は隣室へこっそり行き、襖のそばに端座した。
 嘉門と但馬とは顔馴染であった。
「これはこれは志水様、わざわざのご光来、光栄至極、嘉門お礼申し上げまする」
 坐ると嘉門は丁寧に辞儀をし、そう云ってかしこまった。
「アッハッハッ、いやはやどうも……」
 郡奉行というような者は、老獪ろうかいで策略に富んでいた。で、但馬もその通りで、なかなかの老獪の男であった。
 まずそんなように笑いかけ、不得要領の挨拶をした。
 それから加藤源兵衛へ眼をやり、
「ここにおられるは紀州家のご家臣、加藤源兵衛殿と申されます。……加藤殿こちらが佐原嘉門殿で」
 で、二人は辞儀し合った。
「ええと早速嘉門殿へ、ちょっとおたずねいたしまするが、萩丸様ご無事でござりまするかな?」
(ソレ来た)
 と嘉門は心中で笑った。
(この老獪な郡奉行め、何気ないようなアッサリした態度で、こっちの様子をうかがうわい)
「はい、ご無事にいらせられまする」
「ちょっと拝顔いたしたいもので」
「その儀はどうも……」
「いけませんかな?」
「ちと困難にございまする」
「何故でござるな!」
 と云ったのは、来た時から怒気と焦燥とを、顔に現わしていた源兵衛であった。
「拙者は紀州の藩士でござる、藩侯のご愛孫がこのようなところに、人質同様に捕えられておる。藩士としてはそのお方に、拝顔いたしたく思うは当然、何故お逢わせくださらぬ!」
「アッハッハッハッ」と嘉門の方が、今度は老獪に柔かく笑った。
「人質同様のお方でござれば、お逢わせすることなりませぬて」
「これは不都合! 逢わせぬとなら……」
「何んとなさるな、これは面白い」
「奥へ踏み込み……奥へ踏み込み……」
「奥には大勢おりまするぞ」
「ナーニ百姓が、幾百人おろうと……」
「まあまあ」と但馬があわてて止めた。
「それでは喧嘩に来たようなものじゃ……加藤様まあまあお静かに……アッハッハッハッ、これは愉快……のう嘉門殿これは愉快……悪く思ってくださるなや」
 不得要領の訳のわからないことを、志水但馬はウダウダと云い、
「ところで五十嵐右内殿にも、お怪我もなくてご無事かな?」
(ソレあぶない)と嘉門は思った。


 しかし嘉門はビクともせず、
「五十嵐右内殿おおせの通り、まめそくさいにござります」
 むしろ揶揄やゆでもするように云った。
 それが短気の加藤源兵衛の、あせっている心を刺激したらしい。
「五十嵐右内は紀州家の囚人、それを明暦義党とやらの、謀叛人のあぶれものどもが、奪ってここへ逃げ込んだを、保護いたすとは奇怪千万! 早速われわれにお引き渡しくだされい!」
 と烈しい口調で云い放った。
「黙らっしゃい!」
 とはじめて一喝!
 嘉門は怒って一喝した。
「それほど大切の囚人なら、はじめより充分警護いたし、奪われぬよう何故なさらぬ! 奪われた不覚を棚へあげて、かくも、我らを非議するとは、卑怯ひきょうにして手前勝手、引き渡すことまかりならぬ! ……保護いたすことが何が奇怪ぞ? よしんば五十嵐と申すじん、たとえ大罪あろうとも、破廉恥の罪でない以上、単に紀州家の罪人にとどまり、一般社会人類にとっては、決して罪人でも悪人でもない筈、それを保護するが何が奇怪じゃ! ……ここは紀州家の藩内ではござらぬ! ……それを何んぞや親藩を笠に、権高に横柄に要求するとは! ……その態度こそ奇怪千万! ……申し訳あらば申されい!」
「まあまあ嘉門殿そう申されな! ……まあまあさよう一刻に! ……加藤殿にもちと云い過ぎ、お謹しみくだされお謹しみくだされ」
 老獪の但馬はそう云って止め、当惑したように渋面をしたが、
「のう佐原嘉門殿、貴殿任侠のお心から、五十嵐氏をはじめとし、明暦義党の同志とやらを、引き受けご保護なされたからは、その明暦義党なるものが、いかなる性質のものであるか、もちろんご承知の御事おんことと存ずる。拙者も加藤殿や紀州ご藩士より、そのものの性質うけたまわってござる。……慶安謀叛を企てたところの、由井正雪の残党でござって、正雪の遺業を継ぐものとか! ……さすれば、義党の面々は、柳営一統に反抗するもの、したがって我々徳川幕府の、支配下にある者にとりましても、彼らは敵と申さねばならぬ。……さあそういう人々の群を、保護しかくもうということは、いかがのものでござるかな?」
 こう但馬はジリジリと、理詰めをもって説き出した。
「萩丸様は申すまでもなく、紀州侯のご愛孫、このお方が過日江戸表において、何者にか誘拐されまして、紀州家では大驚愕、諸方面をさがしておりましたとか。そのお方が意外も意外、明暦義党の方々の手にあり、同じくこの地へ連れ込まれましたは、その義党の人々が、江戸表において誘拐したものと、これも加藤殿や紀州ご藩士の方より、拙者承わり驚き申した。……拙者に話された加藤殿はじめ、紀州ご藩士の方々も、そう話されながら事の意外に、やはり驚いておられましたっけ。……アッハッハッハッそれは当然で、かりにも天下をくつがえそう、徳川幕府を傾けようという、明暦義党の方々が、まだ少年の萩丸様などを、誘拐しようなどとは思いませぬからな。……アッハッハッハ驚くのが当然! ……が、まあまあそれはよろしい。……それはよろしいと致しまして、この辺でそれではお掛け合い、相談の中心へはいることにいたしまするが、のう嘉門殿いかがでござろう、五十嵐右内殿と萩丸様とを、我らの手へお渡しくださるまいか」
 こう云って来て志水但馬は、相手を窺う三白眼で、下からジロリと嘉門を見上げた。
 嘉門はしかし動じなかった。
 確固たる決心が腹にある、どう説かれようが何んと云われようが、言葉などには動かされないと、心を定めているからであった。
 ややあって嘉門は云った。
「その儀一切なりませぬ!」

「ナニならぬ! 何故でござるな?」
「男といたしてもなりませぬ!」
「男? ははあ、貴殿の男?」
「さようさようこのおやじの男で!」
「…………」
「一旦かくまおうと引き受けた以上、差し出すことなりませぬ!」
「天下の謀叛人の囚人でもな」
「それは見方の相違でござる」
「徳川幕府に弓引くやから、これは万人の敵の筈じゃ!」
「なんの徳川幕府ばかりが、最高至高であるものか!」
「ナニそれでは貴殿においても、徳川幕府に嫌厭けんえんござるので?」
「とにかく徳川幕府に対し、弓引く義党の面々と知って、保護を引き受けた拙者でござれば、その辺の消息はご貴殿においても、よろしくご推察くだされい」
「フーン、これは驚いた! ……貴殿が、佐原嘉門殿が、青塚の郷の郷長の貴殿が、幕府に嫌厭あろうとは?」
「その問題はこの辺で打ち切り、拙者再度ハッキリと申す、五十嵐右内殿や萩丸様、決して貴殿方にはお渡しいたさぬ!」
「いよいよそういうことになれば……」
 と、但馬ははじめて威嚇的に云った。
「実力でお受け取りいたさねばならぬが……」
「もちろん承知、そのつもりでござる。……実力で我らお渡しいたさぬ!」
「そうなるとご領主井上河内守様とも、張り合うことになりまするがな」
「…………」
「というのは我らのご主君には、天下をくつがえす謀叛人が、領地内にいるのは不都合千万、り取れとあってお城より、兵を出しましてござりますからじゃ」
「徳川幕府に対してさえ、いわば戦端をひらいた我ら、アッハッハッハッ、ご領主なんど……」
「ホ、ウ、恐れぬと仰せられるか!」
「こうなっては何者をも恐れぬ!」
「貴殿はまアまアそれでもよかろう。しかし青塚の郷民が……」
「一心同体二十軒の郷民、ことごとく拙者と同意でござる」
「ご領主を相手に張り合われて、勝ち目ありとでもおぼしめしてか?」
「なんのなんの勝敗なんど、我ら眼中にはござらぬよ」
「みすみす負ける戦と知って……」
「こうなりましてはやむを得ませぬ」
「フーム」
 と云うと志水但馬は、腕を組んで黙ってしまった。
 加藤源兵衛はこの時まで、ジリジリしながら聞いていたが、憤然として立ち上がった。
「談判は破裂じゃ。いざ志水殿、立ち帰りましょう帰るといたそう」
「さようさ」
 と但馬も残念そうに云った。
「ことを穏便に済まそうと、わざわざ我ら参ったに、先の出様がこれではのう。……嘉門殿」
 と未練らしく、尚しかし但馬は云った。
「もう一思案くださるまいかな?」
 しかし嘉門は物も云わず、腕を組んだまま横を向いた。
 とうとう但馬も立ち上がった。
「嘉門殿」
 と少し鋭く、
「日の入るまでは我ら一同、なお陣地にてお待ちいたす。それまでにご思案変えられましたら、遠慮は不用お申し越しくだされ。いかようにも穏便に計らいましょう。……なろうことなら青塚の郷を、これまで通り平和の里として、成立させとう存ずるほどに。……ご免」
 と云うと源兵衛ともども、玄関の方へ足を向けた。

 但馬と源兵衛とを送り出すと、嘉門は前庭へ現われた。
 嘉門と並んで兵庫も出た。
「談判不調! 戦いだ!」
「いよいよ戦い! 方々用意!」
 鵜の丸兵庫も凛然と叫んだ。


 つづいて嘉門が絶叫した。
「ご領主河内守様お繰り出しの兵と、紀州藩士とを向こうに廻し、我ら一同戦うのじゃ! ……明暦義党の方々が、どういう目的を持っておられて、どういう仕事をなさるのかは、この嘉門、以前お前達に、充分話して置いた筈じゃ! ……豊臣家の社稷しゃしょくをくつがえし、おのれ代って将軍となり、幕府を建てて権勢に誇り、京都御禁裡様をないがしろにし、『百姓はちょうど油かすのようなものじゃ、絞れば絞るほど汁が出る』と、こういったような考えのもとに、我々百姓を絞り取り、また町人に対しては、やれ運上うんじょう冥加金みょうがきんのと、いろいろの名目を押し立てては、これまた絞り取るに余念のない、その徳川の幕府に対し、反抗の旗を翻えし、天朝様の御世みよに返そうとする! ……これが義党の方々の、目的とするところなのじゃ! ……されば我々の味方なのじゃ! ……その義党の方々を、からめようとするご領主なのじゃ、また紀州の藩士ばらなのじゃ! ……一団となって戦え! 戦え!」
 ドッと喊声が湧き起こった。
「総大将は鵜の丸殿じゃ。わしは老人それに百姓、戦のことはトンと解らぬ! ……さあさあ兵庫殿采配をふられて、軍の備えをお立てくだされい!」
 云われて兵庫は進み出た。
「かくなりましては戦う以外、とるべき手段なくなってござる! ……とはいえご領主を相手にして、このわずかの人数をもって、いかに力戦いたしましても、勝つべき理由ござりませぬ! 所詮一応干戈かんかを交え、相手に一泡吹かせたあげく、一方の血路を開いて走り、他領の地へ潜入仕り、後日の計を立つるが得策! ……考え見ますれば我々同志が、この郷へ遁がれて参りましたばかりに、平和のこの郷を戦場とし、かつはそのあげく一郷離散、流浪の旅へでねばならぬ、さようの悪運命に至らせました次第、まことにまことに申し訳なく、何んと申してよろしいやら……」
「ご配慮ご無用!」
「心配ござらぬ!」
「そうでなくてさえ青塚の郷は、反骨ある者の集まりと見なされ、日頃から憎まれおりましたれば、今回の事なかろうと、早晩ご領主に難癖つけられ、一郷こぞって離散退去を、命ぜられる形勢にありましたのじゃ!」
「そこへ起こった今度の事件、かえって我々には好都合!」
「いい幸いに六万余石、井上河内守様を向こうに廻し、戦う名目出来ました!」
「そうだそうだその通りだ! 一郷退去は覚悟の前なのじゃ!」
 と、庭に集まっていた郷民たちは、異口同音に勇躍して叫んだ。
 女たちも絶叫した。
「わたしたちも覚悟をいたしております!」
「めぼしい家財道具など、みんな取りまとめて置きました!」
 聞いて兵庫は感謝し安心し、勇気を加えて大音に叫んだ。
「そう承わって拙者はじめ、同志一同ことごとく安心いたしてござりまする! ……しからばいよいよ策を設け、泡吹かせるばかりばかり! ……まず本陣をこの屋敷と!」
 こう云った時駄馬を走らせ、一人の郷民が走って来た。
「やア茂十だ! 茂十が来た!」
「物見に行っていた茂十だ茂十だ!」
 と郷民たちは声々に叫んだ。
 と、その茂十は馬から下りたが、
とっつぁん爺つぁん嘉門の爺つぁん! 犬帰村の方角からも、城方の兵ども百人あまり、こっちへ寄せて来るようだぞ!」
 と、嘉門に向かって注進した。
「そうか、よしよし、何百人であろうと、どの方角からでもやって来い! ……が、兵庫殿そういう次第じゃ! 備えはどうする? 陣立ては如何?」
「奥の部屋にて一応熟議!」
「それよろしい、奥の部屋にて……」

 三十郎と梶子とが、城方の兵にまじりながら、青塚の方へ歩いていた。

 城方へ一味と見せかけて、城方の兵にうちまじり、青塚の郷へ攻め入ったなら、恋人民弥に逢えるだろう、こう思って梶子は城方になり、三十郎はこれに反し、城方に一味し青塚へ行ったら、自分にとっては恋敵であり、かつまた自分を親の敵と狙う、恐るべき敵の松浦民弥を、討ちとることが出来るだろうと思い、城方の兵にうちまじり、梶子と共に峠道を、青塚の方へ歩いて行くのであった。
「梶子殿変な運命で、変なことになりましたなあ」
 三十郎は苦笑して云って、並んで歩いている梶子を見た。
「そうねえ」
 と梶子も苦笑いをした。
「ほんとに変な運命だよ。……でも以前とおんなじじゃないか。……お前さんがあたしの用心棒として、いつもいつもあたしのお供をしていた頃と……」
「なるほど、そういえばそうですなア」
「異うところは心持ちだけさ。ね、お互いの心持ちだけさ」
「…………」
「以前はあたしの用心棒として、あたしにただただ忠実だった人が、今じゃア半分敵のようになって、あたしの体をどうしようとか、あたしの大事な民弥さんを、討とうとか殺そうとか考えている。――というだけの違いなのさ」
「が、人形の胸の中から出て来た、黄金島の一件については、お互いに協力いたさねば……」
「そうだねえ、あの件については、協力しなければならないだろうよ」
「一緒に秘密を知ったのですからな」
「だから一緒に探しに行こうよ。魚屋ととや助右衛門の遺産というやつをね」
「人形箱をああして置いて、はたして大丈夫でありましょうかな」
 三十郎は少し不安そうに云った。
 あの家の押し入れへ入れたままで、二人は無造作に出て来たからであった。
「姉小路様御用と表書きしてあるよ、誰だって手なんかつけやアしないよ」
「なるほどこれはごもっともで」
 峠道はたいして嶮しくはなかった。
 しかし左右には喬木灌木が、昼なお暗いまでに茂っていた。
 そこを城方、井上家の家臣と、紀州藩士との連合軍が、百人あまり前後して、ゆるゆると歩いて行くのであった。
 夕暮れまでに山の向こう側、すなわち青塚の郷のある盆地へ、到着するように行けばよいので、それより早く行っても悪く、遅く行ってもいけないのであった。
 山の頂上へ達した時、城方の兵の隊長と――それは小林軍右衛門といったが、紀州藩士の隊長の、霜降小平とがささやき合い、それから梶子と三十郎の方へ、足早に寄って来た。
 この頃全軍は木蔭や藪蔭に休み、割籠わりごをあけて腹ごしらえをしていた。
ねたば三十郎殿とやら仰せられましたな?」
 と、小林軍右衛門が話しかけた。
「さよう、拙者、刃三十郎。……三十郎と申します」
 と、そう穏かに三十郎は答えた。
「そなたのご婦人は梶子殿とやら?」
 紀州藩士の小平が云った。
「はい、梶子と申します」
 と、梶子も至極おだやかに答えた。
「実はな」
 と軍右衛門が云いにくそうに云った。
「先刻村で貴殿方お二人に、突然加担方を申し込まれ、気ぜわしいおりからでありましたのと、一人でも味方は多い方がよい、――などとも存じて貴意に任せ、加担方おねがいいたしてござるが、この辺で一応ご身分などをな……でないとちょっと不安でござれば……」
「おやおやさようでございますか。いかさまこれはごもっとも、さあさあ何なりとお尋ねくだされ……」
 と、梶子は笑って愛想よく云った。

 素晴らしい美貌で品位もあり、年は若いが世故通らしい、尋常一様の女ではないと、梶子のことを二人の武士は、そう思っていたのであったが、その梶子が砕けた調子で、いかにも愛想よく受け答えるので、気持ちよくならざるを得なかった。
「ではお尋ねいたしますが、犬帰いぬき村の農家などに、住居されるご身分とも思われませぬが、何ゆえあのような農家などに?」
「昨夜わたくしども浜松の宿で、焼き出されたのでございますよ。……桔梗屋に泊まっておりましてねえ」
 笑い笑い梶子は云った。
「ははあさようでございましたか。……そこであそこへ避難された?」
「はいさようでございます」
 そう云いながらも心中では、梶子はおかしくてならなかった。
(その桔梗屋へ放火した奴は、これここにいる三十郎なんだよ。――と云うことをズバリと云ったら、三十郎もこの田舎武士たちも、飛び上がって吃驚びっくりすることだろうねえ)
 こう思っておかしくてならないのであった。
「事情それでよくわかり申した。……ところでご両所はご夫婦かな?」
 と、紀州藩士の霜降小平が訊いた。
(とんでもないよ)
 と梶子は思った。
(顔半面黒痣の、こんなイヤラシイ三十郎なんかと、何んであたし夫婦なものかよ)
「さあ夫婦に見えますかしら」
 ひとつからかってやりましょう。……こんな考えがふと起こったので、面白そうに梶子は云った。
「いや……しかし……ご一緒ゆえ……」
 と、小平も変に笑って云った。
 彼らの眼にも二人が夫婦などとは、実のところちっとも見えなかったのであった。
「夫婦ではござらぬ、夫婦ではない」
 不機嫌そうに三十郎が云った。
 からかわれているように思われたからで。……「夫婦であればよろしいのでござるが……」
 ホイホイ三十郎本音を吐いて、うっかりこんなように後をつづけた。
「厭だよ!」
 と梶子はシッペ返した。
「誰が、そんな、お前さんなんかの女房に……」
「アッハッハッ」
「ワッハッハッ」
 軍右衛門も小平も馬鹿笑いをしてしまった。
 似ないもの夫婦のようなその二人が、甚だ似て非なる痴話喧嘩らしいものを、こんなおりからやり出したので……。
「よろしいよろしい夫婦でなければよろしい。……が、夫婦でないとすると……お二人の関係……何んでござろう?」
「駈け落ち者と見えないかしら?」
 ヌケヌケと梶子が云い出したのである。
「そうあってくれればよろしいのでござるが」
 と、何んと三十郎もヌケヌケと、こんなことを云い出した。
 驚いたのは二人の武士で、
「カ、駈け落ち者、ミ、見えませぬな」
「オ、男の方が、ミ、みっともなさ過ぎる」
「ホ、ホ、ホ」
 と横腹を抑え、梶子は声を立てて笑い出した。
「三十郎さん、テレたわねえ」
「ひどいテレ様で」
 と三十郎も苦笑し、
「汗をかきましたよ、脇の下あたりに……」
「ご主従かな、ちと変だが」
 と、軍右衛門がまた訊いた。
「主従? ……さよう、用心棒で!」
 と、三十郎がズバリと云った。
「附け人と申してもよろしゅうござる」
 二人の武士は眼を見合わせた。

「附け人? 用心棒? ……変なお言葉で……」
 と霜降小平が渋面をし、
「それではまるで博徒のようで」
 と小林軍右衛門も顔をしかめて云った。
「もっとよくない身分なんですよ」
 と、不意に梶子が様子を変え、横柄に、叱るように、揶揄するように云った。
「あたしゃア女細作かんじゃなのさ」
「女隠密と申してもよいので」
 三十郎も揶揄するように云った。
「女細作? 女隠密?」
 これには軍右衛門も胆をつぶしたらしく、また小平と眼を見合わせたが、
「で、どなた様の細作隠密で?」
「豆州様のさ、松平伊豆様の」
「ご老中の松平伊豆守様?」
 と、軍右衛門は自分の耳を疑がうように、そう云ってキョトキョト眼を躍らせた。
 小平は少し顔色を変えた。
(はてな? それでは?)
 といったように、改めて梶子をつくづくと見た。
「松平伊豆様は二人とはないよ。ご老中の松平伊豆守様さ」
「そのお方の女隠密?」
 まさか! というように軍右衛門は、くどくど訊ねて眼をキョトキョトさせた。
「くどいねえ、その通りさ」
「お見それ致して申し訳もない儀」
 と不意に小平が一礼した。
「お噂は承わりおりました。……柳営のお方々とご縁故深く、その添え状を多数持たれ、諸地方へ参られてご滞在なされ、所のご領主や公卿方らと、お心安くお話しなさるる、梶子様と申される貴婦人あって、紀州にもしばらくご滞在あそばされ、我が君とも親しく遊ばされた趣き、お噂によって承わりましたが、よもや、よもや、その梶子様が、このような所においで遊ばすとは……それに致しましてもこれまでの無作法、いやはや何んとも申し訳ござなく、平にご用捨くだされますよう……」
 さすがに小平は紀州藩士だけに、梶子の噂は聞き知っていた。
 でそう云うと恐縮しきって、またうやうやしく一礼した。
 軍右衛門はすっかりおびえてしまった。
 六万余石の小大名の家臣、それも比較的軽輩だったので、梶子というような特殊の女――いってみれば日本的の女隠密の、高名も噂も聞いていなかった。
 が、今聞けば何んということか! 将軍家に次いで威権赫々たる、ご老中筆頭の松平伊豆守様の、女隠密であるという。ご親藩三家でも群を抜いて偉大な、紀伊大納言頼宣卿とも、膝つき合わせて話し合えるような、そんな特権を持っている、気味の悪い女だということである。
 すっかり軍右衛門は怯えてしまった。
「いやはや何んとも……何んともイヤハヤ……」
 云い云い彼は額の汗をぬぐった。
「さようなお方とは夢にも存ぜず、心安だてのこれまでの応対、平にお許しくだされますよう」
 ここで脇の下の汗をぬぐい、
「今後はなにとぞお見知り置かれくだされ、何かとご芳情にあずかりたく……」
 と、今度は鼻のあぶら汗を拭き、
「それにいたしてもそのようなお方が、われわれの勢にお加わりくだされ、青塚などへおいで遊ばさるとは……」
 今度はワザと空咳をし、
「どっちに致せわれわれにとり、あなた様のお味方得ましたこと、百万の味方を得ましたと同然……」
 ペコリとここでお辞儀をし、
「コ、光栄! 光栄の至り……」
 また額の汗をぬぐった。
 梶子は笑止に思ったが、吹き出すことも出来ないので、かえってわざと威厳を作り、
「あなた方の味方に加わって、青塚の郷へ参るのも、女隠密としての必要ゆえ……」
「へ、へい」と軍右衛門はヘドモドし、こわそうに梶子を上眼づかいに見た。
「というのはわたしはご老中様の隠密、それで天下を乱すような、明暦義党の同志とかの、暴動を退治る皆様方の働きに、参加して様子を知りたいからで」
 こう梶子はもっともらしく云った。
 そのくせ梶子は昨夜浜松で、本陣備前屋へ放火して、紀州藩士を怯かし、護送して来た囚人の、五十嵐右内を奪ったものが、明暦義党の連中で、その連中は青塚郷へはいった。そうして一方柊屋にも、明暦義党の同志がい、その中に菊女きくめという女がい、紀州家の御曹司萩丸様を擁して、何か計画していたらしかったが、これも青塚へ入り込んでしまった。
 ――といったような事情などは、先刻由蔵から聞いたばかりで、そうして何も梶子としては、そんな義党の連中のことなど、大して知りたくもないのであった。
 彼女がこの行に加わって、青塚へ行く本意といえば、恋人民弥に逢いたいからであった。
 しかし梶子はその民弥が、これまでのいろいろの事情から推して、明暦義党の同志であることに、もはや疑がいなかったので、心痛せざるを得なかった。
(何んといっても徳川様に対する、謀叛人の一人なんだからねえ)
(それだのに妾はその徳川幕府の、ご老中様の隠密なんだよ)
 こう思うと辛かった。
(敵同士が恋しているようなものさ)
 軍右衛門と小平は木蔭へ行って、何やらヒソヒソ囁き合っていたが、やがて梶子の側へ帰って来ると、小平が慇懃いんぎんに梶子へ云った。
「あなた様には紀州家の御曹司おんぞうしの萩丸様をご存知で? ――従来ご存知でござりましょうかしら?」
「ご殿へ参上いたしました際、二、三度お目にかかり存じております」
 と、梶子は穏かにそう答えた。
「その萩丸様こと青塚の郷に……」
「そうそう捕えられているそうだねえ。……江戸で何者かに誘拐されたと、そういう噂は承わりましたが……」
「それも明暦義党の輩が……」
「そうそう誘拐したんですってねえ」
「このお方が向こうにおられましては、青塚を攻めるにいたしましても、我々は不安でなりませぬ」
「義党の輩が萩丸様の御身に、危害を加えるかと案じられてねえ」
「はい、さようにござります。……つきましては誠に申しかねます儀、ご迷惑の御事とは存じまするが、あなた様におすがりいたしまして……」
「わたしに何か出来るかしら?」
「あなた様は女人のこと、何気ない様子によそおいくだされ、青塚の郷へ潜入し……」
「ああなるほど、そんなことなら出来るよ」
「彼らの本陣へ接近し……」
「ああなるほど、そんなことだって出来るよ」
「ひそかに萩丸様をお連れ出しくだされ……」
「妙案! わたしにも出来そうだよ」
「ではご承知くだされましょうか」
「やってみよう、出来そうだよ」

 こなた青塚の郷においては、戦備万端ととのえられた。
 嘉門と菊女と五十嵐右内とが、郷民の中の老人や子供や、女子などを率いて嘉門の屋敷の、本陣に残り守ることとし、萩丸ももちろんこの手に残った。
 正面の敵に向かったのは、鵜の丸兵庫を頭とし、明暦義党の半数と、血気の郷民の三分の二であった。
 そうして犬帰村の方角から来る、敵の別動隊に対しては、松浦民弥が指揮者となり、義党の同志の半数と、血気の郷民の三分の一とが、これに加わって向かうことになった。
 やがてこの日も夕暮れとなり、夕陽が森や林や耕地や、農家や山々に赤く燃え、その赤味も次第に褪せた。
 と正面の敵の本陣たる森から、ドッとばかりに喊声が起こった。

 その方面で戦いがはじまったらしい。
 すると一方犬帰村の方からも、はげしいときの声が聞こえて来た。
 そっちでも戦いが起こったらしい。
 正面の敵へ向かったのは、鵜の丸兵庫を指揮者とした、明暦義党の一部の者と、青塚の郷民の一部とであり、犬帰村の方の敵へ向かったのは、松浦民弥を指揮者とした明暦義党の一部の者と、ここの郷民の一部とであった。
 そうして本陣たる嘉門の屋敷へは、嘉門と菊女と萩丸と右内とが――郷民の一部と、女子供や老人などと残った。
(萩丸君を人質として、今はこっちの手に取ってある。城方と紀州藩との連合軍、どうして乱暴に攻めて来られるものか)
 この考えがこっちにはあるので、まことに悠々たるものであった。
 しかしこのことはまことに不幸にも、青塚方の考え違いであった。
 というのは、城方連合軍では、梶子という女を利用して、萩丸君を連れ出させる、――ということになっていて、そうしてこのことは犬帰村方面の隊長、小林軍右衛門から使者をもって、大手から攻める自分達の味方の、これも隊長の志水但馬へ、既に以前告げてあった。さて事情がそうであってみれば、むしろ性急に攻め立てて、敵をドンドン本陣へ追い詰め、本陣をメチャメチャに混乱させた方がよい。混乱にまぎれて梶子という女が、萩丸君を連れ出すであろうから。――で、連合軍の二手の勢は、遠慮なく青塚の勢を攻めたのである。時が経つに従い青塚勢は、次第次第に追われ追われ、本陣間近くせり詰められた。
 夜の闇を明るめて飛ぶ松明たいまつ
 放火されて火事となった農家もあった。
 死骸もあれば負傷してうごめく、敵味方の憐れな姿もあった。
 青塚郷は一瞬にして、修羅の巷と化してしまった。
 敗報が次々に本陣へ来、負傷者がドシドシ運ばれて来た。
 ことの意外に驚いて、
「これはいったいどうしたことだ!」
「城方の奴ばら血迷ったか!」
「味方の腑甲斐なさ何んということだ!」
 と、嘉門も右内も地団駄をふんだが、どうすることも出来なかった。
「屋敷の四方の門をとじろ! ……女子供は屋内へはいれ! 老人も負傷者も立ち上がり、敵寄せてば戦え戦え!」
 と、二人は屋敷の四方を走り、声をからして呼ばわった。
 覚悟はしていても女は弱く、気絶して仆れる者もあり、子供の中には泣く者もあった。
 と、不意に裏門の方から、ドッとばかりに鬨の声が起こり、鉄砲の音がつづけざまに起こり、丸太や石で門を破壊こわそうと、乱打する音が聞こえて来た。
「右内殿、一大事! 敵いよいよ寄せましてござるぞ! ……拙者その手に向かいまする。貴殿におかれては正門の方を!」
 と、嘉門は右内にそう声をかけると、老人や負傷者の勇気ある者や、一部残してあった若い郷民を率い、裏門の方へまっしぐらに走った。
 はたして敵が寄せて来ていた。
 三十人あまりの屈竟くっきょうの武士が、鉄砲を打ちかけ矢を放し、丸太で門の扉を打ち、威嚇的に喊声をあげていた。
 嘉門は味方へ大音に云った。
「弓を射ろ、鉄砲を打て! ……屋根へ上がって! 木へ登って!」
 声に応じて飛び道具を持った、青塚の郷民たちは木や屋根へ上がり、敵を目がけて打ちかつ射た。
 と見てとった敵の勢も、門外の木立へよじ登り、そこから屋敷内へ弓鉄砲を射込んだ。
「女も来い! 子供も来い! ……門へ材木や石を積め! ……扉を開けられぬよう手配りしろ!」
 嘉門の喚く声に応じ、女子供も走り出して来、材木や大石を門扉へ寄せかけた。


 この頃屋敷の奥の部屋には萩丸を守って菊女きくめがいた。
 裏門で戦っている敵味方の、弓鉄砲の烈しい音や、喊声や悲鳴が手に取るように聞こえた。
(これはこうしていられない!)
 菊女はほとんど気が気でなかった。
(自分も行って戦わなければ!)
 しかし傍らには萩丸がいた。
 大切な人質の萩丸がいた。
 この萩丸を取られようものなら、それこそ味方の一大事であった。
 といって萩丸ばかり守っていたところで、この屋敷へ敵に乱入されたら、けっきょく萩丸も奪い取られよう。
(どうかしなければならない! どうかしなければならない!)
 不意に菊女は考え付いた。
 で萩丸の手を取って、
「こっちへこっちへ」
 と云いながら、二階へ上がる階段へ行った。
 萩丸はほとんど痴呆状態であった。
 ただもうウロウロキョロキョロしていた。
 云われるままに手をとられ、階段の方へ歩いて行った。
 菊女は階段から二階へ上がり、部屋の隅にあった鎧櫃よろいびつをあけ、鎧を引き出して押し入れへ入れ、櫃の中へ萩丸を坐らせた。
 それから、
「萩丸様」
 と訓すように云った。
「悪い者どもが参りまして、あなた様をとらえて恐ろしいところへ、つれて行こうとしております。それでわたくしはその悪者どもを、これから追い払って参ります。で、どうぞあなた様には、ここにいつまでもおとなしく――わたくしの帰って参りますまで、じっとしておいでなさりませ。たとえ誰が参りましても、決して声を出しませぬよう」
「ああ俺はおとなしくしているよ」
 萩丸は素直にそう云ったが、その眼は涙でいっぱいであった。
「その代わり菊女や早く帰ってねえ」
「ハイハイ早くかえりますとも」
 櫃へ蓋をして二階を下り、菊女は裏門の方へ行ってみた。
 今にも門が破られようとしている。
(わたし一人が勢に加わって、戦ったところで仕方がない。……それより援兵を頼んで来よう)
 こう菊女は考えた。
 というのは恐らく兵庫も民弥も、敵の一手が屋敷へ殺到し、裏門を改めているということを、知らないでいるに相違ないと、そう感付いたからであった。
(兵庫様のもとへ走って行き、事情を告げて援兵を!)
 見れば木立に数頭の馬がつながれ、四足をバタバタと動かしていた。
「よし」
 というとその一頭を、木から放してくつわをとった。
 土塀の一所に横門がある。
 で、そこから乗り出そうとした。すると矢束を胸に抱えた、甚吉という老人が、母屋の方から走って来た。
「甚吉さーん」
 と菊女は叫んだ。
「わたくし鵜の丸兵庫様へ、援兵を求めに行って来ます。嘉門様か五十嵐右内様が、わたくしのことを訊ねましたら……」
「さよう申すでござりましょう」
「おねがいします」
 と云いすてると、菊女は横門から外へ出た。
 この辺には敵はいなかった。
 菊女は馬に跨がるや、兵庫の勢のいる方へ、真一文字に走らせた。
 と、横門の少し向こうに、けやきの木がこんもり茂っていたが、そこから二人の人影が出た。
「ありゃたしかに菊女ですぜ」
 それはねたば三十郎であった。
「男装はしているが菊女だねえ」
 こう云ったのは梶子であった。
「萩丸様をお守りしているのが、あの菊女の筈ですがねえ、どこへ何をしに行くのだろう?」
「何をしに行こうと勝手だが、あの菊女を逃がしては、萩丸様のい場所が知れぬ。三十郎さん追っておいでよ」
「そうだ、そうしてひっ捕えよう」
 三十郎は一散に、菊女の後を追っかけた。
 と、梶子は横門を押し、そこから屋敷内へ入り込んだ。

 梶子は屋敷内へ入り込むや、まず四辺を見廻して見た。
 悲鳴!
 叫喚!
 矢叫び銃声!
 走る者仆れる者、矢弾を抱いて駈けつける者などで、構内は文字通り戦場であった。
 裏門はまだ破られてはいなかった。
 梶子はいつの間にかその姿を、農婦のようにやつしていた。
 で、誰もが気がつかなかった。
(よし)
 とばかりに頷いて、梶子は母屋へはいって行った。
 城方の勢の一部をして、裏門の方へ廻らせたのも、実は梶子の指金さしがねからであった。
 彼女としては恋人民弥に、一刻も早く逢いたかった。
 ところが民弥はその梶子のいる、犬帰村方の勢に向かい、その手の指揮をしていたのであったが、そんなこととは知らない梶子は、本陣となっている嘉門の屋敷――そこへ行ったら民弥がいようと、そう思って迂廻して来たのであった。
 梶子は母屋へはいって行った。
 屋内も女や子供などで、混乱の極をつくしていて、誰もが右往左往していて、梶子に気附こうとはしなかった。
 そうして屋内には若い男――戦いの出来る壮丁など、ほとんど一人もいなかった。
 いてもそれは負傷者であった。
(しまった)
 と梶子は第六感で思った。
(あの颯爽さっそうとした民弥さんが、こんなところに残っている筈はない。……戦場へ行っているに相違ない)
 こう思うと失望した。
 が、すぐに別のことを思った。
(城方の武士や紀州藩士の方に、萩丸様を奪ってみせると、そうわたしは約束したんだよ。だから実行しなければならない。梶子の面目がつぶれるからねえ。……そうでなくとも紀州家のご愛孫、萩丸様というようなお方が、こんなところに誘拐されているのを、幕府ご老中の隠密であるわたしが、見遁がして置くことは出来やアしない。ヨーシ、萩丸様をさがし出し、味方の陣へおつれしよう)
 で母屋中をさがし廻った。
(萩丸様を守護している筈の、菊女とかいうあの女が、一人で先刻出て行った。ではおそらく萩丸様には、他の誰かの手に守られ、安全なところにいなければならない)
 こう梶子には考えられた。
 母屋の階下にはいなかった。
(もしや二階に)
 とこう思い、梶子は二階へ駈け上がって行った。
 二階には誰もいなかった。
 二階などに悠暢ゆうちょうに隠れているような、卑怯者は郷民にないかららしい。
 梶子は失望して下りようとした。
 と、部屋の一所に、鎧櫃らしい物が置いてあったが、その蓋が少しもち上がった。
(おや)
 と梶子は眼を見張った。
 が、すぐにその眼は笑い、梶子の足はそっちへ進んだ。
「萩丸様!」
 と呼んで見た。
「菊女かえ」
 と返辞が来て、櫃の蓋が半分ばかり開いた。
 女装こそはしているが、見覚えのある萩丸の姿が、窓から射している月光に照らされ、ぼんやりと梶子の眼に見えた。
「はい菊女でございます。……さあさあそこからお出なさりませ」
「早かったね、よく帰って来たねえ」
 云い云い萩丸は櫃から出た。
 出て見て人違いだと気づいたらしく、
「あッ、お前は!」
 と驚き叫び、また櫃の中へ隠れようとした。
 その手を梶子はグッと握り、
「萩丸様さあさあこっちへ!」
 云い云い引っ立て行こうとした。
「誰じゃ!」
 と萩丸は大声で叫んだ。
「菊女ではない、お前は誰じゃ! ……厭じゃ! 行かぬ! わしは行かぬ! ……菊女が来ぬうちはどこへも行かぬ! ……菊女がわしにそう云った、ここからどこへも行ってはいけないと!」
(これは面倒だ!)
 と梶子は思った。
(大声でも立てられ人でも呼ばれたら、わたしの身の方があぶなくなる)
 グッ!
 拳を突き出した。
「…………」
 萩丸は他愛なく気絶した。

 萩丸を人に見せないように、ありあわせの風呂敷を顔へかけ、負傷者を介抱するように見せて、梶子は階下へ下りて行った。
 階下はいよいよ混乱していて、梶子に気がつく何者もなかった。
 母屋から庭へ出た。
 まだ裏門は破られていず、攻める者も守る者も、門を中にして戦っていた。
 梶子はつながれている馬を見た。
(よし)
 と頷くとその一頭を、例の横門まで引き出して、まず萩丸を前輪の位置へのせ、自分もヒラリと飛び乗った。
 とたんに萩丸の顔を蔽っていた、風呂敷が取れて顔があらわれた。
「萩丸様だ――ッ」
 と喚いた者があった。
 矢弾を母屋から裏門の方へ、運んでいたところの老人で、例の甚吉という老人であった。
「大変だ大変だ、変な女が萩丸様を、誘拐して行くだーッ、誘拐して行くだーッ」
 しかし甚吉がそう喚いた時には、もう梶子は横門から、屋敷の外へ走り出していた。
「甚吉どうした!」
 と云いながら、走り寄って来た武士があった。
 嘉門と一緒に母屋にとどまり、本陣の守備にあたっていた五十嵐右内その人であった。
「五十嵐先生大変です、変な女が萩丸様を抱え、馬へのせてたった今しがた、横門から外へ! 横門から外へ!」
「ほんとか?」
 と右内が叫んだ時には、つないであった馬の一頭へ、飛びのっていた時であった。
 右内は横門から走り出した。
 それと思われる騎馬女の姿が、犬帰いぬき村のある方角へ、一散に走らせて行くのが見えた。
「あいつだな!」
 と右内は呟き、それを追って無二無三に走った。

 一方刃三十郎は、菊女の後を追っかけたが、向こうは騎馬、こっちは徒歩、次第に距離がへだたって来た。
(これは駄目だ、追うのはやめよう)
 こう思った時一頭の馬が、戦場から逸して走って来た。
「しめた」
 というと、その馬を抑え、素早く三十郎は飛び乗った。
 そうして菊女の後を追った。
 距離がだんだん近くなった。
(はてな?)
 と菊女は背後の方から、あたかも自分を追うかのような、馬の蹄の音がするので、不安を感じて振り返って見た。
 と、一人の浪人らしい武士が、すぐの間近に迫って来ていた。
(敵か味方か?)
 と見きわめようとした時、
菊女きくめ殿!」
 とその男が云った。
「どなたでございます?」
 と菊女は訊いた。
「拙者は刃三十郎!」
「刃三十郎? 刃三十郎!」
 菊女は何がなしにゾッとした。
 三十郎といえば自分達の同志の、松浦民弥の親の敵であり、いつぞや自分と鵜の丸兵庫とが、かくれ住んでいる家へ忍び込み、自分たちの秘密をうかがったところから、自分たちが討って取ろうとしたのを、詭計をもって逃げた男で、自分たちにとっても敵である筈だ。
(が、どうしてその男が、こんな場合にこんな所に?)
 菊女は瞬間行動に迷った。
 と、三十郎が嘲笑うように云った。
「いつぞやは馳走にあずかりましたな、剣のご馳走というやつに! ……江戸は本所のそなたたちの住居で! ……今日こそご馳走のお返しじゃ! ……拙者にいておいでなされ!」
 そう云いながらも好色邪淫、荒暴乱倫の三十郎は、夜目ながら美しい菊女の容貌に、好色心を動かしていた。

「黙れ!」
 と菊女は男装しているだけに、その言葉なども男のように、荒々しく颯爽と云った。
「大事の場合、何んの汝などに、従いて行こうぞ従いて行こうぞ!」
 馬をあおって駈けぬけようとした。
 三十郎は通さなかった。
「知らぬと見える、迂濶うかつ千万! ……拙者は井上家と紀州藩との、連合軍に味方して、汝らを攻めているのじゃぞ! ……本陣の裏門へ迂廻して、攻めかかったのも我々の方寸、つまり指図からやったことじゃ!」
「…………」
 これには菊女も仰天し、意外に思わざるを得なかった。
 が、どうしてこの男が、敵の連合軍に加わったのか? ――そんなことを悠暢に詰問しているような、そんな余裕はないと思った。
(一刻も早く鵜の丸兵庫様のもとへ、援兵を求めに行かなければならない! 問答無益! 駈け抜けて行こう!)
 でまたも馬を一煽りした。
 馬はいななき前足を立てた。
 が、その刹那三十郎は、刀を引き抜き馬の平首を、峰打ちにピシリと一撃した。
 馬は右手へとっ走り出した。
 菊女は驚き手綱かいくり、戦場の方へ戦場の方へ、馬の方向を変えようとしたが、驚かされた馬は無二無三に、同じ方向へ走るばかりであった。
 馬術にかけては女の身の菊女は、ただ一通り心得ていただけで、精妙というところへまで行っていなかった。
 今はひたすら落馬しまいと、しがみついているばかりであった。
(アッハッハッ、どんなものだ)
 三十郎は得意であった。
 菊女の後から抜き身をひっさげ、馬を煽って悠々と走った。
 次第に二人は嘉門の屋敷からも、戦場からも遠ざかって行く。

 一方梶子と萩丸とは、一頭の馬に相乗りして、犬帰村の方へ走っていたが、後から追って来る気勢がしたので、梶子は背後を振り返って見た。
 と、まさしく一人の武士が、馬を煽って走って来るのが見えた。
(味方か敵か?)
 とまよったので、馬のあがきが遅くなった。
 と、その武士は右内であったが、梶子の行手へ素早く廻ると、
此奴こやつ! 女め! 不届き千万! ……萩丸様を誘拐かどわかすとは! ……返せ返せ当方へ返せ!」
 そう右内は怒号した。
(しまった)
 と梶子は思ったものの、そこは大胆不敵の女、ビクとも心では驚かなかった。
「何を云うんですいお侍さん」
 と、人を食ったようにまず云った。
「あんたはいったいどなたなんですよ?」
「五十嵐右内と申すもの! ……青塚方の勢の者じゃ!」
「おやおやあなたが五十嵐様で。……あたしゃア梶子という女ですよ!」
「おおお前が梶子であったか、噂は鵜の丸殿や松浦氏より、承わって存じおる。……松浦氏と連れ立って、人形箱を送りながら、京都へ出たということも……」
「よくご存知、その通りですよ」
「その女が何んのために、このような時にこのような場所へ?」
「変な事情から犬帰村へ落ち、そこで井上家と紀州藩との、連合軍にぶつかって、面白ずくからその勢に味方し、萩丸様を奪ってみせると、豪語して青塚まで来たというものさ」
「当方にとっては萩丸様は、なくてかなわぬ大切の人質、それを何んぞや面白ずくで、奪い取ったとは不都合千万! これ萩丸様を当方へ渡せ!」
 云いながら右内は馬を煽り、梶子へ廻り組もうとした。
 と、梶子は帯の間から、素早く懐剣をひき抜くと、萩丸の胸へ切っ先をあてた。

「何をいたす!」
 と右内は驚き、馬の手綱をうしろへ引いた。
「萩丸様を、おのれ梶子、刺し殺す気か! 待て待て待て!」
 梶子は歯を見せて笑ったが、
「気絶している萩丸様、殺そうと生かそうとあたしのままさ。……と云ってむやみに殺しゃアしないよ。あんたが偉そうに権柄ずくに、ロクロク話もつけない先に、取り返そうとなさるから、それで懐剣さしつけたまでさ。……この梶子を安い女、おどしや力でくじかれる女と、踏んで貰いたくないからねえ」
 ここでまた梶子はセセラ笑った。
「なるほど、あやまる、わしが悪かった」
 右内はすぐに詫びるように云った。
「梶子殿のどういうご気象か、またどういうご身分か、主として松浦民弥氏より、昨日以来承わっております。……それでいながらつい無作法に、権柄ずくに振る舞いましたは、この右内の大失態、平にご用捨くだされい」
「まあまあこれはご丁寧なお言葉、それでは今度はわたしの方が、かえって恐縮いたしますよ。……ところで今もお名前の出た、あなた方の同志松浦民弥様、どこにおいでなのでございます?」
 やはり一番気になるのは、恋しい人の身の上だったので、こう梶子は熱心に訊いた。
「松浦氏は犬帰村方より、青塚へ向かった連合軍どもを、迎え撃つ手の指揮者として、……あれあれ今も戦声いくさごえの聞こえる、あなたにあって戦っている筈……」
「まあまあさようでございましたか……そうと知ったら危険を冒し、嘉門爺さんの屋敷などへ行かずに、すぐに、そっちへ行ったものを。……五十嵐様!」
 と力をこめて云った。
「民弥さんに逢わせてください!」
「いと易いこと!」
 と右内は応じた。
「拙者と連れ立ちおいでなされ、お逢い出来るでござりましょう。……が、その代り萩丸様は……」
「民弥様にさえ逢えましたら、萩丸様などどうでもよいので、そなたへお渡しいたしますとも」
かたじけのうござる、しからば拙者へ……」
「いえいえ」
 と不意に梶子は云った。
「民弥様のお手へ渡しましょうよ」
「…………」
「あの人の功にしましょうよ」
(ハハン)
 と右内は苦笑して思った。
(この女松浦氏に恋しているな)
「さようか」
 と右内はこだわろうともせず、
「松浦氏は我々の同志、それへお渡しくだされましても、我々にとっては同じこと、しからばそのようにしていただきましょうぞ。……さあしからば戦場へ!」
「参りましょう」
 と馬首を揃え、二人は一散に走り出したが、その時戦声烈しくなり、鉄砲の音も高くなり、忽ち行手から算を乱し、大勢の人影が走って来た。
 衆寡敵せず青塚勢が、連合軍に追い立てられ、逃げ走って来たのであった。
 殿しんがりとなった松浦民弥、数人を斬った血刀をり、返り血かそれとも負傷した血か、全身に血汐を浴びながら、追い縋る敵を斬り払い斬り払い、一方味方を盛り返すべく、
「青塚の方々きたのうござるぞ! 引っ返して戦いなされ! どこで死ぬも死は一つ、逃げても郷は壊滅し、結局は殺されるでござりましょう! それより憎い敵を討って取り、おのれも死んで不屈不撓ふくつふとうの、青塚郷民の芳名を、千歳の後に残しなされ!」
 と、大音に呼び大音に叫んだ。
 がいかんせんそこは農党、一旦逃げ足ついたとなれば、後へ引っ返す勇気はなく、ひたすら郷の方へ逃げて行く。
 と、右内は民弥の姿を、この時駈けつけて見てとった。
「松浦氏イーッ、拙者は右内! 助太刀に参った助太刀に参ったーッ」
「五十嵐氏かーッ! 残念無念! 敵大勢、しかもしかも、意外に強勇、傍若無人! ……このありさま、このありさま!」
「民弥様アーッ」
 と梶子も叫んだ。
「梶子でございます梶子でございます!」
「おおおおおお! 梶子殿かーッ」
 と事の意外に驚いて、民弥も叫び眼を見張ったが、そこへド――ッと連合軍、隊長の小林軍右衛門及び、霜降小平共々迫った。
「梶子殿オーッ、萩丸様は!」
 と軍右衛門の叫んだ声につづき、小平が馬上の萩丸を認め、
「梶子殿オーッ、お偉いお偉い! 萩丸様を奪いましたな! ……いざ早く、いざ早く、味方の陣へ!」
 と、雀躍こおどりして呼ばわった。
 しかし梶子はセセラ笑って叫んだ。
「小林様と霜降様、いろいろお世話になりましたねえ。厚くお礼申し上げますよ。いかにも妾ア萩丸様を、ここへこのように連れ出して来ました。ですから皆様へお約束をした、そのお約束は果たしたというもの、妾の女も立ちましたよ……が、大変お気の毒ですけれど、この萩丸様は仔細あって、皆様のお手へはお渡ししませぬ。このまま梶子が預かって置きます。……そればかりではない小林様霜降様、早々兵を引き上げて、青塚方を攻めるのを、すぐにも止めていただきましょう。……厭だとあれば仕方がない、ここに可哀そうに気絶している、萩丸様をこの梶子が、馬の上でただ一突きに、突き殺してしまいますよ!」
 云われて軍右衛門と小平とが、胆をつぶして仰天しまいことか!
 といって何かと云い争っていては、ほんとにそんな思い切ったことを、断行しかねまじい相手だったので、観念をして二人ながら叫んだ。
「戦い中止!」
「退け方々!」
 梶子は尚も押し強く云った。
「青塚を正面から攻めている、志水様や加藤様へも、あなた方より使者をやり、戦い中止を奨めていただきましょう。……嘉門様の屋敷へ向かった勢、あれへも人を走らせて、戦い中止を知らせていただきましょう」
 それぞれへ伝騎が走って行った。

 青塚の郷と犬帰村との、境いをなしている峠道の、林の中に三十郎は、菊女を前にして坐っていた。
 二頭の馬は木につながれ、ノンキそうに草を食べている。
 三十郎に追われ追われて、菊女はここまで走って来たが、ここですっかり精根つからせ、とうとう落馬してしまった。
 すぐに三十郎は馬から飛び下り、菊女を捕え刀をもぎとり、両腕をからめてしまったのである。
 で、菊女は観念して、縛られた腕を背に廻したままで、今寂然と坐っている。
 髪は乱れ衣裳も乱れ、顔色蒼ざめた菊女の姿を、木洩れの月光の照らしている様は、いたいたしくも凄艶であった。
(悪かアないな)
 と三十郎は思った。
(まだ手つかずの処女というやつだ。海千山千の梶子と異って、全く別の美しさだ。……これをギュッと退治する。悪かアない!)
 とそう思った。
 夜烏がどこかで啼いている。
 病葉わくらばが風に散るのだろう、肩の上へ落ちて来た。
「菊女殿」
 と三十郎は云った。
「もうこうなっては仕方ござらぬ、青塚の郷も明暦義党も、萩丸様も何も彼も、一切忘れておしまいなされ。……あなたは今はわしの物じゃ。……刃三十郎の所有物じゃ! ……焼いて食おうと煮て食おうと、拙者の自由というものじゃ」
「…………」
 菊女は返辞をしなかった。
 しかし心では思っていた。
(三十郎の云うとおりだ。こうなってはどうにもならぬ。どう思ってもどうにもならぬ。この兇悪な三十郎の、自由になるより仕方がない)と。
 そう思いながらも思われるのであった。
(鵜の丸様はどうなったか? 萩丸様はどうなったか? 民弥様や右内様や、佐原嘉門様はどうなったか? 明暦義党の同志の方々や、青塚の郷の人達は、あれからどうなったことだろう? ……戦いは味方の負けのようであった! 一人のこらず戦死して、青塚の郷は焼き払われ、壊滅に帰しはしなかったか? ……それにしてもどうしてこうも早く、味方は敗北したのだろう?)
 そうして彼女はこの三十郎が、自分に何を要求し、自分をどんなように取り扱かうかが、不安に思われてならなかった。

(淫蕩の眼付きで妾を見る! ……もしかすると妾の躰を!)
 こう思うとゾッとした。
(こんな男に穢されるほどなら妾は舌を噛み切って死ぬ!)
 貞操だけは守り通して見せる!
 こう彼女は決心していた。
(その外のことはここ当分、この男のするままになっていよう)
 この時三十郎は立ち上がった。
「さて菊女殿出立じゃ。……犬帰村へ参るとしよう。……窮屈ではござろうが猿轡さるぐつわをしますぞ」


 途中で人々にでも逢った時、菊女に声でも立てられては大変、こう思ったので三十郎は、手ふきで菊女へ猿轡をかませ、一頭の馬へかきのせた。
 それから自分も別の馬へ乗り、峠道を歩ませた。
 夜ではあり山路ではあり、全く人通りがなかったので、腕を背中で縛られて、猿轡をかまされた若い女が、馬に乗せられて行く背後から、半面黒痣くろあざの浪人が、これも馬に乗ってついて行くという妖怪画めいた風景も、咎められずに過ぎて行った。
 三十郎の考えといえば――
 犬帰村の佐治平の家へ、梶子より先に帰って行き、黄金島の秘密を持った、素晴らしい人形の箱を奪い、菊女を連れて人知れぬ処へ、ひとまず急いで落ちついて、それから黄金島へ押し渡り、例の地図をしおりとして、魚屋助右衛門の遺産とかいう莫大な黄金や財宝を、自分一人で手に入れよう。……
 ――これ以外の何物でもなかった。
 二頭の馬は男女をのせて、峠道を歩いて行く。
 と、背後から蹄の音が聞こえた。
(はてな?)
 と三十郎は耳を澄ました。
(百姓の曳く駄馬ではない)
 蹄の音でわかるのであった。
(馬は二頭だ。……人が乗っている)
 どっちみち逢ってはめんどうだと思った。
 で、菊女の馬を追い、自分もその後から従って、三十郎は峠道から、林の奥へはいって行った。
 それから二頭ながら馬をつなぎ、自分一人だけ馬から下り、何かしら気になるところから、峠道の方へ忍んで行った。
 と、男女二人の者が、二頭の馬にまたがって、話しながら通る姿が見えた。
 松浦民弥と梶子とであった。
(これはこれは! 何んとしたことだ!)
 三十郎はことごとく驚き、茫然として眺めやった。
(戦いはどうなったのか? ……いったい二人はどこへ行くのか?)
 しかしこれだけは推量出来た。
(戦いの方はどうなったか。――どっちが負けどっちが勝ったか、それはどうでもよいとして、二人は犬帰村の佐治平の家へ、人形箱を取るために、ああやって揃って出かけて行くのだ)
(元々二人が江戸を立ったのが、あの人形箱を警護して、京都の土地へまで行くためだったのだ。……そいつを俺が奪い取ったり、青塚征伐というような、意外な出来事が起こったため、中頃中絶していたのであったが、ああやってあの二人が邂逅してみれば、また以前と同じように、人形箱を警護して、京都の地へ行くのは当然だ)
 ムラムラと嫉妬が起こって来た。
 と同時に思われた。
(人形を鷹司家の妹君、簾子れんこ姫へ送るはいいとして、人形の胸に蔵してあったところの、黄金島についての大切な地図まで、簾子姫へ送られては大変だ)
(いや、そんなことは断じてない!)
 三十郎は不意に思った。
(何んの梶子が、あの女が、黄金島のあの秘密を知って、それをムザムザ放棄して、地図を姫などへ渡すものか! ……俺の代りに、民弥と一緒に、黄金島へ押し渡り、魚屋助右衛門の遺産というやつを、発見するのに相違ない)
 嫉妬と猜疑さいぎと怒りと口惜しさとが、三十郎の胸へ湧き起こった。
(あいつらに何んの人形を渡そう! あいつらに何んの地図を渡そう! ……是が非であろうと先廻りをして、人形をこっちの手へ入れてやろう! ……)
 三十郎は足音を忍ばせ、菊女のいる方へ引っ返した。
 二頭の馬を木から放し、その一頭に跨がって、峠の道に添いながら、林の中を大いそがしに、菊女の乗っている馬を追い追い、三十郎は犬帰村の方へ進んだ。

 そんなこととは夢にも知らず、梶子と民弥とは親しそうに、話し合いながら馬首を揃え、峠の道を下って行った。
 戦いは和睦となったのであった。それも梶子の策略から。
 すなわち梶子が命を下し、小林軍右衛門や霜降小平をして、青塚攻撃をやめさせたばかりか、志水但馬や加藤源兵衛へも、萩丸様の命大切と思わば、兵をやめよと云いやらせた。
 そこでその手も兵を止めた。
 梶子は萩丸を民弥の手へ渡し、民弥はそれを右内へ渡し、右内はそれを佐原嘉門方へ――すなわち本陣へ連れて行った。
 この時梶子は民弥だけへ、人形のあり場所と秘密とを話した。

 秘密! すなわち人形の一つに――すなわち男雛の胸の中に、黄金島に関する地図と書き物とが、意外にもこっそり蔵してあった! ……という秘密を物語った。
 それを民弥が聞いた時、どんなに心をヒヤリとさせたか!
(男雛の方でまずよかった。女雛の胸をひらかれようものなら、例の宥免ゆうめん状を発見されたところだ)
 こう思ってヒヤリとしたのであった。
 梶子はさらに民弥へ云った。
「黄金島の地図を栞に、黄金島へ二人で行き、その魚屋の隠した財宝を、手に入れようではありませんか」と。
 民弥はすぐに承知した。
 が、民弥の本心といえば、魚屋の財宝を取ることよりも、ともかくも人形を手に入れて、宥免状を手に入れたい――ということそれであった。
 で民弥は梶子をうながし、犬帰村の方へ向かったのであった。
 今二人は馬首を揃え、峠道を歩いて行く。と、左手の林の中から、馬の蹄らしい音が聞こえた。
(はてな?)
 と二人ながら耳を澄ました。
 二頭の馬の蹄の音らしい。
 自分たち二人と並行して、犬帰村の方角へ、走らせて行くように思われた。
「おかしいねえ」
 と梶子は云った。
「さよう、少しく変でござるな」
 民弥もそう云って首をかしげた。
「炭でも積んだ馬を曳いて、百姓が帰るのでござりましょうよ……さあ、そんなものはうっちゃっておいて、急いで行くことにいたしましょう」
 梶子は先を急ぐように云った。
「それがよろしゅうございますな」
 民弥もそう云って馬を走らせた。
 しばらく二人は無言で進んだ。
 と、梶子が笑いながら、
「わたくし思うのでございますよ。あなた様が以前からあの人形に、執着をお持ちなさいましたのは、黄金島の秘密の地図が、あれにかくされてあるということを、実はご存知であったからだと」
 こう云って民弥を覗くように見やった。
「いや、決して……」
 と民弥は云った。
 がしかし民弥はふと思いついた。
(この女がそんなように思っているのなら、そう思わせておいた方がいいらしい。そう思ってこの女がいる以上、女雛の胸に宥免状が、別にかくしてあるということなどに、思いを運ぶことがないからな)
 そこで彼はわざと笑って、
「実はな、実は、梶子殿、拙者もそのことは知っていましたので……」
「でしょうとわたし思いましたのよ」
 と、梶子はいかにも得意そうに云った。
「そうでなければああもあの人形に、執着なさる訳がありませんものね」
「さようさよう、そのとおりでござる」
「それにいたしても罪なお方」
 と、梶子はここで怨ずるように云った。
「あれほどの秘密、あれほどの宝を、ご自分一人の物になさろうと、ご一緒に旅をしているばかりか、このようにあなた様を想っている妾に、一言も明かしてくださらないとは」
「アッハッハッそう云われましては、拙者一言もござりませぬが、あなたというお方の人柄が、あの頃にはわかっておりませず、かたがた秘密にしておりましたので……」
「もう妾という女の素姓、お解りになった今日では……」
「松平伊豆守様の女隠密と、ハッキリなのられた今日では……」
「かえって不安ではござりませぬかしら」
「その点は不安といたしましても、そういうあなた様が私どもに味方し、危難をお救いくださいました以上は……」

「味方とお思いなさいますか?」
「味方と思わないで何んとしましょう」
 ここで二人は顔を見合わせ、まことに親しそうに微笑し合った。
 梶子が松平伊豆守の、女隠密だということは、民弥へ萩丸を渡した際に、彼女の方から明かしたのであった。
「さて民弥様」
 と梶子は云って、馬の手綱を少しゆるめ、馬の歩みを少しく遅くし、ささやくように話しかけた。
「二人で黄金島へ渡りまして、魚屋の財宝を手に入れましたら、妾はあぶない隠密稼業など、早速やめるつもりでございます。……ですからあなた様におきましても、徳川幕府に弓ひくなどという、とうてい成功おぼつかないことから、綺麗きれいにお手を引かれまして、妾と一緒に……ねえ妾と……」
 ここでさすがに云いやめてしまった。
「夫婦になって浮世を平和に、くらして行こうではございませんか」
 と、こう本当は云いたかったのであるが、そこまでは露骨に云えなかったのであった。
 民弥は返辞をしなかった。
 彼といえども明暦義党の、同志の企てていることが、成功しようとは思われなかった。
 といって今さら同志と別れて、梶子と一緒に平和に安穏に、この世を送るということは、うしろめたくて出来なかった。
(それに第一魚屋の財宝が、そんな島などに尚今日、はたして本当に隠してあるかどうか?)
 これがあぶなっかしく思われたし、
(よしんば隠してあったところで、我々二人の力をもって、はたして、それが発見出来るか、どうか?)
 これもあぶなっかしく思われた。
(そんなことより現在の俺は、早く人形を手に入れて、宥免状の安全を期したい)
 こうしきりに思われるのであった。
 二人はまたもしばらく黙り、犬帰村の方へ進んで行った。
 この間も林から聞こえて来る、二頭の馬の蹄の音が、何んとなく二人には気にかかった。
 やがて犬帰村が見えるようになった。
 林が絶えて耕地となった。
 と二人の人間が、二頭の馬にまたがって、林の中からその耕地へ、まっしぐらに走り出で、村の方へ向かって駈け行く姿が、梶子と民弥との眼に見えた。
 距離がはなれているために、何者であるかはわからなかったが、様子が何んとなく変であった。
 一人は縛られてでもいるようであった。
 梶子と民弥は顔を見合わせた。
「ちとこれは変でござるな」
「そうねえ、ちょっと、変ですねえ」
「悪漢が女をかどわかし……」
「縛られているの、女かしら?」
「なるほど、姿は男でござるな」
「村の方へ行くようですねえ」
「追いかけてみようではございませんか」
「そうねえともかくも急いで行きましょう」
 二人は馬へ一鞭加えた。
 しかし先方の二人の者は、一層に馬を走らせて、見る見る村の中へ消えてしまった。

 犬帰村の佐治平の家は、それから間もなく大騒ぎとなった。
 梶子が夜叉のように叫ぶのに応じ、佐治平が動顛してどもりながら答え、民弥が苦痛を顔に現わし、部屋中をグルグル歩き廻っている。
 ――といった大騒ぎとなったのである。
「三十郎が来たって、三十郎が!」
「ハ、はい、三十郎殿参りまして、ニ、人形の、ハ、箱を、モ、持ち去ってでござります!」
「二人で来たって? 男のような女と?」
「フ、二人で参りました。オ、男の姿をした、オ、女の人と一緒に!」

菊女きくめと呼んだって? え、菊女と?」
「ハ、はい、さようにござります。……サ、三十郎様がそのお方を、オ、男の姿をした、オ、女のそのお方を『さあ菊女殿、マ、参りましょう』とコ、このように呼びまして、ニ、人形箱を馬に乗せ、ゴ、ご自分たちも馬に乗り、タ、タ、タ、たった今しがた、ト、とんでってしまいました」
 主人の博労の佐治平は、梶子の見幕に驚いて、いよいよ吃りあわてるのであった。
「民弥さん!」
 と梶子は叫んだ。
「どうしましょう? どうしましょう?」
 魚屋助右衛門の隠した財宝の、所在を記した地図と文書とを、蔵したところの人形は、梶子にとっては財宝そのもの! そんなようにまで思われるのであった。
 それを三十郎に奪われたのである。
 財宝そのものを三十郎によって、奪われたようにさえ思われた。
「まだ遠くへは行きますまい。叶わぬまでも追っかけて、……是が非であろうと探し出し、三十郎を討ってとり、菊女殿を助け、人形を取り戻し……取り戻さねばなりませぬ! 梶子殿、いざご一緒に!」
 云うより早く庭に飛び出し、民弥は馬に跨った。
 民弥からいえば魚屋の財宝、そんなものは二の次であった。宥免状こそ大切であった。それを蔵した人形は、どうあろうと取り返さなければならなかった。
 それにもう一つ三十郎は、不倶戴天ふぐたいてんの親のかたきであった。討って取らなければならなかった。
 菊女は同志の一人である。
 これとてどうしても助けなければならない。
(それにしてもどうして菊女殿には、三十郎などに捕えられて?)
 このことが民弥には不思議であった。
 しかし民弥は梶子の口から、三十郎が梶子と共に、小林軍右衛門や霜降小平の勢へ、加入して青塚を攻めたこと、そうして三十郎が嘉門の屋敷の、裏門から馬に乗って走り出た菊女を、戦いの最中に追っかけて行ったと、ここへ来る峠の道々で、話されて知ってはいたけれど、それにしてもあれほどの女丈夫が、ムザムザ三十郎などに捕えられたとは! ……このことが不思議に思われるのであった。梶子も民弥の後につづき、馬に飛び乗り走り出した。

 一月ほどの日が経った。
 瀬戸内海に点在している、大小無数の島のうち、巨大をもって称されている、風景絶佳をもって呼ばれている、××島の深林の中に、数十人の男女の者が、忙しそうに働いていた。
 明暦義党の人々と、青塚郷の郷民の一部、それの合した一団であって、その中には佐原嘉門も、鵜の丸兵庫も五十嵐右内も、足洗主膳等の顔も見えた。
 が、どうしたのか民弥の顔は、それらの中には見えなかった。
 これらの一団は昨日の夕方、はじめてこの島へ来たのであった。
 そうして今は自分たちの住居を、みんなして造っているのであった。
 木を伐る者、それを削る者、杭を打つ者、柱をたてる者、地をならす者、穴を掘る者、男も女も子供も老人も、孜々ししとしてそうして嬉しそうに、疲労を恐れずに働いていた。
 今日でいえばバラック式の建物、それを建築しているのであった。
 その日の夕暮れになった時、同志の一人の金井半九郎が、海岸から大急がしに走って来た。
「鵜の丸殿、佐原殿、稀有けうのことがございます」
 そう二人に注進した。
「稀有のこととは?」
 と兵庫は訊いた。


 半九郎は呼吸いきせき云った。
「拙者海岸に参りまして、船の世話いたしおりましたるところ、沖の方より大船参り、海岸に横づけとなりましたが、百数十人の武士の群が、その船よりおかに上がり、林の中へ分け入りましてござる。これはいぶかしいと存じまして、後をつけ様子を見ましたところ、何んとその中に紀州の藩士、ご存知の加藤源兵衛や、霜降小平などがおりましてござる。されば思うにその人数は、紀州藩の者にござりまして、この島へ上陸いたしましたは、我々がこの島へ参りましたを探知し、一つには萩丸様を取り戻そうため、一つには我々同志一同をからめとるために相違ござりませぬ。はなはだ危険と存じましたなれば、馳せ帰ってお知らせいたしましてござる」
 兵庫も嘉門も顔色を変えた。
「フーム、紀州の藩士どもが、そのように多数上陸いたしてござるか。これはいか様お言葉通り、萩丸様を取り返すためと、我々を捕えるためでござろう。それにいたしても我々一同が、この島へ渡来いたしたことを、どうしてそのように紀州藩へ知れたか?」
 いぶかしそうに兵庫は云った。

 が、それにしても兵庫たちこそどうしてこんな島へ来たのであろう?
 青塚郷のあの乱闘! それがともかくも和睦となった。
 しかし兵庫たちは考えた。
(うっかり講和の談判などに、日時を費やしては大変である。そのうちに城方め大兵を出して、こちらを揉みつぶすに相違ない。それより神速に、脱出しよう)と。
 で、ほとんど電光石火に、明暦義党の同志たちは、郷民全部と連れ立って、背後の山越えに脱出した。
 日頃の嘉門の訓練が、このような時にも役立って、文字通り一人の落伍者もなかった。
 道々嘉門は指揮をして、親類縁者のある者は、それへ手頼って落ち行かせ、落ち行く者へは負傷者を預け、その治療を依頼した。
 頼み甲斐ある友人のある者は、そこへも手頼って落ち行かせた。
 さてそうして一月の間に、あらかた人々のかたをつけた。
 が、壮心ある者と、行き場所のない人々ばかりが、尚しかし多数残った。
 それを引き連れて瀬戸内海の、この島へ渡航して来たのであった。
 が、それにしても何のために、この島などへ来たのであろう?
 明暦義党の軍用金が、この島に隠されてあるからであった。
 それは五十嵐右内によって、同志一同に告げられた。
 で、その金を取り出すために、この島へ渡って来たのであるが、ただそれだけのことであったなら、このように多数の人間が、大挙渡来する必要はない。
 他にもう一つ理由があった。
 明暦義党の徒はいうまでもなく、青塚郷の郷民も、上に逆らった人々なので、普通の世間へは入れられない。身分が知れたらからめとられる。そこでこの島へ渡って来て、空想的でもあり冒険的でもあり、夢のような試みであるけれど、開墾をやって自給自足し、しばらく世間の様子を見よう。……で、この島へ来たのであった。
 幸いこの島は海岸の辺に、わずか漁師が住んでいるばかりで、他にはほとんど住民なく、隠れ住むにはふさわしかった。
 ところがどうだろう上陸早々に敵なる紀州の藩士たちが、そのように多数上陸したとは。
 兵庫も嘉門も当惑そうに、顔を見合わせて黙ってしまった。
 と、その時同志の一人の、関口勘之丞が林の奥から、これも狼狽した顔をして、呼吸いきせききって走って来た。
「鵜の丸殿、嘉門殿、稀有のことがございます。……軍用金隠匿いんとくのその地点に、多数の人々がおりまする」

「何?」
 と兵庫は仰天したように云った。
「軍用金隠匿所に人がいるとな?」
「はい、さようにござります。貴殿よりのご命令ありましたので、拙者数人の郷民を連れ、異変なきやを見定めるため、険を冒して昨夜発足、今暁その地に着きましたところ、その隠匿所の方面より、ガヤガヤ人声いたしますゆえ、これは不思議と木や藪をくぐり、近寄って様子をうかがいましたところ、山男のような荒くれ男ども、幾十人となく集まりおり、焚火をし、魚肉獣肉をあぶり、それを肴に酒を飲み、大変もない上機嫌にて、乱舞高歌いたしおるありさま! 呆気にとられおりますると、彼奴きゃつら我々を発見いたし、何やら喚き出したと思う間もなく、竹槍等をひきそばめ、大勢して押しよせ参りましたれば、危険と存じその場を遁がれ、馳せ帰りましてござります」
「フーム」
 と兵庫は唸るばかりであった。
 と、いつかその背後へ、五十嵐右内が寄って来ていたが、
「関口氏」
 と進み出た。
「そのお話たしかでござるかな?」
 と、心配らしく質問した。
「間違いござらぬ。確かにござります」
「フーム」
 と右内も腕を組んで、唸りを上げるばかりであった。
「五十嵐氏」
 とややあって、鵜の丸兵庫が腑に落ちないように云った。
「山男のような荒くれ男とは、いかなるやからでござりましょうかな?」
「さあ」
 と右内は困惑したように云ったが、
「浜に住居する漁師の類と、拙者には思考いたされまするが、それにしてもそのような漁師どもが、選りに選ってそのような場所で、酒を飲み高歌いたしおるとは、何とも合点出来ませぬが」
「何らかの事情で我々の軍用金が、その場所に隠匿してあるということを、その輩が探り知り、それを奪い取る目的をもって、大勢いたしてその場所へ参り、いうところの前祝いなどを、いたしおるのではござりませぬかな」
 嘉門が不安そうに口を入れた。
「いや、……まさか。……それよりむしろ……」
 と、右内がにわかに意味あるように云った。
「それよりむしろこの島に伝わる、一つの伝説を耳にした輩が、それを信じて実証すべく、そのような場所へ集まって、騒ぎおるものかと存ぜられまする」
「何んでござるな、伝説とは?」
 と、兵庫が不思議そうにそう云って訊いた。
魚屋ととや助右衛門闕所される前に、莫大もない財宝を、ひそかにこの島へ隠したという、そういう伝説にござります」
「これは初耳、さようでござるか」
「それが真実なら面白うござるな」
 嘉門までが愉快そうに云った。
「実は」
 と右内が、にわかに真面目に、だが少しばかり気恥ずかしそうに云った。
「実は拙者もその伝説を、以前少なからず信じましてな、ひそかにこの島へ渡りまして、それとなく、宝さがしをいたしましたので。で、比較的この島の地理を、存知おるような次第でござる。……そのため大切の党の軍用金も、この絶対安全の地へ、隠匿致しました次第でもござる」
「ははあ」
 と兵庫は胸に落ちたように云った。
「何故このような不便の島などへ、好んで軍用金を隠匿したものかと、拙者実は心ひそかに、不思議に思いおりましたが、そのような事情がありましたのか」

 この島の深林地帯の、ずっと奥の一所に、巨大な岩山が出来ていた。
 洞窟なども幾個かあった。
 その一つの洞窟の中に、刃三十郎と菊女とがいた。
 数日前にこの島へ来、そうしてここへ来たのであった。
 洞窟の中は薄暗かったが、でも入り口から陽が射していたので、夕暮れほどの明るさはあった。
 洞窟の外の林の中では、三十郎が連れて来た、内地からの無頼漢や、山男のような島の住人が、大勢ガヤガヤ騒いでいた。
「先刻見なれない武士らしい男が、数人内地の人間らしいのを連れて、こっちをうかがっていたそうでござるが、拙者以外に武士風の男など、この島にそうそういる筈ござらぬ。……いるとすると何者やら? ちと気がかりでござりますよ」
 そう三十郎は不安そうに云った。
 関口勘之丞が郷民と一緒に、ここの様子を見ようとして来た。それを三十郎の手下どもが見付けて、得物を揮って追いはらった。
 そのことを云っているのであった。
 三十郎は勘之丞達を見なかったので、何者だか解っていないのであった。
「さあ何者でございますやら?」
 菊女もそう云って首を傾げた。
 菊女は女装に返っていた。
 だいぶやつれてはいたけれど、でも美しさには変わりがなかった。
 ――さあ何者でございますやらと、そう菊女は何気なさそうに云ったが、その実、心では考えていた。
(そんな内地の武士らしい人が、この島の中にいるのなら、あの人形の胸の中から、宥免状を取り出して、それを持ってここを逃げ出し、その人のところへ尋ねて行き、事情を話して援助を乞い、内地へ帰してもらいたいものだ)と。
 青塚郷の乱闘の後、彼女は三十郎の捕虜同様になり、犬帰村に行ったところ、一軒の農家に人形箱があり、それを馬に積むと三十郎は、自分をも連れて裏道づたいに、××の宿の方面へがれ、そこですっかり身なりを変え、大坂の方へ潜行した。
 その間に三十郎の口によって、菊女の聞いたことといえば、人形の男雛の胸の中に、黄金島の地図があり、その島の一所に魚屋の遺産が、隠匿されてあるということと、地図を手頼りにしてその島へ行って、その財宝を探すつもりだ。――といったようなことであった。
「あなたをも一緒にお連れするつもりじゃ。……実は最初は梶子という女と、一緒に行く筈になっておりましたが」
 などと三十郎は云ったりした。
 菊女は民弥からそれ以前に、二個の人形のうち女雛の方の胸に、萩丸自筆の宥免ゆうめん状が、かくされてあるということは、ハッキリ告げられて知っていたが、男雛の胸の中に黄金島の秘密が、地図と一緒にあるということなど、全然告げられていなかったので、不思議に思わざるを得なかった。
(まだ三十郎は女雛の胸の中に、わたしたちの欲しがっている宥免状の、かくされてあるということに、一向気がついていないらしい。隙をうかがって奪い取り、一人ででも紀州へ出かけて行き、頼宣卿へつてを求めて差し上げ、同志の宥免を乞いたいものだ)
 こう、しきりに熱望された。
 で、それからというものは、貞操を許さない範囲において、菊女は三十郎と馴れなじみ、心を油断させるようにした。
 大坂の港から船を仕立て、例の地図を手頼りとし、この××島の黄金島へ渡り、これも地図をたよりとして、この土地へこうして踏み入ってからも、菊女は三十郎を優しくあつかい、油断させようとした。
 さて、二人は洞窟内にいた。
「菊女殿」
 と云いながら、三十郎は洞窟の奥の、岩壁の裾に据えてあるところの、人形箱へ眼をやった。
「女雛の胸にも秘密の隠し所が、作られてあることご存知かな」

 これを聞くと菊女はギョッとした。
(それをこの男は知っていたのか!)
(それなら大変だ!)と菊女は思った。
 が、何気ない様子をつくり、
「まあさようでございましたか、わたしはとんと存じませんが。あなた様はこれまで絶対に、わたしに人形はあつかわせず、……ですから何んでそのようなことを……」
「なるほど」
 と三十郎は苦笑いをしたが、
「あなたに人形をあつかわせなかった理由も、その隠し所があったからで……」
「まあそんな。……でも何故?」
「その隠し所に大変なものが、蔵してあったからでございますよ」
「まあ……でも……大変なものとは?」
「紀州の御曹司おんぞうし萩丸様が……」
「…………」
「多数紀州で捕えられたところの、明暦義党の同志とやらを、救命してくだされと頼宣卿へ……」
「…………」
「嘆願をした宥免状で」
「…………」
「いたいけな文字で憐れっぽく、縷々るるとして書いてありましたよ」
「…………」
「あれを見ましたら南海の龍、英雄紀州頼宣卿も、即座に捕えた義党の同志を、宥免するでござりましょうよ」
「…………」
「そこで拙者思いましたよ。……菊女殿が拙者と一緒になり、このように旅をしている間中、あの人形箱に絶えず留意し、ともすれば接近しようとするのは、あの宥免状を手に入れたいためだと」
「…………」
「それにもう一つ拙者によって、いわばほとんど手ごめのようにされて、いわばほとんど捕虜にされて、このようなところへまで連れて参られても、大して怨むような様子もなく、時には機嫌さえおとりになるのは、そうやって拙者に油断させ、宥免状を取りたいためだと」
「…………」
「それにいたしても義党の一人で、しかも女丈夫で聡明でもあるあなたが、すでに宥免状が拙者の手により、発見されたという事に、今日までお気づきなかったとは、少し不思議でございますなあ」
「…………」
「菊女殿そうではござらぬか、一対の女男の雛の一つの、胸のあたりに隠し所があって、そこにあのような黄金島に関する、すばらしい文書が蔵してあったとすれば、もう一つの雛の胸の中にも、同じような隠し所が作られてあって、秘密の文書が蔵してあるかもしれぬと、そう考えてその隠し所を調べるのが当然でありますからな。……拙者そこで調べましたので」
 と云って来て三十郎は、例のみだらの眼づかいで、菊女をジワリジワリと眺めた。
「拙者にとってはあの宥免状は、大切でもなければ必要でもござらぬ。で、あなたがご入用なら、喜んで差し上げるでござりましょうよ」
 またここでいやらしいみだらの眼で、ジワリジワリと三十郎は菊女を見た。
「といってどうも只ではのう」
 またいやらしくジワリジワリと見、
「水心あれば魚心で……」
 膝を菊女の方へ寄せて行き、
「いかがでござるな菊女殿」
 云い云い菊女の手を握った。
「大概おわかりでござりましょうよ」
 菊女の体をジリジリと引き寄せ、
「拙者がそなたに恋していること、とうにそなたも知っている筈。……そこで水心に魚心……」
 グッと片手で肩を抱き、
「うんと云われたなら宥免状はすぐにそなたの物になる。……が、厭じゃと仰せられたら、拙者宥免状を引き裂きますぞ!」
 頬を菊女へ寄せて行った。

 菊女はすっかり当惑した。
 宥免状は是非とも欲しい。といってこのような男などに、何んで躯をまかされよう!
 が、没義道もぎどうに断ったならば、傍若無人のこの男は、本当に宥免状を破るかもしれない!
(どうしたらよかろう?)
 と途方に迷った。
 と、その時洞の外から、
「また変な奴がやって来たぞ!」
「さっきの奴とは違うようだ!」
「一人は侍で一人は女だ!」
 と、そういう声が聞こえて来た。
 三十郎は不意に立ち上がった。
 どうせ菊女はこっちのものだ。性急に退治る必要はない。
 宥免状はこっちにある。
 宥免状欲しさに何んの菊女は、ここから逃げて行くものか。
 変な男女が来たという。
 ここの様子を見に来たのかもしれない。
 何者であるか不安である。
 何者か確めてやらなければならない。
 ――こう思って立ち上がったのであった。
 三十郎は洞外へ出た。
 菊女は急場の難を遁がれ、ホッとばかりに安心したが、
(さてこれからどうしたものだろう?)
 と、途方にくれざるを得なかった。
 宥免状を発見した三十郎は、それをおとりにこの後もしばしば、この身の貞操を奪おうと、迫って来るに相違ない。
 そうして恐らくその宥免状は、人形の胸などへは入れて置かないで、自身持っているに相違ない。
 ではとうてい取ることは出来ない。
(いっそともかくもここを遁がれ、この島にはどうやら住民以外、内地の人もいるらしいから、その人の処へ訪ねて行き、内地へ渡して貰うことにしよう)
(そうだそれに!)
 と彼女は思った。
(同志の間に萩丸様が、まだ捕えられているようなら、同志や萩丸様に邂逅して、もう一度萩丸様をだますかして、宥免状を書かせたらいい)
(まあ何んだってわたしたちみんなは、そのことに早く気が付かなかったのだろう。……どうして一枚のあの宥免状ばかりに、今日までこだわっていたのだろう?)
 このことを思うとおかしくさえなった。
(逃げよう)
 と菊女は決心した。
 洞の口へ行ってみた。
 二、三人の者が附近にいたが、人声がかしましく聞こえて来るところの、林の奥の方へ注意を向け、こっちへは背中を向けていた。
(有難い)
 と菊女は感謝しいしい、素早く洞の口から出て、洞に添って岩山の背後へ、栗鼠りすのように小走った。
 幸い誰にも気づかれなかった。
 林の中へ飛び込んだ。
(もう大丈夫! もう大丈夫だ!)
 彼女は一散に林の中を走った。
 もちろんこれというアテはなかった。
(ともかくも海岸へ!)
 ――で下へ下へと走った。

 三十郎は部下を率い、林の中をさがし廻っていた。
「侍というのはどんな奴だった?」
「若い野郎でござんしたよ」
 部下の一人がそう答えた。
「女というのはどんな奴だった」
「年増で素晴らしい別嬪べっぴんでしたよ」
「こっちを見ていたというのだな?」
「へい、さようでございます」
「お前たちが騒いだので逃げて行ったというのか?」
「へい、さようでございます」
「目付かりそうもない、うっちゃって置こう」
 三十郎は洞内へ帰って来た。
「菊女がいない! さては逃げたな! ……探せ! ……追っかけろ!」
 と三十郎は喚いた。

 菊女は林の中を走っていた。
 と、背後から人声がし、走って来るような足音がした。
(追手がかかった)
 と感付いた。
 で大藪の蔭へかくれた。
 はたして三十郎の部下の者が、五、六人その前を駈け抜けて行った。
(もうあっちへは行かれない)
 こう思って菊女は道を変えて走った。
 と、行手に人声がし、こっちへ走って来るようであった。
 そこで菊女は大藪の蔭へ、身をかくさなければならなくなった。
 やはり三十郎の部下の者が、三、四人その前を走って行った。
 至るところに三十郎の部下が、自分を捕えようと探しているように、菊女には思われてならなかった。
 でも勇気を揮い起こして、用心しいしい走って行った。
 しかし幾度も人声をきき、そうして幾度も人の姿を見、そのつど彼女は怯かされ、そうしてそのつど物の蔭へかくれ、歩みては容易にはかどらなかった。やがて夕陽が樅や櫟の、喬木類の梢を染め、ところどころにある古沼の面を、銅色に色づける時刻となった。
 その時彼女はまた行手に、大勢の人の話し声を聞いた。
 あまり人数が大勢らしいので、菊女には審かしく思われた。
 で、かえって大胆になり、そっちへ忍んで行って見た。
 百人にもあまる武士たちが、焚火を焚いたり割籠わりごをたべたり、武器の手入れなどをやりながら、
「明暦義党……」
 とか、
「萩丸様……」
 とか、
「今夜夜討ちして……」
 とか、
「今度こそ遁がさぬ……」
 とか、そんな言葉を云い合っているのが、断片的に聞こえて来た。
 よく見ればその中に紀州の藩士の、霜降小平や加藤源兵衛の姿が、夕陽に照されているのが見えた。
「まあ!」
 と菊女は思わず云い、飛び上がるほどに驚いた。
(どうして、何んのために、紀州藩士たちが、こんな島などへ来たのだろう?)
 なお菊女は耳を澄ました。
 藩士たちは大声で話していた。
彼奴きゃつら上村の奥の林の中に、小屋がけしているということじゃ」
「開墾して永住する考えだとか」
「地獄へやられるのも知らないでな」
「アッハッハッ可哀そうな奴だ」
「鵜の丸兵庫も佐原嘉門も、今度こそ洩らさず討って取らねばならぬよ」
 こんな言葉が聞こえて来た。
(まあまあまあ)
 と菊女は思った。
(鵜の丸様も佐原様もおいでになるそうな。……いるところは上村の奥の林とか! ……今夜夜討ちをかけるとか! ……鵜の丸様たちに早く逢いたい! ……そうしてこのことをお知らせしたい! ……上村の奥の林とはどこだろう?)
 どっちみち一旦海岸へ出て、漁師に逢って上村の所在を聞き、そこへ訪ねて行かなければならない。――こう思って菊女は木蔭から出た。
 と、三十郎の声がした。
「菊女殿とうとう目付けましたよ」
「あッ」
 と菊女は叫びながら、飛び退いて背後を見た。
 冷笑しながら三十郎が、懐手をして立っていた。
「前には紀州の藩士たちがいる、背後には拙者がいる。これが本当の絶体絶命! 菊女殿こまりましたなア」
 憎々しく三十郎はそう云った。

 菊女も心でそう思った。
(これこそ絶体絶命だ)と。
 で、無念そうに黙っていた。
「菊女殿、声を立てましょうか? 女ながらも明暦義党の、同志が一人ここにいると」
「…………」
「するとそなたは紀州藩士に、すぐに捕えられてはずかしめを受けよう」
「…………」
「それとも拙者と参られるか?」
「…………」
「拙者と参った方がまだよいようで。……」
 ここで三十郎はいやらしく笑った。
「拙者と参って例の洞で、また共住みというやつをする。……が、こんどはほんとの夫婦で。……ほんとの夫婦になるつもりで、拙者と洞へ参る気でなくば、拙者そなたを[#「拙者そなたを」はママ]紀州藩士へ、ここで用捨なく引き渡す」
「…………」
 無言ではあったが心の中で、菊女は考えざるを得なかった。
(紀州藩士へ渡されたら、妾の命はないかもしれない、三十郎と一緒に行っても、命には別状はないらしい。……それに時間もあることなのだから、その間に三十郎をなだめすかして、いやらしい望みを断たせることも出来れば、また逃げ出すことだって出来る。……三十郎と一緒に行こう)
 で、
「三十郎様」
 と、おとなしく云った。
「ご一緒に参るでござりましょうよ」
「それがよろしい」
 と三十郎は笑った。
「二つない命とられるのと、男の肌を味おうのとは、全く比べものになりませぬからのう」
 二人はこっそりと林の奥へ進んだ。

 島の海岸の一所に、一隻の帆船がもやっていて、その胴の間で梶子と民弥とが、親しそうに話していた。
「あんなところにあんな人間が、ああ沢山いようとは、全く夢にも思いませんでしたねえ」
「さようさよう驚きましたよ」
 二人がこの島へやって来たのも、つい数日前のことであった。
 どうして二人はやって来たか?
 犬帰村へ行ったところ、人形箱を三十郎に取られていた。
 そこで、二人は三十郎を探した。
 それからそれと三日もさがした。
 三十郎の行衛は知れなかった。
 そこでやむを得ず二人揃って、青塚の郷へ行ってみた。
 と、青塚は壊滅に帰し、郷民たちは一人もいず、明暦義党の人々も、一人も残っていなかった。
 二人ながら――特に松浦民弥は、申し訳なくも思い失望もした。
 どこへ行ったものかと探し廻った。
 ほとんど全くわからなかった。
 二人はそれから京都へ行ったり、大坂などへ行ったりした。
 一方もちろん三十郎も探した。
 これも行衛がわからなかった。
 梶子はその間に瞥見べっけんしただけではあったが、ともかくも一度親しく見たところの、瀬戸内海の黄金島の地図――それについて、その存在所を確かめにかかった。
 そこは名に負う日本的に名高い、女隠密の梶子であった。
 普通の人間の感覚などとは、ダンチに違って鋭くて、やがてその島が××島であると、そういうことを確かめた。
 そこで彼女は民弥にすすめて、××島へ渡ることにした。
 民弥は京都へ行った際に、まだご主人の姉小路卿が、湯治場に悠々静養していて、帰館しないことを確かめた。
 そこで決心して梶子と一緒に、××島へ行くことにした。
 大坂で梶子は帆船を借り切り、それへ乗って二人は船出した。
 そうしてこの島へ来たのであった。
 漁師に逢って島の地理や、伝説などを二人は聞いた。
 と、二人は好奇心をそそる、一つの伝説を耳にした。

 というのは島の奥の高所に、岩で出来ている山があって、洞窟が幾個か出来ているが、そこ全体の名を「お蔵」と云っている。
 というのは古い昔からいえば、瀬戸内海を根拠としていた、八幡船の海賊連が、奪って来た財宝をそこへ隠したり、もっと古い昔においては、三韓から送って来た貢物を、やはりここの海賊が奪って、その「お蔵」へ仕舞って置いたそうな。
 だからその「お蔵」は今日においても、財宝で一杯詰まっている筈だ。
 が、そこにある洞窟というものが、まことに不思議な洞窟で、内へはいると縦横の小路が、ほとんど無数に出来ていて、十人が十人迷い子になって、洞窟の外へ出ることが出来ず、とうとう洞窟内でかつえ死んでしまう。
 だから誰もはいって行かない。
 ――というところの伝説なのである。
 梶子と民弥とはこれを聞くと、
(そこだな)
 とすぐに直感した。
(魚屋助右衛門の遺産というやつが、隠されてあるというその場所は!)
 そういう伝説が昔からある。それを助右衛門も耳にした。
 そこで助右衛門は考えた。
(誰もはいって行かないという、そういう洞窟が島の中にある。これは絶好の隠匿所だ。そこへ財産をかくしてやろう)と。
 で隠匿したに相違ないと。――
 そこで今日梶子と民弥とは、漁師たちに道順を聞き、その岩山へ行ったのであった。
 ところが意外にも大勢の者が、その岩山の前にいて、自分たちを見ると押し寄せて来た。で、逃げ戻って来たのであった。
 頭上には甲板への通路の口が、夕空に向かって開いている。
 そこから夕陽が射し込んで来て、胴の間は明るい桃色であった。
「さてこれからどうしましょう?」
 梶子はこう云って民弥を見た。
「もう一度これから出かけて行き、夜の闇を利用し岩山に近より、先刻の人間どもの素姓をさぐるのが、何よりの急務でございましょうよ」
 民弥はすぐにそう云った。
「では出かけて行きましょう」
 二人は船から陸へ上がった。
 船尾や船首にとぐろを巻いていた、船夫かこどもは二人を見送ったが、
「また新婚でお出かけだ」
「俺らも上村へでも出かけて行こうぞ」
「そうだ、そこで一杯やろう」
 揃って船夫どもも陸へ上がった。

 鵜の丸兵庫と五十嵐右内とは、林を分けて「お蔵」の方へ、話しながら歩いていた。
 関口勘之丞の注進により、明暦義党の軍用金を隠した、「お蔵」と俗に呼ばれている岩山の、洞窟の附近に多数の男が、酒など飲んで屯ろしていたという。
 ではどうしてもその人間どもの素姓を、至急調べる必要があり、かつ追い払う必要があると、こう思って二人は出かけて来たのであった。
「お蔵と云われているその岩上には、魚屋の宝の伝説以外に、まだまだ伝説があるのでござるよ」
 そう右内は微笑しながら云った。
「どんな伝説でござるかな?」
 兵庫は面白そうに耳を傾けた。
「八幡船が掠奪して来た財宝、三韓から送って来た貢物の一部が、隠されてあるという伝説で」
「やれやれ」
 と兵庫は苦笑して云った。
「ではそのお蔵には金銀財宝が、唸っているという次第でござるな」
「さようさよう」
 と右内も笑ったが、
「これは単なる伝説ではなく、確実にあった事件でござるが、かつて松平伊豆守が、この島を重大な目的の下に、ひそかに踏査いたしましたが、その際お蔵をも調べましたそうで」
「ほほう」と兵庫は驚いたように云った。

「松平伊豆守がこの島を調べた? 何んの必要があってでござろう?」
 こう兵庫はつづけて訊いた。
「幕府にとって恐ろしいのは、長州や九州の外様大名でござる。で、それらの外様大名が、いざ合戦という場合には、水軍を率いて瀬戸内海を、大坂ないしは兵庫へ来るであろう。それを防ぐにはこの××島へ、兵備を施すのが必要とあって……」
「なるほどこれはもっともでござるな。……で、そのついでに伝説『お蔵』を、調べたという次第でござるな」
「さようさようその通りでござる」
「その結果何かを得ましたかな?」
「『お蔵』の中より出て来るや、このように伊豆守は申したそうで『とにかくここは恐ろしいところだ。人のはいるべき所ではない。また、人を入れてはいけない』と。……それからこの島に防備を施こす、その計画に関しましては『この島へ幕府が直接手を出し、戦備などを施こしたなら、諸国の大名を刺戟して、かえって結果はよくあるまい。紀州大納言頼宣卿などが、その英邁えいまいのご気質をもって、何気ないように取り計らって、戦備を施こしてくだされたなら、一番無難で好都合なのだが。……それには是非とも頼宣卿を、何かの名目でこの島へ渡らせ、ご見物をしていただかねばならぬ』」と。
「なるほど」
 と兵庫は考え深そうに云った。
「防備の話はともかくとして、お蔵に対して伊豆守が『とにかくここは恐ろしいところだ。人のはいるべき所ではない。また、人を入れてはいけない』とこのように云ったというその言葉の意味、いったい何なのでござろうな?」
「二通りの解釈がござります。……その一つはそのお蔵に、伊豆守さえ驚いたほどの、大財宝が隠されてあったので、そう伊豆守が云ったという解釈……」
「もしそうであればその大財宝は、その後伊豆守の手によって、取り去られたものと解さねばならぬ」
「で、もう一つの解釈というのは?」
「洞窟内には迷路ともいうべき、ほとんど無数の小路があって、うかうか奥深くはいりましたが最後、ふたたび外へは出られません」
「なるほど、しかし、記号でもして、みちしるべを致してはいったなら。……」
「さようで、それが必要なので、で拙者もその洞窟の中へ、軍用金を隠匿いたそうと、奥深くはいって行きました際には、みちしるべ致しましてござりますよ。……ところが……」
 と云って来て五十嵐右内は、にわかに恐怖を顔に浮かべ、
「ところが奇怪にもみちしるべが、解らなくなってしまいました」
「紛失いたしたと云われるのでござるか?」
「いえ、みちしるべはありますので」
「ありながらそれが解らなくなる?」
「ここの加減で」
 と云いながら、右内は自分の頭を抑えた。
「頭の?」
「さよう」
「…………」
「錯乱しますので!」
「恐ろしい話だ!」
「恐ろしゅうございます」
「が、しかしどうして頭が?」
「毒素を含んだ空気のためで」
「ははあ。……いよいよ恐ろしい話だ」
「ああいう洞窟にはそういう空気が、ある地点まで行きますと、充満していると申すことで」
「さような学説聞いたことがござる」
「ところで洞窟には四つの通路が、通っているそうにござります。しかるに一筋が未発見だそうで。で、普通には三筋の通路が、通っていると解されているそうで。……このことが何んとなく私には、重大なことのように思われまする」
 夕陽が消えて闇が迫って来た。
 用意して来た松明たいまつともし、二人は林を分けて登った。


 菊女は夢中で「お蔵」の中を、奥へ奥へと走っていた。
 その後から三十郎が、呼びかけながら走っていた。
「菊女殿、危険でござる! むやみと奥へ走って行ってはいけない! 小路が縦横にありましてな、迷ったが最後出られませぬ! ……もはや拙者乱暴はいたさぬ! ……お帰りなされ、お帰りなされ!」
 しかし菊女は返辞もせず、無二、無三に走っていた。
 三十郎に捕えられ、菊女はこの洞窟へ帰って来た。
 と、三十郎は部下の者どもに、洞窟の口を警戒させ、菊女を暴力で辱かしめようとした。
 絶体絶命と感じた菊女は、洞窟の奥へ逃げ込んだ。
 で、今逃げて行くのであった。
 一寸先も見えない闇であった。
 一方の岩壁を掌ですり、奥へ奥へと走って行った。
 足音が高く耳に響く。
 自分と三十郎との足音が。
 そうして三十郎の叫んでいる声が、洞窟一杯に反響し、言葉をなさず、ただワーンと、こんなように聞こえて来た。
 菊女は無二無三に奥へ奥へと走った。
 十字路らしい一角へ出た。
 右の方へ曲がって走った。
 とまた丁字路らしい一角へ出た。
 右の方へ曲がって走った。
 ほんの少し走ったところで、また、三叉らしい一角へ出た。
 彼女はまたも右の方へ曲がり、先へ先へと走って行った。
 ふと気がついて足を止め、菊女は熱心に聞き耳を立てた。
 さっきまで聞こえていた足音が――三十郎の足音が、今は聞こえなくなっていた。
(まあよかった)
 と菊女は思った。
(さあこれからどうしよう?)
 けっきょく三十郎に目付からないように、細心の注意をした上で、この洞窟から外へ出て、明暦義党の同志たちの所へ、行くというより策はなかった。
(この洞にはなお三筋ほどの、出入り口があるそうな。その一つから出たいものだ)
 で彼女は先へ進んだ。
 十字路!
 丁字路!
 三叉路!
 道は枝から枝が出て、どっちへ行ったら、どこへ出られるか、また、奥の方へ進んでいるのか、同じ一画をドウドウ巡りしているのか、それとも出入り口へ進んでいるのか、すこしも見当がつかなかった。
 四辺は暗黒でかつ寒かった。
 だんだん菊女は心配になり、次第に恐怖を催して来た。

 三十郎も同じであった。
 菊女の後を夢中で追っかけ、どこをどう走って来たものか、全く見当がつかなくなっていた。
 で闇の中に佇んで、心をしずめて考え込んだ。
 菊女を手に入れて思いをとげよう。――などといったような考えは、今の彼にはなくなっていた。
(ともかくも洞窟から外へ出たい。それから改めて部下たちと一緒に、松明たいまつなどを充分に用意し、探険隊としての準備をととのえ、財宝さがしに着手したい)
 という考えだけに充たされていた。
(どうしたら洞外へ出られるか?)
 どっちみちこんな闇の中に、突っ立っていたのでは仕方がない。
(歩こう、ともかくも、……ともかくも歩こう)
 で、彼は歩き出した。
 十字路!
 丁字路!
 三叉路!
 道は枝から枝が出て、どっちへ行ったらよいものか、どうにも見当がつかなかった。
 でも彼はともかくも歩いた。
 と、不意に行手にあたって、松明の火が見えて来た。

(はてな?)
 と三十郎は驚いた。
(松明の火が見えるとは?)
 自分たち以外にこの洞窟の内に、人がいようとは思わなかったのに、松明をともして人がいる。
 これは驚くのが当然であった。
(何者だろう?)
 不安であった。
 自分の部下たちが自分を案じて、探しに洞内へ来たのだろうか?
 この島へ渡って来ていたところの、紀州藩士の連中か、やはりこの島へ来ているという、明暦義党の連中かが、このお蔵の秘密を知って、それをさぐりに来たのであろうか?
(何者だろう?)
(ちと心配だ)
 そう、このお蔵の秘密を知って、魚屋の財宝を獲得するために、ここへ入り込んで来たものとすれば、三十郎にとっては競争相手で、用心しなければならない訳であった。
(が、この際に松明をつけて、人が洞の中にいるということは、俺にとっては幸せだ)
 その松明の持ち主は、いずれは窟外へ出るだろうから、その火について行きさえすれば、自分も洞外へ出ることが出来る。
 こう思って安心はしたのであった。
(まず何者か確かめることにしよう)
 ――で、足音を忍ばせて、三十郎はそっちへ歩いた。
 松明の主は二人であった。
(や、兵庫と右内とだわい)
 三十郎はギョッとしながら思った。
 その二人がやはり明暦義党の同志の、鵜の丸兵庫と五十嵐右内――その二人であったからである。
(では、彼らもこのお蔵の秘密を、俺と同じように知っていて、それで探しに来たものと見える。充分警戒しなければならない)
 で、三十郎は近寄ろうとはせず、二人の後からついて行った。
 兵庫と右内とは岩壁の面へ、石筆でしるしをつけながら、しずかに先へ進んで行った。
 四筋あるという洞の口の、南の側の一筋から、二人は入り込んで来たのであった。
 最初の二人の目的は、この洞窟の北側の口(それがこの洞の正面なのであるが)そこを占領しているという、山男のような多数の人間の、何者であるかを取り調べ、場合によっては追い払ってやろう。――ということであったのだけれど、途中でそれを変更し、ともかくも南側の口からはいって、洞窟内のありさまを、見られる限り見ることにしよう――ということに一決し、松明なども数本こしらえ、こうしてはいって来たのである。
「なるほど、枝道が無数にござるな」
 兵庫は云って右内を見た。
「まだまだ枝道は沢山あります」
「空気に変わりはないようで」
「まだ大丈夫でございます。空気に毒素が加わるのは、まだまだずっと奥のことで」
 云い云い二人は進んで行った。
 その後から三十郎はついて行った。
 と二人は左へ曲がった。
「そこで我輩も左へ曲がると」
 こんなことを呟いて三十郎も、左の方へ曲がろうとした。
 と、正面の遙か向こうから、松明の光が見えて来た。
「やッ」
 と思わず三十郎は云った。
「また松明の火が見える! ……すると二組の人間が、この洞の中にいるのだな」
(これは大変だ)
 と三十郎は思った。
(競争相手が二組となった……どっちみち何者か探って見なければならない)
 で、三十郎は枝道の一つへ、体をかくして窺った。
 やがてその前を松明を持って、二人の男女が通って行った。
「ウーム」
 と三十郎は思わず唸った。
 梶子と民弥とであるからであった。
(あいつら二人もこの島へ! ……ウーム、いよいよ大事となったぞ)

 梶子と民弥とがこの島におり、このお蔵を歩いているということは、三十郎にとっては一大事ではあったが、しかし、つくづく考えてみれば、当然至極のことでもあった。
(この島に関する秘密なるものは、俺と梶子とで人形の胸から、最初発見したんだからなあ。秘密ぐるみ人形は俺が奪ってしまった。しかし、梶子はあの聡明さで、一度でもここの地図を見たのだから、それからそれと研究し、魚屋ととやの財宝のあり場所を、ここに相違ないと突きとめたのだろう。……民弥と一緒に入り込んで来たのも、恋人同志とあって見れば、これも当然と云わなければならない)
 万事当然ではあったけれど、当然だといって捨てて置くことは、絶対に三十郎には出来なかった。
 第一は魚屋の財宝さがしの、恐るべき競争相手だからであった。
 第二は民弥は三十郎を、父の敵として狙っている男だ。で、どうともして討ち取って、後、肚の痛めぬようしなければならない。
 第三は梶子は何んといっても、三十郎に恋心を起こさせた女だ。一度は是が非でも想いをとげなければ!
(よし、こいつらをつけて行き、この洞窟内で討ち取ってやろう)
 三十郎は決心した。
 で、刀を抜き持って、二人の後をひそかにつけた。
 梶子も民弥もそんなこととは知らず、話しながら先へ進んで行った。
 この二人はこの洞窟の、玄関ともいうべき北口へ行って、そこの口の辺に屯ろして、ガヤガヤ騒いでいる人間の様子を、しばらくの間うかがったのであったが、ほとんど見当がつかなかった。そこで断念して岩山を巡って、別の入り口を目付け出した。と、東側の入り口が目付かった。そこで松明の用意をし、そこから洞内へはいったのである。
 そんなことには抜け目のない、女隠密の梶子の手には、石筆の用意もしてあったので、岩壁へ記号を次々につけて、二人は角々を曲がって進んだ。
「聞いたより大変な枝道ですことねえ」
「碁盤の目とでも云いましょうか、こう枝道がありましては、しるしをつけて行かない限り、出口へはなかなか出られませんな」
「魚屋の財宝のあり場所なども、これでは容易に目付かりそうもない」
「あるにいたしても心をゆっくり持ち、この島に相当滞在し、幾度となく洞内へはいり、充分探索いたしませいでは、発見出来そうもございません」
 などと話しながら行くのであった。
 つけて行く三十郎には、話し声は、ほとんど聞こえて来なかったが、その親しそうな話しぶりは、松明の光でよく見えた。
 これが三十郎の嫉妬心を、煽り立てずには置かなかった。
(犬帰村への峠道でも、二人並んで馬首を揃え、仲のいいところを見せつけおったが、こんな所へまでやって来て、仲のよいところを見せつけおる!)
 こんなことまで思われた。
(斬ろう!)
 と三十郎は決心した。
(あの曲がり角を曲がるところを、背後から民弥を一刀に!)
 でスルスルと追い逼った。
 右左へ曲がる辻があった。
 そこを二人は左の方へ曲がった。
 疾風!
 三十郎は躍りかかろうとした。
 とたんに眼を射る光があった。
 右手にあった枝道から、松明の光が来たのである。
(しまった!)
 と三十郎は飛び退き、素早く別の枝道へ隠れた。
 その間に梶子と民弥とは、そんな危険があったとも知らず、左の方へ曲がって行った。
 と、間もなく兵庫と右内とが、松明で道を照らしながら、右手の枝道から現われて来た。
 三十郎には気がつかず、梶子たちの行ったとは反対の方へ、話しながら進んで行った。
 三十郎は枝道から出て、急いで曲がり角へ走って行き、梶子たちの行った方角を見た。
 松明の光は見えなかった。
 舌うちをして引っ返し、兵庫たちの行った方を眺めて見た。
 松明の光が遠くに見えた。
 で、三十郎はその後を追った。
 梶子と民弥との後を追い、民弥を討ってとりたいのであったが、二人はどこへ行ったものか、松明の火が見えなくなっていた。さがして目付かれば幸いであるが、さがしても二人が目付からず、その間に兵庫たちもどこかへ行って、さがし出すことが出来なかったら、いわゆる虻蜂とらずとなり、この暗黒の洞窟内で、全く光を失ってしまい、洞外へ出ることが出来なくなってしまう。
 これが三十郎には恐ろしかった。
 で、心外ではあったけれど、兵庫たちの後から行くことにし、今、その二人を追って行くのであった。
 そんなこととは夢にも知らず、兵庫と右内とは歩いて行った。
「心配になるのは本陣のことで」
 と、兵庫は右内へ不安そうに云った。
「紀州の藩士ら我らの不在に、本陣を襲いはしまいかと存じて」
「さよう。しかし」
 と右内は云った。
「嘉門殿が何んとかなされましょう」
「さよう」
 と今度は兵庫が云った。
「この不安嘉門殿に申しましたところ、海上に船もござることゆえ、まずまず大丈夫とおぼしめし、心配なく洞窟へおいでなされと、充分自信あるらしく、この拙者に申されましたよ」
「年功老練の嘉門殿でござる、お任せしておいて大丈夫でござろう」
「時に」
 と兵庫がささやくように云った。
「我々同志の軍用金、どこに隠匿いんとくしてありますので?」
「よろしゅうござる、申し上げましょう」
 右内は至極真面目に云った。
「これまではたとえ同志であろうと、拙者大事をとりまして、その軍用金の所在については、口をとざしておりましたが、もう申してもよろしゅうござろう。……軍用金のあり場所は、北側の口よりはいりまして、空気に毒素の加わる地点より、数間離れた岩壁の一所! ……すなわちそこにござります」
 ――するとこの時どこからともなく、女の悲鳴が聞こえて来た。
 二人は顔を見合わせた。
「女の声のようでありましたが」
「さよう、女の声のようでござりました」
 時が時、所が所、二人は何がなしにゾッとした。
 また女の悲鳴が聞こえた。
 何か叫んでいるようであった。
 文句はほとんどわからなかった。
 洞窟に響いてただワーンと、こんなようにばかり聞こえるからである。
「これは捨てては置けませぬな」
 兵庫は情深くそう云った。
「さよう」
 と右内もそれに応じた。
「女がこのような洞窟内に、まぎれ込んでいるとありましては、うっちゃっておくことは出来ませぬ」
「が、どこにいるのでござろう?」
「とんと見当つきませぬが、とにかく声をしるべとして、探してみることにいたしましょう」
 ――で、二人は歩き出した。
 女がどこにいるものか、ほとんど見当がつかないので、――ワーンと聞こえる声の方へ、慢然と歩いて行くのであった。

 叫んでいるのは菊女であった。
 彼女は恐ろしい洞窟内を、出口へ出よう出ようとして、歩き歩き歩き廻った。
 どうしても出ることが出来なかった。
 恐怖が彼女を狂人のようにした。
 三十郎の手に捕えられようと、この洞内で饑え死ぬより、まだまだしだと思うようになった。
 そこで彼女は叫び出したのである。
「助けてーッ、助けてーッ、助けてーッ」
 と。
 叫びながら彼女はあてなしに歩いた。
 暗い!
 寒い!
 足はつかれた!
 もう躰もクタクタである。
 精神も朦朧もうろうとなって来た。曲がり角を一つまがった。
 また曲がり角を一つまがった。
 と、行手に松明たいまつらしい、火の光がパッと燃えて見えた。
「あれーッ」
 と菊女は思わず叫んだ。
(こんな洞窟内に松明の火が!)
 あまりの意外にあれーッとばかり、思わず悲鳴をあげたのであった。
 早速には言葉が出なかった。
 これは何んたる不運のことか!
 その間に横へ曲がったと見え、松明の火が見えなくなった。
「助けてーッ助けてーッ」
 と、その時になって、やっと菊女は、声かぎり助けを呼んだ。

 松明の主は梶子たちであった。
「おや」
 と梶子はびっくりしたように云った。
「女の悲鳴じゃアなかったかしら?」
「さよう」
 と民弥も耳をかしげた。


 同じこの夜のことである。
 上村の奥の林の中では、明暦義党の人々や、青塚郷の人々が、なお孜々ししとして立ち働き、小屋がけに力をつくしていた。
 しかし一方では手を分けて、今夜あたり攻撃して来るらしい、紀州藩士と対抗すべく、その戦備に立ち働いていた。
 佐原嘉門が総帥で、何かと号令を下していた。
「地雷をかけろ、前と背後へ! ……乱杭も逆茂木も打っておけ! ……射手の一手は背後にかくれ、合図があったら乱撃しろ! ……敵を充分やっつけたところで、合図の竹法螺を吹くによって、繰引きにして海岸へ出ろ! ……そこには我らの船がある。……彼奴らの船だってどこかにあろう、その船を奪って退路を断ち、彼奴らに狼狽させなければならない! ……青塚郷では目算ちがいをして、あべこべに彼奴らにひどい目に逢った。……その復讐をしなけりゃアならねえ!」
 みんなは元気よく働いていた。
 篝火かがりびは四方で燃えていた。
 足洗主膳、金井半九郎、柴田一角、僧範円、有竹松太郎、加藤東作、吉田彦六、戸島粂之介等々の武士は鼻歌まじりに、愉快そうに働いていた。
 出来上がった数個の小屋の一つに、萩丸がぼんやり坐っていた。
 男姿に返っていた。
 が、依然として痴呆状態であった。
 そこへ嘉門がはいって行った。
「萩丸様」
 と声をかけ、嘉門はその前へ坐り込んだ。
「ちと今夜は騒がしゅうござるが、ご辛棒してくださるよう」
「爺や」
 と萩丸はうつろ声で云った。
「菊女はどこにいるのかねえ」
「さあ」
 と嘉門は当惑したように、
「菊女殿どこにおりますやら、青塚郷の騒動以来、とんと行衛が知れませぬ」
「わしは菊女に逢いたいのだよ」
「わたし達も逢いたいのでございますが、とんと居場所がわかりませんので……」
「そのうち帰って来るだろうねえ」
「ハイハイ帰って参りますとも。……ですから菊女殿の帰られるまでは、おとなしくして我々と一緒に、ノンビリとおくらしなさりませ」
「菊女が帰って来るのなら、いつまでもわしはお前達といるよ」
「それがよろしゅうございます。……さて」
 というと腰へ手をやり、嘉門は矢立てを抜き出した。
 そうして懐中から半紙を出した。
「萩丸様、字の稽古で」
 嘉門は矢立てから筆をとり出し、それを萩丸へ握らせた。
「御父様。――とお書きなさりませ」
「御父様ってどう書くの?」
 痴呆になっている萩丸には、そんな文字さえ書けないのであった。
「まず『御』とこのように」
「そう」
 と萩丸は「御」の字を書いた。
 が、その偏は「彳」ではなくて、「イ」になっているのであった。
「それは『イ』でございます。『彳』でなければいけません」
「ギョウニンベンって何んのこと」
「これがギョウニンベンでございます」
 嘉門はそれを書いて見せた。
「ああそうかい、さあ書いたよ」
 やっと萩丸は「御」の字を書いた。
「さあさあ今度は『父』という字を」
「父という字だね、さあ書いたよ」
 画の少い字だったので、「父」という字はともかくも書けた。
「今度は『様』という字でございます」
「『様』という字、さあ書いたよ」
 しかしその字は間違いだらけで、やはり偏など「禾」になっていた。
「それは『禾』でございます。『木』でなければいけません」
「キヘン? キヘン? キヘンって何?」
「『木』さえお忘れでございますか。これはどうも困ったことで。こう書くのがキヘンでございます」
 嘉門はそれを書いてみせた。
「ああそうかい、ソレ書いたよ」
 しかし萩丸の書いた文字は「木」ではなくて「手」であった。
「それは『手』でございます。キヘンはこうでございます」
 嘉門は「木」を書いてみせた。
「ああそうかい、何んでもないんだねえ」
 そう云って萩丸は「木」を書いたが、今度はつくりを目茶目茶に書き、けっきょく「様」という字は書けなかった。
(これはどうにも始末がわるい)
 嘉門は嘆息してしまった。
 萩丸が以前書いたところの、宥免ゆうめん状を入れた人形が、箱ぐるみ紛失してしまった。
 その宥免状は手にはいるまい。
 仕方がないから萩丸をして、もう一通宥免状を書かせようと、こう考えて書かせにかかった。
 ところが萩丸は痴呆になってしまって、文字をほとんど忘れてしまった。
 で、あらためて習字させて、それを書かせようとしたのであったが、その結果はこのありさまなのであった。
 今夜はじめての試みではなく、とうからやっていることなのであったが、いつもいつも失敗するのであった。
 それに萩丸がそんなありさまで、よしんば宥免状を書いたところで、書体が以前の書体とは、似ても似つかないものになっている。
 だからよしんばその宥免状を、頼宣卿の手へ渡したところで、頼宣卿はその宥免状を、萩丸が書いたものと認めないかもしれない。
(困ったものだ)
 と思うのであった。
(宥免状の必要はないかもしれない)
 時には嘉門たちはそうも思った。
 というのは既に頼宣卿には、愛孫の萩丸が明暦義党の、同志たちによって捕えられたことを、その家臣たちの報告によって、今日では知っている筈である。
 だから萩丸の宥免状などを、わざわざ書かせて送らずとも、義党の方から使者を出し、
「紀州においてお捕えになった、我々の同志をご宥免くだされい。もしご宥免くだされずば、萩丸様を惨殺仕る」
 と、こう云わせたら頼宣卿は驚き、捕えた同志を許すかもしれない。
 ――が、しかしこれは頼宣という人の性質を知らない説であって、彼のじんは決して威嚇や強迫に、屈伏するような人物ではない。だからそのように云いやったところで、彼の仁を怒らせるばかりであって、かえってそのため頼宣卿は、愛孫の命を犠牲にして、捕えた人々を殺すかも知れない。
 それに反して頼宣卿は、情に厚く涙にもろい。だから萩丸様から宥免状が行けば、
「萩丸が情深い心持ちから、あの者どもを許してくれと、このように優しく嘆願して来た。萩丸の情深い心持ちに免じて、彼の者どもは許してやろう」
 と、このように一つの理由をつけて、同志達を許してくれるであろう。
 だからどうしても萩丸様自筆の、宥免状は必要なのであった。
(菊女殿でもおられたら、あの人の力で萩丸様を、元の正気に返すことも、根気よく上手に宥免状を書かせることも出来るのに……)
 嘉門はつくづく菊女のいないことが、心外に思われてならないのであった。
「爺や」
 と萩丸は声をかけた。
「菊女はいったいどこへ行ったのかねえ」
「青塚の郷から菊女殿は、行衛不明になりましたので」
「わしをあの時ひつの中へ入れて、菊女はこう云って行ったのだよ。『すぐに帰って参りますゆえ、わたくしが帰って参りますまで、おとなしくしておいでなさいまし』って」
「甚吉という百姓が戦いの後で、わたくしに話してくれました『菊女様には馬に乗り、鵜の丸様のおられます方へ、援兵を求めにはしって行きました』と。……それっきり帰って参りませぬ。……お死になされた様子もないが、どこに何をしておられますやら。……」
 ――物見に行っていた関口勘之丞が、この時小屋へ駈け込んで来た。
「彼らいよいよ参りましたぞ! 紀州藩士ら大挙して、物々しく寄せて参りましたぞ!」
「よーし!」
 と嘉門は立ち上がった。

 紀州藩士たちは進んで来ていた。
 敵の陣営――急出来の小屋あたりに、焚きつらねてあった篝火の光が、木間このまから隠見して見えた。
「霜降氏」
 と加藤源兵衛が云った。
「貴殿一隊をお率いになり、彼らの背後へお廻りくだされ」
「心得てござる」
 と霜降小平は云って、五十人ほどの一隊を率い、林を左手へ迂回して行った。
(どっちみち相手は浪人と百姓、揉みつぶすに手間暇はいらない)
 だれもがみんなこう思っていた。
 彼らは浜松での出来事を、紀州へ帰って重役衆へ告げ、自分たちの手落ちの罪を待った。
 重役は頼宣卿へ言上した。
「萩丸の身の上不便ではあるが、……止むを得ぬの」
 と頼宣卿は云われた。
「囚人の五十嵐右内とやらを、奪い取られたは一大不覚」
 こう頼宣卿は言葉をつがれた。
「右内と右内を奪った者とを、さがし出して是非に討ちとれ。……萩丸の身は不便ではあるが……止むを得ぬの」
 と二度までも云われた。場合によっては萩丸の生命を犠牲にしてもよいによって、明暦義党の者どもを、討ってくれという意味であることは、その言葉によって窺われた。
 これはまことに討手にとっては、何より有難いごじょうであった。
 青塚の郷での戦いにおいて、充分の働きの出来なかったのは、萩丸様のお身の上など、もしものことがあったら大変と、そういう杞憂きゆうがあったからである。
 それがなくなった今度の討手は、容易なものということが出来る。
「討手首尾よく仕終わせて参らば、これまでの不首尾さし許すであろう」
 と加藤源兵衛や霜降小平たちは、再度の討手を命ぜられた。
 彼らは爾来明暦義党と、青塚郷の郷民たちの行衛を、手をつくしてさがし廻った。
 あれほどの多人数の行衛であった。それに紀州家の勢力をもって、さがし求めたことであった。間もなく行衛を知ることが出来た。
 で、藩から兵を借りて、こうしてこの島へ来たのであった。
 源兵衛たちは前進した。
 と、見えていた篝火かがりびが、一斉に消えて闇となった。
(感付いたな)
 と源兵衛たちは思った。
 しばらく足を止めて窺った。
 背後へ出ようと、迂回して行った、霜降小平たちの行った方から、鉄砲の音が烈しく聞こえた。
「やってる」
 と源兵衛は呟いた。
彼奴きゃつら鉄砲まで用意しているのか)
(油断はならない)
 と源兵衛は思った。
 また喊声が聞こえて来た。
「前田氏、榊原氏、ちょっと物見をお願いいたします」
「かしこまってござる」
 と二人は云って、組から離れて走って行った。
 ややあって二人は帰って来た。
「乱杭、逆茂木など設けまして、防戦の備え出来おりまする。……が、人影は見えませぬ」
 そう二人は報告した。
「さようか」
 と源兵衛は考え込んだが、
「試みに二、三十人でおかかりくだされ」
 と云った。
 前田という武士と榊原という武士とが、三十人の武士を率い、前進する姿が間もなく見られた。
 ドッと鬨の声が湧き起こった。
 つづいて爆発の音が聞こえ、夜空へカッと火光が上がり、叫喚の声が混乱して聞こえた。
(地雷火だな)
 と源兵衛は思った。
(ヤブレカブレの奴ばらとはいえ、泰平の世に地雷だの鉄砲だのと、だいそれた火器を使いおる)
 驚かざるを得なかった。
(浜松でも地雷を使ったし、青塚の郷でも鉄砲を使った。……乱暴な奴ばらにはかなわない)
 二十人ばかり逃げ帰って来た。
 いずれも手足に負傷していた。

 前田という武士が大息をついて云った。
「接近して鬨をつくりましたところ、それまではどこにおりましたものか、姿が見えませんでした敵の勢が、十二、三人ばかり現われまして、走り廻ったと思う間もなく、突然地雷爆発いたし、味方おおよそ十人あまり、生死は知らず吹き飛ばされ……」
「ふうむ」
 と源兵衛は渋面を作った。
「で、逃げて参られたので?」
「…………」
 この時霜降小平の勢が、算を乱して逃げ帰って来た。
「加藤氏、呆れてござる!」
 と、霜降小平が息を切らして云った。
「彼らの背後へ廻ろうと存じて、小丘を一つ越しましたところ、小丘の上より彼奴らの一隊、突然姿をあらわして、弓鉄砲を射かけましてな、さんざんに味方をうちすくめましたので。……当方でも応戦はいたしましたが、彼奴ら地勢にくわしいと見え、隠れてはあらわれ、現われては隠れ、みるみるうちに十五、六人、我ら負傷させられてござる。……彼奴らの方が我らより先に、この島へ上陸いたしたためか、万事に様子がくわしいようで。……これは迂濶には攻められませぬぞ」
「残念ではござるが御意ぎょいの通りじゃ」
 と加藤源兵衛も心外らしく云った。
「どっちみちしばらく様子を見ましょう」
 ――で、紀州勢はためらっていた。
 敵の陣営もしずかであった。
 その時かすかではあったけれど、竹法螺たけぼらの音が聞こえて来た。
「それ!」
 と源兵衛は声をかけた。
「彼ら攻勢に出たようでござるぞ! 折敷きなされ折敷きなされ!」
 紀州藩士たちは地に折敷き、息を呑んで待ちかまえた。
 が、敵は寄せては来なかった。
 静かさが一層しずかになった。
「変でござるな」
 と源兵衛が云った。
「変でござる」
 と小平が答えた。
「ひょっと致すと敵の奴ばら、退散したのではござらぬかな」
「逃がしては一大事じゃ」
「追い討ちをかけようではござらぬか」
「さようさ。……ともかくも鬨を作ってみましょう」
 ドッと一斉に鬨の声をあげた。
 と、そのとたんに篝火が一つ、敵の陣営の一所に見えた。
「やア篝火だ!」
 また篝火が一つついた。
「やア篝火が二つになった」
 三つ、四つ、五つ、六つと、篝火は数を増して行った。
 紀州藩士たちは息をのみ、多少恐怖に襲われて、しずまり返って動かなかった。
 どうしたのか敵の陣営からも、物音一つ聞こえて来なかった。
 時がだんだん経って行く。
 いつまでも敵はしずかであった。
 また紀州藩士たちは、不安を感ぜざるを得なかった。
「変でござるな」
 と小平が云った。
「変でござる」
 と源兵衛も応じた。
詭計きけいでござるよ、油断はならない」
 ――するとこの時、彼らの背後の、ずっと遙かの林の方から、大勢の人声が聞こえて来た。
「それ!」
 と源兵衛は飛び上がった。
「敵に背後に廻られましたぞ!」
「これは危険! 今夜はいけない! ともかくも一旦引き上げましょうぞ!」
 小平が狼狽の色を見せた。
「引け!」
 と源兵衛が怯えた声で叫んだ。
 で、紀州の藩士たちは、怯気おじけづいた足を空にして、算を乱して退いた。

 遙かの林からやって来たのは三十郎の部下たちであった。
「馬鹿に騒々しい人声がするなあ」
「大勢の奴らが走って行くぜ」
「イヨー、向こうに火が見えらあ」
「あんな所に人家はなかった筈だが……」
「行ってみようぜ」
「行ってみろ行ってみろ」
 小屋の方へ走り出した。

 三十郎の部下たちは、明暦義党の人々や、青塚の郷民の建てたところの、小屋の前までやって来た。
 見れば篝火は燃えていたが、人の影はどこにもなく、小屋の中にも人はいず、ただ食べのこした食物や、飲みのこした酒などが散乱していた。
 しかし遙かの林の中を、二、三人の人影が海の方へ向かって、走って行くのが月光に見えた。
 三十郎の部下たちにはわからなかったが、それは青塚の郷民たちであって、自分たちの同勢を充分安全に、海岸の方へ落ち行かせるため、篝火などを一つ一つつけて、紀州藩士を牽制けんせいしたが、その仕事が終わったので、走って行くところの姿なのであった。
「いつの間にこんな小屋が出来たんだろう?」
「ちょうど腹が減って困っていたところだ、酒まで附いてご馳走がある。こいつを早速いただこうぜ」
 三十郎の部下たちは口々に云って、食べのこりの食物だの酒だのを飲んだ。
 それにしてもどうしてこれらの連中は、洞窟――お蔵や三十郎を見すてて、こんなところへ来たのだろう?
 やとい主の三十郎と菊女とが、洞窟の中へはいって行ったまま、時が経っても出て来ない、その洞窟といえば迷路があって、うかうかはいったら二度とふたたび、出ることが出来ないといわれているところの、まことに恐ろしい洞窟なのであった。
 で彼らは云い合った。
ねたばさんも菊女殿も、洞窟の中で死んだのだろうよ。どっちみち出ては来ないだろうよ。給金などは貰えっこはない。帰ろう帰ろう家へ帰ろう」と。
 そこで揃って下りて来たのであった。
 充分飲み食いしてしまうと、
「おい、この小屋建てかけらしいぜ」
「建てかけてどこかへ行ってしまったんだなあ」
「俺ら代って建ててやろうか」
「それがいい建てろ建てろ!」
 酒に酔っている機嫌もあって、そこに残してあった斧やのこぎりや、槌やかんなを取り上げると、小屋建築にとりかかった。

 海岸の一所が海へ突き出し、その根のあたりが陸へ食い込み、湾をなしているところがあった。
 そこに二隻の帆船が、十人ばかりの武士に守られ、波にゆたゆたと漂っていた。
 紀州藩士を乗せて来たところの、それは巨大な帆船なのである。
 水夫やかじ取りが船尾の方で、武士たちに多少遠慮しいしい、さいコロの目を争っているかと思うと、武士たちは船首に集まって、酒を汲み交わして放談していた。
 と、小船が五、六隻、月の海上へ現われたかと思うと、二隻の帆船に近々と漕ぎ寄せ、鈎縄を投げかけそれへ取り縋り、ムラムラと船中へこみ入って来た。
「何奴!」
「狼藉!」
「我らを知らぬか!」
「ご三家紀州家の帆船じゃぞ!」
 守備の武士たちは叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)した。
 寄せて来た武士たちは嘲笑い、
「紀州の帆船と承知して参った。……我らは明暦義党の同志、この船必要ゆえ頂戴いたす」
「ナニ明暦義党?」
此奴こやつら!」
「無礼!」
 と、紀州藩士は怯えながらも、一斉に刀を引っこ抜いた。
「手向かう気か!」
「斬れ!」
 一揮!
 一人の藩士が斬り仆された。
 水夫たちは海へ飛び込んだ。
 藩士たちはすっかり気後れして、降参のしるしに刀を投げ出した。
 間もなく二隻の帆船が、夜風に帆をはらませて沖の方へ出て行くのが眺められた。

 小屋を攻め損じて退却して来た、加藤源兵衛や霜降小平たちは、林中の根拠地へ集まると、今後の方針を相談し出した。

「土地不案内、それに夜。――で不首尾に終ったのじゃ。明朝を待つことにいたそうではないか」
 こう云い出したのは霜降小平で、肘のあたりを繃帯していた。
「しかし」
 と加藤源兵衛は云った。
「たかが浪人と土百姓の一団、それに彼奴らもこの島の地理には、そう詳しい筈はない。夜はかえって攻めるに好都合! それをこのように敗北したとあっては、藩に帰っても話にならぬ」
 と、不機嫌そうに顔をしかめた。
「霜降氏が悪いのじゃ、あの時巧みに潜行して、敵の背後にさえお廻りくだされたら……」
 と、過ぎ去ったことを愚痴らしく云った。
「黙らっしゃい!」
 と小平は怒った。
「それは当方より申すこと、敵の伏勢がおりまして、我々の手を攻撃した際、貴殿がご加勢くだされたら、一挙に伏勢を追い散らし、その勢いにて敵の本陣へ、肉迫すること出来ましたのに、その際貴殿安閑としておられた。これ唯一の敗因でござる!」
「何を云われる!」
 と源兵衛も怒り、
「浪人や土百姓の伏勢なんど、一蹴して行くが当然でござるに、それをウロウロ狼狽して……」
「黙れ!」
 と小平は刀の柄へ、グッとばかりに手をかけた。
「云わせて置けば無礼千万! ウロウロの狼狽のと、何を云われる不届き至極! 朋輩とて用捨いたさぬ! うろたえ者の刀の切れ味、見せてやろう、サア立ち合え!」
「ナニ斬るとな、拙者を斬るとな、こりゃ面白い斬られよう、何んの何んの貴殿如きに! ……」
 源兵衛も刀の柄を握り、ソリを打たせて進み出た。
「まあまあご両所……」
「それは乱暴……」
「同士討ちは困る……」
「静かに静かに!」
 と、爾余の武士たちは胆をつぶし、口々に云って二人を止めた。
 止められて二人は刀は抜かなかったが、
「拙者はもはや加藤氏とは、今後行動を一緒にはいたさぬ。拙者は船へ引っ返し、明朝を待って彼奴らを攻める」
 と、霜降小平は云い切った。
 と、源兵衛も負けてはいず、
「拙者も今後霜降氏とは、行動を一緒にいたしますまい。……拙者はこれより彼奴らの陣所へ――小屋へ攻めかかり陥落させ申す」
 と、威猛高いたけだかに怒号した。
「では我々は加藤氏と共に……」
「いや拙者らは霜降氏と一緒に……」
 と、同勢も二派に別れてしまった。
 やがて間もなく紀州藩士が、焚火を後にし林を分け、海岸の方へ下って行くのと、小屋の方を目ざして潜行して行くのと、二組となって散ったのが見られた。
 加藤源兵衛とその手の者とは、小屋の近くまで忍び寄った。
 とどうだろう依然として、篝火は盛んに燃えており、その上元気よく鼻歌をうたい、のこぎりや、かんなや斧や槌などで、木を伐ったり板を削ったり、釘を打ったりして建築をしている、ノンキな物音が聞こえて来た。
 源兵衛たちは胆を奪われた。
(何んという大胆な奴らだろう)
(これもあるいはいつわりかもしれない)
酒と女と飯さえあれば
いつも極楽島ぐらし
海は夕焼林は小焼
女房潮やけ子は日焼

 霜降小平が手の者と一緒に、海岸まで走って上って見れば、二隻の帆船は影もなかった。
「どうしたのだろう?」
「合点いかぬ」
 一同は呆然として立っていた。
 そこへ船から海へ飛んで、陸へ泳ぎついてようやく助かった、水夫かこたちが集まって来た。

 水夫たちは面目なさそうに、彼らの遭遇した事件を語った。
「明暦義党とやら申します輩が、多勢小船で乗りつけまして、お船を奪い取り何処いずこへともなく、はしり去りましてござります」
「ご藩士方もはじめのうちは、敵対いたしたようでございまするが、多勢に無勢、力つきまして、捕われのお身の上になられましたご様子……」
「わたくしどもは海に飛び込みまして、ようやく陸へあがりましたような次第で……」
 と、こんなように物語った。
 霜降小平たちは茫然としてしまった。
「二隻の船を奪われては、この島から出ることは出来ぬ」
「よしんばこの島の漁師に頼んで、内地へ帰ることが出来たにしても、不面目で藩へは帰れない」
 口々に云い合って当惑した。
「もうこうなっては仕方がない。加藤氏に至急に逢い、事情を話し善後策をとろう」
 ――で、この一隊は海岸から、林中の根拠地の方へ足を向けた。
 と、根拠地の方角から、焚火の光が見えて来た。
(加藤氏偉らそうにああは云ったが、明暦義党の陣地の小屋を、さては攻撃しなかったものと見える。――あのまま焚火が燃えているのだからな)
 小平たちはこんなように思った。
 そうしてこのことは小平たちの心を、ノビノビさせ安心させた。
(自分たちばかりが不面目ではなかった)
 と、こんなように思ったからである。
 はたして加藤源兵衛たちは、焚火を囲んで悄然としていた。
「霜降氏ではござらぬか」
 近よって来た一団を認め、源兵衛たちは驚いて云った。
「加藤氏一大事でござるぞ」
 と、小平は焚火へ近よりながら云った。
「明暦義党の奴ばらに、われらが乗船二隻ながら、奪い取られてしまいましたぞ」
「何んということだ!」
「一大事だ!」
 源兵衛の部下たちは騒ぎ出した。
「それにいたしても不思議千万」
 と、源兵衛は合点がいかないように云った。
「貴殿とお別れいたしてすぐに、我ら例の小屋を攻撃いたそうと、小屋の近くまで参りましたところ、何んたる大胆義党の奴ら、鼻歌まじりに鋸や斧で、小屋の建築をいたしおりましたので……」
「ナニ、あそこにも義党の輩が?」
「そうして海上にも義党の輩が?」
「では義党の連中は、われらが想像いたしたよりも、おびただしく多勢と見えますのう」
 この時分かられていた空が、シケ模様となって嵐が吹き出し、雨さえ少しずつ降って来たが、俄然暴風に暴雨とが、林を揺すり枝葉を鳴らし、凄じい光景で下ろして来た。
「逃げろ!」
 と不意に誰ともなく云った。
 このシケを利用して義党の面々が、大挙して襲って来はしまいかと、そんなように思われたからであった。
「奥へ! 奥へ! 林の奥へ!」
 一斉に藩士たちは走り出した。

 海上もひどいシケであった。
 黒檀のような黒い波が、月も消え星も消えた空に高く、ピラミッド型に立ったかと思うと、そこで崩れて白馬のような、白泡を吹き飛沫を上げ、それだけが夜の闇の中でも、灰色く魔物の踊るがように見えた。
 そういう海上に二点の火光が、波にかくれ波にあらわれ、あるいはキリキリ渦を巻いて、上村の方へ近寄って来た。
 上村の湾には明暦義党達が、元から乗って来た自分たちの船と、たった今しがた掠奪して来た、紀州藩士たちの二隻の帆船とを、難破させないように警護しながら、沖にあぶなっかしく漂っているところの、二点の燈火を持った大船の、危険の様子を案じ見ていた。
「気の毒だ、救助しなけりゃアいけない」
 船の船首に佇んでいた、佐原嘉門がそう云った。

 嘉門は尚も叫ぶのであった。
「ありゃア随分大きな船だ、船首と船尾とへついている燈火の、距離の大きいのでそれがわかる、……ああいう大船はこういうシケでも、なかなか沈没しないものだが、しかしあの辺には暗礁が多い筈だ。そいつに乗り上げたらおしまいだ。……見ればあの船はこの辺の海には、どうやら一向不案内と見え、ただウロウロと漂っている。……気の毒だ助けてやれ!」
 そういう嘉門もこの辺の海の、案内などには不通なのであったが、島の漁師がこっちにはいたので、そういうことはわかるのであった。
 その嘉門は林の奥の、例の小屋がけの陣地から、味方を繰引きにここまで引かせ、一部は上村の漁師の家へ、頼み込んで分宿させ、一部を自分たちの乗って来た船へ、乗り込ませて形勢を見ることにし、一方半九郎と主膳とへ、青塚郷民の屈竟なのをつけて、紀州藩士の乗って来た船を、海に求めさせて奪わせたのであった。
「さああの船の水先案内をしてやれ!」
 とまた嘉門は怒鳴り出した。
「さあ上村の漁師さん達、ご迷惑でしょうが行っておくんなさい。……私達もご一緒に参りますから!」
「助けに行こう!」
「水先案内をしてやれ!」
 と、漁師たちは異口同音に応じて、数隻の小船へ篝を焼き、それへ勇躍して乗り込んだ。
 嘉門もその他の義党の同志も、幾人となく乗り込んだ。
「それ漕ぎ出せ!」
「それやいそれやい!」
 怒濤どとうをしのぎ暴風雨を突っ切り、勇敢に小船は出て行った。

 海上の巨船には数十人の武士が、疲労と恐怖と困惑とで、人心地もなく立ち騒いでいた。
 素晴らしく立派な船であって、しかも普通の客船でもなく、また普通の荷船でもなく、軍船型と遊覧船型とを、折衷加味した特殊の船で、矢狭間やはざましつらえてあるかと思うと、管絃の宴を催すによい、朱塗りの舞台などが出来ていた。
 胴の間はキラビヤカな座敷であって、絨毯、毛皮で敷きつめられてあり、望遠鏡、地球儀、羅針盤などという、舶来の珍奇な品物が装飾的に置いてあったりした。
 その座敷の正面に坐り、烈しい船の動揺につれて、体を左右に揺すりながらも、狼狽もせず恐怖もせず、さも悠々と構えている、霜髪、豊頬、鳳眼、隆鼻の、老貴公子のような人物がいた。
 その左右に転がりつ起きつ、よろめきつしている家来たちを、気の毒そうに見やったが、
「この航海を思い立ったのは、いわばわしの気まぐれだったのじゃ。そこで天がそれを咎めて、こんな気まぐれのシケを下し、わしを咎めたに相違ない。余波を受けたその方たちが気の毒じゃ」
 こう云って暗い顔をした。
 家来たちはしかし恐縮しきって、苦しい中にも辞儀ばかりしていた。
いかりを持って行かれたとあっては、船をとどめて置くことも出来ぬの。このような時には岸へなど寄せずに、沖の方へ止めて置くべきだが」
 老貴公子はそう云いながら、ここまで聞こえて来る暴風雨や、波濤はとうの音に耳を澄ました。
 と、人々の叫ぶ声が聞こえた。
「変な小船が寄せて来たぞ!」
「海賊ではないか! 用心しろ!」
「それ右舷の方へ廻ったぞ!」
「左舷の方へもあらわれた」
「ヤア何か叫んでいる」
「松明をふりまわして合図をしている」
 老貴公子はそれを聞くと、
「天災に加えて人の災が来たか。……それも仕方あるまいよ……海賊? なるほどそうかもしれぬ。純友以来瀬戸内海は、海賊どもの巣窟だからの」
 と、依然として悠々寛々として云った。

 しかし人々の叫ぶ声が、あまりに烈しくきこえて来たので、老貴公子は立ち上がった。
「どれ甲板へ出てみよう」
 家来たちは口々に止めた。
「おあぶのうござります、お止まりくだされ」
「それに雨風も烈しゅうござりますれば」
 しかし老貴公子は意にもかけないで、甲板の方へ上がって行った。
 で、家来たちも止むを得ず、それにつづいて甲板に上がった。
 いかさま凄まじい光景であった。
 船にぶつかって砕けた波が、船の周囲で泡を湧き立たせ、大滝の壺さながらの姿を、闇の中に現わしている以外は、一望まったく墨のような黒さで、空と海とのけじめさえつかない。しかも盛り上がり盛り下がる波は、暗い中でも見てとられ、その轟音に至っては、嵐と雨との音を雑え、吼えるとも聞かれうそぶくとも聞かれた。
 が、壮観なのはそういう海上を、伴侶に離れた不知火しらぬいのように、数点の火が右往左往、あるいは前後に飛びはしり、この大船の周囲を巡って、決して離れないことであった。
 小船の篝火の光なのである。
 そこから叫び声が間断なく聞こえた。
 老貴公子は船首に立って、それらの小船を見下ろしていたが、
「やあ彼らは海賊ではないぞ。……悪意を持っている者どもではない。……声の調子で自ら知れる。……聞いてみよ、何を叫んでおるか……?」
 こう家来に声をかけた。
 家来達は口々に叫んだ。
「やア海上の小船の方々、何んのご用あって参られたぞ! 申されい、申されい!」
 すると小船から叫ぶ声が聞こえた。
「われらは上村の漁師でござるが、お見受けいたせばご難儀の様子、それにこの辺の水路については、不案内の様子に見受けましたれば、ご案内いたそうと参ってござる!」
「この辺には暗礁多く、それに乗り上げたら一大事! で、われわれの小船について、その船お進めなさりませ!」
 途切れ途切れにそういうのが聞こえた。
「思った通り海賊ではなく、親切な島の漁師どもであったぞ」
 と、老貴公子は愉快そうに云い、
「その者二、三人この船へ参って、針路の案内いたしくれるよう、そち達ねんごろに頼んで見よ」
 と云った。
 そこで家来たちは口々に叫んだ。
「とてものことにそなた方二、三人、この船へおこしくだされて、航海のお差図くだされい!」
「お願いいたす! 船へおいでくだされい!」
 すると小船から声が来た。
「心得てござる、縄お投げくだされ!」
 縄が数条投げられた。
 その縄に取りつき三人ほどの者が、ほとんど決死の冒険をもって、大船へまでよじ上って来た。
 老貴公子は進み出て、ねぎらうように声をかけた。
「勇士! まことに真の勇士! ことには親切、それに仁侠! われら心よりお礼申す」
 その老貴公子の堂々たる風姿を、篝火の光で認めたは、真っ先に上って来た佐原嘉門であったが、
「あッ」
 と驚きの声をあげた。
「意外も意外、あなた様には!」

 こういう様々の出来ごとが、洞窟外では行われたが、洞窟――お蔵の中においても、いろいろの事件が行われた。
 ねたば三十郎が民弥や梶子や、鵜の丸兵庫や五十嵐右内や、菊女きくめにまでも見あらわされたことで、三十郎は前後から、それらの人々に挟撃された。が、洞窟には枝路が、碁盤の目のように織られていた。敏捷の三十郎はそれを利用し、一人で五人の男女を相手に、神出鬼没逃げ廻った。
「父の仇、今度こそがさぬ!」
 と、切り込んで来た民弥の刀を、苦もなく払って三十郎は、一筋の枝道へ駈け込んだ。
「悪漢!」
 と、兵庫が待ちかまえていて、真っ向から切りつけた。
「何を!」
 と受けて、左へ流し、三十郎は脱兎の如く、傍の枝路へ躍り込み、それを真っ直ぐにひた走った。

 つきあたったところに丁字路があって、その一方から五十嵐右内が、
「姦物!」
 とばかり切り込んで来た。
 それを三十郎は払いのけ、他の一方へ一散に走った。
 とまた十字路が出来ていて、そこに一つの人影があったが、それに三十郎はぶつかった。
「あッ」
 という女の声が聞こえた。
 それが菊女の声だったので、三十郎は躍りかかり、有無を云わせず横抱きにした。
 もがき、叫び、遁がれようとして、菊女は烈しく争ったが、三十郎は放さばこそであった。
 抱いたままでひた走った。
 後から追って来る足音や、叫ぶ声や呼ぶ声が聞こえて来たが、やがてそれも遠ざかった。
 三十郎はメチャメチャに走った。
 どこへ出ようとどうなろうと、もうそんなことは問題でなかった。
 兵庫や民弥に討たれるよりも、洞窟の中で道に迷い、永遠に外へ出られずに、餓死した方がまだよいと思って、走りに走るのであった。
 と、彼の悪運が、まだこの時には尽きなかったものと見え、遙かの行手にほの赤く、火の光が見えて来た。
 松明の光ではなさそうであった。
(しめた! 有難い! 外に出られる!)
 驚喜して三十郎はひた走った。
 とうとう三十郎は洞外へ出た。
 見れば何んたる光景ぞ!
 林をゆすり森を叩き、戸外は暴風暴雨であったが、百人あまりの武士の群が、洞窟の入口に屯ろして、篝火を焚いているではないか。しかも何んと意外も意外、霜降小平や加藤源兵衛らの、それは紀州藩士の群であった。
 三十郎はギョッとした。
 が、奸智にたけた彼は、躊躇ちゅうちょせずに走り寄ると、
「お珍らしや加藤氏、霜降氏、拙者は刃三十郎でござる! 青塚郷を襲いました際に、お味方いたした三十郎でござる! ……かかる処でお目にかかるとは! ……おお、そうそう貴殿方に対し、拙者お土産を持って参ってござる! この女じゃこの女じゃ! ……もちろんご記憶でござりましょうな、明暦義党の同志の一人の、菊女という女のことを! ……この女が菊女でござる! ……事情あって拙者手に入れましたが、只今貴殿方にお渡しいたす! ……よいお土産はまだ他にもござる! ……明暦義党の大立て者の、鵜の丸兵庫と五十嵐右内とが、この洞内にて迷子になり、ウロウロしているという報知でござる!」
 と、こう一気にまくしたてた。
 暴風暴雨に襲われた上、明暦義党の面々に、奇襲されはしまいかと疑心暗鬼し、林の奥へ林の奥へと、走り走り走り走って、いつかここまでやって来たところの、紀州藩士の群なのであったが、来たここでまたも意外にも、三十郎などという人物にぶつかり、新しく驚かなければならなかった。
 とはいえ三十郎の云ったとおり、青塚郷を攻めた時に、自分たちに味方した人間なので、何ら不安は感じなかった。
 のみならず明暦義党の中でも、女ながらも立て者の一人の、菊女を捕えてくれたというので、感謝せざるを得なかった。
 しかしそれよりもこの洞窟内に、兵庫と右内とがいるという報知は、この人々を驚喜させた。
「刃氏か、お珍らしや、仰せの通りいつぞやの日は、お味方くだされてかたじけのうござった。……その後いかがなされたかと、ひそかにお案じいたしてござるが、このような島のこのような所で……いやいやいやそのようなことは、後日ゆっくりお話しするといたし、菊女をお捕えくだされた段、有難うござる、お礼申す」
 と、まず加藤源兵衛が云うと、
「兵庫と右内とが洞窟内にいるとか、それ方々洞内へはいり、二人を捕え連れて来られい! いや拙者も、拙者も参る!」
 と、霜降小平が駆け入ろうとした。


 三十郎はあわてて止めた。
「霜降氏、それは危険じゃ。……只今拙者申しましたとおり、洞窟の中には枝路多く、うかうかはいって行こうものなら、容易に外へは出られませぬ。……兵庫や右内もかかるがゆえに、今に洞内にウロウロと、うろつき廻っておりますので。……で、兵庫や右内めを、討って取ろうとなさるなら、この洞窟には他に二つの、出入り口がある筈にござりますれば、その二つの出入り口と、ここの口とに待ちかまえていて、出て来たところを討ってとるが、最も賢明で安全でござる」
「なるほど」
「それがいい」
「では同勢を、至急三つに分けようではないか」
「では加藤氏には一手を率い、南側の口をお守りくだされ」
「霜降氏には一手を率い、もう一方の口をお固めくだされ」
「刃氏にはここにこのまま、菊女を警護し二、三十人にて、お止まりくださるようお願い申す」
 ――こうして紀州の藩士たちは、三手に別れてこの岩山の、二方に向かって散ってしまった。
 風雨はいよいよ勢いを加え、林や森は闇の中で、幹を軋らせ枝を振っていた。

 民弥と梶子とは松明の火で、路を照らし岩壁を照らし、尚あてなく洞窟内を、不安をもって辿っていた。
 三十郎を取り逃がし、兵庫や右内や菊女などをも、乱闘によって見失った今は、ただひたすらこの洞窟から、外へ出るべく苦心する以外、とるべき手段はなくなってしまった。
 それにしても民弥や梶子にとり、兵庫や右内や三十郎や、菊女などとこのような島の中の、このような岩山の洞窟内で、邂逅したということは、何んという驚くべきことだったろう!
 が、ああいう際であった、聞くことも話すことも出来なかった。
 だからどうしてこのような所へ、どうして来たかということについては、全く知ることは出来なかった。
 解らないままにチリヂリになり、幸い二人だけは一緒になれたので、こうして歩いているのであった。
 二人は時々大声を立てて、兵庫や右内や菊女の名を呼んだ。
 答えるものは自分たちの声ばかりであった。
 時に二人は立ち止まって、自分たちを呼びはしないだろうかと、耳をすまして聞いたりしたが、声はどこからも聞こえなかった。
 二人はあてなしに進んで行った。
 疲労と不安とで民弥も梶子も、だんだん心が弱って来、次第に体も弱って来た。
 と、道が下り坂になって来た。
「あれ」
 と不意に梶子は叫んで、民弥の腕へ縋りついた。
「梶子殿どうなされた」
「あれ、あそこに、あんなものが!」
 梶子は顫えながら指をさした。
 見れば行手の岩壁に、人の姿をした白いものが、こっちの松明たいまつの光の余波で、ぼんやりと立っているのが見えた。
 民弥も何がなしにゾッとしたが、足を早めて近づいて見た。それは人間の骸骨がいこつであった。
「骸骨!」
「まあ」
「犠牲の人だ!」
 そう、それに相違なかった。
 この洞内へまぎれ入り、とうとう外へ出ることが出来ず、死んでしまった人の形見なのである。
(自分達もこんなようになるかもしれない)
 民弥も梶子もこう思って、ゾッとせざるを得なかった。
 二人はしばらく骸骨を見ていた。
 と、その骸骨の右の手が、十字路をなしている道の一方を、指さしているのに気がついた。
 二人は顔を見合わせた。
 それから二人はその方角へ、無言のままで進んで行った。
 するとまた十字路が出来ていたが、そこの岩壁にも同じような、骸骨がつっ立っていて、その左手が一方の道を、さし示すように指さしていた。

 で、二人はそっちへ進んだ。
 道はますます降りになり、そうして枝路が少なくなった。
 そうして枝路のあるところには、いつも骸骨が立っていて、手が一方を指さしていた。
 二人は顔を見合わせて云った。
「変ですね、何かありますね」
「何か意味がありそうです」
 こうして二人は骸骨に導かれて、下へ下へと降りて行った。
 と、道が行き止まりになり、頑丈な鉄でつくられている扉が、二人の正面に立っていた。
 また二人は顔を見合わせた。
 そうして思わず微笑し合った。
 こんなところに扉がある。では魚屋ととやの財宝が、この扉の奥にあろうもしれないと、そう思ったからであった。
 そこで二人は松明をかざして、仔細に扉を検査した。
 長い年月を経ていると見えて、鉄扉には錆が行き渡ってい、磨滅したようなところもあった。巾四尺高さ八尺、それぐらいはありそうであった。
 蝶つがいになっていたが、鍵穴らしいものは見られなかった。
 二人の心持ちは非常な期待で、昂奮状態になっていた。
 四辺あたりに人などいない筈だのに、四辺に人がいるかのように、声を忍ばせ、呼吸を詰め、あえぐように囁くように話した。
「いよいよ目的地へ来たようですわね」
「さよう」
 と民弥は体さえ顫わせ、
「とうとう目的地へ来たようです。……が、しかしこの扉は、容易なことでは開かないでしょう」
「そう。……でも……」
 と梶子は云って、自信ありそうに扉を眺めた。
「鍵穴がないから鍵を使って、開閉するようには出来ていない。……では、全く別の手段で……」
 そう云ったままで鋭い眼で、またつくづくと扉を眺めた。
「わたしはこれでも隠密という役柄、こういうもののカラクリには、案外慣れているのですよ。……深く考えてはいけないのです。……何んでもない一向平凡なところに、秘密の鍵はあるものです。……この扉は巾四尺、高さ八尺というのですから、普通の出来とは違いますのね。……六尺までは手が届く、八尺となると届かない。……ちょっとわたしを背負って頂戴」
 ――で、民弥は梶子を背負った。
 梶子は扉の上側の縁を、両手の指で探ったようであった。
「あった!」
 と歓喜の声をあげた。
 グッと一所を押したようであった。
 と、扉が音も立てず、内側に向かってゆるやかに開いた。
 二人は松明を高くかざし、狂気したように部屋の中へはいった。
「あッ」
 と同時に声をあげた。
 二人の足もとから無数の骸骨が、広い部屋を埋めているではないか。
 岩壁に背中をもたせかけているもの、床の上に仰臥しているもの、床の上にひざまずいているもの、天を仰ぐような様子のもの、悲泣しているような形のもの、二人三人からみ合っているもの、それとは反対にお互い同士、格闘をしているものなど、無数に散在しているではないか。
 髑髏どくろだけとなって転がっているもの、手足だけとなって散在しているものは、数え切れないほどであった。
 腐蝕した鋤や鍬などが、これも無数に散在していた。
 そうしてそれらの骸骨や、鍬や、鋤の群の中に、巨大な石造のひつが五個、規則正しく置いてあった。
 二人はそれへ突進して行った。
 しかし石棺は鉄の蓋をもって、厳重に蔽われ鎧われていた。
 しかし、こういう光景の中に、このような石棺があるのである。
 この中に魚屋の財宝が、充満しているということは、常識をもって考えられた。
 梶子と民弥とは満足に充ちた心――喜びと幸福と感謝とで、無言でしばらく石棺を見詰めた。
 それから揃ってそれへ腰かけ、互いに体をもたせ合い、疲労した体を休ませた。

「ねえ」
 と梶子は梶子らしくない、初心の女さながらの声で、骸骨の群を指さしながら云った。
「この人たち可哀そうですわねえ」
「可哀そうな犠牲です」
 と、民弥も弱々しく真面目に云った。
「ここで殺された人達です」
「そうよ、秘密を洩らされまいとしてねえ」
「これだけの部屋をこしらえて、これだけの財宝を運んで来て、首尾よくここへ納めた時が、この人たちの殺される時。――そういうことになったのですねえ」
「人柱ですのね、可哀そうに」
「その人柱に守られて、今日まで財宝があったという訳です」
「それをわたしたちが頂戴するのねえ」
「しかしわたしたちも苦労しましたよ」
「そうですわねえ、死ぬか生きるかの。……でもとうとう望みをとげましたわ」
 梶子はここまで云って来たが、ここでにわかに情熱的になり、
「もう一つの望みはどうなるのでしょうねえ」
「もう一つの望みとは?」
「…………」
 梶子は返辞をしなかった。
 しかし燃えるような愛情の眼で、民弥の顔を凝視した。
 それは恋の眼であった。
(そうだった!)
 と民弥は思った。
(久しい間絶える暇なく、何んとこの女はこの自分を、烈しく愛してくれたことか! 危険の時にも平和の時にも、終始一貫して愛してくれた! そうして最後には夢のような、このような巨財を与えてくれた!)
 感謝したいような心持ちが、民弥の心へ涌いて来た。
 なお二人はもたれ合っていた。
 部屋が密閉されているからか、だんだん息が苦しくなって来た。
 そこで梶子は立ち上がり、鉄扉の方へ歩いて行き、扉をすこし開けようとした。
 だが扉は開かなかった。
(おや)
 と思いながら力強く、梶子は扉を引いてみた。
 二人によって開けられて、その二人を部屋の中へ入れて、その後から自然と閉じた、この頑丈そのもののような鉄扉は、二人を永久にこの部屋から出さず、この部屋に散在している骸骨の身の上――それに成れよと云っているかのように、微動さえもしなかった。
「松浦様!」
 と不安と恐怖とで、さすがの梶子も顫え声で呼んだ。
「来てください、扉があきません!」
 すぐに、民弥も走って行き、梶子と一緒に力を合わせて、扉を引いたり押したりしたが、扉は微動さえしなかった。
「外からは楽々と開いた扉です、内から開かないという訳はない。どこかにカラクリがあるでしょう。扉をあけるカラクリが。……失望せずに探して見ましょう」
 民弥はそう云って扉の周囲から、岩壁から岩床から探し廻った。
 梶子も一緒に探し廻ったが、しかし梶子の探し方は、きわめて絶望的のものであった。
(扉は開かない、決して開かない!)
 と、そう信じておりながら、そういうことを知らないで、民弥が一生懸命さがしている、それを絶望させまいとして、厭々ながら探していると、そういったような探し方であった。
 どこにも扉をあけるカラクリはなかった。
 民弥も絶望して突っ立ってしまった。
「これはこういう扉なのですよ」
 と、梶子は弱々しい声で云った。
「外からはあのようにして開けられるのです。で、この部屋へはいった人は、扉と岩の縁との間へ、かい物をしなければいけないのです。かい物をかって扉をささえて、閉ざされないようにして置くのです。……何んてわたしたちは馬鹿だったんでしょう。……扉のあいた嬉しさに、前後を忘れて飛び込んでしまって、そういう処置をとらなかったとは。……いいえ妾がわるかったのです。……妾のような商売の者こそ、そういうことには常日頃から、注意しなければならなかったのに。……」
 呼吸がだんだん苦しくなって来た。

 この洞窟のあるところに、こもっているという毒素を持った空気、それがだんだん二人の呼吸を、侵して来たのかもしれなかった。
 呼吸がだんだん苦しくなって来た。
 と、突然闇黒となった。
 松明がこの時燃えつきたのである。
 暗黒の中で、骸骨にかこまれ、目前に巨財を置きながら、恋の想いをいまだとげないで、二人は窒息して死ぬのであろうか?
 突然梶子は強い力で、民弥の躰を抱きしめた。
 民弥はそれを締め返し、むさぼるように口づけした。
 死を前にした恋であった。
 この間にも呼吸は迫り、二人は抱き合ったままよろめいた。
 足に触れるものは骸骨であった。
 とうとう二人は抱き合ったままで、骸骨の中へ転がった。
 あえぎ、もがき、這い廻り、どこかにわずかでも清潔な空気が、洩れて来るところはないだろうかと、それを探し求めるように、岩床の上をノタウチ廻った。
 石棺の一つへ辿りついた。
 その石棺に縋りつき、二人は尚ももがきつづけた。

 鵜の丸兵庫と右内とは、松明で岩壁を照らしながら、尚洞内をさまよっていた。
 今の乱闘で三十郎を逃がした。
 それは仕方がないにしても、このような時に、このようなところで、意外も意外巡り合ったところの、同志の民弥や菊女とまで、言葉を交わせる暇もなく、チリヂリに別れてしまったことが、心外に思われてならなかった。
 だからどうしてこのような処へ、どうして彼らがやって来たかも、この二人にはわからなかった。
 でも彼らが自分たちと同じに、この洞窟の中にいる。――という事は二人の者にとり、気強いことには相違なかった。
 二人は交わる交わる大声を上げて、民弥や菊女の名を呼んだ。
 が、返辞は来なかった。
 では彼らも自分たちのように、この洞窟の迷路に迷い、洞外へ出ることが出来ないで、ウロウロしているのではあるまいか。
 そういう不安も二人にあった。
 しかし自分たち二人の者も、今に洞外に出られないで、このとおりマゴマゴしているのである。
(出なければならない、いそいで洞外へ!)
 二人はむやみと歩いて行った。
 と、不意に右内が云った。
「や、出ましたぞ、心あたりの道へ!」
「それは重畳、北口への道で?」
「さようさようその道でござる。……軍用金を隠匿いたそうと、軍用金をたずさえて、拙者北側の口よりはいり、その場所まで歩いて行きましたが、その道順へ出ましたので、……こっちでござる! こっちでござる!」
 云い云い右内は一方へ曲がった。
「こっちでござる! こっちでござる!」
 また右内は一方へ曲がった。
 こうしてその道が行きつまり、行き詰まった岩の一所に、巨大な隆起が出来ていて、それがあたかも何らかの容器の、蓋のつまみを連想させたが、その前まで来ると五十嵐右内は、足を止めて松明をかざし、仔細にそれを調べ出し、やがて安心したように、
「軍用金の隠匿所は、幸い誰にも荒されず、全く無事にございます。……ここでござる!」
 とそう云った。

 それからしばらく時が経った。
 北側の出口の内側に立って、出口の方をうかがいながら、兵庫と右内とは囁き合っていた。
「大勢出口にいるようでござるな」
「さよう大勢いるようでござる」
「が、いったい何者でござろう?」
「とんと見当つきませぬな」
「うかつに出て行って咎められ、それからそれへと探られて、軍用金の隠匿所などを、発見されては一大事じゃ」
「ともかくもこっそり行って見ましょう」
 二人は岩壁へ体をつけ、松明の必要はなくなっていたので、その松明を地へすてて、忍び足して進んで行った。
 出口に屯ろしている者は、紀州藩の武士たちであった。
 しかも何んと意外にも、その中には刃三十郎と、菊女とが雑っているではないか!

 一方梶子と民弥とは、ほとんど気息奄々えんえんとして、辿りついた石棺の一つに縋り、尚ももがき苦しんでいた。
 と、不思議にもどこからともなく、すがすがしい風がほんのわずかではあるが、洩れて来るように感ぜられた。
「民弥様、風が来ます」
「風が来る! 私にも感じる!」
「でもどこから? どこから来るのでしょう?」
「さがしましょう! 大丈夫だ! 風が来る以上風穴はある! ……それをさがして、それをさがして!」
 二人はそれをさがし出した。
「風は石棺から来るようです!」
 いぶかしそうに梶子は叫んだ。
「たしかに石棺から来るのです! ……」
「そうですそうです!」
 と民弥も叫んだ。
「石棺のどこかから来るようだ! ……この石棺にとりついてさえいれば、息が楽になるのだから!」
「でもどうして石棺なんかから? ……どうでもいい! どうでもいい! ……石棺に一生懸命縋っていましょう!」
「そうですそうです、縋っていましょう」
 二人は石棺に無二無三に縋った。
 と、二人の躰の力で、石棺の蓋の錠が砕け、強いバネが刎ねたらしく、蓋は猛烈に刎ね返り、二人は床に投げ出された。
 と同時にド――ッとばかり、潮気を含んだすがすがしい風が、石棺の口から吹き上がった。
「民弥様アーッ、風が風が!」
「おおおおおお! 風が吹き込んで来た! もう大丈夫だ! 助かった! ……でもどうして石棺の中から風が!」
「わかりますわかりますわたしにはわかります! ……これはよくあるカラクリなのです。……石棺の形にこしらえた、これは立派な抜け穴なのです」
「抜け穴? なるほど、そうでしたか! ……ではここから脱けられるのですね! 外へ! おおおお外へ外へ!」
「そうですそうです脱けられるのです!」
「では私がはいってみましょう、石棺の中へはいってみましょう」
 民弥は手さぐり足さぐりで、石棺の中へ身を沈めた。
「梶子様梶子様ありました! 階段が階段が!」
「おおありましたか、もう大丈夫!」
「さあさああなたも私につづいて……」
「はいはい行きますとも行きますとも!」
 梶子も石棺の中へはいって行った。
 垂直についている階段は、おおよそ二丈あまりつづいていたが、それが絶えると地面になった。
 二人は嬉しさに声高く笑い、手をつないでその道を走った。
 と、行手から轟々ごうごうという、物凄い音が聞こえて来た。
「何んでござろう?」
「何んでしょう?」
 いぶかしくも気味悪くも思ったが、しかしそういう物音は、戸外から来るものと思われたので、二人にはかえって頼もしい気がした。
 とうとう抜け道の出口まで来た。
 口は小さくて這い出さないことには、ほとんど出ることが出来なかった。
 でもとうとう這い出した。
 海が、荒れている魔物のような海が、すぐ眼前にひろがっていた。轟々と音立てて拡がっていた。
 二人が脱けて来たこの道こそ、洞窟に通じている四筋の道の中、誰にも発見されていないと、そう云われている一筋の道。――全くその道に他ならなかったのである。
 いまだに風雨は荒れていた。
 二人の体は雨に打たれ、打ちよせて砕ける波の飛沫にぬれ、文字通りれ鼠のようになってしまった。
 それでも二人は嬉しくてならず、またここで大声に笑った。
「さあこれからどうしましょう?」
「このシケではおそらく私達の船は、砕かれてしまったことでしょう。……人里へ出るより仕方ありません」
 そこで二人は岩山の裾を、一方へドンドン巡って走った。
 と、行手に火の光が見え、大勢の人声がきこえて来た。


 霜降小平に率いられた、それは紀州藩士たちであった。
 明暦義党の幾人かが、この洞内にいるそうだ、いずれ出て来るに相違ない、そこを狙って討って取ろうと、同僚加藤源兵衛達は、一方の出口に見張っている筈、ここには霜降小平たちが、こうやって見張っているのであった。
 焚火を焚き、それにあたたまり、彼らは雑談を交わせていた。
「や、女がやって来る」
 一人の武士が驚いたように云った。
「何んとこのシケに女が一人で……」
「どれどれ」
 と一同はそっちを見た。
 なるほど一人の年増らしい女が、こっちへ足早に歩いて来ていた。
 いうまでもなく梶子であった。
 火の光が見えて人声がしている。何者か様子を見て来ましょう、あなたは隠れておいで遊ばせ。――こう民弥へ云って置いて、梶子一人で来たのであった。
 近寄って見てその連中が、見覚えのある紀州藩士――そうと知って梶子は驚いた。
(どうしよう)
(かまうものか!)
 梶子は焚火へ寄って行った。
「霜降様、お久しぶり」
「や、これは梶子様!」
 霜降小平はしたたかに驚き、茫然としてそう云った。
 ――日本的の女隠密、老中松平伊豆守様の、呼吸いきのかかっている恐ろしい女、青塚郷を攻めた時には、自分たちに味方をしてくれたが、中頃になって敵方に附き、捕えた萩丸様を敵方に渡して、行衛不明になった女。――そういういろいろの履歴を持った梶子が、こんな時にこんな所へ、突然あらわれて来たのである。茫然とするのは当然であろう。
「おおこれは梶子様!」
 と、小平は二度まで驚いて云って、
「何用ありましてこのようなところへ、何用ありましてあなた様には?」
「ナーニね」
 と例によって、砕けた調子で梶子は云った。
「ご承知の通りのわたしの役柄、そこでお上から命ぜられ、調べることがありまして、ほんの最近この島へ、やって来たのでございますよ」
 女隠密であるだけに、こう云えばちゃんと筋道が立つ。
 はたして小平は深くうなずき、
「おおおおさようでござりましたか。それはそれはご苦労千万、ご辛労の御事と存じまする。……や、過日は青塚の郷では……」
「オッホッホッ、まあまああれは、あの時のことはあの時のこと、過ぎ去ったことでございますから、云わず語らず聞かずとして、そっとして置こうではございませんか」
 梶子としてもあれを云われると、中頃裏切ったことであり、少なからずテレるので、こう云って外してしまった。
 相手が凄い相手だったので、小平も苦笑いしたばかりで、押して云おうとはしなかった。
 梶子は焚火で手をあぶりながら、物々しい藩士たちを眺めたが、
「霜降様いったいどうなさいましたので?」
「は? 何んでございますかな?」
「あなた様こそこんな島などへ、どうしてお渡り遊ばしたので?」
「実はな」
 と小平は云いにくそうに、
「やはり青塚の騒動が、今にたたっておりますので」
「では明暦義党とやらが……」
「さよう彼らがこの島へ」
「へえ、おやまア、驚きましたわね。……ではその人達を討つために?」
「はい、君命を受けまして、拙者ら参ったのでございます。……あなた様にもご存知の、加藤源兵衛氏共々にな」
「それはそれはご苦労千万……それにいたしてもこのような所に、こんな岩山の洞の口などに、このように大勢物々しく、お集まりなすっていらっしゃるのは?」
 女隠密特有の、物馴れた口調でズバリズバリと、梶子は問いを発するのであった。

「実はな」
 と小平はウカウカと云った。
「この洞内に義党の奴ばらの、五十嵐右内、鵜の丸兵庫、松浦民弥などがこもりおること、告ぐる者あって知りましたので、出て来るところを待ちまして、討って取ろうとわれわれ一同、見張っている次第にござりまする」
「おやまア五十嵐さんや兵庫様が、この洞内においでになる。……それは案外でございますねえ」
 その右内や兵庫とは、洞内で邂逅しているのであったが、空トボケて梶子は云った。
「でもどうしてそのようなこと、誰があなた様にお知らせしましたので?」
ねたば三十郎と申す仁で。……おおそうそう刃氏と、梶子様とはご懇意の筈、一緒に青塚を攻めました際、お味方くだされた筈でござったな。……そのねたば三十郎氏が、やはりこの洞内におりましてな、北側の口より出て参られ、その儀われらにお知らせくだされ、その上洞内にてとらえた由にて、明暦義党の女同志、菊女という女をわれらの手へ、お引き渡しくだされましたよ」
「まあまあさようでございますか。……刃三十郎さんも洞内にいた? ……へえ、それでは洞内には青塚事件の大立て者が、みんないたということになるんですねえ。……その刃三十郎さんとは、あの事件以来別れてしまったが、へえ岩山の北口にいる。……じゃア久しぶりで行って逢おうかしら。……菊女っていう女がとらえられた? ……謀反人の明暦義党の女、とらえられたはいい気味いい気味」
 こうは云ったが梶子としては、
(それでは刃三十郎め、うまうま洞内から出たものと見える。三十郎は民弥さんの敵、ヨーシ民弥さんを手びきして、今度こそ三十郎を討ちとってやろう。……菊女という人には恩怨はないが、噂にきくと女丈夫とのこと、とらえられたはお気の毒、わたしの力で救い出してやろう)
 と、こう決心しているのであった。
 ヒョイと梶子は立ち上がり、
「それでは霜降様ごめん遊ばせ」
「ごめん遊ばせと仰せられても、このシケに一人で女の身で、このような夜にどこへ参られます?」
 小平は驚いて止めるように云った。
「シケであろうと地震であろうと、わたしのような役柄の者は、用さえあれば命をマトに、どこへでもいつでも出て参らねば……」
「なるほどなるほどこれはごもっとも……」
 と、女隠密という一所に、力点を置いている霜降小平は、梶子の言葉をすぐ信じ、
「それにいたしてもあなた様のお役目、なみたいていではござりませぬなあ。……や、もしご必要でござりましたら、道の用心に一人二人、手の者附けてもよろしゅうござるが……」
「いいえそれには及びませぬ、夜が恐かったりシケがこわかったりしては、わたしの仕事はなりたちませぬ」
「や、これもごもっとも……」
「それに向こうには恋しい人が……」
「え? 何んでござりまするかな?」
「オッホッホッ、こっちの話で……」
「アッハッハッ、何んのことやら……」
「で、かえって邪魔というもの」
「ハーン、さようでござりまするかな」
「送り狼は禁物というもの」
「送り狼? いやいや決して……」
「馬に蹴られて死ねばよいって……」
「という格言もあるそうでござるな」
「で、わたしたちはシッポリぬれて……」
「ははあお連れがありますので?」
「仕事には相棒があるものでしてねえ」
「ごもっとも、そうでありましょうとも」
「シッポリどころかこのシケじゃア、ズブズブにぬれてしまうでしょうよ」
「合羽なりとお貸しいたしましょうかな」
「ぬれたい心をご存知ないそうな」
「ぬれてはお体に悪いでしょうな」
「肌と肌とで暖め合うそうで」
「ははあ」
 と小平にはわからなくなった。
 その間に梶子の仇っぽい姿は、闇の中へかくれてしまった。
 が、しかし少し経った時、民弥と二人岩山の北口へ、一散に走って行く姿が見られた。

 梶子と一緒に走りながら、民弥の心は亢奮こうふんしていた。
 梶子から事情を聞いたのである。
 三十郎が北口にい、菊女が敵方にとらえられたということを。
(三十郎は是非討ちとる! 菊女殿は助けなければならない!)
 で、亢奮しているのであった。
 北口の見える地点まで来た。
 なるほど洞の入り口に、大勢の武士が集まってい、焚火を焚いて雑談している。
「民弥様」と梶子は云った。
「まずわたくしが最初に行き、多勢の紀州藩士たちを、追い払うことにいたします。……追い払いましたら合図しますにより、駆けつけておいでなさりませ」
「さようでござるか、おねがいいたします」
 そこで梶子はわざと大仰に、声を立てながら洞口の方へ走り、走りつくと叫ぶように云った。
「わたくしは梶子と申すもの、紀州藩士の方々と一緒に、いつぞや青塚の郷を攻め、明暦義党の同志ばらと、戦ったものにござります。……ゆえあってここの洞窟内へ、立ち入りましてございますが、意外にも義党の同志の中の、鵜の丸兵庫と五十嵐右内と、松浦民弥とに逢いました。……で、それらの連中と、洞内の迷路を辿り辿り、ようやく一つの口へ出ましたところ、そこに霜降小平様が、大勢とご一緒におられまして、忽ち斬り合いとなりましたが、義党の三人は死に物狂い、それに揃っていずれもが腕利き、さすがの小平様の同勢も、あしらいかねたよう見受けましたれば、わたくし小平様のご依頼を受け、皆様方にご加勢願おうと……」
「大変だ!」
「あっちの口へ出たか!」
「梶子殿なら我らも顔見知り……青塚郷攻めのあの際には、われらも一緒でありましたよ。……今回もまたいろいろ配慮、ありがとうござる! ありがとうござる!」
「さあ行けさあ行け加勢に行け!」
「菊女はどうする? 菊女はどうする?」
「云うまでもない、しょびいて行け!」
 紀州藩士たちは口々に云った。
「いえいえ菊女とやらいうその女は、妾がおあずかりいたしましょう。女など連れて参りましたら、かえって足手まといご迷惑の筈。……それに妾は躰がつかれて、どこへも行く気ございません。で菊女を監視して、ここにいることにいたしましょう」
 こう梶子は誠しやかに云った。
 紀州藩士たちには異議はなかった。
「われらの味方の梶子様が、監視くだされたら大丈夫。ではお預けして行くとしよう」
 ドッとばかりに鬨をあげ、紀州藩士たちは走り去った。
 その後を梶子は苦笑しながら、しばらくの間見送ったが、意外の梶子の出現や、意外な梶子の言動に、胆を奪われ唖然あぜんとしていた、刃三十郎の前へツカツカと進むと、
「三十郎さんまた逢ったねえ」
「梶子殿か、逢いましたなあ」
「洞内でヒョッコリ逢ったかと思うと、洞の口などでまたヒョッコリと逢う。二人は縁があるんだねえ」
「さようさよう縁があるので」
 三十郎は嬉しくなって云った。
 というのは梶子は何んと云っても、自分が想いを懸けた女、それがそんなように心安そうに、縁があるんだねえなどと云われたからで。
「それにしても梶子殿あれは事実で? 兵庫や右内が洞窟を出たと……」
「わたしが洞窟をぬけ出したのは、ここにこうして立っているのだから、間違いっこはないけれど、鵜の丸様や五十嵐様が、出たか出ないか知りゃアしないよ」
「では紀州藩士らに、何故あのようなこと仰せられて?」
「お前さんと差し向かいになりたかったからさ」
「や、どうも、それはそれは」
 いよいよ三十郎は嬉しくなった。
「や、どうも、それはそれは。……で、ああいって藩士たちを、追い払ったという次第でござるかな。……して拙者へのご用というは?」
「いい人に逢って貰いたいのさ」
 云い云い梶子は背後を振り返り、手を上げて合図した。
 と、民弥が刀抜きそばめ、真一文字に駈つけて来た。
「珍しや刃三十郎オーッ」
「ワ、わりゃア、松浦民弥!」
「三十郎さん本望かい! とんだいい人に逢わせて貰って!」


「三十郎オーッ」
 と松浦民弥は、刀真っ向にふりかぶりながら、三十郎へジリジリと進んだ。
「逢うては逃がし逢うては逃がしたが、今度こそ逃がさぬ。覚悟いたせ!」
 刻み足してジリジリと進んだ。
 三十郎の驚きようは!
(さては計られたか残念千万! しかしたかが民弥一人! 後は女の梶子と菊女、助太刀したところでたかが知れている)
 こう思ったのでセセラ笑い、
「松浦氏か、また、逢いましたなア、もうこうなっては仕方ござらぬ。討つか討たれるかこの辺のところで、アッサリかたをつけましょうぞ、参れーッ」
 と刀ひっこ抜き、これも上段にふり冠り、迎えるようにジリジリと進んだ。
 と、この時洞の中から、
「松浦氏助太刀仕るぞ!」
 と、声をかけながら二人の武士が、勇躍して走り出して来た。
 鵜の丸兵庫と五十嵐右内とであった。
 この時まで洞内の物陰で、洞口の様子を見ていたところ、こういうありさまとなったので、さてこそ走り出して来たのであった。
「おお鵜の丸氏と五十嵐氏!」
 と、驚喜して叫んだは松浦民弥。
 梶子も驚きかつ喜び、
「おおおお、お二人にはよくご無事で!」
 と、思わずそっちへ走り寄った。
 次々に起こった意外の出来事に、茫然としていた菊女きくめさえ、この時飛び上がり走り寄り、思わず兵庫へ縋りついた。
「兵庫様! 兵庫様!」
 云うばかりで後は涙であった。
 愛し合っている二人であり、共住みさえした二人であった。それがこの旅へ出て以来、時々顔は合わせたが、それはほんの瞬間で、後はいつも離れ離れ、しかも千辛万苦して、生死にかかわるような事件ばかりに、それからそれと遭遇した。こんな状態であろうものなら、けっきょくは生きて平和のうちに、長く逢うような幸福には、会えないものと思っていたところ、今こうして会えたのである。
 嬉しさに泣かれるばかりであった。
「菊女殿!」
 と同じ思いの、鵜の丸兵庫も涙を眼にかけ、ひしと菊女を抱きしめた。
「もう大丈夫! もう大丈夫!」
 三十郎に至っては、すっかり狼狽し恐怖した。
 兵庫や右内に出でられて、民弥に助太刀されたひには、それに打ち勝つ希望はない。
 洞窟内で逢った時には、暗所ではあり枝路がありして、それを利用し巧みに逃がれたが、こういう広場ではそれは出来ない。
(ここで俺はいよいよ討たれるのか!)
 絶体絶命の思いがした。
 が、姦智には人一倍たけた、その方では頭のいい彼であった、忽ち素晴らしい妙案が浮かんだ。
 懐中へ片腕を差し込むと、守り袋を引きずり出し、その中から紙片を取りいだし、それを頭上に高くかざし、
「方々見られよこの紙片を! これこそ方々が手に入れようとして、苦心して探しておられるところの、萩丸様自筆の宥免状じゃ! 拙者人形の隠し所より、発見いたして肌身につけ置いた! ……このことは既に菊女殿へは、拙者申して置いた筈! ……これがそれじゃ、宥免状じゃ! ……さて松浦民弥氏、いかにも拙者は貴殿にとっては、父親の敵に相違ござらぬ! ……で、拙者を討ちたかろう! ……――が、拙者は討たれるのは厭じゃ! ……まだまだ拙者年も若く、それにまだまだいろいろのことを、やってみたくて仕方ござらぬ。……要するに生きていたいのじゃ! ……そこでご相談ということになる。……そのように大勢で取りまかれては、拙者のがれる術はござらぬ。……で、もし貴殿方がその大勢で、どうでも拙者を討って取ろうとなら、拙者貴殿方の面前で、この宥免状を破り捨てましょう。……が、それとは反対に、貴殿方拙者を助命するとならば、この宥免状お渡しいたす。いかがでござるな? いかがでござるな?」
 こう喚いて宥免状を、ピラピラ頭上で振ってみた。
「宥免状!」
「まさしくそうだ!」
「破られては一大事!」
 と、さすがの明暦義党の徒も、驚き当惑し途方にくれた。
 と、菊女が声高く叫んだ。

「いえいえ皆様方三十郎の、そのような言葉に迷わされず、三十郎をお討ちとりなさりませ! ……いかにも三十郎は人形の胸より、宥免状は取り出したものの、われわれ義党は萩丸様を、なお手中に入れております。……で、再度萩丸様をして、宥免状を書かせますこと、いと易いことでございます。……それに反して三十郎を只今助命いたしましたならば、今後容易に捕えられず、後々までもわざわいを残しましょう。……三十郎をお討ちとりなさりませ!」
 しかし兵庫は慌ただしく止めた。
「あいや菊女殿そうはなりませぬ! ……というのは萩丸様痴呆の程度が、いよいよ烈しくなりまして、文字さえ書けなくなりました。……改めて萩丸様に宥免状を書かせる。――という一事に関しては、我々も考えに及びまして、特に佐原嘉門殿には苦心し、書かせるべく苦心いたしましたが、萩丸様には文字を忘れてござる。……教えて書かせるよう致しましたるところ、書きましたる文字は幼児の文字にて、萩丸様の文字ではないというありさま! ……これでは宥免状を書かせましても、萩丸様自筆とは思われぬ次第。……で、どうあろうと三十郎所持の宥免状を手に入れて、頼宣卿にお送りいたさねば、捕えられたる我らの同志の、放免は全く覚束おぼつかのうござる! ……さあこうなっては三十郎を、父の敵とお狙いなさるる、松浦氏のご決心一つじゃ! 捕えられたる同志を見殺しにして、父上の敵の三十郎を、この場において討って取られるか? 同志助命の唯一の得物の、宥免状を手に入れるため、助けられぬところを一時助け、三十郎めを見がすか? ……松浦氏貴殿の決心一つじゃ!」
 兵庫は民弥を気の毒そうに見詰め、余儀なげにそう云った。民弥は刀ふりかぶり、尚三十郎を討とう討とうと、ジリジリ詰め隙をうかがっていたが、この時スルスルと背後へさがると、
「大義親を滅するといえば……」
 と、悲壮の声をまず上げた。
「許されがたき敵ではござるが……」
「おお一時許されるか!」
「何より宥免状を手に入れて……」
「同志多数の生命を、では、お助けくださるか!」
「同志として採るべき行為でござれば……」
「感謝! 松浦氏、感謝いたすぞ!」
「三十郎オーッ」
 と吼えるような声で、民弥は三十郎を睨みながら呼んだ。
おのれの姦策にみすみす乗り、一時は命助けるといえども、今度逢ったらその時こそ、この世の暇とらせるぞ! いわば命を預け置くというもの! さよう心得宥免状を渡し、行け! とくとく! 逃げて行けエーッ」
「多謝! アッハッハッ、それでこそ義士!」
 と、命助けられる嬉しさに、雀躍こおどりしながら三十郎は云った。
「義士とも義士ともそれでこそ義士! 親の敵というやつは所詮一人の敵でござるからな、大勢の同志の命とは、とうてい比較になりませぬよ。……そこでそっちを断念し、こっちへ決心されたことは義士! お見上げ申した、お見上げ申した。……では早速宥免状、そなたへお渡しいたしまするが、しかし宥免状手に入れると共に、大勢して拙者を追いかけて、討ってとるというような……」
「黙れ!」
 と民弥は一喝した。
「下賤の自己の心をもって我らの精神を邪推するとは無礼! ……さような振る舞い何んでしようぞ!」
「お立派! まことに! まことにお立派! そうなくてはならぬ、そうなくてはならぬ! ……義士でお立派、そうなくてはならぬ。……ではいよいよ宥免状を渡し、拙者この場を立ち去りまする。……ソーレ、ソーレ、宥免状、置きましたぞ、置きましたぞ!」
 宥免状を抛り出すと、肩に刀をひっ担ぎ、さすがの暴風雨もやや納まった、しかし暗黒の林を目掛け、三十郎は走り出したが、すぐに姿を消してしまった。

 その翌日のことであった。
 上村の湾に碇舶している、義党たちの乗って来た船の一つに、老貴公子のような人物を囲繞し、嘉門、兵庫、民弥、菊女、右内、梶子の六人が、朗かに話を交わしていた。
 その傍らには人形箱があった。
 海上は澄んで青畳のように平らで、空には一片の雲さえなかった。


 老貴公子は姉小路卿であった。
 伊香保の湯治場でノビノビと保養し、さて京都へ帰ろうとしたが、保養気分がなお退かず、それに京都へ帰ろうものなら、政事まつりごとの中心にいる卿だったので、すぐに渦中にまき込まれ、寧日なく多忙になるだろう、遊びついでにもう少し遊ぼう、――というので大坂へ来てしまった。と、大坂の船大工の手で、紀州家の立派な御座船が出来、それが和歌山へ廻航されると聞き、
「紀州公とは特別に懇意、しかるに最近お目にかからない、この機会に行ってお目にかかろう」
 こう思ってこの旨を申し入れた。
 大坂表の紀州の重役は、この旨を国元へ早飛脚をもって、伝達して指図を待った。
「それは何より結構のこと、大切に守護してお連れいたすよう、船中にては余と同然、主人としてお仕えいたせ」
 と頼宣卿より返辞があった。
 そこで姉小路卿は船へ乗り込み、主人同様かしずかれ、大得意で航海して来たところ、例のシケでこのような島へ、寄港する運命に見舞われたのであった。
 佐原嘉門が卿を見て、「意外も意外、あなた様には?」
 こう云ってひどく驚いたのは、これといって深い意味はなく、姉小路卿は京都の公卿中、勤王の念最も厚い、しかも奇略縦横の珍らしいような政治家だったので、嘉門のような勤王の処士は、おおかた卿の風貌などは、以前から望見していたもので、嘉門も知っていたところから、事の意外に驚いて、そう云ったまでに過ぎないのであった。
 嘉門は直ちに姉小路卿を、漁師の家へ招じ入れた。
 そこへ明方集まって来たのが、兵庫、右内、民弥、菊女、梶子などの一党であった。
 一同は奇遇に驚いて、※(二の字点、1-2-22)こもごもこれまでの身の上を話した。
 姉小路卿もことごとく驚き、
「明暦義党の存在については、わしも以前から耳にしていて、その根本の思想というのが、倒幕勤王にあることを知り、どうがなして助けたいとは思っていたが、現在自分の家臣の民弥が、同志の一人とは知らなかったよ。……驚いた奴じゃ! 感心な奴じゃ!」
 それから梶子へ眼をやったが、
「梶子殿にはお役目がら、いろいろの方面にご交渉ござりますなあ」
 と、揶揄やゆともつかず皮肉ともつかない、数語をもって応酬し、
「それにいたしても伊豆守殿より、簾子れんこ姫へ贈られる女男の人形が、そうもいろいろの人間の手へ、渡り歩いたとは驚いた話じゃ。さぞ破損したことだろう」
 と、兵庫たちが持って来た人形箱をひらき、いそいで人形を調べたりした。
 あちこち人形はいたんでいたが、しかし京都辺の細工師をして、修繕させたら修繕出来る程度の、意外にわずかな破損であった。
 明暦義党の人々をして、驚喜させたのは魚屋の財宝が、発見されたという一事であって、
「出かけて行って持って来い!」
 と、勇んで一同は立ち上がった。
 しかし一党の総帥だけに、鵜の丸兵庫が思慮深く止めた。
「魚屋の財宝は梶子殿と、松浦氏とが発見されたもの、よってお二人のものであって、われわれ義党のものではござらぬ。……それよりわれわれは萩丸様自筆の、宥免状を手に入れましたれば、これをもって紀州に捕われおるところの、同志多数の人々の命を、至急救助いたさねばならぬ」
 ――こうしてこの日主立った者が、この船中に集まって、密議を凝らすことになったのである。
 義党に好意を持っているところの、姉小路卿がいつの間にか、一党の中心になったのは、おのずからなる勢いからであろう。
「……そこでわしは思うのだが……」
 と、姉小路卿は思慮深く云った。
「萩丸様自筆の宥免状は、わしが直々たずさえて行き、大納言様へ差し上げたがいいとな。……どうせわしは明日か明後日、御座船で和歌山へ行き、紀州公にお目にかかるのだから」


「これは何より有難いことで……」
 と鵜の丸兵庫が喜んで云った。
「姉小路様がご持参くだされましたら、宥免状の効果は十倍二十倍、こんな嬉しいことはござりませぬ。なにとぞお願い申し上げまする」
「そこで和歌山まで行く人数だが、大挙して行っては目立ってならぬ。数人だけで行くがよい」
 と、姉小路卿は云いついだ。
「鵜の丸殿は一党の総帥、で、是非とも行かねばならぬ。……民弥はわしの家来だによって、わしが連れて行くとする。萩丸様もお連れするとして、そのお守り役の菊女殿にも、是非とも行って貰わねばならぬ。……梶子殿におかれては、紀州公とはご懇意の筈、久々でお眼にかかった方が、よろしいようでございますな。……嘉門殿と右内殿とは、他の人々と共に島に残られ、いまだにこの島にいる紀州藩士たちに対し、和戦両様の備えを立て、味方にあやまちないように、監督していただきたいもので」
「和戦両様の備え立てとは、いかようなものでござりましょうかな?」
 と佐原嘉門がいぶかしそうに訊いた。
「わが身今明日中に紀州藩士の、加藤とやら霜降とやらに、使者を送って申し入れるつもりじゃ。『萩丸様を紀州表へ、この姉小路がお連れいたし、大納言様にお目通りいたし、明暦義党討手の件の、ご中止方をお願いいたす所存。で、それまでは義党に対して敵対行為いたされないように』とな。……彼らが承知いたせば和じゃ、反対いたさば戦いじゃ」
「これはごもっともに存じまする」
「彼らといえども馬鹿ではない、わしからさよう申し入れたならば、おおよそは聞いてくれるであろうよ」

 その翌々日のことであった。上村の湾から紀州の御座船が、和歌山さして帆をあげた。
 姉小路卿、萩丸様、梶子に菊女に兵庫に民弥とが、胴の間のお座敷に座を占めていた。
「これはいずれもわしのお友達じゃ」
 こう例によって砕けた調子で、紀州藩士たちに姉小路卿は、兵庫達を紹介した。
 藩士たちは前後の事情から、その者たちの何者であるかを、うすうす知ってはいたけれど、姉小路卿にそう云われては、どうすることも出来なかった。
 天気はよく海は穏かで、やがて御座船は和歌山の港へ、つつがなく無事に到着した。

 こうして数日が経過した。
 と、この頃から和歌山お城下に、不思議な辻斬りが行われ出した。ある時には浪人姿で、またある時には乞食姿で、一人の男が道を歩いてい、向こうへ行く人を追い越して、振り返りざまただ一刀に、相手の者を斬り仆し、物を奪うという辻斬りであった。
 うしろ斬りの無双の悪剣!
 ――で、和歌山の藩士たちは、切歯して口惜しがり、どうぞしてそいつと巡り逢い、討って取ろうとひしめいた。
 ところがもう一つ和歌山お城下に、ちょっと異色ある出来事が起こった。
 これも浪人の姿をした男が、
「蚤とりましょう、猫の蚤とり」
 と叫んで、家々の門口に立ち、呼び込まれると猫の皮を使って、巧みに飼い猫の蚤をとり、鳥目をいただくという出来事であった。
「江戸にあると噂に聞いていた、猫の蚤とりというような、しがない商売がこのお城下などへ、はいって来たとは驚いたねえ」
 とお城下の人たちは噂をした。
 でもこの方は愛嬌があるので、かえって人々に歓迎されたが、辻斬りの方は憎悪の的となった。

 さてある夜のことであったが、吉野屋という旅籠はたごの部屋で、蚤とり武士の鵜の丸兵庫と、民弥とがヒソヒソ話していた。

「今日も音沙汰ないようで」
 と、兵庫は不安と不快とで云った。
「姉小路様よりも梶子殿よりも」
「さよう」
 民弥も不安そうに、
「いずれよりも音沙汰ござりませぬ」
「いったい、どうしたということでござろう?」
「さあ、どうしたことでござりましょう」
「お二人がご殿へ参られて以来、今日で七日になる筈でござるが」
「さようさよう七日になります」
「何んとも一回の音沙汰もない」
「一回の音沙汰もありません」
「萩丸様もつれて行かれ、宥免ゆうめん状も持って行かれた」
「そうしてわれわれ三人だけが、このように旅籠はたごに残されました」
 と、民弥も不安と不快そうに云い、これも不安と不快そうに、兵庫の横へ坐りながら、二人の話を黙って聞いている、菊女きくめの方へ眼をやった。
「ちとこれは変でござるよ」
 と兵庫は険しい眼付きをし、
「われわれ三人計られましたかな?」
「さあ……しかし、……姉小路様が……」
「いやいや姉小路様のことではない」
 と、いそいで鵜の丸兵庫は云った。
「あのお方は大丈夫じゃ、あのお方はわれらの味方じゃ。……梶子殿も大丈夫……油断のならぬは紀州公で」
「まさにごもっともでござりますな」
「何んといっても紀州公は、最初われらにお味方なされ、中途変心してわれらを裏切り、われらの同志をとらえたお方、……われわれにしてからがそれを怨み、萩丸様を奪い取ったり、五十嵐氏を奪還したりいたした。……で、紀州公におかれては、深刻にわれらを憎みおられる筈。……で、どのように姉小路様や、梶子殿があっせんなされても、捕えたわれわれの多数の同志を、許さぬと仰せられるやも計られませぬ」
「なるほど」
 と民弥は考え込んだが、
「それにいたしてはわれわれ三人が、ここにいることは紀州公においても、ご存知の筈でありますれば、そういう事情でありましたら、われわれをも捕えるが至当である筈」
「そこじゃ」
 と兵庫は強く云った。
「そればかりが一の希望でござる」
「それにいたしても一大失敗は、萩丸様を姉小路様より、紀州公のもとへお返しいたしたことで」
 と、残念そうに民弥は云った。
「萩丸様を残して置き、宥免状ばかりを姉小路様の手より、紀州公のお手へ上ぐるべきであったを」
「その通り」
 と兵庫も頷き、
「われわれは少し抜かり過ぎましたよ」
「姉小路様のお意見を、あまりに簡単に信じ過ぎましたからで」
「萩丸様を和歌山城下まで、現在つれて来ておりながら、尚拘留こうりゅうするということは、大納言様のご機嫌を損じる。これはおかえしした方がよかろうと、姉小路様に云われてみれば、それに反対することは、どうにもわれわれには出来なかったからのう」
 と、兵庫はいかにも心外らしく云った。
 二人はしばらく沈黙した。
 と、菊女きくめが話を変えて云った。
「それにいたしても兵庫様には、猫の蚤とりなどに姿をやつされ、こんな和歌山のお城下などで、人家へお立ちなされますとは?」
 その言葉の中には疑惑と非難と、恋人をしてそのようななりわいに、たずさわらせたくないという女心とがあった。
「や、これには理由がござる」
 と兵庫は少し声を低めて云った。
「頼宣卿のお心が、われらにいよいよ不利となり、敵対行動をとらねばならぬと、そういう状態にでもなりましたら、このお城下の地理や人情に、通じておらねば不覚をとりましょう。……そこで蚤とりの姿となって……」
「まあまあさようでございましたか。……でもどうぞしてそのような悲境に、おち入りたくないものでござります」
 菊女きくめはこれまでの千辛万苦が、骨身にこたえていると見えて、そう暗然とした言葉つきで云った。
 また三人は沈黙した。

「松浦氏ご存知かな?」
 と、ややあってから兵庫は云った。
「うしろ斬りの悪剣をもって、辻斬りする者のあることを?」
「さよう」
 と民弥は頷いて云った。
「昨日聞きましてござります」
ねたば三十郎ではあるまいかな?」
「そのように思われてなりませぬ」
「紀州の藩士どもが討って取ろうと、だいぶ機会を狙っているが、三十郎であるとすると、貴殿にとっては親の敵、他人に討って取られてはならぬ」
御意ぎょいのとおりにござります。……で、わたくしは今夜あたりから、それとなく城下を見廻って、三十郎と逢いましたならば、討って取る所存にござります」
「その計画まことによろしい」
 昼の旅籠は静かなもので、三人の話している裏庭に向いた部屋の、明るい丸窓の障子へは、小鳥の影などが映って見えた。
「どれそれでは猫の蚤とりにでも、拙者は出かけるといたそうか」
 鵜の丸兵庫は立ち上がった。
「兵庫様」
 と菊女は云った。
 兵庫は呼ばれて菊女を見、
「何んでござるかな?」
 と優しく訊いた。
「いいえ……別に……でも、お気忙きぜわしい……少しは旅籠に心をおちつかせ、おいでなされたらよろしいものを……」
「アッハッハッそんなことでござるか。……おちついて家にいるは婦人のこと、男は絶えず動いておらねば、かえって元気が衰えますよ。……や、それにしても菊女殿には、可愛らしい萩丸様に行かれてしまい、ちと寂しそうでございますな」
「その上あなた様はそのように、いつも外出外出で……」
 菊女はいかにも寂しそうにした。
 慕ってくれた痴呆の萩丸、菊女にはこれは玩具であった。弟のように可愛いい玩具であった。
 その玩具は取り去られてしまった。
 そうして恋人の鵜の丸兵庫とは、長い間わかれわかれに、生死にかかわる苦労をし、ようやく逢って一つ旅籠にはいるが、毎日忙しそうに動き廻ってばかりいて、おちおち話すことさえ出来ない。それに事件がこじれると、紀州公を向こうへ廻し、また生死にかかわるような騒動に、遭遇しなければならないかもしれない。
 菊女には寂しいことばかりなのであった。
 恋人兵庫がやがて去り、松浦民弥が夜に入ってから、これも旅籠を出て行ってからは、菊女はほんとに一人ぼっちとなってしまった。

 この吉野屋のすぐ前に、宝屋という酒屋があり、お神さんが美しいので、いつも店は繁昌していた。
 この日もずいぶんたてこんでいて、話す者、歌う者、罵る者、笑う者で、陽気の風景を呈していたが、夜になるといよいよたてこみ、客の出入りなど烈しくなった。
 その頃一人の浪人者が、顔を深く頭巾でかくし、人目立たないようにはいって来たが、それは刃三十郎であり、三十郎は鋭い眼で、ジロジロ店の様子を眺めた後、店の片隅へ寄って行った。
 と、そこにはずっと昼間から、三人ほどの破落戸ごろつきらしい、風の悪い男が三人いて、街道ごしの吉野屋の門口へ、絶えず視線を送っていたが、三十郎の姿を見ると、一斉にヒョコリと辞儀をした。
「どうだった?」
 と小声で云って、三十郎はその前へ腰かけた。
「へい、一人の侍は、昼頃出かけて行きましたし……」
「もう一人の若い侍は、たった今しがた出かけて行きました」
 と、二人の破落戸ごろつきが囁くように云った。
「女は出ては行かなかったか?」
「つい、それらしい娘っ子は、出て行った様子はありませんなあ」
 と、もう一人の破落戸が云った。
「じゃあ娘一人だけが、残っているというわけだな。……実はそいつを狙っていたのだが……」
 三十郎は呟くように云い、手を懐中にして考え込んだ。

「そうだ、思い切ってこういう手段をとろう」
 やがて三十郎が小声で云った。
「代五郎お前吉野屋へ駈け込み、『菊女様をお呼びくださりませ、一大事件にござります』と、こう云ってまず菊女を呼び出し、菊女が出て来たらこういうのだ、『鵜の丸兵庫様がナラズモノに襲われて大怪我をいたしましてござります。私はそこを通りかかり、鵜の丸様のご依頼を受け、あなた様へお知らせに参りましたもの、さあさあご案内いたします、わたくしと一緒においでなさりませ』とな。……で、菊女を連れ出すのさ、……そこを浅吉と孫九の二人で、襲いかかって猿轡さるぐつわでもかませ、例のところへしょっぴいて来るのさ。――さあさあこれが前祝いの祝儀だ」
 三両がところを懐中から出した。
「これはお気前のよいことで」
「早速頂戴いたして置いて」
「仕事は仕事でミッシリやろうぜ」
 と、三人の破落戸は小判を受取ると、ほくそ笑いをして出て行った。
 一人となった三十郎は、うまくもない酒を飲みながら、ここに集まっている人々の話へ、それとなく耳をかたむけた。
 というのはうしろ斬りの悪剣を用いて、辻斬りをして金を奪う武士が、刃三十郎その者であり、その辻斬りの武士の噂を、ここの連中がしているからであった。
 それにしてもどうして三十郎は、和歌山城下などへ来たのであろう?
 ××島から一番に近い、本土の立派な、城下といえば、この和歌山の城下だからで、それで、彼は船頭に頼み、××島を脱け出して、このお城下へ来たまでであった。
 収入のない彼であった。辻斬りでもして金を取らなかったら、その日その日にさえ事を欠いた。で辻斬りをやりだしたのである。
 そうして彼は昼の間は、城下外れの街道筋の、非人小屋にかくれて住んでいた。
 そのうちに彼は姉小路様一行が、この城下へ来たことを聞いた。
(梶子も菊女も来たそうだ。梶子という女はこうなってみれば、もうこっちの歯など立たない。が菊女はたかが知れている。二人の女に懸想して、二人ながら手にはいらず、宝をさがしに××島へ行ったら、明暦義党の奴ばらに嚇され、追い返されたとあったひには、俺の運も末の末だ。せめて菊女でも手に入れて、思いを晴らさないでは鬱憤が晴れない)
 そこで彼は破落戸ごろつきを手なずけ、菊女誘拐にとりかかったのであった。
 居酒屋はいよいよ陽気となり、辻斬りの話がとりかわされていた。
「ご藩士の方々が身なりを変え、われわれ町人の様子をしたり、浪人者のような様子までして、その辻斬りの悪党武士を、探し廻っておいでなさるそうだ」
 こう云ったのは二十八、九の、眉の太い男であった。
「とするとあそこにおいでになる、頭巾をかむられたご浪人など、藩士の方ではあるまいかな」
 と、口もとの締った二十四、五の職人風の男が云って、三十郎の方を顎でしゃくった。
(これはたまらぬ)
 と三十郎は苦笑し、反対の方へ顔をそむけた。
「噂によると辻斬りの武士は、顔に大きな痣があるそうだ」
 と段鼻を持った三十近い男が、少し声高にこう云って、三十郎の方へ視線を投げた。
(いよいよこれはたまらない)
 三十郎はこう思い、いそいでそこから出ようと思った。
「それにしても大胆不敵な奴さな」
 と、額に黒子ほくろのある男が云った。
「ところもあろうにご三家の中でも、南海の龍と称せられている、紀州公様のご城下へ来て、辻斬りをするというのだからなあ……殿様があまりにご寛大で、諸国の浪人の入り込んで来るのを、許しておいで遊ばすので、こんな結果になるともいえるのう」
「そうだそうだ」と云ったのは、例の眉の太い男であった。「明暦義党とかいう不軌を計る奴ばらが、殿様を押し立てようとなされたのも、そんなところから来ているのさ」
 三十郎は立ちかけたが、明暦義党の噂が出たので、またこっそりと腰を下ろした。

「明暦義党の奴ばらといえば、彼らまことに押し強いのじゃ。……姉小路卿と梶子という婦人――有名な女隠密だが、この二人を抱き込んでよ、かつて殿様がお捕えになった徒党――明暦義党の沢山の徒党を、許してくれと強談しているそうだ」
 こう憎さげに云ったのは、口もとのしまっている男であった。
「しかも義党の奴ばらといえば、その前に殿様のご愛孫の、萩丸様を誘拐して、ずっと隠していたのだそうだ。その萩丸様を連れて来て、殿様へお返ししたはいいが、萩丸様に無理に書かした、宥免状とやらも添えて出して、許してくれと云っているそうだの」
 と、額に黒子のある男が云った。
「大腹中のお殿様だから、許しておやりなさろうとしたのを、藩の血気の若侍たちが聞いて、連署して不服を唱えたそうで、お殿様は板バサミだとよ」
 こう云ったのは段鼻の男で、
「で姉小路様と梶子とかいう女は、いまだにお城にとどまっていて、困っているということだ」
「あっちも困りこっちも困る。みんな義党とやらのためなんだな」
「困ることばかり藩のためにやって、何一つ藩のためにいいことはやらない。これじゃア好意は持てないね」
「何か一つでもいいことをやれ! そうしたら願いを聞き届けてやろう! ……こう云ったらよかりそうなものだ」
「とにかく目下藩の若手は、ひどくイライラしているそうだ。辻斬りの悪侍は討ちとらなければならない。明暦義党の囚人どもは、是非とも処刑しなければならない。それから領内の浪人狩りをして、不穏の空気を掃わなければならないとな」
「とすると向こうで酒を飲んでいる、浪人衆などはイの一番に、追っ払われる組なんだなあ」
 と、眉の太い男が云いながら、三十郎の方へ頤をしゃくった。
 三十郎はいたたまれなくなって、飲み料を払って戸外へ出た。
 と、眉の太い男が云った。
彼奴きゃつちょっと怪しいの」
「さよう」
 と段鼻の男が応じた。
「頭巾でハッキリ見えなかったが、どうやら顔にあざのようなものが……」
「後をつけて行って誰何すいかしてみよう」
 四人同時に立ち上がり、代を払って戸外へ出た。
 変装した藩の武士たちであった。
 十数間の向こうを三十郎は、懐手をし首を垂れ、物案じ顔に歩いていた。
(明暦義党の奴ばらも、どうやら困っているらしい)
 これは三十郎には痛快であったが、紀州藩の若い武士が、変装までして狙っている、このことは三十郎には辛かった。
(辻斬りもソロソロやめなければなるまい)
 しかしその後の生活は、何んとしたらよいだろう?
 このことを思うと不安であった。
(が、今夜だけは幸福になれる!)
 そう、菊女がさらわれて来る! それを自由にして欲望をとげる! これは幸福に相違なかった。
 ふと不安を感じて来た。
 で、そっと振り返って見た。
 居酒屋にいた四人の男が、揃って背後から歩いて来た。
(やはりな、そうだったか)
 三十郎はヒヤリとした。
 四人の者の物腰や言葉に、みなりとそぐわないものがあり、話し合う言葉に不穏の個所があった。
(紀州藩の密偵ではあるまいかな?)
 それで急いで店を出たのであるが、その四人がつけて来ていた。
(危険だ)
 と三十郎はそう思い、一筋の横道へ不意にれた。
 それからもう一つの露路へ反れ、尚、もう一筋の露路へ反れた。
 それを足早に歩いて過ぎ、小広い通りへ現われた。
 大丈夫だろうと振り返って見た。
 四人の男はついて来ていた。
(これはいけない)
 と三十郎は思った。
(彼らはお城下の案内に通じた、この城下の奴ばらなのだ。俺は不案内の他所よその者だ。つけられたが最後まけそうにもない。ヨーシその儀なら!)
 と決心し、わざと今度はソロソロと歩み、寄って来るのを心待ちに待った。

 一つの辻を曲がろうとした時、背後からつけて来た四人の男が、にわかに走って寄って来た。
(問答などする必要はない。問答などをしている間に、顔の痣を見られたらおしまいだ。……一人を不便ながら叩っ斬り、驚くところを逃げてやろう)
 三十郎はこう思って、走り寄られても動じなかった。
「ご浪人しばらくお待ちくだされい!」
 と、四人の中の一人の武士が、そういかめしく呼び止めた。
 が、三十郎は返辞もしないで、同じ歩調で歩いて行った。
「浪人待て!」
 ともう一人の男が、立腹したように声をかけ、すぐ背後に近寄ると、片手で三十郎の袖を握った。
「チェッ」
 と三十郎は舌打ちをして、向こうを向いたままで右の肘を、グッと胸まで持って行った。
「わッ」
 海老えびのように躰を曲げ、肩から胸板まで斬り下げられた男は、朱に染まって地に仆れた。
「斬ったぞ!」
「さてこそ!」
「辻斬りのオン敵!」
がすな!」
 と後の三人は喚いた。
 が、同僚がノタウチながら、地上をうねり蜒っていた。
 うっちゃっておくことは出来なかった。
 で、一人が介抱に残り、二人が曲者の後を追った。
 しかしこの時にはもう三十郎は、遙か向こうを走ってい、そこに出来ていた四辻を、左の方へ曲がって消えた。
 しかし二人の変装した藩士は、追うのを断念しなかった。
 つづいてすぐに四辻を曲がった。
 と、曲がった一瞬、大胆にも曲者が向かって来た。
「朋輩の敵!」
「辻斬りの悪漢!」
 左右から切り込んだ。
 と、曲者は飛び退いたが、
「人違いでござろう、粗忽そこつなさるな!」
 こう叫んで身構えした。
「何を! ……人違い! ……何を、此奴こやつ……あッ、これは人が違った!」
「覆面でのうて編笠じゃ! ……が、しかし浪人らしい」
「さよう拙者は浪人でござる。……しかも猫の蚤とりなどをいたす、しがない身分の浪人でござる」
 その武士は鵜の丸兵庫であった。
 昼から猫の蚤とりに出、商売を仕舞ってこの道を通り、吉野屋へ帰って行く途中なのであった。
「ははあ貴殿が蚤とり武士で」
 と紀州藩士は眼を見張って云った。
「蚤とり武士の噂なりや、われらも以前より承わりおります。ははあ貴殿が蚤とり武士で」
「ところで」
 と兵庫は怪訝けげんそうに云った。
「拙者に不意に切ってかかられ、辻斬りの悪漢と仰せられたが、いかなる仔細でござりまするかな?」
「実はな、あるいは貴殿においても、噂ご承知かと存ずるが、顔に痣のある浪人で、うしろ斬りの悪剣を使い、辻斬りいたす者城下に現われ……」
「おおその噂でありましたら、拙者においても承知いたしております」
「その辻斬りの悪漢に、たった今そこで逢いましてな、残念にも一人の同僚を斬られ……」
「それはそれは残念至極」
「で、其奴そやつを追っかけて、ここまで走って参りましたところ、貴殿に突然逢いましたので……それで粗忽そこつにも人違いいたし……」
「それで事情よく解り申した。……それに致しても刃三十郎めを、とり逃がしましたはいかにも残念!」
「ナニ、ねたば三十郎? ……ではその辻斬りの武士の名は?」
「刃三十郎と申しまする」
「それどうして貴殿にはご存知かな?」
 少しけしきばんで藩士たちは云った。
「拙者は拙者の朋友のために、其奴を尋ねておりますもので」
「貴殿の朋友? その朋友は?」
「三十郎のために父親を討たれ、復讐を心がけおるものでござる」

「敵討ち! それはお勇ましい!」
 と、紀州藩士は感心したように云った。
「三十郎逃げましたはほんの今しがたの筈。ではいまだにこの辺に、かくれおるやもはかられませぬ」
 と兵庫は云って四辺を見廻し、
「拙者探しとう存じますれば、ご貴殿方におかれても、ご尽力くだされて拙者と共に……」
「それよかろう」
 と一人の藩士が云った。
「よろしいよろしいご一緒に探そう」
 と、つづいて、もう一人の藩士が云った。
 こうして三人は露路や小路を、そこかここかと探し廻った。

 菊女きくめは一人で部屋の中で、物思いに耽っていた。
 とそこへ番頭が血相を変え、
「大変でございます!」
 と飛び込んで来た。
「鵜の丸様が大怪我とやらで、一人の男が玄関まで、知らせに参ってございます!」
「まあ」
 と叫ぶと菊女は部屋から、廊下へ飛び出し玄関の方へ、よろめきながら走って行った。
 身なりの卑しい男ではあったが、一人の男が土間に立っていて、菊女の姿を見かけるとすぐに、
「おおあなた様が菊女様で、私は町の者でございますが、道を来かかると一人のご浪人様を、大勢のナラズモノが取り囲み、そのご浪人様に打ってかかり、そのご浪人様はお気の毒にも、大変なお怪我をなさいまして、とうとうお仆れなさいましたので、私がご介抱いたしますと、『鵜の丸兵庫という者であるが、吉野屋に菊女という女客が……』」
 と、出来事をこまかく話し出した。
 恋人兵庫にかかわる事件!
 しかも大怪我をしたという!
 菊女はすっかり動顛どうてんしてしまった。で、話を皆まで聞かず、
「ようお知らせくださいました、厚くお礼申し上げまする。……すぐにわたくし参りまする、どうぞご案内くださいませ!」
「ハイハイご案内いたしますとも、ご案内して来るようにと、兵庫様よりのご依頼なので……」
「しばらくお待ちを……」
 と云いすてて、菊女は部屋へ走りかえり、こればかりはいつも放さない、長目の懐刀を帯へ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)むと、ふたたび玄関へ引き返して来、
「では……」
「さあ……」
 と戸外へ飛び出し、呆気にとられ、不安に感じ、呼びかける旅籠の番頭の声など、耳にも入れず走って行った。
 町を出外れ街道まで来た。
「あッ」
 と菊女は地へ仆れた。
 道に縄が張ってあって、それで足をさらわれたらしい。
 バラバラと数人の人影が、並木の蔭から飛び出したが、菊女の上へ折り重なった。
「無礼者! 何をする! おのれがおのれが!」
 しかしそう叫ぶ菊女の声は、やがてプッツリ絶えてしまった。
 猿轡さるぐつわかまされたからである。
「他愛なかったなア」
「アッハッハッ」
「さあ行こうぜ、担いで行こうぜ」
「ドッコイショ、いい気持ちだ。……野郎と違って娘っ子だから、担ぎ気持ちが素敵にいいや」
 菊女を担いで数人の破落戸ごろつきは、街道をドンドン走って行った。

 こんな出来事のあったことも知らず、松浦民弥はあてはなかったが、敵三十郎に逢いたいものと、お城下をそちこち彷徨さまよっていた。
(辻斬りの出るには時刻が早すぎる)
 こんなことを思いながら、
(非人姿をしているような、そんな場合もあるとかいう噂。では非人小屋のある方へ)
 こんなことも思いながら、町はずれの方へ足を向けた。


 歩きながら松浦民弥は、梶子のことを考えていた。
 洞窟での一度のくちづけ!
 でもそれは烈しい恋であった。
 永い間彼女に恋されて、自分でも憎からず思っていたが、いろいろの事情に遮ぎられて、どうすることも出来なかったのに、あのように死に直面して、恋の証拠をあらわしてしまった。
 だから今は民弥は梶子に対して、燃えるような愛着を持っていた。
(その梶子殿はどうしたことか、和歌山のお城へはいったきりで、その後まるで消息がない)
 もちろんあれほどの女であるから、不測の災いを受けるというような、そんな事はあるまいとは思われるものの、やはり心にかかってならなかった。
 やがて城下も出はずれて、街道の松並木が見えて来た。

 この夜和歌山のお城の一室、善美をつくした結構なお部屋で――姉小路卿と梶子とが、長閑のどかに漫然と話していた。
「すべて蜜柑みかんる土地は、気候温暖で住みよいというが、この和歌山など、よい例でござるよ」
 トボケたような例の口調で、姉小路卿はそう云って、
「梶子殿などこういう土地に、恋人か何かと家を持たれ、静かに住むようされた方が、かえって幸福ではあるまいかな、……今のお仕事もよろしいが、才女で若くて美しい身を、危険にばかりさらしているのは、あまり感心したことではござらぬ」
 と、梶子の顔を優しく眺めた。
「ご親切にありがとうございます」
 こうは梶子は云ったものの、
(そんなお年寄りの老婆心で、そのようなご注意いただかなくとも、わたしにはちゃんとした心づもりが、とうの昔についているのですよ)
 と、心では思っているのであった。
「恋をいたして家庭をつくる、これが女の身としては最大の幸福――とわしは思うのだがのう」
「はいはいさようでございますとも」
「それが失敗に終った女は、生涯どうにも不幸らしい。……そのよい例が簾子れんこ姫でな」
「鷹司様のお妹ご様の、簾子姫でござりますのね。……恋のお相手は伊豆守様で。……」
「ということになっているが、今度この地へやって来て、頼宣卿にお目にかかり、いろいろ私的のお話や、昔話などいたしているうちに、そうでないことを知ってのう」
「まあまあさようでございますか」
「松平伊豆守様はご自分だけで簾子姫を、恋しておられただけじゃそうな」
「片恋だったのですね、お気の毒な」
「中頃伊豆守様もそれを知られて、ご断念なされたということじゃ。――簾子姫の恋しているそのお方が、大変お偉いお方だったのでな」
「どなた様なのでございます?」
「当お館なのだよ、頼宣卿だったのだ」
「まあまあ」
 と梶子は眼を見張って云った。
「とんと存じませんでございました」
「ところがその頃には当お館には、もうご正室がおありなされたのじゃ」
「現在の奥方様でござりましょうね」
「さよう」
 と姉小路卿は頷いて、
「そこでずっと簾子姫には、独身を続けておられるのだが、当お館とは昔から今日まで、ご消息はあるということじゃ」
「お心持ちだけは通わしておられると、そういうことになるのでござりますね」
「…………」
 梶子は驚きながら考え込んだ。
 でも、その意味はわからなかった。
「でもどうして? 何んのために?」
「簾子様あれをご覧になられたら、頼宣卿へのご消息の端に、瀬戸内海の××島に、魚屋の財宝が隠されてあると、お書きなさるかもわからない、いや必ずお書きなさるだろう。すると野心と覇気との権化の、頼宣卿には好奇心をもって……」

「なるほどねえ」
 と梶子は云った。
「そうして魚屋助右衛門の財宝を、紀州様のお手で掘り出させる。――そうなさろうとご計画なされましたのね」
「もちろんそれも一つだが、好奇心のお強い紀州様をして、××島へ渡らせて、親しくあの島を見ていただきたいと、そう伊豆様にはお思いなされたのじゃ」
「それは何故でござりましょう?」
「あの島が要害の地じゃによって」
「…………」
「四国、九州の諸豪方が、いざ事ありという時には、瀬戸内海を水軍で上る。……その際あの島に防備があったら、それを食い止めることが出来る」
「そんなものでございましょうかねえ」
「これは五十嵐右内氏に、あの島でわしが逢った時、右内氏より聞いた話じゃが、そういう点へ伊豆守様には、とうにお心がつかれていて、ひそかにご自身あの島へ渡られ、お調べになったということで。……あの洞窟へもおはいりになったそうじゃ。……そのあげく伊豆守様は仰せられたそうじゃ、『幕府の手でこの島へ防備を施しては、諸大名の心を刺戟して、かえって結果は悪かろう。――ご親藩でのご英雄、紀州様のお手などでしていただいたら、一番よいように思われる。……それには親しく紀州様へ、あの島へ渡っていただきたいものだ』と」
「そこで伊豆守様には廻り廻って、それを紀州様へ実行させようと、人形の中へあのようなものを――恋文になぞらえた××島の記録を、あんな具合におかくしになり、それを簾子様へ送られて、簾子様から紀州様へ、それを伝えようとなさいましたのね。……まアまア男というものは、自分の恋をさえお政治向きに使い、何んとも思わないものでございますのね」
「そういうお方であればこそ、幕府執政の筆頭として、今日栄えておられますのじゃ」
「恋以外愛以外に、男には名誉欲も事業欲もあると、云いきかされておりましたし、妾もそれはそうであろうと、心では思っておりましたものの、身近い所に例を見せられては、厭アな気持ちがいたします」
「女隠密で鉄のような意志と、凄い才気とを持っているそなたが、そんな普通の女のような、優しいことを云われるとは。……アッハッハッ、さては梶子殿には……」
「まア何を仰せられますことやら」
「欣快! 恋をしておられるようじゃ」
「…………」
「やがては隠密など止めにして、紀州あたりに家を持たれ……」
「いいえ、何んで、紀州などへ……」
「ではどこへな?」
「××島へでも……」
「欣快! それならもっとよろしい。……で、恋のお相手は?」
「ホ、ホ、ホ、誰でしょう」
「ひょっとかするとこの姉小路が、仲人にでも立たずばなるまい、そういう相手かもしれぬのう」
「まア」
 と梶子は赧くなった。
(このお爺さん察しているんだよ)
 で、梶子は赧くなった。
 ――と、この時咳の声がし、
「水野大炊にござりますが……」
 と、錆びた声が隣室から聞こえて来た。
大炊頭おおいのかみ殿で、さあさあずっと」
 と、姉小路卿は気軽に云った。
 紀伊家の重臣水野大炊頭は、もうかなりの老年で、鬢の毛など白かった。
 部屋へはいるとつつましく坐り、
「これはこれは梶子殿にも」
 こう云って如才なく会釈をし、
「ご殿でのお住居いかがでござりまするな?」
「まことに結構、極楽のようで」
 と、まず姉小路卿が道化た調子で云った。
 すると梶子も負けていない口調で、
「ノビノビとしておりまして、天国のようにござります」
 と云った。
「でも」
 と梶子は云いついだ。
「時々自由にご殿の外、お城下見物が出来ましたら、申しぶんのう存ぜられます」
「その儀でござるよ」
 と大炊頭は云った。
「もう今夜よりお二人様には、自由にどこへなりとお運びくだされましても、よろしいようになりましたので」

「ははあそれは何より重畳」
 と姉小路卿は嬉しそうに云った。
「随分蟄居ちっきょさせられましたからのう」
「お気の毒に存じまする」
「ご馳走ぜめにされたのじゃから、不平を云うことも出来ぬがのう」
 姉小路卿は微笑しいしい、
「ではとうとう若手の藩士たち、我を折ったものと見えますのう」
「なかなかもちまして若殿ばらども、我を折りませんでござりまする」
 水野大炊頭も微笑しいしい、少し困ったというように云った。
「若殿ばらが我を折らない。……しかも我々を自由にする? ……少し符牒が合わないようじゃ」
「それはそれでよろしいのでござります」
「ははあ、さようか、それはそれでよいと。……するとお館様お得意の、外交手腕を働かせて、あっちを立てこっちを立てて……いや英雄というものは、何かといそがしいものでござるな。……そこで云うまでもなく明暦義党のやからは――当家においてお捕えなされた、二十人の明暦義党の輩は、お許しくださるのでござりましょうな?」
「斬罪に処しますでござります」
「まあ」
 と仰天して梶子が云った。
「まア、そんなことが、そんなことがあろうか!」
「斬罪に処しますでござります。……しかも今夜、牢内において」
 大炊頭は平然として云った。
 梶子はすっかり血相を変え、
「それではせっかくわたくしどもが、萩丸様をお返ししたり、宥免状を差し上げて、お許しをおねがいいたしましたことが、水の泡になるではござりませぬか! ……斬罪! 馬鹿な! そのようなことが!」
「まあまあ梶子殿、しずかにしずかに」
 と、姉小路卿は手を振って止めた。
「怒ってはならぬ、猛ってはならぬ、相手が英雄の頼宣卿じゃ、そこで我らも英雄となって、大いに太刀うちせねばならぬ。……英雄の素質の第一は、思慮緻密ということじゃ……よろしいそこでわれわれ英雄も、大いに思慮緻密となって、順序を追って考えるとしよう。――萩丸様と宥免状とを捧げて、明暦義党の人々の、放免方をお願いしたところ、お館にはお許し遊ばされようとされたが藩の血気の若殿ばらが、それでは威信にかかわるとあって、連署を奉って反対し、梶子殿や愚老などをも、うかうか城中から出ようものなら、討ってとろうとの大変な意気込み、そこで梶子殿と愚老とは、今日まで城中にいたという次第。……さて、いよいよ今日になって見ると、若殿ばらたちの説が通り、義党二十人は斬罪とのこと。……なるほど、そのように決してみれば、若殿ばらはわれらに危害は加えぬ。で、自由に行動せよとある。……なるほどなるほど、そういう次第か。……」
 ここでジロリと姉小路卿は、大炊頭を睨むように見たが、
「明暦義党の二十人の死骸は、われわれにくださるでございましょうな」
「お引渡しするでござりましょう」
「ご牢内には斬罪にすべき罪人、ほかに二十人もありますので?」
 ここでまた姉小路卿はジロリとばかりに、大炊頭の顔を見た。
 大炊頭は微笑したが、
「ご存知の通りの大藩でござれば……」
「ごもっともさま、それでよろしい。……梶子殿!」
 と姉小路卿は、梶子の方へ眼を向けた。
「これでよろしゅうござりましょうな?」
「…………」
 わかったような解らないような、変な塩梅あんばいではあったけれど、
「よろしいとあなた様が仰せられますなら、よろしいように存ぜられまする」
「よろしいともよろしいとも。……双方よろしい、若殿ばらもわれらも。……いや英雄というものの心事は並たいていのものではござらぬ」

 ××町にいかめしく、しかし寂しく立っているのは、この紀州藩の牢屋であった。
 その不浄門は空地に向いてい、空地を越すと街道筋で、松並木が見えていた。
 夜だのに事件でも起こったと見えて、不浄門の辺には御用提灯の火が二、三行ったり来たりしていた。
 空地の一所に林があった。
 生えている木はまばらであったが、でも領域は広かった。
 そこに何んと二十挺の駕籠が、整然と並んでいるではないか。
 いや二十挺のその駕籠から離れて、もう二挺の駕籠が置いてあり、その横に姉小路卿と梶子とがいた。
 そうして二十挺の駕籠の側には、覆面をした武士が一人ずつ、二人の駕籠舁きを左右にして、黙然として立っていた。
 で、この小広い林の中には、四十四人の駕籠舁きと、二十人の覆面の武士と、姉小路卿と、梶子とが、不浄門の方を眺めながら、静まり返っているのであった。
 やがて不浄門の方角から、提灯の火が近寄って来た。
 こも包みが二人の非人によってかつがれ、それに同心らしい武士が付いて、この林の中へはいって来た。
「明暦義党の正木右馬介の死骸、親戚の者に引き渡す」
 と、その同心が物々しく云った。
 と、覆面をした一人の武士が、進み出て一揖いちゆうし、
「受け取りましてござります」
 と云った。
 菰包みを地へ置いて、非人と同心とは立ち去った。
 菰包みの中から現われたのは、もちろん生きている正木右馬介であった。
 駕籠の中へ入れられた。
 と、ひきつづいて続々と、不浄門から義党の死骸が、同じような形式で運ばれて来て、みんなここで生きた人間になって、駕籠の中へ入れられた。
「梶子殿」
 と姉小路卿は云った。
「二十人の義党の身代りに、重罪人が首を斬られ、それを義党だといい拵らえ、藩の血気の若武士たちをなだめ、真に生きている義党たちを、われわれの手へ渡すという、この紀州公のお芝居を、梶子殿にはどう思われるかな?」
「お政治はなかなかむずかしいもの、お芝居もまことに結構なものと、そんなように思われます」
 梶子は真面目にそう答えた。
「その通り」
 と姉小路卿は云った。
「わずか紀州藩の政治さえ、よくろうと思えばむずかしい。まして日本の全体の政治は、執るになかなかむずかしい。……明暦義党の人々へも、わしからじっくりというつもりじゃ。……徳川の天下を少人数の力で、叩っこわそうとしたところで、たたっこわれるものではないとな。……こわすにしたところが順を追わねば。……そうだ。順と年月だ。……それよりわしは義党の人々の、これからの身の振り方について、いろいろ考えているのだよ」
「どうなさろうとお覚しめすので?」
「やはり梶子殿の行こうとする所へ、行かせた方がよいようだのう」
「わたしの行く処へ? ××島へ?」
 姉小路卿は頷いて、
「建てかけの小屋を――開墾小屋を、とても大袈裟な立派なものとして、それを基礎にして新天地をひらく、これが一番よいようじゃ」
「でもそれには莫大な金が……」
「その金は是非とも梶子殿と、民弥に出して貰いたいものじゃ」
「ああ魚屋ととや助右衛門の財宝」
「さよう二人で目付けた財宝を」
「喜んで呈上いたしますとも」
「足りないところは明暦義党の、軍用金をもって充たすがいい」
「でも幕府や紀州家で……」
「その方はわしが説き伏せるよ」
 二十人の義党の面々が、すっかり駕籠にのせられてしまった。
「法音寺へ!」
 と一人の武士が云った。
 街道を通ってずっと行くと、少し横手に外れたところに、法音寺という法華寺がある。
 その方へ一団は進んで云った。
 姉小路卿も梶子も駕籠にのり、その後からついて行った。


 非人小屋の中に菊女きくめはいた。
 猿轡さるぐつわをかまされ縛られたままで、干鮭のようにころがされていた。
 その周囲にいる者といえば、代五郎と浅吉と孫九であった。
「こう、随分いい女だなあ」
「これを三十郎さんがしめるんだと思うと、うらやましいような変な気がする」
「その三十郎さん何をしているのかなあ」
 三人はそんなことを云っていた。
 非人小屋は他にも幾個かあって、十数人の非人たちがいたが、女を誘拐して来ることなどには、日頃から慣れっこになっているから、見に来ようともしなかった。
 月明りで松並木が黒く見えてい、お城下の灯火が遙か向こうに、点々としてともっていた。
 と、街道を追われた犬のように、一散に走って来る人影があったが、非人小屋の前まで来ると、タレをかかげて飛び込んだ。
 それはねたば三十郎であった。
「おお手前たちうまくやってくれたな」
 と、ころがされている菊女を見ながら、三十郎はニタリと笑った。
「刃の旦那、この通りで」
褒美ほうびの後金いただけるでしょうねえ」
 代五郎と浅吉とが得意そうに云った。
「褒美の後金やるともやるとも。……が、その前に、もう一つ、お前たちにやって貰うことがある……気の毒だがこの女をもう一度担いで少しばかり遠ッ走りをしてくれ」
「遠ッ走り? 何故ですい?」
 けげんそうに孫九が訊くと、
「実はな」
 と三十郎はセカセカした口調で、
「鵜の丸兵庫と藩士たちに、俺は今追われているのだよ。……一度は藩士たちをマイて逃げたが、兵庫が中に加わって、とうとう俺をさがし出し、ついそこまで追っかけて来た。おっつけここへ来るだろう。……彼奴らに追いつかれては一大事! ……さあ菊女を担いで逃げろ!」
「そりゃ大変だ!」
 と三人は叫んだ。
「まごまごすると俺たち三人も、とらえられたら巻添えを食う! それ逃げろ! 女を担げ!」
 代五郎と孫九とが菊女を担い、一同小屋から飛び出した。
 とたんに大音に叫ぶ者があった。
「待て三十郎、逃がしてなろうか! ……とうとう見付けた。がそうや! ……親の敵、観念せよ!」
 それはこの時非人小屋を尋ねて、ここまでやって来た松浦民弥で、松の木蔭から躍り出した。
「やア担がれおるは菊女殿か! ……さては三十郎おのれがおのれが、吉野屋より誘拐し参ったな! ……悪虐無道、残忍な奴め! ……いよいよ許されぬ覚悟いたせ」
 躍り込んで斬りつけた。
 引っ外した三十郎、刀を抜くと上段に構え、
「おお民弥か、松浦氏か、アッハッハッ、また逢いましたなア! ……逢っては別れ、別れては逢い、いやお互いに執念深く、追いつ追われつしていることで! ……拙者にしてからが少し飽きた! ……ヨーシ今日こそ一思いに、息の根止めて成仏させてやる! 参れーッ」
 と吼えてジリジリ進んだが、その騒ぎに驚いて、非人小屋の数々から、十数人の非人が飛び出して来たのへ、
「やアお仲間の方々に申す」
 と、隙かさず三十郎は声をかけた。
「こいつは拙者を親の敵などと、云いがかりをつけて永の年月、つけ廻している悪侍でござる! ご存知の通り拙者は善人、それにそちたちのいわばお仲間、さあさあ拙者に味方して、そいつを叩き伏せてくだされい!」
「やれ!」
「悪侍!」
「ノバシてしまえ!」
「仲間の三十郎殿へ加勢しろ!」
 と、非人たちは棒きれや竹の杖で、民弥を囲んで打ってかかった。
「代五郎、孫九、浅吉もかかれ! ……女は地面へころがしておけ!」
「合点だ!」
「やれ!」
 と、この三人も、民弥目がけて飛びかかった。

 民弥は非人や破落戸ごろつきに囲まれ、棒や竹キレで打ってかかられ、進退きわまり仰天したが、
「やア汝ら情知らぬ奴め、普通尋常の斬り合いでなく、親の敵を討とうとする俺だ! ……それに敵対して悪漢三十郎に味方し、打ってかかるとは何事だ! 退け! しりぞけ! 退散しろ!」
 と声を絞り叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)した。
 が、非人や代五郎たちは、口々に悪態を吐きながら、ただ無二無三に打ってかかった。
 と、この時街道筋を、お城下の方から点々と、二十あまりの提灯の火が、縦隊をなして足早に、こっちへ近寄って来るのが見えた。
「何んだ何んだ大変な提灯だ!」
「だんだんこっちへ近寄って来る!」
「早くこいつを仕止めてしまわないと、あの提灯に邪魔されるぞ!」
 と、非人や破落戸たちは騒ぎ出した。
 三十郎も狼狽し、
(多数の提灯は何んだろう? 藩の捕り方であろうもしれぬ……民弥を早く仕止めて逃げねば……)
 で、ソロソロと忍び足に、民弥の背後へ廻り込んだ。
 が、その時一人の武士が、一文字にこっちへ走って来たが、月明りでこの場の様子を見るや、大音声に呼ばわった。
「松浦氏、民弥氏、心を丈夫に、心を丈夫に! 拙者参った、鵜の丸兵庫が! ……やアやアおのれ三十郎、遁がれぬところと覚悟いたし、今こそ尋常に討たれおろう! ……やア菊女殿! 菊女殿には! ……さては三十郎の悪業じゃな! ……まずこの方からお助け致す!」
 と馳せつけて来た鵜の丸兵庫は、菊女の方へ走り寄り、邪魔する非人を二、三人、叩っ斬って押し通り、菊女の傍へ近寄るや、いましめを切り猿轡を外した。
「兵庫様!」
 と縋りつくのを、兵庫はしっかり抱きしめて、
「もはや大丈夫! いざこれで!」
 と、差添え抜いて手渡した。
 その間に駈けつけて来た二十余の提灯!
 すなわち助命されて法音寺へ向かう、明暦義党の人々を、駕籠に打ちのせ送って来た、藩の武士たちと姉小路卿と、女隠密の梶子らであったが、忽ち三十郎たちを引っ包んだ。
 姉小路卿は駕籠から出、梶子も駕籠から現われたが、
「三十郎さんかえ、悪運強く、よく今日まで生きていたねえ。……もう駄目だよ、皆様の前で、今度こそ立派に討たれてしまいな!」
 と、云うのに続いて姉小路卿が、
「松浦氏、姉小路じゃ! ……紀州家に捕われた義党の人々も、幸い許されてここにござる。……我ら一同拝見いたす、立派に敵をお討ちなされ! ……義党の方々遠慮はいらない、駕籠を開けてご見物なされ!」
 声に応じて駕籠の戸があき、二十人の明暦義党の徒が、顔を差し出し民弥の方を眺めた。
 警護して来た紀州藩士は、忽ち三十郎をがさぬように、遠巻きにひしひしととりかこんだ。
 民弥の歓喜に引きかえて、今は三十郎は絶体絶命、見れば非人も三人の破落戸ごろつきも、いつの間に逃げたか姿はなかった。
「ムーッ」
 と切歯するばかりであった。
 その三十郎の気え根疲れた、構えの隙を眼ざとく目付け、民弥は飛燕さながらに飛び込み、無双の悪剣の使い手であり、剣鬼のような三十郎の、右肩を胸まで割りつけた。
「ワーッ」
 と三十郎は地に仆れた。
「お見事! とどめを!」
 と兵庫が叫んだ。
 民弥は三十郎へのしかかりこめかみへブッツリ止どめを刺した。


 ××島における二派の人々は――紀州藩士の一団と、義党と青塚郷民との組は、対峙したままで静まっていた。
 姉小路卿より紀州藩士の群へ、使者をつかわして一時的和睦を、強く進めたからであった。
 と、そのうち紀州藩から、帰還せよというお達しが来た。
 明暦義党の人々によって、奪われた船を返してもらい、狐につままれたような格好で、加藤源兵衛や霜降小平たちは、その船で紀州へ帰って行った。
 それとほとんど引き違いのように、紀州の港から一隻の船が、××島へ船出した。
 放免された二十人の義党と、鵜の丸兵庫と松浦民弥と、梶子と菊女とが乗っていた。
 その船が上村に着いた時、佐原嘉門や五十嵐右内や、その他義党の面々と、青塚郷の人々とが、凱旋の将士でも迎えるかのように、歓迎して狂喜したことは、説明する必要はないほどであった。
 それらの人々によって××島へは、家が建てられ開墾が行われた。
 ある日お蔵のある岩山の辺から、歓喜の声が湧き上がった。
 魚屋助右衛門の財宝が、首尾よく洞外へ出されたからである。
 五つあった石棺のその一つは、間道の口になっていたが、その他の石棺には驚嘆するばかり多額の財宝が、ミッシリ蔵してあった。
 軍用金も取り出された。
 もう彼らには経済上における、何らの不安もなくなってしまい、××島の開墾事業は、目立って活気を呈して来、諸方に散って隠れていた、義党の者や青塚郷民たちが、続々とこの島へ集まって来、安住境として住居するようになった。
 翌年の春になった時、この島の住民全部によって、歓迎された二組の夫婦の、盛大な結婚式が行われた。
 その一つは鵜の丸兵庫と、烈女菊女との結婚であり、もう一つは松浦民弥と、梶子との結婚のそれであった。
 梶子はこの島へ渡った日から、女隠密というような、危険な仕事からは脱していた。

 この年の秋の快よい日に、紀州から大船が船出して、××島へ渡って来た。
 それには二人の老貴人と、青年貴公子とが乗っていて、多数の武士にかしずかれていた。
 紀州頼宣卿と姉小路卿と、すっかり健康を恢復し、かつ艱難を経たために、かえって剛健怜悧になったところの、萩丸君との三人であった。
 萩丸君にお目通りした時、菊女は嬉しさと懐しさとで、泣いて泣いて泣き止まなかった。
 萩丸君も涙を流し、
菊女きくめよ、わしは生きている限り、お前を愛情こまやかな、よい姉として忘れないよ」
 と、こうしみじみと仰せられた。
 頼宣卿たちは島を巡り、その絶佳の風景と、そのたくましい要害と、義党や郷民によってわずかな間に、島が開拓されたことに、讃嘆の語をもらされた。
 そうしてそれらの人々へ云った。
「資金はわしからいくらでも出すから、お前たちはこの島の屯田の士として、開墾と防備にあたってくれ。それは徳川のためというより、日本の国のためなのであるから」
 兵庫をはじめ島の人々は、虚心坦懐にその言葉を容れた。
 ある日姉小路卿は兵庫、菊女、民弥、梶子の四人を呼んで、人形についてこんなことを云われた。
「伊豆守様からの例の人形、わしから簾子姫へ差し上げたよ。あちらへ取られ、こちらへ奪われ、大分いたんではいたけれど、修繕をして差し上げたものさ。姫には大変喜ばれて、お居間に今も飾っておられる」

 ××島とは何処なのだろう?
 寒霞溪をもって有名な、小豆島だと云われているが、真偽のほどは解らない。



青空文庫の奥付



底本:「猫の蚤とり武士(上)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
   1976(昭和51)年8月12日第1刷発行
   「猫の蚤とり武士(下)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
   1976(昭和51)年8月12日第1刷発行
初出:「夕刊大阪新聞」
   1934(昭和9)年8月7日~12月28日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:酒井裕二
2020年9月28日作成
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