小川靜子は、兄の信吾が歸省するというふので、二人の妹と下男の松藏を伴れて、
小川家といへば、郡でも相應な資産家として、また、當主の信之が郡會議員になつてゐる所から、主なる有志家の一人として名が通つてゐる。總領の信吾は、今年大學の英文科を三年に進んだ。何と思つてか知らぬが、この暑中休暇を東京で暮すと言つて來たのを、
午前十一時何分かに着く筈の下り列車が、定刻を三十分も過ぎてるのに、未だ着かない。姉妹を初め、三四人の乘客が皆もうプラットフォームに出てゐて、

驛員が二三人、驛夫室の入口に
六月下旬の
か彼方に快い蔭をつくつた、白樺の木立の中に、靜子は眼を細くして、
今度歸るまいとしたのも、或は其、己に背いた清子と再び逢ふまいとしたのではなからうかと、靜子は女心に考へてゐた。それにしても歸つて來るといふのは嬉しい、恁う思返して呉れたのは、細々と訴へてやつた自分の手紙を讀んだ爲だ、兄は自分を援けに歸るのだと許り思つてゐる。靜子は、今持上つてゐる縁談が、種々の事情から兩親始め祖父までが折角勸めるけれど、自分では
『來た、來た。』と、背の低い驛夫が叫んだので、フォームは俄かに色めいた。も一人の髯面の驛夫は、中に人のゐない改札口へ行つて、『來ましたよウ。』と怒鳴つた。濃い煙が、眩しい野末の青葉の上に見える。
凄じい地響をさせて突進して來た列車が停ると、信吾は手づから二等室の
乎『何を

『ホホ、兄樣少し
『あゝ之か?』と短い髭を
『ハハハ。』と松藏も聲を合せて、背の鞄を搖り上げた。
『
『
連立つて停車場を出た。靜子は、際どくも清子の事を思浮べて、

二町許りも構内の木柵に添うて行くと、
信吾と靜子は、相並んで線路の兩側を歩いた。
『皆が折角待つてることよ。』
『然うか。實は此夏少し勉強しようと思つたんだがね。』
『勉強は家でだつて出來ない事なくつてよ。其
にお邪魔しないわ。』『それも然うだが、子供が大勢ゐるからな。』
『だつて阿母さんが

『その阿母さんの病氣ツてな

『えゝ、其
に惡かアないんですけど……。』『
『臥たり起きたり。
『胃の惡いのは喰ひ過ぎだ。朝から煙草許り
『でもないでせうが、一體阿母さんは丈夫ぢやないのね。』
『若い時の
『まあ!』と眼を大きく


信吾も少し言過ぎたと思つたかして直ぐに、
『だが何か服藥はしてるだらうね?』
『えゝ。……加藤さんが毎日來て
『然うか。』と言つて、また態とらしく、『然うか、加藤といふ醫師があつたんだな。』
靜子はチラリと兄の顏を見た。
『醫師が毎日來る樣ぢや、餘り輕いんでもないんだね?』
『然うぢやないのよ。加藤さんは交際家なんですもの。』
『フム、交際家か!』と短い髭を捻つて、
『其
風ぢや相應に『えゝ、宅の方へ
診に來る時は、大抵自轉車よ。でなけや馬に乘つて來るわ。』『ほう、景氣をつけたもんだな。そして何か、もう子供が生れたのか?』
『……まだよ。』と低い聲で答へて目を落した。
『それぢや清子さんも暇があつて可いんだらう。』
『えゝ。』
『女は子供を有つと、もう最後だからな。』
靜子は妙にトチッて、其儘口を
に不愉快な思ひをするだらう、などとまで狹い女心に心配もしてゐた。そして、何かしらそれに關した事を言出されるかと、二人は並んで歩いた。蒸す樣な草いきれと、乾いた線路の土砂の反射する日光とで、額は何時しか汗ばんだ。靜子の顏は、
稍あつてから信吾は、『あの問題は、一體
『あの問題ツて、……松原の方?』と兄の顏を仰ぐ。
『あゝ。餘程切迫してるのかい?』
『さうぢや無いんですれど[#「ですれど」はママ]……。』
『手紙の樣子ぢや然う見えたんだが。』
『さうぢや無いんですけど。』と繰返して、『
『然うか、それで未だ先方には何とも返事してないんだね?』
『えゝ。兄樣の歸つてらしやるのを待つてたんだわ。』
信吾は少し言ひ淀んで、『昨日
靜子は默つて兄の顏を見た。松原政治といふのは、近衞の騎兵中尉で、今は乘馬學校の生徒、靜子の縁談の對手なのだ。
『
靜子は默つて聞いてゐた。
『休暇で歸るのに見送りなんか
『
『皆樣にぢやない靜さんにだらうと、餘程言つてやらうかと思つたがね。』
『まあ!』
『ナニ唯思つた丈さ。まさか口に出しはしないよ。ハッハハ。』
この松原中尉といふのは、小川家とは遠縁の親戚で、十里許りも隔つた某村の村長の次男である。兄弟三人皆軍籍に身を置いて、三男の狷介と云ふのが靜子の一歳下の弟の志郎と共に士官候補生になつてゐる。
長男の浩一は、過る日露の役に第五聯隊に從つて、黒溝臺の惡戰に壯烈な戰死を遂げた。――これが靜子の悲哀である。靜子は、女學校を卒へた十七の秋、親の意に從つて、當時歩兵中尉であつた此浩一と婚約を結んだのであつた。
それで翌年の二月に開戰になると、出征前に是非盃事をしようと小川家から言出した。これは浩一が、生きて歸らぬ覺悟だと言つて堅く斷つたが、靜子の父信之の計ひで、二月許りも青森へ行つて、浩一と同棲した。
浩一の遺骨が來て盛んな葬式が營まれた時は、母のお柳の
その夏
九月になつて上京する時は、自ら兩親を説いて靜子を携へて出たのであつた。
『姉さん。』と或時政治が靜子を呼んだ。靜子はサッと顏を染めて
何日の間にかパッタリと足が止つた。其間に政治は同僚に捲込まれて酒に親む事を知つた。そして一昨年の秋中尉に昇進してからは、また時々訪ねて來た。然しモウ以前の單純な、素朴な政治ではなかつた。或時は
昨年の春、母が産後の肥立が惡くて二月も患つた時、看護に歸つて來た儘靜子は再び東京に出なかつた。そして、此六月になつてから、突然政治から結婚の申込みを受けたのだ。
『それで、兄樣は
『奈何つて言つた所で、問題は頗る簡單だ。』
『然う?』と靜子は兄の顏を覗く樣にする。
『簡單さ。本人が厭なら仕樣がないぢやないか。』
『そんなら可いけど……。』と
『だがまあ、お父さんやお母さんの意見も聞いて見なくちやならないし、それに祖父さんだつて何か理窟を言ふだらうしね。』
『ですけど、私
『そう頭つから
『
『ハハハ。まるで
靜子も聲を合せて笑つたが、『ま、嬉しい。』と言つて額の汗を拭く。顏が晴やかになつて、心持や聲も華やいだ。
『兄樣、アノ面白い事があつてよ。』
『何だ?』
『叔父さんが私に同情してるわ。』
『叔父さんて誰? 昌作さんか?』
『えゝ。』と言つて、さも
『今度の事件にか?』
『然うよ。
『そして
『奈何もしやしないけど、面白かつたわ。そして折角祖父さん許り攻撃してるのよ。舊時代の思想だの何のつてね……お父さんやお母さんの事は言へないもんだから。』
『フム、然うか。……それで
『南米に行きたいんですつて。』
『南米に? そんな事で學校も
『それ許りぢやないわ。今年卒業するのでしたのを落第したんですもの。』
『中學も卒業せずに南米に行つたつて
『全體で二百圓あれア
『何處から出す積りだらう。家ぢや出せまいし……。』
『出せないことは無いと思ふわ。』
『だつて餘り無謀な計畫だ。』
『……ですけど、お母さんも少し
『それや昌作さんが惡いんだ。そして今は何をしてるだらう? 唯遊んでるのか?』
『歌を作つてるのよ。新派の歌。』
『歌?

『仲々得意よ。そして少し天狗になつてるけど、
『莫迦な。

この時、重い地響が
人通りの少い青森街道を、盛岡から北へ五里、北上川に架けた
役場の外に、郵便局、駐在所、登記所も近頃新しく置かれた。小學校は、町の南端れ近くにある。直徑尺五寸もある太い丸太の、頭を圓くして二本植ゑた、それが校門で、右と左、手頃の棒の先を尖らして、無造作に
柵の中は、左程廣くもない運動場になつて、二階建の校舍が其奧に、愛宕山の
つてゐる。と、門から突當りの玄關が
クッキリとした、輪廓の正しい、引緊つた顏を眞正面に西日が照すと
門を出て右へ曲ると、智惠子は
家々の前の狹い淺い溝には、腐れた水がチョロ〳〵と流れて、縁に打込んだ杭が朽ちて白い菌が生えた。屋根が低くて廣く見える街路には、西並の家の影が
一人、煮絞めた樣な淺黄の手拭を冠つて、赤兒を背負つた十一二の女の兒が、とある家の軒下に立つて妹らしいのと遊んでゐたが、智惠子を見ると、鼻のひしやげた顏で卑しくニタ〳〵笑つて、垢だらけの首を
『
『お松、お前また此頃學校に來なくなつたね?』と、柔かな物言ひである。
『これ。』と背中の兒を
『
お松はそれには答へないで、『
『ホホヽヽ。』と智惠子は笑つた。『何處から見てゐたの?……今日はお客樣が
『出さねえ。』
信吾は歸省の翌々日、村の小學校を訪問したのであつた。
智惠子の泊まつてゐる濱野といふ家は町でもズット北寄りの――と言つても學校からは五六町しかない――寺道の入口の小さい茅葺家がそれである。智惠子が此家の前まで來ると、洗晒しの筒袖を着た小造りの女が、十許りの女の兒を上り
それと見た智惠子は直ぐ笑顏になつて、溝板を渡りながら、
『只今。』
『先生、今日は少し遲う
『ハ。』
『小川の信吾さんが、學校にお出で
『え、
『アノ、郵便は來なくて
『ハ、何にも……然う〳〵、
『然う? 今日ですか?』
『
『然うでしたか。』と安心した樣に言つて、『祖母さんは今日は?』
『少し好い樣で
『夜になると何日でも惡くなる樣ね。』と言ひながら、直ぐ横の破れた襖を開けて中を覗いた。薄暗い取散らかした室の隅に、臥床が設けてあつて、汚れた布團の襟から、彼方向の小い白髮頭が見えてゐる。枕頭には、漆の剥げた盆に茶碗やら、藥瓶やら、流通の惡い空氣が、藥の香と古疊の香に濕つて、氣持惡くムッとした。
智惠子は稍暫しその物憐れな室の中を見てゐたが、默つて襖を閉めて、自分の室に入つて行つた。
上り口の板敷から、敷居を跨げば、大きく焚火の爐を切つた、田舍風の廣い臺所で、其爐の横の滑りの惡い板戸を明けると、六疊の座敷になつてゐる。隔ての煤けた障子一重で、隣りは老母の病室――疊を布いた所は此二室しかないのだ。
東向に格子窓があつて、室の中は暗くはない。疊も此處は新しい。が、壁には古新聞が手際惡く貼られて、眞黒に煤けた屋根裏が見える、壁側に積重ねた布團には白い毛布が
りの物が整然と列べられた。脱いだ袴を疊んで、桃色メリンスの袴下を、同じ地の、大きく菊模樣を染めた腹合せの
軈て智惠子は、昨日來た友達の手紙に返事を書かうと思つて、墨を
丁度此時、信吾は學校の門から出て來た。
長過ぎる程の紺絣の單衣に、輕やかな絹の兵子帶、丈高い體を少し
『信吾さん!』と
『
『ハ、其邊まで

矢張女教師の神山富江といつて、女にして背の低い方ではないが、信吾と並んでは肩先までしか無い。それは一つは、
富江には夫がある。これも盛岡で學校教師をしてゐるが、人の噂では二度目の夫だとも言ふ。それが頗る妙で、富江が此村に來てからの三年の間、正月を除いては、農繁の休暇にも暑中の休暇にも、盛岡に歸らうとしない。それを怪んで訊ねると、
『
村の人達は、富江を淡白な、さばけた、面白い女として心置なく
事から、この町に唯一軒の小川家の親戚といふ、立花といふ家に半自炊の樣にして泊つてゐるのだ。服裝を飾るでもなく、本を讀むでもない。盛岡には一文も送らぬさうで、近所の内儀さんに融通してやる位の小金は何日でも持つてゐると言ふ。街路は八分通り蔭つて、高聲に笑ひ交してゆく二人の、肩から横顏を
『だが何だ、神山さんは何日見ても若いですね。』と
『

『
『寄つてらつしやい。』と富江は俄かに足を留めた。何時しか己が宿の前まで來たのだ。
『次にしませう。』
『何故? モウ
『御馳走しますか?』
『しますとも……。』
と言つてる所へ、家の中から四十五六の汚らしい
信吾がそれを斷つて歩き出すと、
『信吾さん、それぢや屹度押しかけて行きますよ。』
『あゝ
『此方から教へに行くんですよ。』と笑ひ乍ら、富江は薄暗い家の中へ入つて行つた。
と、信吾は急に取濟した顏をして大胯に歩き出したが、加藤醫院の手前まで來ると、フト物忘れでもした樣に足を
今しもその、五六軒彼方の加藤醫院へ、晩餐の準備の豆腐でも買つて來たらしい白い前掛の下女が急ぎ足に入つて行つた。
『
寄らなければ寄らなくても濟む、別に用があるのでもないのだ。が、狹い村内の交際は、それでは濟まない。殊には、さまでもない病氣に親切にも毎日
診に來てくれるから是非顏出しして來いと母にも言はれた。『
診から歸つてゐまい。』と考へると、『『清子は

『私はあの、貴方の言葉一つで……。』と言つて眤と瞳を据ゑた清子の顏が目に浮んだ。――それは去年の七月の末加藤との縁談が
稚い時からの戀の最後を、其時、二人は人知れず語つたのだ。……此追憶は、流石に信吾の心を輕くはしない。が、その時の事を考へると、『俺は強者だ。勝つたのだ。』といふ淺間しい自負心の滿足が、信吾の眼に
取濟ました顏をして、信吾は大胯に杖を醫院の玄關に運んだ。
昔は町でも一二の濱野屋といふ旅籠屋であつた、表裏に二階を上げた大きい茅葺家に、思切つた修繕を加へて、玄關造にして硝子戸を立てた。その取つてつけた樣な不調和な玄關には、『加藤醫院』と鹿爪らしい楷書で書いた、まだ新しい
信吾が落着いた聲で案内を乞ふと、小生意氣らしい十七八の書生が障子を開けた。其處は直ぐ藥局で、加藤の弟の代診をしてゐる愼次が、何やら薄紅い藥を
『や、小川さんですか。』と計量器を持つた儘で、『さ
そして『
『ハ、有難う。妹は參つてゐませんですか?』
其處へ横合ひの襖が開いて清子が出て來た。信吾を見ると、『
『さ
『
二十分許り經つて、信吾兄妹は加藤醫院を出た。
一筋町を北へ、一町許り行くと、傾き合つた汚ならしい、家と家の間から、家路を左へ入る、路は此處から、水車場の前の小橋を渡つて、小高い廣い麥畑を過ぎて、阪を下りて、北上川に架けられた、鶴飼橋といふ吊橋を渡つて十町許りで大字川崎の小川家に行く。落ちかけた夏の日が、熟して割れた
信吾は何氣ない顏をして歩き乍らも心では清子の事を考へてゐた。僅か二十分許りの間、座には靜子も居れば、加藤の母も愼次も交る〳〵挨拶に出た。信吾は極く物慣れた大人振つた口をきいた。清子は茶を薦め菓子を薦めつゝ唯
唯一度、信吾は對手を「
清子の事を考へると言つても、別に過ぎ去つた戀を思出してゐるのではない。また豫期してゐた樣な不快を感じて來たのでもない。寧ろ、一種の滿足の情が信吾の心を輕くしてゐる。一口に言へば、信吾は自分が何處までも勝利者であると感じたので。清子の擧動がそれを證明した。そして信吾は、加藤に對して少しの不快な感を抱いてゐない、却つてそれに親しまう、親しんで而して繁く往來しよう、と考へた。
加藤に親しみ、清子を見る機會を多くする、――否、清子に自分を見せる機會を多くする。此方が、清子を思つては居ないが、清子には何時までも此方を忘れさせたくない。それ許りでなく、猫が鼠を
『清子さんは些とも變らないでせう。』と何かの序に靜子が言つた。靜子は、今日の兄の應待振の如何にも大人びてゐたのに感じてゐた。そして、兄との戀を自ら捨てた

『些とも變らないね。』と信吾は短い髭を捻つた。『幸福に暮してると年は老らないよ。』
『さうね。』
其話はそれ
『今日隨分長く學校に
『智惠子? ウン日向さんか。逢つた。』
『何う思つて、兄樣は?』と笑を含む。
『美人だね。』と信吾も笑つた。
『顏許りぢやないわ。』と靜子は眞面目な眼をして、『それや好い方よ心も。私姉樣の樣に思つてるわ。』と言つて、熱心に智惠子の性格の美しく清い事、其一例として、濱野(智惠子の宿)の家族の生活が殆んど彼女の補助によつて續けられてゐる事などを話した。
信吾は其話を、腹では眞面目に、表面はニヤ〳〵笑ひ乍ら聽いてゐた。
二人が鶴飼橋へ差掛つた時、朱盆の樣な夏の日が岩手山の
『アラ昌作叔父さんだわ。』と兄に
く。『オーイ。』と青年は遠くから呼んだ。
『迎ひに來た。家ぢや待つてるぞ。』
言ふ間もなく踵を返して、今來た路を
『それで何で御座いますか、えゝ、お食事の方は? 矢張お進みになりませんですか?』と言ひ乍ら、加藤は少し腰を浮かして、靜子が薦める金盥の水で眞似許り手を洗ふ。今しもお柳の診察――と言つても毎日の事でホンの型許り――が濟んだところだ。
『ハア、怎うも。……それでゐて恁う、始終何か喰べて見たい樣な氣がしまして、一日口
痩せた、透徹るほど蒼白い、鼻筋の見事に通つた、險のある眼の心持吊つた――左褄とつた昔を忍ばせる細面の小造りだけに
『胃の
『で何です、明日からタカヂヤスターゼの錠劑を差上げて置きますから、食後に五六粒宛召上つて御覽なさい。え?
見るからが人の好さ相な、丸顏に髭の赤い、デップリと肥つた、
茶を運んで來た靜子が出てゆくと、奧の襖が開いて、卷莨の袋を掴んだ信吾が入つて來た。
『や、これは。』と加藤は先づ挨拶する、信吾も坐つた。
『ようこそ。暑いところを毎日御足勞で……。』
『怎う致しまして。昨日は態々お立寄り下すつた相ですが、生憎と芋田の急病人へ行つてゐたものですから失禮致しました。今度町へ
『ハ、有難う。これから時々お邪魔したいと思つてます。』と莨に火を
『何卒さう願ひたいんで。これで何ですからな、無論私などもお話相手には參りませんが、何しろ狹い村なんで。』
『で御座いますからね。』とお柳が引取つた。『これが(頤で信吾を指して)退屈をしまして、去年なんぞは貴方、まだ二十日も休暇が殘つてるのに無理無體に東京に歸つた樣な譯で御座いましてね。今年はまた私が

『
『それぢや今年は信吾さんに逃げられない樣に、成るべく早くお癒りにならなけや
『えゝもうお蔭樣で、腰が大概良いもんですから、今日も恁うして朝から起きてゐますので。』
『何ですか、リウマチの方はもう癒つたんで?』と信吾は自分の話を避けた。
『左樣、根治とはまあ行き難い病氣ですが、……何卒。』と信吾の莨を一本取り乍ら、『
開放した次の間では、靜子が茶棚から
『靜や、何處へ?』とお柳が此方から小聲に呼止めた。
『
『誰が來てるんだい?』と言ふ調子は低いながらに
『山内樣よ。』と、靜子は
『然うかい。三尺さんかい!』とお柳は
『昌作さんの
『昌作さんにお客?』と信吾は母の顏を見る。其間に靜子は彼方の室へ行つた。
『

『ハッハヽヽ。怎うですか知りませんが、

『えゝえゝ。』とお柳は俄かに眞面目臭つた顏をして、
『それやもう山内さんなんぞは、體こそ

『

と加藤が何やら言はうとするのを、お柳は打消す樣にして、
『學校は勝手に

『ハハヽヽ。否、昌作さんにした所で何か屹度大きい御志望を有つて居られるんでせうて。それに何ですな、譬へ何を成さるにしても、あの御體格なら大丈夫で御座いますよ。……昌作さんも何ですが(と信吾を見て)失禮乍ら貴君も好い御體格ですな。五寸……六寸位はお有りでせうな? 何方がお高う御座います?』
氣の無い樣な顏をして煙りを吹いてゐた信吾は、『さあ、何方ですか。』と、
『何方ももう背許り延びてカラ役に立ちませんので、……電信柱にでも賣らなけや一文にもなるまいと申してゐますんで。ホホヽヽヽ。』と、お柳は取つて附けた樣に高笑ひする。加藤も爲方なしに笑つた。
十分許り經つて加藤は自轉車で歸つて行つた。信吾は玄關から直ぐ書齋の
『信吾や、まあ可いぢやないか。』と言つて、お柳は先刻の座敷に戻る。
『お父樣は今日も役場ですか?』と、信吾は縁側に立つて空を眺めた。
『
『爲方がない、交際だもの。』と投げる樣に言つて、敷居際に腰を下した。
『時にね。』とお柳は顏を
『何です、松原の話?』
『然うさ。』と眼をマヂ〳〵する。
信吾は
『だけどもね……。』
『
信吾が入つて來た時、昌作は、窓側の机の下に毛だらけの長い脛を投げ入れて、
山内謙三は、チョコナンと人形の樣に坐つて、時々死んだ樣に力のない
りも捲いた、狹い額には汗が滲んでゐる。二人共、この春徴兵檢査を受けたのだが、五尺足らずの山内は誰が目にも十七八にしか見えない。それでゐて何處か擧動が老人染みてもゐる。昌作の方は、背の高い割に肉が
『……

信吾はニヤ〳〵笑ひ乍ら入つて來て、無造作に片膝を附く。と見ると山内は喰かけの麥煎餅の遣場に困つた樣に臆病らしくモヂ〳〵して、顏を赧めて頭を下げた。
『貴方は山内さんですね?』と信吾は鷹揚に見下す。
『ハ。』と又頭を下げて、其拍子に昌作の方をチラと
『何です、昌作さん? 大分氣焔の樣だね。バイロンが
『怎うもしない。』と、昌作は不愉快な調子で答へた。
『怎うもしない? ハヽヽ。何ですか、貴方もバイロンの崇拜者で?』と山内を見る。
『ハ、
『

『眞理と美は常に新しい!』と、一度砂を
『ハッハヽヽ。』と、信吾は事も無げに笑つた。『だが何かね? 昌作さんはバイロンの詩を
昌作の太い眉毛が、
『讀まなくちや爲樣が無い!』と嘲る樣に對手の顏を見て、
『讀まなくちや崇拜もない。何處を崇拜するんです?』
と
『信吾や。』と隣の室からお柳が呼んだ。『富江さんが來たよ。』
昌作はジロリと其方を見た。そして信吾が山内に挨拶して出てゆくと、不快な冷笑を憚りもなく顏に出して、
次の間にはお柳が不平相な顏をして立つてゐて、信吾の顏を見るや否や、『何だねえお前、


彼方の室からは子供らの笑聲に交つて、富江の
遠くから見ただけの人は、智惠子をツンと取濟した、愛相のない、大理石の像の樣に冷い女とも思ふ。が、一度近づいて見ては、その
同情の深い智惠子は、宿の子供――十歳になる梅ちやんと五歳の新坊――が、もう七月になつたのに垢染みた袷を着て暑がつてるのを、
障子を開けた格子窓の、直ぐ下から青い田が續いた。其青田を貫いて、此家の横から入つた寺道が、二町許りを眞直に、寶徳寺の門に隱れる。寺を圍んで
隣室からは、床に就いて三月にもなる老女の、幽かな呻き聲が聞える。
子供の
何處か俤の
長患ひの末、母は翌年になつて遂に死んだ。程なく兄は或る藝妓を
智惠子は堅くも自活の決心をした。そして、十八の歳に師範學校の女子部に入つて、去年の春首尾克く卒業したのである。兄は今青森の大林區署に勤めてゐる。
父は嚴しい人で、母は優しい人であつた。その優しかつた母を思出す毎に智惠子は東京が戀しくてならぬ。住居は本郷の弓町であつた。四室か五室の廣からぬ家ではあつたが、……玄關の脇の四疊が智惠子の勉強部屋にされてゐた。
『那の邊の事を、
と、門口に何やら聲高に喋る聲が聞えた。洗濯の音が止んだ。『六錢。』といふ言葉だけは智惠子の耳にも入つた。
すると、お利代の下駄を脱ぐ音がして、輕い
何やら探す樣な
『先生、何とも……。』と小聲に遠慮し乍ら入つて來て、『あの、これが來まして……。』と言ひにくさうに膝をつく。
『何です!』と言つて、見ると、それは厚い一封の手紙、(濱野お利代殿)と筆太に書かれて、不足税の印が捺してある。
『細かいのが御座んしたら、あの、一寸二錢だけ足りませんから……。』
『あ、然う?』と皆まで言はせず輕く答へて、智惠子はそれを出してやる。お利代は極り惡氣にして出て行つた。
智惠子は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、26-下-3]針の手を留めて、『子供の
お利代は直ぐ引返して來て、櫛卷にした頭に小指を入れて掻き乍ら、
『
『まあ

『今夜あの
『小母さん!』と智惠子は口早に
『私小母さんの家の人よ。ぢやなくつて?』
初めて聞いた言葉ではないが、お利代は大きい眼を
母は早く死んだ。父は家産を倒して行方が知れぬ。先夫は良い人であつたが、梅といふ
言つて見れば赤の他人だ。が、智惠子の親切は肉身の姉妹も及ばぬとお利代は思つてゐる。美しくつて、優しくつて、
『あの……小母さん。』と智惠子は稍
『あの、小母さん、私小母さんの家の人よ。ね。だからあの毎日我儘許りしてるんですから惡く思はないで頂戴よ。ね。私小母さんを姉さんと思つてゐるんですから。』
『それはもう……』と言つて、お利代は目を落して疊に片手をついた。
『だからあの、惡く思はれる樣だと私却つて濟まないことよ。ね。これはホンのお小遣よ。祖母さんにも何か……』と言ひ乍ら握つたものを出すと、俯いたお利代の膝に
『小母さん!』と、出した其手で矢庭に疊に突いたお利代の手を握つて、『神よ!』と心に叫んだ。『願はくば御惠を垂れ給へ!』と瞑ぢた其眼の長い睫毛を傳つて、美しい露が溢れた。
『あゝ。』といふ力無い欠伸が次の間から聞えて、『お利代、お利代。』と、嗄れた聲で呼び、老女が目を覺まして、寢返りでも爲たいのであらう。
智惠子はハッとした樣に手を引いた。お利代は涙に濡れた顏を擧げて、『は、只今。』と答へたが、其顏に言ふ許りなき感謝の意を湛へて、『一寸』と智惠子に會釋して立つ。急がしく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。
其後姿を見送つた目を其處に置いて行つた手紙の上を[#「上を」はママ]移して、智惠子は眤と呼吸を凝した。神から授つた義務を果した樣な滿足の情が胸に溢れた。そして、『私に出來るだけは是非して上げねばならぬ!』と自分に命ずる樣に心に誓つた。
『あゝゝ、よく寢た。もう夜が明けたのかい、お利代?』と
『ホホヽヽ、今午後の三時頃ですよ祖母さん。お氣分は?』
『
『否、今日は土曜日ですから先刻にお歸りになりましたよ。そしてね祖母さん、あの、梅と新坊に單衣を買つて來て下すつて、今縫つて下すつてるの。』
『
『まあ祖母さんは! 何時でも昔の樣な氣で……。』
『ホヽヽ。
智惠子はそれを聞くと、又しても眼の底に涙の
『ア痛、ア痛、寢返りの時に限つてお前は
五分許り經つてお利代が再び入つて來た時は、何を泣いてか其頬に新しい涙の痕が光つてゐた。
『お氣分が宜い樣ね?』
『は。もう夜が明けたかなんて
『まあ
『ですけれど先生、今もあのお祖母さんが、先生の樣な人は何處に行つても無いと申しまして……。』
と、流石は世慣れた
『辛いわ、私!』と智惠子は言つた。
『何も私なんかに
『
『まあ!』と心から驚いた樣な聲を出して、智惠子は涼しい眼を
事『は。』と言つてお利代は俯いた。今の言葉を若しやお世辭とでも取られたかと思つたのだらう。手は無意識に先刻の手紙に行く。
『あら小母さん、お手紙御覽なさいよ。何處から?』
『は。』と目を上げて、『凾館からですの。……あの梅の父から。』と心持極り惡氣に言ふ。
『ま、然う?』と輕く言つたが、惡い事を訊いたと心で
『あの、先月……十日許り前にも來たのを、返事を遣らなかつたもんですから……』
と言つてる時、門口に人の氣勢。
『日向さんは?』
『靜子さんですよ。』と

『小母さん、これ。』と智惠子は先刻の紙幣を指さしたのでお利代は『それでは!』と受取つて室を出た。
挨拶が濟むと、靜子は直ぐ、智惠子が片附けかけた裁縫物に目をつけて、『まあ好い柄ね。』
『でも無いわ。』
『
『まさか!

『梅ちやんの?』と少し聲を潜めた。
『え、新坊さんと二人の。』
『然う?』と言つて、靜子は思ひあり氣な眼附をした。無論、智惠子が買つてくれたものと心に察したので。
智惠子は身の
『貴女は
『濟まなかつたわ。』と何氣なく言つたが、一寸目の
『今日はお忙しくつて?』
『
『可けないの。今日は私、お使ひよ。』
『でもまあ可いわ。』
『あら、貴女のお迎ひに來たのよ。今夜あの、宅で歌留多會を
『歌留多、私取れなくつてよ。』
『まあ、貴女御謙遜ね?』
『
『可いわ。私だつて
と靜子は姉にでも甘える樣な調子。
『然うね?』と智惠子は、心では行く事に決めてゐ乍ら、餘り氣の乘らぬ樣な口を利いて、
『誰々? 集るのは?』
『十人
『隨分大勢ね?』
『だつて、宅許りでも
『オヤ、その一人は?』と智惠子は
『此處に。』と頤で我が胸を指して、『下手組の大將よ。』と無邪氣に笑つた。
智惠子は、信吾が歸つてからの靜子の、常になく生々と
智惠子は我知らず氣が進んだ。『
『今直ぐ、何にも無いんですけど
『は。貴女となら何處までゞも。』と笑つた。
軈て智惠子は、『それでは一寸。』と會釋して、『失禮ですわねえ。』と言ひ乍ら、室の隅で着換へに懸つたが、何を思つてか、取出した衣服は其儘に、着てゐた紺絣の
其後姿を見上げてゐた靜子は、思出す事でもあるらしく笑を含んでゐたが少し小聲で、
『あの、山内樣ね。』
『え。』と此方へ向く。
『アノウ……』と、智惠子の眞面目な顏を見ては惡いことを言出したと思つたらしく、心持極り惡氣に頬を染めたが、『詰らない事よ。……でも神山さんが言つてるの。あの、少し何してるんですつて、神山さんに。』
『何してるつて、何を?』
『あら!』と靜子は耳まで紅くした。
『まさか!』
『でも富江さん自身で
『まあ彼の方は!』と智惠子は少し驚いた樣に目を
程なくして二人は此家を出た。
二人が醫院の玄關に入ると、藥局の椅子に
『や、婦人隊の方は少々遲れましたね、昌作さんの一隊は二十分許り前に行きましたよ。』
『
『は。弟は歌留多を取つた事がないてんで弱つてましたが、到頭引つ張られて行きました。まお上がんなさい。こら、清子、清子。』
そして、清子の行く事も快く許された。
『貴君も如何で御座いますか?』と智惠子が言つた。
『ハッハヽヽ、私は駄目ですよ、生れてから未だ歌留多に勝つた事がないんで……だが何です、負傷者でもある樣でしたら救護員として出張しませう。』
清子が着換の間に、靜子は富江の宿を訪ねたが、一人で先に行つたといふ事であつた。
三人の
程近い線路を、
富江の外に、校長の進藤、準訓導の森川、加藤の弟の愼次、農學校を卒業したといふ馬顏の沼田、それに巡囘に來た松山といふ巡査まで上り込んで、大分話が賑つてゐた。其處へ山内も交つた。
女組は一まづ別室に休息した。富江一人は
晩餐の際には、嚴めしい口髭を生やした主人の信之も出た。主人と巡査と校長の間に持上つた
軈て信吾の書齋にしてゐる
『萬歳ツ。』と富江が金切聲で叫んだ。智惠子の札が手際よく拔かれて、第一戰は富江方の勝に歸した。智惠子、信吾、沼田、愼次、清子の顏には白粉が塗られた。信吾の片髭が白くなつたのを指さして、富江は聲の限り笑つた。一同もそれに和した。沼田は片肌を脱ぎ、森川は立襟の洋服の釦を脱して風を入れ乍ら、乾き掛つた白粉で皮膚が
『今度は復讐しませう。』と信吾が言つた。
『ホホヽヽ。』と智惠子は唯笑つた。
『新しく組を分けるんですよ。』と、富江は誰に言ふでもなく言つて、
二度目の合戰が始つて間もなくであつた。靜子の前の「たゞ有明」の札に、
『
何と言つても信吾が一番上手であつた。上の句の頭字を五十音順に列べた其配列法が、最初少からず富江の怨みを買つた。しかし富江も仲々信吾に劣らなかつた。そして組を分ける毎に、信吾と敵になるのを喜んだ。二人の戰ひは隨分目覺ましかつた。
信吾に限らず、男といふ男は、皆富江の
一度、信吾は智惠子の札を拔いたが、汚なかつたと言つて遂に札を送らなかつた。次いで智惠子が信吾のを拔いた。
『イヤ、參りました。』と言つて、信吾は強ひて、一枚貰つた。
其合戰の終りに、信吾と智惠子の前に一枚宛殘つた。昌作は立つて來て覗いてゐたが、氣合を計つて、
『千早ふる――』と叫んだ。それは智惠子の札で、信吾の敗となつた。
『マア此人は!』と、富江はしたゝか昌作の背を平手で
可哀想なは愼次で、四五枚の札も守り切れず、イザとなると可笑しい身振をして
我を忘れる混戰の中でも、流石に心々の色は見える。靜子の目には、兄と清子の間に遠慮が
九時過ぎて濟んだ、茶が出、菓子が出る。殘りなく白粉の塗られた顏を、一同は互ひに笑つた。消さずに歸る事と誰やらが言出したが、智惠子清子靜子の三人は何時の間にか洗つて來た。富江が不平を言ひ出して、三人に更めて附けようと騷いだが、それは信吾が
軈てドヤ〳〵と歸路についた。信吾兄妹も鶴飼橋まで送ると言つて一同と一緒に戸外に出た。雲一つなき天に片割月が傾いて、靜かにシットリとした夜氣が、相應に疲れてゐる各々の頭腦に、水の如く流れ込んだ。
淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光が柔かに
男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭腦は、今までの華やかな明るい室の中の樣と、この夜の村の靜寂の間の關係を、一寸心に見出しかねる……と、眼の前に歌留多の札がちらつく。歌の句が片々に
田の中を
智惠子は甘い悲哀を感じた。若い心はウットリとして、何か
其姿は、何處か、夢を見てゐる人の樣に悄然とした[#「とした」はママ]、髮も亂れた。
先づ平生の心に歸つたのは富江であつた。『ね、沼田さん。あの時そら貴方の前に「むべ山」があつたでせう? あれが私の
『森川さんの憎いつたらありやしない。

と、富江は氣に乘つて語り
信吾は、間隔を
路が下田路に合つて稍廣くなつた。前の方の四五人は、甲高い富江の笑聲を圍んで一團になつた。町歸りの
と、信吾は智惠子と相並んだ。
『
『
『貴女は何でせう、歌留多なんか餘りお好きぢやないでせう?』
『でもないんで御座いますけれど……然し今夜は、
『ハハヽヽ。』と笑つて信吾は杖の尖でコツ〳〵石を
『何ですね。貴女は
『ハ。』と低い聲で答へる。
『何か其方の本を貸して下さいませんか? 今迄つい宗教の事は、調べて見る機會も時間もなかつたんですが、此夏は少し遣つて見ようかと思ふんです。幸ひ貴女の御意見も聞かれるし……。』
『御覽になる樣な本なんぞ……あの、私こそ此夏は、靜子さんにでもお願ひして頂いて、何か拜借して勉強したいと思ひまして……。』
『
『え。まあ其積りで……。』
路は小さい杜に入つて、月光を遮つた青葉が風もなく、
『
『一概には申されませんけれど、嫌ひぢや御座いません。』と落着いた答へをして
立留つて後の二人を待たうかと、一歩毎に思ふのだが、何故かそれも出來なかつた。
『あれはお讀みですか、風葉の「戀ざめ」は?』と信吾はまた問うた。
『あの發賣禁止になつたとか言ふ……?』
『
『私はまだ讀みません。』
『然うでしたか。』と言つて、信吾は未だ何か言はうと唇を動かしかけたが、それを
信吾は心に、何ういふ連想からか、かの「戀ざめ」に描かれてある事實――否あれを書く時の作者の心持、否、あれを讀んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。
五六歩
智惠子は其手を口の邊へ持つて來て輕く故意とらしからぬ咳をした。そして、
信吾は五六歩歩いて、思切り惡さうに立留つた。そして矢張り振返つた。目は、淡く月光を浴びた智惠子の横顏を見てゐる。コツ〳〵と、
清子と靜子は、
『濟まなかつたわね、清子さん、

『否。』と一言答へて清子は寂しく笑つた。
『だつて、お宅ぢや心配してらつしやるわ、屹度。尤も愼次さんも
『靜子さん!』と、稍あつてから力を籠めて言つて、昵と靜子の手を握つた。
『
『え?』
『恁うして! 何處までも、何處までも恁うして歩いて……。』
靜子は譯もなく胸が迫つて、握られた手を強く握り返した。二人は然し互ひに顏を見合さなかつた。何處までも恁うして歩く! 此美しい夢の樣な言葉は華かな歌留多の後の、疲れて
『此
『怎うです。少し早く歩いては?』と信吾が呼んだ。二人は驚いて顏を擧げた。
其夜、人々に別れて智惠子が宿に着いた時はもう十時を過ぎてゐた。
ガタピシする入口の戸を開けると、其處から見通しの臺所の爐邊に、薄暗く
『遲くなりまして、新坊さんももうお
『は、皆寢みました。先生もお泊りかと思つたんですけれど……。』と言ひ乍ら先に立つて智惠子の室に入つて、手早く机の上の洋燈を
お泊りかと思つたといふ言葉が、何故か智惠子の耳に不愉快に響いた。今迄お利代の坐つてゐた所には、長い手紙が擴げたなりに

『何の、先生。』と笑顏を見せて、『面白う御座んしたでせう?』
『え……。』と少し曖昧に濁して、『私疲れちやつたわ。』と
『誰方が一番お上手でした?』
『皆樣お上手よ。私なんか今迄餘り歌留多も取つた事がないもんですから、敗けて許り。』と
成程智惠子は遊戯などに心を打込む樣な性格でないと思つたので、お利代は感心した樣に、『然うでせうねえ!』と大きい眼をパチ〳〵する。
それから二人は、一時間前に
『先生、怎うしたものでせうねえ?』と愁はし氣な、極り惡氣な顏をして話し出した。其手紙はお利代の先夫からである。以前にも一度來た。返事を出さなかつたので又來た。梅といふ子が生れた翌年不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、39-上-10]行方知れずになつてからもう九年になる。其長い間の詫を細々書いて、そして、自分は今凾館の或商會の支店を預る位の身分になつたから、是非共過去の自分の罪を許して、一家を擧げて凾館に來てくれと言つて來たのである。そして、自分の家出の後に二度目の夫のあつた事、それが死んだ事も聞知つてゐる。生れた新坊は矢張り自分の子と思つて育てたいと優しくも言葉を添へた。――
身を入れて其話を聞いてゐた智惠子は、
無理もないと思ひつゝも、智惠子の心には思ひもかけぬ怪しき
誰しも

『で御座いますからね。』お利代は言葉をついだ。『まあ
『然うね。』と云つて、智惠子は睫毛の長い眼を
『然うで御座いますねえ。』とお利代は俯向いて言つた。實は自分も然う思つてゐたので。
『然うなすつた方が可いわ、小母さん。』と智惠子は俯向いたお利代の胸の邊を
『然うで御座いますねえ。』と同じ事を繰返して、稍あつてお利代は思ひ餘つた樣な顏をあげたが、『怎うせ行くとしましても、それやまあ祖母さんが
『それやね、決めるまでにはまあ、間違ひはないでせうけれど、先方の事も詳しく何して見てから……』
『
『おや然うでしたか。』と言つたが、智惠子はそれに就いての自分の感想を成るべく顏に現さぬ樣に努めて、
『兎も角お返事はお上げなすつた方が可いわ。矢張り梅ちやんや新坊さんの爲には……。』と、智惠子はお利代の思つてゐる樣な事を理を分けて説いてみた。説いてるうちに、何か恁う、自分が今善事をしてると云つた樣な氣持がして來た。
『然うで御座いますねえ。』と、お利代は大きい眼を
『私だつて然う思うわ、小母さん、
『先生にしたところで、』と、お利代は智惠子の顏をマヂマヂと
『ホヽヽヽ。』と智惠子は輕く笑つて、『小母さん、私まだ考へても見た事が無くつてよ。自分の結婚なんか。』
話題はそれで
智惠子の心は平生になく
行末怎うなるのか! といふ眞摯な考への横合から、富江の
遂に、あの頃のお友達は今
何日しか七月も下旬になつた。
かの歌留多會の翌日信吾は初めて智惠子の宿を訪ねたのであつた。其時は、イプセンの飜譯一二册に、『イプセン解説』と題して信吾自身が書いた、五六頁許りの評論の載つてゐる雜誌を態々持つて行つて貸して、智惠子からはルナンの耶蘇傳の飜譯を借りた。それを手初めに信吾は五六度も智惠子を訪ねた。
信吾は智惠子に對して殊更に尊敬の態度を


事を調子よく喋る時は、血の多い人のする樣に、大仰に眉を動したり、手を振つたり、自分の言ふ事に自分で先づ感動した樣子をする。『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に眞面目になつて、若々しくなつて、平生考へてる事を皆言つて了ひたくなる。この二三年は何か恁う不安があつて、言はうと思ふこともつい人の前では言へなかつたりする樣になつてゐたんですが……實に不思議です。自分の思想を聞いてくれる人がある、否、それを言ひ得るといふ事が、既に一種の幸福を感じますね。』
と或時信吾は眞面目な口振で言つた。然しそれは、或は次の如く言ふべきであつたかも知れぬ。
『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に芝居を
智惠子の方では、信吾の足繁き訪問に就いて、多少村の人達の
事があつては誠に心外の至りであると智惠子は思つた。それで成るべく
時には、信吾は大袈裟に同感して見せる。歸つた後で考へてみると、男には矢張り智惠子を訪ねた日は、大抵その足で信吾は富江を訪ねる。富江は
暑氣は日一日と
今朝も朝から雲一つ無く、東向の靜子の室の障子が、カッと
ちらと鳥影が其障子に映つた。
『靜さん、其單衣はね……。』と言ひ乍ら信吾が入つて來た。
『兄樣、今日は屹度お客樣よ。』
『何故?』
『何故でも。』と笑顏を作つて、『そうら御覽なさい。』
その時また鮮かな鳥影が障子を横ざまに飛んだ。
『ハハヽヽ。迷信家だね。事によつたら吉野が今日あたり着くかも知れないがね。』
『あら、四五日中にお立ちになるつて昨日の手紙ぢやなかつたの?』
『
『オイ、此衣服は少し短いんだから、長くして呉れ。』
『然う?』と、靜子は解きかけたネルの單衣に
『
『だつて兄樣、さうすれば九寸位になつてよ。可いわ、そんなら八寸にしときませう。』『
『ぢや八寸一分?』
『もつと負けろ、氣に合はないから着ないと言つたら怎うする?』
『それは御勝手。』
『其
風でお嫁に行かれるかい?』『
『うん。』と笑ひ乍ら、手を延ばして、靜子の机の上から名に高き女詩人の『舞姫』を取る。本の小口からは、
『長くお泊りになるんでせう?』
『八月一杯遊んで行く約束なんだがね。飽きれば
『オイ、此本は昌作さんのか?』と頁を
『え。兄樣何か持つてらつしやらなくつて、其方のお書きになつたの。』
『
『あら其方のぢやなくつてよ。其方ンなら私も知つてるわ。……その吉野さんのお書きになつたの?』
『吉野が?』と妹の顏を見て、『彼奴の詩は道樂よ。時々雜誌に匿名で出したのだけさ。本職は矢張洋畫の方だ。』
『然う?』と靜子は鋏の鈴をころ〳〵鳴らし乍ら、『展覽會なんかにお出しなすつて?』
『一度出した。あれは美術學校を卒業した年よ。然うだ、一昨年の秋の展覽會――そうら、お前も行つて見たぢやないか? 三尺許りの幅の、「嵐の前」といふ畫があつたらう?』
『然うでしたらうか?』
『あれだ、夕方の暗くなりかゝつた室の中で、青白い顏をした女が、厭やな眼附をして、眞白い猫を抱いてゐたらう? 卓子の上には擴げた手紙があつて、女の頭へ
『見た樣な氣もするわ。それでなんですの「嵐の前」?』
『然うよ、その畫の意味はあの頃の人に解らなかつたんだ。日本のコロウよ、仲々
『コロウつて何の事?』
『ハッハヽヽ。佛蘭西の有名な畫家だ。』
『然う!』と言ひは言つたが、日本のコロウと云ふ意味は無論靜子に解りつこはない。唯偉い事を言つたのだと思つて、『其
方なら何故其後お出しにならないのでせう?』『然うさ、まあ自重してるんだらう。彼奴が今度描いたら屹度滿都の士女を驚かせる! 俺には近頃いろんな友人が出來たが、吉野君なんか其中でもまあ話せる男だ。』と、暗に自分の偉くなつた事を吹聽する樣な調子で言ふ。
『姉樣、姉樣。』と叫び乍ら、芳子といふ十二三の妹がどたばた驅けて來た。
『何ですねえ、

『でも。』不平相な顏をして、『日向先生が被來たんだもの!』
『おや!』と靜子は兄の顏を見た。先程障子に映つた鳥影を思ひ出したので。
二三日經てば小學校も休暇になる。平生宿直室に寢泊りしてゐる校長の進藤は、もう師範出のうちでも古手の方で、今年は盛岡に開かれた體操と地理歴史教授法の夏期講習會に出席しなければならなかつた。それで、休暇中の宿直は森川が引受ける事になつて、これは土地の者の齋藤といふ年老つた首席教員と智惠子と富江の三人は、それ〴〵村内に受持を定めて、兎角亂れ易い休暇中の兒童の風紀の、校外取締をすることになつた。富江は今年も矢張盛岡の夫の家へは歸らないで。智惠子にも歸るべき家が無かつた。無い譯ではない。兄夫婦は青森にゐるけれど、智惠子にはそれが自分の家の樣な氣がしない。よしや歸つたところで、あたら一月の休暇を不愉快に過して了ふに過ぎぬのだ。同窓の親しい友から、何處かの温泉場にでも共同生活をして樂しい夏を暮さうではないか、と言つて來たのもあるが、宿のお利代の心根を思ふと、別に譯もなくそれが忍びなかつた。結局智惠子は、八月二日に大澤の温泉で開かれる筈の師範時代の同級會に出席する外には、何處にも行かぬことに決めた。
それで智惠子は、誰しも休暇前に一度やる樣に、八月一日に自分の爲すべき事の豫定を立てたものだ。そのうちには色々の事に
今日は折柄の日曜日、讀み了へたのを返して何か別の書を借りようと思つてまだ暑くならぬ午前の八時頃に小川家を訪ねたのだ。
直ぐ歸る筈だつたのが無理に引き留められて、晝餐も御馳走になつた。午後はまた餘り暑いといふので、到頭四時頃になつて、それでも留めるのを漸くに暇乞して出た。田舍の素封家などにはよくある事で、何も珍しい事のない單調な家庭では、腹立しくなるまで無理に客を引き留める、客を
平生の例で靜子が送つて出た。糊も
此處は村での景色を一處に
南岸は崖になつてゐるが、北の岸は低く河原になつて、
二人は
『そうら、
『だつて、昌作さんが那
!』と智惠子も眸を据ゑた。『あら、鮎釣には那

一臺の俥が、今しも町の方から來て橋の上に差懸つたのだ。二人は期せずして其方に向いたが、
『あら!』と靜子は聲を出して驚いて忽ち顏を染めた。女心は矢よりも早く、己が服裝の不行儀なのを恥ぢたので。
近づく俥の音は遠雷の如く二人の足に響いて、吊橋は心持搖れ出した。
洋服姿の俥上の男は、麥藁帽の頭を俯向けて、膝の上に
『お孃樣、お孃樣
『あれがはあ、小川樣のお孃樣でがんす。』と、車上の人に言ふ。顏一杯に流れた汗を小汚い手拭でブルリと拭つた。
智惠子は、自分がその小川家の者でない事を現す樣に、一足後へ
『あ、然うですか。』と、車上の人は鉛筆を持つた手で帽子を
『僕は吉野滿太郎です。小川が――小川君が居ませうか?』と武骨な調子でいふ。
『は。』と靜子は
『然うですか。ぢや手紙が着いたんですね?』と親しげな口を利いたが、些と俯向加減にして立つてゐる智惠子の方を
『失禮しました、俥の上で。……お先に。』と挨拶する。
『私こそ……。』と靜子は
『どつこいしよ。』と許り、元吉は俥を曳出す。二人は其後を見送つて
吉野は、中背の、色の淺黒い、見るから男らしく引緊つた顏で、力ある聲は底に錆を有つた。すぐ目に附くのは、眉と眉の間に深く刻まれた一本の皺で烈しい氣象の輝く眼は、美術家に特有の何か不安らしい働きをする。
俥が橋を渡り盡すと、路は少し低くなつて、繁つた
『私、


『

『貴女の
其れはほんの、うつかりして言つたのだが、智惠子の眼は實際羨ましさうであつた。
『あら、だから貴女も毎日
『有難う。』と言つて、『私もうお別れするわ。何卒皆樣に宜しく!』
『一寸。』とその袂を捉へて、『
『だつて。

『構はないぢやありませんか、智惠子さん。家へ
『この次に。』と智惠子は
『あら、私のお客樣ぢやなくつてよ。』と、靜子は少し顏を染めた。心では、吉野が來た爲に急いで歸つたと思はれるのが厭だつたので。
それで、智惠子が袂を分つて橋を南へ渡り切るまでも、靜子は
智惠子は考へ深い眼を足の爪先に落して、歸路を急いだが、其心にあるのは、例の樣に、今日一日を
で、家に入るや否や、お利代に泣き附いて何か
『新坊さん、新坊さん、新坊さん、
新坊は、常にない智惠子の此擧動に
つた。靜子の縁談は、最初、隨分性急に申込んで來て、兎に角も信吾が歸つてからと返事して置いたのが、既に一月、怎うしたのか其儘になつて、何の音沙汰もない、自然、家でも忘られた樣な形勢になつてゐた。
結句それが、靜子にとつては都合がよかつた。母のお柳が、別に何處が惡いでなくて、兎角優れぬ勝の、口小言のみ
一體この家庭には妙な空氣が籠つてゐる。隱居の
それに父の信之は、村方の


畫家の吉野滿太郎が來たのは、又しても靜子に一つの張合を増した。吉野の、何處か無愛相な、それでゐてソツのない態度は、先づ家中の人に喜ばれた。左程長くはないが、信吾とは隨分親密な間柄で(尤も吉野は信吾を寧ろ弟の樣に思つてるので)この春は一緒に畿内の方へ旅もした。今度はまた信吾の勸めで一夏を友の家に過す積りの、定つた職業とてもない、
言ふまでもなく信吾は、この遠來の友を迎へて喜んだ。それで取敢へず
それ許りではない、靜子にはも一つ吉野に對して好感情を持つべき理由があつた。初めて逢つた時それは氣が附いたので。吉野は
生憎と、吉野の來た翌日から、雨が續いた。それで、客も來ず、出懸ける譯にもいかず、二日目三日目となつては吉野も大分退屈をしたが、お蔭で小川の家庭の樣子などが解つた。昌作も鮎釣にも出られず、日に幾度となく吉野の室を見舞つて色々な話を聞いたが、畫の事と限らず、詩の話、歌の話、昌作の平生飢ゑてる樣な話が多いので、もう早速吉野に敬服して了つた。
降りこめた雨が三十一日(七月)の朝になつて漸く
雨後の葉月空が心地よく晴れ渡つて、目を埋むる
小川の家では折角下男に送らせようと言つて呉れたのを斷つて、教へられた儘の線路傳ひ、手には
男神の如き岩手山と、名も姿も優しき姫神山に挾まれて、空には塵一筋浮べず、溢るゝ許りの夏の光を漂はせて北上川の上流に跨つた自然の若々しさは、旅慣れた身ながらも、吉野の眼には新しかつた。その色彩の單純なだけに、心は何となき輕快を覺え、唆かす樣な草葉の香りを胸深く吸つては、常になき健康を感じた。日頃、彼の頭腦を支配してゐる種々の形象と種々の色彩の
眩い許りの戸外の明るさに慣れた眼には、人一人居ない此室の暗さは土窟にでも入つた樣で、暫しは何物も見えず、ぐら〳〵と
『向側からお乘りなさい。』
と教へ乍ら背の低い驛夫が鋏を入れる。チラと其時、向側のプラットホームに
智惠子の方でも其時は氣が附いて居たが、三四日前に橋の上で逢つた限り、名も知り顏も知れど、口一つ利いたではなし、さればと言つて、乘客と言つては自分と其男と唯二人、隱るべき樣もないので、素知らぬ振も爲難い。夏中逗留するといへば、怎うせ又顏を合せなければならぬのだ。
それで、吉野が線路を横切つて來るのを待つて、少し顏を染め乍ら輕くS卷の頭を下げて會釋した。
『や、意外な處でお目に懸ります。』と餘り偶然な邂逅を吉野も少し驚いたらしい。
『先日は失禮致しました。』
『怎うしまして、私こそ……。』と、
みながら、『フム、小川の所謂そして、體を捻つて智惠子に向ひ合つて、『後で靜子さんから承つたんですが、貴女は日向さんと
『は、左樣で御座います。』
『何れお目に懸る機會も有るだらうと思つてましたが、僕は吉野と申します。小川に居候に參つたんで。』
『お噂は、豫て靜子さんから承つて居りました。』
『來たよう。』と驛夫が向側で叫んだので、二人共目を轉じて線路の末を眺めると、遠く機關車の前部が見えて、何やらキラ〳〵と日に光る。
『今日は
『盛岡までゝ御座います。』
『成程、學校は明日から休暇なさうですね。何ですか、お家は盛岡で?』
『
『然うですか。それはお樂しみで御座いませう。』と鷹揚に微笑を浮べた。
『貴方は
『矢張りその盛岡までゝす。』
吉野は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、52-上-10]、自分が
列車が着くと、これは青森上野間の直行なので車内は大分込んでゐる。二人の外には乘る者も、降りる者もない。漸くの事で、最後の三等車に少しの空席を見附けて乘込むと、その扉を閉め乍ら車掌が
吉野は窓際へ、直ぐ隣つて智惠子が腰を掛けたが、少し體を動かしても互いの體温を感ずる位窮屈だ。女は、何がなしに自分の行動――紹介もなしに男と話をした事――が、はしたない樣な、否、はしたなく見られた樣な氣がして、「だつて、

北上山系の連山が、姫神山を中心にして、左右に袖を擴げた樣に東の空に連つた。車窓の前を野が走り木立が走る。時々、夥しい草葉の
程なく列車が轟と音を立てゝ松川の鐵橋に差かゝると、窓外を眺めて默つてゐた吉野は、『あ、あれが小川の家ですね。』
と言つて窓から首を出した。線路から一町程離れて、大きい茅葺の家、その周圍に四五軒農家のある――それが川崎の小川家なのだ。
首を出した吉野は、直ぐと振返つて、
『小川の
『あら。』と言つて、智惠子も立つたが、怎う思つてか、外から見られぬ樣に、男の後ろに身を隱して、そつと覗いて見た。
靜子は妹共と一緒に田の中の
帽子を振つてゐた吉野が、再び腰を掛けた時は、智惠子は耳の根まで紅くして極り惡る氣に俯向いてゐた。靜子の行動が、偶然か、はた心あつて見送つたものか、はた又吉野と申合せての事か、それは解らないが、何れにしても智惠子の心には、萬一自分が男と一緒に乘つてゐる事を、友に見られはしないかといふ心配が、強く動悸を打つた。吉野はその、極り惡る氣な樣子を見て、『小川の所謂
その實男も、先刻汽車に乘つた時から、妙に此女と體を密接してゐることに壓迫を感じてゐるので、それを

『貴女は、何日お歸りになります?』と何氣なく口を切つた。
『三日に、あの歸らうと思つてます。』
『然うですか。』
『貴方は?』
『僕は何日でも可いんですが、矢張り三日頃になるかも知れません。』と言つたが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、53-下-6]思ひついた事がある樣に、
『貴女は盛岡の中學に※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、53-下-7]畫の教師をしてる男を御存じありませんか? 渡邊金之助といふ?』
『存じて居ります。』と、智惠子は驚いた樣な顏をする。
『
『然うです。美術學校で同級だつたんですが、……あゝ御存知ですか! 然うですか!』と

『え、まだ
つた眼を男に注いで、『貴方はあの、渡邊さんへ『え、突然訪ねて見ようと思ふんですがね。』と、少し腑に落ちぬ樣な目附をする。
『まあ、左樣で御座いますか!』と一層驚いて、『私もあの、
『妹樣と? 然うですか! これは不思議だ!』と吉野も流石に驚いた。
『あの、久子さんと
『然うですか! ぢや何ですね、貴女と僕と同じ家に行くんで! これは驚いた。』
『マア
宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣に出懸けた。
休暇になつてからの學校ほど
懶いチクタクの音を響かせてゐる柱時計の下で、富江は森川の歸りを待つ間の退屈に額に汗をかきながら編物をしてゐた。暑い盛りの午後二時過、開け放した窓から時々戸外を眺めるが、烈々たる夏の日は目も痛む程で、うなだれた木の葉にそよとの風もなく、大人は山に、子供らは皆川に行つた頃だから、四邊が妙に靜まり返つてゐる。其處へブラリと昌作が、遣つて來た。
『暑いでせう外は。
それに慣れて了つて、昌作も挨拶するでもなく、『暑い暑い』と帽子も冠らずに來た髮のモヂャ〳〵した頭に手を遣つて、荒い白絣の袖を肩に
『森川君は?』
『鮎釣に行つたの。釣れもしないくせに。』
『すると何だな、貴女が留守役を仰附かつてゐたんだな。ハハヽヽ好い氣味だ。』
『口の惡い! 何が好い氣味なもんですか。

『フム。』と昌作は妙に濟し込んで、『御勝手に。』
『まあ口許りぢやない人が惡くなつたよ、子供の癖に!』と言ひながら、手を延ばして呼鈴の綱を引いて、
『然う〳〵、一昨日は御馳走樣。お客樣はまだ歸つてらつしやらないの?』
『あーい。』と彼方で眠さうな聲。
『まだ。今日か明日歸るさうだ。吉野
『生憎と日向樣もまだ歸らないの。』と富江は
『そら、到頭買うんだ。』と昌作はしたり顏。
『私が喰べるのですよ、誰が昌作さんなんかに上げるもんですか。』と
『よ、昌作さん、ハイカラの智惠子さんもまだ歸らないの。』
『フム。』
『何がフムですか。昌作さんの歌を大變賞めてるから、行つて御禮を
『フム。家の信吾ぢやないし。』
『え? 信吾さんが?』
『知らない。』
『信吾さんが行くの? マア好い事聞いた。ホホヽヽヽヽ、マア好い事聞いた。』
と、富江は
『マア好い事聞いた、信吾さんが智惠子さんの
昌作は冷かに其顏を眺めてゐたが、
『可けない〳〵。

『あら、
『だつて、詰らないぢやないですか。』
『詰らない? 言ひますよ私。』
『詰らない! 第一吉野さんの前で其
事が言へますか? 豪い人だ。信吾の友達には全く惜しい人だ。』『まあ、大層見識が高くなつたのね?』
すると昌作は、忽ち不快な顏をして默つた。
『其
に豪いの、その方は?』『時にですな、』と昌作は附かぬ事を言ひ出した。『今日は貴女に用を頼まれて來たんだ。』
『オヤ、誰方から?』
其時小使が駄菓子の袋を恭しく持つて入つて來た。
『當てゝ御覽なさい。』と昌作はしたり顏に
其顏を、富江はマジ〳〵と見てゐたが、小使の出てゆくのを待つて、
『信吾さんから?』
ピクリと昌作の眉が動いた。そして眼鏡の中で急しく瞬きをし乍ら顏を大きく横に振る。
『そんなら、誰方?』
『無論、貴女の知つた人からだ。』と小憎らしく濟したものだ。
『
『よ、
『ハッハハ、解りませんか?』と、何處までも高く踏んで出る。
『好いわ、もう聞かなくつても。』
『それぢや俺が困る。實はですね。』
『知りません。』
『登記所の山内君からだ。以前貴女から「戀愛詩評釋」といふ書を借りたことがあるさうだ。それを又讀みたいから俺に借りて來て呉れと言ふんですがね。』
『オヤ、何故御自分で
『だつて寢てるんだもの。』
『ぢやもう、床に就いたの?』と低めに言つて、
『一昨日俺と鮎釣に行つて、夕立に會つたんですよ。それで以て山内は弱いから風邪を引いたんだ。』
『あら昌作さん、山内さんは肺病だつたんぢや有りませんか?』
『肺病?』と正直に驚いた顏をしたが『嘘だ!』
『嘘なもんですか。

『肺病だと?』
『え。』と氣がさした樣に聲を落して、『だけど私が言つたなんか言つちや厭よ。よ、昌作さん貴方も
『莫迦な! 山内は

『馬の樣な咳を。ホホヽヽ。』と富江は笑つて、『誰がまた、那
一寸法師さんを一人前の人そして取つて附けた樣にホホヽヽと又笑つた。
『だから
『
昌作は聞かぬ振をして、『英吉利の詩人にポープといふ人が有つた。その詩人は、
『大層力んで見せるのね。だけれど山内樣は別に大詩人でもないぢやありませんか?』
『それは別問題だ。……』と正直に塞つて、『それは然うと、今言つた書を貸して下さい。』
『家に置いてあるの。』
『小使を遣つて取寄せて呉れるさ。』と頼む樣な調子で。
『肺病患者なんかに!』獨言つ樣に言つて、『あのね、昌作さん。』と可笑しさを
『え? 何ですつて?』と昌作は眞面目に腑に落ちぬ顏をする。
『ホホヽヽヽ。』と、富江は一人高笑ひをした。そして『
一時間程經つて、昌作は、來た時の樣にブラリと、帽子も冠らず、單衣の兩袖を肩に捲くり上げて、長い體を妙に氣取つて、學校の門を出た。
そして川崎道の曲角まで來た時、二三町彼方から、深張りの
三日前に畫家の吉野と同じ汽車に乘合せて、大澤温泉に開かれた同級會へ行つた智惠子は、今しも唯一人、町の入口まで歸つて來た。
小川家の
その土産らしい西洋菓子の凾を開き茶を
『だからね。』と吉野は其友渡邊の噂を續けた。
『僕は中學の畫の教師なんかやるのが抑も愚だと言つて
具合で到頭埋もれて了ふのを。平凡の悲劇とでも言ふかな……。』『だつて君。』と信吾は委細呑込んだと言つた樣な顏をして、『其人にだつて家庭の事情てな事が有らあな。一年や二年中學の教師をした所で、畫才が全然滅びるつて事も無からうさ。』
『それがよ、家庭の事情なんて事がてんで
『ハハヽヽ。君にも似合はんことを言ふぢやないか。』とゴロリ横になる。
其處へ、庭に勢ひのいゝ下駄の音がして、昌作が植込の中からヒョックリと出て來た。今しも町から歸つて來たので。
『やあ、お歸りになりましたな。』と吉野に聲をかける。
『否、も少し先に。今日も貴方は鮎釣でしたか?』
『
『え?』と靜子が聞耳を立てる。
『然う、然う。』と、吉野は今迄忘れてゐたと言つた樣に言つて、靜子の方に向いた。『それ、
『あら智惠子さんと。然うでしたか! よくお解りになりましたね。』と
『
『オヤ然うでしたの!』
『然うかい!』と信吾も驚いて、『それは奇遇だつたな。實に不思議だ。』
『別段奇遇でも無からうがね。唯逢つただけよ。』と、吉野は顏にかゝる煙草の煙に
『昌作さんは何ですか、日向さんと逢つて來たの?』と信吾が横になつた儘で問うた。
『
『よつぽど遠くからね? ハヽヽ。』
昌作はムッとした顏をして、返事はせずに、吉野の顏色を覗つた。
然うしてる所へ、母屋の方には賑かな女の話聲。下女が前掛で手を拭きながらバタ〳〵驅けて來て
『若旦那樣、お孃樣、板垣樣の叔母樣が盛岡からお
『アラ今日
『父の妹が
と信吾も立つた。昌作は何時の間にか居ない。
吉野は眉間の皺を殊更深くして、ぢつと植込の邊に瞳を据ゑてゐた。
智惠子は渡邊の家に一泊して、渡邊の妹の久子といふのと翌一日大澤の温泉に着いたのであつた。その夕方までには、二十幾名の級友大方臨溪館といふ温泉宿の二階に、縣下の各地方から集つた。
兎角女といふものは、學校にゐる時は如何に親しくしても、一度別れて了へば心ならずも
各々の任地の事情が、また、事細かに話し交された。語るべき友の乏しいという事、頭腦の舊い校長の惡口、同じ師範出の男教員が案外不眞面目な事、師範出以外の女教員の劣等な事、これらは大體に於て各々の意見が一致した。中に一人、智惠子の村の加藤醫師と遠縁の親戚だといふのがあつた。その女から、智惠子は清子に宛てた一封の手紙を托された。
その手紙を屆けるべく、智惠子は澁民に歸つた翌日の午前、何氣なく加藤醫院を訪れたのであつた。
玄關には、腰掛けたのや、上り込んだのや、薄汚ない扮裝をした通ひの患者が八九人、詰らな相な顏をして、
『奧樣は?』
『ハイ。』と答へて、藥局生は匙を持つた儘中に入つてゆく。居並ぶ人々は狼狽へた樣に居住ひを直した。
今朝髮を洗つたと見えて、智惠子は房々とした長い髮を、束ねもせず、緑の雲を被いだ樣に、肩から背に豐かになびかせた。白地に濃い葡萄色の矢絣の新しいセルの單衣に、帶は平常のメリンス、そのきちんとしたお太鼓が搖めく髮に隱れた。
少し手間取つて、
『まあ日向先生、何日お歸りになりましたの? さ
『は有難う。昨日夕方に歸りました許りで。』
『お樂みでしたわねえ。さ何卒お上り下さいまし、……あの小川さんのお客樣も
『は?』と智惠子は、脱ぎかけた下駄を止めた。
『吉野さんとか被仰る、畫をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰つてで御座いますよ。』
『あの、吉野さんが?』
『え。宅が小川さんで二三度お目にかゝりました相で、……昌作さんとお二人。ま
『は有難う。あのう……』と言ひ乍ら智惠子は懷から例の手紙を取出して、手短に其由來を語つて清子に渡した。
『ま然うでしたか。それは怎うも。……それは然うと、さ、さ。』と。手を引く許りにする。
『あの一寸學校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』
『あら、日向樣、其
貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、『
智惠子は逃げる樣にして戸外に出た、と、忽ち顏が火の樣に熱つて、恐ろしく動悸がしてるのに氣がついた。
加藤の玄關を出た智惠子は、無意識に足が學校の方へ向つた。莫迦に胸騷ぎがする。
「何故

「何故那
に
に理由は無い。
智惠子は一歩毎に顏が益々上氣して來る樣に感じた。何がなしに、吉野と昌作が後ろから急ぎ足で追驅けて來る樣な氣がする。それが、一歩々々に近づいて來る……
其
事は無い、と自分で取留めもなく氣がそはついてるうちに歩くともなくもう學校の門だ。つと入つた。
職員室の窓が開いて、細い竿釣が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シャツ一枚になつて、一生懸命釣道具を
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、62-上-3]顏を上げると、
『オヤ、日向さん、何時お歸りになりました?』
『は、あの、昨日夕方に。』と、外に立つて頭を下げる。洗ひ髮がさらりと肩から胸へ落つる。智惠子は、うるさい樣にそれを手で後ろにやつた。
『面白かつたでせう? さ、まあお上りなさい。』
『
『
『は有難う御座います。一寸あの、一寸、後ろの山へ行つて見ますから。』
『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハヽヽ。ま可いでせう?』
『は、何れ明日でも。』と行掛ける。
『あ、日向樣、
『何で御座いますか?』
『
『何で御座いますか、私に出來る事なら……。』と智惠子は何時になく
『出來る事ですとも。』また笑つて、『その何ですよ、
『は、
『然うですか。ぢやお願ひ致しますよ、濟みませんが。』
『何日でも……。』と言つて智惠子は、足早に裏の方に
つた。裏は直ぐ雜木の山になつて、下暗い木立の奧がこんもりと仰がれる。校舍の屋根に
便所の後ろになつてゐる上り口から、智惠子はスタスタと坂を登つた。
木立の中から、心地よく濕つた風が顏へ吹く。と、そのこんもりした奧から樂しさうな
聲は
智惠子は躍る樣な心地になつて、つと青葉の下蔭に潜り込んだ。
やゝ急な西向の傾斜、幾年の落葉の朽ちた土に下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、處々、
唆かす樣な青葉の香が、頬を撫で、髮に戲れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。
『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隱れた晝杜鵑が啼く。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な、若い胸の底から漂ひ出る樣な聲だ。その聲が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何處ともなき青葉の
と、少し隔つた彼方から、『ククヽヽクウ』と同じ聲が起る。
『ククヽヽクウ。ククヽヽクウ。』と、後の方からも。
『漂へる
聲の
故もなく胸が騷いでゐる。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な……宛ら葉隱れの鳥の聲の、何か定めなき思ひが、總身の脈を亂してゐる。
『ククヽヽクウ』と鳥の聲。
「私ほど辛い悲いものはない!」
恁う譯のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。たゞ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。
「吉野さんが町に、加藤の家に來てゐる。」智惠子に解つてるのは之だけだ。
初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の容子は、今猶明かに心に殘つてゐる。然し言葉を交したでもない。友の靜子は耳の根迄紅くなつてゐた。その靜子は又、自分とあの人が端なくも汽車に乘合せて盛岡に行く時、田圃に出て手巾を振つた。靜子の底の底の心が、何故か自分に解つた樣な氣がする。
『何故あの時、私はあの人の後ろに隱れたらう?』恁う智惠子は自分に問うて見る。我知らず顏が紅くなる。
其晩、同じく久子の家に泊つた。久子兄妹とあの人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の夜の風を、四人は甚
に嬉しんだらう! 久子の兄とあの人との會話が、解らぬ乍らに甚
に面白かつたらう!『君は天才なんだ。』恁う久子の兄が幾度か眞摯に言つた。何かの話の時、『矢張り女といふものは全く放たれる事が出來ん。男は結局一人ぽつちよ、死ぬまで。』とあの人が言つた!
翌日久子と大澤に行つて、昨日午前再び下小路なる久子の家まで歸つた。
『日向樣は何日お歸りになります!』恁うあの人が言つた。
『明日になさいな、ねえ!』と久子が側から言つた。
『吉野さんも然う遊ばせな
『
遂に同じ汽車で歸つて、再會を約して好摩が原で別れた。
『それだけだ。』と智惠子は言つて見た。何が(それだけ)なのか解らぬ。(それだけ)が何れだけなのか解らぬ。
解つてるのは、その吉野が今昌作と二人加藤の家にゐる事だけだ。或はもう、加藤の家を出たかも知れぬ。出て而して、何處へ? 何處へ?
『ククヽヽクウ。』といふ聲は
きつと其下の方を見て居たが、何を思つてか、智惠子は忙しく其急な坂を下り始めた。
ダラ〳〵と急な杉木立の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下り盡すと、其處は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奧に小さな
重い柄杓に水を溢れさせて、口移しに飮まうとすると、サラリと髮が落つる。髮を被いた顏が水に映つた。先刻から
智惠子は二口許り飮んだ。齒がキリ〳〵する位で、心地よい冷さが腹の底までも沁み渡つた。と、顏の熱るのが一層感じられる。『怎うして青く見えたか知ら!』と考え乍ら、裏畑の
『
『
『然う?』と手を遣つて見て、『學校の後ろの山を歩いて見ましたの。』
『お一人で!』
『否、子供達と。』と、うつかり言つたが、智惠子は妙に氣が引けた。
『先生、俺も行きたいなア。』と梅ちやんが甘える。
『俺も、俺も。』と新坊は氣早に立ち上つて
『ホホヽヽ。もう行つて來たの。この次にね。』と言ひ乍ら、智惠子は己が室に入つた。
「來なかつた!」と思ふと、ホッと安心した樣な氣持だ。と又、今にも來るかといふ新しい心配が起る。戸外を通る人の跫音が、忙しく心を亂す。戸口の溝の橋板が鳴る度、押へきれぬ程動悸がする。
「
『
『
『然う? ぢや
『
『怎うもしないんですけど、何だかホカ〳〵するわ。目の底に熱がある樣で……。』
『暑いところを山へなんか
に蒸しますか!』何がなしに氣が急いて、智惠子はさつさと箸を捨てた。何をするでもなく、氣がそは〳〵して、妙な暗さが心に湧いて來る。「怎うもしないのに!」自分に辯疏して見る傍から、「屹度加藤さんで
「世の中が詰らない!」と言つた樣な失望が、漠然と胸に湧く。自省の念も起る。氣を紛らさうと思つて二人の子供を呼んだ。智惠子の拵へてくれた浴衣をだらしなく着た梅ちやんと、裸體に腹掛をあてた新坊が喜んで來た。
『何か話をして上げませう? 新坊さんは桃太郎が好き?』
『
『先生、山さ連れてつて。』と梅ちやんも甘えかゝる。
『ホホヽヽ、何方も山へ行きたいの? 山はこの次にね……。』
と言つてる所へ、入口に人の訪るゝ
胸を轟かして待つた其人では無くて訪ねて來たのは信吾であつた。智惠子は何がなしにバツが惡く思つた。
信吾は常に變らぬ容子乍らも、何處か落着ぬ樣で、室に入ると不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、66-下-11]氣がさした樣に見
して坐つたが、今まで客のあつたとも見えぬ。『吉野君が來なかつたですか?』
『
『來ない? 然うですか、何處へ行つたかなア。はてナ、』と、信吾は是非逢はねばならぬ用でもある樣に考へる。
『あの、お一人でお出懸けになつたんで御座いますか?』
『昌作と二人です、今朝出たつ
何故此家に居ると思つたか、此家に來ると其人が言つて出たのか、又、若し眞に用があるのなら、午前中確かに居た筈の加藤へ行つて聞けば可い。言ひ方は樣々あつたが、智惠子は膝に目を落して、唯『否。』と許り。
『はてナ。』と、信吾はまた大袈裟に考へ込む
『
『
『
『然うぢやないんですが、唯、多分然うかと思つたんで。』
『
『ハッハハ。』と、男は突然大きく笑つた。『違ひましたね。それぢや何處へ行つたかなア!』
智惠子は默つて了つた。
『盛岡でお逢ひになつたんですつてね、吉野に?』
『え。渡邊さんといふお友達の家に參りましたが、その方の兄さんとお親しい方だとかで……あの、些とお目に懸つたんで御座います。』
「巧く言つてやがらア、畜生奴!」と心の中。『甚
男です、貴女の見る所では?』智惠子は不快を感じて來た。『奈何ツて、別に……。』
『僕はあゝした男が
『然うで御座いますか。』と言つた
話は遂にはずまなかつた。智惠子には若しや恁うしてる所へ其人が來はせぬかといふ心配がある。そして、其人に關する事を言ひ出されるのが、何がなしに侮辱されてる樣な氣がする。信吾は信吾で、妙に皮肉な考へ許り頭に浮んだ。
それでも、四十分許り向ひ合つてゐて不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、68-上-1]氣が附いた樣にして信吾はその家を辭した。
『畜生奴!』恁う先づ心に叫んだ。
元が用があつて探しに來たのでも無いのだから、その儘家路を急いだ。母は二三日前からまた枕に就いた。父は留守。其處へ
も一つには、その二人が自分の紹介も待たずして知己になつたのが、譯もなく不愉快なのだ。隱して置いた物を他人に勝手に見られた樣な感じが、信吾の心を
『今日は奈何して、あゝ冷淡だつたらう?』と、智惠子の事を考へ乍ら、信吾は強く杖を揮つて、路傍の草を
叔母一行が來て家中が賑つてる所へ夕方から村の有志が三四人、門前寺の
朝から昌作の案内で町に出た吉野の歸つた時は、先に歸つた信吾が素知らぬ顏をして、客の誰彼と東京談をしてゐた。無理強ひの盃四つ五つ、それが
其縁側には、叔母の子供等や妹達を對手に、靜子が何やら低く唱歌を歌つてゐた。
『あゝ、
『御迷惑で御座いましたわね。お苦しいんですか

『飮みつけないもんですからね。然し氣持よく醉ひましたよ。』と言ひ乍ら、吉野は庭下駄を穿いた。其實、顏がぽつぽつと
『夜風に當ると
『え、
『靜や、靜や。』と母屋の方からお柳の聲がした。
吉野はブラリ〳〵と庭を拔けて、
轟然たる物の響の中、頭を壓する幾層の大厦に挾まれた東京の大路を、
吉野は、今日町に行つて加藤で御馳走になつた事までも、既う五六日も十日も前の事の樣に思はれた。自分が餘程
いつしか高畠の杜を過ぎて、鶴飼橋の支柱が夜目にそれと見える樣になつた。急に高まつた川瀬の音が、靜かな、そして平かな心の底に、妙にしんみりした響きを傳へる。
と、その川瀬の音に交つて、子供らの騷ぐ聲が聞え出した。
橋の袂まで來た。不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、70-上-2]子供らの聲に縺れて、低い歌が耳に入る。
『……かーみはーあーいーなり。』
仄白い人の姿が、朧氣に橋の上に立つてゐる。
橋の上の仄白い人影、それは智惠子であつた。
信吾の歸つた後の智惠子は、妙に
『
『否!』と強く自ら答へて見た。自分は假にも



日が暮れると、近所の女小供が螢狩に誘ひに來た。案外氣輕に智惠子はそれに應じて宿の二人の子供をも伴れて出た。出る時、加藤の玄關が目に浮んだ。其處には數々の履物に交つて赤革の夏靴が一足脱いであつた。小川のお客樣も來てゐると清子の言つたその時、智惠子は、あ、これだ! と其靴に目を留めたつけ!
村で螢の名所は二つ、
『彼方には男生徒が澤山行つてるから、お前達には取れませんよ。』
夏の夜、この橋の上に立つて、
低くなつた北岸の川原にも、
女兒等は直ぐ川原に下りて、キャッ〳〵と騷ぎ乍ら流れる螢を追つてゐる。智惠子は何がなしに、唯何がなしに橋の上にゐたかつた。

今日一日の種々な心持と違つた、或る別な心持が、新しく智惠子の心を領した。そこはかとなき若き悲哀――手頼りなさが、消えみ明るみする螢の光と共に胸に往來して、
幸福とは何か?

『……やーみ路をー、てーらせりー、かーみはーあーいーなりー。』
「愛」といふ語が何がなく懷しかつた。そして又繰り返した。『……あーいーなり……。』
下駄の音が橋に傳はつた。智惠子は鋭敏にそれを感じて、つと振返つた。が、待構へてでも居た樣に、不思議に動悸もしない。其人とは蟲が知らしたのだが……。
『日向樣ぢやありませんか?』恁う言つて、吉野は近づいて來た。
『まア、貴方で御座いましたか! 昨日は失禮致しました。』
『僕こそ。』と言ひながら、男は少し離れて鋼線の欄干に靠れた。『意外な所で又お目にかゝりましたね。
『
『え。少し酒を飮まされたもんですから、
『えゝ。』
不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、72-上-8]話が斷れた。橋の下の川原には女兒等が夢中になつて螢を追つてゐる。
智惠子は胸を欄干に推當てた故か、幽かに心臟の鼓動が耳に響く。其間にも崖の木の葉が、光り又消える。
『貴女は、時々
『否。……滅多に夜は出ませんですけれど。……今日は餘り暑かつたもんで御座いますから!』
『あゝ
話はまた斷れた。
『隨分澤山な螢で御座いますねえ!』と、今度は智惠子が言つた。
『えゝ、東京ぢや
『
『あ、貴女は以前東京に
『え。』
『餘程以前ですか?』
『六七年前までで御座います。』
『
二人は又
若しも智惠子が、渠の嘗て逢つた樣な近づき易い世の常の女であつたなら、渠は直ぐに強い輕侮の念を誘ひ起して自ら此不安から脱れたかも知れぬ。然し眼前の智惠子は渠の目には餘りに清く餘りに美しく、そして、信吾の所謂、
と、飛び交ふ螢の、その一つが、スイと二人の間を流れて、宙に舞ふかと見ると、智惠子の肩を辷つて髮に留つた。パッと青く光る。
『あ、』と吉野は我知らず聲を立てた。智惠子は顏を向ける。其拍子に螢は飛んだ。
『今螢が留つたんです、貴女の髮に。』
『まア!』と言つて、智惠子は暗ながら颯と顏を染めた。今まで男に
で、二人の目は期せずして其一疋の螢の後を追うた。フラ〳〵と頭の上に漂うて、風を喰つた樣に逆まに川原に逃げる。
『あれ、先生の方から!』と、子供の一人が其螢を見附けたらしく、下から叫んだ。
『あれ! あれ!』
『先生! 先生!』と女兒等は騷ぐ、螢はツイと
『先生! 下へ來て取つて
『今行きますよ。』と智惠子は答へた。下からは口を揃へて同じ事を言ふ。
『行つて見ませう!』
『は、參りませう。』
『御迷惑ぢやないんですか
『
晝は足を
『その
『大都會の
『は!』
『夢を見る暇も無い都會の烈しい戰爭の中で、
『結局の所、何方が個人の生存――少くとも僕一個人の生存に幸福であるか解らない!』と聲を落した。
智惠子は
『貴女は寂しい――孤獨だと思ふことがありますか?』
と、突然吉野が問うた。
『御座います!』と、智惠子は低く力を籠めて言つて、男の横顏を仰いだ。
『貴女は親兄弟にも友人にも言へない樣な心の聲を何に發表されるんです? 歌にですか、涙にですか?』
『神樣に……。』
『神樣に!』と、男は鸚鵡返しに叫んだ。『神樣に! 然うですねえ、貴女には神があるんですねえ!』
『僕にはそれが無い! 以前にはそれを色彩と形に現せると思つてゐたんですが、又、實際幾分づゝ現してゐたんですが、それがもう出來なくなつた。』と言ひ乍ら、吉野は無雜作に下駄を脱ぎ裾を
『モウパッサンといふ小説家は自己の告白に堪へかねて死んだと言ひますがねえ……アヽ氣持が好い、
『は。』と言つて智惠子は
『まア、
吉野は膝頭の隱れる邊まで入つて行く。二人は暫し言葉が斷れた。螢が飛ぶ。子供らも二人の態を見て、我先にと裾を捲つて水に入つた。
相對した彼岸の崖には、數知れぬ螢がパーッと光る。川の面が一面に燐でも燃える樣に輝く。
『あれッ!』『あれッ、新坊さんが!』と
『大丈夫!』唯一言、手早く尻をからげてザブ〳〵と流れる子供の後を追ふ。子供は刻々中流へ出る、間隔は三間許りもあらう。水は吉野の足に
川底の石は滑かに、流れは迅い。岸の智惠子が俄かの驚きに
螢の光と星の影、處々に波頭の蒼白く飜へる間を、新坊はツブ〳〵と流れて行く。
グイと手を延ばすと、小さい足が
『大丈夫!』と吉野は聲高く呼んだ。
『
『捉つた!』
吉野は、濡れに濡れて
『何したべ? 誰が死んだがナ?』
『
『新坊さん、新坊さん!』と、智惠子は慌てゝ子供に手を添へて、『まア
『大丈夫ですよ!』と吉野は落着いた聲で言つて、子供の兩足を持つて逆樣に、小さい體を手荒く二三度振ると、吐出した水が吉野の足に掛つた。
『瀬が
と、農夫は提灯を
と、吉野は手早く新坊の濡れた着衣を脱がせて、砂の上に仰向に
可憐な小さい體を、提灯の火が薄く照らした。
智惠子は、シッカリと吉野の脱ぎ捨てた下駄を持つた手を、胸の上に組んで、口の中で何か祈祷をしながら、熱心に男のする態を見て居た。
大きい螢が一疋、スイと子供の顏を掠めて飛んだ。
『畜生!』
『ワア――』と、眠りから覺めた樣な鈍い泣聲が新坊の口から洩れた。
『新坊さん!』と、智惠子は驚喜の聲を揚げて、矢庭に砂の上の子供に抱着いた。
『生きた! 生きた!』と女兒等も急に騷ぐ。
新坊の泣き聲も高くなつた。眼も開いた。
『死んだんぢやないんだよ、初めつから。』と、吉野もホッと安心した樣な顏を上げて、笑ひながら女兒等を見
はした。『はア、大丈夫だ。』と農夫も安心顏。
『何とはア、此處ア瀬が迅えだで、子供等にや
『わア――』と新坊はまた泣く。
『その着物を絞つて下さい、日向
『私抱きませう。』と智惠子が言つた。
『構ひません。冷くて氣持が好いですよ。さ、もう泣かなくて可い、好い兒だ! 好い兒だ!……イヤ、
『そンだ、其方が
『濟みません、貴方!』と智惠子は心を籠めて言つて、
『私がうつかりしてゐて

『
『否、私……夢見る樣な氣持になつてゐて、つい……。』
その顏を、吉野はチラと見た。
星影
先に立つ
智惠子は、片手に濡れた新坊の着物を下げて、時々心配顏に子供の顏を覗き乍ら、身近く吉野と肩を並べた。胸は感謝の情に
『
『もう泣かないの、今
『
『

『だつて私、萬一の事があつたら、宿の小母さんに

『日向
『だつて、此兒の
『日向
『まあ
『言つて見れば一種の僞善だ!』
『僞善です!』と、男は自分を叱り附ける樣に重く言つた。渠は今、自分の心が何物かに征服される樣に感じてゐる。それから脱れ樣として

『
『貴方は……貴方は……』と言ひ乍ら、火の樣な熱い涙が瀧の如く、男の肌に透る。
吉野は
『わア――』と、驚いた樣に新坊が泣く。
はしたない事をした、といふ感じが矢の如く女の心を掠めた。と、智惠子は、も一度『貴方は!』迸しる樣に言つて、肩に捉つた手を烈しく男の首に捲いた。
『先生!』と、五六間前方から
『行きませう!』と男は促した。
『は。』と云ふも口の中。身も世も忘れた態で、顏は男の體から離しともなく二足三足、足は男に縺れる。
『日向
『お許し下さい!』と絶え入る樣。
『僕は東京へ歸りませう!』と言ふ目は
『……
『……餘り不思議です、貴女と僕の事が。』
『…………』
『歸りませう! 其方が
『
『あゝ――』と吉野は唸る樣に言つた。
『お、お解りになりますまい、私のこ、心が……』
『日向さん!』と、男の聲も烈しく顫へた。『其言葉を僕は、聞きたくなかつた!』
矢庭に二つの唇が交された。熟した麥の香の漂ふ夜路に、熱かい接吻の音が幽かに三度四度鳴つた。
其夜、母に呼ばれて
客は九時過ぎになつて歸つた。父の信之は醉倒れて了つた。お柳は早くから座を脱して寢てゐたが、
『靜や、吉野
『
『何時頃?』
『二時間も前だわ。何處へ
『昌作さんとかえ?』
『否、お一人。松藏でもお迎ひにやつて見ませうか?』
『
『大丈夫だよ。』と言ひ乍ら、赤い顏をした信吾が入つて來た。
『彼奴の事だ、橋の方へでも行つてブラ〳〵してるだらう。それより俺は頭が痛くて爲樣がないから寢かして呉れよ。』
『お先に?』
『歸つたら然う言つて呉れ。そして床を延べて置いてやれ、あゝ醉つた!』
で、靜子は下女に手傳はして、兄を寢せ、座敷を片附けてから、一人
一枚だけ殘して雨戸を閉め、
「それにしても
『秋になつたら私が
机の上には、書が五六册。不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、79-下-16]其中に、黒い表紙の寫生帳が目に附いた。靜子は何氣なく其れを取つて、或所を
と、靜子の眼は輝いた。顏が染つた。人なき室をキョロ〳〵と見廻して又それを熱心に見る。――鉛筆の走書の粗末ではあるが、書かれてあるのは
靜子は、氣がさした樣に、俄かにそれを閉ぢて以前の
次の頁にも、その次の頁にも、智惠子の顏の書かれてあることは、靜子は遂に知らなかつた。
間もなく庭に下駄の音がした。靜子は妙に
『
『
『實に濟みませんでした。

『否、貴方。あの、兄はお酒を過して頭痛がすると言つて、お先に……』
『
『十時、で御座いませう。』
吉野はどかりと机の前に坐つた。と靜子は、今し方自分が其處に坐つた事が心に浮んで、『お寢み遊ばせ。』と言ふより早く障子を閉めて縁側に出た。吉野はグタリと首を垂れて眼を瞑つた。着衣はシットリと夜氣に
「智惠子! 智惠子!」と吉野の心は叫んだ。

『貴方は……貴方は……!』
吉野が新坊の命を救けた話は、翌朝朝飯の際に吉野自身の口から、簡單に話された。
同じ話がまた、前夜其場に行合せた農夫が、
昌作はまた、若しもそれが信吾によつて爲された事なら

其翌日か翌々日、叔母と其子等は盛岡に歸つて行つた。この叔母は、數ある小川家の親戚の中でも、殊更お柳と氣心が合つてゐた。といふよりは、
叔母を送つて好摩の停車場に行つた下男と下女は、新しい一人の人を小川家に導いて歸つた。それは他ではない、信之の次男、靜子とは一歳劣りの弟の、志郎といふ士官候補生だ。
志郎は兄弟中の腕白者、お柳の氣には餘り入らぬが、父の信之からは此上なく愛されてゐる。靜子と縁談の持上つてゐる松原家の三男の
或る日、母のお柳は志郎を呼んで、それとなく松原中尉の噂を訊いてみた。その返事は少からずお柳を驚かせた。
『松原の政治か! 彼奴ア駄目だよ、阿母樣、狷介なんかも兄貴に絶交して遣らうなんて云つてゐた。』
『
『奈何してつて、


お柳は猶その話を詳しく訊いた上で、その事は當分靜子にも誰にも言ふなと口留めした。
志郎は淡白な軍人氣質、信吾を除いては誰とも仲が好い、
常ならぬ物思ひは、吉野と信吾と靜子の三人の胸にのみ潜んだ。そして、三人とも出來るだけそれを顏に表さぬ樣に努めた。智惠子の名は、三人とも
吉野は醫師の加藤と親んで、寫生に行くと言つては、重ねて其家を訪ねた。
智惠子は唯一度、吉野も信吾も居らぬ時に遊びに來たツ
暑い〳〵八月も中旬になつた。螢の季節も過ぎた。明日は陰暦の盂蘭盆といふ日、夕方近くなつて、門口から
富江が來ると、家中が急に賑かになつて、高い笑聲が立つ。暑さ盛りをうつら〳〵と臥てゐたお柳は今し方起き出して、東向の縁側で靜子に髮を
信吾も晝寢から覺めた許り、不快な夢でも見た後の樣に、妙に燻んだ顏をして
或は一人、或は吉野と二人、信吾は此月に入つてからも三四度智惠子を訪ねた。二人の話はもう以前の樣に
かの新坊の溺死を救けた以來、吉野が一人で、或は昌作を伴れて、智惠子を訪ねることも、信吾は直ぐに感附いたゐた。二人の友人の間には何日しか大きい溝が出來た。信吾は
いつそ結婚を申込んでやらうか、と考へることがないでもない。が、信吾は左程までに深く智惠子を思つてるのでもないのだ。高が田舍の女教員だ! といふ輕侮が常に頭にある。

そして又、靜子の吉野に對する

『戸籍上は兎も角、靜子はもう未亡人ぢやないか!』
信吾の頭には

『まア、起きてらつしつたんですか!』と、富江は開け放した縁側に立つた。
『
『オヤ、別の人を待つてゐたの?』
『ハッハハ。
『貴方が晝寢してるだらうから、起して上げようと思つて。』
『屹度神山さんが來ると思つたから、恁うしてチャンと起きて待つてたんですよ。』
『

『
『
立ち上つた信吾は、『ア、
娘らしい
黄ろい本の表紙には、
“True Love”
と書かれた。文科の學生などの間に『みたいなナンテ……
『それが讀めたら面白いですよ。』と、信吾はニヤ〳〵笑つてゐる。
『日向
そして直ぐ何か思出した樣に聲を落して、『然う〳〵信吾さん、面白い話がありますよ。』
『

『まアお顏を洗つてらつしやいな。』
顏を洗つて來た信吾は、氣も
『あら、貴方のお髭は洗つても落ちませんね。』
『冗談ぢやない。それより何です、面白い話といふのは?』
『詰らない事ですよ。』
『

『

『
『ホホヽヽ。そんなら言ひませうか。』
『聞いて上げませう。』
『あのね……』と、富江は探る樣な目附をして、笑ひ乍ら眞正面に信吾を見てゐる。
信吾は、其話が屹度智惠子の事だと察してゐる。で、
『何です?』と、少し
『ホホヽヽ。』と富江は又笑つた。『或る人がね。』
『或る人ツて誰?』
『まア。』
『
『あの方をね。』と
『吉野を。』と信吾の眼尻が緊つた。
『ホホヽヽ。』
『吉野を
『……ですとサ。ホホヽヽ。』
『
『豈夫? 誰が其
事言つたんですか?』『矢張り聞きたいんでせう?』
『聞きたいこともないが……然し其奴ア珍聞だ。』
『珍聞?』と、また勝誇つた眼附をして、『貴方も餘程頓馬ね!』
『
『怎うしてだと! ホヽヽヽ。』と、持つてゐる書で信吾の膝を突く。
『それより神山さん、誰が

『確かな所から。』
『然し面白いなア。ハッハハ。
『

『面白いさ。
『
『それはまた、
『ね、
と、男を
『ホホヽヽ。』と笑つた。
『ハハヽヽ。』と、信吾も爲方なしに笑つて、『實に詭辯家だな神山さんは!』
『詭辯家?
『
其顏を嘲る樣に
『莫迦な!』と言つたが、女に自分の心を探られてゐるといふ不快が信吾の頭を掠めた。『それより奈何です、その吉野の方へ行つてみませんか?』
『行きませう。』
信吾はつと立つて縁側に出ると、『吉野君』と大きく呼んだ。
『何だ?』と落着いた返事。
『晝寢してたんぢやないのか! 今神山さんが來たが、其方へ行つても
『來たまへ。』
『行きませう。』と富江を促して、信吾は先に立つ。富江は何か急に考へることでも出來た樣な顏をして、默つてその後に跟いた。縁側傳ひ、蔭つた庭の植込に
今年の春の巴里のサロンの畫譜を披いて、吉野は何か昌作に説明して聞かしてゐた。
一通りの挨拶が濟むと、富江はすぐ立つて、壁に立掛けてある書きかけの水彩畫を見る。信吾はゴロリと横になつて、その畫のことを吉野と語る。
『昌作さん。』と富江が呼びかけた。『貴方昨日町へ
『行つた。山内へ見舞に。』
『
『それや可哀想ですよ。
『

『盛岡に歸るさうだ。四五日中に。』
『昌作さん。』と富江は又呼んだ。そして急しく吉野と信吾の顏を見
して、『好い物上げませうか、貴方に?』
『何です?』
『好い物なら僕も貰ひたいな。』
『信吾さんにはいや。ねえ昌作
『何だらうな!』と昌作は躊躇する。
『二人が喧嘩しちや可けないから僕が貰ひませうか?』
と吉野は淡白に笑ふ。
『ねえ昌作さん、誰方にも見せちや可けませんよ。』
『可し、志郎と二人で見る。』
『
昌作は極り惡るさうにそれを受けた。そして、『可し、可し。』と言ひながら庭下駄を穿いて、『オイ、志郎! 好い物があるぞ。』と聲高に母屋の方へ行く。
『あら可けませんよ。人に見せちや。』と富江は其後ろから叫んで、そして、面白さうにホホホヽと笑つた。
二人は好奇心に囚はれた。『何です、何です?』と信吾が言ふ。
『何でもありませんよ。』と、濟し返つて、吉野の顏をちらと見た。
『怪しいねえ、吉野君。』
『ハツヽヽ。』
『
其處へ、色のいゝ
『何だ?
『マ兄樣は!』と言つて、『
『
『ハヽヽヽ。神山さんが大丈夫ツてのなら安心だ。早速やらうか。』と信吾が最先に一片摘む。
軈て、裾短かの筒袖を着た志郎と昌作が入つて來た。
『やあ志郎さん、今まで晝寢ですか?』と吉野が手巾に手を拭き乍ら言つた。
『
『驚いた喃。君は實に元氣だ!』
昌作は何か亢奮してる態で、肩を聳かして
『何だい
『莫迦だ喃!』と昌作は呟く樣に言つて、眤と眼鏡の中から富江を見る。『然し俺は山内に同情する。』
富江は笑ひながら、『あら可けませんよ、此處で
『僕も見た。』と志郎は口を入れた。『オイ昌作さん、皆に報告しようか?』
『言へ、言へ。何だい?』と信吾は弟を唆かす。昌作は默つて腕組をする。
『言はう。』と志郎は快活に言つて、『あれは肺病で將に死せんとする山内謙三の艶書です。終り。』
『まア、志郎さんは酷い!』と、流石に富江も狼狽する。
『艶書?』と、皆は一度に驚いた。
『それが怎うしたの、志郎さん!』と靜子が訊く。
呆れてゐる信吾の顏を富江は烈しい目で
前日に富江が來て、急に夕方から歌留多會を開くことになり、下男の松藏が靜子の書いた招待状を持つて町に馳せたが、來たのは準訓導の森川だけ。智惠子は病氣と言つて不參。到頭肺病になつて了つた山内には、無論使者を遣らなかつた。
智惠子の來なかつたのは、來なければ可いと願つた吉野を初め、信吾、靜子、さては或る計畫を抱いてゐた富江の各々に、歌留多に氣を
靜子の生涯に忘るべからざる盆の十四日の日は、晴々と明けた。風なく、雲なく、麗かな靜かな日で、一年中の
村に禪寺が二つ、一つは町裏の寶徳寺、一つは下田の喜雲寺、何れも朝から村中の善男善女を其門に集めた。靜子も、母お柳の代理で、養祖母のお政や子供等と共に、午前のうちに參詣に出た。
その歸路である。靜子は妹二人を伴れて、寶徳寺路の入口の智惠子の宿を訪ねた。智惠子は、何か氣の
『
『否、今日は何とも無いんですけれど、昨晩丁度お腹が少し變だつた所でしたから……折角お使を下すつたのに、濟みませんでしたわねえ。』
『心配しましたわ、私。』と、靜子は眞面目に言つた。『貴女が
『あら

『けれどもねえ智惠子さん、
『……

靜子は、その富江が山内の艶書を昌作に呉れた事を話さうかと思つたが、何故か二人の間が打解けてゐない樣な氣がして、止めて了つた。三十分許り經つて暇乞をした。
二人は相談した樣に、吉野のことは露程も口に出さなかつた。
靜子が家へ歸ると、信吾は待ち構へてゐたといふ風に自分の室へ呼んで、そして、何か怒つてる樣な
靜子は有の儘に答へた。
『

『
信吾が出かけて間もなくである。月の初めに子供らを伴れて來た、盛岡の叔母が、見知らぬ一人の老人を伴れて來た。叔母は墓參の爲めと披露した。連の男は松原家から頼まれて來たのだとは直ぐ知れた。言ふまでもなく靜子の縁談の事で。
父の信之、祖父の勘解由、母お柳、その三人と松原家の使者とは奧の間で話してゐる。叔母も其席に出た。靜子は今更の樣に胸が騷ぐ。兄の居ないのが恨めしい。若しや此話から、自分と死んだ浩一との事が吉野に知れはしまいかと思ふと、その吉野にも顏を見せたくなかつた。
室に籠つたり、臺所へ行つたり、庭に出たり、兎角して日も暮れかゝつた。信吾はそれでも歸つて來ない。夕方から一緒に盆踊を見に行く筈だつたのだが。
晩餐の時、
丁度鶴飼橋へ差掛つた時、圓い十四日の月がゆら〳〵と姫神山の上に昇つた。空は雲一片なく穩かに晴れ渡つて、紫深く黝んだ岩手山が、くつきり夕照の名殘の中に浮んでゐる。
仄りと暗い中空には、弱々しい星影が七つ八つ、青ざめて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第〳〵に高く上る。町からはもう太鼓の響が聞え出した。
たとへ何を言つたとて妹共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ靜子の心は、言ふ許りなく
「若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! 否、若し此人が現在自分の夫であつたら!」
月明かに靜かな四邊の景色と、遠い太鼓の響とは、靜子の此心持に
松原からの縁談は、その初め、當の對手の政治に對する嫌惡の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な考へやら或る侮辱の感やらで、靜子は兄に手頼つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの靜子は、今迄の理由の外に、も一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出來た。
丁度橋の上に來た時である。
『此處で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』
『然うでしたねえ!』と吉野は答へた。そして、何か思出した樣に少し
その態度は、屹度あの時の事を詳しく思ひ出してるのだと靜子に思はせた。靜子も強ひて其時の事を思ひ出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思ひ出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき滿足を與へた。
が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。渠は、信吾が屹度智惠子の家にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに歸らなかつた申譯をするだらうと想像してゐた。
町に入ると、常ならぬ華やかな光景が、土地慣れぬ吉野の目に珍しく映つた。家々の軒には、怪し氣な畫や「豐年萬作」などの字を書いた古風の行燈や提灯が掲げてある。街路の兩側には、門々に今を盛りと樺火が焚いてある。其赤い火影が、一筋町の賑ひを樂しく照して、晴着を飾つた
町は樂し氣な
町も端れの智惠子の宿の前には、消えかゝつた樺火を取卷いて四五人の小兒等がゐた。
『梅ちやん! 梅ちやん!』と妹共が先ず驅け寄る。其後から靜子は、『梅ちやん、先生は?』と優しく言ひながら近づいた。
靜子は直ぐ氣が附いた。梅ちやんの着てゐる紺絣の單衣は、それは嘗て智惠子の平常着であつた!
あな我が君のなつかしさよ、
まみゆる日ぞまたるる。
君は谷の百合、峰のさくら、
うつし世にたぐひもなし。
家の下からは幽かに讃美歌の聲が洩れる。信吾は居ない! まみゆる日ぞまたるる。
君は谷の百合、峰のさくら、
うつし世にたぐひもなし。
『先生! 先生!』と梅ちやんは門口から呼ぶ。
智惠子に
『まア何處へ行つたんでせうねえ。夕方までに歸つて、私達と一緒に又出かける筈でしたのよ。これから何處へ行くとも言はなかつたんでせうか?』
『
『歩いてゐたら逢ふでせうよ。』と吉野は鷹揚に言つた。
『
『は、……まアお茶でも召し上つて……』
『直ぐ
と靜子も促す。
『
『行きませう! 僕は盆踊は生れて初めてなんです。』
と、吉野はもう戸外へ出る。
で、智惠子は一寸奧へ行つて、帶を締直して來て、一緒に往來に出た。
樺火は少し
提灯を十も吊した加藤醫院の前には大束の薪がまだ盛んに燃えてゐて、屋内は晝の如く明るく、玄關は開け放されてゐる。大形の染の浴衣に水色縮緬をグル〳〵卷いた加藤を初め、清子、藥局生、下女、皆玄關に出て往來を眺めてゐた。
『やア、皆樣お揃ひですナ。』と、加藤から先づ聲をかける。
『お涼みですか。』と吉野が言つて、一行はゾロ〳〵と玄關に寄つた。
『
『さ、まァお上りなさい、屹度
『それは恐れ入つた。ハハヽヽ。』
傍では、靜子が兄の事を訊いてゐる。
『先刻一寸
『うん、
『吉野さん、愈々盆が濟んだら來て頂きませう。
『小川君にお話しなすつたですか! 僕は
『
『あの、何ですの、
『大丈夫、靜子さん。』と加藤が口を出す。
『お客樣を横取りする譯ぢやないんです。一週間許り吉野さんを拜借したいんで……直ぐお返ししますよ。』
『ホヽヽ、左樣で御座いますか!』と愛相よく言つたものゝ、靜子の心は無論それを喜ばなかつた。
吉野は無理矢理に加藤に引張り込まれた。
町の丁度中程の大きい造酒家の前には、往來に盛んに篝火を焚いて、其周圍、街道なりに楕圓形な輪を作つて、踊が始まつてゐる。輪の内外には澤山の見物。太皷は四挺、踊子は男女、子供らも交つて、まだ始まりだから五六十人位である。太皷に伴れて、手振り足振り面白く歌つて
る踊には、今の世ならぬ古色がある。揃ひの浴衣に花笠をと、輕く智惠子の肩を叩いた者があつた。靜子清子が少し離れて誰やら年増の女と挨拶してる時。
振向くと、何時醫院から出て來たか吉野が立つてゐる。
『あら!』と智惠子は
吉野は無邪氣に笑つた。
二人は並んで立つた、立並ぶ見物の後ろだから人の目も引かぬ。
(私ーとー)と、好い聲で一人の女が音頭を取る。それに續いた十人許りの娘共は、直ぐ聲を合せて歌ひ次いだ。――
(――お前ーはーア御門ーのーとびーらーア、朝ーにーイわかーれーてエ、ー晩に逢ふ――)
同じ樣な花笠に新しい浴衣、淡紅色メリンスの襷を端長く背に結んだ其娘共の中に、一人、背の低い肥つたのがあつて、
ドヽドンと、先頭の太皷が
(ドヾドコドン、ドコドン――)と新しく太皷が鳴り出す。――ヨサレ節といふのがこれで。――淀んだ輪がまたそれに合せて踊り始める。何處やらで調子はづれた高い男の聲が、最先に唄つた――
(ヨサレー茶屋のかーア、花染ーの――たす――き――イ――)
『面白いですねえ。』と、吉野は智惠子を振返つた。『
『えゝ。』智惠子は踊にも唄にも心を留めなかつた樣に、何か深い考へに落ちた
と見た吉野は、『
『
俄かに見物が笑ひどよめく。今しも破蚊帳を
『吉野さん!』智惠子は思ひ切つた樣に
『何です?』
『あの……』と、
『……何です、困つた事ツて?』
智惠子は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、94-下-9]顏を上げて、何か辛さうに男を仰いだ。
『あの、私小川さんを
『小川を
『そして、

『解りました、智惠子さん!』恁う言つて、吉野は強く女の手を握つた。『
智惠子はグンと胸が迫つた。と同時に、腹の中が空虚になつた樣でフラ〳〵とする。で男の手を放して人々の後に
目の前には眞黒な幾本の足、彼方の篝火がその間から見える。――智惠子は深い谷底に一人落ちた樣な氣がして涙が溢れた。
『あら、
吉野の足は一二尺動いた。
『今來た許りです。』
『
『學校ですよ、屹度。』と清子が傍から言ふ。
『オヤ、日向さんは?』と、靜子は周圍を見
す。智惠子は立ち上つた。
『此處にゐらしつたわ!』
『立つてると何だかフラ〳〵して、私
『
『何處かお惡くつて?』と、清子は醫師の妻。
『
さうしてる間にも、清子は嫁の身の二三度家へ行つて見て來た。その度、吉野に來て一杯飮めと加藤の
信吾は來ない。
月は高く昇つた。其處此處の部落から集つて來て、太皷は十二三挺に増えた。笛も三人許り加つた。踊の輪は長く〳〵街路なりに楕圓形になつて、その人數は二百人近くもあらう。男女、事々しく裝つたのもあれば、
月は高く昇つた。
強い太皷の響き、調子揃つた足擦れの音、華やかな、古風な、老も若きも戀の歌を歌つてゐる此境地から、不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、95-下-18]目を上げて其靜かな月を仰いだ心持は、何人も生涯に幾度となく思浮べて、飽かずも其甘い悲哀に醉はうとするところであらう。――殊にも此夜の智惠子は思ふ人と共にゐる樂みと、
怒りと嘲りを浮べた信吾の顏が、時々胸に浮んだ。智惠子は、今日その信吾の厚かましくも言ひ出でた戀を、小氣味よく拒絶して了つたのだ。
立つたり
軈て、下腹の底が少しづゝ
隙を見て、智惠子は思ひ切つてつと男の傍へ寄つた。
『私、お先に歸ります。』
『其
に惡くなりましたか?』『少し……少しですけれどもお腹がまた痛んでくる樣ですから。』
『可けませんねえ!
『否、ホンの少しですから……あの、明日でも
『行きます、是非。』と言つて、吉野は強く女の手を握つた。女も握り返した。
『好い月ですわねえ!』
智惠子は猶去り難げに
智惠子は痛む腹に力を入れて、堅く齒を喰縛りながら、幾回か後ろを振返つた。町の賑ひは踊の場所に集つて、十間離れたらもう人一人ゐない。霜の置いたかと許り明るい月光に、所々樺火の跡が黒く殘つて、軒々の提灯や行燈は半ば消えた。
天心の月は、智惠子の影を短く地に印した。太皷の音と何十人の唄聲とは、その月までも屆くかと、風なき空に漂うてゆく。――華やかな舞樂の場から唯一人歸る智惠子は、急に己が宿が厭になつた。
と言つて、足は矢張り宿の方へ動く。送つて來てくれぬ男を怨めしくも思つた。あの人が東京へ歸ると、屹度今夜のことを手紙に書いて寄越すだらうと思つた。そして、二人の間に取交された約束が、唯一生忘るまいといふ事だけなのを思つて、智惠子は今夜といふ今夜、初めて切實に、それだけでは物足らぬことを感じた。智惠子も女である。力強き男の腕に抱かれたら、あはれ、腹の痛みも忘れようものを!
二町許り來る、と智惠子は俄かに足を早めた。不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、97-上-12]、
程なく吉野や靜子等も歸路に就いた。信吾には遂に逢はなかつた。吉野は智惠子の病氣の氣に懸らぬではないが、寄つて見る譯にも行かぬ。
それから小一時間も經つた。
富江の宿の裏口が開いて、月影明るい中へヒョクリと信吾が出た。續いて富江も出た。
『好い月!』
太皷の響と唄の聲が聞える、
『一寸、

『疲れた!』と、信吾は低く呟く樣に言つた。
『マ
『ハヽヽ。ぢや左樣なら!』
『一寸々々、
『ハヽヽ。』と男は又妙に笑つてスタ〳〵と歩き出す。富江は家へ入つた。
人なき裏路を
『莫迦!』と聲を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。
信吾の心が生れてから今日一日ほど動搖した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智惠子を訪うと、初めは盛んに氣焔を吐いた。現代の學者を糞味噌に罵倒し盡し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして

最後に信吾は言つた。
『智惠子さん、貴女は哀れな僕の述懷を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』
『…………』
『智惠子さん!』と、情が迫つた樣に聲を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智惠子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても
『小川さん!』と女は
『は
』『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない樣にお願ひします。』
信吾は
『失禮な事を申す樣ですが……』
『ウ、……何故でせう?』
『……別に理由はありませんけれど……。』
『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、さも
『…………』
『智惠子さん! ぼくがこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお斷りになるとは餘りです、餘りに侮辱です。』
『ですけれど……』
『そんならです。』と、信吾は今迄の事は忘れて新らしい仇の前にでも出た樣に言つた。其眼は物凄く輝いた。
『僕は唯一つ聞かして頂きたい事があります。智惠子さん、
『……私の知つてをります事ならそれは……』
『無論御存じの事です。』と信吾は肩を聳かした。『話は全然別の事です。僕は僕の一切を犧牲にして、友人たる貴女と吉野の幸福を祝ひます。』
智惠子は胸を刺されたやうにピクリとした。然し一寸も動かなかつた。顏色も變へなかつた。
『
『…………』
『僕は今言つた事を凡て取消して、友人としての眞心からお二人の爲に祝ひます。
『…………』
『何卒享けて下さい!』と信吾は毒々しく迫る。
智惠子の顏はクワッと許り紅くなつた。そして、『有難う御座います。』と明かに言放つた。
智惠子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何かしら弱い者を虐めてやつた時の樣な思ひに亂れてゐた。

信吾は、成るべく平靜な態度をして、その足で直ぐ加藤醫院を訪ね、學校を訪ねた。彼は夕方までに歸つて、吉野や妹共と一緒に踊を見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。
其時の信吾は、平常よりも餘程機嫌が好い樣に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる樣な氣がして來て、心にも無い事を一口言へば一口言ふ丈、胸が
もう日暮近い頃であつた。
自嘲の念は烈しく頭を亂した。何故那
事をいつたらう? 莫迦な、もう智惠子の顏を見ることが出來なくなつた! と彼は悔いた。何故もつと早く、――吉野の來ないうちに言はなかつたらう
『畜生奴! 到頭白状させてやつた。』
彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋まで、國道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら歸るともなく歸つて來た。が、彼は人に顏を見られたくない。町端れから又引返して、今度は舊國道を門前寺村の方へ辿つた。
月が昇つた。
途斷れ〳〵に、町へ來る近村の男女に會つた。彼は然しそれに氣がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思ひ出してゐた。
『
『然し。』と彼は又しても吉野が憎くなる。『あの野郎奴、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがたつた!』
信吾の憤りは再發した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思ひ出して、遂に、頭髮を掻き
りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステッキを強く揮つて、『信吾さん!』と女の聲。彼は驚いた樣に顏を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近づいて來る。草履を穿いてるのか足音がしない。
『信吾さん!』と富江は又呼んだ。
『あ、神山さんでしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。
『まア、何處へ
答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと
『ハハヽヽ。何處へ行つたんです貴女こそ?』
『生徒の家へ
『貴女だつて一人ぢやないか!』
『ホヽヽ、どうして智惠子
『
『あら、月夜の散歩にはハイカラさんの手でも曳かなくちや詰らないぢやありませんか?
『何を言ふんです。』と信吾は
『まア巧い事を!』と富江は左程驚いた風もなく笑つてゐる。
信吾は、女の餘りに平氣なのが癪に障つた。そして、不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、101-上-2]怖ろしい考へが浮んだ。物言はずに女の手を堅く握る。
富江も暫しは口を利かないで、唯笑つてゐた。そして、『私の手なんか駄目よ、信吾さん! 女の手の樣ぢやないでせう?』
『…………』
『私は女ぢやないんですよ。』
『富江樣。』と言ひながら、信吾は無遠慮に女の肩に手をかけた。『そんなら貴女は第三性ですか? ハハヽヽ。』
『あ重い!』と言つたが逃げ樣ともせぬ。そして、急に眞面目な顏をして
其夜は信吾は十時過までも富江の宿にゐた。宿の主人の老書記は臨時に隔離病舍に詰めてゐる。主婦や子供らは踊に行つて留守であつた。
で、彼が家へ歸つてくると、玄關の戸がもう
家に入つた信吾の心は、妙に
『淺猿しい、淺猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はもう此儘人知れず何處かへ行つて了ひたい樣な氣がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顏を思出すと、言ふべからざる厭惡の念が起る。そして又、段々家へ近附くにつれて、戀仇の吉野に對する
で、成るべく音立てぬ樣に縁側傳ひに自分の室に行く。家中もう寢て了つたと見えて、森としてゐた。と、離室に續く縁側に輕い足音がして、靜子が出て來た。
『あら兄樣、遲かつたわねえ。何處に居たんですか、今迄?』
『何處でも可いぢやないか!』と、聲は低く、然し
『まア!』
信吾は、わが仇の吉野の室に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒が洪水の樣に頭に溢れた。
『貴樣こそ何處に行つてるんだ?
靜子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か嚴しく詰責でもされる樣で、信吾の憤怒は更に燃える。
『莫迦野郎! 何處に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ靜子を擲つた。
靜子は矢庭に袂を顏にあてた。
『兄樣……
『此方へ來い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドッと突倒した。
『此畜生! 親や兄の眼を晦まして、……』
『わツ。』と靜子は倒れた儘で聲をあげた。先刻町から歸つてから、待てども〳〵兄が歸らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者との話の
靜子は故なき兄の疑ひと怒が、口惜しい、恨めしい、辯解をしようにも喉が塞つて、たゞ堅く〳〵袖を噛んだが、それでも泣き聲が洩れる。
『莫迦野郎!』と、信吾は又しても唸る樣に言つて、下唇を喰縛り、堅めた兩の拳をブルブル顫はせて、恐しい顏をして突立つてゐる。
靜子は死んだ樣に動かない。
『よし。』と信吾はまた唸つた。『貴樣はもう松原に
『マ。』と言つて、靜子はガバと起きた。『兄樣……其松原から今日人が來て……それで……』
手荒く襖が開いて、次の間に寢てゐる志郎と昌作が入つて來た。
『
『默れ!』と信吾は怒鳴つた。『默れ! 貴樣らの知つた事か。』
そして、亂暴に靜子を蹴る、靜子は又ドタリと倒れて、先よりも高くわツと泣く。
『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて來た。『何だ?
に騷ぐのだ?』『糞ツ。』と云ひさま、信吾は又靜子を蹴る。
『何をするッ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。
『何をするツ、貴樣らこそ。』と、信吾はもう無中に咆り立つて、突然志郎と昌作を薙倒す。
『こらツ』と父も聲を勵して、信吾の肩を掴んだ。『何莫迦をするのだ! 靜は
『糞ツ。』と許り、信吾は其手を拂つて手負猪の樣な勢ひで昌作に組みつく。
『貴樣、何故俺を抑へた
』『兄樣!』
『信吾ツ!』
ドタバタと騷ぐ其音を聞いて、別室の
『畜生! 畜生!』と信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。
智惠子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から歸つてから、夜一夜苦しみ明した。お利代が寢ずに看護してくれて、腹を擦つたり、温めたタオルで
夜が
智惠子は堅く目を瞑つて、幽かに唸りながら、不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、103-下-2]、今し方戸外へ出た時まだ日の出前の水の樣な
「もう夜が明けた。」と覺束なく考へると、自分は何日からとも知れず、長い〳〵間
「今日あの方が來て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、もう夜が明けたのだもの!……。すると今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」
喧しく雀が鳴く。智惠子はそれを
『先生……先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、104-上-11]氣がつくと、自分は其處で少し
『先生、まア恁
所に寢て、お醫師樣が『まア濟みません。』然う言つてお利代に手傳はれ乍ら臥床の上に寢せられた。
室には夜ツぴて
加藤は先ず概略の病状を訊いた。智惠子は痛みを怺へて問ふがまゝに答へる。
『
脈も體温も少し高かつた。舌は荒れて、眼が充血してゐる。そして腹を見た。
『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の邊を押す。
『痛みます。』と苦し氣に言つた。
『此處は?』
『其處も。』
『フム。』と言つて、加藤は腹一帶を輕く
それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。
「赤痢だ!」と智惠子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲みが湧いた。
智惠子の病氣は赤痢――然も稍烈しい、チブス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には擔架に乘せられて隔離病舍に收容された。お利代の家の門口には「交通遮斷」の札が貼られて、家の中は石炭酸の臭氣に充ち、軒下には石灰が撒かれた。
丁度智惠子が隔離病舍に入つた頃、小川の家では、信吾が遲く起きて、そして、今日の中に東京に歸らして呉れと父に談判してゐた。父は叱る、信吾は激昂する。結局「勝手になれ」と言ふ事になつて、信吾は言ひがたい不愉快と憤怒を抱いてふいと
吉野は加藤との約束があるので、留まる事になつた。そして直ぐにも加藤の家に移る積りだつたが、色々と小川家の人達に
日が暮れると、吉野は一人町へ出た。そして加藤から智惠子の事を訊かされた。吉野は直ぐ智惠子の宿を訪ねた。町には矢張り樺火が盛んに燃えてゐた。彼は裏口から
つて
御心配下さいますな。決して御心配下さいますな。お目にかゝれないのが何より――病の苦痛より辛う御座います。吉野樣、何卒私がなほるまでこの村にゐて下さい。何卒、何卒。
屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。
屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。
ちゑ
よしの樣まゐる
智惠子の容體は、最初隨分危險であつた。隔離病舍に收容された晩などは知覺が朦朧になり、
吉野は病める智惠子と共に澁民を去つた。彼は有ゆるものを犧牲に拂つても、必ず智惠子を助けねばならぬと決心してゐた。
信吾去り、志郎去り、智惠子去り、吉野去つて二月の間に起つた種々の事件が、一先づ結末を告げた。
八月も末になつた。そして、靜子は新しく病を得た。
靜子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受けたのは例の叔母で、月の初めに來た時、お柳からの祕かの依頼で、それとなく松原家を動かし、
靜子は、何處といふことなく體が良くなかつた。加藤は神經衰弱と診察した。そして、毎日散歩ながら自分で藥取に行く樣に勸めた。で、日毎に午前九時頃になると、何がなしに打沈んだ顏をして靜子は、白ハンカチに包んだ藥瓶を下げて町にゆく姿が、鶴飼橋の上に見られた。
そして靜子は、一時間か二時間、屹度清子と睦しく話をして歸る。
或る日の事であつた。二人は醫院の裏二階の
靜子は
清子は熱心にそれを聞いてゐた。
『靜子さん。』と清子は、
『あら!』と言つて靜子は少し顏を赤めた。『何? 清子さん私の心つて?』
『隱さなくても好かなくつて、靜子さん[#「靜子さん」は底本では「清子さん」]?』
『…………』
默つて
『清子さん。』と、稍あつてから靜子は言つた。其眼は濕んでゐた。『私……莫迦だわねえ!』
『あら

『ぢやなくつてよ。私却つて嬉しいわ……。』
『…………』
清子の眼にも涙が湧いた。
『ねえ、清子さん!』と又靜子は
『
『
『靜子さん!』と、清子は言つた。『貴女……私の事は誤解してらつしやるわね!』
然う言つて、突然靜子の膝に突伏した。
『あら、
二人は
靜子はそれを、屹度兄の信吾の事と察した。が、兄の事を思ふだけに、何と訊いて可いか解らなかつた。
稍あつてから、『え? 何の事私が誤解してるツて?』と靜子が又言ふ。
『言はずに置くわ、私。』と、思ひ切り惡く言つて、清子は漸く首を上げる。
『あら何うして?』
『兄の事……ぢやなくつて?』
清子は羞し氣に
『清子さん、私何も貴女の事惡くなんか思つてやしなくつてよ。』
『あら
二人は懷し氣に眼を見合せた。
『私此の家に
『でもないわ……今になつては。』と、靜子は心苦し氣である。靜子は、あの事あつて以來兄信吾の心が解りかねた。そして、その兄の不徳を、今一つ聞かねばならぬといふ氣がすると、流石に兄妹であれば辛くない譯に行かぬ。が、又、目の前の清子を見ると、この世に唯一の自分の友が此人だと言ふ限りない慕しさが胸に湧いた。
『濟まないわ、このお話するのは!』
『マ清子さん!……貴女

『……私ね……
『解つてよ。』と、靜子は聞えるか聞えぬかに言つて、
『嬉しいわ、私は。』と清子は友の手を強く引く。二人の涙は清子の膝に落ちた。
そして言つた。『私信吾さんに逢つて頂いてよ、此方の方の話があつた時……忘れないわ、去年の七月二十三日よ、鶴飼の上の觀音樣の杜で。』
『…………』
『私

『何と言つて其時、兄が?』
『……此家へ來る事を勸めて下すつたわ、あの、兄樣は。』
『マ
『何も其樣に!』と清子も泣聲で言つて、そして二人は相抱いて暫く泣いた。
『詰らないわね、女なんて!』と、稍あつて靜子はしみじみ言ふ。
『
二人の親しみは増した。
九月が來た。
信吾の不意に
肺を病んだ五尺足らずの山内は、到頭八月の末に盛岡に歸つて了つた。聞けば智惠子吉野と同じ病院に入つたといふ。
濱野の家――智惠子の宿では、祖母の病が惡くもならず
お利代は一生懸命裁縫に勵んでゐる。時には智惠子から習つた讃美歌を、小聲で小供らに歌つて聞かしてる事もある。村では好からぬ噂を立てた。それはお利代も智惠子に
快く晴れた或日の午前であつた。昌作は浮かぬ顏をして町を歩いてゐた。そして郵便局の前へ來ると、懷から二枚の葉書を出してポストに入れた。――昌作は米國に行くことも出來ず、明日發つて十里許りの山奧の或小學校の代用教員に赴任することになつた。――その葉書は盛岡の病院なる智惠子と山内に宛てたもの。山内には手短く見舞の文句と自身の方の事を書いたが、智惠子への一枚には、氣取つた字で歌一首。
『秋の聲まづ逸早く耳に入るかゝる
澁民村に秋風が見舞つた。
附記。この一篇は作者が新聞小説としての最初の試作なりき。囘を重ぬる六十囘。時歳末に際して豫期の如く事件を發展せしむる能はず、茲に一先づ擱筆するに到れるは作者の多少遺憾とする所なり。他日若し幸ひにして機會あらば、作者は稿を改めて更に智惠子吉野を主人公としたる本篇の續篇を書かむと欲す。