月夜
泉 鏡花
泉 鏡太郎
月
(
つき
)
の
光
(
ひかり
)
に
送
(
おく
)
られて、
一人
(
ひとり
)
、
山
(
やま
)
の
裾
(
すそ
)
を、
町
(
まち
)
はづれの
大川
(
おほかは
)
の
岸
(
きし
)
へ
出
(
で
)
た。
同
(
おな
)
じ
其
(
そ
)
の
光
(
ひかり
)
ながら、
山
(
やま
)
の
樹立
(
こだち
)
と
水
(
みづ
)
の
流
(
なが
)
れと、
蒼
(
あを
)
く、
白
(
しろ
)
く、
薄
(
うつす
)
りと
色
(
いろ
)
が
分
(
わか
)
れて、
一
(
ひと
)
ツを
離
(
はな
)
れると、
一
(
ひと
)
ツが
迎
(
むか
)
へる。
影法師
(
かげぼふし
)
も
露
(
つゆ
)
に
濡
(
ぬ
)
れて――
此
(
こ
)
の
時
(
とき
)
は
夏帽子
(
なつばうし
)
も
單衣
(
ひとへ
)
の
袖
(
そで
)
も、うつとりとした
姿
(
なり
)
で、
俯向
(
うつむ
)
いて、
土手
(
どて
)
の
草
(
くさ
)
のすら〳〵と、
瀬
(
せ
)
の
音
(
おと
)
に
搖
(
ゆら
)
れるやうな
風情
(
ふぜい
)
を
視
(
なが
)
めながら、
片側
(
かたかは
)
、
山
(
やま
)
に
沿
(
そ
)
ふ
空屋
(
あきや
)
の
前
(
まへ
)
を
寂
(
さみ
)
しく
歩行
(
ある
)
いた。
以前
(
いぜん
)
は、
此
(
こ
)
の
邊
(
へん
)
の
樣子
(
やうす
)
もこんなでは
無
(
な
)
かつた。
恁
(
か
)
う
涼風
(
すゞかぜ
)
の
立
(
た
)
つ
時分
(
じぶん
)
でも、
團扇
(
うちは
)
を
片手
(
かたて
)
に、
手拭
(
てぬぐひ
)
を
提
(
さ
)
げなどして、
派手
(
はで
)
な
浴衣
(
ゆかた
)
が、もつと
川上
(
かはかみ
)
あたりまで、
岸
(
きし
)
をちらほら
(
ぶら
)
ついたものである。
秋
(
あき
)
にも
成
(
な
)
ると、
山遊
(
やまあそ
)
びをする
町
(
まち
)
の
男女
(
なんによ
)
が、ぞろ〳〵
續
(
つゞ
)
いて、
坂
(
さか
)
へ
掛
(
かゝ
)
り
口
(
くち
)
の、
此處
(
こゝ
)
にあつた
酒屋
(
さかや
)
で、
吹筒
(
すひづつ
)
、
瓢
(
ひさご
)
などに
地酒
(
ぢざけ
)
の
澄
(
す
)
んだのを
詰
(
つ
)
めたもので。……
軒
(
のき
)
も
門
(
かど
)
も
傾
(
かたむ
)
いて、
破廂
(
やれびさし
)
を
漏
(
も
)
る
月影
(
つきかげ
)
に
掛棄
(
かけす
)
てた、
杉
(
すぎ
)
の
葉
(
は
)
が、
現
(
げん
)
に
梟
(
ふくろふ
)
の
巣
(
す
)
のやうに、がさ〳〵と
釣下
(
つりさが
)
つて、
其
(
そ
)
の
古
(
ふる
)
びた
状
(
さま
)
は、
大津繪
(
おほつゑ
)
の
奴
(
やつこ
)
が
置忘
(
おきわす
)
れた
大鳥毛
(
おほとりげ
)
のやうにも
見
(
み
)
える。
「
狐狸
(
こり
)
の
棲家
(
すみか
)
と
云
(
い
)
ふのだ、
相馬
(
さうま
)
の
古御所
(
ふるごしよ
)
、いや〳〵、
酒
(
さけ
)
に
縁
(
えん
)
のある
處
(
ところ
)
は
酒顛童子
(
しゆてんどうじ
)
の
物置
(
ものおき
)
です、
此
(
これ
)
は……」
渠
(
かれ
)
は
立停
(
たちど
)
まつて、
露
(
つゆ
)
は、しとゞ
置
(
お
)
きながら
水
(
みづ
)
の
涸
(
か
)
れた
磧
(
かはら
)
の
如
(
ごと
)
き、ごつ〳〵と
石
(
いし
)
を
並
(
なら
)
べたのが、
引傾
(
ひつかし
)
いで
危
(
あぶ
)
なツかしい
大屋根
(
おほやね
)
を、
杉
(
すぎ
)
の
葉
(
は
)
越
(
ごし
)
の
峰
(
みね
)
の
下
(
した
)
にひとり
視
(
なが
)
めて、
「
店賃
(
たなちん
)
の
言譯
(
いひわけ
)
ばかり
研究
(
けんきう
)
をして
居
(
ゐ
)
ないで、
一生
(
いつしやう
)
に一
度
(
ど
)
は
自分
(
じぶん
)
の
住
(
す
)
む
家
(
いへ
)
を
買
(
か
)
へ。
其
(
それ
)
も
東京
(
とうきやう
)
で
出來
(
でき
)
なかつたら、
故郷
(
こきやう
)
に
住居
(
すまひ
)
を
求
(
もと
)
めるやうに、
是非
(
ぜひ
)
恰好
(
かつかう
)
なのを
心懸
(
こゝろが
)
ける、と
今朝
(
けさ
)
も
從※
(
いとこ
)
[#「女+(「第-竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、219-4]
が
言
(
い
)
ふから、いや、
何
(
ど
)
う
仕
(
つかまつり
)
まして、とつい
眞面目
(
まじめ
)
に
云
(
い
)
つて
叩頭
(
おじぎ
)
をしたつけ。
人間
(
にんげん
)
然
(
さ
)
うした
場合
(
ばあひ
)
には、
實際
(
じつさい
)
、
謙遜
(
けんそん
)
の
美徳
(
びとく
)
を
顯
(
あらは
)
す。
其
(
それ
)
もお
値段
(
ねだん
)
によりけり……
川向
(
かはむか
)
うに二三
軒
(
げん
)
ある
空屋
(
あきや
)
なぞは、
一寸
(
ちよつと
)
お
紙幣
(
さつ
)
が
一束
(
ひとたば
)
ぐらゐな
處
(
ところ
)
で
手
(
て
)
に
入
(
はひ
)
る、と
云
(
い
)
つて
居
(
ゐ
)
た。
家
(
いへ
)
なんざ
買
(
か
)
ふものとも、
買
(
か
)
へるものとも、てんで
分別
(
ふんべつ
)
に
成
(
な
)
らないのだから、
空耳
(
そらみゝ
)
を
走
(
はし
)
らかしたばかりだつたが、……
成程
(
なるほど
)
。
名所※繪
(
めいしよづゑ
)
[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、219-9]
の
家並
(
いへなみ
)
を、ぼろ〳〵に
蟲
(
むし
)
の
蝕
(
く
)
つたと
云
(
い
)
ふ
形
(
かたち
)
の
此處
(
こゝ
)
なんです。
此
(
こ
)
れなら、
一生涯
(
いつしやうがい
)
に一
度
(
ど
)
ぐらゐ
買
(
か
)
へまいとも
限
(
かぎ
)
らない。
其
(
そ
)
のかはり
武者修行
(
むしやしゆぎやう
)
に
退治
(
たいぢ
)
られます。
此
(
これ
)
を
見懸
(
みか
)
けたのは
難有
(
ありがた
)
い。
子
(
こ
)
を
見
(
み
)
る
事
(
こと
)
親
(
おや
)
に
如
(
し
)
かずだつて、
其
(
そ
)
の
兩親
(
りやうしん
)
も
何
(
なん
)
にもないから、
私
(
わたし
)
を
見
(
み
)
る
事
(
こと
)
從※
(
いとこ
)
[#「女+(「第-竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、219-13]
に
如
(
し
)
かずだ。」
と
苦笑
(
にがわらひ
)
をして
又
(
また
)
俯向
(
うつむ
)
いた……フと
氣
(
き
)
が
付
(
つ
)
くと、
川風
(
かはかぜ
)
に
手尖
(
てさき
)
の
冷
(
つめた
)
いばかり、ぐつしより
濡
(
ぬ
)
らした
新
(
あたら
)
しい、
白
(
しろ
)
い
手巾
(
ハンケチ
)
に――
闇夜
(
やみ
)
だと
橋
(
はし
)
の
向
(
むか
)
うからは、
近頃
(
ちかごろ
)
聞
(
きこ
)
えた
寂
(
さび
)
しい
處
(
ところ
)
、
卯辰山
(
うたつやま
)
の
麓
(
ふもと
)
を
通
(
とほ
)
る、
陰火
(
おにび
)
、
人魂
(
ひとだま
)
の
類
(
たぐひ
)
と
見
(
み
)
て
驚
(
おどろ
)
かう。
青
(
あを
)
い
薄
(
すゝき
)
で
引結
(
ひきむす
)
んで、
螢
(
ほたる
)
を
包
(
つゝ
)
んで
提
(
さ
)
げて
居
(
ゐ
)
た。
渠
(
かれ
)
は
後
(
うしろ
)
を
振向
(
ふりむ
)
いた。
最
(
も
)
う、
角
(
かど
)
の
其
(
そ
)
の
酒屋
(
さかや
)
に
隔
(
へだ
)
てられて、
此處
(
こゝ
)
からは
見
(
み
)
えないが、
山
(
やま
)
へ
昇
(
のぼ
)
る
坂下
(
さかした
)
に、
崖
(
がけ
)
を
絞
(
しぼ
)
る
清水
(
しみづ
)
があつて、
手桶
(
てをけ
)
に
受
(
う
)
けて、
眞桑
(
まくは
)
、
西瓜
(
すゐくわ
)
などを
冷
(
ひや
)
す
水茶屋
(
みづぢやや
)
が二
軒
(
けん
)
ばかりあつた……
其
(
それ
)
も十
年
(
ねん
)
一昔
(
ひとむかし
)
に
成
(
な
)
る。
其
(
そ
)
の
茶屋
(
ちやや
)
あとの
空地
(
あきち
)
を
見
(
み
)
ると、
人
(
ひと
)
の
丈
(
たけ
)
よりも
高
(
たか
)
く
八重葎
(
やへむぐら
)
して、
末
(
すゑ
)
の
白露
(
しらつゆ
)
、
清水
(
しみづ
)
の
流
(
なが
)
れに、
螢
(
ほたる
)
は、
網
(
あみ
)
の
目
(
め
)
に
眞蒼
(
まつさを
)
な
浪
(
なみ
)
を
浴
(
あ
)
びせて、はら〳〵と
崖
(
がけ
)
の
樹
(
き
)
の
下
(
した
)
の、
漆
(
うるし
)
の
如
(
ごと
)
き
蔭
(
かげ
)
を
飛
(
と
)
ぶのであつた。
此
(
これ
)
から
歸
(
かへ
)
る
從※
(
いとこ
)
[#「女+(「第-竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、220-7]
の
内
(
うち
)
へ
土産
(
みやげ
)
に、と
思
(
おも
)
つて、つい、あの、
二軒茶屋
(
にけんぢやや
)
の
跡
(
あと
)
で
取
(
と
)
つて
來
(
き
)
たんだが、
待
(
ま
)
てよ……
考
(
かんが
)
へて
見
(
み
)
ると、
是
(
これ
)
は
此
(
こ
)
の
土地
(
とち
)
では
珍
(
めづ
)
らしくも
何
(
なん
)
ともない。
「
出
(
で
)
はじめなら
知
(
し
)
らず……
最
(
も
)
うこれ
今頃
(
いまごろ
)
は
小兒
(
こども
)
でも
玩弄
(
おもちや
)
にして
澤山
(
たくさん
)
に
成
(
な
)
つた
時分
(
ころ
)
だ。
東京
(
とうきやう
)
に
居
(
ゐ
)
て、
京都
(
きやうと
)
の
藝妓
(
げいこ
)
に、
石山寺
(
いしやまでら
)
の
螢
(
ほたる
)
を
贈
(
おく
)
られて、
其處等
(
そこら
)
露草
(
つゆぐさ
)
を
探
(
さが
)
して
歩行
(
ある
)
いて、
朝晩
(
あさばん
)
井戸
(
ゐど
)
の
水
(
みづ
)
の
霧
(
きり
)
を
吹
(
ふ
)
くと
云
(
い
)
ふ
了簡
(
れうけん
)
だと
違
(
ちが
)
ふんです……
矢張
(
やつぱ
)
り
故郷
(
ふるさと
)
の
事
(
こと
)
を
忘
(
わす
)
れた
所爲
(
せゐ
)
だ、なんぞと
又
(
また
)
厭味
(
いやみ
)
を
言
(
い
)
はれてははじまりません。
放
(
はな
)
す
事
(
こと
)
だ。」
と
然
(
さ
)
う
思
(
おも
)
つて、
落
(
おと
)
すやうに、
川
(
かは
)
べりに
手巾
(
ハンケチ
)
の
濡
(
ぬ
)
れたのを、はらりと
解
(
と
)
いた。
ふツくり
蒼
(
あを
)
く、
露
(
つゆ
)
が
滲
(
にじ
)
んだやうに、
其
(
そ
)
の
手巾
(
ハンケチ
)
の
白
(
しろ
)
いのを
透
(
とほ
)
して、
土手
(
どて
)
の
草
(
くさ
)
が
淺緑
(
あさみどり
)
に
美
(
うつく
)
しく
透
(
す
)
いたと
思
(
おも
)
ふと、
三
(
み
)
ツ
五
(
いつ
)
ツ、
上
(
じやうらふ
)
が
額
(
ひたひ
)
に
描
(
ゑが
)
いた
黛
(
まゆずみ
)
のやうな
姿
(
すがた
)
が
映
(
うつ
)
つて、すら〳〵と
彼方此方
(
かなたこなた
)
光
(
ひかり
)
を
曳
(
ひ
)
いた。
颯
(
さつ
)
と、
吹添
(
ふきそ
)
ふ
蒼水
(
あをみづ
)
の
香
(
か
)
の
風
(
かぜ
)
に
連
(
つ
)
れて、
流
(
ながれ
)
の
上
(
うへ
)
へそれたのは、
卯
(
う
)
の
花
(
はな
)
縅
(
をどし
)
の
鎧
(
よろひ
)
着
(
き
)
た
冥界
(
めいかい
)
の
軍兵
(
ぐんぴやう
)
が、
弗
(
ふ
)
ツと
射出
(
いだ
)
す
幻
(
まぼろし
)
の
矢
(
や
)
が
飛
(
と
)
ぶやうで、
川
(
かは
)
の
半
(
なか
)
ばで、
白
(
しろ
)
く
消
(
き
)
える。
ずぶ
濡
(
ぬれ
)
の、
一所
(
いつしよ
)
に
包
(
つゝ
)
んだ
草
(
くさ
)
の
葉
(
は
)
に、
弱々
(
よわ〳〵
)
と
成
(
な
)
つて、
其
(
そ
)
のまゝ
縋着
(
すがりつ
)
いたのもあつたから、
手巾
(
ハンケチ
)
は
其
(
それ
)
なりに
土手
(
どて
)
に
棄
(
す
)
てて
身
(
み
)
を
起
(
おこ
)
した。
が、
丁度
(
ちやうど
)
一本
(
ひともと
)
の
古
(
ふる
)
い
槐
(
ゑんじゆ
)
の
下
(
した
)
で。
此
(
こ
)
の
樹
(
き
)
の
蔭
(
かげ
)
から、すらりと
向
(
むか
)
うへ、
隈
(
くま
)
なき
白銀
(
しろがね
)
の
夜
(
よ
)
に、
雪
(
ゆき
)
のやうな
橋
(
はし
)
が、
瑠璃色
(
るりいろ
)
の
流
(
ながれ
)
の
上
(
うへ
)
を、
恰
(
あたか
)
も
月
(
つき
)
を
投掛
(
なげか
)
けた
長
(
なが
)
き
玉章
(
たまづさ
)
の
風情
(
ふぜい
)
に
架
(
かゝ
)
る。
欄干
(
らんかん
)
の
横木
(
よこぎ
)
が、
水
(
みづ
)
の
響
(
ひゞ
)
きで、
光
(
ひかり
)
に
搖
(
ゆ
)
れて、
袂
(
たもと
)
に
吹
(
ふ
)
きかゝるやうに、
薄黒
(
うすぐろ
)
く
二
(
ふた
)
ツ
三
(
み
)
ツ
彳
(
たゝず
)
むのみ、
四邊
(
あたり
)
に
人影
(
ひとかげ
)
は
一
(
ひと
)
ツもなかつた。
やがて、十二
時
(
じ
)
に
近
(
ちか
)
からう。
耳
(
みゝ
)
に
馴
(
な
)
れた
瀬
(
せ
)
の
音
(
おと
)
が、
一時
(
ひとしきり
)
ざツと
高
(
たか
)
い。
「……
螢
(
ほたる
)
だ、それ
露蟲
(
つゆむし
)
を
捉
(
つかま
)
へるわと、よく
小兒
(
こども
)
の
内
(
うち
)
、
橋
(
はし
)
を
渡
(
わた
)
つたつけ。
此
(
こ
)
の
槐
(
ゑんじゆ
)
が
可恐
(
こは
)
かつた……」
時々
(
とき〴〵
)
梢
(
こずゑ
)
から、(
赤茶釜
(
あかちやがま
)
)と
云
(
い
)
ふのが
出
(
で
)
る。
目
(
め
)
も
鼻
(
はな
)
も
無
(
な
)
い、
赤剥
(
あかは
)
げの、のつぺらぽう、三
尺
(
じやく
)
ばかりの
長
(
なが
)
い
顏
(
かほ
)
で、
敢
(
あへ
)
て
口
(
くち
)
と
云
(
い
)
ふも
見
(
み
)
えぬ
癖
(
くせ
)
に、
何處
(
どこ
)
かでゲラ〳〵と
嘲笑
(
あざわら
)
ふ……
正體
(
しやうたい
)
は
小兒
(
こども
)
ほどある
大
(
おほ
)
きな
梟
(
ふくろふ
)
。あの
嘴
(
くちばし
)
で
丹念
(
たんねん
)
に、
這奴
(
しやつ
)
我
(
わ
)
が
胸
(
むね
)
、
我
(
わ
)
が
腹
(
はら
)
の
毛
(
け
)
を
殘
(
のこ
)
りなく
(
むし
)
り
取
(
と
)
つて、
赤裸
(
あかはだか
)
にした
處
(
ところ
)
を、いきみをくれて、ぬぺらと
出
(
だ
)
して、
葉隱
(
はがく
)
れに……へたばる
人間
(
にんげん
)
をぎろりと
睨
(
にら
)
んで、
噴飯
(
ふきだ
)
す
由
(
よし
)
。
形
(
かたち
)
は
大
(
おほい
)
なる
梟
(
ふくろふ
)
ながら、
性
(
せい
)
は
魔
(
ま
)
ものとしてある。
其
(
そ
)
の
樹
(
き
)
の
下
(
した
)
を
通
(
とほ
)
りがかりに、
影
(
かげ
)
は
映
(
さ
)
しても
光
(
ひかり
)
を
漏
(
も
)
らさず、
枝
(
えだ
)
は
鬼
(
おに
)
のやうな
腕
(
うで
)
を
伸
(
の
)
ばした、
眞黒
(
まつくろ
)
な
其
(
そ
)
の
梢
(
こずゑ
)
を
仰
(
あふ
)
いだ。
「
今
(
いま
)
も
居
(
ゐ
)
るか、
赤茶釜
(
あかちやがま
)
。」と
思
(
おも
)
ふのが、つい
聲
(
こゑ
)
に
成
(
な
)
つて
口
(
くち
)
へ
出
(
で
)
た。
「ホウ。」
と
唐突
(
だしぬけ
)
に
茂
(
しげり
)
の
中
(
なか
)
から、
宛然
(
さながら
)
應答
(
へんたふ
)
を
期
(
き
)
して
居
(
ゐ
)
たものの
如
(
ごと
)
く、
何
(
なに
)
か
鳴
(
な
)
いた。
思
(
おも
)
はず、
肩
(
かた
)
から
水
(
みづ
)
を
浴
(
あ
)
びたやうに
慄然
(
ぞつ
)
としたが、
聲
(
こゑ
)
を
續
(
つゞ
)
けて
鳴出
(
なきだ
)
したのは
梟
(
ふくろふ
)
であつた。
唯
(
と
)
知
(
し
)
れても、
鳴
(
な
)
くと
云
(
い
)
ふより、
上
(
うへ
)
から
吠下
(
ほえお
)
ろして
凄
(
すさま
)
じい。
渠
(
かれ
)
は
身動
(
みうご
)
きもしないで
立窘
(
たちすく
)
んで、
「
提灯
(
ちやうちん
)
か、あゝ。」
と
呟
(
つぶや
)
いて
一
(
ひと
)
ツ
溜息
(
ためいき
)
する。……
橋詰
(
はしづめ
)
から
打向
(
うちむか
)
ふ
眞直
(
まつすぐ
)
な
前途
(
ゆくて
)
は、
土塀
(
どべい
)
の
續
(
つゞ
)
いた
場末
(
ばすゑ
)
の
屋敷町
(
やしきまち
)
で、
門
(
かど
)
の
軒
(
のき
)
もまばらだけれども、
其
(
それ
)
でも
兩側
(
りやうがは
)
は
家續
(
いへつゞ
)
き……
で、
町
(
まち
)
は
便
(
たより
)
なく、すうと
月夜
(
つきよ
)
に
空
(
そら
)
へ
浮
(
う
)
く。
上
(
うへ
)
から
覗
(
のぞ
)
いて、
山
(
やま
)
の
崖
(
がけ
)
が
處々
(
ところ〴〵
)
で
松
(
まつ
)
の
姿
(
すがた
)
を
楔
(
くさび
)
に
入
(
い
)
れて、づツしりと
壓
(
おさ
)
へて
居
(
ゐ
)
る。……
然
(
さ
)
うでないと、あの
梟
(
ふくろふ
)
が
唱
(
とな
)
へる
呪文
(
じゆもん
)
を
聞
(
き
)
け、
寢鎭
(
ねしづま
)
つた
恁
(
か
)
うした
町
(
まち
)
は、ふは〳〵と
活
(
い
)
きて
動
(
うご
)
く、
鮮麗
(
あざやか
)
な
銀河
(
ぎんが
)
に
吸取
(
すひと
)
られようも
計
(
はか
)
られぬ。
其
(
そ
)
の
町
(
まち
)
の、
奧
(
おく
)
を
透
(
す
)
かす
處
(
ところ
)
に、
誂
(
あつら
)
へたやうな
赤茶釜
(
あかちやがま
)
が、
何處
(
どこ
)
かの
廂
(
ひさし
)
を
覗
(
のぞ
)
いて、
宙
(
ちう
)
にぼツとして
掛
(
かゝ
)
つた。
面
(
つら
)
の
長
(
なが
)
さは三
尺
(
じやく
)
ばかり、
頤
(
あご
)
の
痩
(
やせ
)
た
眉間尺
(
みけんじやく
)
の
大額
(
おほびたひ
)
、ぬつと
出
(
で
)
て、
薄霧
(
うすぎり
)
に
包
(
つゝ
)
まれた
不氣味
(
ぶきみ
)
なのは、よく
見
(
み
)
ると、
軒
(
のき
)
に
打
(
う
)
つた
秋祭
(
あきまつり
)
の
提灯
(
ちやうちん
)
で、一
軒
(
けん
)
取込
(
とりこ
)
むのを
忘
(
わす
)
れたのであらう、
寂寞
(
ひつそり
)
した
侍町
(
さむらひまち
)
に
唯
(
たゞ
)
一箇
(
ひとつ
)
。
其
(
それ
)
が、
消
(
き
)
え
殘
(
のこ
)
つた。
頓
(
やが
)
て
盡
(
つ
)
きがたの
蝋燭
(
らふそく
)
に、ひく〳〵と
呼吸
(
いき
)
をする。
其處
(
そこ
)
へ、
魂
(
たましひ
)
を
吹込
(
ふきこ
)
んだか、
凝
(
じつ
)
と
視
(
み
)
るうち、
老槐
(
らうゑんじゆ
)
の
梟
(
ふくろふ
)
は、はたと
忘
(
わす
)
れたやうに
鳴止
(
なきや
)
んだのである。
「あゝ、
毘沙門樣
(
びしやもんさま
)
の
祭禮
(
まつり
)
だな。」
而
(
そ
)
して、
其
(
そ
)
の
提灯
(
ちやうちん
)
の
顋
(
あぎと
)
に、
凄
(
すさ
)
まじい
影
(
かげ
)
の
蠢
(
うごめ
)
くのは、
葉
(
は
)
やら、
何
(
なに
)
やら、べた〳〵と
赤
(
あか
)
く
蒼
(
あを
)
く
塗
(
ぬ
)
つた
中
(
なか
)
に、
眞黒
(
まつくろ
)
にのたくらしたのは
大
(
おほ
)
きな
蜈蚣
(
むかで
)
で、
此
(
これ
)
は、
其
(
そ
)
の
宮
(
みや
)
のおつかはしめだと
云
(
い
)
ふのを
豫
(
かね
)
て
聞
(
き
)
いた。……
出典:青空文庫(
https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4573_74049.html
)
青空文庫の奥付
底本:「鏡花全集 巻十四」岩波書店
1942(昭和17)年3月10日第1刷発行
1987(昭和62)年10月2日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:室谷きわ
2021年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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