女の一生

森本 薫



  人

布引けい    知栄の少女時代
堤 しず    野村精三
  伸太郎   職人 井上
  栄二    女中 清
  総子    刑事一
  ふみ    刑事二
  章介
  知栄


     第一幕の一

堤家の焼跡。
昭和二十年十月のある夜。

正面右手寄りに、之だけが完全に残った石燈籠。左手に壕舎の屋根、舞台右手寄りに切石が二つ三つ積んである。高台と見えて地平線の空が月明に明るい。
石燈籠の脇に堤けい、向うむきに坐りこんでいる。じっとして動かない。髪に白いものも多く、戦禍をくぐって来た事とて年よりもぐっとふけて見える。
間。
下手から栄二、けいより一二歳上だが之も最近「或る場所」から出て来たのですこしふけて見える、暫くあたりを見廻しているがけいに気がついて……
栄二 あの……。
けい ……。
栄二 ちょっとお伺いしたいのですが。
けい はあ(と云ってちょっとふり向くがすぐ向うむいてしまう)
栄二 並河町六番地と言うのは確かこの辺だったのですね。
けい 六番地はこの辺でしたがネ、みんな焼けっちまいましたよ。
栄二 全くひどいもんですね、一軒残らずって言う感じですが……。
けい 一軒残らずですよ。何処もかしこもきれいさっぱり。残っているのは蔵の壁と金庫と石燈籠。(立上って壕舎の方へ歩き出しながら)どちらをおたずねなんですか。
栄二 いや、もうよしましょう。こう見渡す限りじゃ、わざわざ焼跡を探して歩くまでもありません。大体覚悟して来たんです。(切石に腰を降して煙草を出して火をつける)
けい (壕舎へ入ってしまおうかどうしようかと迷いながら)遠方からでもいらしたのですか。
栄二 三時間ほど前に着いたんですがね、盛岡からです。
けい 東京中の人がみんな田舎へ田舎へと落ちてゆくのにわざわざ田舎から出ていらっしゃる方もあるんですね。(しゃがんでしまう)
栄二 奥さんは一人でここにお住いなんですか。
けい ええ、泥棒が入ったって取られる物は焼けちまってないし、この年寄をどうしようと言う人もないでしょうし、結局気楽な一人住いです。
栄二 お身寄りの方はないんですか。
けい いいえ、身寄りがないことはありません。土浦の方で、農場をやっている姉妹もいますし、京都で商業をやっている姉妹もいて、東京を引き上げて来い来いとやかましく言ってはくれるんですが今更気がねをしながら他人の世話になる気もしませんし、やっぱり長い間住みなれた処と言うものはこんなになっても離れられないんですよ。
栄二 そういうものですかね。
けい それに娘と孫を諏訪の方に疎開させてあるんです。どうせ都会育ちの娘達が田舎に何時いつまでも落ちつけるものでもなし、何時になるか分りませんが其の連中の帰って来る日の為にもと思ってこんな処に根を下しているんです。
栄二 そりゃなかなか大変ですね。しかしこの見渡す限りの焼跡での一人住いじゃ随分心細い様なこともあるでしょうなあ。
けい それはね……強い様なことを言っても女ですもの、過ぎて来た日の事や行末ゆくすえのことを考えて眠れない事もありますよ。あらいやだ、暫く人とおしゃべりをしないもんだから、すっかりいろんな事をしゃべってしまって……。(立ち上って)どら、そろそろ寝るとしようか。御免なさい。
栄二 おやすみなさい。すみませんね引き止めてしまって。
けい いいえ、どうせ何時にねて何時に起きるという身分じゃないんですから。(小屋の後へ廻って戸の様なものをさげて来る。口の中で切れ切れに歌う)かき流せる……筆のあやに……そめし紫色あせじ。(明治二十三年発行小学唱歌集中、才女)
煙草を消して行きかけていた栄二がその声を聞いて立ち止る。
栄二 あの。
けい (歌をやめて)何か。
栄二 今の其の歌は。
けい ふふふふ。何でしょう、今頃こんな歌を思い出すなんて、ずっと昔私が未だ子供の時分に聞きおぼえて未だに忘れないでいるたった一つの歌なんですよ。(そう言って入って行こうとする)
栄二 おけいさん。
けい え。
栄二 (それにはかまわず)するとやっぱりここがあの家だったんだ。そう言えば変り果てた中にも思いだすいろんなものがある。このくつぬぎ石は廻縁まわりえんから庭へ出る時何時も踏んづけたものだった。丸坊主になった松の枝ぶりにもくずれた土蔵の面影にも見おぼえがある。ああ、この石燈籠だけは昔のままだ。するとあの辺に兄貴の部屋があって其の隣が私の部屋だったのだ。そこから廻縁を通ってここにあの部屋があった。おけいさん、貴女あなたが初めてこの家へ入って来たあの部屋があったのだ。
けい (一、二歩栄二に近づいてほとんど息を呑むように)あなたは……栄二さん。
(早い溶暗)

     第一幕の二

明治三十八年正月の夜。
(溶明)
堤家の庭に面した座敷。

外の方で「敵は幾万」と軍歌の声。時々万歳々々の叫び声がつづく。ちょっとした間があって、栄二(次男十九歳)ふみ(次女十六歳)「敵は幾万……」と合唱しながらどんどん入ってくる。
ふみ みんなすっかり夢中のようね。むやみに提灯ちょうちんをふり回してるわ。
栄二 夢中にもなるさ、旅順の陥落は去年の七月から待ってたんだ。何処どこの町内でも三月も前から高張りや小旗の用意をして今日の日を待っている。あんまり何時までも発表がないもので癇癪かんしゃく起して折角造った提灯や旗を燃しちまったなんて話もあるくらいだ。
ふみ まあ、そうすれば旅順が早く落ちるとでも思うのかしら。
栄二 そりゃ知らんよ。お前だって帯がうまく結べないからって鏡を放り投げたりするじゃないか。
ふみ ふふふ。私、思い切って大きな声で歌ってみたいな。何だか胸がどきどきするようよ。
栄二 僕もそうだよ、号外みた時手が震えて止まらなかった。明日の晩、提灯行列に出てみようかな。
ふみ 提灯の灯って近くでみるより遠くからの方がれいね。そんな気しない?
栄二 うちは高台だからなおよくみえるのさ。
ふみ 火の帯、火の波、火の流れ、姿のみえない所から軍歌が地響じひびきのように湧き上ってきて……ほら、又聞える。身体全体を揺り動かされるような気がするわ。万歳、万歳、万歳……。
しず、章介(その弟少し跛足びっこ
章介 勿論もちろん嬉しくないことはありませんよ。私だって、日本人ですからね。ただ少し騒ぎが大袈裟おおげさすぎると思うんです。これで戦争に勝ったというわけじゃないのですよ。
しず それはそうですがねえ。勝った時は勝った時で、又お祝いをすればいいじゃありませんか。旅順が落ちたっていうことはそれだけで、充分およろこびしていいことだと思いますよ。
章介 私達が旅順を占領した時はたった一カ月でした。それでも私は自分の片足を埋めて戦いとったところだと思って有頂天でしたよ。ところがその年の暮には呆気あっけなく遼東半島を清国しんこくに還付している。しかも今度はその、同じ旅順に半年の歳月と何十万の人命をかけているのです。
しず 誰もそうしようと思った人はないのですよ、皆が皆、最善を尽して、こうなるより仕方がなかったのです。
章介 そうですよ。だからこうなった結果より、こうなるより仕方のなかった次第の方を考えるべきだと思いますね。
しず 世間というものはこれでいいのじゃないのですか。誰もが始終世界の歴史について考えているわけにはいきませんもの。
章介 無責任にして健康なる民衆の智恵ですか。姉さんは自分の嬉しい日なもんだから今日は何でも良い方に解釈出来るんでしょう。
しず (笑って)あなたこそ何も、みんなが素直に喜んでいるものを曲ってとらなくてもいいと思いますね。
ふみ 叔父さまはなんでも、人が右っていえば自分は左といわないと気がすまないのよ。
章介 こらこら、そんな憎まれ口をきくともうお嫁に貰ってやらんぞ。
ふみ 結構でございますよだわ。あたしは叔父様のような不真面目な酔っ払いは嫌いなんですもの。
栄二 叔父さん、旅順が陥ちたってことは、戦争に勝ったことにはならないにしても、少くとも勝敗のわかれを決める決戦に勝ったことになるんじゃないのかしら。
章介 いや、戦争というものは一つ一つの戦闘が決戦だよ。一つの決戦が終ればすぐ次の決戦が控えている。此処ここで勝ちさえすれば後はどうでもいいという戦闘もなければ此処で負けたからおしまいだという勝負もないさ。
栄二 すると、今の戦争は、まだまだ続くんでしょうか。
章介 続くとみていいね、去年の十月に浦塩ウラジオ艦隊を破り、今又旅順を落して我が軍は意気大いにあがっているが、ロシヤでは、バルチック艦隊を東洋に回航させるという噂もあるし、陸では沙河に大軍を集めて決戦準備しているという説もある。
栄二 (わくわくして)そうすると、僕が軍服を着るようになるまで、まだ戦争は続くでしょうねきっと。
章介 なんだ、おまえは自分のことを考えて戦争が長くつづけばいいと思っているのか。
栄二 いや。そんなわけじゃないけれど……新聞でみると、アメリカの大統領が金子堅太郎男爵に講和の方策を考えておくようすすめているそうじゃありませんか。そんなに急に講和する様子があるのでしょうか。
章介 そこまでのことは俺達にはわからんがね。しかしたとえば今度の戦争が急にここで終ったとしても、お前達の働かなければならない戦争はまだまだこれからいくつもあるよ。
栄二 そうでしょうか。
章介 というより、これからの日本の生きて行く道というものがすべて戦争だと思わなければ。テオドル・ローズベルトの提議にしてからが、好意的に仲裁の用意があるという程度のものじゃない。戦争をやめなければ貸してある金を返せという、態のいい戦争中止命令だ。何故そんなお節介をするのか。日本がアジアの大陸であまり大勝利を得ると困るからだ。その戦争はどうして起ったかといえば、ロシヤが清国を侵して朝鮮をおどかしたからだ。ヨーロッパやアメリカの国が何か思い立つ度に日本は、戦争をしたり、やめたり、取るべき理由があって取ったものを還したりしなくちゃならんのだ、そりゃ一体どういうわけだい。
しず 章さん、世間が昂奮するのがおかしいなんていってるけど今夜はあなたも随分昂奮しているようですよ。
章介 いや、私が昂奮しているのは提灯行列やお正月の所為せいじゃありません。このアジアの、百年の運動についてですよ。
しず (笑って)おやおや、それじゃまるであなたがその、百年の運命を握ってでもいるようね。
章介 姉さん。あんたの御亭主が支那貿易に目をつけ、三井や三菱に先達って取引をやり出したのは確かに先見の明だと私は感心してるんですがね。その見識が生きるか死ぬかはこれから先にかかっているのですよ。清国の運命はアジアの運命につながっています。その清国の運命に関りを持ち出した堤家の将来は、見方によっては始末におえない厄介な泥沼に足を突込んだようなものですよ。さあ、どうします。
しず お前って人はどうしてそう、次から次へ、寝てる子を起すようなことをいうのだろう。人が気持よく笑っているのを自分も笑ってみていられないのですか。堤洋行の主人は亡くなったけれど、店の仕事は至極満足に行っています。それに二人の息子と二人の娘がいて、れもこれもいい子で私を大事に思っていてくれます。さあどうしますなどという出来事は今のところひとつもありませんよ。
章介 ああ、利巧りこうなようでも女は女だ。共にアジアの形勢を論ずるには足らんな。
しず アジアの形勢は論じなくてもよろしいからいい加減に本気でお嫁さんのことでも論じていただきたいですね。
ふみ ほんとだわ。叔父さまの身の回りのお世話はみんな私とお姉さまにかかってくるんですからね。早くお仕立て物から解放していただきたいと思うわ。
章介 仕立物とアジアの形勢か。どうも君達の話の飛躍的なのには驚く他ないね。
総子(二十一)
総子 あの、叔父様、こちらでお食事なさるんですか。それとも何処か他へお廻りになるんでしょうか。
章介 そうですね。食べて行けと仰言おっしゃれば御馳走になってもよろしいし、他へ廻れと言われれば廻っても悪くないんですがね。
総子 それじゃ困りますわ。食器の都合もありますし、叔父様が召し上るのならお酒のお仕度もしなくちゃならないんですもの。
章介 総子さん、君は仲々家庭的で思いやりがあっていい婦人だ。きっとしあわせになりますよ。
総子 あら、でも私、こういう台所のことするの好きなんですもの。だけど困ってしまうわ。精三さんたらお台所へ入って来て、どうしてもお勝手を手伝って下さるってきかないんですよ。咲やと二人で充分だと、いくらいっても、大丈夫です、大丈夫ですなんて、何が大丈夫なんだかちっともわからないわ。
章介 男が台所へ入って来てお勝手を手伝うといったらそりゃ、私は御亭主になったらこんなにあなたを大事にしますってことさ。
総子 いやだわ、叔父さまったら、だって私はやせていて五尺三寸もあるのに、精三さんたら五尺二寸しかなくって、十八貫もあるんですもの。じゃ叔父様、家で済ましてらっしゃいますね。そのつもりでいますわ。(出てゆく)
章介 ヤレヤレすると今夜もこの家庭団欒だんらんの中で独り盃を含むことになるのかなあ。
しず 何だか物足りなくてお気の毒のようですね。でも、たまには家庭のお料理で食事をした方がいいんじゃないのですか。
章介 私は厭なんですよ。自分が独り者のせいですかね。あなたがたがこんな風ににぎやかににこにこしていると、時々大丈夫ですかって尋ねたくなって困る。
栄二 そりゃ、どういうことですか。
章介 さあ、そう開き直られても困るんだが、人間の幸福だとか平和だとかいうものは一枚の紙の表だけみているようなもんだという気がするのだ。幸福で仲間のたくさんいる人間という物は、それだけ不幸で独りぽっちになる機会が多いんじゃないのかね。
ふみ そうかもしれないわ。でも、叔父さまが何時迄も独り身でいらしたり、お料理屋のお酒を呑んだりなさるのは、叔父さまが戦争に行ってらした間に、澄江おばさまが他所よそへお嫁入りしてしまわれたからだと思うわ。
しず ふみちゃん。
伸太郎(二十二)肖像画の額を抱えて、入って来る。
伸太郎 やあ、此処にいたの。叔父さん、いらっしゃい。
章介 なんだ伸ちゃん。家にいたのか、留守かと思っていた。
伸太郎 これをどうしても今日中に仕上しあげたいと思ったものだから。
章介 ほう、何だい。(近づいておおいをとる、しずと見比べ)なかなかよく出来てるじゃないか。
伸太郎 お母さんの気に入るといいけれど……。
ふみ どらどら。(近づく)
しず 有難う。絵の方がほんものよりよさそうね。
伸太郎 そりゃおまけですよ。毎日辛抱しんぼうしてお相手して下すった。
しず お誕生日のお祝いに私に呉れるというのですよ。
章介 誕生日に物を贈るというのは西洋の習慣ですかね。それとも支那かな。
伸太郎 そりゃどうだかしらないけれど、お父さんは何時でも私達の誕生日には何か下さいましたよ。お父さんがなくなられてから初めてのお母さんの誕生日だから今年は僕達から何かお母さんに上げようって、皆で約束したのです。栄二は何を上げるんだい。
栄二 うん。僕はこれだ。お母さん、笑っちゃいけないよ。
しず (とって)まあ、綺れいなくしだこと。でもお母さんにはちょっと派手すぎるようね。
栄二 そうかな。僕には仲々気に入ってるんだけど。
しず いいのよ。男のお前がこんなところに気をつけてくれて、お母さんはほんとに嬉しいよ、丁度古くから使っていたのが折れてしまったものだから重宝ちょうほうしますよ。
栄二 いやあ。実は、あれは僕がふんづけて折っちまったんです。
章介 なんだい。それなら買って来て返すのは当り前じゃないか。
栄二 でもまあ、気は心ですよ。
ふみ 私のは、品物じゃないのよお母さま。私の一番好きな歌をお母さまの為に歌って上げようと思ってるんです。
栄二 おい、そんなのは贈り物にならないじゃないか。
ふみ だって総子姉さまは今日のお料理をお引受けになったでしょ、一番お得意のことをなさるんですもの。私だって私の一番得意のことをしたいのよ。やっぱり気は心だわ。
しず えええ、結構ですとも、あなたがたがそうして祝ってくれる気持だけでも、どんなに嬉しいかわかりませんよ。お正月で、戦には勝つ、おまけにお誕生日で……こんなに嬉しいことってありませんよ。
野村精三(二十五六)
精三 あの……お食事の仕度がいいそうですからどうぞ……。
しず ああ、それはどうも。精三さんあなた今迄ずっとお勝手にいらしたのですか。
精三 はあ。
しず まあ、そんなこと、総子や咲やに任せておおきになればよろしいのに。男の方がお台所になぞお入りになるものじゃありませんよ。
精三 いや、いいんですよ。私はああいうことが嫌いじゃないんですから。ははは。(照れて入ってゆく)
章介 ここのうちには近くお目出度いことが起りそうですな。
しず ええ、そうだといいと思っているのですがね。総子がどういうつもりでいるんだか。
栄二 でも精三さんて、何だか変な人だな。
章介 どうして、洗濯や料理が自分で出来る御亭主なんてそうざらにないぜ。どうだね、ふみちゃん、ああいうのなら。
ふみ いやよ、私。
章介 叔父さんのような無精者でも厭、精三君のような働き者でもいや、それじゃ君は一体どういう人を旦那様にもちたいのかね。
ふみ どういう人でも駄目だわ。私、音楽学校へ入って声楽の勉強したいんだもの。
章介 へえ、すると紫のはかまで上野の森を自転車で乗り廻す組か。
ふみ そう。幸田延子さんみたいに欧州へ留学させて戴くつもりだわ。そうしたら、叔父さまも荷物持ちくらいに連れて行って上げるわ。
章介 やれやれ。有難い仕合せだが、それ迄俺が生きているかどうか。
ふみ まあにくらしい。(打つ)
しず さあさあ、そんなに大騒ぎしないで、向うへ行きましょう。
伸太郎 それじゃひとつ、ふみ子の歌でも拝聴するか。
章介 結構だね。俺もヨーロッパ見物が出来るかどうかの境目だから。
ふみ だめよ。叔父さまなんかにはもう聞かせないのだから。
章介 はあ。さては大きな口をきいて、少し心配になってきたか。
皆さざめきながら入る。その人々を見送るように庭の石燈籠の影から下げ髪に三尺帯の布引けい、姿をみせ縁の所にちょっとの間立っているが人の気配にすぐ引込む。ふみがばたばたと引き返してきて壁際の戸棚をかき廻して楽譜を持ち出て行く。やや遠くで拍手の音。やがてふみの歌う声。かき流せる筆のあやに……そめし紫……けい、又出て来る。珍しそうに、そろそろと座敷に上りこむ。肖像画の前に立ってみたり、炉の方へ行ってみたりするが先刻栄二が母に贈った櫛が卓の上においてあるのをみると好もしそうに手にとり、髪にさしてみる。栄二入ってくる。
両方で驚く。
栄二 あああ、驚いた。
けい ……今晩は。
栄二 ああ……誰、君。
けい 私……布引けい。
栄二 ふみ子の友達かい。
けい ……い……いいえ。
栄二 それじゃ総子姉さんの?
けい ……そうじゃないわ。
栄二 じゃあ……何しに来たの君……。
けい ……私……私……。
栄二 変な人だな。一体何処から入って来たのさ。
けい あすこの、お庭の木戸が開いてたものだから……。
栄二 ああ、先刻提燈行列を見に出るので開けたんだ。(思い出したように探す)おや、ないぞ、君、知らないか、この辺に貝細工のついた櫛が……。
けい (反射的に頭をおさえる)
栄二 (気がついて)あ、おい。それをどうするんだ。
けい 御免ごめんなさい。御免なさい。私、私、持ってくつもりなんかなかったのよ。ただ、こんな綺れいな櫛自分でさしてみたらどんなにいいだろうと思って……。
栄二 おい。この櫛はお前なんかにささせるつもりで買って来たんじゃないぞ。お母さんに僕が初めて買って来て上げたものだ。なんだって黙って髪にさしたりしたんだこん畜生!
けい だから返すわ。ほら、此処へおくわ。ね、だから御免して。
栄二 今更返したってどうなるもんか。お母さんが使わないうちにお前なんかが使っちまっちゃ、もうお母さんに上げること出来やしないじゃないか。
けい だったら、どうすればいいの。あなたのしろっていうようにするわ。どうすればいいか、教えて。
栄二 どうすればいいか、そんなこと僕にだってわかるもんか。
けい ねええ、私……そんなに器量の悪い方じゃないでしょう。うちのおばさん、私くらいの器量なら新橋や柳橋から芸者に出してもひけをとりゃしないけれど、あんな所は保証人がどうとか、つき合いがどうとかって面倒くさいからそうしないんですって。私、新橋や柳橋の人がどんなに綺れいだか、みたことないから知らないわ。でも時々鏡みて自分でもそんなに悪くないなあ、って思うことあるわ。あなた、そう思わない。
栄二 そんなこと……知るもんか。
けい この間ね、魚屋の新ちゃんが行きちがいに私の手を握ったのよ。新ちゃんて人、八百蔵やおぞうに似てるって、うちの近所じゃお内儀かみさんたちが大騒ぎしてるのよ。私、あんな人好きじゃないわ。魚屋のくせにちょびひげやしてとても気取ってるの。おかしくって……。あんた、女の子の手握ったことあって。
栄二 そ……そんなことないよ。
けい そお、私だって男の人に手なんて、握られたの初めてよ、とても変な気のするものね。身体中の血が、一ぺんにぶくぶくって煮え返るんじゃないかと思うくらいよ。ふふふ。私、新ちゃんを突きとばしてうちへ逃げて帰ったけど、あわてて台所の鉄瓶蹴とばしてしまったわ。うちのおばさん、怒って物さしで私の頬っぺた二十もぶったけど私、痛いとも何とも思わなかったくらいよ。
栄二 おい、そんなに傍によるなよ。お前、どうして僕にそんな話するんだ。
けい あら、あなた、私が怖いの? 何故そんなにおっかなそうな顔するの。(笑って)なにもしやしないわよ。あんたなら、私の手、握ったって、私じっとしててよ。ほら……。(すり寄る)
栄二 こら(つき飛ばして)彼方あっちへ行け!
けい 痛い! (と、どっかにぶっつけたひじをこすっている)
栄二 傍に寄るとぶん殴るぞ!
けい 乱暴ね、あんた。
伸太郎。
伸太郎 栄二、どうしたんだ。大きな声出して。
栄二 兄さん、此奴こいつ、泥棒なんだ。あすこから入って来て、櫛とろうとしたんだ。僕がお母さんに上げる櫛持っていこうとしたんだ。おまわりさん呼んで、警察にわたしてやるんだ。
けい あら、それだけは御免して、後生だから、お巡りさんに渡すのは堪忍して頂戴。ほら櫛はちゃんと此処へ返したじゃありませんか。私、他人の物盗ったことなんて、今迄に一度だってありゃしないのよ。今だって持ってく気なんてまるでなかったのよ。ただ、ちょっと髪にさしてみただけなんですもの。(伸太郎に)ねえ、あなたは私をお巡りさんに渡したりはなさらないわねえ。しないっていって、私、何でもあなたのしろっていうことするから。
伸太郎 まあまあ、君、そうぐんぐん押したら転んじまうよ。
けい 私、お巡りさんに連れていかれると困るのよ。きっとおばさんが呼び出されてくるわ。おばさんの家に帰されて、どんなひどい目に逢うかわからないんですもの。私、おばさんの家、黙って出て来ちゃったのよ。
伸太郎 君は、今、おばさんの家にいるのかい。
けい ええ、おばさん、とても私をひどい目に逢わせるのよ。自分ちにも食べざかりの子供がいるのに厄介者やっかいものの私が食べるもんだから、物要ものいりで物要りで仕方がないっていうのよ。私、坊やのお守りだって、お台所の用だって、おじさんの内職の手伝いだって、何でも厭っていったことないわ。夜なんか十二時より早くねたことないのよ。それでもまだ、私の働きが足りないって怒られるの。私、どうすればいいの。
伸太郎 君のお母さんは、どうしたんだい。
けい 死んじまったの。私を生んだお産の後が悪かったんですって。
伸太郎 それじゃ、君はお母さんてもの知らないの。
けい お母さんの写真、タンスの抽出ひきだしに入っているの見たことあるわ。けど、声をきいた憶えもないし、抱いて貰ったこともないらしいわ。お父さんが、二人分可愛がってくれたからよかったけれど。
伸太郎 そのお父さんはどうしたの。
けい やっぱり死んだの。
伸太郎 病気?
けい ううん。戦争で。
伸太郎 戦争? 今度の?
けい いいえ、前のよ。
伸太郎 それでその後ずうっとおばさんの家で育てられたの。
けい (うなずく)
伸太郎 そんな戦争で働いて死んだ人の子供を、何だってひどい目に合わせるんだ。
けい 知らないわ。きっと私を引き取りたくなかったんでしょう。他に親類がないので、仕方なしに育ててくれたんだもの。
伸太郎 なんてひどい奴だろう。
栄二 ……うん。ひどいね。
三人、一寸考えこんでしまう。又軍歌の声。章介、いい気嫌で入ってくる。後からしず。
章介 どうしたんだ二人共。折角のお祝いの席を外してしまう法があるものか。さあ早く来い。おや、お客様かね。
伸太郎 いや。お客様ってわけじゃないんだけど……。
章介 おいおい隠したって駄目だぞ。こう現場をおさえられてしまってはもう手遅れだ。姉さんあんたはいい子だいい子だなんていっているが、油断もすきもありませんぞ、ちょっと目を離すとこの有様です。
栄二 そうじゃないんだよ。おじさん、この人は僕達まるで知らない……。
章介 こら、まだしらっぱくれるのか。知らない人を座敷に上げて話をしてる奴がどこにある。
伸太郎 いいえ。ほんとうなんです。おじさん、僕達は……この人のお父さんはおじさんと同じように戦争に出て戦死したんです。
章介 お父さんが戦死したからお前達のお客様でないという証拠になるかね。
栄二 ちがうよ。そんなこといってやしませんよ。この人はおばさんの家に引き取られていたんだけど、この家がひどい家なもんで、それで家を出て……。
章介 え? 家を出てどうしたというんだ。お前達の話はまるで現在の状態を説明する材料になっとらんぞ。落第、落第。
しず 章さん。そうお前のように笠にかかって物をいったってわかりゃしませんよ。みんなへどもどして話がごたごたするばかりですよ。(けい、しくしく泣き出す)あなた、なにも泣かなくってもいいんですよ。泣かないでおばさんにわけを話してごらんなさい。え。一体どうしたの。何だってそのおばさんの家を黙って出たりしたんですか。
けい 今日、お昼御飯をたべていてふっと思い出したんです。今日は私の誕生日なんです。お父さんが居たころ、お父さんはいつでもお誕生日には何処かのお料理屋へつれて行ってくれて私を床の間の前へ坐らせました。尾頭付おかしらつきの焼物を注文してお祝いしてくれるんです。お母さんがいないから、お家でご馳走することが出来ない。これで我慢するんだよって……。私、ご馳走なんかちっとも欲しくないんです。ただ、何時迄もひとの家の厄介者で、邪魔っけにされているの、急に我慢が出来なくなってしまったんです。
章介 お前、お父さんの戦死した場所を知ってるかい。
けい よくは知らないけど、大東溝っていうところですって。
章介 大東溝、それじゃ俺達の通って来た所だ。お父さんの名前は何ていうの。
けい 布引勝一。
章介 布引勝一? 知らんな。何ていう隊にいたか。そんなこと知らないかね。
けい 知らないわ。私、まだ小さかったんですもの。
章介 ふむ……姉さん。戦争のおかげで一代に産を成し、あなたのように子供から誕生日を祝って貰う人もあり……同じ戦争で父を失い誕生日に町を彷徨する者もあり……さまざまですね。
間。
けい ねえ。おばさん。後生だから私を、お巡りさんへ渡すのだけは堪忍して頂戴。もう、これからは決して他所の家へ黙って入ったりなんかしませんから……。
しず 大丈夫ですよ。おばさんは、あなたを警察なんか渡しゃしません。ですから早くお家へお帰んなさい。お家じゃきっと心配してらっしゃいますよ。
栄二 家じゃ心配なんかしてないかもしれませんよ。
しず 何を言うのです。家のものがいなくなって心配しないお宅があるものですか。
栄二 だって……その子の家は……。
しず 子供を育てるってことはねえ。育てられた当人が思っているほど、そう簡単なものじゃありませんよ。自分のお腹を痛めた子供を育てるのだって、時には、もうもうどうしていいかわからないほどつらく、情ないことがあるものです。まして、たとえ親類にもせよ、他人の子供を育てて下さったということは、並大抵のことじゃありませんよ。それから又、人ってものは、その辺にごろごろしてる時は邪魔になったり、厄介者に思ったりしていても、さていなくなるとやっぱり惜しいことをした、可哀想なことをした、そういう気になるものですよ。あなたのおばさんにしても今頃はきっとあなたのことを心配してあなたの行先を探してらっしゃるに違いありませんよ。悪いことはいいませんから、もう他所へ行かないでお家へお帰りなさい。ね。
けい (頷いて)帰ります。
しず あ。わかりましたね。よかったよかった。それじゃわき道しないで真直まっすぐに帰えるんですよ。あの誰か送って上げましょうか。
けい いいえ、一人で大丈夫です。
しず そうですか。それじゃ気をつけてね。又お昼にでも暇があったら遊びにいらっしゃい。おばさんのおゆるしをいただいてね。
けい 御免なさい、さようなら。
しず さよなら。気をつけてね。
栄二 おい、待ちたまえ。(と追っかけて)これ、君に上げるよ。(と先刻の櫛を渡す)さ。
けい (黙って受取ってみているが、やがて又しくしく泣き出し、そのまま坐ってしまう)
栄二 君、君、どうしたんだい。
章介 どうしたんだね。え。
けい 私、帰れないんです。帰るところないんです。
しず まあ、どうして? あなた、おばさんのお家を黙って逃げ出して来たんでしょ。
けい 私が抜け出したの、おばさん知ってるんです。私がそうっと裏へ出て木戸をしめようとしたらおばさんが家の中から、大きな声でもう二度と帰ってくるんじゃないよって……。
泣き倒れてしまう。
四人、顔を見合せている。

青空文庫の奥付



底本:「現代日本文學大系 83 森本薫 木下順二 田中千禾夫 飯澤匡集」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月5日初版第1刷発行
   1981(昭和56)年10月30日初版第13刷発行
入力:伊藤時也
校正:土屋隆
2006年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。