蜜柑
芥川 竜之介
或
(
ある
)
曇
(
くも
)
つた
冬
(
ふゆ
)
の
日暮
(
ひぐれ
)
である。
私
(
わたくし
)
は
横須賀發
(
よこすかはつ
)
上
(
のぼ
)
り二
等
(
とう
)
客車
(
きやくしや
)
の
隅
(
すみ
)
に
腰
(
こし
)
を
下
(
おろ
)
して、ぼんやり
發車
(
はつしや
)
の
笛
(
ふえ
)
を
待
(
ま
)
つてゐた。とうに
電燈
(
でんとう
)
のついた
客車
(
きやくしや
)
の
中
(
なか
)
には、
珍
(
めづ
)
らしく
私
(
わたくし
)
の
外
(
ほか
)
に
一人
(
ひとり
)
も
乘客
(
じようきやく
)
はゐなかつた。
外
(
そと
)
を
覗
(
のぞ
)
くと、うす
暗
(
ぐら
)
いプラットフォオムにも、
今日
(
けふ
)
は
珍
(
めづ
)
らしく
見送
(
みおく
)
りの
人影
(
ひとかげ
)
さへ
跡
(
あと
)
を
絶
(
た
)
つて、
唯
(
ただ
)
、
檻
(
をり
)
に
入
(
い
)
れられた
小犬
(
こいぬ
)
が一
匹
(
ぴき
)
、
時時
(
ときどき
)
悲
(
かな
)
しさうに、
吠
(
ほ
)
え
立
(
た
)
ててゐた。これらはその
時
(
とき
)
の
私
(
わたくし
)
の
心
(
こころ
)
もちと、
不思議
(
ふしぎ
)
な
位
(
くらゐ
)
似
(
に
)
つかはしい
景色
(
けしき
)
だつた。
私
(
わたくし
)
の
頭
(
あたま
)
の
中
(
うち
)
には
云
(
い
)
ひやうのない
疲勞
(
ひらう
)
と
倦怠
(
けんたい
)
とが、まるで
雪曇
(
ゆきぐも
)
りの
空
(
そら
)
のやうなどんよりした
影
(
かげ
)
を
落
(
おと
)
してゐた。
私
(
わたくし
)
は
外套
(
ぐわいたう
)
のポケットへぢつと
兩手
(
りやうて
)
をつつこんだ
儘
(
まま
)
、そこにはひつてゐる
夕刊
(
ゆふかん
)
を
出
(
だ
)
して
見
(
み
)
ようと
云
(
い
)
ふ
元氣
(
げんき
)
さへ
起
(
おこ
)
らなかつた。
が、やがて
發車
(
はつしや
)
の
笛
(
ふえ
)
が
鳴
(
な
)
つた。
私
(
わたくし
)
はかすかな
心
(
こころ
)
の
寛
(
くつろ
)
ぎを
感
(
かん
)
じながら、
後
(
うしろ
)
の
窓枠
(
まどわく
)
へ
頭
(
あたま
)
をもたせて、
眼
(
め
)
の
前
(
まへ
)
の
停車場
(
ていしやぢやう
)
がずるずると
後
(
あと
)
ずさりを
始
(
はじ
)
めるのを
待
(
ま
)
つともなく
待
(
ま
)
ちかまへてゐた。
所
(
ところ
)
がそれよりも
先
(
さき
)
にけたたましい
日和下駄
(
ひよりげた
)
の
音
(
おと
)
が、
改札口
(
かいさつぐち
)
の
方
(
はう
)
から
聞
(
きこ
)
え
出
(
だ
)
したと
思
(
おも
)
ふと、
間
(
ま
)
もなく
車掌
(
しやしやう
)
の
何
(
なに
)
か
云
(
い
)
ひ
罵
(
ののし
)
る
聲
(
こゑ
)
と
共
(
とも
)
に、
私
(
わたくし
)
の
乘
(
の
)
つてゐる二
等
(
とう
)
室
(
しつ
)
の
戸
(
と
)
ががらりと
開
(
あ
)
いて十三四の
小娘
(
こむすめ
)
が
一人
(
ひとり
)
、
慌
(
あわただ
)
しく
中
(
なか
)
へはひつて
來
(
き
)
た。と
同時
(
どうじ
)
に
一
(
ひと
)
つづしりと
搖
(
ゆ
)
れて、
徐
(
おもむろ
)
に
汽車
(
きしや
)
は
動
(
うご
)
き
出
(
だ
)
した。一
本
(
ぽん
)
づつ
眼
(
め
)
をくぎつて
行
(
ゆ
)
くプラットフォオムの
柱
(
はしら
)
、
置
(
お
)
き
忘
(
わす
)
れたやうな
運水車
(
うんすゐしや
)
、それから
車内
(
しやない
)
の
誰
(
たれ
)
かに
祝儀
(
しうぎ
)
の
禮
(
れい
)
を
云
(
い
)
つてゐる
赤帽
(
あかばう
)
――さう
云
(
い
)
ふすべては、
窓
(
まど
)
へ
吹
(
ふ
)
きつける
煤煙
(
ばいえん
)
の
中
(
なか
)
に、
未練
(
みれん
)
がましく
後
(
うしろ
)
へ
倒
(
たふ
)
れて
行
(
い
)
つた。
私
(
わたくし
)
は
漸
(
やうや
)
くほつとした
心
(
こころ
)
もちになつて、
卷煙草
(
まきたばこ
)
に
火
(
ひ
)
をつけながら、
始
(
はじめ
)
て
懶
(
ものう
)
い
睚
(
まぶた
)
をあげて、
前
(
まへ
)
の
席
(
せき
)
に
腰
(
こし
)
を
下
(
おろ
)
してゐた
小娘
(
こむすめ
)
の
顏
(
かほ
)
を一
瞥
(
べつ
)
した。
それは
油氣
(
あぶらけ
)
のない
髮
(
かみ
)
をひつつめの
銀杏返
(
いてふがへ
)
しに
結
(
ゆ
)
つて、
横
(
よこ
)
なでの
痕
(
あと
)
のある
皸
(
ひび
)
だらけの
兩頬
(
りやうほほ
)
を
氣持
(
きもち
)
の
惡
(
わる
)
い
程
(
ほど
)
赤
(
あか
)
く
火照
(
ほて
)
らせた、
如何
(
いか
)
にも
田舍者
(
ゐなかもの
)
らしい
娘
(
むすめ
)
だつた。しかも
垢
(
あか
)
じみた
萌黄色
(
もえぎいろ
)
の
毛絲
(
けいと
)
の
襟卷
(
えりまき
)
がだらりと
垂
(
た
)
れ
下
(
さが
)
つた
膝
(
ひざ
)
の
上
(
うへ
)
には、
大
(
おほ
)
きな
風呂敷包
(
ふろしきづつ
)
みがあつた。その
又
(
また
)
包
(
つつ
)
みを
抱
(
だ
)
いた
霜燒
(
しもや
)
けの
手
(
て
)
の
中
(
なか
)
には、三
等
(
とう
)
の
赤切符
(
あかぎつぷ
)
が
大事
(
だいじ
)
さうにしつかり
握
(
にぎ
)
られてゐた。
私
(
わたくし
)
はこの
小娘
(
こむすめ
)
の
下品
(
げひん
)
な
顏
(
かほ
)
だちを
好
(
この
)
まなかつた。それから
彼女
(
かのぢよ
)
の
服裝
(
ふくさう
)
が
不潔
(
ふけつ
)
なのもやはり
不快
(
ふくわい
)
だつた。
最後
(
さいご
)
にその二
等
(
とう
)
と三
等
(
とう
)
との
區別
(
くべつ
)
さへも
辨
(
わきま
)
へない
愚鈍
(
ぐどん
)
な
心
(
こころ
)
が
腹立
(
はらだ
)
たしかつた。だから
卷煙草
(
まきたばこ
)
に
火
(
ひ
)
をつけた
私
(
わたくし
)
は、
一
(
ひと
)
つにはこの
小娘
(
こむすめ
)
の
存在
(
そんざい
)
を
忘
(
わす
)
れたいと
云
(
い
)
ふ
心
(
こころ
)
もちもあつて、
今度
(
こんど
)
はポケットの
夕刊
(
ゆふかん
)
を
漫然
(
まんぜん
)
と
膝
(
ひざ
)
の
上
(
うへ
)
へひろげて
見
(
み
)
た。すると
其時
(
そのとき
)
夕刊
(
ゆふかん
)
の
紙面
(
しめん
)
に
落
(
お
)
ちてゐた
外光
(
ぐわいくわう
)
が、
突然
(
とつぜん
)
電燈
(
でんとう
)
の
光
(
ひかり
)
に
變
(
かは
)
つて、
刷
(
すり
)
の
惡
(
わる
)
い
何欄
(
なにらん
)
かの
活字
(
くわつじ
)
が
意外
(
いぐわい
)
な
位
(
くらゐ
)
鮮
(
あざやか
)
に
私
(
わたくし
)
の
眼
(
め
)
の
前
(
まへ
)
へ
浮
(
うか
)
んで
來
(
き
)
た。
云
(
い
)
ふ
迄
(
まで
)
もなく
汽車
(
きしや
)
は
今
(
いま
)
、
横須賀線
(
よこすかせん
)
に
多
(
おほ
)
い
隧道
(
トンネル
)
の
最初
(
さいしよ
)
のそれへはひつたのである。
しかしその
電燈
(
でんとう
)
の
光
(
ひかり
)
に
照
(
て
)
らされた
夕刊
(
ゆふかん
)
の
紙面
(
しめん
)
を
見渡
(
みわた
)
しても、やはり
私
(
わたくし
)
の
憂鬱
(
いううつ
)
を
慰
(
なぐさ
)
むべく
世間
(
せけん
)
は
餘
(
あま
)
りに
平凡
(
へいぼん
)
な
出來事
(
できごと
)
ばかりで
持
(
も
)
ち
切
(
き
)
つてゐた。
講和問題
(
かうわもんだい
)
、
新婦
(
しんぷ
)
、
新郎
(
しんらう
)
、
涜職事件
(
とくしよくじけん
)
、
死亡廣告
(
しばうくわうこく
)
――
私
(
わたくし
)
は
隧道
(
トンネル
)
へはひつた一
瞬間
(
しゆんかん
)
、
汽車
(
きしや
)
の
走
(
はし
)
つてゐる
方向
(
はうかう
)
が
逆
(
ぎやく
)
になつたやうな
錯覺
(
さくかく
)
を
感
(
かん
)
じながら、それらの
索漠
(
さくばく
)
とした
記事
(
きじ
)
から
記事
(
きじ
)
へ
殆
(
ほとんど
)
、
機械的
(
きかいてき
)
に
眼
(
め
)
を
通
(
とほ
)
した。が、その
間
(
あひだ
)
も
勿論
(
もちろん
)
あの
小娘
(
こむすめ
)
が、
恰
(
あたか
)
も
卑俗
(
ひぞく
)
な
現實
(
げんじつ
)
を
人間
(
にんげん
)
にしたやうな
面
(
おも
)
もちで、
私
(
わたくし
)
の
前
(
まへ
)
に
坐
(
すわ
)
つてゐる
事
(
こと
)
を
絶
(
た
)
えず
意識
(
いしき
)
せずにはゐられなかつた。この
隧道
(
トンネル
)
の
中
(
なか
)
の
汽車
(
きしや
)
と、この
田舍者
(
ゐなかもの
)
の
小娘
(
こむすめ
)
と、さうして
又
(
また
)
この
平凡
(
へいぼん
)
な
記事
(
きじ
)
に
埋
(
うづま
)
つてゐる
夕刊
(
ゆふかん
)
と、――これが
象徴
(
しやうちよう
)
でなくて
何
(
なん
)
であらう。
不可解
(
ふかかい
)
な、
下等
(
かとう
)
な、
退屈
(
たいくつ
)
な
人生
(
じんせい
)
の
象徴
(
しやうちよう
)
でなくて
何
(
なん
)
であらう。
私
(
わたくし
)
は一
切
(
さい
)
がくだらなくなつて、
讀
(
よ
)
みかけた
夕刊
(
ゆふかん
)
を
抛
(
はふ
)
り
出
(
だ
)
すと、
又
(
また
)
窓枠
(
まどわく
)
に
頭
(
あたま
)
を
靠
(
もた
)
せながら、
死
(
し
)
んだやうに
眼
(
め
)
をつぶつて、うつらうつらし
始
(
はじ
)
めた。
それから
幾分
(
いくふん
)
か
過
(
す
)
ぎた
後
(
のち
)
であつた。ふと
何
(
なに
)
かに
脅
(
おびやか
)
されたやうな
心
(
こころ
)
もちがして、
思
(
おも
)
はずあたりを
見
(
み
)
まはすと、
何時
(
いつ
)
の
間
(
ま
)
にか
例
(
れい
)
の
小娘
(
こむすめ
)
が、
向
(
むか
)
う
側
(
がは
)
から
席
(
せき
)
を
私
(
わたくし
)
の
隣
(
となり
)
へ
移
(
うつ
)
して、
頻
(
しきり
)
に
窓
(
まど
)
を
開
(
あ
)
けようとしてゐる。が、
重
(
おも
)
い
硝子戸
(
ガラスど
)
は
中中
(
なかなか
)
思
(
おも
)
ふやうにあがらないらしい。あの
皸
(
ひび
)
だらけの
頬
(
ほほ
)
は
愈
(
いよいよ
)
、
赤
(
あか
)
くなつて、
時時
(
ときどき
)
鼻洟
(
はな
)
をすすりこむ
音
(
おと
)
が、
小
(
ちひ
)
さな
息
(
いき
)
の
切
(
き
)
れる
聲
(
こゑ
)
と一しよに、せはしなく
耳
(
みみ
)
へはひつて
來
(
く
)
る。これは
勿論
(
もちろん
)
私
(
わたくし
)
にも、
幾分
(
いくぶん
)
ながら
同情
(
どうじやう
)
を
惹
(
ひ
)
くに
足
(
た
)
るものには
相違
(
さうゐ
)
なかつた。しかし
汽車
(
きしや
)
が
今
(
いま
)
將
(
まさ
)
に
隧道
(
トンネル
)
の
口
(
くち
)
へさしかからうとしてゐる
事
(
こと
)
は、
暮色
(
ぼしよく
)
の
中
(
なか
)
に
枯草
(
かれくさ
)
ばかり
明
(
あかる
)
い
兩側
(
りやうがは
)
の
山腹
(
さんぷく
)
が、
間近
(
まぢか
)
く
窓側
(
まどがは
)
に
迫
(
せま
)
つて
來
(
き
)
たのでも、すぐに
合點
(
がてん
)
の
行
(
ゆ
)
く
事
(
こと
)
であつた。にも
關
(
かかは
)
らずこの
小娘
(
こむすめ
)
は、わざわざしめてある
窓
(
まど
)
の
戸
(
と
)
を
下
(
おろ
)
さうとする、――その
理由
(
りいう
)
が
私
(
わたくし
)
には
呑
(
の
)
みこめなかつた。いや、それが
私
(
わたくし
)
には、
單
(
たん
)
にこの
小娘
(
こむすめ
)
の
氣
(
き
)
まぐれだとしか
考
(
かんが
)
へられなかつた。だから
私
(
わたくし
)
は
腹
(
はら
)
の
底
(
そこ
)
に
依然
(
いぜん
)
として
險
(
けは
)
しい
感情
(
かんじやう
)
を
蓄
(
たくは
)
へながら、あの
霜燒
(
しもや
)
けの
手
(
て
)
が
硝子戸
(
ガラスど
)
を
擡
(
もた
)
げようとして
惡戰苦鬪
(
あくせんくとう
)
する
容子
(
ようす
)
を、まるでそれが
永久
(
えいきう
)
に
成功
(
せいこう
)
しない
事
(
こと
)
でも
祈
(
いの
)
るやうな
冷酷
(
れいこく
)
な
眼
(
め
)
で
眺
(
なが
)
めてゐた。すると
間
(
ま
)
もなく
凄
(
すさま
)
じい
音
(
おと
)
をはためかせて、
汽車
(
きしや
)
が
隧道
(
トンネル
)
へなだれこむと
同時
(
どうじ
)
に、
小娘
(
こむすめ
)
の
開
(
あ
)
けようとした
硝子戸
(
ガラスど
)
は、とうとうばたりと
下
(
した
)
へ
落
(
お
)
ちた。さうしてその四
角
(
かく
)
な
穴
(
あな
)
の
中
(
なか
)
から、
煤
(
すす
)
を
溶
(
とか
)
したやうなどす
黒
(
ぐろ
)
い
空氣
(
くうき
)
が、
俄
(
にはか
)
に
息苦
(
いきぐる
)
しい
煙
(
けむり
)
になつて
濛濛
(
もうもう
)
と
車内
(
しやない
)
へ
漲
(
みなぎ
)
り
出
(
だ
)
した。
元來
(
ぐわんらい
)
咽喉
(
いんこう
)
を
害
(
がい
)
してゐた
私
(
わたくし
)
は、
手巾
(
ハンケチ
)
を
顏
(
かほ
)
に
當
(
あ
)
てる
暇
(
ひま
)
さへなく、この
煙
(
けむり
)
を
滿面
(
まんめん
)
に
浴
(
あ
)
びせられたおかげで、
殆
(
ほとんど
)
、
息
(
いき
)
もつけない
程
(
ほど
)
咳
(
せ
)
きこまなければならなかつた。が、
小娘
(
こむすめ
)
は
私
(
わたくし
)
に
頓著
(
とんぢやく
)
する
氣色
(
けしき
)
も
見
(
み
)
えず、
窓
(
まど
)
から
外
(
そと
)
へ
首
(
くび
)
をのばして、
闇
(
やみ
)
を
吹
(
ふ
)
く
風
(
かぜ
)
に
銀杏返
(
いてふがへ
)
しの
鬢
(
びん
)
の
毛
(
け
)
を
戰
(
そよ
)
がせながら、ぢつと
汽車
(
きしや
)
の
進
(
すす
)
む
方向
(
はうかう
)
を
見
(
み
)
やつてゐる。その
姿
(
すがた
)
を
煤煙
(
ばいえん
)
と
電燈
(
でんとう
)
の
光
(
ひかり
)
との
中
(
なか
)
に
眺
(
なが
)
めた
時
(
とき
)
、もう
窓
(
まど
)
の
外
(
そと
)
が
見
(
み
)
る
見
(
み
)
る
明
(
あかる
)
くなつて、そこから
土
(
つち
)
の
(
にほひ
)
や
枯草
(
かれくさ
)
の
(
にほひ
)
や
水
(
みづ
)
の
(
にほひ
)
が
冷
(
ひやや
)
かに
流
(
なが
)
れこんで
來
(
こ
)
なかつたなら、
漸
(
やうや
)
く
咳
(
せ
)
きやんだ
私
(
わたくし
)
は、この
見知
(
みし
)
らない
小娘
(
こむすめ
)
を
頭
(
あたま
)
ごなしに
叱
(
しか
)
りつけてでも、
又
(
また
)
元
(
もと
)
の
通
(
とほ
)
り
窓
(
まど
)
の
戸
(
と
)
をしめさせたのに
相違
(
さうゐ
)
なかつたのである。
しかし
汽車
(
きしや
)
はその
時分
(
じぶん
)
には、もう
安安
(
やすやす
)
と
隧道
(
トンネル
)
を
辷
(
すべ
)
りぬけて、
枯草
(
かれくさ
)
の
山
(
やま
)
と
山
(
やま
)
との
間
(
あひだ
)
に
挾
(
はさ
)
まれた、
或
(
ある
)
貧
(
まづ
)
しい
町
(
まち
)
はづれの
踏切
(
ふみき
)
りに
通
(
とほ
)
りかかつてゐた。
踏切
(
ふみき
)
りの
近
(
ちか
)
くには、いづれも
見
(
み
)
すぼらしい
藁屋根
(
わらやね
)
や
瓦屋根
(
かはらやね
)
がごみごみと
狹苦
(
せまくる
)
しく
建
(
た
)
てこんで、
踏切
(
ふみき
)
り
番
(
ばん
)
が
振
(
ふ
)
るのであらう、
唯
(
ただ
)
一
旒
(
りう
)
のうす
白
(
しろ
)
い
旗
(
はた
)
が
懶
(
ものう
)
げに
暮色
(
ぼしよく
)
を
搖
(
ゆす
)
つてゐた。やつと
隧道
(
トンネル
)
を
出
(
で
)
たと
思
(
おも
)
ふ――その
時
(
とき
)
その
蕭索
(
せうさく
)
とした
踏切
(
ふみき
)
りの
柵
(
さく
)
の
向
(
むか
)
うに、
私
(
わたくし
)
は
頬
(
ほほ
)
の
赤
(
あか
)
い三
人
(
にん
)
の
男
(
をとこ
)
の
子
(
こ
)
が、
目白押
(
めじろお
)
しに
竝
(
なら
)
んで
立
(
た
)
つてゐるのを
見
(
み
)
た。
彼等
(
かれら
)
は
皆
(
みな
)
、この
曇天
(
どんてん
)
に
押
(
お
)
しすくめられたかと
思
(
おも
)
ふ
程
(
ほど
)
、
揃
(
そろ
)
つて
脊
(
せい
)
が
低
(
ひく
)
かつた。さうして
又
(
また
)
この
町
(
まち
)
はづれの
陰慘
(
いんさん
)
たる
風物
(
ふうぶつ
)
と
同
(
おな
)
じやうな
色
(
いろ
)
の
著物
(
きもの
)
を
著
(
き
)
てゐた。それが
汽車
(
きしや
)
の
通
(
とほ
)
るのを
仰
(
あふ
)
ぎ
見
(
み
)
ながら、一
齊
(
せい
)
に
手
(
て
)
を
擧
(
あ
)
げるが
早
(
はや
)
いか、いたいけな
喉
(
のど
)
を
高
(
たか
)
く
反
(
そ
)
らせて、
何
(
なん
)
とも
意味
(
いみ
)
の
分
(
わか
)
らない
喊聲
(
かんせい
)
を一
生
(
しやう
)
懸命
(
けんめい
)
に
迸
(
ほとばし
)
らせた。するとその
瞬間
(
しゆんかん
)
である。
窓
(
まど
)
から
半身
(
はんしん
)
を
乘
(
の
)
り
出
(
だ
)
してゐた
例
(
れい
)
の
娘
(
むすめ
)
が、あの
霜燒
(
しもや
)
けの
手
(
て
)
をつとのばして、
勢
(
いきほひ
)
よく
左右
(
さいう
)
に
振
(
ふ
)
つたと
思
(
おも
)
ふと、
忽
(
たちま
)
ち
心
(
こころ
)
を
躍
(
をど
)
らすばかり
暖
(
あたたか
)
な
日
(
ひ
)
の
色
(
いろ
)
に
染
(
そ
)
まつてゐる
蜜柑
(
みかん
)
が
凡
(
およ
)
そ
五
(
いつ
)
つ
六
(
むつ
)
つ、
汽車
(
きしや
)
を
見送
(
みおく
)
つた
子供
(
こども
)
たちの
上
(
うへ
)
へばらばらと
空
(
そら
)
から
降
(
ふ
)
つて
來
(
き
)
た。
私
(
わたくし
)
は
思
(
おも
)
はず
息
(
いき
)
を
呑
(
の
)
んだ。さうして
刹那
(
せつな
)
に一
切
(
さい
)
を
了解
(
れうかい
)
した。
小娘
(
こむすめ
)
は、
恐
(
おそ
)
らくはこれから
奉公先
(
ほうこうさき
)
へ
赴
(
おもむ
)
かうとしてゐる
小娘
(
こむすめ
)
は、その
懷
(
ふところ
)
に
藏
(
ざう
)
してゐた
幾顆
(
いくくわ
)
の
蜜柑
(
みかん
)
を
窓
(
まど
)
から
投
(
な
)
げて、わざわざ
踏切
(
ふみき
)
りまで
見送
(
みおく
)
りに
來
(
き
)
た
弟
(
をとうと
)
たちの
勞
(
らう
)
に
報
(
むく
)
いたのである。
暮色
(
ぼしよく
)
を
帶
(
お
)
びた
町
(
まち
)
はづれの
踏切
(
ふみき
)
りと、
小鳥
(
ことり
)
のやうに
聲
(
こえ
)
を
擧
(
あ
)
げた三
人
(
にん
)
の
子供
(
こども
)
たちと、さうしてその
上
(
うへ
)
に
亂落
(
らんらく
)
する
鮮
(
あざやか
)
な
蜜柑
(
みかん
)
の
色
(
いろ
)
と――すべては
汽車
(
きしや
)
の
窓
(
まど
)
の
外
(
そと
)
に、
瞬
(
またた
)
く
暇
(
ひま
)
もなく
通
(
とほ
)
り
過
(
す
)
ぎた。が、
私
(
わたくし
)
の
心
(
こころ
)
の
上
(
うへ
)
には、
切
(
せつ
)
ない
程
(
ほど
)
はつきりと、この
光景
(
くわうけい
)
が
燒
(
や
)
きつけられた。さうしてそこから、
或
(
ある
)
得體
(
えたい
)
の
知
(
し
)
れない
朗
(
ほがらか
)
な
心
(
こころ
)
もちが
湧
(
わ
)
き
上
(
あが
)
つて
來
(
く
)
るのを
意識
(
いしき
)
した。
私
(
わたくし
)
は
昂然
(
かうぜん
)
と
頭
(
あたま
)
を
擧
(
あ
)
げて、まるで
別人
(
べつじん
)
を
見
(
み
)
るやうにあの
小娘
(
こむすめ
)
を
注視
(
ちゆうし
)
した。
小娘
(
こむすめ
)
は
何時
(
いつ
)
かもう
私
(
わたくし
)
の
前
(
まへ
)
の
席
(
せき
)
に
返
(
かへ
)
つて、
不相變
(
あひかはらず
)
皸
(
ひび
)
だらけの
頬
(
ほほ
)
を
萌黄色
(
もえぎいろ
)
の
毛絲
(
けいと
)
の
襟卷
(
えりまき
)
に
埋
(
うづ
)
めながら、
大
(
おお
)
きな
風呂敷包
(
ふろしきづつ
)
みを
抱
(
かか
)
へた
手
(
て
)
に、しつかりと三
等
(
とう
)
切符
(
ぎつぷ
)
を
握
(
にぎ
)
つてゐる。……
私
(
わたくし
)
はこの
時
(
とき
)
始
(
はじ
)
めて、
云
(
い
)
ひやうのない
疲勞
(
ひらう
)
と
倦怠
(
けんたい
)
とを、さうして
又
(
また
)
不可解
(
ふかかい
)
な、
下等
(
かとう
)
な、
退屈
(
たいくつ
)
な
人生
(
じんせい
)
を
僅
(
わづか
)
に
忘
(
わす
)
れる
事
(
こと
)
が
出來
(
でき
)
たのである。
(大正八年四月作)
出典:青空文庫(
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/24453_47037.html
)
青空文庫の奥付
底本:「現代日本文學全集 第三十篇 芥川龍之介集」改造社
1928(昭和3)年1月9日発行
初出:「新潮」
1919(大正8)年5月1日
※表題は底本では、「
蜜柑
(
みかん
)
」となっています。
入力:高柳典子
校正:岡山勝美
2012年2月8日作成
2021年6月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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