八月二十六日床を出でて先ず欄干に
倚る。空よく晴れて朝風やゝ肌寒く露の小萩のみだれを吹いて
葉鶏頭の色鮮やかに穂先おおかた黄ばみたる
田面を見渡す。
薄霧北の山の根に消えやらず、柿の実
撒砂にかちりと音して
宿夢拭うがごとくにさめたり。しばらくの別れを握手に告ぐる妻が
鬢の
後れ
毛に風ゆらぎて
蚊帳の裾ゆら〳〵と秋も早や立つめり。台所に
杯盤の音、戸口に見送りの人声、はや
出立たんと吸物の前にすわれば床の間の
三宝に
枳殻飾りし親の情先ず
有難く、この枳殻誤って足にかけたれば取りかえてよと云う人の情もうれし。盃一順。早く行て船室へ場を取りませねばと立上がれば
婢僕親戚
上り
框に
集いて荷物を車夫に渡す。忘れ物はないか。御座りませぬ。そんなら皆さん御機嫌よくも云った
積りなれどやゝ夢心地なればたしかならず。玄関を出れば人々も
砂利を鳴らしてついて来る。用意の車五輌口々に何やら云えどよくは耳に入らず。から〳〵と引き出せば後にまた御機嫌ようの声々あまり悪からぬものなり。見返る門柳監獄の壁にかくれて流れる水に
漣
動く。
韋駄天を叱する勢いよく
松が
端に
馳け付くれば旅立つ人見送る人
人足船頭ののゝしる声々。車の音。端艇
涯をはなるれば
水棹のしずく屋根板にはら〳〵と音する。
舷のすれあう音ようやく止んで船は中流に出でたり。水害の
名残棒堤にしるく砂利に埋るゝ
蘆もあわれなり。左側の水楼に坐して
此方を見る老人のあればきっと
中風よとはよき見立てと竹村はやせば皆々笑う。
新地の
絃歌聞えぬが
嬉しくて丸山台まで行けば
小蒸汽一
艘後より追越して行きぬ。
昔の大名それの君、すれちがいし船の早さに驚いてあれは何船と問い給えば御附きの人々かしこまりて、あれはちがい船なればかく早くこそと御答え申せば、さらばそのちがい船を造れと仰せられし
勿体なさと父上の話に皆々またどっと笑う間に船は新田堤にかかる。並んで行く船に苅谷氏も乗り居てこれも今日の船にて熊本へ行くなりとかにてその母堂も船窓より首さしのべて挨拶する様ちと
可笑しくなりたれど、じっとこらゆるうちさし込む朝日暑ければにや障子ぴたりとしめたり。程なく新高知丸の
舷側につけば
梯子の混雑例のごとし。荷物を上げ座もかまえ、まだ出帆には間もあればと
岩亀亭へつけさせ昼飯したゝむ。江上油のごとく白鳥飛んでいよいよ青し。欄下の溜池に
海蟹の
鋏動かす様がおかしくて見ておれば人を呼ぶ汽笛の声に何となく心
急き立ちて端艇出させ、道中はことさら気を付けてと父上一句、さらば御無事でと子供等の声々、後に聞いて梯子駆け上れば
艫に水白く泡立ってあたりの景色廻り舞台のようにくる〳〵と廻ってハンケチ帽子をふる見送りの人々。これに応ずる乗客の数々。いつの間にか船首をめぐらせる端艇小さくなりて人の顔も分き難くなれば
甲板に長居は
船暈の元と窮屈なる船室に
這い込み用意の葡萄酒一杯に喉を
沾して
革鞄枕に横になれば甲板にまたもや汽笛の音。船は早や港を出るよと思えど窓外を
覗く元気もなし。『新小説』取り出でて読む。
宙外の「血桜」二、三頁読みかくれば船底にすさまじき物音して船体にわかに傾けり。皆々思わず起き上がる。港口浅せたるためキールの砂利に触るゝなるべし。あまり気味よからねば半頁程の所読んではいたれど何がかいてあったかわからざりしも後にて可笑しかりける。船の進むにつれて
最早気味悪き音はやんで動揺はようやく始まりて早や胸悪きをじっと腹をしめて
専ら小説に気を取られるように
勉むればよう〳〵に胸静まり、さきの葡萄酒の酔心。ほっとしていつしか書中の人となりける。ボーイの昼食をすゝむる声耳に入りたれどもとより起き上がる事さえ出来ざる
吾の渋茶一杯すゝる気もなく黙って読み続くるも実はこのようなる静穏の海上に一杯の食さえ
叶わぬと思われん事の
口惜しければなり。
一篇広告の隅々まで読み終りし頃は身体ようやく動揺になれて心地やゝすが〳〵しくなり、
半ば身を起して窓外を見れば船は今
室戸岬を廻るなり。百尺岩頭燈台の
白堊日にかがやいて漁舟の波のうちに隠見するもの三、四。これに
鴎が飛んでいたと書けば都合よけれども
飛魚一つ飛ばねば致し方もなし。舟傾く時海また傾いて深黒なる奔潮天と地との間に向って狂奔するかと思わるゝ壮観は筆にも言語にも尽すべきにあらず。
甲の
浦沖を過ぐと云う頃ハッチより
飯櫃膳具を取り下ろすボーイの声
八ヶましきは早や夕飯なるべし。少し大胆になりて起き上がり箸を取るに頭思いの
外に軽くて胸も苦しからず。隣りに坐りし三十くらいの叔母様の御給仕
忝しと一碗を傾くればはや
厭になりぬ。寺田寅彦さんと云う方は御座らぬかとわめくボーイの
濁声うるさければ黙って居けるがあまりに呼び立つる故オイ何んだと起き上がれば
貴方ですかと
怪訝顔なるも気の毒なり。何ぞと言葉を
和らげて聞けば、上等室の苅谷さんからこれを貴方へ、と差出す紙包あくれば
梨子二つ。有難しとボーイに礼は云うて
早速頂戴するに半分ばかりにして胸つかえたれば勿体なけれど残りは窓から外へ投げ出してまた横になれば室内ようやく暗く人々の苦にせし夕日も消えて甲板を下り来る人多くなり、窮屈さはいっそう甚だしけれど吾一人にもあらねば致し方もなし。隣りに言葉
訛り奇妙なる二人連れの
饒舌もいびきの音に変って、向うのせなあが
追分を歌い始むれば甲板に誰れの持て来たものか
轡虫の鳴き出したるなど面白し。甲板をあちこちする船員の靴音がコツリ〳〵と言文一致なれば書く処なり。夢魂いつしか飛んで赴く処は
鷹城のほとりなりけん、なつかしき人々の顔まざ〳〵と見ては驚く舷側の潮の音。ねがえりの耳に革鞄の仮枕いたずらに堅きも悲しく心細くわれながら
浅猿しき事なり。残夢再びさむれば、もう
神戸が見えますると隣りの女に告ぐるボーイの声。さてこそとにわかに元気つきて窓を
覗きたれど月なき空に
淡路島も見え分かず。再びとろ〳〵として覚むれば船は既に港内に入って窓外にきらめく舷燈の赤き青き。汽笛の
吼ゆるごとき叫ぶがごとき深夜の
寂寞と云う事知らぬ港ながら帆柱にゆらぐ星の光はさすがに静かなり。革鞄と毛布と
蝙蝠傘とを両手一ぱいにかかえて狭き梯子を上って甲板に上がれば既に船は
桟橋へ着きていたり。苅谷氏に昨夕の礼をのべて船を下り安松へ上がる。岡崎賢七とか云う人と同室へ入れられ、
宅へ
端書したゝむ。時計を見ればまだ三時なり。しかし六時の急行に乗る積りなれば落付いて眠る間もなかるべしと漱石師などへ用もなき端書したゝむ。ラムネを取りにやりたれど夜中にて無し、氷も梨も同様なりとの事なり。退屈さの茶を
啜れば胸ふくれて心地よからず。とかくするうち東の空白み渡りて
茜の
一抹と共に星の光まばらになり、軒下に車の音しげくなり、時計を見れば既に五時半なり。急いで朝飯かき込み岡崎氏と停車場に
馳けつくれば
用捨気もなき汽車進行を始めて吐き出す煙の音乗り遅れし吾等を嘲るがごとし。珍しき事にもあらねど
忌々しきものなり。先ず荷物を預けんとて二人のを一緒に
衡らす。運賃弐円とは馬鹿々々しけれど致し方もなし。
楠公へでも行くべしとて
出立たんとせしがまてしばし余は名古屋にて一泊すれども岡崎氏は直行なれば手荷物はやはり別にすべしとて再び切符の切り換えを求む。駅員の不機嫌顔甚だしきも官線はやはり官線だけの権力とか云うものあるべしと、かしこみて願い奉りようよう切符を頂戴して立ちいずれば吹き上ぐる朝嵐に
藁帽飛んでぬかるみを走る事
数間、ようやく追い付きて
取止めたれど泥にまみれてあまり立派ならぬ帽の更に見ばえを落したる重ね〳〵の失敗なり。旅なればこれも腹は立たず。
元町を線路に沿うて行く。道傍の氷店に入ってラムネ一瓶に夜来の渇望も満たしたればこゝに小荷物を預けて
楠公祠まで行きたり。亀の遊ぶのを見たりとて面白くもなし
湊川へ行て見んとて堤を上る。昼なれば白面の
魎魅も影をかくして軒を並ぶる小亭
閑として人の気あるは稀なり。並木の影涼しきところ木の根に腰かけて
憩えば
晴嵐梢を鳴らして衣に入る。枯枝を拾いて砂に
嗚呼忠臣など落書すれば行き来の人吾等を見る。半時間ほども両人無言にて美人も通りそうにもなし。ようよう立上がりて下流へ行く。河とは名ばかりの黄色き砂に水の気なくて、照りつく日のきらめく暑そうなり。川口に当りて海面鏡のごとく帆船の大き小さきも見ゆ。多門通りより元の道に出てまた前の氷屋に一杯の玉壺を呼んで荷物を受取り停車場に行く。今ようやく八時なればまだ四時間はこゝに待つべしと思えば堪えられぬ
欠伸に向うに坐れる姉様けゞん顔して吾を見る。時これ金と云えばこの四時間何金に当るや知らねどあくびと
煙草の煙に消すも残念なり、いざや人物の観察にても始めんと目を見開けば隣りに腰かけし
印半天の煙草の火を借らんとて誤りて我が手に火を落しあわてて引きのけたる我がさまの吾ながら可笑しければ思わず噴き出す。この男バナナと
隠元豆を入れたる
提籠を携えたるが
領しるしの
水雷亭とは珍しきと見ておればやがてベンチの隅に倒れてねてしまいける。富米野と云う男熊本にて見知りたるも来れり。同席なりし東も来り野並も来る。
こゝへ
新に入り来りし二人連れはいずれ新婚旅行と見らるゝ
御出立。すじ向いに座を構えたまうを帽の
庇よりうかゞい奉れば、花の御かんばせすこし痩せたまいて時々小声に何をか物語りたまう
双頬に薄紅さして
面はゆげなり。人々の視線一度に
此方へ向かえば新郎のパナマ帽もうつむきける。この二人
間もなく大阪行のにて去る。引きちがえて入り来る西洋人のたけ低く顔のたけも著しく短きが赤き顔にこればかり立派なる
鬚ひねりながら煙草を
人力に買わせて向側のプラットフォームに腰をかけ煙草取り出して鬚をかい上ぐるなどあまり上等社会にもあらざるべし。これと同じ白衣着けたる連れの男は顔長く
頬髯見事なれど歩み方の変なるは義足なるべし。この間改札口幾度か開かれまた閉じられて汽笛の止む間もなし。人来り人去っていつまでも待合の隅に居残るは吾等のみなるぞつまらなき。ようやく十二時となりて、プラットフォームに出でんとすればこの次のなりとてつきかえされし、重ね〳〵の失敗なりける。ようやくにして新橋行のに乗り込む。客車狭くして腰掛のうす汚きも我慢して座を占むれば窓外のもの動き出して新聞売の声後になる。右には未だ青き稲田を
距てて白砂青松の中に白堊の高楼
蜑の
塩屋に交じり、その上に一抹の海青く汽船の往復する見ゆ。左に従い来る山々
山骨黄色く現われてまばらなる小松ちびけたり。中に
兜の鉢を伏せたらんがごとき山見え隠れするを向いの商人
体の男に問う。何とか云いしも車の音に消されて判らず。再三問いかえせしも
訛の耳なれぬ故か
終にわからず。気の毒にもあり可笑しくもあれば終にそのままに止みぬ。後にて聞けば
甲山と云う由。あたりの山と著しく模様変れるはいずれ別に火山作用にて隆起せるなるべし。これのみは樹木黒く茂りたり。
蝉なくや小松まばらに山禿たり
など例の癖そろ〳〵出で来る。大阪にて海南学校出らしき
黒袴下り、乗客も増したり。幸いに天気あまり暑からざればさまでに苦しからず。山崎を過ぐれば
与一兵衛の家はと聞けど知る人なし。
勘平らしき男も見えず、ただ隣りの男の眼付やゝ
定九郎らしきばかりなり。五十くらいの田舎女の
櫛取り出して
頻りに髪
梳るをどちらまでと問えば「京まで行くのでがんす。息子が来いと云いますのでなあ」と言葉つき不思議なるを、国はと問えば広島近在のものなる由。飾り気一点なきも
樸訥のさま気に入りてさま〴〵話しなどするうち京都々々と呼ぶ車掌の声にあわたゞしく下りたるが群集の中にかくれたり。京に入りて息子とかの宿に行くまでの途中いさゝか覚束なく思わるゝは他人のいらぬ心配かは知らず。やがて
稲荷を過ぐ。伏見人形に思い出す事多く、祭り日の
幟立並ぶ景色に
松蕈添えて画きし
不折の筆など胸に浮びぬ。
山科を過ぎて竹藪ばかりの里に入る。左手の小高き岡の向うに大石
内蔵助の住家今に残れる由。先ずとなせ
小浪が
道行姿心に浮ぶも
可笑し。やゝ曇り
初めし空に
篁の色いよ〳〵深くして清く静かなる里のさまいとなつかしく、願わくば一度は
此処にしばらくの仮りの
庵を結んで篁の虫の声
小田の
蛙の音にうき世の塵に
汚れたる
腸すゝがんなど思ううち汽車はいつしか上り坂にかゝりて両側の山迫り来る。山田の
畔に
しれいのごとき草花面白きは何と云うものにや。この辺りまで畑打つ男女
何処となく悠長に京びたるなどもうれし。茶畑多くあり。春なれば茶摘みの
様汽車の窓より眺めて白手拭の群に
あばよなどするも興あるべしなど思いける。
大谷に着く。この上は
逢坂なり。この名を聞きて思い出す昔の語り草はならぶるも
管なるべし。さねかずらとはどんなものかしらず、
蔦這いでる崖に清水したゝって線路脇の小溝に落つる音涼し。窓より首さしのべて行手を見るに
隧道眼前に
然として向うの口
銭のまわりほどに見ゆ。これを過ぐれば左に
鳰の
海蒼くして漣

水色
縮緬を延べたらんごとく、遠山
糢糊として水の果ても見えず。左に近く大津の町つらなりて、
三井寺木立に見えかくれす。
唐崎はあの辺かなど思えど身地を踏みし事なければ
堅田も石山も
粟津もすべて判らず。九つの
歳父母に従うて東海道を下りし時こゝの水楼に
魚の塩焼の骨と肉とが面白く離るゝを面白がりし事など思い出してはこの頃の吾なつかしく、父母の老い給いぬる今悲しかり。さては
白湾子と共に名古屋に遊びし帰途伊勢を経て雪夜こゝに一夜を明かせし淋しさなどもさま〴〵偲ばる。草津の
姥が
餅も昔のなじみなれば求めんと思ううち汽車出でたれば果さず。
瀬田の
長橋渡る人稀に、
蘆荻いたずらに風に
戦ぐを見る。江心白帆の一つ二つ。浅き
汀に
簾様のもの立て廻せるは
漁りの
業なるべし。
百足山昔に変らず、
田原藤太の名と共にいつまでも
稚き耳に響きし事は忘れざるべし。湖上の景色見飽かざる間に彦根城いつしか後になり、
胆吹山に綿雲這いて
美濃路に入れば空は雨模様となる。大垣の商人らしき五十ばかりの男
頻りに大垣の近況を語り
関が
原の
戦を説く。あたりようやく薄暗く
工夫体の男
甲走りたる声張り上げて歌い出せば商人の娘堪えかねてキヽと笑う。
長良川木曽川いつの間にか越えて清洲と云うに、この次は名古屋よと
身支度する間に電燈の蒼白き光曇れる空に映じ、はやさらばと一行に別れてプラットフォームに下り立つ。
丸文へと思いしが知らぬ家も興あるべしと停車場前の丸万と云うに入る。二階の一室狭けれども
今宵はゆるやかに寝るべしと思えば船中の窮屈さ
蒸暑さにくらべて中々に心安かり。浴後の茶漬も快く、窓によれば
驟雨沛然としてトタン屋根を伝う点滴の音すゞしく、電燈の光地上にうつりて電車の往きかう音も騒がしからず。こうなれば宿帳つけに来し男の濡れ髪かき分けたるも涼しく、隣室にチリンと鳴るコップの音も涼しく、向うの室の欄干に
倚りし女の白き
浴衣も涼しげなり。昨日よりの疲れ一時に洗い去られしようにてからだのび〳〵となる。手を
拍ちて
床をのべさせ横になれば新しき浴衣の肌さわりも快く、隣室の話声遠きように聞えし後は魂いずこへか飛んで藻ぬけの殻となり電燈消しに来し事もいつか知らず。
円かなる夢百里の外に飛んで眼覚むれば有明の絹燈
蚊帳の外に
朧に、時計を見れば早や五時なり。手洗い口すゝぎなどするうち空ほの〴〵と明けはなれたるが昨夜の雨の名残まだ晴れやらず、蚊帳をまくる風しめっぽきも心悪からず。膳に向かえば大野味噌汁。
秋琴楼に
仮寓の昔も思い出さしむ。勘定をすませ丸く肥え太りたる
脊低き女に革鞄
提げさして停車場へ行く様、痩馬と牝豚の
道行とも見るべしと
可笑し。この豚存外に心利きたる奴にて甲斐々々しく何かと世話しくれたり。間もなく駆け来る列車の一隅に座を構えて煙草取り出せばベルの音
忙しく合図の呼子。汽笛の声。
熱田の
八剣森陰より伏し拝みてセメント会社の煙突に白湾子と焼芋かじりながらこのあたりを
徘徊せし当時を思い浮べては
宮川行の夜船の寒さ。さては
五十鈴の流れ
二見の浜など昔の草枕にて居眠りの夢を結ばんとすれどもならず。
大府岡崎
御油なんど昔しのばるゝ事多し。豊橋も後になり、
鷲津より
舞坂にかゝる頃よりは道ようやく海岸に近づきて
浜名の湖窓外に青く、右には
遠州洋杳として天に連なる。漁舟江心に向かいてこぎ出せば
欸乃風に漂うて白砂の上に黒き鳥の群れ居るなどは『
十六夜日記』そのままなり。浜松にては下りる人乗る人共に多く窮屈さ更に甚だしくなりぬ。
掛川と云えば
佐夜の
中山はと見廻せど僅かに九歳の冬
此処を過ぎしなればあたりの景色さらに見覚えなく、島田
藤枝など云う名のみ耳に残れるくらいなれば
覚束なし。
金谷の
隧道長くて灯を
点したる、これは昔蛇の住みし穴かと云いししれ者の事など思い出す。静岡にて乗客多く入れ換りたれど美人らしきは遂に乗らず。東の方は
村雨すと覚しく、灰色の雲の中に隠見する
岬頭いくつ
糢糊として墨絵に似たり。それに引きかえて西の空
麗しく晴れて白砂青松に日の光鮮やかなる、これは水彩画にも
譬うべし。雨と晴れとの中にありて雲と共に東へ〳〵と行くなれば、ふるかと思えば晴れ晴るゝかと思えばまた大粒の雨
玻璃窓を斜に打つ変幻極まりなき面白さに思わず
窓縁をたたいて妙と呼ぶ。車の音に消されて他人に聞えざりしこそ仕合せなりける。
大井川の水
涸れ〳〵にして
蛇籠に草離々たる、越すに越されざりし「
朝貌日記」何とかの段は更なり、
雲助とかの肩によって渡る御侍、
磧に
錫杖立てて歌よむ
行脚など廻り燈籠のように眼前に浮ぶ心地せらる。街道の並木の松さすがに昔の名残を止むれども道脇の茶店いたずらにあれて
鳥毛挟箱の行列見るに
由なく、僅かに
馬士歌の哀れを止むるのみなるも改まる
御代に余命つなぎ得し白髪の
媼が
囲炉裏のそばに
水洟すゝりながら孫
玄孫への語り草なるべし。
このあたりの景色
北斎が道中画譜をそのままなり。
興津を過ぐる頃は雨となりたれば富士も
三保も見えず、真青なる海に白浪風に騒ぎ
漁る船の影も見えず、磯辺の砂雨にぬれてうるわしく、先手の
隧道もまた画中のものなり。
此処小駅ながら近来海水浴場開けて都府の人士の避暑に来るが多ければ次第に繁昌する由なり。
岩淵の辺
甘蔗畑多くあり。折から畑に入るゝ肥料なるべし異様のかおり鼻を突きて静岡にて求めし弁当開ける人の胸悪くせしも可笑しかりける。沼津を過ぐれども雨雲ふさがりて富士も見えず。
御殿場にて乗客更に増したる窮屈さ、こうなれば日の照らぬがせめてもの仕合せなり。
小山。
山北も近づけば道は次第上りとなりて渓流脚下に遠く音あり。
一八の屋根に鶏鳴きて雨を帯びたる風山田に青く、車中には御殿場より乗りし爺が
提げたる鈴虫なくなど、海抜幾百尺の静かさ淋しささま〴〵に嬉しく、哀れを止むる馬士歌の箱根八里も山を貫き
渓をかける汽車なれば
関守の前に
額地にすりつくる面倒もなければ煙草一服の間に山北につく。ひとしきり来る村雨に鮎の
鮓売る男の袖しとゞなるもあわれ。このあたり複線路の工事中と見えたり。山霧深うして記号標の
芒の中に淋しげなる、霜夜の頃やいかに淋しからん。
これより下り坂となり、
国府津近くなれば天また晴れたり。今越えし山に綿雲かゝりて其処とも見え分かず。さきの日国府津にて宿を拒まれようやくにして捜し当てたる町外れの宿に二階の絃歌を騒がしがりし夕、夕陽の中に富士
足柄を望みし折の嬉しさなど思い出してはあの家こそなど見廻すうちにこゝも後になり、
大磯にてはまた乗客増す。海水浴がえりの女の群の一様に大なる藁帽子かぶりたるなど目に立つ。柵の外より
頻りに汽車の方を覗く
美髯公のいずれ
御前らしきが顔色の著しく白き西洋人めくなど土地柄なるべし。立派なる洋館も散見す。
大船にて横須賀行の軍人下りたるが乗客はやはり増すばかりなり。隣りに坐りし静岡の商人二人しきりに関西の暴風を語り米相場を説けば向うに腰かけし
文身の老人御殿場の料理屋の亭主と云えるが富士登山の景況を語る。近頃は西洋人も婦人まで
草鞋にて登る由なりなどしきりに得意の様なりしが果ては問わず語りに人の難儀をよそに見られぬ私の性分までかつぎ出して
少時も
饒舌り止めず、面白き爺さんなり。
程が
谷近くなれば近き頃の横浜の大火乗客の
話柄を賑わす。これより急行となりたれば神奈川鶴見などは止らず。夕陽海に沈んで煙波
杳たる品川の湾に七砲台
朧なり。何の祝宴か磯辺の水楼に紅燈山形につるして絃歌湧き、沖に上ぐる花火夕闇の空に声なし。洲崎の灯影長うして江水
漣
清く、電燈
煌として列車長きプラットフォームに入れば吐き出す人波。下駄の音靴のひゞき。
(明治三十二年九月)