湯ヶ原より
国木田 独歩
内山君
(
うちやまくん
)
足下
(
そくか
)
何故
(
なぜ
)
そう
急
(
きふ
)
に
飛
(
と
)
び
出
(
だ
)
したかとの
君
(
きみ
)
の
質問
(
しつもん
)
は
御尤
(
ごもつとも
)
である。
僕
(
ぼく
)
は
不幸
(
ふかう
)
にして
之
(
これ
)
を
君
(
きみ
)
に
白状
(
はくじやう
)
してしまはなければならぬことに
立到
(
たちいた
)
つた。
然
(
しか
)
し
或
(
あるひ
)
はこれが
僕
(
ぼく
)
の
幸
(
さいはひ
)
であるかも
知
(
し
)
れない、たゞ
僕
(
ぼく
)
の
今
(
いま
)
の
心
(
こゝろ
)
は
確
(
たし
)
かに
不幸
(
ふかう
)
と
感
じて
居
(
を
)
るのである、これを
幸
(
さいはひ
)
であつたと
知
ることは
今後
(
こんご
)
のことであらう。しかし
將來
(
このさき
)
これを
幸
(
さいはひ
)
で
あつた
と
知
(
し
)
る
時
(
とき
)
と
雖
(
いへど
)
も、たしかに
不幸
(
ふかう
)
で
ある
と
感
(
かん
)
ずるに
違
(
ちが
)
いない。
僕
(
ぼく
)
は
知
(
し
)
らないで
宜
(
よ
)
い、
唯
(
た
)
だ
感
(
かん
)
じたくないものだ。
『こゝに
一人
(
ひとり
)
の
少女
(
せうぢよ
)
あり。』
小説
(
せうせつ
)
は
何時
(
いつ
)
でもこんな
風
(
ふう
)
に
初
(
はじ
)
まるもので、
批評家
(
ひゝやうか
)
は
戀
(
こひ
)
の
小説
(
せうせつ
)
にも
飽
(
あ
)
き〳〵したとの
御注文
(
ごちゆうもん
)
、
然
(
しか
)
し
年若
(
としわか
)
いお
互
(
たがひ
)
の
身
(
み
)
に
取
(
と
)
つては、
事
(
こと
)
の
實際
(
じつさい
)
が
矢張
(
やは
)
りこんな
風
(
ふう
)
に
初
(
はじま
)
るのだから
致
(
いた
)
し
方
(
かた
)
がない。
僕
(
ぼく
)
は
批評家
(
ひゝやうか
)
の
御注文
(
ごちゆうもん
)
に
應
(
おう
)
ずべく
神樣
(
かみさま
)
が
僕
(
ぼく
)
及
(
およ
)
び
人類
(
じんるゐ
)
を
造
(
つく
)
つて
呉
(
く
)
れなかつたことを
感謝
(
かんしや
)
する。
去
(
さる
)
十三
日
(
にち
)
の
夜
(
よ
)
、
僕
(
ぼく
)
は
獨
(
ひと
)
り
机
(
つくゑ
)
に
倚掛
(
よりかゝ
)
つて
ぼんやり
考
(
かんが
)
へて
居
(
ゐ
)
た。十
時
(
じ
)
を
過
(
す
)
ぎ
家
(
いへ
)
の
者
(
もの
)
は
寢
(
ね
)
てしまひ、
外
(
そと
)
は
雨
(
あめ
)
がしと〳〵
降
(
ふ
)
つて
居
(
ゐ
)
る。
親
(
おや
)
も
兄弟
(
きやうだい
)
もない
僕
(
ぼく
)
の
身
(
み
)
には、こんな
晩
(
ばん
)
は
頗
(
すこぶ
)
る
感心
(
かんしん
)
しないので、おまけに
下宿住
(
げしゆくずまひ
)
、
所謂
(
いはゆ
)
る
半夜燈前十年事
、
一時和雨到心頭
といふ一
件
(
けん
)
だから
堪忍
(
たまつ
)
たものでない、まづ
僕
(
ぼく
)
は
泣
(
な
)
きだしさうな
顏
(
かほ
)
をして
凝然
(
じつ
)
と
洋燈
(
ランプ
)
の
傘
(
かさ
)
を
見
(
み
)
つめて
居
(
ゐ
)
たと
想像
(
さう〴〵
)
し
給
(
たま
)
へ。
此時
(
このとき
)
フと
思
(
おも
)
ひ
出
(
だ
)
したのはお
絹
(
きぬ
)
のことである、お
絹
(
きぬ
)
、お
絹
(
きぬ
)
、
君
(
きみ
)
は
未
(
ま
)
だ
此名
(
このな
)
にはお
知己
(
ちかづき
)
でないだらう。
君
(
きみ
)
ばかりでない、
僕
(
ぼく
)
の
朋友
(
ほういう
)
の
中
(
うち
)
、
何人
(
なんぴと
)
も
未
(
いま
)
だ
此名
(
このな
)
が
如何
(
いか
)
に
僕
(
ぼく
)
の
心
(
こゝろ
)
に
深
(
ふか
)
い、
優
(
やさ
)
しい、
穩
(
おだや
)
かな
響
(
ひゞき
)
を
傳
(
つた
)
へるかの
消息
(
せうそく
)
を
知
(
し
)
らないのである。『こゝに
一人
(
ひとり
)
の
少女
(
せうぢよ
)
あり、
其名
(
そのな
)
を
絹
(
きぬ
)
といふ』と
僕
(
ぼく
)
は
小説批評家
(
せうせつひゝやうか
)
への
面當
(
つらあて
)
に
今
(
いま
)
一
度
(
ど
)
特筆
(
とくひつ
)
大書
(
たいしよ
)
する。
僕
(
ぼく
)
は
此
(
この
)
少女
(
せうぢよ
)
を
思
(
おも
)
ひ
出
(
だ
)
すと
共
(
とも
)
に『
戀
(
こひ
)
しい』、『
見
(
み
)
たい』、『
逢
(
あ
)
ひたい』の
情
(
じやう
)
がむら〳〵とこみ
上
(
あ
)
げて
來
(
き
)
た。
君
(
きみ
)
が
何
(
なん
)
と
言
(
い
)
はうとも
實際
(
じつさい
)
さうであつたから
仕方
(
しかた
)
がない。
此
(
この
)
天地間
(
てんちかん
)
、
僕
(
ぼく
)
を
愛
(
あい
)
し、
又
(
また
)
僕
(
ぼく
)
が
愛
(
あい
)
する
者
(
もの
)
は
唯
(
た
)
だ
此
(
この
)
少女
(
せうぢよ
)
ばかりといふ
風
(
ふう
)
な
感情
(
こゝろもち
)
が
爲
(
し
)
て
來
(
き
)
た。あゝ
是
(
こ
)
れ『
浮
(
う
)
きたる
心
(
こゝろ
)
』だらうか、
何故
(
なにゆゑ
)
に
自然
(
しぜん
)
を
愛
(
あい
)
する
心
(
こゝろ
)
は
清
(
きよ
)
く
高
(
たか
)
くして、
少女
(
せうぢよ
)
(
人間
(
にんげん
)
)を
戀
(
こ
)
ふる
心
(
こゝろ
)
は『
浮
(
う
)
きたる
心
(
こゝろ
)
』、『いやらしい
心
(
こゝろ
)
』、『
不健全
(
ふけんぜん
)
なる
心
(
こゝろ
)
』だらうか、
僕
(
ぼく
)
は一
念
(
ねん
)
こゝに
及
(
およ
)
べば
世
(
よ
)
の
倫理學者
(
りんりがくしや
)
、
健全先生
(
けんぜんせんせい
)
、
批評家
(
ひゝやうか
)
、なんといふ
動物
(
どうぶつ
)
を
地球外
(
ちきうぐわい
)
に
放逐
(
はうちく
)
したくなる、
西印度
(
にしいんど
)
の
猛烈
(
まうれつ
)
なる
火山
(
くわざん
)
よ、
何故
(
なにゆゑ
)
に
爾
(
なんぢ
)
の
熱火
(
ねつくわ
)
を
此種
(
このしゆ
)
の
動物
(
どうぶつ
)
の
頭上
(
づじやう
)
には
注
(
そゝ
)
がざりしぞ!
僕
(
ぼく
)
はお
絹
(
きぬ
)
が
梨
(
なし
)
をむいて、
僕
(
ぼく
)
が
獨
(
ひとり
)
で
入
(
は
)
いつてる
浴室
(
よくしつ
)
に、そつと
持
(
もつ
)
て
來
(
き
)
て
呉
(
く
)
れたことを
思
(
おも
)
ひ、
二人
(
ふたり
)
で
溪流
(
けいりう
)
に
沿
(
そ
)
ふて
散歩
(
さんぽ
)
したことを
思
(
おも
)
ひ、
其
(
その
)
優
(
やさ
)
しい
言葉
(
ことば
)
を
思
(
おも
)
ひ、
其
(
その
)
無邪氣
(
むじやき
)
な
態度
(
たいど
)
を
思
(
おも
)
ひ、
其
(
その
)
笑顏
(
ゑがほ
)
を
思
(
おも
)
ひ、
思
(
おも
)
はず
机
(
つくゑ
)
を
打
(
う
)
つて、『
明日
(
あす
)
の
朝
(
あさ
)
に
行
(
ゆ
)
く!』と
叫
(
さ
)
けんだ。
お
絹
(
きぬ
)
とは
何人
(
なんぴと
)
ぞ、
君
(
きみ
)
驚
(
おどろ
)
く
勿
(
なか
)
れ、
藝者
(
げいしや
)
でも
女郎
(
ぢよらう
)
でもない、
海老茶
(
えびちや
)
式部
(
しきぶ
)
でも
島田
(
しまだ
)
の
令孃
(
れいぢやう
)
でもない、
美人
(
びじん
)
でもない、
醜婦
(
しうふ
)
でもない、たゞの
女
(
をんな
)
である、
湯原
(
ゆがはら
)
の
温泉宿
(
をんせんやど
)
中西屋
(
なかにしや
)
の
女中
(
ぢよちゆう
)
である!
今
(
いま
)
僕
(
ぼく
)
の
斯
(
か
)
う
筆
(
ふで
)
を
執
(
と
)
つて
居
(
を
)
る
家
(
うち
)
の
女中
(
ぢよちゆう
)
である!
田舍
(
ゐなか
)
の
百姓
(
ひやくしやう
)
の
娘
(
むすめ
)
である!
小田原
(
をだはら
)
は
大都會
(
だいとくわい
)
と
心得
(
こゝろえ
)
て
居
(
ゐ
)
る
田舍娘
(
ゐなかむすめ
)
! この
娘
(
むすめ
)
を
僕
(
ぼく
)
が
知
(
し
)
つたのは
昨年
(
さくねん
)
の
夏
(
なつ
)
、
君
(
きみ
)
も
御存知
(
ごぞんぢ
)
の
如
(
ごと
)
く
病後
(
びやうご
)
、
赤
(
せき
)
十
字社
(
じしや
)
の
醫者
(
いしや
)
に
勸
(
すゝ
)
められて二ヶ
月間
(
げつかん
)
此
(
この
)
湯原
(
ゆがはら
)
に
滯在
(
たいざい
)
して
居
(
ゐ
)
た
時
(
とき
)
である。
十四
日
(
か
)
の
朝
(
あさ
)
僕
(
ぼく
)
は
支度
(
したく
)
も
匆々
(
そこ〳〵
)
に
宿
(
やど
)
を
飛
(
と
)
び
出
(
だ
)
した。
銀座
(
ぎんざ
)
で
半襟
(
はんえり
)
、
簪
(
かんざし
)
、
其他
(
そのた
)
娘
(
むすめ
)
が
喜
(
よろこ
)
びさうな
品
(
しな
)
を
買
(
か
)
ひ
整
(
とゝの
)
へて
汽車
(
きしや
)
に
乘
(
の
)
つた。
僕
(
ぼく
)
は
今日
(
けふ
)
まで
女
(
をんな
)
を
喜
(
よろこ
)
ばすべく
半襟
(
はんえり
)
を
買
(
か
)
はなかつたが、
若
(
も
)
し
彼
(
あ
)
の
娘
(
むすめ
)
に
此等
(
これら
)
の
品
(
しな
)
を
與
(
やつ
)
たら
如何
(
どんな
)
に
喜
(
よろ
)
こぶだらうと
思
(
おも
)
ふと、
僕
(
ぼく
)
もうれしくつて
堪
(
たま
)
らなかつた。
見榮坊
(
みえばう
)
!
世
(
よ
)
には
見榮
(
みえ
)
で
女
(
をんな
)
に
物
(
もの
)
を
與
(
や
)
つたり、
與
(
や
)
らなかつたりする
者
(
もの
)
が
澤山
(
たくさん
)
ある。
僕
(
ぼく
)
は
心
(
こゝろ
)
から
此
(
この
)
貧
(
まづ
)
しい
贈物
(
おくりもの
)
を
我愛
(
わがあい
)
する
田舍娘
(
ゐなかむすめ
)
に
呈上
(
ていじやう
)
する!
夜來
(
やらい
)
の
雨
(
あめ
)
はあがつたが、
空氣
(
くうき
)
は
濕
(
しめ
)
つて、
空
(
そら
)
には
雲
(
くも
)
が
漂
(
たゞよ
)
ふて
居
(
ゐ
)
た。
夏
(
なつ
)
の
初
(
はじめ
)
の
旅
(
たび
)
、
僕
(
ぼく
)
は
何
(
なに
)
よりも
是
(
これ
)
が
好
(
すき
)
で、
今日
(
こんにち
)
まで
數々
(
しば〳〵
)
此
(
この
)
季節
(
きせつ
)
に
旅行
(
りよかう
)
した、
然
(
しか
)
しあゝ
何等
(
なんら
)
の
幸福
(
かうふく
)
ぞ、
胸
(
むね
)
に
樂
(
たの
)
しい、
嬉
(
う
)
れしい
空想
(
くうさう
)
を
懷
(
いだ
)
きながら、
今夜
(
こんや
)
は
彼
(
あ
)
の
娘
(
むすめ
)
に
遇
(
あ
)
はれると
思
(
おも
)
ひながら、
今夜
(
こんや
)
は
彼
(
あ
)
の
清
(
きよ
)
く
澄
(
す
)
んだ
温泉
(
をんせん
)
に
入
(
はひ
)
られると
思
(
おも
)
ひながら、
此
(
この
)
好時節
(
かうじせつ
)
に
旅行
(
りよかう
)
せんとは。
國府津
(
こふづ
)
で
下
(
お
)
りた
時
(
とき
)
は
日光
(
につくわう
)
雲間
(
くもま
)
を
洩
(
も
)
れて、
新緑
(
しんりよく
)
の
山
(
やま
)
も、
野
(
の
)
も、
林
(
はやし
)
も、
眼
(
め
)
さむるばかり
輝
(
かゞや
)
いて
來
(
き
)
た。
愉快
(
ゆくわい
)
!
電車
(
でんしや
)
が
景氣
(
けいき
)
よく
走
(
はし
)
り
出
(
だ
)
す、
函嶺
(
はこね
)
諸峰
(
しよほう
)
は
奧
(
おく
)
ゆかしく、
嚴
(
おごそ
)
かに、
面
(
おもて
)
を
壓
(
あつ
)
して
近
(
ちかづ
)
いて
來
(
く
)
る!
輕
(
かる
)
い、
淡々
(
あは〳〵
)
しい
雲
(
くも
)
が
沖
(
おき
)
なる
海
(
うみ
)
の
上
(
うへ
)
を
漂
(
たゞよ
)
ふて
居
(
を
)
る、
鴎
(
かもめ
)
が
飛
(
と
)
ぶ、
浪
(
なみ
)
が
碎
(
くだ
)
ける、そら
雲
(
くも
)
が
日
(
ひ
)
を
隱
(
か
)
くした!
薄
(
うす
)
い
影
(
かげ
)
が
野
(
の
)
の
上
(
うへ
)
を、
海
(
うみ
)
の
上
(
うへ
)
を
這
(
は
)
う、
忽
(
たちま
)
ち
又
(
また
)
明
(
あか
)
るくなる、
此時
(
このとき
)
僕
(
ぼく
)
は
決
(
けつ
)
して
自分
(
じぶん
)
を
不幸
(
ふしあはせ
)
な
男
(
をとこ
)
とは
思
(
おも
)
はなかつた。
又
(
また
)
決
(
けつ
)
して
厭世家
(
えんせいか
)
たるの
權利
(
けんり
)
は
無
(
な
)
かつた。
小田原
(
をだはら
)
へ
着
(
つ
)
いて
何時
(
いつ
)
も
感
(
かん
)
ずるのは、
自分
(
じぶん
)
もどうせ
地上
(
ちじやう
)
に
住
(
す
)
むならば
此處
(
こゝ
)
に
住
(
す
)
みたいといふことである。
古
(
ふる
)
い
城
(
しろ
)
、
高
(
たか
)
い
山
(
やま
)
、
天
(
てん
)
に
連
(
つ
)
らなる
大洋
(
たいやう
)
、
且
(
か
)
つ
樹木
(
じゆもく
)
が
繁
(
しげ
)
つて
居
(
を
)
る。
洋畫
(
やうぐわ
)
に
依
(
よ
)
つて
身
(
み
)
を
立
(
た
)
てやうといふ
僕
(
ぼく
)
の
空想
(
くうさう
)
としては
此處
(
こゝ
)
に
永住
(
えいぢゆう
)
の
家
(
いへ
)
を
持
(
も
)
ちたいといふのも
無理
(
むり
)
ではなからう。
小田原
(
をだはら
)
から
先
(
さき
)
は
例
(
れい
)
の
人車鐵道
(
じんしやてつだう
)
。
僕
(
ぼく
)
は一
時
(
とき
)
も
早
(
はや
)
く
湯原
(
ゆがはら
)
へ
着
(
つ
)
きたいので
好
(
す
)
きな
小田原
(
をだはら
)
に
半日
(
はんにち
)
を
送
(
おく
)
るほどの
樂
(
たのしみ
)
も
捨
(
すて
)
て、
電車
(
でんしや
)
から
下
(
お
)
りて
晝飯
(
ちうじき
)
を
終
(
をは
)
るや
直
(
す
)
ぐ
人車
(
じんしや
)
に
乘
(
の
)
つた。
人車
(
じんしや
)
へ
乘
(
の
)
ると
最早
(
もはや
)
半分
(
はんぶん
)
湯
(
ゆ
)
ヶ
原
(
はら
)
に
着
(
つ
)
いた
氣
(
き
)
になつた。
此
(
この
)
人車鐵道
(
じんしやてつだう
)
の
目的
(
もくてき
)
が
熱海
(
あたみ
)
、
伊豆山
(
いづさん
)
、
湯
(
ゆ
)
ヶ
原
(
はら
)
の
如
(
ごと
)
き
温泉地
(
をんせんち
)
にあるので、これに
乘
(
の
)
れば
最早
(
もはや
)
大丈夫
(
だいぢやうぶ
)
といふ
氣
(
き
)
になるのは
温泉行
(
をんせんゆき
)
の
人々
(
ひと〴〵
)
皆
(
み
)
な
同感
(
どうかん
)
であらう。
人車
(
じんしや
)
は
徐々
(
じよ〳〵
)
として
小田原
(
をだはら
)
の
町
(
まち
)
を
離
(
はな
)
れた。
僕
(
ぼく
)
は
窓
(
まど
)
から
首
(
くび
)
を
出
(
だ
)
して
見
(
み
)
て
居
(
ゐ
)
る。
忽
(
たちま
)
ちラツパを
勇
(
いさ
)
ましく
吹
(
ふ
)
き
立
(
た
)
てゝ
車
(
くるま
)
は
傾斜
(
けいしや
)
を
飛
(
と
)
ぶやうに
滑
(
すべ
)
る。
空
(
そら
)
は
名殘
(
なごり
)
なく
晴
(
は
)
れた。
海風
(
かいふう
)
は
横
(
よこ
)
さまに
窓
(
まど
)
を
吹
(
ふ
)
きつける。
顧
(
かへり
)
みると
町
(
まち
)
の
旅館
(
りよかん
)
の
旗
(
はた
)
が
竿頭
(
かんとう
)
に
白
(
しろ
)
く
動
(
うご
)
いて
居
(
を
)
る。
僕
(
ぼく
)
は
頭
(
かしら
)
を
轉
(
てん
)
じて
行手
(
ゆくて
)
を
見
(
み
)
た。すると
軌道
(
レール
)
に
沿
(
そ
)
ふて三
人
(
にん
)
、
田舍者
(
ゐなかもの
)
が
小田原
(
をだはら
)
の
城下
(
じやうか
)
へ
出
(
で
)
るといふ
旅裝
(
いでたち
)
、
赤
(
あか
)
く
見
(
み
)
えるのは
娘
(
むすめ
)
の、
白
(
しろ
)
く
見
(
み
)
えるのは
老母
(
らうぼ
)
の、からげた
腰
(
こし
)
も
頑丈
(
ぐわんぢやう
)
らしいのは
老父
(
おやぢ
)
さんで、
人車
(
じんしや
)
の
過
(
す
)
ぎゆくのを
避
(
さ
)
ける
積
(
つも
)
りで
立
(
た
)
つて
此方
(
こつち
)
を
向
(
む
)
いて
居
(
ゐ
)
る。『オヤお
絹
(
きぬ
)
!』と
思
(
おも
)
ふ
間
(
ま
)
もなく
車
(
くるま
)
は
飛
(
と
)
ぶ、三
人
(
にん
)
は
忽
(
たちま
)
ち
窓
(
まど
)
の
下
(
した
)
に
來
(
き
)
た。
『お
絹
(
きぬ
)
さん!』と
僕
(
ぼく
)
は
思
(
おも
)
はず
手
(
て
)
を
擧
(
あ
)
げた。お
絹
(
きぬ
)
はにつこり
笑
(
わら
)
つて、さつと
顏
(
かほ
)
を
赤
(
あか
)
めて、
禮
(
れい
)
をした。
人
(
ひと
)
と
車
(
くるま
)
との
間
(
あひだ
)
は
見
(
み
)
る〳〵
遠
(
とほ
)
ざかつた。
若
(
も
)
し
同車
(
どうしや
)
の
人
(
ひと
)
が
無
(
な
)
かつたら
僕
(
ぼく
)
は
地段駄
(
ぢだんだ
)
を
踏
(
ふ
)
んだらう、
帽子
(
ばうし
)
を
投
(
な
)
げつけたゞらう。
僕
(
ぼく
)
と
向
(
む
)
き
合
(
あ
)
つて、
眞面目
(
まじめ
)
な
顏
(
かほ
)
して
居
(
ゐ
)
る
役人
(
やくにん
)
らしい
先生
(
せんせい
)
が
居
(
ゐ
)
るではないか、
僕
(
ぼく
)
は
唯
(
た
)
だがつかりして
手
(
て
)
を
拱
(
こま
)
ぬいてしまつた。
言
(
い
)
はでも
知
(
し
)
るお
絹
(
きぬ
)
は
最早
(
もはや
)
中西屋
(
なかにしや
)
に
居
(
ゐ
)
ないのである、
父母
(
ふぼ
)
の
家
(
いへ
)
に
歸
(
かへ
)
り、
嫁入
(
よめいり
)
の
仕度
(
したく
)
に
取
(
と
)
りかゝつたのである。
昨年
(
さくねん
)
の
夏
(
なつ
)
も
他
(
た
)
の
女中
(
ぢよちゆう
)
から
小田原
(
をだはら
)
のお
婿
(
むこ
)
さんなど
嬲
(
なぶ
)
られて
居
(
ゐ
)
たのを
自分
(
じぶん
)
は
知
(
し
)
つて
居
(
ゐ
)
る、あゝ
愈々
(
いよ〳〵
)
さうだ! と
思
(
おも
)
ふと
僕
(
ぼく
)
は
慊
(
いや
)
になつてしまつた。
一口
(
ひとくち
)
に
言
(
い
)
へば、
海
(
うみ
)
も
山
(
やま
)
もない、
沖
(
おき
)
の
大島
(
おほしま
)
、
彼
(
あ
)
れが
何
(
なん
)
だらう。
大浪
(
おほなみ
)
小浪
(
こなみ
)
の
景色
(
けしき
)
、
何
(
なん
)
だ。
今
(
いま
)
の
今
(
いま
)
まで
僕
(
ぼく
)
をよろこばして
居
(
ゐ
)
た
自然
(
しぜん
)
は、
忽
(
たちま
)
ちの
中
(
うち
)
に
何
(
なん
)
の
面白味
(
おもしろみ
)
もなくなつてしまつた。
僕
(
ぼく
)
とは
他人
(
たにん
)
になつてしまつた。
湯原
(
ゆがはら
)
の
温泉
(
をんせん
)
は
僕
(
ぼく
)
に
なじみ
の
深
(
ふか
)
い
處
(
ところ
)
であるから、たとひお
絹
(
きぬ
)
が
居
(
ゐ
)
ないでも
僕
(
ぼく
)
に
取
(
と
)
つて
興味
(
きようみ
)
のない
譯
(
わけ
)
はない、
然
(
しか
)
し
既
(
すで
)
にお
絹
(
きぬ
)
を
知
(
し
)
つた
後
(
のち
)
の
僕
(
ぼく
)
には、お
絹
(
きぬ
)
の
居
(
ゐ
)
ないことは
寧
(
むし
)
ろ
不愉快
(
ふゆくわい
)
の
場所
(
ばしよ
)
となつてしまつたのである。
不愉快
(
ふゆくわい
)
の
人車
(
じんしや
)
に
搖
(
ゆ
)
られて
此
(
こ
)
の
淋
(
さ
)
びしい
溪間
(
たにま
)
に
送
(
おく
)
り
屆
(
とゞ
)
けられることは、
頗
(
すこぶ
)
る
苦痛
(
くつう
)
であつたが、
今更
(
いまさら
)
引返
(
ひきか
)
へす
事
(
こと
)
も
出來
(
でき
)
ず、
其日
(
そのひ
)
の
午後
(
ごゝ
)
五
時頃
(
じごろ
)
、
此宿
(
このやど
)
に
着
(
つ
)
いた。
突然
(
とつぜん
)
のことであるから
宿
(
やど
)
の
主人
(
あるじ
)
を
驚
(
おどろ
)
かした。
主人
(
あるじ
)
は
忠實
(
ちゆうじつ
)
な
人
(
ひと
)
であるから、
非常
(
ひじやう
)
に
歡迎
(
くわんげい
)
して
呉
(
く
)
れた。
湯
(
ゆ
)
に
入
(
はひ
)
つて
居
(
ゐ
)
ると
女中
(
ぢよちゆう
)
の
一人
(
ひとり
)
が
來
(
き
)
て、
『
小山
(
こやま
)
さんお
氣
(
き
)
の
毒
(
どく
)
ですね。』
『
何故
(
なぜ
)
?』
『お
絹
(
きぬ
)
さんは
最早
(
もう
)
居
(
ゐ
)
ませんよ、』と
言
(
い
)
ひ
捨
(
す
)
てゝばた〳〵と
逃
(
に
)
げて
去
(
い
)
つた。
哀
(
あは
)
れなる
哉
(
かな
)
、これが
僕
(
ぼく
)
の
失戀
(
しつれん
)
の
弔詞
(
てうじ
)
である!
失戀
(
しつれん
)
?、
失戀
(
しつれん
)
が
聞
(
き
)
いてあきれる。
僕
(
ぼく
)
は
戀
(
こひ
)
して
居
(
ゐ
)
たのだらうけれども、
夢
(
ゆめ
)
に、
實
(
じつ
)
に
夢
(
ゆめ
)
にもお
絹
(
きぬ
)
をどうしやうといふ
事
(
こと
)
はなかつた、お
絹
(
きぬ
)
も
亦
(
ま
)
た、
僕
(
ぼく
)
を
憎
(
に
)
くからず
思
(
おも
)
つて
居
(
ゐ
)
たらう、
決
(
けつ
)
して
其
(
それ
)
以上
(
いじやう
)
のことは
思
(
おも
)
はなかつたに
違
(
ちが
)
ひない。
處
(
ところ
)
が
其夜
(
そのよ
)
、
女中
(
ぢよちゆう
)
[#「
女中
(
ぢよちゆう
)
」は底本では「
女中
(
ぢうちゆう
)
」]
どもが
僕
(
ぼく
)
の
部屋
(
へや
)
に
集
(
あつま
)
つて、
宿
(
やど
)
の
娘
(
むすめ
)
も
來
(
き
)
た。お
絹
(
きぬ
)
の
話
(
はなし
)
が
出
(
で
)
て、お
絹
(
きぬ
)
は
愈々
(
いよ〳〵
)
小田原
(
をだはら
)
に
嫁
(
よめ
)
にゆくことに
定
(
き
)
まつた一
條
(
でう
)
を
聞
(
き
)
かされた
時
(
とき
)
の
僕
(
ぼく
)
の
心持
(
こゝろもち
)
、
僕
(
ぼく
)
の
運命
(
うんめい
)
が
定
(
さだま
)
つたやうで、
今更
(
いまさら
)
何
(
なん
)
とも
言
(
い
)
へぬ
不快
(
ふくわい
)
でならなかつた。しからば
矢張
(
やはり
)
失戀
(
しつれん
)
であらう!
僕
(
ぼく
)
はお
絹
(
きぬ
)
を
自分
(
じぶん
)
の
物
(
もの
)
、
自分
(
じぶん
)
のみを
愛
(
あい
)
すべき
人
(
ひと
)
と、
何時
(
いつ
)
の
間
(
ま
)
にか
思込
(
おもひこ
)
んで
居
(
ゐ
)
たのであらう。
土産物
(
みやげもの
)
は
女中
(
ぢよちゆう
)
や
娘
(
むすめ
)
に
分配
(
ぶんぱい
)
してしまつた。
彼等
(
かれら
)
は
確
(
たし
)
かによろこんだ、
然
(
しか
)
し
僕
(
ぼく
)
は
嬉
(
うれ
)
しくも
何
(
なん
)
ともない。
翌日
(
よくじつ
)
は
雨
(
あめ
)
、
朝
(
あさ
)
からしよぼ〳〵と
降
(
ふ
)
つて
陰鬱
(
いんうつ
)
極
(
きは
)
まる
天氣
(
てんき
)
。
溪流
(
けいりう
)
の
水
(
みづ
)
増
(
ま
)
してザア〳〵と
騷々
(
さう〴〵
)
しいこと
非常
(
ひじやう
)
。
晝飯
(
ひるめし
)
に
宿
(
やど
)
の
娘
(
むすめ
)
が
給仕
(
きふじ
)
に
來
(
き
)
て、
僕
(
ぼく
)
の
顏
(
かほ
)
を
見
(
み
)
て
笑
(
わら
)
ふから、
僕
(
ぼく
)
も
笑
(
わら
)
はざるを
得
(
え
)
ない。
『
貴所
(
あなた
)
はお
絹
(
きぬ
)
に
逢
(
あ
)
ひたくつて?』
『
可笑
(
をか
)
しい
事
(
こと
)
を
言
(
い
)
ひますね、
昨年
(
さくねん
)
あんなに
世話
(
せわ
)
になつた
人
(
ひと
)
に
會
(
あ
)
ひたいのは
當然
(
あたりまへ
)
だらうと
思
(
おも
)
ふ。』
『
逢
(
あ
)
はして
上
(
あ
)
げましようか?』
『
難有
(
ありがた
)
いね、
何分
(
なにぶん
)
宜
(
よろ
)
しく。』
『
明日
(
あした
)
きつとお
絹
(
きぬ
)
さん
宅
(
うち
)
へ
來
(
き
)
ますよ。』
『
來
(
き
)
たら
宜
(
よろ
)
しく
被仰
(
おつしやつ
)
て
下
(
くだ
)
さい、』と
僕
(
ぼく
)
が
眞實
(
ほんたう
)
にしないので
娘
(
むすめ
)
は
默
(
だま
)
つて
唯
(
た
)
だ
笑
(
わら
)
つて
居
(
ゐ
)
た。お
絹
(
きぬ
)
は
此娘
(
このむすめ
)
と
從姉妹
(
いとこどうし
)
なのである。
午後
(
ごゝ
)
は
降
(
ふ
)
り
止
(
や
)
んだが
晴
(
は
)
れさうにもせず
雲
(
くも
)
は
地
(
ち
)
を
這
(
は
)
ふようにして
飛
(
と
)
ぶ、
狹
(
せま
)
い
溪
(
たに
)
は
益々
(
ます〳〵
)
狹
(
せま
)
くなつて、
僕
(
ぼく
)
は
牢獄
(
らうごく
)
にでも
坐
(
すわ
)
つて
居
(
ゐ
)
る
氣
(
き
)
。
坐敷
(
ざしき
)
に
坐
(
すわ
)
つたまゝ
爲
(
す
)
る
事
(
こと
)
もなく
茫然
(
ぼんやり
)
と
外
(
そと
)
を
眺
(
なが
)
めて
居
(
ゐ
)
たが、ちらと
僕
(
ぼく
)
の
眼
(
め
)
を
遮
(
さへぎ
)
つて
直
(
す
)
ぐ
又
(
また
)
隣家
(
もより
)
の
軒先
(
のきさき
)
で
隱
(
かく
)
れてしまつた
者
(
もの
)
がある。それがお
絹
(
きぬ
)
らしい。
僕
(
ぼく
)
は
直
(
す
)
ぐ
外
(
そと
)
に
出
(
で
)
た。
石
(
いし
)
ばかりごろ〳〵した
往來
(
わうらい
)
の
淋
(
さび
)
しさ。
僅
(
わづか
)
に十
軒
(
けん
)
ばかりの
温泉宿
(
をんせんやど
)
。
其外
(
そのほか
)
の百
姓家
(
しやうや
)
とても
數
(
かぞ
)
える
計
(
ばか
)
り、
物
(
もの
)
を
商
(
あきな
)
ふ
家
(
いへ
)
も
準
(
じゆん
)
じて
幾軒
(
いくけん
)
もない
寂寞
(
せきばく
)
たる
溪間
(
たにま
)
! この
溪間
(
たにま
)
が
雨雲
(
あまぐも
)
に
閉
(
とざ
)
されて
見
(
み
)
る
物
(
もの
)
悉
(
こと〴〵
)
く
光
(
ひかり
)
を
失
(
うしな
)
ふた
時
(
とき
)
の
光景
(
くわうけい
)
を
想像
(
さう〴〵
)
し
給
(
たま
)
へ。
僕
(
ぼく
)
は
溪流
(
けいりう
)
に
沿
(
そ
)
ふて
此
(
この
)
淋
(
さび
)
しい
往來
(
わうらい
)
を
當
(
あて
)
もなく
歩
(
あ
)
るいた。
流
(
ながれ
)
を
下
(
くだ
)
つて
行
(
ゆ
)
くも二三
丁
(
ちやう
)
、
上
(
のぼ
)
れば一
丁
(
ちやう
)
、
其中
(
そのなか
)
にペンキで塗つた
橋
(
はし
)
がある、
其間
(
そのあひだ
)
を、
如何
(
どん
)
な
心地
(
こゝち
)
で
僕
(
ぼく
)
は
ぶらついた
らう。
温泉宿
(
をんせんやど
)
の
欄干
(
らんかん
)
に
倚
(
よ
)
つて
外
(
そと
)
を
眺
(
なが
)
めて
居
(
ゐ
)
る
人
(
ひと
)
は
皆
(
み
)
な
泣
(
な
)
き
出
(
だ
)
しさうな
顏付
(
かほつき
)
をして
居
(
ゐ
)
る、
軒先
(
のきさき
)
で
小供
(
こども
)
を
負
(
しよつ
)
て
居
(
ゐ
)
る
娘
(
むすめ
)
は
病人
(
びやうにん
)
のやうで
背
(
せ
)
の
小供
(
こども
)
はめそ〳〵と
泣
(
な
)
いて
居
(
ゐ
)
る。
陰鬱
(
いんうつ
)
!
屈托
(
くつたく
)
!
寂寥
(
せきれう
)
! そして
僕
(
ぼく
)
の
眼
(
め
)
には
何處
(
どこ
)
かに
悲慘
(
ひさん
)
の
影
(
かげ
)
さへも
見
(
み
)
えるのである。
お
絹
(
きぬ
)
には
出逢
(
であ
)
はなかつた。
當
(
あた
)
り
前
(
まへ
)
である。
僕
(
ぼく
)
は
其
(
その
)
翌日
(
よくじつ
)
降
(
ふ
)
り
出
(
だ
)
しさうな
空
(
そら
)
をも
恐
(
おそ
)
れず
十國峠
(
じつこくたうげ
)
へと
單身
(
たんしん
)
宿
(
やど
)
を
出
(
で
)
た。
宿
(
やど
)
の
者
(
もの
)
は
總
(
そう
)
がゝりで
止
(
と
)
めたが
聞
(
き
)
かない、
伴
(
とも
)
を
連
(
つ
)
れて
行
(
ゆ
)
けと
勸
(
すゝ
)
めても
謝絶
(
しやぜつ
)
。
山
(
やま
)
は
雲
(
くも
)
の
中
(
なか
)
、
僕
(
ぼく
)
は
雲
(
くも
)
に
登
(
のぼ
)
る
積
(
つも
)
りで
遮二無二
(
しやにむに
)
登
(
のぼ
)
つた。
僕
(
ぼく
)
は
今日
(
けふ
)
まで
斯
(
こ
)
んな
凄寥
(
せいれう
)
たる
光景
(
くわうけい
)
に
出遇
(
であ
)
つたことはない。
足
(
あし
)
の
下
(
した
)
から
灰色
(
はひいろ
)
の
雲
(
くも
)
が
忽
(
たちま
)
ち
現
(
あら
)
はれ、
忽
(
たちま
)
ち
消
(
き
)
える。
草原
(
くさはら
)
をわたる
風
(
かぜ
)
は
物
(
もの
)
すごく
鳴
(
な
)
つて
耳
(
みゝ
)
を
掠
(
かす
)
める、
雲
(
くも
)
の
絶間絶間
(
たえま〳〵
)
から
見
(
み
)
える
者
(
もの
)
は
山又山
(
やままたやま
)
。
天地間
(
てんちかん
)
僕
(
ぼく
)
一
人
(
にん
)
、
鳥
(
とり
)
も
鳴
(
な
)
かず。
僕
(
ぼく
)
は
暫
(
しば
)
らく
絶頂
(
ぜつちやう
)
の
石
(
いし
)
に
倚
(
よ
)
つて
居
(
ゐ
)
た。この
時
(
とき
)
、
戀
(
こひ
)
もなければ
失戀
(
しつれん
)
もない、たゞ
悽愴
(
せいさう
)
の
感
(
かん
)
に
堪
(
た
)
えず、
我生
(
わがせい
)
の
孤獨
(
こどく
)
を
泣
(
な
)
かざるを
得
(
え
)
なかつた。
歸路
(
かへり
)
に
眞闇
(
まつくら
)
に
繁
(
しげ
)
つた
森
(
もり
)
の
中
(
なか
)
を
通
(
とほ
)
る
時
(
とき
)
、
僕
(
ぼく
)
は
斯
(
こ
)
んな
事
(
こと
)
を
思
(
おも
)
ひながら
歩
(
あ
)
るいた、
若
(
も
)
し
僕
(
ぼく
)
が
足
(
あし
)
を
蹈
(
ふ
)
み
滑
(
す
)
べらして
此溪
(
このたに
)
に
落
(
お
)
ちる、
死
(
し
)
んでしまう、
中西屋
(
なかにしや
)
では
僕
(
ぼく
)
が
歸
(
かへ
)
らぬので
大騷
(
おほさわ
)
ぎを
初
(
はじ
)
める、
樵夫
(
そま
)
を
(
やと
)
ふて
僕
(
ぼく
)
を
索
(
さが
)
す、
此
(
この
)
暗
(
くら
)
い
溪底
(
たにそこ
)
に
僕
(
ぼく
)
の
死體
(
したい
)
が
横
(
よこたは
)
つて
居
(
ゐ
)
る、
東京
(
とうきやう
)
へ
電報
(
でんぱう
)
を
打
(
う
)
つ、
君
(
きみ
)
か
淡路君
(
あはぢくん
)
か
飛
(
と
)
んで
來
(
く
)
る、そして
僕
(
ぼく
)
は
燒
(
や
)
かれてしまう。
天地間
(
てんちかん
)
最早
(
もはや
)
小山某
(
こやまなにがし
)
といふ
畫
(
ゑ
)
かきの
書生
(
しよせい
)
は
居
(
ゐ
)
なくなる! と
僕
(
ぼく
)
は
思
(
おも
)
つた
時
(
とき
)
、
思
(
おも
)
はず
足
(
あし
)
を
止
(
とゞ
)
めた。
頭
(
あたま
)
の
上
(
うへ
)
の
眞黒
(
まつくろ
)
に
繁
(
しげ
)
つた
枝
(
えだ
)
から
水
(
みづ
)
がぼた〳〵
落
(
お
)
ちる、
墓穴
(
はかあな
)
のやうな
溪底
(
たにそこ
)
では
水
(
みづ
)
の
激
(
げき
)
して
流
(
なが
)
れる
音
(
おと
)
が
悽
(
すご
)
く
響
(
ひゞ
)
く。
僕
(
ぼく
)
は
身
(
み
)
の
髮
(
け
)
のよだつを
感
(
かん
)
じた。
死人
(
しにん
)
のやうな
顏
(
かほ
)
をして
僕
(
ぼく
)
の
歸
(
かへ
)
つて
來
(
き
)
たのを
見
(
み
)
て、
宿
(
やど
)
の
者
(
もの
)
は
如何
(
どん
)
なに
驚
(
おどろ
)
いたらう。
其驚
(
そのおどろき
)
よりも
僕
(
ぼく
)
の
驚
(
おどろ
)
いたのは
此日
(
このひ
)
お
絹
(
きぬ
)
が
來
(
き
)
たが、
午後
(
ごゝ
)
又
(
また
)
實家
(
じつか
)
へ
歸
(
かへ
)
つたとの
事
(
こと
)
である。
其夜
(
そのよ
)
から
僕
(
ぼく
)
は
熱
(
ねつ
)
が
出
(
で
)
て
今日
(
けふ
)
で
三日
(
みつか
)
になるが
未
(
ま
)
だ
快然
(
はつきり
)
しない。
山
(
やま
)
に
登
(
のぼ
)
つて
風邪
(
かぜ
)
を
引
(
ひ
)
いたのであらう。
君
(
きみ
)
よ、
君
(
きみ
)
は
今
(
いま
)
の
時文
(
じぶん
)
評論家
(
ひやうろんか
)
でないから、
此
(
この
)
三日
(
みつか
)
の
間
(
あひだ
)
、
床
(
とこ
)
の
中
(
なか
)
に
呻吟
(
しんぎん
)
して
居
(
ゐ
)
た
時
(
とき
)
考
(
かんが
)
へたことを
聞
(
き
)
いて
呉
(
く
)
れるだらう。
戀
(
こひ
)
は
力
(
ちから
)
である、
人
(
ひと
)
の
抵抗
(
ていかう
)
することの
出來
(
でき
)
ない
力
(
ちから
)
である。
此力
(
このちから
)
を
認識
(
にんしき
)
せず、
又
(
また
)
此力
(
このちから
)
を
壓
(
おさ
)
へ
得
(
う
)
ると
思
(
おも
)
ふ
人
(
ひと
)
は、
未
(
ま
)
だ
此力
(
このちから
)
に
觸
(
ふ
)
れなかつた
人
(
ひと
)
である。
其
(
その
)
證據
(
しようこ
)
には
曾
(
かつ
)
て
戀
(
こひ
)
の
爲
(
た
)
めに
苦
(
くるし
)
み
悶
(
もだ
)
えた
人
(
ひと
)
も、
時
(
とき
)
經
(
た
)
つて、
普通
(
ふつう
)
の
人
(
ひと
)
となる
時
(
とき
)
は、
何故
(
なにゆゑ
)
に
彼時
(
あのとき
)
自分
(
じぶん
)
が
戀
(
こひ
)
の
爲
(
た
)
めに
斯
(
か
)
くまで
苦悶
(
くもん
)
したかを、
自分
(
じぶん
)
で
疑
(
うた
)
がう
者
(
もの
)
である。
則
(
すなは
)
ち
彼
(
かれ
)
は
戀
(
こひ
)
の
力
(
ちから
)
に
觸
(
ふ
)
れて
居
(
ゐ
)
ないからである。
同
(
おな
)
じ
人
(
ひと
)
ですら
其通
(
そのとほ
)
り、
況
(
いは
)
んや
曾
(
かつ
)
て
戀
(
こひ
)
の
力
(
ちから
)
に
觸
(
ふ
)
れたことのない
人
(
ひと
)
が
如何
(
どう
)
して
他人
(
たにん
)
の
戀
(
こひ
)
の
消息
(
せうそく
)
が
解
(
わか
)
らう、その
樂
(
たのしみ
)
が
解
(
わか
)
らう、
其苦
(
そのくるしみ
)
が
解
(
わか
)
らう?。
戀
(
こひ
)
に
迷
(
まよ
)
ふを
笑
(
わら
)
ふ
人
(
ひと
)
は、
怪
(
あや
)
しげな
傳説
(
でんせつ
)
、
學説
(
がくせつ
)
に
迷
(
まよ
)
はぬがよい。
戀
(
こひ
)
は
人
(
ひと
)
の
至情
(
しゞやう
)
である。
此
(
この
)
至情
(
しゞやう
)
をあざける
人
(
ひと
)
は、百
萬年
(
まんねん
)
も千
萬年
(
まんねん
)
も
生
(
い
)
きるが
可
(
よ
)
い、
御氣
(
おき
)
の
毒
(
どく
)
ながら
地球
(
ちきう
)
の
皮
(
かは
)
は
忽
(
たちま
)
ち
諸君
(
しよくん
)
を
吸
(
す
)
ひ
込
(
こ
)
むべく
待
(
ま
)
つて
居
(
ゐ
)
る、
泡
(
あわ
)
のかたまり
先生
(
せんせい
)
諸君
(
しよくん
)
、
僕
(
ぼく
)
は
諸君
(
しよくん
)
が
此
(
この
)
不可思議
(
ふかしぎ
)
なる
大宇宙
(
だいうちう
)
をも
統御
(
とうぎよ
)
して
居
(
ゐ
)
るやうな
顏構
(
かほつき
)
をして
居
(
ゐ
)
るのを
見
(
み
)
ると
冷笑
(
れいせう
)
したくなる
僕
(
ぼく
)
は
諸君
(
しよくん
)
が
今
(
いま
)
少
(
すこ
)
しく
眞面目
(
まじめ
)
に、
謙遜
(
けんそん
)
に、
嚴肅
(
げんしゆく
)
に、
此
(
この
)
人生
(
じんせい
)
と
此
(
この
)
天地
(
てんち
)
の
問題
(
もんだい
)
を
見
(
み
)
て
貰
(
もら
)
ひたいのである。
諸君
(
しよくん
)
が
戀
(
こひ
)
を
笑
(
わら
)
ふのは、
畢竟
(
ひつきやう
)
、
人
(
ひと
)
を
笑
(
わら
)
ふのである、
人
(
ひと
)
は
諸君
(
しよくん
)
が
思
(
おも
)
つてるよりも
神祕
(
しんぴ
)
なる
動物
(
どうぶつ
)
である。
若
(
も
)
し
人
(
ひと
)
の
心
(
こゝろ
)
に
宿
(
やど
)
る
所
(
ところ
)
の
戀
(
こひ
)
をすら
笑
(
わら
)
ふべく
信
(
しん
)
ずべからざる
者
(
もの
)
ならば、
人生
(
じんせい
)
遂
(
つひ
)
に
何
(
なん
)
の
價
(
あたひ
)
ぞ、
人
(
ひと
)
の
心
(
こゝろ
)
ほど
嘘僞
(
きよぎ
)
な
者
(
もの
)
は
無
(
な
)
いではないか。
諸君
(
しよくん
)
にして
若
(
も
)
し、
月夜
(
げつや
)
笛
(
ふえ
)
を
聞
(
き
)
いて、
諸君
(
しよくん
)
の
心
(
こゝろ
)
に
少
(
すこ
)
しにても『
永遠
(
エターニテー
)
』の
俤
(
おもかげ
)
が
映
(
うつ
)
るならば、
戀
(
こひ
)
を
信
(
しん
)
ぜよ。
若
(
も
)
し、
諸君
(
しよくん
)
にして
中江兆民
(
なかえてうみん
)
先生
(
せんせい
)
と
同
(
どう
)
一
種
(
しゆ
)
であつて、十八
里
(
り
)
零圍氣
(
れいゐき
)
を
振舞
(
ふりま
)
はして
滿足
(
まんぞく
)
して
居
(
ゐ
)
るならば、
諸君
(
しよくん
)
は
何
(
なん
)
の
權威
(
けんゐ
)
あつて、『
春
(
はる
)
短
(
みじか
)
し
何
(
なに
)
に
不滅
(
ふめつ
)
の
命
(
いのち
)
ぞと』
云々
(
うん〳〵
)
と
歌
(
うた
)
ふ
人
(
ひと
)
の
自由
(
じいう
)
に
干渉
(
かんせふ
)
し
得
(
う
)
るぞ。『
若
(
わか
)
い
時
(
とき
)
は二
度
(
ど
)
はない』と
稱
(
しよう
)
してあらゆる
肉慾
(
にくよく
)
を
恣
(
ほしい
)
まゝにせんとする
青年男女
(
せいねんだんぢよ
)
の
自由
(
じいう
)
に
干渉
(
かんせふ
)
し
得
(
う
)
るぞ。
内山君
(
うちやまくん
)
足下
(
そくか
)
、
先
(
ま
)
づ
此位
(
このくらゐ
)
にして
置
(
お
)
かう。さて
斯
(
かく
)
の
如
(
ごと
)
くに
僕
(
ぼく
)
は
戀
(
こひ
)
其物
(
そのもの
)
に
隨喜
(
ずゐき
)
した。これは
失戀
(
しつれん
)
の
賜
(
たまもの
)
かも
知
(
し
)
れない。
明後日
(
みやうごにち
)
は
僕
(
ぼく
)
は
歸京
(
きゝやう
)
する。
小田原
(
をだはら
)
を
通
(
とほ
)
る
時
(
とき
)
、
僕
(
ぼく
)
は
如何
(
どん
)
な
感
(
かん
)
があるだらう。
小山生
出典:青空文庫(
https://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/1406_15987.html
)
青空文庫の奥付
底本:「定本 国木田独歩全集 第二巻」学習研究社
1964(昭和39)年7月1日初版発行
1978(昭和53)年3月1日増訂版発行
1995(平成7)年7月3日増補版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:mayu
2001年11月7日公開
2004年7月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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