はしがき
一。太平洋の波に浮べる、この船にも似たる我日本の國人は、今や徒らに、富士山の明麗なる風光にのみ恍惚たるべき時にはあらざるべし。
光譽ある桂の冠と、富と權力との優勝旗は、すでに陸を離れて、世界の海上に移されたり。
この冠を戴き、この優勝旗を握らむものは誰ぞ。
他なし、海の勇者なり。海の勇者は即ち世界の勇者たるべし。
一。天長節の佳日に際し
子爵 伊東海軍大將
肝付海軍少將
伯爵 吉井海軍少佐
子爵 小笠原海軍少佐
上村海軍少佐
各位の清福を賀※
[#変体仮名し、はしがき-14]、つたなき本書のために、題字及び序文を賜はりし高意にむかつて、誠實なる感謝の意を表す。
一。上村海軍少佐の懇切なる教示と、嚴密なる校閲とを受けたるは、啻に著者の幸福のみにはあらず、讀者諸君若し此書によりて、幾分にても、海上の智識を得らるゝあらば、そは全く少佐の賜なり。
一。遙かに、獨京伯林なる、巖谷小波先生の健勝を祈る。
著者※[#変体仮名し、はしがき-20]るす
[#改ページ]
(海島冐檢奇譚)海底軍艦目次
第一回
海外の
日本人(
子ープルス港の奇遇――大商館――濱島武文[#「濱島武文」は底本では「濱鳥武文」]――春枝夫人――日出雄少年――松島海軍大佐の待命
第二回
魔(の
日(魔(の
刻(
送別會――老女亞尼――ウルピノ山の聖人――十月の祟の日――黄金と眞珠――月夜の出港
第三回
怪(の
船(
銅鑼の響――ビール樽の船長――白色檣燈――古風な英國人――海賊島の奇聞――海蛇丸
第四回
反古(の
新聞(
葉卷煙草――櫻木海軍大佐の行衞――大帆走船と三十七名の水兵――奇妙な新體詩――秘密の發明――二點鐘カーンカン
第五回 ピアノと
拳鬪(
船中の音樂會――鵞鳥聲の婦人――春枝夫人の名譽――甲板の競走――相撲――私の閉口――曲馬師の虎
第六回
星火榴彈(
難破船の信號――イヤ、流星の飛ぶのでせう――無稽な――三個の舷燈――船幽靈め――其眼が怪しい
第七回
印度洋(の
海賊船(
水雷驅逐艦か巡洋艦か――往昔の海賊と今の海賊――潜水器――探海電燈――白馬の如き立浪――海底淺き處――大衝突
第八回
人間(の
運命(
弦月丸の最後――ひ、ひ、卑怯者め――日本人の子――二つの浮標――春枝夫人の行衞――あら、黒い物が!
第九回
大海原(の
小端艇(
亞尼の豫言――日出雄少年の夢――印度洋の大潮流――にはか雨――昔の御馳走――巨大な魚群
第十回
沙魚(の
水葬(
天の賜――反對潮流――私は黒奴、少年は炭團屋の忰――おや〳〵變な味になりました――またも斷食
第十一回
無人島(の
響(
人の住む島か魔の棲む島か――あら、あの音は――奇麗な泉――ゴリラの襲來――水兵ヒラリと身を躱はした――海軍士官の顏
第十二回
海軍(の
家(
南方の無人島――快活な武村兵曹――おぼろな想像――前は絶海の波、後は椰子の林――何處ともなく立去つた
第十三回
星影(がちら〳〵
歡迎――春枝夫人は屹度死にません――此新八が先鋒ぢや――浪の江丸の沈沒――此島もなか〳〵面白いよ――三年の後
第十四回
海底(の
造船所(
大佐の後姿がチラリと見えた――獅子狩は眞平御免だ――猛犬稻妻――秘密の話――屏風岩――物凄い跫音――鐵門の文字
第十五回
電光艇(
鼕々たる浪の音――投鎗に似た形――三尖衝角――新式魚形水雷――明鏡に映る海上海底の光景――空氣製造器――鐵舟先生の詩
第十六回
朝日島(
日出雄少年は椰子の木蔭に立つて居つた――國際法――占領の證據――三尖形の紀念塔――成程妙案々々――其處だよ
第十七回
冐險鐵車(
自動の器械――斬頭刄形の鉞――ポンと小胸を叩いた――威張れません――君が代の國歌――いざ帝國の萬歳を唱へませう
第十八回
野球競技(
九種の魔球――無邪氣な紛着――胴上げ――西と東に別れた――獅子の友呼び――手頃の鎗を捻つて――私は殘念です――駄目だんべい
第十九回
猛獸隊(
自然の殿堂――爆裂彈――エンヤ〳〵の掛聲――片足の靴――好事魔多し――砂滑りの谷、一名死の谷――深夜の猛獸――かゞり火
第二十回
猛犬(の
使者(
山又山を越えて三十里――一封の書面――あの世でか、此世でか――此犬尋常でない――眞黒になつて其後を追ふた――水樽は空になつた
第二十一回
空中(の
救(ひ
何者にか愕いた樣子――誰かの半身が現はれて――八日前の晩――三百反の白絹――お祝の拳骨――稻妻と少年と武村兵曹
第二十二回
海(の
禍(
孤島の紀元節――海軍大佐の盛裝――海岸の夜會――少年の劍舞――人間の幸福を嫉む惡魔の手――海底の地滑り――電光艇の夜間信號
第二十三回 十二の
樽(
海底戰鬪艇の生命――人煙の稀な橄欖島――鐵の扉は微塵――天上から地獄の底――其樣な無謀な事は出來ません――無念の涙
第二十四回
輕氣球(の
飛行(
絶島の鬼とならねばならぬ――非常手段――私が參ります――無言のわかれ――心で泣いたよ――住馴れた朝日島は遠く〳〵
第二十五回
白色巡洋艦(
大陸の影――矢の如く空中を飛走した――ポツンと白い物――海鳥の群――「ガーフ」の軍艦旗――や、や、あの旗は! あの船は!
第二十六回
顏(と
顏(と
顏(
帝國軍艦旗――虎髯大尉、本名轟大尉――端艇諸共引揚げられた――全速力――賣れた顏――誰かに似た顏――懷かしき顏
第二十七回
艦長室(
鼻髯を捻つた――夢ではありますまいか――私は何より嬉しい――大分色は黒くなりましたよ、はい――今度は貴女の順番――四年前の話
第二十八回
紀念軍艦(
帝國軍艦「日の出」――此虎髯が御話申す――テームス造船所の製造――「明石」に髣髴たる巡洋艦――人間の萬事は天意の儘です
第二十九回
薩摩琵琶(
春枝夫人の物語――不屆な悴――風清き甲板――國船の曲――腕押し脛押と參りませう――道塲破りめ――奇怪の少尉
第三十回
月夜(の
大海戰(
印度國コロンボの港――滿艦の電光――戰鬪喇叭――惡魔印の海賊旗大軍刀をブン〳〵と振廻した――大佐來! 電光艇來!―朝日輝く印度洋
目次終
[#改ページ]
第一回
海外(の
日本人(
ネープルス港の奇遇――大商館――濱島武文
[#「濱島武文」は底本では「
島武文」]――春枝夫人――日出雄少年――松島海軍大佐の待命
私(が
世界(漫遊(の
目的(をもつて、
横濱(の
港(を
出帆(したのは、
既(に
六年(以前(の
事(で、はじめ
亞米利加(に
渡(り、それから
大西洋(の
[#「大西洋(の」は底本では「太西洋(の」]荒浪(を
横斷(つて
歐羅巴(に
遊(び、
英吉利(、
佛蘭西(、
獨逸等(音(に
名高(き
國々(の
名所(古跡(を
遍歴(して、
其間(に
月(を
閲(すること二十
有餘箇月(、
大約(一
萬(五
千里(の
長途(を
後(にして、
終(に
伊太利(に
入(り、
往昔(から
美術國(の
光譽(高(き、
其(さま〴〵の
奇觀(をも
足(る
程(眺(めたれば、
之(より
我(が
懷(かしき
日本(へ
歸(らんと、
當夜(十一
時(半(拔錨(の
弦月丸(とて、
東洋(行(の
船(に
乘組(まんがため、
國(の
名港(ネープルスまで
來(たのは、
今(から
丁度(四
年(前(、
季節(は
櫻(散(る
五月(中旬(の
或(晴朗(な
日(の
正午(時分(であつた。
市街(はづれの
停車塲(から
客待(の
馬車(で、
海岸(附近(の
或(旅亭(に
着(き、
部室(も
定(まり
軈(て
晝餉(もすむと
最早(何(も
爲(る
事(がない、
船(の
出港(までは
未(だ十
時間(以上(。
長(い
旅行(を
行(つた
諸君(はお
察(しでもあらうが、
知(る
人(もなき
異境(の
地(で、
車(や
船(の
出發(を
待(ち
暮(すほど
徒然(ぬものはない、
立(つて
見(つ、
居(て
見(つ、
新聞(や
雜誌等(を
繰廣(げて
見(たが
何(も
手(に
着(かない、
寧(そ
晝寢(せんか、
市街(でも
散歩(せんかと、
思案(とり〴〵
窓(に
倚(つて
眺(めると、
眼下(に
瞰(おろす
子ープルス灣(、
鏡(のやうな
海面(に
泛(んで、
出(る
船(、
入(る
船([#「船(」は底本では「般(」]停泊(つて
居(る
船(、
其(船々(の
甲板(の
模樣(や、
檣上(に
飜(る
旗章(や、また
彼方(の
波止塲(から
此方(へかけて
奇妙(な
風(の
商舘(の
屋根(などを
眺(め
廻(しつゝ、たゞ
譯(もなく
考想(へて
居(る
内(にふと
思(ひ
浮(んだ
一事(がある。それは
濱島武文(といふ
人(の
事(で。
濱島武文(とは
私(がまだ
高等學校(に
居(つた
時分(、
左樣(かれこれ十二三
年(も
前(の
事(であるが、
同(じ
學(びの
友(であつた。
彼(は
私(よりは四つ五つの
年長者(で、
從(て
級(も
異(つて
居(つたので、
始終(交(るでもなかつたが、
其頃(校内(で
運動(の
妙手(なのと
無暗(に
冐險的旅行(の
嗜好(なのとで、
彼(と
私(とは
指(を
折(られ、
從(て
何(ゆゑとなく
睦(ましく
離(れがたく
思(はれたが、
其後(彼(は
學校(を
卒業(して、
元來(ならば
大學(に
入(る
可(きを、
他(に
大望(ありと
稱(して、
幾何(もなく
日本(を
去(り、はじめは
支那(に
遊(び、それから
歐洲(を
渡(つて、六七
年(以前(の
事(、
或(人(が
佛京巴里(の
大博覽會(で、
彼(に
面會(したとまでは
明瞭(だが、
私(も
南船北馬(の
身(の
其後(の
詳(なる
消息(を
耳(にせず、たゞ
風(のたよりに、
此頃(では、
伊太利(のさる
繁華(なる
港(に
宏大(な
商會(を
立(てゝ、
專(ら
貿易事業(に
身(を
委(ねて
居(る
由(、おぼろながらに
傳(へ
聞(くのみ。
伊太利(の
繁華(なる
港(といへば、
此處(は
國中(隨一(の
名港(子ープルス、
埠頭(から
海岸通(りへかけて
商館(の
數(も
幾百千(、もしや
濱島(は
此(港(で、
其(商會(とやらを
營(んで
居(るのではあるまいかと
思(ひ
浮(んだので、
實(に
雲(を
掴(むやうな
話(だが、
萬(が一もと
旅亭(の
主人(を
呼(んで
聽(いて
見(ると、
果然(!
主人(は
私(の
問(を
終(まで
言(はせず、ポンと
禿頭(を
叩(いて、
『オヽ、
濱島(さん

よく
存(じて
居(ますよ、
雇人(が一千
人(もあつて、
支店(の
數(も十の
指(――ホー、
其(お
宅(ですか、それは
斯(う
行(つて、あゝ
行(つて。』と
口(と
手眞似(で
窓(から
首(を
突出(して
『あれ〳〵、あそこに
見(へる
宏壯(な三
階(の
家(!』
天外(萬里(の
異邦(では、
初對面(の
人(でも、
同(じ
山河(の
生(れと
聞(けば
懷(かしきに、まして
昔馴染(の
其人(が、
現在(此(地(にありと
聞(いては
矢(も
楯(も
堪(らない、
私(は
直(ぐと
身仕度(を
整(へて
旅亭(を
出(た。
旅亭(の
禿頭(に
教(へられた
樣(に、
人馬(の
徃來(繁(き
街道(を
西(へ〳〵と
凡(そ四五
町(、
唯(ある
十字街(を
左(へ
曲(つて、三
軒目(の
立派(な
煉瓦造(りの
一構(、
門(に
T. Hamashima(, と
記(してあるのは
此處(と
案内(を
乞(ふと、
直(ぐ
見晴(しのよい
一室(に
通(されて、
待(つ
程(もなく
靴音(高(く
入(つて
來(たのはまさしく
濱島(! 十
年(相(見(ぬ
間(に
彼(には
立派(な
八字髯(も
生(へ、
其(風采(も
餘程(變(つて
居(るが
相變(らず
洒々落々(の
男(『ヤァ、
柳川君(か、これは
珍(らしい、
珍(らしい。』と
下(にも
置(かぬ
待遇(、
私(は
心(から
(しかつたよ。
髯(は
生(へても
友達(同士(の
間(は
無邪氣(なもので、いろ〳〵の
話(の
間(には、
昔(倶(に
山野(に
獵暮(して、
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、6-5]て
農家(の
家鴨(を
射殺(して、
辛(き
目(に
出逢(つた
話(や、
春季(の
大運動會(に、
彼(と
私(とはおの〳〵
級(の
撰手(となつて、
必死(に
優勝旗(を
爭(つた
事(や、
其他(さま〴〵の
懷舊談(も
出(て、
時(の
移(るのも
知(らなかつたが、ふと
氣付(くと、
當家(の
模樣(が
何(となく
忙(がし
相(で、
四邊(の
部室(では
甲乙(の
語(り
合(ふ
聲(喧(しく、
廊下(を
走(る
人(の
足音(もたゞならず
速(い、
濱島(は
昔(から
極(く
沈着(な
人(で、
何事(にも
平然(と
構(へて
居(るから
夫(とは
分(らぬが、
今(珈琲(を
運(んで
來(た
小間使(の
顏(にも
其(忙(がしさが
見(へるので、
若(しや、
今日(は
不時(の
混雜中(ではあるまいかと
氣付(いたから、
私(は
急(に
顏(を
上(げ
『
何(かお
急(がしいのではありませんか。』と
問(ひかけた。
『イヤ、イヤ、
决(して
御心配(なく。』と
彼(は
此時(珈琲(を
一口(飮(んだが、
悠々(と
鼻髯(を
捻(りながら
『
何(ね、
實(は
旅立(つ
者(があるので。』
オヤ、
何人(が
何處(へと、
私(が
問(はんとするより
先(に
彼(は
口(を
開(いた。
『
時(に
柳川君(、
君(は
當分(此(港(に
御滯在(でせうねえ、それから、
西班牙(の
方(へでもお
廻(りですか、それとも、
更(に
歩(を
進(めて、
亞弗利加(探險(とでもお
出掛(けですか。』
『アハヽヽヽ。』と
私(は
頭(を
掻(いた。
『つい
昔話(の
面白(さに
申遲(れたが、
實(は
早急(なのですよ、
今夜(十一
時(半(の
船(で
日本(へ
皈(る
一方(なんです。』
『えい、
君(も?。』と
彼(は
眼(を
見張(つて。
『
矢張(今夜(十一
時(半(出帆(の
弦月丸(で?。』
『
左樣(、
殘念(ながら、
西班牙(や、
亞弗利加(の
方(は
今度(は
斷念(しました。』と、
私(がキツパリと
答(へると、
彼(はポンと
膝(を
叩(いて
『やあ、
奇妙(々々。』
何(が
奇妙(なのだと
私(の
審(る
顏(を
眺(めつゝ、
彼(は
言(をつゞけた。
『
何(んと
奇妙(ではありませんか、これ
等(が
天(の
紹介(とでも
云(ふものでせう、
實(は
私(の
妻子(も、
今夜(の
弦月丸(で
日本(へ
皈國(ますので。』
『え、
君(の
細君(と
御子息(
』と
私(は
意外(に
※([#「口+斗」、8-11]んだ。十
年(も
相(見(ぬ
間(に、
彼(に
妻子(の
出來(た
事(は
何(も
不思議(はないが、
實(は
今(の
今(まで
知(らなんだ、
况(んや
其人(が
今(本國(へ
皈(るなどゝは
全(く
寢耳(に
水(だ。
濱島(は
聲(高(く
笑(つて
『はゝゝゝゝ。
君(はまだ
私(の
妻子(を
御存(じなかつたのでしたね。これは
失敬(々々。』と
急(はしく
呼鈴(を
鳴(らして、
入(來(つた
小間使(に
『あのね、
奧(さんに
珍(らしいお
客樣(が……。』と
言(つたまゝ
私(の
方(に
向直(り
『
實(は
斯(うなんですよ。』と
小膝(を
進(めた。
『
私(が
此(港(へ
貿易商會(を
設立(た
翌々年(の
夏(、
鳥渡(日本(へ
皈(りました。
其頃(君(は
暹羅(漫遊中(と
承(つたが、
皈國中(、
或(人(の
媒介(で、
同郷(の
松島海軍大佐(の
妹(を
妻(に
娶(つて
來(たのです。これは
既(に十
年(から
前(の
事(で、
其後(に
生(れた
兒(も
最早(八歳(になりますが、さて、
私(の
日頃(の
望(は、
自分(は
斯(うして、
海外(に
一商人(として
世(に
立(つて
居(るものゝ、
小兒(丈(けはどうか
日本帝國(の
干城(となる
有爲(な
海軍々人(にして
見(たい、
夫(につけても、
日本人(の
子(は
日本(の
國土(で
教育(しなければ
從(て
愛國心(も
薄(くなるとは
私(の
深(く
感(ずる
所(で、
幸(ひ
妻(の
兄(は
本國(で
相當(の
軍人(であれば、
其人(の
手許(に
送(つて、
教育(萬端(の
世話(を
頼(まうと、
餘程(以前(から
考(へて
居(つたのですが、どうも
然(る
可(き
機會(を
得(なかつた。
然(るに
今月(の
初旬(、
本國(から
届(いた
郵便(によると、
妻(の
令兄(なる
松島海軍大佐(は、
兼(て
帝國軍艦高雄(の
艦長(であつたが、
近頃(病氣(の
爲(めに
待命中(の
由(、
勿論(危篤(といふ
程(の
病氣(ではあるまいが、
妻(も
唯(一人(の
兄(であれば、
能(ふ
事(なら
自(ら
見舞(もし、
久(ぶりに
故山(の
月(をも
眺(めたいとの
願望(、
丁度(小兒(のこともあるので、
然(らば
此(機會(にといふので、
二人(は
今夜(の十一
時(半(の
弦月丸(で
出發(といふ
事(になつたのです。
無論(、
妻(は
大佐(の
病氣(次第(で
早(かれ
遲(かれ
歸(つて
來(ますが、
兒(は
永(く〳〵――
日本帝國(の
天晴(れ
軍人(として
世(に
立(つまでは、
芙蓉(の
峯(の
麓(を
去(らせぬ
積(です。』と、
語(り
終(つて、
彼(は
靜(かに
私(の
顏(を
眺(め
『で、
君(も
今夜(の
御出帆(ならば、
船(の
中(でも、
日本(へ
皈(つて
後(も、
何呉(れ
御面倒(を
願(ひますよ。』
此(話(で
何事(も
分明(になつた。それに
就(けても
濱島武文(は
昔(ながら
壯快(い
氣象(だ、たゞ
一人(の
兒(を
帝國(の
軍人(に
養成(せんが
爲(めに
恩愛(の
覊(を
斷切(つて、
本國(へ
送(つてやるとは
隨分(思(ひ
切(つた
事(だ。また
松島海軍大佐(の
令妹(なる
彼(の
夫人(にはまだ
面會(はせぬが、
兄君(の
病床(を
見舞(はんが
爲(めに、
暫時(でも
其(良君(に
別(を
告(げ、
幼(き
兒(を
携(へて、
浪風(荒(き
萬里(の
旅(に
赴(くとは
仲々(殊勝(なる
振舞(よと、
心(竊(かに
感服(するのである。
更(に
想(ひめぐらすと
此度(の
事件(は、
何(から
何(まで
小説(のやうだ。
海外(萬里(の
地(で、ふとした
事(から
昔馴染(の
朋友(に
出逢(つた
事(、それから
私(は
此(港(へ
來(た
時(は、
恰(も
彼(の
夫人(と
令息(とが
此處(を
出發(しやうといふ
時(で、
申合(せたでもなく、
同(じ
時(に、
同(じ
船(に
乘(つて、
之(から
數(ヶ
月(の
航海(を
倶(にするやうな
運命(に
立到(つたのは、
實(に
濱島(の
云(ふが
如(く、
之(が
不思議(なる
天(の
紹介(とでもいふものであらう、
斯(う
思(つて、
暫時(或(想像(に
耽(つて
居(る
時(、
忽(ち
部室(の
戸(を
靜(かに
開(いて
入(來(つた
二個(の
人(がある。
言(ふ
迄(もない、
夫人(と
其(愛兒(だ。
濱島(は
立(つて
『これが
私(の
妻(春枝(。』と
私(に
紹介(せ、
更(に
夫人(に
向(つて、
私(と
彼(とが
昔(おなじ
學(びの
友(であつた
事(、
私(が
今回(の
旅行(の
次第(、また
之(から
日本(まで
夫人等(と
航海(を
共(にするやうになつた
不思議(の
縁(を
言葉(短(に
語(ると、
夫人(は『おや。』と
言(つたまゝいと
懷(かし
氣(に
進(み
寄(る。
年(の
頃(廿六七、
眉(の
麗(はしい
口元(の
優(しい
丁度(天女(の
樣(な
美人(、
私(は
一目(見(て、
此(夫人(は
其(容姿(の
如(く、
心(も
美(はしく、
世(にも
高貴(き
婦人(と
思(つた。
一通(りの
挨拶(終(つて
後(、
夫人(は
愛兒(を
麾(くと、
招(かれて
臆(する
色(もなく
私(の
膝許(近(く
進(み
寄(つた
少年(、
年齡(は八
歳(、
名(は
日出雄(と
呼(ぶ
由(、
清楚(とした
水兵(風(の
洋服(姿(で、
髮(の
房々(とした、
色(の
くつきりと
白(い、
口元(は
父君(の
凛々(しきに
似(、
眼元(は
母君(の
清(しきを
其儘(に、
見(るから
可憐(の
少年(。
私(は
端(なくも、
昨夜(ローマ府(からの
車(の
中(で
讀(んだ『
小公子(』といふ
小説(中(の、あの
愛(らしい〳〵
小主人公(を
聯想(した。
日出雄少年(は
海外(萬里(の
地(に
生(れて、
父母(の
外(には
本國人(を
見(る
事(も
稀(なる
事(とて、
幼(き
心(にも
懷(かしとか、
(しとか
思(つたのであらう、
其(清(しい
眼(で、しげ〳〵と
私(の
顏(を
見上(げて
居(つたが
『おや、
叔父(さんは
日本人(!。』と
言(つた。
『
私(は
日本人(ですよ、
日出雄(さんと
同(じお
國(の
人(ですよ。』と
私(は
抱(き
寄(せて
『
日出雄(さんは
日本人(が
好(きなの、
日本(のお
國(を
愛(しますか。』と
問(ふと
少年(は
元氣(よく
『あ、
私(は
日本(が
大好(きなんですよ、
日本(へ
皈(りたくつてなりませんの
[#「なりませんの」は底本では「なりせまんの」]、でねえ、
毎日(〳〵
日(の
丸(の
旗(を
立(てゝ、
街(で
[#「街(で」は底本では「街(て」]戰爭事(をしますの、
爾(してねえ、
日(の
丸(の
旗(は
強(いのですよ、
何時(でも
勝(つてばつかり
居(ますの。』
『おゝ、
左樣(でせうとも〳〵。』と
私(は
餘(りの
可愛(さに
少年(を
頭上(高(く
差(し
上(げて、
大日本帝國(萬歳(と
※([#「口+斗」、8-11]ぶと、
少年(も
私(の
頭(の
上(で
萬歳々々(と
小躍(をする。
濱島(は
浩然(大笑(した、
春枝夫人(は
眼(を
細(うして
『あら、
日出雄(は、ま、どんなに
(しいんでせう。』と
言(つて、
紅(のハンカチーフに
笑顏(を
蔽(ふた。
第二回
魔(の
日(魔(の
刻(
送別會――老女亞尼(――ウルピノ山の聖人――十月の祟の日――黄金と眞珠――月夜の出港
それから
談話(にはまた
一段(の
花(が
咲(いて、
日永(の五
月(の
空(もいつか
夕陽(が
斜(に
射(すやうにあつたので、
私(は
一先(づ
暇乞(せんと
折(を
見(て『いづれ
今夜(弦月丸(にて――。』と
立(ちかけると、
濱島(は
周章(て
押止(め
『ま、ま、お
待(ちなさい、お
待(ちなさい、
今(から
旅亭(へ
皈(つたとて
何(になります。
久(ぶりの
面會(なるを
今日(は
足(る
程(語(つて
今夜(の
御出發(も
是非(に
私(の
家(より。』と
夫人(とも〴〵
切(に
勸(めるので、
元來(無遠慮勝(の
私(は、
然(らば
御意(の
儘(にと、
旅亭(の
手荷物(は
當家(の
馬丁(を
取(りに
使(はし、
此處(から
三人(打揃(つて
出發(する
事(になつた。
いろ〳〵の
厚(き
待遇(を
受(けた
後(、
夜(の八
時(頃(になると、
當家(の
番頭(手代(をはじめ
下婢(下僕(に
至(るまで、
一同(が
集(つて
送別(の
催(をする
相(で、
私(も
招(かれて
其(席(へ
連(なつた。
春枝夫人(は
世(にすぐれて
慈愛(に
富(める
人(、
日出雄少年(は
彼等(の
間(に
此上(なく
愛(重(せられて
居(つたので、
誰(とて
袂別(を
惜(まぬものはない、
然(し
主人(の
濱島(は
東洋(の
豪傑(風(で、
泣(く
事(などは
大厭(の
性質(であるから
一同(は
其(心(を
酌(んで、
表面(に
涙(を
流(す
者(などは
一人(も
無(かつた。イヤ、
茲(に
只(一人(特別(に
私(の
眼(に
止(つた
者(があつた。それは
席(の
末座(に
列(つて
居(つた
一個(の
年老(たる
伊太利(の
婦人(で、
此(女(は
日出雄少年(の
保姆(にと、
久(しき
以前(に、
遠(き
田舍(から
雇入(れた
女(の
相(で、
背(の
低(い、
白髮(の、
極(く
正直(相(な
老女(であるが、
前(の
程(より
愁然(と
頭(を
埀(れて、
丁度(死出(の
旅路(に
行(く
人(を
送(るかの
如(く、
頻(りに
涙(を
流(して
居(る。
私(は
何故(ともなく
異樣(に
感(じた。
『オヤ、
亞尼(がまた
詰(らぬ
事(を
考(へて
泣(いて
居(りますよ。』と、
春枝夫人(は
良人(の
顏(を
眺(めた。
頓(て、
此(集會(も
終(ると、十
時(間近(で、いよ〳〵
弦月丸(へ
乘船(の
時刻(とはなつたので、
濱島(の
一家族(と、
私(とは
同(じ
馬車(で、
多(の
人(に
見送(られながら
波止塲(に
來(り、
其邊(の
或(茶亭(に
休憇(した、
此處(で
彼等(の
間(には、それ〳〵
袂別(の
言(もあらうと
思(つたので、
私(は
氣轉(よく
一人(離(れて
波打際(へと
歩(み
出(した。
此時(にふと
心付(くと、
何者(か
私(の
後(にこそ〳〵と
尾行(して
來(る
樣子(、オヤ
變(だと
振返(る、
途端(に
其(影(は
轉(ぶが
如(く
私(の
足許(へ
走(り
寄(つた。
見(ると、こは
先刻(送別(の
席(で、
只(一人(で
泣(いて
居(つた
亞尼(と
呼(べる
老女(であつた。
『おや、お
前(は。』と
私(は
歩行(を
止(めると、
老女(は
今(も
猶(ほ
泣(きながら
『
賓人(よ、お
願(ひで
厶(ります。』と
兩手(を
合(せて
私(を
仰(ぎ
見(た。
『お
前(は
亞尼(とか
云(つたねえ、
何(の
用(かね。』と
私(は
靜(かに
問(ふた。
老女(は
虫(のやうな
聲(で『
賓人(よ。』と
暫時(私(の
顏(を
眺(めて
居(つたが
『あの、
妾(の
奧樣(と
日出雄樣(とは
今夜(の
弦月丸(で、
貴方(と
御同道(に
日本(へ
御出發(になる
相(ですが、それを御
延(べになる
事(は
出來(ますまいか。』と
恐(る〳〵
口(を
開(いたのである。ハテ、
妙(な
事(を
言(ふ
女(だと
私(は
眉(を
顰(めたが、よく
見(ると、
老女(は、
何事(にか
痛(く
心(を
惱(まして
居(る
樣子(なので、
私(は
逆(らはない
『
左樣(さねえ、もう
延(ばす
事(は
出來(まいよ。』と
輕(く
言(つて
『
然(し、お
前(は
何故(其樣(に
嘆(くのかね。』と
言葉(やさしく
問(ひかけると、
此(一言(に
老女(は
少(しく
顏(を
擡(げ
『
實(に
賓人(よ、
私(はこれ
程(悲(しい
事(はありません。はじめて
奧樣(や
日出雄樣(が、
日本(へお
皈(りになると
承(つた
時(は
本當(に
魂消(えましたよ、
然(しそれは
致方(もありませんが、
其後(よく
承(ると、
御出帆(の
時日(は
時(もあらうに、
今夜(の十一
時(半(……。』といひかけて
唇(をふるはし
『あの、あの、
今夜(十一
時(半(に
御出帆(になつては――。』
『
何(、
今夜(の
船(で
出發(すると
如何(したのだ。』と
私(は
眼(を
(つた。
亞尼(は
胸(の
鏡(に
手(を
當(てゝ
『
私(は
神樣(に
誓(つて
申(しますよ、
貴方(はまだ
御存(じはありますまいが、
大變(な
事(があります。
此事(は
旦那樣(にも
奧樣(にも
毎度(か
申上(げて、
何卒(今夜(の
御出帆(丈(けは
御見合(せ
下(さいと
御願(ひ
申(したのですが、
御兩方(共(たゞ
笑(つて「
亞尼(や
其樣(に
心配(するには
及(ばないよ。」と
仰(せあるばかり、
少(しも
御聽許(にはならないのです。けれど
賓人(よ、
私(はよく
存(じて
居(ります、
今夜(の
弦月丸(とかで
御出發(になつては、
奧樣(も、
日出雄樣(も、
决(して
御無事(では
濟(みませんよ。』
『
無事(で
濟(まんとは――。』と
私(は
思(はず
釣込(まれた。
『はい、
决(して
御無事(には
濟(みません。』と、
亞尼(は
眞面目(になつた、
私(の
顏(を
頼母(し
氣(に
見上(げて
『
私(は
貴方(を
信(じますよ、
貴方(は
决(してお
笑(ひになりますまいねえ。』と
前置(をして
斯(う
言(つた。
『
ウルピノ山(の
聖人(の
仰(つた
樣(に、
昔(から
色々(の
口碑(のある
中(で、
船旅(程(時日(を
選(ばねばならぬものはありません、
凶日(に
旅立(つた
人(は
屹度(災難(に
出逢(ひますよ。これは
本當(です、
現(に
私(の
一人(の
悴(も、七八
年(以前(の
事(、
私(が
切(に
止(めるのも
聽(かで、十
月(の
祟(の
日(に
家出(をしたばかりに、
終(に
世(に
恐(ろしい
海蛇(に
捕(られてしまいました。
私(にはよく
分(つて
居(ますよ。
奧樣(とて
日出雄樣(とて
今夜(御出帆(になつたら
决(して
御無事(では
濟(みません、はい、
其(理由(は、
今日(は五
月(の十六
日(で
魔(の
日(でせう、
爾(して、
今夜(の十一
時(半(といふは、
何(んと
恐(ろしいでは
御座(いませんか、
魔(の
刻限(ですもの。』
私(は
聽(きながらプツと
吹(き
出(す
處(であつた。けれど
老女(は
少(しも
構(はず
『
賓人(よ、
笑(ひ
事(ではありませぬ、
魔(の
日(魔(の
刻(といふのは、
一年中(でも
一番(に
不吉(な
時(なのです、
他(の
日(の
澤山(あるのに、
此(日(、
此(刻限(に
御出帆(になるといふのは
何(んの
因果(でせう、
私(は
考(へると
居(ても
立(つても
居(られませぬ。
其上(、
私(は
懇意(の
船乘(さんに
聞(いて
見(ますと、
今度(の
航海(には、
弦月丸(に
澤山(の
黄金(と
眞珠(とが
積入(れてあります
相(な、
黄金(と
眞珠(とが
波(の
荒(い
海上(で
集(ると、
屹度(恐(ろしい
祟(を
致(します。あゝ、
不吉(の
上(にも
不吉(。
賓人(よ、
私(の
心(の
千分(の
一(でもお
察(しになつたら、どうか
奧樣(と
日出雄樣(を
助(けると
思(つて、
今夜(の
御出帆(をお
延(べ
下(さい。』と
拜(まぬばかりに
手(を
合(せた。
聽(いて
見(るとイヤハヤ
無※([#「(禾+尤)/上/日」、22-10]な
話(!
西洋(でもいろ〳〵と
縁起(を
語(る
人(はあるが、
此(老女(のやうなのはまア
珍(らしからう。
私(は
大笑(ひに
笑(つてやらうと
考(へたが、
待(てよ、たとへ
迷信(でも、
其(主人(の
身(の
上(を
慮(ふこと
斯(くまで
深(く、かくも
眞面目(で
居(る
者(を、
無下(に
嘲笑(すでもあるまいと
氣付(いたので、
込(み
上(げて
來(る
可笑(さを
無理(に
怺(えて
『
亞尼(!。』と
一聲(呼(びかけた。
『
亞尼(! お
前(の
言(ふ
事(はよく
分(つたよ、
其(忠實(なる
心(をば
御主人樣(も
奧樣(もどんなにかお
悦(びだらう、けれど――。』と
彼女(の
顏(を
眺(め
『けれどお
前(の
言(ふ
事(は、みんな
昔(の
話(で、
今(では
魔(の
日(も
祟(の
日(も
無(くなつたよ。』
『あゝ、
貴方(も
矢張(お
笑(ひなさるのですか。』と
亞尼(はいと
情(なき
顏(に
眼(を
閉(ぢた。
『いや、
决(して
笑(ふのではないが、
其事(は
心配(するには
及(ばぬよ、
奧樣(も
日出雄少年(も、
私(が
生命(にかけて
保護(して
上(げる。』と
言(つたが、
亞尼(は
殆(んど
絶望(極(りなき
顏(で
『あゝ、もう
無益(だよ〳〵。』とすゝり
泣(きしながら、
むつくと
立上(り
『
神樣(、
佛樣(、
奧樣(と
日出雄樣(の
御身(をお
助(け
下(さい。』と
叫(んだ
儘(、
狂氣(の
如(くに
走(り
去(つた。
丁度(此時(、
休憩所(では
乘船(の
仕度(も
整(つたと
見(へ、
濱島(の
頻(りに
私(を
呼(ぶ
聲(が
聽(えた。
第三回
怪(の
船(
銅鑼の響――ビール樽の船長――白色の檣燈――古風な英國人――海賊島の奇聞――海蛇丸
春枝夫人(と、
日出雄少年(と、
私(とが、
多(の
身送人(に
袂別(を
告(げて、
波止塲(から
凖備(の
小蒸
船(で、
遙(かの
沖合(に
停泊(して
居(る
弦月丸(に
乘組(んだのは
其(夜(十
時(※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、25-2]ぎ三十
分(。
濱島武文(と、
他(に
三人(の
人(は
本船(まで
見送(つて
來(た。
此(弦月丸(といふのは、
伊太利(の
東方
船會社(の
持船(で、
噸數(六千四百。二
本(の
煙筒(に四
本(檣(の
頗(る
巨大(な
船(である、
此度(支那(及(び
日本(の
各港(へ
向(つての
航海(には、
夥(しき
鐵材(と、
黄金(眞珠等(少(なからざる
貴重品(を
搭載(して
居(る
相(で、
其(船脚(も
餘程(深(く
沈(んで
見(えた。
弦月丸(の
舷梯(へ
達(すると、
私共(の
乘船(の
事(は
既(に
乘客(名簿(で
分(つて
居(つたので、
船丁(は
走(つて
來(て、
急(はしく
荷物(を
運(ぶやら、
接待員(は
恭(しく
帽(を
脱(して、
甲板(に
混雜(せる
夥多(の
人(を
押分(るやらして、
吾等(は
導(かれて
船(の
中部(に
近(き一
等(船室(に
入(つた。どの
船(でも
左樣(だが、
同(じ
等級(の
船室(の
中(でも、
中部(の
船室(は
最(も
多(く
人(の
望(む
所(である。
何故(かと
言(へば
航海中(船(の
動搖(を
感(ずる
事(が
比較的(に
少(ない
爲(で、
此(室(を
占領(する
爲(には
虎鬚(の
獨逸人(や、
羅馬風(の
鼻(の
高(い
佛蘭西人等(に
隨分(競爭者(が
澤山(あつたが、
幸(にも
ネープルス市(中(で「
富貴(なる
日本人(。」と
盛名(隆々(たる
濱島武文(の
特別(なる
盡力(があつたので、
吾等(は
遂(に
此(最上(の
船室(を
占領(する
事(になつた。
加(ふるに
春枝夫人(、
日出雄少年(の
部室(と
私(の
部室(とは
直(ぐ
隣合(つて
居(つたので
萬事(に
就(いて
都合(が
宜(からうと
思(はるゝ。
私(は
元來(膝栗毛的(の
旅行(であるから、
何(も
面倒(はない、
手提革包(一個(を
船室(の
中(へ
投込(んだまゝ
直(ぐ
春枝夫人等(の
船室(へ
訪(づれた。
此時(夫人(は
少年(を
膝(に
上(せて、
其(良君(や
他(の
三人(を
相手(に
談話(をして
居(つたが、
私(の
姿(を
見(るより
『おや、もうお
片附(になりましたの。』といつて
嬋娟(たる
姿(は
急(ぎ
立(ち
迎(へた。
『なあに、
柳川君(には
片附(けるやうな
荷物(もないのさ。』と
濱島(は
聲(高(く
笑(つて『さあ。』とすゝめた
倚子(によつて、
私(も
此(仲間(入(。
最早(袂別(の
時刻(も
迫(つて
來(たので、いろ〳〵の
談話(はそれからそれと
盡(くる
間(も
無(かつたが、
兎角(する
程(に、ガラン、ガラ、ガラン、ガラ、と
船中(に
布(れ
廻(る
銅鑼(の
響(が
囂(しく
聽(えた。
『あら、あら、あの
音(は――。』と
日出雄少年(は
眼(をまん
丸(にして
母君(の
優(しき
顏(を
仰(ぐと、
春枝夫人(は
默然(として、
其(良君(を
見(る。
濱島武文(は
靜(かに
立上(つて
『もう、
袂別(の
時刻(になつたよ。』と
他(の
三人(を
顧見(た。
すべて、
海上(の
規則(では、
船(の
出港(の十
分(乃至(十五
分(前(に、
船中(を
布(れ
廻(る
銅鑼(の
響(の
聽(ゆると
共(に
本船(を
立去(らねばならぬのである。で、
濱島(は
此時(最早(此(船(を
去(らんとて
私(の
手(を
握(りて
袂別(の
言葉(厚(く、
夫人(にも
二言(三言(云(つた
後(、その
愛兒(をば
右手(に
抱(き
寄(せて、
其(房々(とした
頭髮(を
撫(でながら
『
日出雄(や、
汝(と
父(とは、
之(から
長時(の
間(別(れるのだが、
汝(は
兼々(父(の
言(ふやうに、
世(に
俊(れた
人(となつて――
有爲(な
海軍士官(となつて、
日本帝國(の
干城(となる
志(を
忘(れてはなりませんよ。』と
言(ひ
終(つて、
少年(が
默(つて
點頭(くのを
笑(まし
氣(に
打(ち
見(やりつゝ、
他(の
三人(を
促(して
船室(を
出(た。
先刻(は
見送(られた
吾等(は
今(は
彼等(を
此(船(より
送(り
出(さんと、
私(は
右手(に
少年(を
導(き、
流石(に
悄然(たる
春枝夫人(を
扶(けて
甲板(に
出(ると、
今宵(は
陰暦(十三
夜(、
深碧(の
空(には一
片(の
雲(もなく、
月(は
浩々(と
冴(え
渡(りて、
加(ふるに
遙(かの
沖(に
停泊(して
居(る三四
艘(の
某(國(軍艦(からは、
始終(探海電燈(をもつて
海面(を
照(して
居(るので、
其(明(なる
事(は
白晝(を
欺(くばかりで、
波(のまに〳〵
浮沈(んで
居(る
浮標(の
形(さへいと
明(に
見(える
程(だ。
濱島(は
船(の
舷梯(まで
到(つた
時(、
今(一
度(此方(を
振返(つて、
夫人(とその
愛兒(との
顏(を
打眺(めたが、
何(か
心(にかゝる
事(のあるが
如(く
私(に
瞳(を
轉(じて
『
柳川君(、
然(らば
之(にてお
別(れ
申(すが、
春枝(と
日出雄(の
事(は
何分(にも――。』と
彼(は
日頃(の
豪壯(なる
性質(には
似合(はぬ
迄(、
氣遣(はし
氣(に、
恰(も
何者(か
空中(に
力強(き
腕(のありて、
彼(を
此(塲(に
捕(へ
居(るが
如(くいとゞ
立去(り
兼(ねて
見(へた。
之(が
俗(に
謂(ふ
虫(の
知(らせとでもいふものであらうかと、
後(に
思(ひ
當(つたが、
此時(はたゞ
離別(の
情(さこそと
思(ひ
遣(るばかりで、
私(は
打點頭(き『
濱島君(よ、
心豐(かにいよ〳〵
榮(え
玉(へ、
君(が
夫人(と
愛兒(の
御身(は、
此(柳川(の
生命(にかけても
守護(しまいらすべし。』と
答(へると
彼(は
莞爾(と
打笑(み、こも〴〵
三人(と
握手(して、
其儘(舷梯(を
降(り、
先刻(から
待受(けて
居(つた
小蒸
船(に
身(を
移(すと、
小蒸
船(は
忽(ち
波(を
蹴立(てゝ、
波止塲(の
方(へと
歸(つて
行(く、
其(仇浪(の
立騷(ぐ
邊(海鳥(二三
羽(夢(に
鳴(いて、うたゝ
旅客(の
膓(を
斷(つばかり、
日出雄少年(は
無邪氣(である
『あら、
父君(は
單獨(で
何處(へいらつしやつたの、もうお
皈(りにはならないのですか。』と
母君(の
纎手(に
依(りすがると
春枝夫人(は
凛々(しとはいひ、
女心(のそゞろに
哀(を
催(して、
愁然(と
見送(る
良人(の
行方(、
月(は
白晝(のやうに
明(だが、
小蒸
船(の
形(は
次第々々(に
朧(になつて、
殘(る
煙(のみぞ
長(き
名殘(を
留(めた。
『
夫人(、すこし、
甲板(の
上(でも
逍遙(して
見(ませうか。』と
私(は
二人(を
誘(つた。かく
氣(の
沈(んで
居(る
時(には、
賑(はしき
光景(にても
眺(めなば、
幾分(か
心(を
慰(むる
因(ともならんと
考(へたので、
私(は
兩人(を
引連(れて、
此時(一
番(に
賑(はしく
見(えた
船首(の
方(へ
歩(を
移(した。
最早(、
出港(の
時刻(も
迫(つて
居(る
事(とて、
此邊(は
仲々(の
混雜(であつた。
輕(き
服裝(せる
船丁等(は
宙(になつて
驅(けめぐり、
逞(ましき
骨格(せる
夥多(の
船員等(は
自己(が
持塲(〳〵に
列(を
作(りて、
後部(の
舷梯(は
既(に
引揚(げられたり。
今(しも
船首甲板(に
於(ける
一等運轉手(の
指揮(の
下(に、はや一
團(の
水夫等(は
捲揚機(の
周圍(に
走(せ
集(つて、
次(の一
令(と
共(に
錨鎖(を
卷揚(げん
身構(。
船橋(の
上(にはビール
樽(のやうに
肥滿(した
船長(が、
赤(き
頬髯(を
捻(りつゝ
傲然(と四
方(を
睥睨(して
居(る。
私(は
三々五々(群(をなして、
其處此處(に
立(つて
居(る、
顏色(の
際立(つて
白(い
白耳義人(や、「コスメチツク」で
鼻髯(を
劍(のやうに
塗(り
固(めた
佛蘭西(の
若紳士(や、あまりに
酒(を
飮(んで
酒(のために
鼻(の
赤(くなつた
獨逸(の
陸軍士官(や、
其他(美人(の
標本(ともいふ
可(き
伊太利(の
女俳優(や、
色(の
無暗(に
黒(い
印度(邊(の
大富豪(の
船客等(の
間(に
立交(つて、
此(目醒(ましき
光景(を
見廻(しつゝ、
春枝夫人(とくさ〴〵の
物語(をして
居(つたが、
此時(不意(にだ、
實(に
不意(に
私(の
背部(で、『や、や、や、しまつたゾ。』と
一度(に
※([#「口+斗」、32-5]ぶ
水夫(の
聲(、
同時(に
物(あり、
甲板(に
落(ちて
微塵(に
碎(けた
物音(のしたので、
私(は
急(ぎ
振返(つて
見(ると、
其處(では
今(しも、二三の
水夫(が
滑車(をもつて
前檣(高(く
掲(げんとした
一個(の
白色燈(――それは
船(が
航海中(、
安全(進航(の
表章(となるべき
球形(の
檣燈(が、
何(かの
機會(で
糸(の
縁(を
離(れて、
檣上(二十
呎(ばかりの
所(から
流星(の
如(く
落下(して、あはやと
言(ふ
間(に
船長(が
立(てる
船橋(に
衝(つて、
燈(は
微塵(に
碎(け、
燈光(はパツと
消(える、
船長(驚(いて
身(を
躱(す
拍子(に
足(踏滑(らして、
船橋(の
階段(を二三
段(眞逆(に
落(ちた。
水夫(共(は『あツ』とばかり
顏(の
色(を
變(た。
船長(は
周章(てゝ
起上(つたが、
怒氣(滿面(、けれど
自己(が
醜態(に
怒(る
事(も
出來(ず、ビール
樽(のやうな
腹(に
手(を
當(てゝ、
物凄(い
眼(に
水夫(共(を
睨(み
付(けると、
此時(私(の
傍(には
鬚(の
長(い、
頭(の
禿(た、
如何(にも
古風(らしい
一個(の
英國人(が
立(つて
居(つたが、
此(活劇(を
見(るより、
ぶるぶると
身慄(して
『あゝ、あゝ、
縁起(でもない、
南無阿彌陀佛(!
此(船(に
惡魔(が
魅(て
居(なければよいが。』と
呟(いた。
えい。また
御幣(擔(ぎ!
今日(は
何(んといふ
日(だらう。
勿論(、
此樣(事(には
何(も
深(い
仔細(のあらう
筈(はない。つまり
偶然(の
出來事(には
相違(ないのだが、
私(は
何(となく
異樣(に
感(じたよ。
誰(でも
左樣(だが、
戰爭(の
首途(とか、
旅行(の
首途(に
少(しでも
變(な
事(があれば、
多少(氣(に
懸(けずには
居(られぬのである。
特(に
我(弦月丸(は
今(や
萬里(の
波濤(を
志(して、
音(に
名高(き
地中海(、
紅海(、
印度洋等(の
難所(に
進(み
入(らんとする
其(首途(に、
船(が
安全(航行(の
表章(となるべき
白色檣燈(が
微塵(に
碎(けて、
其(燈光(は
消(え、
同時(に、
此(船(の
主長(ともいふべき
船長(が
船橋(より
墮落(して、
心(の
不快(を
抱(き、
顏(に
憤怒(の
相(を
現(はしたなど、
或(意味(からいふと、
何(か
此(弦月丸(に
禍(の
起(る
其(前兆(ではあるまいかと、どうも
好(い
心持(はしなかつたのである。
無論(此樣(な
妄想(は、
平生(ならば
苦(もなく
打消(されるのだが、
今日(は
先刻(から
亞尼(が、
魔(の
日(だの
魔(の
刻(だのと
言(つた
言葉(や、
濱島(が
日頃(に
似(ぬ
氣遣(はし
氣(なりし
樣子(までが、
一時(に
心(に
浮(んで
來(て、
非常(に
變(な
心地(がしたので、
寧(ろ
此(塲(を
立去(らんと、
春枝夫人(を
見返(へると、
夫人(も
今(の
有樣(と
古風(なる
英國人(の
獨言(には
幾分(か
不快(を
感(じたと
見(へ
『あの
艫(の
方(へでもいらつしやいませんか。』と
私(を
促(しつゝ
蓮歩(を
彼方(へ
移(した。
頓(て
船尾(の
方(へ
來(て
見(ると、
此處(は
人影(も
稀(で、
既(に
洗淨(を
終(つて、
幾分(の
水氣(を
帶(びて
居(る
甲板(の
上(には、
月(の
色(も
一段(と
冴渡(つて
居(る。
『
矢張(靜(かな
所(が
宜(う
厶(いますねえ。』と
春枝夫人(は
此時(淋(しき
笑(を
浮(べて、
日出雄少年(と
共(にずつと
船端(へ
行(つて、
鐵欄(に
凭(れて
遙(かなる
埠頭(の
方(を
眺(めつゝ
『
日出雄(や、あの
向(ふに
見(える
高(い
山(を
覺(えておいでかえ。』と
住馴(れし
子ープルス市街(の
東南(に
聳(ゆる
山(を
指(すと、
日出雄少年(は
『
モリス山(でせう、
私(はよつく
覺(えて
居(ますよ。』とパツチリとした
眼(で
母君(の
顏(を
見上(げた。
『おゝ、それなら、あの
電氣燈(が
澤山(に
輝(いて、
大(きな
煙筒(が五
本(も六
本(も
並(んで
居(る
處(は――。』
『
サンガロー街(――おつかさん、
私(の
家(も
彼處(にあるんですねえ。』と
少年(は
兩手(を
鐵欄(の
上(に
載(せて
『
父君(はもう
家(へお
皈(りになつたでせうか。』
『おゝ、お
皈(りになりましたとも、そして
今頃(は、あの
保姆(や、
番頭(の
スミスさんなんかに、お
前(が
温順(しくお
船(に
乘(つて
居(る
事(を
話(していらつしやるでせう。』と
言葉(やさしく
愛兒(の
房々(せる
頭髮(に
玉(のやうなる
頬(をすり
寄(せて、
餘念(もなく
物語(る、これが
夫人(の
爲(めには、
唯一(の
慰(であらう。かゝる
優(しき
振舞(を
妨(ぐるは、
心(なき
業(と
思(つたから、
私(は
態(と
其處(へは
行(かず、
少(し
離(れてたゞ
一人(安樂倚子(の
上(へ
身(を
横(へて、
四方(の
風景(を
見渡(すと、
今宵(は
月(明(かなれば、さしもに
廣(き
ネープルス灣(も
眼界(到(らぬ
隈(はなく、おぼろ〳〵に
見(ゆる
イスチヤの
岬(には
廻轉燈明臺(の
見(えつ、
隱(れつ、
天(に
聳(ゆる
モリス山(の
頂(にはまだ
殘(の
雪(の
眞白(なるに、
月(の
光(のきら〳〵と
反射(して
居(るなど
得(も
言(はれず、
港内(は
電燈(の
光(煌々(たる
波止塲(の
附近(からずつと
此方(まで、
金龍(走(る
波(の
上(には、
船艦(浮(ぶ
事(幾百艘(、
出(る
船(、
入(る
船(は
前檣(に
白燈(、
右舷(に
緑燈(、
左舷(に
紅燈(の
海上法(を
守(り、
停泊(まれる
船(は
大鳥(の
波上(に
眠(るに
似(て、
丁度(夢(にでもあり
相(な
景色(!
私(は
此樣(な
風景(は
今迄(に
幾回(ともなく
眺(めたが、
今宵(はわけて
趣味(ある
樣(に
覺(えたので
眼(も
放(たず、それからそれと
眺(めて
行(く
内(、ふと
眼(に
止(つた一つの
有樣(――それは
此處(から五百
米突(ばかりの
距離(に
停泊(して
居(る一
艘(の
蒸
船(で、
今(某(國(軍艦(からの
探海燈(は
其邊(を
隈(なく
照(して
居(るので、
其(甲板(の
裝置(なども
手(に
取(るやうに
見(える、
此(船(噸數(一千
噸(位(、
船體(は
黒色(に
塗(られて、
二本(煙筒(に
二本(檣(、
軍艦(でない
事(は
分(つて
居(るが、
商船(か、
郵便船(か、
或(は
他(に
何等(かの
目的(を
有(して
居(る
船(か
夫(は
分(らない。
勿論(、
外形(に
現(れても
何(も
審(しい
點(はないが、
少(しく
私(の
眼(に
異樣(に
覺(えたのは、
總(噸數(一千
噸(位(にしては
其(構造(の
餘(りに
堅固(らしいのと、また
其(甲板(の
下部(には
數門(の
大砲等(の
搭載(て
居(るのではあるまいか、
其(船脚(は
尋常(ならず
深(く
沈(んで
見(える。
今(や
其(二本(の
烟筒(から
盛(んに
黒煙(を
吐(いて
居(るのは
既(に
出港(の
時刻(に
達(したのであらう、
見(る〳〵
船首(の
錨(は
卷揚(げられて、
徐々(として
進航(を
始(めた。
私(は
何氣(なく
衣袋(を
探(つて、
双眼鏡(を
取出(し、
度(を
合(せて
猶(ほよく
其(甲板(の
工合(を
見(やうとする、
丁度(此時(先方(の
船(でも、
一個(の
船員(らしい
男(が、
船橋(の
上(から
一心(に
双眼鏡(を
我(が
船(に
向(けて
居(つたが、
不思議(だ、
私(の
視線(と
彼方(の
視線(とが
端(なくも
衝突(すると、
忽(ち
彼男(は
双眼鏡(をかなぐり
捨(てゝ、
乾顏(に
横(を
向(いた。
其(擧動(のあまりに
奇怪(なので
私(は
思(はず
小首(を
傾(けたが、
此時(何故(とも
知(れず
偶然(にも
胸(に
浮(んで
來(た
一(つの
物語(がある。それは
忘(れもせぬ
去年(の
秋(の
事(で、
私(が
米國(から
歐羅巴(へ
渡(る
航海中(で、ふと
一人(の
英國(の
老水夫(と
懇意(になつた。
其([#ルビの「その」は底本では「たの」]老水夫(がいろ〳〵の
興味(ある
話(の
中(で、
最(も
深(く
私(の
心(に
刻(まれて
居(るのは、
世(に
一番(に
恐(ろしい
航路(は
印度洋(だとうふ
物語(、
亞弗利加洲(の
東方(、
マダカッスル島(からも
餘程(離(れて、
世(の
人(は
夢(にも
知(らない
海賊島(といふのがある
相(だ、
無論(世界地圖(には
見(る
事(の
出來(ぬ
孤島(であるが、
其處(には
獰猛(鬼神(を
欺(く
數百(の
海賊(が
一團體(をなして、
迅速(堅固(なる七
艘(の
海賊船(を
浮(べて、
絶(えず
其邊(の
航路(を
徘徊(し、
時(には
遠(く
大西洋(の
[#「大西洋(の」は底本では「太西洋(の」]沿岸(までも
船(を
乘出(して、
非常(に
貴重(な
貨物(を
搭載(した
船(と
見(ると、
忽(ち
之(を
撃沈(して、
惡(む
可(き
慾(を
逞(ましうして
居(るとの
話(。
而(して
歐米(の
海員(仲間(では、
此事(を
知(らぬでもないが、
如何(にせん、
此(海賊(團體(の
狡猾(なる
事(は
言語(に
絶(えて、
其(來(るや
風(の
如(く、
其(去(るも
亦(た
風(の
如(く。
海賊(共(は
如何(にして
探知(するものかは
知(らぬが
其(覬(ひ
定(める
船(は、
常(に
第(一
等(の
貴重(貨物(を
搭載(して
居(る
船(に
限(る
代(りに、
滅多(に
其(形(を
現(はさぬ
爲(と、
今(一つには
此(海賊(輩(は
何時(の
頃(よりか、
利(をもつて
歐洲(の
某(強國(と
結托(して、
年々(五千
萬弗(に
近(い
賄賂(を
納(めて
居(る
爲(に、
却(つて
隱然(たる
保護(を
受(け、
折(ふし
其(船(が
貿易港(に
停泊(する
塲合(には
立派(な
國籍(を
有(する
船(として、
其(甲板(には
該(強國(の
商船旗(を
飜(して、
傍若無人(に
振舞(つて
居(る
由(、
實(に
怪(しからぬ
話(である。
私(は
今(、
二本(煙筒(二本(檣(の
不思議(なる
船(を
見(て、
神經(の
作用(かは
知(らぬがふと
思(ひ
浮(んだ
此(話(、
若(しかの
老水夫(の
言(が
眞實(ならば、
此樣(な
船(ではあるまいか、
其(海賊船(といふのは、
兎(に
角(氣味(の
惡(い
事(だと
思(つて
居(る
内(に、
怪(の
船(はだん〳〵と
速力(を
増(して、
我(弦月丸(の
左方(を
掠(めるやうに
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、41-4]る
時(、
本船(より
射出(する
船燈(の
光(で
チラと
認(めたのは
其(船尾(に
記(されてあつた「
海蛇丸(」の三
字(、「
海蛇丸(」とはたしかにかの
船(の
名稱(である。
見(る〳〵
内(に
波(を
蹴立(てゝ、
蒼渺(の
彼方(に
消(え
去(た。
『あゝ、
妙(だ〳〵、
今日(は
何故(此樣(に
不思議(な
事(が
續(くのだらう。』と
私(は
思(はず
叫(んだ。
『おや、
貴方(如何(かなすつて。』と
春枝夫人(は
日出雄少年(と
共(に
驚(いて
振向(いた。
『
夫人(!』と
私(は
口(を
切(つたが、
待(てよ、
今(の
塲合(に
此樣(な
話(――
寧(ろ
私(一個人(の
想像(に
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、42-1]ぎない
事(を
輕々(しく
語(つて、
此(美(はしき
人(の、
優(しき
心(を
痛(めるでもあるまい、と
心付(いたので
『いや、
何(でもありませんよ、あはゝゝゝ。』と
態(と
聲(高(く
笑(つた。
丁度(此時(、
甲板(には十一
時(半(を
報(ずる七
點鐘(が
響(いて、
同時(にボー、ボー、ボーツと
恰(も
獅子(の
吼(ゆるやうな
笛(の
響(、それは
出港(の
相圖(で、
吾等(の
運命(を
托(する
弦月丸(は、
遂(に
徐々(として
進航(をはじめた。
第四回
反古(の
新聞(
葉卷烟草(――櫻木海軍大佐の行衞――大帆走船と三十七名の水夫――奇妙な新體詩――秘密の大發明――二點鐘カヽン々々
灣口(を
出(づるまで、
私(は
春枝夫人(と
日出雄少年(とを
相手(に
甲板上(に
佇(んで、
四方(の
景色(を
眺(めて
居(つたが、
其内(に
ネープルス港(の
燈光(も
微(かになり、
夜寒(の
風(の
身(に
染(むやうに
覺(えたので、
遂(に
甲板(を
降(つた。
夫人(と
少年(とを
其(船室(に
送(つて、
明朝(を
契(つて
自分(の
船室(に
歸(つた
時(、
八點鐘(の
號鐘(はいと
澄渡(つて
甲板(に
聽(えた。
『おや、もう十二
時(!』と
私(は
獨語(した。
既(に
夜(深(く、
加(ふるに
當夜(は
浪(穩(にして、
船(に
些(の
動搖(もなければ、
船客(の
多數(は
既(に
安(き
夢(に
入(つたのであらう、たゞ
蒸
機關(の
響(のかまびすしきと、
折々(當番(の
船員(が
靴音(高(く
甲板(に
往來(するのが
聽(ゆるのみである。
私(は
衣服(を
更(めて
寢臺(に
横(つたが、
何故(か
少(しも
眠(られなかつた。
船室(の
中央(に
吊(してある
球燈(の
光(は
煌々(と
輝(いて
居(るが、どうも
其邊(に
何(か
魔性(でも
居(るやうで、
空氣(は
頭(を
壓(へるやうに
重(く、
實(に
寢苦(しかつた。
諸君(も
御經驗(であらうが
此樣(な
時(にはとても
眠(られるものではない、
氣(を
焦(てば
焦(つ
程(眼(は
冴(えて
胸(にはさま〴〵の
妄想(が
往來(する。
私(は
思(ひ
切(つて
再(び
起上(つた。
喫烟室(へ
行(くも
面倒(なり、
少(し
船(の
規則(の
違反(ではあるが、
此室(で
葉卷(でも
燻(らさうと
思(つて
洋服(の
衣袋(を
探(りて
見(たが一
本(も
無(い、
不圖(思(ひ
出(したのは
先刻(ネープルス港(を
出發(のみぎり、
濱島(の
贈(つて
呉(れた
數(ある
贈物(の
中(、四
角(な
新聞(包(は、
若(しや
煙草(の
箱(ではあるまいかと
考(へたので、
急(ぎ
開(いて
見(ると
果然(最上(の
葉卷(! 『しめたり。』と
火(を
點(じて、スパスパやりながら
餘念(もなく
其邊(を
見廻(して
居(る
内(、
見(ると
今(葉卷(の
箱(の
包(んであつた
新聞紙(。
『オヤ、
日本(の
新聞(だよ。』と
私(は
思(はず
取上(げた。
本國(を
出(でゝから二
年間(、
旅(から
旅(へと
遍歴(して
歩(く
身(は、
折々(日本(の
公使館(や
領事館(で、
本國(の
珍(らしき
事件(を
耳(にする
外(は、
日本(の
新聞(などを
見(る
事(は
極(めて
稀(であるから、
私(は
實(に
懷(かしく
感(じた。
急(ぎ
皺(を
延(して
見(ると、これは
既(に一
年(半(も
前(の
東京(の
某(新聞(であつた。一
年(半(も
前(といへば
私(がまだ
亞米利加(の
大陸(に
滯在(して
居(つた
時分(の
事(で、
隨分(古(い
新聞(ではあるが、
古(くつても
何(んでもよい、
故郷(懷(かしと
思(ふ一
念(に、
眼(も
放(たず
讀(んでゆく
内(、
忽(ち
眼(に
着(いた一
段(の
記事(があつた。それは
本紙(第(二
面(の
左(の
如(き
雜報(であつた。
◎
櫻木豫備海軍大佐の行衞==
讀者(は
記臆(せらる
可(し、
先年(一
種(の
強力(なる
爆發藥(を
發明(し、つゞいて
浮標水雷(、
花環榴彈等(二三の
軍器(に
有功(なる
改良(を
施(したるを
以(て、
海軍部内(に
其人(ありと
知(られたる
豫備海軍大佐櫻木重雄氏(は一
昨年(英國(に
遊(び
歸朝(以來(深(く
企(つる
所(あり、
驚(く
可(き
軍事上(の
大發明(をなして、
我國々防上(に
貢獻(する
處(あらんと、
兼(て
工夫(慘憺(の
由(仄(に
耳(にせしが、
此度(いよ〳〵
機(熟(しけん、
或(は
他(に
慮(る
處(ありてにや、
本月(初旬(横濱(の
某(商船會社(より
浪(の
江丸(といへる一
大(帆走船(を
購(ひ、
密(かに
糧食(、
石炭(、
氣發油(、
※卷蝋([#「渦」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、46-5]、
鋼索(、
化學用(の
諸(劇藥(、
其他(世人(の
到底(豫想(し
難(き
幾多(の
材料(を
蒐集中(なりしが、
何時(とも
吾人(の
氣付(かぬ
間(に
其(姿(を
隱(しぬ。
櫻木大佐(が
其(姿(を
隱(すと
共(にかの
帆走船(も
其(停泊港(に
在(らずなり、
併(せて
大佐(が
年來(の
部下(として
神(の
如(く
親(の
如(くに
氏(に
服從(せる三十七
名(の
水兵(も
其(姿(を
失(ひたりといへば、
想(ふに
大佐(は
暗夜(に
乘(じて、
竊(かに
其(部下(を
引連(れ
本邦(をば
立去(りしものならん、
此事(は
海軍部内(に
於(ても
極(めて
秘密(とする
處(にして、
何人(も
其(行衞(を
知(る
者(なし、
只(心當(りとも
云(ふ
可(きは、
昨夕(横濱(に
入港(せし
英國(の
某(郵船(は四五
日(前(の
夜半(、
北(ボル子ヲ島(附近(にて
日本(の
國旗(を
掲(げし一
大(帆走船(を
認(めし
由(にて、
其(船(の
形状等(恰(も
大佐(の
帆走船(に
似寄(りたる
處(あれば、
氏(は
其(航路(を
取(りて
支那海(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、47-3]ぎ
印度洋(の
方面(に
進(みしにあらずやとの
疑(あり、
元(より
氏(が
今回(の
企圖(は
秘中(の
秘事(にして、
到底(測知(し
得(可(きにあらざれども、
兎(にも
角(にも
非凡(の
智能(と
遠大(の
目的(とを
有(する
氏(の
事(なれば、
何時(意外(の
方面(より
意外(の
大功績(を
齎(らして
再(び
吾人(の
眼前(に
現(はれ
來(るやも
知(る
可(からず、
刮目(して
待(つ
可(きなり。==
云々(。
何等(の
關係(はなくとも、
斯(かる
記事(を
讀(んだ
人(は
多少(心(を
動(かすであらう。
殊(に
私(は
櫻木海軍大佐(とは
面識(の
間柄(で、
數年(前(の
事(、
私(がまだ
今回(の
漫遊(に
上(らぬ
以前(、ある
夏(、
北海道旅行(を
企(てた
時(、
横濱(から
凾館(へ
赴(く
船(の
中(で、
圖(らずも
大佐(と
對面(した
事(がある。
其頃(大佐(は
年輩(三十二三、
威風(凛々(たる
快男子(で、
其(眼光(の
烱々(たると、
其(音聲(の
朗々(たるとは、
如何(にも
有爲(の
氣象(と
果斷(の
性質(に
富(んで
居(るかを
想(はしめた。
其人(今(や
新聞(の
題目(となつて
世人(の
審(る
旅路(に
志(したといふ、
其(行先(は
何地(であらう、
其(目的(は
何(であらう。
軍事上(の
大發明(――一
大(帆走船(――三十七
名(の
水兵(――
化學用(藥品(、
是等(から
思(ひ
合(せると
朧(ながらも
想像(の
出來(ぬ
事(はない。
今(や
世界(の
各國(は
互(に
兵(を
練(り
武(を
磨(き、
特(に
海軍力(には
全力(を
盡(して
英佛露獨(、
我(劣(らじと
權勢(を
爭(つて
居(る、
而(して
目今(其(權力(爭議(の
中心點(は
多(く
東洋(の
天地(で、
支那(の
如(き
朝鮮(の
如(きは
絶(えず
其(侵害(を
蒙(りつゝある、
此時(に
當(つて、
東洋(の
覇國(ともいふ
可(き
我(大日本帝國(は
其(負(ふ
處(實(に
重(く一
方(東洋(の
平和(を
保(たんが
爲(め、
他方(少(くとも
我國(の
威信(を
存(せんが
爲(めには
非常(の
决心(と
實力(とを
要(するのである。
然(るも
我國(の
財源(には
限(あり、
兵船(の
増加(にも
限度(あり、
國(を
思(ふの
士(は
日夜(此事(に
憂慮(し、
絶(えず
此點(に
向(つて
策(を
講(じて
居(る。
櫻木海軍大佐(は
元來(愛國(慷慨(の
人(、
甞(て
北海(の
船(で
面會(した
時(も、
談話(爰(に
及(んだ
時(、
彼(はふと
衣袋(の
底(を
探(つて、
昨夜(旅亭(の
徒然(に
作(つたのだと
言(つて、一
篇(の
不思議(な
新體詩(を
示(された。
猛(き
武人(の
風流(の
道(は、また
格別(に
可笑(しいではないか。
其(詩(は
斯(うだ。
月(高(く、
風(は
寢(れる
印度洋(。
鏡(の
如(き
海(の
面(に。
俄(に
起(る
水(けぶり。
鯨
(は
吼(え、
龍(跳(る※
[#感嘆符三つ、49-9]
見(よ、
巨浪(は
怒(りて
天(を
(き。
黒雲(低(く
海(に
埀(る。
閃(くは
電(か、
轟(くは
雷(か。
砲火(閃々(、
砲聲(殷々(。
見(よ、
硝煙(の
裡(をぬけ。
月(の
光(を
耻(ぢ
顏(に。
波濤(を
蹴(りて
數百(の。
艨艟(旗(を
捲(きて
北(ぐ。
逃(るゝ
鯨
(、
追(ひ
行(く
飛龍(!。
飛龍(は
勇(み
鯨
(は。
青息(ならぬ
黒烟(を。
吐(きて
影(をば
隱(しけり。
かの
鯨
(ぞ、
天(の
涯(。 はた
地(の
角(に
至(る
迄(。
凡(そ
波濤(の
打(つところ。
凡(そ
珍寳(の
在(るところ。
山(なす
浪(を
船(となし。
千里(の
風(を
帆(となして。
跳梁跋扈(厭(き
足(らぬ。 かの
歐洲(の
聯合艦隊(※
[#感嘆符三つ、50-8]
飛龍([#ルビの「ひりう」は底本では「ひりよう」]は
何(ぞ、
東洋(の。
鎖鑰(を
握(る
日出(の。
光(を
海(に
輝(かす。
其(名(も
高(き
日本艦隊(※
[#感嘆符三つ、50-10]
それ
日本(は
東洋(の。
飛龍(に
似(たる
一小邦(。
それ
歐洲(は、
鯨(よりも。 はた
(よりも
最(猛(き。
宇内(を
睥睨(む。
一大洲(。
いぶかしや。
大(は
破(れて、
小(は
勝(つ。
何故(ぞ
聽(け。
敗將(の
言(ふところ。
彼(れ
艦橋(に
昇(り
行(き。
星(を
仰(ぎて
嘆(ずらく。
我(に
百萬(の
巨艦(あり。
雲霞(の
如(き
將士(あり。
砲(あり。
劔(あり。
火藥(あり。
何(ぞ
恐(れむ
日本海軍(。
秋(の
木(の
葉(の
散(る
如(く。
海屑(となさん
勢(に。
進(むや、
英(、
佛(、
獨(、
露(艦(。
思(ひきや。
日本(に
不思議(の
魔力(あり。
これ。
俄砲(か。 あらず。
シエルブルの
水雷艇(か。 あらず。
未(だ
見(ず。
未(だ
聞(かざる
大軍器(※
[#感嘆符三つ、52-6]
風(のごとく
來(り。
風(のごとく
去(り。
鯱(の
魚群(を
追(ふ
如(く。
エレキの
物(を
打(つごとく。
見(よ、
我(艦隊(を
粉韲(く、
電光石火(の
大魔力(※
[#感嘆符三つ、52-9]
あゝ、
恐(るべし。
恐(るべし。
龍(は
眠(れる
日本海(。
黒雲(飛(べる
東洋(の。
空(を
劈(く
日(の
光(。
海(に
潜(める
大軍器(※
[#感嘆符三つ、53-2]
と
言(ふ
樣(な
文句(で、
隨分(奇妙(な、
恐(らくは
新派(先生(一派(から
税金(を
徴收(に
來(さうな
詩(ではあつたが、
月(明(に、
風(清(き
船(の
甲板(にて、
大佐(軍刀(の
柄(を
後部(に
廻(し、
其(朗々(たる
音聲(にて、
誦(じ
來(り
誦(し
去(つた
時(には、
私(は
思(はず
快哉(を
※([#「口+斗」、53-6]んだよ。
勿論(、
其時(は
別(に
心(にも
留(めなかつたが、
今(になつて
初(めて
それと思(ひ
當(る
節(の
無(いでもない。
何(は
兎(もあれ
此(反古(新聞(の
記事(によると、
櫻木海軍大佐(が
此(秘密(なる
旅行(を
企(てたのは
既(に一
年(半(も
以前(の
事(で、
前(にもいふ
通(り
私(がまだ
亞米利加(の
[#「亞米利加(の」は底本では「亞利利加(の」]大陸(を
漫遊(して
居(つた
時分(の
事(で、
其後(、
私(は
絶(えず
旅(から
旅(へと
遍歴(して
居(つたので、
此(珍聞(を
知(つたのも
今(が
初(てであるが、あゝ、
大佐(は
其後(如何(にしたであらう、
遂(に
其(目的(を
達(して
再(び
日本(へ
歸(つたであらうか。
櫻木海軍大佐(は
其(性質(からいつても、かゝる
擧動(に
出(でたのは
大(に
期(する
所(があつたに
相違(ない。
爾(してかれは一
度(企(てた
事(は
其(目的(を
達(するまでは
止(まぬ
人(であるから、
大佐(が
再(び
此世(に
現(はれて
來(る
時(には
必(ず
絶大(の
功績(を
齎(らして
來(る
事(は
疑(もない、されば
櫻木大佐(が
再(び
日本(へ
皈(つたものとすれば、
其(勳功(は
日月(よりも
明(かに
輝(きて、
如何(に
私(が
旅(から
旅(へと
經廻(つて
居(るにしても
其(風聞(の
耳(に
達(せぬ
事(はあるまい、
然(るに
今日(まで
幾度(か
各國市府(の
日本公使館(や
領事館(を
訪(づれたが、一
度(もそれと
覺(しき
消息(を
耳(にせぬのは、
大佐(は
其(行衞(を
晦(ましたまゝ
未(だ
世(に
現(はれて
來(ぬ
何(よりの
證據(。あゝ、
大佐(は
其後(何處(に
如何(して
居(るだらうと
考(へるとまた
種々(の
想像(も
沸(いて
來(る。
此時(第(二
點鐘(カン、カンと
鳴(る。(
(船中の號鐘は一點鐘より八點鐘まで四時間交代なり))
『おや、とう〳〵一
時(になつた。』と
私(は
欠伸(した。
何時(まで
考(へて
居(つたとて
際限(のない
事(、
且(つは
此樣(に
夜(を
更(かすのは
衞生上(にも
極(めて
愼(む
可(き
事(と
思(つたので
私(は
現(に
想像(の
材料(となつて
居(る
古新聞(をば
押丸(めて
部室(の
片隅(へ
押遣(り、
強(いて
寢臺(に
横(つた。
初(の
間(は
矢張(頭(が
妙(で、
先刻(と
同(じ
樣(にいろ〳〵の
妄想(が
消(しても
消(しても
胸(に
浮(んで
來(て、
魔(の
日(魔(の
刻(――
亞尼(の
顏(――
微塵(に
碎(けた
白色檣燈(――
怪(の
船(――
双眼鏡(などが
更(る〳〵
夢(まぼろしと
腦中(に
ちらついて來(たが、
何時(か
晝間(の
疲勞(に二
時(の
號鐘(を
聽(かぬ
内(に
有耶無耶(の
夢(に
落(ちた。
第五回 「ピアノ」と
拳鬪(
船中の音樂會――鵞鳥聲の婦人――春枝夫人の名譽――甲板の競走――相撲――私の大閉口――曲馬師の虎
翌朝(、
銅鑼(の
鳴(る
音(に
驚(き
目醒(めたのは八
時(三十
分(で、
海上(の
旭光(は
舷窓(を
透(して
鮮明(に
室内(を
照(して
居(つた。
船中(八
時(三十
分(の
銅鑼(は
通常(朝食(の
報知(である。
『や、
寢※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、56-7]ぎたぞ。』と
急(ぎ
飛起(き、
衣服(を
更(め、
櫛髮(を
終(つて、
急足(に
食堂(へ
出(て
見(ると、
壯麗(なる
食卓(の
正面(には
船(の
規則(として
例(のビール
樽(船長(は
威儀(を
正(して
着席(し、それより
左右(の
兩側(に、
英(、
佛(、
獨(、
露(、
白(、
伊等(各國(の
上等(船客(は
何(れも
美々(しき
服裝(して
着席(せる
其中(に
交(つて、
美(はしき
春枝夫人(と
可憐(の
日出雄少年(との
姿(も
見(えた。
少年(は
私(を
見(るよりいと
懷(かし
氣(に
倚子(から
立(つて『おはよう。』とばかり
可愛(らしき
頭(を
垂(れた。『
好朝(。』と
私(も
輕(く
會釋(して
其(傍([#ルビの「かたはら」は底本では「からはら」]に
進(み
寄(り、
何(となく
物淋(し
氣(に
見(えた
春枝夫人(に
眼(を
轉(じ
『
夫人(、
昨夜(は
御安眠(になりましたか。』と
問(ふと、
夫人(は
微(かな
笑(を
浮(べ
『イエ、
此(兒(はよく
眠(りましたが、
私(は
船(に
馴(れませんので。』と
答(ふ。さもありぬべし、
雪(を
欺(く
頬(の
邊(、
幾分(の
蒼色(を
帶(びたるは、たしかに
睡眠(の
足(らぬ
事(を
證(して
居(る。
船中(朝(の
食事(は「スープ」の
他(冷肉(、「ライスカレー」、「カフヒー」それに
香料(の
入(つた
美麗(しき
菓子(、
其他(「パインアツプル」
等(極(めて
淡泊(な
食事(で、それが
濟(むと、
日出雄少年(は
何(より
前(に
甲板(を
目指(して
走(つて
行(くので、
夫人(も
私(も
其(後(に
續(いた。
甲板(へ
出(て
見(ると、
弦月丸(は
昨夜(の
間(に
カプリ島(の
沖(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、58-1]ぎ、
今(は
リコシアの
岬(を
斜(に
見(て
進航(して
居(る、
季節(は五
月(の
中旬(、
暑(からず
寒(からぬ
時※([#「候」の「ユ」に代えて「工」、58-3]、
加(ふるに
此邊(一
帶(の
風光(は
宛然(たる
畫中(の
景(で、すでに
水平線上(に
高(く
昇(つた
太陽(は
燦爛(たる
光(を
水(に
落(して
金波(洋々(たる
海(の
面(には
白帆(の
影(一
點(二
點(、
其(間(を
海鴎(の
長閑(に
群(り
飛(んで
居(る
有樣(などは
自然(に
氣(も
心(も
爽(かになる
程(で、
私(は
昨夕(以來(のさま〴〵の
不快(の
出來事(をば
洗(ひ
去(つた
樣(に
忘(れてしまつた。
春枝夫人(もいと
晴々(しき
顏色(で、そよ〳〵と
吹(く
南(の
風(に
鬢(のほつれ
毛(を
拂(はせながら
餘念(もなく
海上(を
眺(めて
居(る。
日出雄少年(は
特更(に
子供心(の
愉快(で
愉快(で
堪(らない、
丁度(牧塲(に
遊(ぶ
小羊(のやうに
其處此處(となく
飛(んで
歩(いて、
折々(私(の
側(へ
走(つて
來(ては
甲板(の
上(に
裝置(された
樣々(の
船具(について
疑問(を
起(し、
又(は
母君(の
腕(にすがつて
遙(かに
見(ゆる
島々(を
指(し『あれは
子ープルスの
家(の三
階(から
見(へる
エリノ島(にその
儘(です
事(、
此方(のは
頭(の
禿(げた
老爺(さんが
魚(を
釣(つて
居(る
形(によく
似(て
居(ますねえ。』などゝいと
樂(し
氣(に
見(えた。
日(は
漸(く
高(く、
風(は
凉(しく、
船(の
進行(は
矢(のやうである。
私(は
甲板(の
安樂倚子(に
身(をよせて
倩々(と
考(へた。
昨日(までは
經廻(る
旅路(の
幾(千
里(、
憂(き
時(も
樂(しき
時(も
語(らふ
人(とては
一人(もなく、
晨(に
明星(の
清(しき
光(を
望(み、
夕(に
晩照(の
華美(なる
景色(を
眺(むるにも
只(一人(、
吾(と
吾心(を
慰(むるのみであつたが、
昨日(は
圖(らずも
天外(萬里(の
地(で
我(同胞(にめぐり
逢(ひ、
恰(も
天(のなせるが
如(き
奇縁(にて
今(は
優美(き
春枝夫人(、
可憐(なる
日出雄少年等(と
同(じ
船(に
乘(り
同(じ
故國(に
皈(るとは
何(たる
幸福(であらう。
今度(此(弦月丸(の
航海(には
乘客(の
數(は五百
人(に
近(く
船員(を
合(せると七百
人(以上(の
乘組(であるが、
其中(で
日本人(といふのは
夫人(と
少年(と
私(との三
名(のみ、
此(不思議(なる
縁(に
結(ばれし
三人(は
之(から
海原(遠(く
幾千里(、ひとしく
此(船(に
運命(を
托(して
居(るのであるが、
若(し
天(に
冥加(といふものが
在(るならば
近(きに
印度洋(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-3]る
時(も
支那海(を
行(く
時(にも、
今日(の
如(く
浪路(穩(かに、
頓(て
相(共(に
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-4]の
平安(を
祝(ひつゝ
芙蓉(の
峯(を
仰(ぐ
事(が
出來(るやうにと
只管(天(に
祈(るの
他(はないのである。
ネープルス港(から
海路(數(千
里(、
多島海(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-7]ぎ、
地中海(に
入(り、
ポートセツトにて
石炭(及(び
飮料水(を
補充(して、それより
水先案内(をとつて
スエスの
地峽(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、60-9]ぎ、
往昔(から
世界(第(一の
難所(と
航海者(の
膽(を
寒(からしめた、
紅海(一
名(死海(と
呼(ばれたる
荒海(の
血汐(の
如(き
波濤(の
上(を
駛(つて、
右舷(左舷(より
眺(むる
海上(には、
此邊(空氣(の
不思議(なる
作用(にて、
遠(き
島(は
近(く
見(え、
近(き
船(は
却(て
遠(く
見(え、
其爲(に
數知([#ルビの「かずし」は底本では「かずす」]れず
不測(の
禍(を
釀(して、
此(洋中(に
難破(せる
沈沒船(の
船體(は
既(に
海底(に
朽(ちて、
名殘(の
檣頭(のみ
波間(に
隱見(せる
其(物凄(き
光景(を
吊(ひつゝ、
進(み
進(んで
遂(に
印度洋(の
海口(ともいふ
可(き
アデン灣(に
達(し、
遙(かに
ソコトラ島(を
煙波(縹茫(たる
沖(に
望(むまで、
大約(二
週間(の
航路(は
毎日(毎日(天氣(晴朗(で、
海波(平穩(で、十
數年(來(浪(を
枕(に
世(を
渡(る
水夫(共(も
未曾有(の
好(航海(だと
語(つた
程(で、
從(て
其間(には
格別(に
記(す
程(の
事(もない。たゞ二つ三つ
記臆(に
留(つて
居(るのは
斯(る
平和(の
間(にも
不運(の
神(は
此(船(の
何處(にか
潜伏(んで
居(つたと
見(え、
船(の
メシナ海峽(を
出(んとする
時(、
一人(の
船客(は
海中(に
身(を
投(げて
無殘(の
最後(を
遂(げた
事(と、
下等船客(の
一(支那人(はまだ
伊太利(の
領海(を
離(ぬ、
頃(より
苦(しき
病(に
犯(されて
遂(に
カンデイア島(と
セリゴ島(との
間(で
死亡(した
爲(に、
海上(の
規則(で
船長(以下(澤山(の
船員(が
甲板(に
集(つて
英國(の一
宣教師(の
引導(の
下(に
其(死骸(をば
海底(に
葬(つてしまつた
事(と、
是等(は
極(めて
悲慘(な
出來事(であるが、
他(に
愉快(な
事(も二つ三つ
無(いでもない。
何處(でも
長(い
航海(では
船中(の
散鬱(にと、
茶番(や
演劇(や
舞踏(の
催(がある。
殊(に
歐洲(と
東洋(との
間(は
全世界(で
最(も
長(い
航路(であれば
斯(る
凖備(は一
層(よく
整(つて
居(る。
此(弦月丸(にも
屡(其(催(があつて
私等(も
折々(臨席(したが、
或(夜(の
事(、
電燈(の
光(眩(ゆき
舞踏室(では
今夜(は
珍(らしく
音樂會(の
催(さるゝ
由(で、
幾百人(の
歐米人(は
老(も
若(きも
其處(に
集(つて、
狂氣(のやうに
騷(いで
居(る。
禿頭(の
佛蘭西(の
老紳士(が
昔日(の
腕前(を
見(せて
呉(れんと
バイオリンを
採(つて
彈(くか
彈(かぬに
歌(の
曲(をハツタと
忘(れて、
頭(撫(で〳〵
罷退(るなど
隨分(滑※的([#「(禾+尤)/上/日」、62-10]な
事(もあるが、
大概(は
腕(に
覺(えの
歐米人(の
事(とて、いづれも
得意(の
曲(を
調(べては
互(に
天狗(の
鼻(を
高(めて
居(る。
私(が
春枝夫人(と
此(席(に
列(つた
時(には
丁度(ある
年増(の
獨逸(婦人(がピアノの
彈奏中(であつたが、
此(婦人(は
極(めて
驕慢(なる
性質(と
見(えて、
彈奏(の
間(始終(ピアノ
臺(の
上(から
聽集(の
顏(を
流盻(に
見(て、
折(ふし
鵞鳥(のやうな
聲(で
唱(ひ
出(す
歌(の
調(べは
左迄(妙手(とも
思(はれぬのに、
唱(ふ
當人(は
非常(の
得色(で、やがて
彈奏(が
終(ると
小鼻(を
蠢(かし、
孔雀(のやうに
裳(を
飜(へして
席(に
歸(つた。
此(次(は
如何(なる
人(が
出(るだらうと、
私(は
春枝夫人(と
語(りながら一
方(の
倚子(に
倚(りて
眺(めて
居(つたが、
暫時(は
何人(も
出(ない、
大方(今(の
鵞鳥聲(の
婦人(の
爲(めに
荒膽(を
※([#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、63-8]かれたのであらう。
忽(ち
見(る一
個(の
英國人(はつか〳〵と
私共(の
前(へ
進(み
寄(つて。
大聲(に
『サア、
今度(は
貴方等(の
順番(です、
日本(の
代表者(として
何(かおやりなさい。』と
喚(く、
滿塲(は
一度(に
拍手(した。
「
南無三(。」と
私(は
逡巡(した。
多(の
白晢(人種(の
間(に
人種(の
異(つた
吾等(は
不運(にも
彼等(の
眼(に
留(つたのである。
私(は
元來(無風流(極(まる
男(なので
此(不意打(にはほと〳〵
閉口(せざるを
得(ない。
春枝夫人(も
頻(りに
辭退(して
居(つたが
彼男(も一
旦(言(ひ
出(した
事(とて
仲々(後(へは
退(かぬ。
幾百(の
人(は
益々(拍手(する。
此時(忽(ち
私(の
横側(の
倚子(で
頻(りに
嘲笑(つて
居(る
聲(、それは
例(の
鷲鳥聲(の
婦人(だ。
『
何(ね、いくら
言(つたつて
無益(でせうよ、
琴(とか
三味線(とか
私共(は
見(た
事(もない
野蠻的(な
樂器(の
他(は
手(にした
事(も
無(い
日本人(などに、
如何(して
西洋(の
高尚(な
歌(が
唱(はれませう。』などゝ
態(と
聽(えよがしに
並(んで
腰掛(けて
居(る
年(の
若(い
男(と
耳語(いて
居(るのだ。
「
不埓(な
女(めツ」と
私(は
唇(を
噛(んだ、が、
悲哉(、
私(は
其道(には
全(くの
無藝(の
太夫(。あゝ
此樣(な
事(と
知(つたら
何故(倫敦(邊(の
流行歌(の
一節(位(いは
覺(えて
置(かなかつたらうと
悔(んだが
追付(かない、
餘(りの
殘念(さに
春枝夫人(の
顏(を
見(ると、
夫人(も
今(の
嘲罵(を
耳(にして
多少(心(に
激(したと
見(へ、
柳(の
眉(微(かに
動(いて、
そつと私(に
向(ひ『
何(かやつて
見(ませうか。』といふのは
腕(に
覺(のあるのであらう、
私(は
默(つて
點頭(くと
夫人(は
靜(に
立上(り『
皆樣(のお
耳(を
汚(す
程(ではありませんが。』と
伴(はれてピアノ
臺(の
上(へ
登(つた。
忽(ち
聽(く
盤上(玉(を
轉(ばすが
如(き
響(、ピアノに
神(宿(るかと
疑(はるゝ、
其(妙(なる
調(べにつれて
唱(ひ
出(したる
一曲(は、これぞ
當時(巴里(の
交際(境裡(で
大流行(の『
菊(の
國(の
乙女(』とて、
筋(は
日本(の
美(はしき
乙女(の
舞衣(の
姿(が、
月夜(に
セイヌ河(の
水上(に
彷徨(ふて
居(るといふ、
極(めて
優美(な、また
極(めて
巧妙(な
名曲(の
一節(、一
句(は一
句(より
華(かに、一
段(は一
段(よりおもしろく、
天女(御空(に
舞(ふが
如(き
美音(は、
心(なき
壇上(の
花(さへ
葉(さへ
搖(ぐばかりで、
滿塲(はあつと
言(つたまゝ
水(を
打(つた
樣(に
靜(まり
返(つた。
其(調(べがすむと、
忽(ち
崩(るゝ
如(き
拍手(のひゞき、一
團(の
貴女(神士(ははやピアノ
臺(の
側(に
走(り
寄(つて、
今(や
靜(かに
其處(を
降(らんとする
春枝夫人(を
取卷(いて、あらゆる
讃美(の
言(をもつて、
此(珍(らしき
音樂(の
妙手(に
握手(の
譽(を
得(んと
(めくのである。かの
鵞鳥(の
聲(の
婦人(は
口(あんぐり、
眞赤(になつて
眼(を
白黒(にして
居(る、
定(めて
先刻(の
失言(をば
後悔(して
居(るのであらう。
此(夜(のピアノの
響(は、
今(も
猶(ほ
私(の
耳(に
殘(つて、
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、66-7]の
出來事(の
中(で
最(も
壯快(な
事(の一つに
數(へられて
居(るのである。
其他(面白(い
事(も
隨分(あつた。
音樂會(の
翌々日(の
事(で、
船(は
多島海(の
沖(にさしかゝつた
時(、
多(の
船客(は
甲板(に
集合(つて
種々(の
遊戯(に
耽(つて
居(つたが、
其内(に
誰(かの
發起(で
徒競走(が
始(つた。
今日(、
世界(で
最大(な
船(は
長(さ二百三十ヤード、
即(ち
町(にして二
町(を
超(ゆるものもある、
本船(の
如(きも
其(一で、
競走(は
前部甲板(から
後部甲板(へと、
大約(三百ヤード
許(の
距離(を四
回(往復(するのであるが
優勝者(には
乘組(の
貴婦人連(から
美(はしき
贈物(があるとの
事(で、
英人(、
佛人(、
獨逸人(、
其他(伊太利(、
瑞西(、
露西亞等(の
元氣(盛(んなる
人々(は
脛(を
叩(いて
跳(り
出(たので、
私(もツイ
其(仲間(に
釣込(まれて、一
發(の
銃聲(と
共(に
無(二
無(三に
驅(つたが、
殘念(なるかな、
第(一
着(に
决勝點(に
躍込(んだのは、
佛蘭西(の
豫備海軍士官(とか
云(へる
悽(まじく
速(い
男(、
第(二
着(は
勤務(のため
我(日本(へ
向(はんとて
此(船(に
乘組(んだ
伊太利(の
公使館(附(武官(の
海軍士官(、
私(は
辛(じて
第(三
着(、あまり
面白(くないので、
今度(は一つ
日本男兒(の
腕前(を
見(せて
呉(れんと、うまく
相撲(の
事(を
發議(すると、
忽(ち
彌次連(は
集(まつて
來(た。
彌次連(の
其中(から
第(一に
私(に
飛掛(つて
來(た一
人(は、
獨逸(の
法學士(とかいふ
男(、
隨分(腕力(の
逞(ましい
人間(であつたが、
此方(は
多少(柔道(の
心得(があるので、
拂腰(見事(に
極(つて
私(の
勝(、つゞいて
來(る
奴(、
四人(まで
投(げ
倒(したが、
第(五
番目(にのつそりと
現(はれて
來(た
露西亞(の
陸軍士官(、
身(の
丈(け六
尺(に
近(く
阿修羅王(の
荒(れたるやうな
男(、
力任(せに
私(の
兩腕(を
握(つて
一振(に
振(り
飛(ばさんず
勢(、
私(も
之(には
頗(る
閉口(したが、どつこひ
待(てよ、と
踏止(つて
命掛(けに
揉合(ふ
事(半時(ばかり、
漸(の
事(で
片膝(を
着(かしてやつたので、
此(評判(は
忽(ち
船中(に
廣(まつて、
感服(する
老人(もある、
切齒(する
若者(もあるといふ
騷(ぎ、
誰(いふとなく『
日本人(は
鐵(の一
種(である、
如何(となれば
黒(く
且(つ
堅固(なる
故(に。』などゝ
不思議(なる
賞讃(をすら
博(して、一
時(は
私(の
鼻(も
餘程(高(かつたが、
茲(に一
大(事件(が
出來(した、それは
他(でもない、
丁度(此(船(に
米國(の
拳鬪(の
達人(とかいふ
男(が
乘合(せて
居(つたが、
此(噂(を
耳(にして
先生(心安(からず、『
左程(腕力(の
強(い
日本人(なら、一
番(拳鬪(の
立(合ひをせぬか。』と
申込(んで
來(た。
私(は
拳鬪(の
仕合(ひは
見(た
事(はあるが、まだやつた
事(は一
度(もない、
然(し
斯(く
申込(まれては
男(の
意地(、どうなるものかと一
番(立合(つて
見(たが
馴(れぬ
業(は
仕方(がない、
散々(な
目(に
逢(つて、
氣絶(する
程(甲板(の
上(に
投倒(されて、
折角(高(まつた
私(の
鼻(も
無殘(に
拗折(られてしまつた。
春枝夫人(は
痛(く
心配(して『あまりに
御身(を
輕(んじ
玉(ふな。』と
明眸(に
露(を
帶(びての
諫言(、
私(は
實(に
殘念(であつたが
其儘(思(ひ
止(つた。一
時(は
拳鬪(のお
禮(に
眞劍勝負(でも
申込(んで
呉(れんかとまで
腹立(つたのだが。
拳鬪(の
翌日(また
一(騷動(が
持上(つた。それは
興行(のためにと
香港(へ
赴(かんとて、
此(船(に
乘組(んで
居(つた
伊太利(の
曲馬師(の
虎(が
檻(を
破(つて
飛(び
出(した
事(で、
船中(鼎(の
沸(くが
如(く、
怒(る
水夫(、
叫(ぶ
支那人(、
目(を
暈(す
婦人(もあるといふ
騷(ぎで、
弦月丸(出港(のみぎりに
檣燈(の
微塵(に
碎(けたのを
見(て『
南無阿彌陀佛(、
此(船(には
魔(が
魅(つて
居(るぜ。』と
呟(いた
英國(の
古風(な
紳士(は
甲板(から
自分(の
船室(へ
逃(げ
込(まんとて
昇降口(から
眞逆(に
滑落(ちて
腰(を
※([#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、70-4]かした、
偶然(にも
船(の
惡魔(が
御自分(に
祟(つたものであらうか。
虎(は
漸(の
事(で
捕押(へたが
其爲(に
怪我人(が七八
人(も
出來(た。
かゝる
樣々(の
出來事(の
間(、
吾等(の
可憐(なる
日出雄少年(は、
相變(らず
元氣(よく
始終(甲板(を
飛廻(つて
居(る
内(に、ふと
リツプとか
云(ふ、
英吉利(の
極(めて
剽輕(な
老爺(と
懇意(になつて、
毎日々々(面白(く
可笑(く
遊(んで
居(る
内(、
或(日(の
事(其(老爺(が
作(へて
呉(れた
菱形(の
紙鳶(を
甲板(に
飛(ばさんとて、
頻(に
騷(いで
居(つたが、
丁度(其時(船橋(の
上(で、
無法(に
水夫等(を
叱付(けて
居(つた
人相(の
惡(い
船長(の
帽子(を、
其(鳶糸(で
跳飛(ばしたので、
船長(は
元來(非常(に
小八釜(しい
男(、
眞赤(になつて
此方(に
向直(つたが、あまりに
無邪氣(なる
日出雄少年(の
姿(を
見(ては
流石(に
怒鳴(る
事(も
出來(ず、ぐと〴〵
口(の
中(で
呟(きながら、
其(ビール
樽(のやうな
身體(を
轉(ばして、
帽子(の
後(を
追(ひかけた
話(など、いろ〳〵
變(つた
事(もあるが、
餘(り
管々(しくは
記(すまい。
かくて
吾等(の
運命(を
托(する
弦月丸(は、
アデン灣(を
出(でゝ
印度洋(の
荒浪(へと
進入(つた。
第六回
星火榴彈(
難破船の信號――イヤ、流星の飛ぶのでせう――無稽な三個の船燈――海幽靈め――其眼が怪しい
荒浪(高(き
印度洋(に
進航(つてからも、
一日(、
二日(、
三日(、
四日(、と
日(は
暮(れ、
夜(は
明(けて、
五日目(までは
何事(もなく
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、71-12]つたが、
其(六日目(の
夜(とはなつた。
私(は
夕食後(例(のやうに
食堂(上部(の
美麗(なる
談話室(に
出(でゝ、
春枝夫人(に
面會(し、
日出雄少年(には
甲比丹(クツクの
冐瞼旅行譚(や、
加藤清正(の
武勇傳(や、また
私(がこれ
迄(の
漫遊中(の
失策談(などを
語(つて
聽(かせて、
相變(らず
夜(を
更(かしたので、
夫人(と
少年(をば
其(船室(に
送(り
込(み、
明朝(を
約(して
其處(を
去(つた。
印度洋(中(の
氣※([#「候」の「ユ」に代えて「工」、72-6]程(變化(の
激(しいものはない、
今(は五
月(の
中旬(、
凉(しい
時(は
實(に
心地(よき
程(凉(しいが、
暑(い
時(は
日本(の
暑中(よりも一
層(暑(いのである。
殊(に
今宵(は
密雲(厚(く
天(を
蔽(ひ、四
邊(の
空氣(は
變(に
重々(しく、
丁度(釜中(にあつて
蒸(されるやうに
感(じたので、
此儘(船室(に
歸(つたとて、
迚(も
安眠(は
出來(まいと
考(へたので、
喫煙室(に
行(かんか、
其處(も
暑(し、
寧(ろ
好奇(ではあるが
暗夜(の
甲板(に
出(でゝ、
暫時(新鮮(の
風(に
吹(かれんと
私(は
唯(一人(で
後部甲板(に
出(た。
此時(時計(の
針(は
既(に十一
時(を
廻(つて
居(つたので、
廣漠(たる
甲板(の
上(には、
當番(水夫(の
他(は一
個(の
人影(も
無(かつた、
船(は
今(、
右舷(左舷(に
印度洋(の
狂瀾(怒濤(を
分(けて
北緯(十
度(の
邊(を
進航(して
居(るのである。
ネープルス港(を
出(づる
時(には
笑(めるが
如(き
月(の
光(は
鮮明(に
此(甲板(を
照(して
居(つたが、
今(は
日數(も
二週(あまりを
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、73-5]ぎて
眞(の
闇(――
勿論(先刻(までは
新月(の
微(かな
光(は
天(の
奈邊(にか
認(められたのであらうが、
今(はそれさへ
天涯(の
彼方(に
落(ちて、
見渡(す
限(り
黒暗々(たる
海(の
面(、たゞ
密雲(の
絶間(を
洩(れたる
星(の
光(の一二
點(が
覺束(なくも
浪(に
反射(して
居(るのみである。
實(に
物淋(しい
景色(※
[#感嘆符三つ、73-10] 私(は
何故(ともなく
悲哀(を
感(じて
來(た。すべて
人(は
感情(の
動物(で、
樂(しき
時(には
何事(も
樂(しく
見(え、
悲(しき
時(には
何事(も
悲(しく
思(はるゝもので、
私(は
今(、
不圖(此(悽愴(たる
光景(に
對(して
物凄(いと
感(じて
來(たら、
忽然(樣々(な
妄想(が
胸裡(に
蟠(つて
來(た、
今日(までは
左程(迄(には
心(に
留(めなかつた、
魔(の
日(、
魔(の
刻(の
怪談(。
白色檣燈(の
落下(、
船長(の
憤怒(の
顏(。
怪(の
船(の
双眼鏡(。さては
先日(反古(の
新聞(に
記(されてあつた
櫻木海軍大佐(と
其(帆走船(との
行衞(などが
恰(も
今夜(の
此(物凄(い
景色(と
何等(かの
因縁(を
有(するかのごとく、ありありと
私(の
腦裡(に
浮(んで
來(た。
『
無※([#「(禾+尤)/上/日」、74-7]なッ、
無※([#「(禾+尤)/上/日」、74-7]なッ。」と
私(は
單獨(で
叫(んで
見(た。
強(いて
斯(る
妄念(を
打消(さんとて
態(と
大手(を
振(つて
甲板(を
歩(み
出(した。
前檣(と
後檣(との
間(を四五
回(も
往復(する
内(に
其(惡感(も
次第(〳〵に
薄(らいで
來(たので、
最早(船室(に
歸(つて
睡眠(せんと、
歩(む
足(は
今(や
昇降口(を一
段(降(つた
時(、
私(は
不意(に一
種(異樣(の
響(を
聽(いた。
響(は
遙(かの
海上(に
當(つて、
極(めて
微(かに――
實(に
審(かしきまで
微(ではあるが、たしかに
砲(又(は
爆裂(發火(信號(の
響(※
[#感嘆符三つ、75-1]
私(は
ふいと
頭(を
左方(に
廻(らしたが、
忽(ち『キヤツ』と
叫(んで
再(び
甲板(に
跳出(た。
今迄(は
少(しも
心付(かなかつたが、
唯(見(る、
我(弦月丸(の
左舷船尾(の
方向(二三
海里(距(つた
海上(に
當(つて、また一
度(微(な
砲聲(の
響(と
共(に、タール
桶(、
油樽等(を
燃燒(すにやあらん、
々(たる
猛火(海(を
照(して、
同時(に
星火(を
發(する
榴彈(二
發(三
發(空(に
飛(び、つゞいて
流星(の
如(き
火箭(は一
次(一
發(右方(左方(に
流(れた。
私(は
實(に
驚愕(いたよ。
此邊(は
印度洋(の
眞中(で、
眼界(の
達(する
限(り
島嶼(などのあらう
筈(はない、まして
約(一
分(の
間隙(をもつて
發射(する
火箭(及(び
星火榴彈(は
危急存亡(を
告(ぐる
難破船(の
夜間信號(※
[#感嘆符三つ、75-11]
『やア、
大變(だ〳〵。』と
叫(びつゝ
私(は
本船(の
右舷(左舷(を
眺(めた。
船(には
當番(水夫(あり。
海上(に
起(る千
差萬別(の
事變(をば一も
見遁(すまじき
筈(の
其(見張番(は
今(や
何(をか
爲(すと
見廻(はすと、
此時(右舷(の
當番(水夫(は
木像(の
如(く
船首(の
方(に
向(つたまゝ、
今(の
微(な
砲聲(は
耳(にも
入(らぬ
樣子(、あらぬ
方(を
眺(めて
居(る。
左舷(の
當番(水夫(は
今(や
確(に
星火(迸(り、
火箭(飛(ぶ
慘憺(たる
難破船(の
信號(を
認(めて
居(るには
相違(ないのだが、
何故(か
平然(として
動(ずる
色(もなく、
籠手(を
翳(して
其方(を
眺(めて
居(るのみ。
『
當番(水夫(!
何(を
茫然(して
居(るかツ※
[#感嘆符三つ、76-8]』と
叫(んだまゝ、
私(は
身(を
飜(して
船長室(の
方(へ
走(つた。
勿論(、
船(に
嚴然(たる
規律(のある
事(は
誰(も
知(つて
居(る、たとへ
霹靂(天空(に
碎(けやうとも、
數萬(の
魔神(が一
時(に
海上(に
現出(れやうとも、
船員(ならぬ
者(が
船員(の
職權(を
侵(して、
之(を
船長(に
報告(するなどは
海上(の
法則(から
言(つて、
到底(許(す
可(からざる
事(である。
私(も
其(を
知(らぬではない、けれど
今(は
容易(ならざる
急變(の
塲合(である、一
分(一
秒(の
遲速(は
彼方(難破船(のためには
生死(の
堺界(かも
知(れぬ、
加(ふるに
本船(右舷(の
當番(水夫(は
眼(あれども
眼無(きが
如(く、
左舷(の
當番(水夫(は
鬼(か
蛇(か、
知(つて
知(らぬ
顏(の
其(心(は
分(らぬが、
今(は
瞬間(も
躊躇(すべき
塲合(でないと
考(へたので、
私(は
一散(に
走(つて、
船橋(の
下部(なる
船長室(の
扉(を
叩(いた。
『
船長閣下(、
起(き
玉(へ、
難破船(がある!
難破船(がある!』と
叫(ぶと、
此時(船長(は
既(に
寢臺(の
上(に
横(つて
居(つたが、『
何(んですか。』とばかり
澁々(起上(つて
扉(を
開(いた。
私(はツト
進(み
入(り
『
船長閣下(、
越權(ながら
報告(します、
本船(左舷(後方(、三
海里(許(距(つた
海上(に
當(つて
一個(の
難破船(がありますぞ。』
『
難破船(
あはゝゝゝゝ。』と
船長(は
大聲(に
笑(つた。
驚愕(くと
思(ひきや、
彼(はいと
腹立(たし
氣(に
顏(を
顰(めて
『
難船(? それは
何(ですか、
本船(には
絶(えず
[#「絶(えず」は底本では「絶(えす」]海上(を
警戒(る
當番(水夫(があるです、
敢(て
貴下(を
煩(はす
筈(も
無(いです。』
『
無論(です、けれど
本船(の
當番(水夫(は
眼(の
無(い
奴(に、
情(の
無(い
奴(です、
一人(は
茫然(して
居(ます、
一人(は
知(つて
知(らぬ
顏(をして
居(ます。
船長閣下(、
早(く、
早(く、
難破船(の
運命(は一
分(一
秒(の
遲速(をも
爭(ひますぞ。』
『いけません!』と
船長(は
冷(かに
笑(つた。
『
貴下(は
海上(の
法則(を
知(りませんか、たとへ
如何(な
事(があらうとも
船員(以外(の
者(が
其(に
嘴(を
容(れる
權利(が
無(いです、また
私(は
貴下(から
其樣(な
報告(を
受(ける
義務(が
無(いです。』と
彼(は
右手(を
延(して
卓上(の
葉卷(を
取上(た。
私(は
迫込(み
『
理屈(を
申(すぢやありません、
私(の
越權(は
私(が
責任(を
負(ひます。
貴下(は
信(じませんか、
今(現(に
難破船(が
救助(を
求(て
居(るのを。』
『
信(じません、
信(ぜられません。』と
船長(は
今(取上(げた
葉卷(を
腹立(たし
氣(に
卓上(に
投(げ
返(して
『
當番(水夫(からは
何等(の
報告(の
無(い
内(は
决(して信じません。
况(んや
此樣(平穩(な
海上(に
難破船(などのあらう
筈(は
無(い、
無※([#「(禾+尤)/上/日」、79-6]なツ。』
『
無※([#「(禾+尤)/上/日」、79-7]なツ。』と
私(は
勃然(としてしまつた。
日頃(から
短氣(は
私(の
持病(、
疳癪玉(が
一時(に
破裂(したよ。
『
無(い、
無(い、
無(いとは
何(です、
私(は
今(現(に
目撃(して
來(たのです。』
『はゝゝゝゝ。
何(を
目撃(しましたか。はゝゝゝゝ。』と
彼(は
空惚(けて
大聲(に
笑(つた。
私(は
實(に
腹(の
中(から
返(つたよ。
序(だから
言(つて
置(くが、
私(は
初(め
此(船(に
乘組(んだ
時(から
一見(して
此(船長(はどうも
正直(な
人物(では
無(いと
思(つて
居(つたが
果(して
然(り、
彼(は
今(、
多少(の
勞(を
厭(ふて
他船(の
危難(をば
見殺(しにする
積(だなと
心付(いたから、
私(は
激昂(のあまり
『
何(を
見(たもありません、
本船(左舷(後方(の
海上(に
當(つて
星火榴彈(に
一次(一發(の
火箭(、それが
難破船(の
信號(である
位(を
知(りませんか。』
『
其樣(事(は
承(る
必要(もありません。』と
船長(は
鼻(で
笑(ひつゝ
『それは
大方(貴下(の
眼(の
誤(りでせうよ。うふゝゝゝ。』
『
眼(の
誤(り
之(は
怪(しからん、
私(にはちやんと
二個(の
眼(がありますぞ。』
『
其(眼(が
怪(しい、
海(の
上(ではよく
眩惑(されます、
貴下(は
屹度(流星(の
飛(ぶのでも
見(たのでせう。』とビール
樽(のやうな
腹(を
突出(して
『いや、よしんば
其(が
眞個(の
難破信號(であつたにしろ、
此樣(平穩(な
海上(で
難破(するやうな
船(は
全(く
我等(海員(の
仲間以外(です、
何(も
面倒(な
目(を
見(て
救助(に
赴(く
義務(は
無(いのです。』と
言(つて
空嘯(き
笑(つた
最早(問答(も
無益(と
思(つたから、
私(は
突然(船長(を
船室(の
外(へ
引出(した
『あれが
見(えませんか、あれが、あの
悲慘(なる
信號(の
光(を
見(て
何(とも
感(じませんか。』とばかり、
遙(かに
指(す
左舷船尾(の
海上(。
私(は『あツ。』と
叫(んだまゝ
暫時(開(いた
[#「開(いた」は底本では「開(たい」]口(も
塞(がらなかつたよ。
審(かしや。
今(から
二分(三分(前(までは
確(に
閃々(と
空中(に
飛(んで
居(つた
難破信號(の
火光(は
何時(の
間(にか
消(え
失(せて、
其處(には
海面(より
數(十
尺(高(く
白色球燈(輝(き、
船(の
右舷(左舷(と
覺(ぼしき
處(に
緑燈(、
紅燈(の
光(が
ぼんやりと
見(ゆるのみである。
前檣(に
白燈(、
右舷(に
緑燈(、
左舷(に
紅燈(は
言(ふ
迄(もない、
安全航行(の
信號(※
[#感嘆符三つ、81-11]
『はゝあ、
或程(、
星火榴彈(に
一次(一發(の
火箭(、
救助(を
求(むる
難破船(の
信號(がよく
見(えます、
貴下(の眼は
仲々(結構(な
眼(です。』と
意地惡(き
船長(は
ぢろりッと
私(の
顏(を
睨(んだか、
私(は
一言(も
無(いのである。
然(し
實(に
奇怪(な
事(ではないか、
今(安全信號燈(の
輝(いて
居(る
邊(の
海上(には、
確實(に
悲慘(なる
難破船(の
信號(が
見(えて
居(つたのに。さては
船長(の
言(ふがごとく
私(の
眼(の
誤(りであつたらうか。
否(、
否(、
如何(考(へても
私(は
白(、
緑(、
紅(の
燈光(を
星火榴彈(や
火箭(と
間違(へる
程(惡(い
眼(は
持(つて
居(らぬ
筈(。して
見(ると
先刻(の
難破船信號(は、
何時(の
間(にか
安全航行(の
信號(に
變(つたに
相違(ない。さて〳〵
奇妙(な
事(だと、
私(は
暫時(五里霧中(に
彷徨(ふた。
船長(は
一時(は
毒々(しく
私(の
顏(を
眺(めて
嘲笑(つて
居(つたが
此時(稍(や
眞面目(になつて
其(光(の
方(を
眺(めつゝ
『
然(し
妙(だぞ、
今月(の
航海表(によると、
今頃(此(航路(を
本船(の
後(を
追(ふて
斯(く
進航(して
來(る
船(は
無(い
筈(だが。』と
小首(を
傾(けたが
忽(ちカラ〳〵と
笑(つて
『あゝ
分(つた〳〵、
畜生(巧(くやつてるな、
此前(あの
邊(で
沈沒(した
トルコ丸(の
船幽靈(めが、まだ
浮(び
切(れないで
難破船(の
眞似(なんかして
此(船(を
暗礁(へでも
僞引寄(せやうとかゝつて
居(るんだな、どつこい、
其手(は
喰(はんぞ。』と
呟(きながら
私(に
向(ひ
『だが
[#「だが」は底本では「だか」]先刻(は
確實(に
救助(を
求(むる
難破船(の
信號(が
見(えましたか。』と
眉(に
唾(した。
可笑(しい
樣(だが
船乘人(にはかゝる
迷信(を
抱(いて
居(る
者(が
澤山(ある、
私(は
相手(にせず
簡單(に
『
左樣(、
確(に
救助(を
求(むる
難破(の
信號(!。」と
答(へて、
彼(が『うむ、いよ〳〵
違(ない、
船幽靈(メー。』と
單獨(でぐと〳〵
何事(をか
言(つて
居(るのを
聽(き
流(しながら、
猶(よく
其(海上(を
見渡(すと、
今(眼(に
見(ゆる
三個(の
燈光(は、
决(して
愚(なる
船長(の
言(ふが
如(き、
怨靈(とか
海(の
怪物(とかいふ
樣(な
世(に
在(り
得可(からざる
者(の
光(ではなく、
緑(、
紅(の
兩燈(は
確(に
船(の
舷燈(で、
海面(より
高(き
白色(の
光(は
海上法(に
從(ひ
甲板(より二十
尺(以上(高(く
掲(げられたる
檣燈(にて、
今(や、
何等(かの
船(は、
我(が
弦月丸(の
後(を
追(ふて
進航(しつゝ
來(るのであつた。
第七回
印度洋(の
海賊(
水雷驅逐艦か巡洋艦か――昔の海賊と今の海賊――海底潜水器――探海電燈(――白馬の如き立浪――海底淺き處――大衝突
私(が
一心(に
見詰(めて
居(る
間(に、
右舷(に
緑燈(、
左舷(に
紅燈(、
甲板(より二十
尺(以上(高(き
前檣(に
閃々(たる
白色燈(を
掲(げたる
一隻(の
船(は、
印度洋(の
闇黒(を
縫(ふてだん〴〵と
接近(して
來(た。
今(、
我(が
弦月丸(は一
時間(に十二三
海里(の
速力(をもつて
進航(して
居(るのに、
其(後(を
追(ふて
斯(くも
迅速(に
接近(して
來(るとは、
實(に
非常(の
速力(でなければならぬ。
今(の
世(に、かくも
驚(く
可(き
速力(をもつて
居(る
船(は、
水雷驅逐艦(か、
水雷巡洋艦(の
他(はあるまい、あの
燈光(の
主體(は
果(して
軍艦(の
種類(であらうか。
軍艦(の
種類(ならば
何(も
配慮(するには
及(ばないが――
若(しや――
若(しや――と
私(は
ふと或(事(を
想起(した
時(、
思(はずも
戰慄(したよ。
未(だ
其(の
船(の
船體(も
認(めぬ
内(から、
斯(る
心配(をするのは
全(く
馬鹿氣(て
居(るかも
知(れぬが、
先刻(からの
奇怪(の
振舞(を
見(ては、どうも
心(が
安(くないのである、
第一(に
遙(か〳〵の
闇黒(なる
海上(に
於(て、
星火榴彈(を
揚(げ、
火箭(を
飛(ばして
難破船(の
風體(を
摸擬(つたなど、
船長(は
單(に
船幽靈(の
仕業(で
御坐(るなどゝ、
無※([#「(禾+尤)/上/日」、85-11]な
事(を
言(つて
居(るが
其實(、かの
不思議(なる
難破船(の
信號(は、
現世(に
存在得(べからざる
海魔(とか
船幽靈(とかよりは
百倍(も
千倍(も
恐怖(るべき
或(者(の
仕業(で、
何(か
企圖(つる
所(があつて、
我(が
弦月丸(を
彼處(の
海上(へ
誘引(き
寄(せやうとしたのではあるまいか、
實(に
印度洋(の
航海(程(世(に
恐(るべき
航海(はない、
颶風(や、
大強風(や、
咫尺(を
辨(ぜぬ
海霧(や、
其他(、
破浪(、
逆潮浪(の
悽(まじき、
亂雲(、
積雲(の
物凄(き、
何處(の
航海(にも
免(かれ
難(き
海員(の
苦難(ではあるが、
特(に
此(印度洋(では
是等(の
苦難(の
外(に、
今一個(最(も
恐怖(る
可(き『
海賊船(の
襲撃(』といふ
禍(がある。
往昔(から
此(洋中(で、
海賊船(の
襲撃(を
蒙(つて、
悲慘(なる
最後(を
遂(げた
船(は
幾百千艘(あるかも
分(らぬ。
人(の
談話(では
今(は
往昔(程(海賊船(の
横行(ははげしくは
無(いが、
其代(り
往昔(の
海賊船(は
一撃(の
下(に
目指([#ルビの「めざ」は底本では「あざ」]す
貨物船(を
撃沈(するやうな
事(はなく、
必(ず
其(船(をもつて
此方(に
乘掛(け
來(り、
武裝(せる
幾多(の
海賊(輩(は
手(に〳〵
劔戟(を
振翳(しつゝ、
彼方(の
甲板(から
此方(へ
乘移(り、
互(に
血汐(を
流(して
勝敗(を
爭(ふのであるから、
海賊(勝(てば
其後(の
悲慘(なる
光景(は
言(ふ
迄(もないが、
若(し
此方(強(ければ
其(賊(輩(を
鏖殺(にする
事(も
出來(るのである。けれど
今日(に
於(ては、
海賊(も
餘程(狡猾(になつて、かゝる
手段(に
出(づる
事(は
稀(で、
加(ふるに
海底潜水器(の
發明(があつて
以來(、
海賊船(は
多(く
其(發明(を
應用(して、
若(し
漫々(たる
海洋(の
上(に
金銀(財寳(を
滿載(せる
船(を
認(めた
時(には、
先(づ
砲(又(は
衝角(をもつて
一撃(の
下(に
其(船(を
撃沈(し、
後(に
潜水器(を
沈(めて
其(財寳(を
引揚(げる
相(である。
勿論(、
今日(に
於(ても
潜水器(の
發明(は
未(だ
充分(完全(の
度(には
進(んで
居(らぬから、
此(手段(とて
絶對的(に
應用(する
事(の
出來(ぬのは
言(ふ
迄(もない。
即(ち
現今(に
於(て
最(も
精巧(なる
潜水器(でも、
海底(五十
米突(以下(に
沈(んでは
水(の
壓力(の
爲(めと
空氣喞筒(の
不完全(なる
爲(に、
到底(其(用(を
爲(さぬのであるから、
潜水器(を
用(ゆる
海賊船(は、
常(に
此點(に
向(つて
深(く
意(を
用(ゐ、
狂瀾(逆卷(く
太洋(の
面(に
於(て、
目指(す
貨物船(を
撃沈(する
塲所(は
必(ず
海底(の
深(さ五十
米突(に
足(らぬ
島嶼(の
附近(か、
大暗礁(又(は
海礁(の
横(つて
居(る
塲所(に
限(つて
居(る
相(だ。
今(、
私(は
黒暗々(たる
印度洋(の
眞中(に
於(て、わが
弦月丸(の
後(を
追(ふかの
奇怪(なる
船(を
見(てふと
此樣(事(を
想(ひ
出(した。
讀者(諸君(よ
笑(ひ
玉(ふな、
私(の
配慮(は
餘(りに
神經的(かも
知(れぬが、
然(し
以上(の
物語(と、
今(から
數分(以前(にかの
船(が
本船(右舷(後方(の
海上(に
於(て
不思議(にも
難破信號(を
揚(げた
事(とで
考(へ
合(せると
斯(る
配慮(の
起(るのも
無理(はあるまい。
私(は
印度洋(の
海底(の
有樣(は
精密(くは
知(らぬが
此(洋(全面積(は
二千五百※方哩([#「一/力」、88-10]、
深(き
所(は
底知(れぬが、
處々(に
大暗礁(又(は
海礁(が
横(つて
居(つて、
水深(五十
米突(に
足(らぬ
所(もある
相(な。して
見(ると
私(でなくとも、
此樣(な
想像(は
起(るであらう、
今(、
本船(の
後(を
追(ふかの
奇怪(の
船(は
或(は
印度洋(の
大惡魔(と
世(に
隱(れなき
海賊船(で、
先刻(遙(か〳〵の
海上(で、
星火榴彈(を
揚(げ、
火箭(を
飛(して、
救助(を
求(むる
難破船(の
眞似(をしたのは、あの
邊(の
海底(は
何(かの
理由(で
水深(左程(深(からず、
我(が
弦月丸(を
撃沈(して
後(に
潜水器(を
沈(めるに
便利(の
宜(かつた
爲(ではあるまいか、
本船(の
愚昧([#ルビの「おろか」は底本では「おろな」]なる
船長(は『
船幽靈(めが、
難破船(の
眞似(なんかして、
此(船(を
暗礁(へでも
誘引(き
寄(せやうとかゝつて
居(るのだな。』と
延氣(な
事(を
言(つて
居(つたが、
其實(船幽靈(ならぬ
海賊船(が、あの
邊(の
暗礁(へ
我(船(を
誘引(き
寄(せやうと
企圖(て
居(つたのかも
知(れぬ。
偶然(にも
我(が
弦月丸(は
斯(る
信號(には
頓着(なく、ずん〴〵と
其(進航(を
續(けた
爲(め、
策略(破(れた
海賊船(は、
今(や
他(の
手段(を
廻(らしつゝ、
頻(りに
我(船(の
後(を
追及(するのではあるまいか、
不幸(にして
私(の
想像(が
誤(らなければ
夫(こそ
大變(、
今(本船(とかの
奇怪(なる
船(との
間(は
未(だ一
海里(以上(は
確(に
距(つて
居(るが、あの
燈光(のだん〳〵と
明亮(くなる
工合(で
見(ても、
其(船脚(の
悽(まじく
速(い
事(が
分(るから、
頓(て
本船(に
切迫(するのも十
分(か十五
分(の
後(であらう。あゝ、
海賊船(か、
海賊船(か、
若(しもあの
船(が
世界(に
名高(き
印度洋(の
海賊船(ならば、
其(船(に
睨(まれたる
我(弦月丸(の
運命(は
最早(是迄(である。たとへ
我(船(が
全檣(に
帆(を
張(り
蒸
機關(の
破裂(するまで
石炭(を
焚(いて
逃(げやうとも
如何(で
逃(げ
終(うする
事(が
出來(やう。
勿論(、かの
船(は
私(の
想像(するが
如(き
海賊船(であつたにしろ、
左樣(無謀(には
本船(を
撃沈(するやうな
事(はあるまい、
印度洋(の
平均水深(は一
千(八
百(三十
尋(、
其樣(な
深(い
所(で
輕々(しく
本船(を
撃沈(した
處(で、
到底(かの
船(の
目的(を
達(する
事(は
出來(まいから。けれど、
彼方(天魔(鬼神(を
欺(く
海賊船(ならば
一度(睨(んだ
船(をば
如何(でか
其儘(に
見遁(すべき。
事(面倒(と
思(はゞ、
昔話(に
聞(く
海賊船(の
戰術(を
其儘(に、
鋭(き
船首(は
眞一文字(に
此方(に
突進(し
來(つて、
手(に〳〵
劍戟(を
振翳(せる
異形(の
海賊(輩(は
亂雲(の
如(く
我(が
甲板(に
飛込(んで
來(るかも
知(れぬ。
若(し
然(なくば
隱見(出沒(、
氣長(く
我(船(の
後(を
追(ふ
内(、
本船(が
何時(か
海水(淺(き
島嶼(の
附近(か、
底(に
大海礁(の
横(る
波上(にでも
差懸(かつた
時(、
風(の
如(く
來(り、
雲(の
如(く
現(はれ
出(でゝ、一
撃(の
下(に
其處(に
我(が
船(を
撃沈(する
積(かも
知(れぬ。
斯(う
考(へると
實(に
底氣味(の
惡(いも〳〵、
私(は
心(の
底(から
寒(くなつて
來(た。
兎角(する
程(に
怪(の
船(はます〳〵
接近(し
來(つて、
白(、
紅(、
緑(の
燈光(は
闇夜(に
閃(めく
魔神(の
巨眼(のごとく、
本船(の
左舷(後方(約(四五百
米突(の
所(に
輝(いて
居(る。
私(は
胸(を
跳(らせつゝ
我(が
甲板(の
前後(左右(を
眺(めた。
例(のビール
樽(船長(は
此時(私(の
頭上(に
當(る
船橋(の
上(に
立(つて、
頻(りに
怪(の
船(の
方向(を
見詰(めて
居(つたが、
先刻(遙(か〳〵の
海上(に
朦乎(と
三個(の
燈光(を
認(めた
間(こそ、
途方(も
無(い
事(を
言(つて
居(つたものゝ、
最早(斯(うなつては
其樣(な
無※([#「(禾+尤)/上/日」、92-4]な
事(は
言(つて
居(られぬ。
『はてさて、
妙(だぞ、あれは
矢(ツ
張(
船(だわい、して
見(ると
今月(の
航海表(に
錯誤(があつたのかしらん。』と
言(ひつゝ、
仰(いで
星影(淡(き
大空(を
眺(めたが
『いや、いや、
如何(考(へても
今時分(あんな
船(に
此(航路(で
追越(される
筈(はないのだ。』と
見(る〳〵
内(に
不安(の
顏色(が
現(はれて
來(た。
此時(はすでに
澤山(の
船員等(は
此處彼處(から
船橋(の
邊(を
指(して
集(つて
來(た。いづれも
愕(いた
樣(な、
審(るやうな
顏(で、
今(やます〳〵
接近(し
來(る
怪(の
船(の
燈光(を
眺(めて
居(る。
『
實(に
不思議(だ――あの
船脚(の
速(い
事(は――』と
右手(の
時辰器(を
船燈(の
光(に
照(して
打眺(めつゝ、
眤(と
考(へて
居(るのは
本船(の
一等運轉手(である。つゞいて
『
何會社(の
船(だらう。』
『
商船(だらうか、
郵便船(だらうか。』
『いや、
軍艦(に
相違(ない。』
『
軍艦(にしても、あんなに
速(い
船脚(は
新式(巡洋艦(か、
水雷驅逐艦(の
他(はあるまい。』と二
等(運轉手(、
非番(舵手(、
水夫(、
火夫(、
船丁(に
至(るまで、
互(に
眼(と
眼(を
見合(せつゝ
口々(に
罵(り
騷(いで
居(る。
彼等(の
中(には、
先刻(の
不思議(な
信號(を
見(た
者(もあらう、また
見(ぬ
者(もあらう。
怪(の
船(は
遂(に
我(が
弦月丸(と
雁行(になつた。
船橋(の
船長(は
右顧左顧(、
頻(りに
心安(からず
見(えた。
我(が
一等運轉手(は
急(はしく
後部甲板(に
走(つたが、
忽(ち
一令(を
掛(けると、
一個(の
信號水夫(は、
右手(に
高(く
白色球燈(を
掲(げて、
左舷船尾(の「デツキ」に
立(つた。
之(れは
海上法(に
從(つて、
船(の
將(に
他船(に
追越(されんとする
時(に
表示(する
夜間信號(である。
然(るに
彼方(怪(の
船(は
敢(て
此(信號(には
應答(へんともせず、
忽(ち
見(る
其(甲板(からは、
一導(の
探海電燈(の
光(閃々(と
天空(を
照(し、つゞいて
サツとばかり、
其(眩(ゆき
光(を
我(が
甲板(に
放(げると
共(に、
笛(一二
聲(、
波(を
蹴立(てゝます〳〵
進航(の
速力(を
速(めた。
見(る〳〵
内(に
怪(の
船(の
白色檣燈(は
我(が
弦月丸(の
檣燈(と
並行(になつた――
早(や、
彼方(の
右舷(の
緑燈(は
我(が
左舷(の
紅燈(を
尻眼(にかけて、一
米突(――二
米突(――三
米突(――
端艇(ならば
少(くも
半艇身(以上(我(が
船(を
乘越(した。
此時(!
私(は
如何(にもして、かの
怪(の
船(の
正體(を
見屆(けんものをと、
身(を
飜(して
左舷船首(に
走(り、
眼(を
皿(のやうにして
其(船(の
方(を
見詰(めたが、
月無(く、
星影(も
稀(なる
海(の
面(は、百
米突(――二百
米突(とは
距(たらぬのに
黒暗々(として
咫尺(を
辨(じない。
加(ふるに
前檣々頭(に
一點(の
白燈(と、
左舷(の
紅燈(は
見(えで、
右舷(に
毒蛇(の
巨眼(の
如(き
緑色(の
舷燈(を
現(せる
他(は、
船橋(にも、
甲板(にも、
舷窓(からも、
一個(の
火影(を
見(せぬかの
船(は、
殆(んど
闇黒(に
全體(を
包(まれて
居(つたが、
私(の
一念(の
屆(いて
幾分(か
神經(の
鋭(くなつた
爲(か、それとも
瞳(の
漸(く
闇黒(に
馴(れた
爲(か、
私(は
辛(じて
其(燈光(の
主體(を
認(め
得(た
途端(、またもや
射出(す
彼船(の
探海電燈(、
其邊(は。
パツと
明(るくなる、
私(は
一見(して
卒倒(するばかりに
愕(き
叫(んだよ
『
海蛇丸(※
[#感嘆符三つ、95-12] 海蛇丸(※
[#感嘆符三つ、95-12]』と。
讀者(諸君(は
未(だ
御記臆(だらう。
我(が
弦月丸(が
將(に
子ープルス港(を
出發(せんとした
時(、
何故(ともなく
深(く
私(の
眼(に
留(つた
一隻(の
怪(の
船(を。
噸數(一千
噸(位(、
二本(烟筒(に
二本(檣(、
其(下甲板(には
大砲(小銃等(を
積(めるにやあらん。
審(かしき
迄(船脚(の
深(く
沈(んで
見(えた
其(船(が、
今(や
闇黒(なる
波浪(の
上(に
朦朧(と
認(められたのである。
『
紛(ふ
方(なき
海蛇丸(※
[#感嘆符三つ、96-6]』と
私(は
再(び
叫(んだ。あゝ、
海蛇丸(は
前(には
子ープルス港(にていと
奇怪(しき
擧動(をなし、
其時(、
我(が
弦月丸(よりは
數分(前(に
港(を
發(して、かくも
迅速(なる
速力(を
有(てるにも
拘(らず、
今(や
却(て
我(が
船(の
後(を
追(ふて
來(るとは、
之(が
單(に、
偶然(の
出來事(とのみ
言(はれやうか? ? ?
然(るに
此時(まで、
海蛇丸(は
別(に
害意(ありとも
見(えず、たゞ
其(甲板(からは
絶(えず
[#「絶(えず」は底本では「絶(えす」]探海電燈(の
閃光(を
射出(して、
或(は
天空(を
照(し、
或(は
其(光(を
此方(に
向(け、
又(は
海上(の
地理(形况等(を
探(るにやあらん、
我(が
弦月丸(が
指(して
行(く
航路(の
海波(を
照(しつゝ、ずん〴〵と
前方(に
駛(り
去(つた。
本船(は
今(は
却(て
其(後(を
追(ふのである。
稍(や十
分(も
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、97-4]ぎたと
思(ふ
頃(二船(の
間(は
餘程(距(たつた。
私(は
思(はず
一息(ついた、『
矢張(無益(の
心配(であつたか』と
少(しく
胸(撫(でおろす、
其時(、
私(は
ふと心付(いたよ、
先刻(までは
極(めて
動搖(平穩(であつた
我(が
弦月丸(は
何時(の
間(にか
甲板(も
傾(くばかり
激(しき
動搖(を
感(じて
居(るのであつた。
眺(めると
闇黒(なる
右舷(左舷(の
海上(は
尋常(ならず
浪(荒(く、
白馬(の
如(き
立浪(の
跳(るのも
見(える。
印度洋(とて
千尋(の
水深(ばかりではない、
斯(く
立浪(の
騷(いで
居(るのは、
確(に
其邊(に
大暗礁(の
横(つて
居(るとか、
今(しも
我(が
弦月丸(の
進航(しつゝある
航路(の
底(は
一面(の
大海礁(で
蔽(はれて
居(るのであらう。
大暗礁(!
大海礁(! たとへ
船(を
坐礁(る
程(でなくとも、
此邊(の
海底(の
淺(い
事(は
分(つて居る※
[#感嘆符三つ、98-2]
はツと
思(つたが、
此時(忽(ち
我(が
弦月丸(の
前甲板(に
尋常(ならぬ
叫聲(が
聽(えた。
私(は
跳上(つて
眼(を
放(つと、
唯(見(る、
本船々首(正面(の
海上(に、
此時(まで
閃々(たる
光(は
絶(えず
海(の
八方(を
照(しつゝ
既(に
一海里(ばかり
駛(り
去(つた
海蛇丸(は、
此時(何故(か
探海電燈(の
光(パツと
消(えて、
突然(船首(を
轉廻(すよと
見(る
間(に、さながら
疾風(電雷(の
如(く
此方(に
突進(して
來(た。
『や、や、や、や、や。』と
私(の
胸(は
警鐘(を
亂打(するやうである。
更(に
驚愕(いたのは、
船橋(の
船長(、
後甲板(の
一等運轉手(、
二等運轉手(、
三等運轉手([#「三等運轉手(」は底本では「三運等轉手(」]、
水夫(、
火夫(、
見張番(、
一同(顏色(を
失(つて、
船首甲板(の
方(へ
走(つて
來(た。
眞正面(から
突進(して
來(る
海蛇丸(と、
我(が
弦月丸(との
距離(は
最早(一千
米突(に
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、99-2]ぎない。
廣(い
樣(でも
狹(いのは
船(の
航路(で、
千島艦(と
ラーヴエンナ號(事件(の
實例(を
引(く
迄(もなく、
少(しく
舵機(の
取方(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、99-3]つても、
屡々(驚怖(すべき
衝突(を
釀(すのに、
底事(ぞ、
怪(の
船(海蛇丸(は、
今(や
我(が
弦月丸(の
指(して
行(く
同(じ
鍼路(をば
故意(と
此方(に
向(て
猛進(して
來(るのである、一
分(、二
分(、三
分(の
後(は
一大(衝突(を
免(かれぬ
運命(※
[#感嘆符三つ、99-6]
船長(も
一等運轉手(も
度(を
失(つて、
船橋(を
驅(け
上(り、
驅(け
降(り、
後甲板(に
馳(せ、
前甲板(に
跳(り
狂(ふて、
聲(を
限(りに
絶叫(した。
水夫(。
火夫(、
船丁等(の
周章狼狽(は
言(ふ
迄(もない、
其内(に
乘客(も
※半([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、99-9]睡眠(より
醒(めて、
何事(ぞと
甲板(に
走(り
出(でんとするを、
邪魔(だ〳〵と
昇降口(の
邊(より
追返(さんと
(く二三
船員(の
聲(も
聽(える。
本船(は
連續(に
爆裂信號(を
揚(げ、
非常
笛(を
鳴(らし、
危難(を
告(ぐる
號鐘(は
割(るゝばかりに
響(き
渡(つたけれど、
海蛇丸(は
音(もなく、ずん〳〵と
接近(して
來(るばかりである。
本船(の
舵手(は
狂氣(の
如(くなつて、
鍼路(を
右(に
左(に
廻轉(したが
何(の
甲斐(も
無(い。
此方(
角(短聲(一發(、
鍼路(を
右舷(に
取(れば、
彼方(海蛇丸(も
左舷(の
紅燈(隱(れて
鍼路(を
右(に
取(り、
此方(短聲(二發(鍼路(を
左舷(に
廻(らせば、
彼方(も
亦(た
左舷(の
紅燈(現(はれて
鍼路(を
左(に
取(る。
最早(疑(ふ
事(は
出來(ぬ、
海蛇丸(は
今(や
立浪(跳(つて
海水(淺(き、
此(海上(で
我(が
弦月丸(を
一撃(の
下(に
撃沈(せんと
企圖(てゝ
居(るのだ。
『
衝突(だ!
衝突(だ!
衝突(だ!』と
百數十(の
船員等(は
夢中(になつて
甲板上(を
狂奔(した。
此時(既(に
本船(を
去(る
海蛇丸(の
距離(は
僅(かに二
百(二三十
米突(以内(※
[#感嘆符三つ、100-10]
一等運轉手(と
船長(とは
血眼(になつて
一度(に
叫(んだ
『
全速力(後退(!
後退(!
後退(!』
同時(に
角(短聲(三發(、
蒸
機關(の
響(ハッタと
更(まつて、
逆(に
廻旋(する
推進螺旋(の
邊(、
泡立(つ
波(は
飛雪(の
如(く、
本船(忽(ち二十
米突(――三十
米突(も
後退(したと
思(つたが、
此時(すでに
遲(かつた、
今(や
我(が
弦月丸(の
側面前方(、
約(百
米突(以内(に
接迫(し
來(つた
海蛇丸(は、
忽然([#ルビの「こつぜん」は底本では「こぜん」]其(船首(を
左方(に
廻轉(するよと
見(る
間(に、
其(鋭(き
衝角(は
恰(も
電光石火(の
如(く、
本船(の
中腹(目撃(けてドシン※
[#感嘆符三つ、101-6]
弦月丸(は
萬山(の
崩(るゝが
如(き
響(と
共(に
左舷(に
傾斜(いた。
途端(に
起(る
大叫喚(。
二百(の
船員(が
狂(へる
甲板(へ、
數百(の
乘客(が
一時(に
黒雲(の
如(く
飛出(したのである。
風(の
如(く、
電光(の
如(く
來(りし
海蛇丸([#ルビの「かいだまる」は底本では「かいたまる」]は、また、
風(の
如(く、
電光(の
如(く、
黒暗々(たる
波間(に
隱(れてしまつた。
天空(には
星影(一
點(、二
點(、
又(た三
點(、
風(死(して
浪(黒(く、
船(は
秒一秒(と、
阿鼻叫喚(の
響(を
載(せて、
印度洋(の
海底(に
沈(んで
行(くのである。
第八回
人間(の
運命(
弦月丸の最後――ひ、ひ、卑怯者め――日本人の子――二つの浮標(――春枝夫人の行衞――あら、黒い物が!
あゝ
人間(の
運命(程(不思議(な
者(はない。
此(珍事(のあつた
翌日(は
私(は、
日出雄少年(と
唯(二人(で、
長(さ卅
呎(にも
足(らぬ
小端艇(に
身(を
委(ねて、
水(や
空(なる
大海原(を
浪(のまに〳〵
漂([#ルビの「たゞよ」は底本では「たゝよ」]つて
居(るのであつた。
言(ふ
迄(も
無(く、
弦月丸(は
其時(無限(の
恨(を
飮(んで、
印度洋(の
海底(に
沈沒(せしめられたのである。
風(軟(かに、
草(みどりなる
陸上(の
人(は、
船(の
沈沒(などゝ
聞(けば、
恰(も
趣味(ある
出來事(の
樣(に
思(はれて、
或(は
演劇(に、
或(は
油繪(に、
樣々(なる
事(をして
其(悲壯(なる
光景(を
胸裡(に
描(かんとして
居(るが、
私(の
如(く
現在(其(難(に
臨(んで、
弦月丸(が
悲慘(なる
最後(を
遂(ぐるまで、
其(甲板(に
殘(つて
居(つた
身(は、
今更(其(始終(を
懷想(しても
身(の
毛(の
彌立(つ
程(で、とても
詳(しい
事(を
述立(てるに
忍(びぬが、
是非(に
語(らねばならぬ
其(大略(だけを
茲(に
記(して
置(かう。
海蛇丸(が
我(弦月丸(の
右舷(に
衝突(して、
風(の
如(く
其(形(を
闇中(に
沒(し
去(つた
後(は、
船中(は
鼎(の
沸(くが
樣(な
騷([#ルビの「さわぎ」は底本では「さわき」]であつた。
泣(く
聲(、
喚(く
聲(、
哀(に
救助(を
求(むる
聲(は、
悽(まじき
怒濤(の
音(と
打交(つて、
地獄(の
光景(もかくやと
思(はるゝばかり。あらゆる
防水(の
方便(は
盡(されたが、
微塵(に
打碎(かれたる
屹水下(からは
海潮(瀧(の
如(く
迸(入(つて、
其(近傍(には
寄(り
附(く
事(も
出來(ない。十
臺(の
喞筒(は、
全力(で
水(を
吐出(して
居(るが
何(の
效能(もない。六千四百
噸(の
巨船(もすでに
半(は
傾(き、
二本(の
煙筒(から
眞黒(に
吐出(す
烟(は、
恰(も
斷末魔([#ルビの「だんまつま」は底本では「たんまつま」]の
苦悶(を
訴(へて
居(るかのやうである。
『もう
無益(だ〳〵、とても
沈沒(は
免(かれない。』と
船員(一同(はすでに
本船(の
運命(を
見捨(てたのである。
私(は
此時(まで
殆(んど
喪心(の
有樣(で、
甲板(の
一端(に
屹立(つた
儘(、
此(慘憺(たる
光景(に
眼(を
注(いで
居(つたが、ハツと
心付(いたよ。
『
春枝夫人(、
日出雄少年(は
如何(して
居(るだらう。』と
私(は
宙(を
飛(んで
船室(の
方(に
向(つた。
昇降口(のほとり、
出逢(ひがしらに、
下方(から
昇(つて
來(たのは、
夫人(と
少年(とであつた。
不時(の
大騷動(に、
愕(き
目醒(めたる
春枝夫人(は、かゝる
焦眉(の
急(にも
其(省愼(を
忘(れず、
寢衣(を
常服(に
着更(へて
居(つた
爲(めに、
今(漸(く
此處(まで
來(たのである。
見(るより
私(は
『
夫人(、
大事變(が〳〵。』
『
何(か
起(りましたか、
暗礁(へでも?』と
夫人(の
聲(は
沈(んで
居(つた。
『
暗礁(どころか、ま、
早(く〳〵。』と
私(は
引立(てるやうにして
夫人(を
伴(ひ、
喫驚(して
眼(を
(つて
居(る
少年(をば、ヒシと
腕(に
抱(へて
甲板(を
走(つた、
餘(りに
人(の
立騷(いで
居(る
邊(は、
却(て
危險(の
多(いので、
吾等(三人(は
全(く
離(れて、ずつと
船首(の
海圖室(の
側(に
身(を
寄(せた。
此(塲合(に
第(一に
私(の
胸(をうつたのは、
此(航海(のはじめ
ネープルス港(を
出(づる
時(、
濱島(に
堅(く
約(して、
夫人(と
其(愛兒(との
身(の
上(は、
私(の
生命(に
懸(けてもと
堅(く
請合(つた
事(、
今(、
此(危急(の
塲合(に
臨(んで、
私(の
身命(は
兎(もあれ、
此(二人(丈([#ルビの「だ」は底本では「た」]けは
如何(しても
救(はねばならぬのだ。
船(は
秒一秒(に
沈(んで
行(く、
甲板(の
叫喚(はます〳〵
激(しくなつた。
終(に「
端艇(下(せい。」の
號令(は
響(いて、
第(一の
端艇(は
波上(に
降下(つた。
此時(私(は
春枝夫人(を
見返(つたのである。
『いざ、
夫人(、
避難(の
用意(を。』と。すべて
海上(の
規則(として、
斯(る
塲合(に
第(一に
下(されたる
端艇(は
一等船客(のため、
第(二が
二等船客(、
第(三が
三等船客(、
總(ての
船客(の
免(れ
去(つた
後(に、
猶殘(る
端艇(があれば、
其時(はじめて
船員等(の
避難(の
用(に
供(せらるゝのである。で
私(は
今(第(一
端艇(の
下(ると
共(に、
吾等(一等船客(たるの
權利(をもつて、
春枝夫人(と
日出雄少年(とを
誘(つたのである。
勿論(私(は
不束(ながらも
一個(の
日本男子(であれば、
其(國(の
名(に
對(しても、
斯(る
[#「斯(る」は底本では「斯(か」]塲合(に
第(一に
逃出(す
事(は
出來(ぬのである。
然(し、
春枝夫人(と
日出雄少年(とは
私(が
[#「私(が」は底本では「私(か」]堅(く
友(に
保證(して
居(る
人(、
且(は
纎弱(き
女性(と、
無邪氣(なる
少年(の
身(であれば、
先(づ
此(二人(をば
避難(せしめんと
頻(に
心(を
焦(てたのである。
然(るに
私(の
苦心(は
全(く
無益(であつた。
第一端艇(の
波上([#ルビの「はじやう」は底本では「はしやう」]に
浮(ぶや
否(なや、
忽(ち
數百(の
人(は、
雪崩(の
如(く
其處(へ
崩(れかゝつた。
我先(に
其(端艇(に
乘移(らんと、
人波(うつて
閙(く
樣(は、
黒雲(の
風(に
吹(かれて
卷返(すやうである。
『
夫人(、とてもいけません。』と二三
歩(進(んだ
私(は
振返(つた。とても〳〵、あの
狂氣(のやうに
立騷(いで
居(る
多人數(の
間(を
分(けて、
此(柔弱(き
夫人(と
少年(とを
安全(に
端艇(に
送込(む
事(が
出來(やう? あゝ
人間(はいざと
云(ふ
塲合(には、
恥辱(も
名譽(もなく、
斯(く
迄(生命(の
惜(しい
者(かと、
嘆息(と
共(に
眺(めて
居(ると、
更(に
奇怪(なるは、
其(端艇(に
身(を
投(じたる
一群(の
人(、それは
一等船客(でもなく、
二等船客(でもなく、
實(に
此(船(の
最後(まで
踏止(る
可(き
筈(の
水夫(、
火夫(、
舵手(、
機關手(、
其他(一團(の
賤劣(なる
下等船客(で、
自己(の
腕力(に
任(せて、
他(を
突除(け
蹴倒(して、
我先(にと
艇中(に
乘移(つたのである。
『あゝ、
何(たる
醜態(ぞ。」と
私(はあまりの
事(に
撫然(とした。
春枝夫人(は
私(の
後方(に、
愛兒(をしかと
抱(きたる
儘(、
默然(として
言(もない、けれど
流石(に
豪壯(なる
濱島武文(の
妻(、
帝國軍人松島海軍大佐(の
妹君(程(あつて、
些(も
取亂(したる
姿(のなきは、
既(に
其(運命(をば
天(に
任(せて
居(るのであらう。かゝる
殊勝(なる
振舞(を
見(ては、
私(は
猶(默(つては
居(られぬ。
『えゝ、
無責任(なる
船員(!
卑劣(なる
外人(!
海上(の
規則(は
何(の
爲(ぞ。』と
悲憤(の
腕(を
扼(すと、
夫人(の
淋(しき
顏(は
私(に
向(つた、
沈(んだ
聲(で
『いえ、
誰人(も
命(の
助(かりたいのは
同(じ
事(でせう。』と
言(つて、
瞳(を
轉(じ
『でも、あの
樣(に
澤山(乘(つては
端艇(も
沈(みませうに。』といふ、
我身(の
危急(をも
忘(れて、
却(つて
仇(し
人(の
身(の
上(を
氣遣(ふ
心(の
優(しさ、
私(は
聲(を
勵(まして
『
夫人(、
其樣(な
事處(でありません、
貴女(と
少年(とは
如何(しても
助(らねばなりません、
私(が
濟(まない〳〵。』と
叫(んで
見渡(すと
此時(第二(の
端艇(も
下(りた、
第三(の
端艇(も
下(りた、けれど
其(附近(は
以前(にも
増(す
混雜(で、
私(は
[#「私(は」は底本では「私(ば」]たゞ
地團太(を
踏(むばかり。ふと
眼(に
入(つたのは、
今(、
此(船(の
責任(を
双肩(に
擔(へる
船長(が、
卑劣(にも
此時(、
舷燈(の
光(朦朧(たるほとりより、
天(に
叫(び、
地(に
泣(ける、
幾百(の
乘組人(をば
此處(に
見捨(てゝ、
第三(の
端艇(に
乘移(らんとする
處(。
『ひ、ひ、
卑怯者(!。』と
私(は
躍起(になつた、
此處(には
春枝夫人(の
如(き
殊勝(なる
女性(もあるに、
彼(船長(の
醜態(は
何事(ぞと
思(ふと、もう
默(つては
居(られぬ、
元(より
無益(の
業(ではあるが、せめての
腹愈(しには、
吾(鐵拳(をもつて
彼(の
頭(に
引導(渡(して
呉(れんと、
驅出(す
袂(を
夫人(は
靜(に
留(めた。
『もう
何事(も
爲(さりますな。
妾(も、
日出雄(も、
此儘(海(の
藻屑(と
消(えても、
决(して
未練(に
助(からうとは
思(ひませぬ。』と
白※薇([#「薔」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、110-1]のたとへば
雨(に
惱(めるが
如(く、しみ〴〵と
愛兒(の
顏(を
眺(めつゝ
『けれど、
天(の
惠(があるならば、
波(の
底(に
沈(んでも
或(は
助(かる
事(もありませう。」と
明眸(に
露(を
湛(えて
天(を
仰(いだ。
忽(ち、
暗澹(たる
海上(に、
不意(に
大叫喚(の
起(つたのは、
本船(を
遁(れ
去(つた
端艇(の
餘(りに
多人數([#ルビの「たにんずう」は底本では「たにんず」]を
載(せたため一二
艘(波(を
被(つて
沈沒(したのであらう。
『オー、
無殘(に。』と
春枝夫人(は
手巾(に
面(を
蔽(ふた。
『あれは
自業自得(です。』と
私(は
冷笑(を
禁(じ
得(なかつた。
弦月丸(の
運命(は
最早(一
分(、二
分(、
甲板(には
殘(る
一艘(の
端艇(も
無(い、
斯(くなりては
今更(何(をか
思(はん、せめては
殊勝(なる
最後(こそ
吾等(の
望(である。
『
夫人(!。』と
私(は
靜(に
夫人(を
呼(かけた。
『
何事(も
天命(です、
然(し
吾等(は
此(急難(に
臨(んでも、
我(日本(の
譽(を
傷(けなかつたのがせめてもの
滿足(です。』と
語(ると、
夫人(も
微(かにうち
點頭(き、
俯伏(して
愛兒(の
紅(なる
頬(に
最後(の
接吻(を
與(へ、
言葉(やさしく
『
日出雄(や、お
前(は
今(此(災難(に
遭(つても、
ネープルスで
袂別(の
時(に
父君(の
仰(つしやつたお
言葉(を
忘(れはしますまいねえ。』と
言(へば、
日出雄少年(は
此時(凛乎(たる
面(を
擧(げ
『
覺(えて
居(ます。
父樣(が
私(の
頭(を
撫(でゝ、お
前(は
日本人(の
子(といふ
事(をばどんな
時(にも
忘(れてはなりませんよ、と
仰(しやつた
事(でせう。』
夫人(は
思(はず
涙(をはら〳〵と
流(し
『
其事(、お
前(と
母(とは、
之(が
永遠(の
別(となるかも
知(れませんが、
幸(ひにお
前(の
生命(が
助(つたなら、
之(から
世(に
立(つ
時(に、
始終(其(言葉(を
忘(れず、
誠實(の
人(とならねばなりませんよ。』と
言終(つた
時(、
怒濤(は
早(や
船尾(の
方(から
打上(げて
來(た。
最早(最後(と、
私(は
眼(を
放(つて
四邊(を
眺(めたが、
此時(ふと
眼(に
止(つたのは、
左舷(の
方(に
取亂(されてあつた二三
個(の
浮標(、
端艇(に
急(いだ
人々(は、かゝる
物(には
眼(を
留(めなかつたのであらう。
私(は
急(ぎ
取上(げた。
素早(く
一個(を
夫人(に
渡(し、
今一個(を
右手(に
捕(へて『
日出雄(さん。』とばかり
左手(に
少年(の
首筋(を
抱(へた
時(、
船(は
忽(ち、
天地(の
碎(くるが
如(き
響(と
共(に
海底(に
沒(し
去(つた。
泡立(つ
波(、
逆卷(く
潮(、
一時(は
狂瀾(千尋(の
底(に
卷込(まれたが、
稍(暫(して
再(び
海面(に
浮上(つた
時(は
黒暗々(たる
波上(には六千四百
噸(の
弦月丸(は
影(も
形(もなく、
其處此處(には
救助(を
求(むる
聲(たえ〴〵に
聽(ゆるのみ、
私(は
幸(に
浮標(を
失(はで、
日出雄少年(をば
右手(にシカと
抱(いて
居(つた。けれど
夫人(の
姿(は
見(えない『
春枝夫人(、々々。』と
聲(を
限(りに
呼(んで
見(たが
應(がない、
只(一度(遙(か〳〵の
波間(から、
微(かに
答(のあつた
樣(にも
思(はれたが、それも
浪(の
音(やら、
心(の
迷(ひやら、
夫人(の
姿(は
遂(に
見出(す
事(が
出來(なかつたのである、
私(は
幼少(の
頃(から、
水泳(には
極(めて
達(して
居(つたので、
容易(に
溺(れる
樣(な
氣遣(はない、
日出雄少年(を
抱(き
一個(の
浮標(を
力(に、
一時(ばかり
海中(に
浸(つて
居(つたが、
其内(に
救助(を
求(むる
人(の
聲(も
聽(えずなり、
其(身(も
弦月丸(の
沈沒(した
處(より
餘程(遠(かつた
樣子(、
不意(に
日出雄少年(が『あら
黒(い
物(が。』と
叫(ぶので、
愕(いて
頭(を
上(げると、
今(しも
一個(の
端艇(が
前方(十四五ヤードの
距離(に
泛(んで
居(る、
之(は
先刻(多人數(が
乘(つた
爲(に、
轉覆(した
中(の
一艘(であらう。
近(づいて
見(ると
艇中(には
一個(の
人影(もなく、
海水(は
艇(の
半(ばを
滿(して
居(るが、
何(は
兎(もあれ
天(の
助(と
打(よろこび、
少年(をば
浮標(に
托(し、
私(は
舷側(に
附(いて
泳(ぎながら、
一心(に
海水(を
酌出(し、
曉(の
頃(になつて
漸(く
水(も
盡(きたので、
二人(は
其(中(に
入(り、
今(は
何處(と
目的(もなく、
印度洋(の
唯中(を
浪(のまに〳〵
漂流(つて
居(るのである。
第九回
大海原(の
小端艇(
亞尼(の豫言――日出雄少年の夢――印度洋の大潮流――にはか雨――昔の御馳走――巨大な魚群
恐(しき
一夜(は
遂(に
明(けた。
東(の
空(が
白(んで
來(て、
融々(なる
朝日(の
光(が
水平線(の
彼方(から、
我等(の
上(を
照(して
來(るのは
昨日(に
變(らぬが、
變(り
果(てたのは
二人(の
境遇(である。
昨日(までは、
弦月丸(の
美麗(なる
船室(に
暮(して、
目醒(むると
第(一に
甲板(に
走(り
出(て、
曉天(の
凉(しき
風(に
吹(かれながら、いと
心地(よく
眺(めた
海(の
面(も、
今(の
身(にはたゞ
物凄(く
見(ゆるのみである。
眼界(の
達(する
限(り
煙波(渺茫(たる
印度洋(中(に、
二人(の
運命(を
托(する
此(小端艇(には、
帆(も
無(く、
櫂(も
無(く、たゞ
浪(のまに〳〵
漂(つて
居(るばかりである。
今更(昨夜(の
事件(を
考(へると
全(く
夢(の
樣(だ。
『あゝ、
何故(此樣(な
不運(に
出逢(つたのであらう。』と
私(は
昨夜(海(に
浸(つて、
全濡(になつた
儘(、
黎明(の
風(に
寒(相(に
慄(へて
居(る、
日出雄少年(をば
[#「日出雄少年(をば」は底本では「日出雄少年(をは」]膝(に
抱上(げ、
今(しも、
太陽(が
暫時(浮雲(に
隱(れて、
何(となく
薄淋(しくなつた
浪(の
面(を
眺(めながら、
胸(の
鏡(に
手(を
措(くと、
今度(の
航海(は
初(から、
不運(の
神(が
我等(の
身(に
跟尾(つて
居(つた
樣(だ。
出港(のみぎり
白色檣燈(の
碎(けた
事(、メシナ
海峽(で、
一人(の
船客(が
海(に
溺(れた
事等(、
恰(も
天(に
意(あつて、
今回(の
危難(を
豫知(せしめた
樣(である。イヤ
其樣(な
無※([#「(禾+尤)/上/日」、116-2]な
事(もあるまいが、
子ープルスの
埠頭(で、
亞尼(が
泣(いて
語(つた
事(は、
不思議(にも
的中(した。
勿論(、
魔(の
日(魔(の
刻(の
因縁(などは
信(ぜられぬが、
老女(が
最後(の
一言(、『
弦月丸(には、
珍(らしく
澤山(の
黄金(と
眞珠(とが
搭載(されて
居(ます、
眞珠(と
黄金(とが
夥(しく
海上(で
[#「海上(で」は底本では「海上(て」]集合(と
屹度(恐(る
可(き
祟(があります。』との
豫言(は、
偶然(にも
其通(りになつて、
是等(の
寳物(があつたばかりに、
昨夜(は
印度洋(の
惡魔(と
世(にも
恐(る
可(き
大海賊(の
襲撃(を
蒙(り、
船(は
沈(み、
夫人(は
行衞(を
失(ひ、
吾等(も
何時(救(はるゝといふ
目的(もなく、
浪(に
揉(まるゝ
泡沫(のあはれ
果敢(き
運命(とはなつた。
斯(う
考(へると
益々(氣(が
沈(んで、
生(た
心地(もしなかつた。
此時(、
太陽(は
雲間(を
洩(れて
赫々(たる
光(を
射出(した。
日出雄少年(は
頑是(なき
少年(の
常(とてかゝる
境遇(に
落(ちても、
昨夜(以來(の
疲勞(には
堪兼(ねて、
私(の
膝(に
凭(れた
儘(、スヤ〳〵と
眠(りかけたが、
忽(ち
可憐(の
唇(を
洩(れて
夢(の
聲(
『あゝ、おつかさん〳〵、
貴女(は
私(を
捨(てゝ
何處(へいらつしやるの――オ、オ、
子ープルスの
街(と
富士山(との
間(に、ま、ま、
奇麗(な
橋(が――オヤ、おとつさんが
私(の
名(を
呼(んでいらつしやるよ。』と
少年(は、
今(は
夢(の
間(、
懷(かしき
父君(母君(に
出逢(つて
居(るのである。
あゝ、
彼(が
最愛(の
父(濱島武文(は、
遙(なる
子ープルスで、
今(は
如何(なる
夢(を
結(んで
居(るだらう、
少年(が
夢(にもかく
戀(ひ
慕(ふ
母君(の
春枝夫人(は、
昨夜(海(に
落(ちて、
遂(に
其(行方(を
失(つたが、
若(し
天(に
非常(の
惠(があるならば
萬(に一つ
無事(に
救(はれぬとも
限(らぬが、
其儘(海(の
藻屑(と
消(えて、
其(魂(が
天(に
歸(つたものならば、
此後(吾等(は
運命(よく
無事(に
助(かる
事(があらうとも、
日出雄少年(は
夢(の
他(は、またと
懷(かしき
母君(の
顏(を
見(る
事(が
出來(ぬであらう、
斯(う
考(へると、
私(は
無限(に
哀(しくなつて、はふり
落(つる
涙(が
日出雄少年(の
顏(にかゝると、
少年(は
愕(いて
目(を
醒(した。
私(の
涙(に
曇(る
顏(を
見(て
『あら、
叔父(さんは
如何(かして。』
私(はハツと
心付(いたので、
態(と
大聲(に
笑(つて
『なに、
日出雄(さんが
眠(つてしまつて、
餘(り
淋(しいもんだから、
大(きな
欠伸(をしたんだよ。』
少年(は
瞼(をこすりつゝ、
悄然(と
艇(の
中(を
見廻(した。
誰(でも
左樣(だが
非常(な
變動(の
後(、
暫時(夢(に
落(ちて、
再(び
醒(めた
時(程(、
心淋(しいものはないのである。
少年(齡(漸(く八
歳(、
此(悲境(に
落(ちて、
回顧(してあの
優(しかりし
母君(の
姿(や、
ネープルスで
別(れた
父君(の
事(などを
懷(ひ
浮(べた
時(は、まあどんなに
悲(しかつたらう、
今(、
一片(のパンも
一塊(の
肉(もなき
此(みじめな艇中(を
見廻(して、
再(び
[#「再(び」は底本では「再(ひ」]私(の
顏(を
眺(めた
姿(は、
不憫(とも
何(とも
言(はれなかつた。
懷中時計(は
海水(に
濡(されて、
最早(物(の
用(には
足(らぬが、
時(は
午前(の十
時(と十一
時(との
間(であらう、
此時(不圖(心付(くと、
今迄(は、たゞ
浪(のまに〳〵
漂(つて
居(るとのみ
思(つて
居(つた
端艇(が、
不思議(にも
矢(のやうな
速力(で、
東北(の
方(から
西南(の
方(へと
流(れて
居(るのであつた。(
(磁石は無いが方角は太陽の位置で分る))
私(は
一時(は
喫驚(したが、よく
考(へると、これは
何(も
不思議(でない、
今迄(それと
心付(かなかつたのは、
縹渺(たる
大洋(の
面(で、
島(とか
舟(とか
比(べて
見(る
物(がなかつたからで、これはよく
有(る
事(だ。して
見(ると、
我(が
端艇(は、
何時(の
間(にか
印度洋(で
名高(い
大潮流(に
引込(まれたのであらう。
私(は
何(となく
望(のある
樣(に
感(じて
來(たよ。
思(ふに
此(潮流(は
ラツカデヴ群島(の
方面(から、
印度大陸(の
西岸(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、120-2]ぎて、
マダカツスル諸島(の
附近(より、
亞弗利加(の
南岸(に
向(つて
流(れて
行(くものに
相違(ない、すると
其間(には
船(に
見出(されるとか、
何國(かの
貿易港(へ
漂着(するとか、
兎角(して
救助(を
得(られぬ
事(もあるまいと
考(へたのである。
然(し、
世(の
中(の
萬事(は
左樣(幸運(く
行(くかどうだか。
此(潮流(の
指(して
行(く、
亞弗利加(の
沿岸(及(び
南太平洋(邊(には、
隨分(危險(な
所(が
澤山(ある、
却(て
食人國(とか、
海賊島(の
方(へでも
押流(されて
行(つたら、
夫(こそ
大變(!
然(し、
何(と
考(へたからとて
奈何(なるものか。たゞ
天命(!
天命(!
此時(今迄(は
晴朗(であつた
大空([#ルビの「おほぞら」は底本では「おほそら」]は、
見(る〳〵
内(に
西(の
方(から
曇(つて
來(て、
熱帶地方(で
有名(な
驟雨(が、
車軸(を
流(すやうに
降(つて
來(た。
海(の
面(は
瀧壺(のやうに
泡立(つて、
酷(いも
酷(くないも、
私(と
少年(とは、
頭(を
抱(へて、
艇(の
底(へ
踞(つてしまつたが、
其爲(に、
昨夜(海水(に
浸(されて、
今(漸(く
乾(きかけて
居(つた
衣服(は、
再(び
びつしよりと
濡(れてしまつた。あゝ
天(は
何(とて
斯(く
迄(無情(なると、
私(は
暫時(眞黒(な
雲(を
睨(んで、
只更(怨(んだが、
然(し
後(に
考(へると、
世(の
中(の
萬事(は
何(が
禍(となり、
何(が
幸福(となるか、
其時(ばかりでは
分(らぬのである。
此(驟雨(があつたばかりに、
其後(深(く
天(の
恩惠(を
感謝(する
時(が
來(た。
頓(て
雨(が
全(く
霽(れると
共(に、
今度(は
赫々(たる
太陽(は、
射(る
如(く
吾等(の
上(を
照(して
來(た。
印度洋(中(雨後(の
光線(はまた
格別(で、
私(は
炒(り
殺(されるかと
思(つた。
其時(第(一に
堪難(く
感(じて
來(たのは
渇(の
苦(、
茲(だ
禍(變(じて
幸(となると
言(つたのは、
普通(ならば、
漂流人(が、
第(一に
困窮(するのは
淡水(を
得(られぬ
事(で、
其爲(に十
中(八九は
斃(れてしまうのだが、
吾等(は
其(難(丈(けは
免(かれた。
先刻(瀧(のやうに
降注(いだ
雨水(は、
艇底(に
一面(に
溜(つて
居(る、
隨分(生温(い、
厭(な
味(だが
[#「味(だが」は底本では「味(だか」]、
其樣事(は云つて
居(られぬ。
兩手(に
掬(つて、
牛(のやうに
飮(んだ。
渇(の
止(まると
共(に
次(には
飢(の
苦(、あゝ
此樣(な
事(と
知(つたら、
昨夜(海中(に
飛込(む
時(に、「ビスケツト
[#「ビスケツト」は底本では「ピスケツト」]」の
一鑵(位(いは
衣袋(にして
來(るのだつたにと、
今更(悔(んでも
仕方(がない、
斯(うなると
昨夜(の
暖(な「スープ」や、
狐色(の「フライ」や、
蒸氣(のホカ〳〵と
立(つて
居(る「チツキンロース」などが、
食道(の
邊(にむかついて
來(る。そればかりか、
遠(い
昔(に、
燒肉(が
少(し
焦(げ
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、122-8]ぎて
居(るからと
怒鳴(つて、
肉叉(もつけずに
犬(に
喰(はせてしまつた
一件(や、「サンドウイツチ」は
職工(の
辨當(で
御坐(るなどゝ
贅澤(を
云(つて、
車(の
窓(から
投出(した
事(などを
懷想(して、つくづくと
情(なくなつて
來(た。
然(し
此(日(は、
無論(空腹(の
儘(に
暮(れて、
夜(は
夢(の
間(も、
始終(食物(の
事(を
夢(て
居(るといふ
次第(、
翌日(になると
苦(さは
又(一倍(、
少年(と
二人(で
色(青(ざめて、
顏(を
見合(はして
居(るばかり、
果(は
艇舷(の
材木(でも
打碎(いて、
粉(にして
飮(まんかとまで、
馬鹿(な
考(も
起(つた
程(で、
遂(に
日(は
暮(れ、
船底(を
枕(に
横(つたが、
其(夜(は
空腹(の
爲(に
終夜(眠(る
事(が
出來(なかつた。
苦(しき
夜(は
明(けて、
太陽(はまたもや
現(はれて
來(たが、
私(は
最早(起直(つて
朝日(の
光(を
拜(する
勇氣(も
無(い、
日出雄少年(は
先刻(より
半身(を
擡(げて、
海上(を
眺(めて
居(つたが、
此時(忽(ち
大聲(に
叫(んだ。
『
巨大(な
魚(が!
巨大(な
魚(が!』
第十回
沙魚(の
水葬(
天の賜――反對潮流――私は黒奴、少年は炭團屋の忰――おや〳〵變な味になりました――またも斷食
少年(の
聲(に
飛起(き
海上(を
眺(めた
私(は
叫(んだ。
『
沙魚(の
領海(!
沙魚(の
領海(!』
沙魚(の
領海(とは
隨分(奇妙(な
名稱(だが、
實際(印度洋(中(マルダイブ群島(から
數千里(南方(に
當(つて、
斯(る
塲所(のあるといふ
事(は、
甞(て
或(地理書(で
讀(んだ
事(があるが、
今(、
吾等(の
目撃(したのは
確(かにそれだ。
小(は四五
尺(より
大(は二三
丈(位(いの
數※([#「一/力」、124-5]の
沙魚(が、
群(をなして
我(端艇(の
周圍(に
押寄(せて
來(たのである。
此(魚族(は、
極(めて
性質(の
猛惡(なもので、
一時(に
斯(く
押寄(せて
來(たのは、
疑(もなく、
吾等(を
好(き
餌物(と
認(めたのであらう。
私(も
其(群(を
見(て
忽(ち
野心(が
[#「野心(が」は底本では「野心(か」]起(つた。
今(かく
空腹(を
感(じて
居(る
塲合(に、あの
魚(を一
尾(捕(へたらどんなに
嬉(しからうと
考(へたが、
網(も
釣道具(も
無(き
身(のたゞ
心(を
焦(つばかりである。
此時(不意(に、
波間(から
跳(つて、
艇中(に
飛込(んだ
一尾(の
小魚(、
日出雄少年(は
小猫(の
如(く
身(を
飜(して、
捕(つて
押(へた。『に、
逃(しては。』と
私(も
周章(てゝ、
其(上(に
轉(びかゝつた。
此時(の
嬉(しさ!
見(ると一
尺(位(いの
鰺(で、
巨大(なる
魚群([#ルビの「ぎよぐん」は底本では「ぎよぐく」]に
追(はれた
爲([#ルビの「ため」は底本では「た」]に、
偶然(にも
艇中(に
飛込(んだのである。
天(の
賜(と
私(は
急(ぎ
取上(げた。
實(は、
少年(と
共(に、
只(一口(に、
堪難(き
空腹(を
滿(したきは
山々(だが、
待(てよ、
今(此(小(さい
魚(を、
周章(てゝ
平(げたとて
何(になる、
農夫(は
如何(に
飢(ても、
一合(の
麥([#ルビの「むぎ」は底本では「むき」]を
食(はずに
地(に
播(いて
一年(の
策(をする、
私(も
此(小(さい
魚(を百
倍(にも
二百倍(にもする
工夫(の
無(いでもない、よし
此(小鰺(で、あの
巨大(な
沙魚(を
釣(つてやらうと
考(へたので、
少年(に
語(ると
少年(も
大賛成(、
勿論(釣道具(は
無(いが、
幸(にも
艇中(には
端艇(を
本船(に
引揚(げる
時(に
使用(する
堅固(なる
鐵鎖(と、それに
附屬(して
鉤形(の「
Hook(」が
殘(つて
居(つたので、それを
外(して、
鉤(に
只今(の
小鰺(を
貫(いてやをら
立上(つた。
天涯(渺茫(たる
絶海(の
魚族(は、
漁夫(の
影(などは
見(た
事(もないから、
釣(れるとか
釣(れぬとかの
心配(は
入(らぬ、けれど
餘(りに
巨大(なるは、
端艇(を
覆(へす
懼(があるので
今(しも
右舷(間近(に
泳(いで
來(た三四
尺(の
沙魚(、『
此奴(を。』と
投込(む
餌(の
浪(に
沈(むか
沈(まぬに、
私(は『やツ。しまつた。』と
絶叫(したよ。
海中(の
魚族(にも、
優勝劣敗(の
數(は
免(かれぬと
見(へ、
今(小(い
沙魚(の
泳(いで
[#「泳(いで」は底本では「泳(いて」]居(つた
波(の
底(には、
驚(く
可(き
巨大(の一
尾(が
居(りて、
稻妻(の
如(く
躰(を
跳(らして、
只(一
口(に
私(の
釣(ばりを
呑(んでしまつたのだ。
忽(ち、
潮(は
泡立(ち、
波(は
逆卷(いて、
其邊(海嘯(の
寄(せた
樣(な
光景(、
私(は
一生懸命(に
鐵鎖(を
握(り
詰(めて、
此處(千番(に
一番(と
氣(を
揉(んだ。もとより
斯(る
巨魚(の
暴(れ
狂(ふ
事(とてとても、
引上(げる
[#「引上(げる」は底本では「引上(ける」]どころの
騷(でない、
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、126-10]てば
端艇(諸共(海底(に
引込(まれんず
有樣(、けれど
此時(此(鐵鎖(が
如何(して
放(たれやうぞ、
沙魚(が
勝(つか、
私(が
負(けるか、
釣(れると
釣(れぬは
生死(の
分(れ
目(、
日出雄少年(は
眼(をまんまるにして、
此(凄(まじき
光景(を
眺(めて
居(つたが、
可憐(の
姿(は
後(から
私(を
抱(き
『オヽ、
危(い
事(!
危(い
事(!。』と
叫(ぶ。
『なに、なに、
大丈夫(!
大丈夫(!。』と
私(は
眞赤(になつて
仁王(の
如(く
屹立(つた。
兎角(する
間(に
今迄(は、
其邊(を
縱横(に
暴廻(つて
居(つた
沙魚(は、
其(氣味惡(き
頭(を
南方(に
向(けて、
恰(も
矢(を
射(るやうに
駛(り
出(した。
端艇(も
共(に
曳(かれて、
疾風(のやうに
駛(るのである。
私(はいよ〳〵
必死(だ。
『さあ、
斯(うなつたら
逃(す
事(でないぞ。』と
最早(腹(の
空(しい
事(も、
命(の
危險(な
事(も、
悉皆(忘(れてしまつた。
兎角(して
約(三
時間(ばかりは、
狂(ひ
走(る
沙魚(のために
曳(かれて、いつしか
潮(の
流(をも
脱(し、
沙魚(の
領海(からはすでに十四五
海里(も
距(つたと
思(ふ
頃(、
流石(に
猛惡(なる
魚(も
遂(に
疲勞(れ
斃(れて、
其(眞白(なる
腹部(を
逆(に
海面(に
泛(んだ。ほつと
一息(、
引上(げて
見(ると、
思(つたより
巨大(な
魚(で、
殆(んど
端艇(の
二分(の
一(を
塞(いでしまつた。
『まあ、
醜(い
魚(です
事(。』と
少年(は
氣味惡(相(に、
其(堅固(なる
魚頭(を
叩(いて
見(た。
『はゝゝゝゝ。
酷(い
目(に
逢(つたよ。
然(しこれで
當分(餓死(する
氣遣(はない。』と
私(は
直(ちに
小刀(を
取出(した。
勿論(沙魚(といふ
魚(は
左程(美味(なものではないが、
此(塲合(には
いくら喰(つても
喰足(らぬ
心地(。
『
日出雄(さん、
餘(りやると
胃(を
損(じますよ。』と
氣遣(顏(の
私(さへ、
其(生臭(い
肉(を
口中(充滿(に
頬張(つて
居(つたのである。
此(大漁獲(があつたので、
明日(からは
餓死(の
心配(はないと
思(ふと、
人間(は
正直(なもので、
其(夜(の
夢(はいと
安(く、
朝(の
寢醒(も
何時(になく
胸(穩(であつた。
其(翌日(は、
漂流(以來(はじめて
少(し
心(が
落付(いて、
例(の
雨水(を
飮(み、
沙魚(の
肉(に
舌皷(打(ちつゝ、
島影(は
無(きか、
船(の
煙(は
見(へぬかと
始終(氣(を
配(る、けれど
此(日(は
何物(も
眼(を
遮(るものとてはなく、
其(翌日(も、
空(しく
蒼渺(たる
大海原(の
表面(を
眺(むるばかりで、たゞ
我(端艇(は
沙魚(の
爲(に
前(の
潮流(を
引出(だされ、
今(は
却(て
反對流(とて、
今度(は
西南(から
東方(に
向(ひ、
マルヂヴエ群島(の
邊(から
南方(に
向(つて
走(るなる、
一層(流勢(の
速(い
潮流(に
吸込(まれて
居(ると
覺(つた
時(、
思(はず
驚愕(の
聲(を
發(した
事(と、
甞(て
物(の
本(で
讀(んだ
夥(しき
鯨(の
群(を
遙(の
海上(に
眺(めた
事(の
他(は、
何(の
變(つた
事(もない。
勿論(、
今(の
境涯(とて
决(して
平和(な
境涯(ではないが、すでに
腹(に
充分(の
力(があるので、
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、129-11]る
日(よりは
餘程(元氣(もよく、
赫々(たる
熱光(の
下(、
日出雄少年(は
私(の
顏(を
見詰(めて『おや〳〵、
叔父(さんは
何時(の
間(にか、
黒奴(になつてしまつてよ。』と
自分(の
顏(は
自分(には
見(えず、
昨日(の
美少年(も、
今(は
日(に
燒(け、
潮風(に
吹(かれて、
恰(も
炭團屋(の
長男(のやうになつた
事(には
氣(の
付(かぬ
無邪氣(さ、
只更(私(の
顏(を
指(し
笑(つたなど、
苦(しい
間(にも
隨分(滑※([#「(禾+尤)/上/日」、130-5]な
話(だ。
其日(も
暮(れ、
翌日(は
來(つたが
矢張(水(や
空(なる
大洋(の
面(には、
一點(の
島影(もなく、
船(の
煙(も
見(えぬのである。
然(るに
茲(に
一大(事件(が
起(つた。それは
他(でもない、
吾等(が
生命(の
綱(と
頼(む
沙魚(の
肉(がそろ〳〵
腐敗(し
始(めた
事(である。
最初(から
多少(此(心配(の
無(いでもなかつたが、
兎(に
角(、
世(に
珍(らしき
巨大(の
魚(の、
左樣(容易(に
腐敗(する
事(もあるまいと
油斷(して
居(つたが、
其(五日目(の
朝(、
私(はふとそれと
氣付(いた。
然(し
今(の
塲合(何(も
言(はずに
辛抱(して
喰(つたが、
印度洋(の
炎熱(が、
始終(其上(を
燒(く
樣(に
照(して
居(るのだから
堪(らない、
其(晝食(の
時(、
一口(口(にした
無邪氣(の
少年(は、
忽(ち
其(肉(を
海上(に
吐(き
出(して、
『おや〳〵、どうしたんでせう、
此(魚(は
變(な
味(になつてよ。』と
叫(んだのは、
實(に
心細(い
次第(であつた。
夕方(になると、
最早(畢世(の
勇氣(を
振(つても、とても
口(へ
入(れる
心(は
出(ぬ。さりとて
此(大事(な
生命(の
綱(を、むさ〴〵
海中(に
投棄(てるには
忍(びず、なるべく
艇(の
隅(の
方(へ
押遣(つて、またもや四五
日(前(のあはれな
有樣(を
繰返(して
一夜(を
明(したが、
翌朝(になると、ほと〳〵
堪(えられぬ
臭氣(、
氣(も、
魂(も、
遠(くなる
程(で、
最早(此(腐(つた
魚(とは
一刻(も
同居(し
難(く、
無限(の
恨(を
飮(んで、
少年(と
二人(で、
沙魚(の
死骸(をば
海底(深(く
葬(つてしまつた。
サア、これからは
又々(斷食(、
此(日(も
空(しく
暮(れて
夜(に
入(つたが、
考(へると
此後(吾等(は
如何(になる
事(やら、
絶望(と
躍氣(とに
終夜(眠(らず、
翌朝(になつて、
曉(の
風(はそよ〳〵と
吹(いて、
東(の
空(は
白(んで
來(たが、
最早(起上(る
勇氣(もない、『えい、
無益(だ〳〵、
糧食(は
盡(き、
船(は
見(えず、
今更(たよる
島(も
無(い。』と
思(はず
叫(んだが、
不圖(傍(に
日出雄少年(が
安(らかに
眠(つて
居(るのに
心付(き、や、
詰(らぬ
事(をと、
急(ぎ
其方(を
見(ると
少年(は、
今(の
聲(に
驚(き
目醒(め、むつと
起(きて、
半身(を
端艇(の
外(へ
出(したが、
忽(ち
驚(き
悦(の
聲(で
『
島(が!
島(が!
叔父(さん、
島(が!
島(が!。』
『
島(がツ。』と
私(も
蹴鞠(のやうに
跳起(きて
見(ると、
此時(天(全(く
明(けて、
朝霧(霽(れたる
海(の
面(、
吾(が
端艇(を
去(る
事(三海里(ばかりの、
南方(に
當(つて、
椰子(、
橄欖(の
葉(は
青
(と
茂(つて、
磯(打(つ
波(は
玉(と
散(る
邊(、
一個(の
島(が
横(つて
居(つた。
第十一回
無人島(の
響(
人の住む島か、魔の棲む島か――あら、あの音は――奇麗な泉――ゴリラの襲來――水兵ヒラリと身を躱した――海軍士官の顏
此(島(は、
遠(くから
望(むと、
恰(も
犢牛(の
横(つて
居(る
樣(な
形(で、
其(面積(も
餘程(廣(い
樣(だ。
弦月丸(の
沈沒(以來(十
數日間(は、
青(い
空(と、
青(い
波(の
外(は
何(一つも
眺(めた
事(のない
吾等(が、
不意(に
此(島(を
見出(した
時(の
嬉(しさ、
翅(あらば
飛(んでも
行(きたき
心地(、けれど
悲(しや、
心付(くと
吾(端艇(には
帆(もなく、
櫂(も
無(い。
近(い
樣(でも
海上(の三
里(は
容易(でない、
無限(の
大海原(に
漂(つて
居(つた
間(こそ、
島(さへ
見出(せば、
直(ちに
助(かる
樣(に
考(へて
居(つたが、
仲々(左樣(は
行(かぬ。まご〳〵して
居(れば
再(び
何處(へ
押流(されてしまうかも
分(らぬ。
今(は
躊躇(しては
居(られぬ
塲合(、
私(は
突如(眞裸(になつて
海中(へ
跳込(んだ
[#「跳込(んだ」は底本では「跳込(んた」]、
隨分(覺束(ない
事(だが、
泳(ぎながらに、
端艇(をだん〴〵と
島(の
方(へ
押(して
行(かんとの
考(、
艇中(からは
日出雄少年(、
楓(のやうな
手(で
頻(りに
波(を
掻分(けて
居(る、
此樣(事(で、
舟(は
動(くか
動(かぬか、
其(遲緩(さ。けれど
吾等(の
勞力(は
遂(に
無益(とならで、
漸(の
事(で
島(に
着(いたのは、かれこれ
小半日(も
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、134-5]てから
後(の
事(、
僅(か
三里(の
波(の
上(を、
六時間(以上(とは
甚(だ
遲(い
速力(ではあるが、それでも
私(は
死(ぬ
程(辛苦(かつた。
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、134-7]る十
有餘日(の
間(、よく
吾等(の
運命(を
守護(して
呉(れた
端艇(をば、
波打際(にとゞめて
此(島(に
上陸(して
見(ると、
今(は五
月(の
中旬(すぎ、
翠(滴(らんばかりなる
樹木(は
島(の
全面(を
蔽(ふて、
遙(か
向(ふは、
野(やら、
山(やら、
眼界(も
屆(かぬ
有樣(。
吾等(の
上陸(した
邊(は
自然(の
儘(なる
芝原(青々(として、
其處此處(に、
名(も
知(れぬ
紅白(さま〴〵の
花(が
咲亂(れて、
南(の
風(がそよ〳〵と
吹(くたびに、
陸(から
海(までえならぬ
香氣(を
吹(き
送(るなど、たゞさへ
神仙(遊樂(の
境(、
特(に
私共(は、
極端(なる
苦境(から、
此(極端(なる
樂境(に
上陸(した
事(とて、
初(めは
自(ら
夢(でないかと
疑(はるゝばかり。さあ
斯(うなると
今迄(張詰(めて
居(つた
氣(も
幾分(か
緩(んで
來(て、
疲勞(も
飢(も
感(じて
來(る。
斯程(の
島(だから、
何(か
食物(の
無(い
事(もあるまいと
四方(を
見渡(すと、
果(して二三
町(距(つた
小高(い
丘(の
中腹(に、
一帶(の
椰子(、バナヽの
林(があつて、
甘美(しき
果實(は
枝(も
垂折(れんばかりに
成熟(して
居(る。
二人(は
宙(飛(ぶ
如(く
驅付(けて、
喰(ふた
喰(はぬは
言(ふ
丈(け
無益(、
頓(て
腹(も
充分(になると、
次(に
起(つて
來(た
問題(は、
一躰(此(島(は
如何(なる
島(だらう、
見渡(す
處(、
隨分(巨大(な
島(の
樣(だが、
世界輿地圖(の
表面(に
現(はれて
居(るものであらうか、
矢張(印度洋(中(の
孤島(だらうか、それともズツト
東方(に
偏(して、
ボル子オ群島(の一つにでも
屬(して
居(るのではあるまいか。
氣※([#「候」の「ユ」に代えて「工」、135-12]の
工合(や、
草木(の
種類(などで
觀(ると、
亞弗利加(の
沿岸(にも
近(い
樣(な
氣持(もする。
然(し
此樣(な
事(は
如何(に
考(へたとて
分(る
筈(のものでない、それよりは
此(島(は
元來(無人島(か、
否(かゞ
一大(問題(だ、
無人島(ならばそれ〳〵
別(に
覺悟(する
處(もあるし、よし
人(の
住居(して
居(る
島(にしても、
懼(る
可(き
野蠻人(の
巣窟(でゞもあればそれこそ
一大事(、
早速(遁出(す
工夫(を
廻(らさねばならぬ、それを
知(るには
兎(も
角(も
此(島(を
一周(して
見(なければならぬと
考(へたので、
少年(と
手(を
携(へてそろ〳〵と
歩(み
出(した。
島(の
一周(といつて、
此(島(はどの
位(い
廣(いものやら、また
道中(に
如何(なる
危險(があるかも
分(らぬが、
此處(に
漠然(として
居(つて、
島(の
素性(も
分(らず
氣味惡(く
一夜(を
明(すよりは
勝(だと
考(へたので、
之(より
足(の
續(かん
限(り
日(の
暮(るゝ
迄(進(んで
見(る
積(りだ。
先(づ
進行(の
方向(を
定(めねばと、
吾等(は
林(の
間(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、136-12]ぎて
丘(の
絶頂(に
登(つた。
眺望(すると、
北(の
一方(は
吾等(が
渡(つて
來(た
大洋(で、
水天髣髴(として
其(盡(る
所(を
知(らず、
眼下(に
瞰(おろす
海岸(には、
今(乘捨(てゝ
來(た
端艇(がゆらり〳〵と
波(に
揉(まれて、
何時(の
間(に
集(つて
來(たか、
海鳥(の
一簇(が
物珍(らし
相(に
其(周圍(を
飛廻(つて
居(る。
東(と
西(と
南(の
三方(は
此(島(の
全面(で、
見渡(す
限(り
青々(とした
森(つゞき、
處々(に
山(もある、
谷(も
見(える、また
(か〳〵の
先方(に
銀色(の
一帶(の
隱見(して
居(るのは、
其邊(に
一流(の
河(のある
事(が
分(る。
私(は
此(光景(を
見(て
實(に
失望(した、
見渡(した
所(此(島(の
模樣(は
疑(もなき
無人島(! かく
全島(が
山(と、
森(と、
谷(とで
蔽(はれて
居(つては、
今更(何處(へと
方向(を
定(める
事(も
出來(ぬのである、
之(からあんな
深山幽谷(に
進入(するのは、
却(て
危險(を
招(くやうなものだから、
島(の
探險(は
一先(づ
中止(して、
兎(も
角(も
再(び
海岸(に
皈(らんと
踵(を
廻(らす
途端(、
日出雄少年(は
急(に
歩(を
停(めて
『あら、あの
音(は?。』と
眼(を
(つた。
『
音(?。』と
私(も
思(はず
立止(つて
耳(を
濟(すと、
風(が
傳(て
來(る
一種(の
響(。
全(く
無人島(と
思(ひきや、
何處(ともなく、トン、トン、カン、カン、と
恰(も
谷(の
底(の
底(で、
鐵(と
鐵(とが
戞合(つて
居(るやうな
響(。
『
鐵槌(の
音(!。』と
私(は
小首(を
傾(けた。
此樣(な
孤島(に
鍛冶屋(などのあらう
筈(はない、
一時(は
心(の
迷(かと
思(つたが、
决(して
心(の
迷(ではなく、
寂莫(たる
空(にひゞひて、トン、カン、トン、カンと
物凄(い
最早(疑(はれぬ。けれど
私(は
心付(くと、
響(の
源(は
决(して
近(い
所(ではなく、
四邊(がシーンとして
居(るので
斯(く
鮮(かに
聽(えるものゝ、
少(くも三四
哩(の
距離(は
有(るだらう、
何(は
兎(もあれ
斯(る
物音(の
聽(ゆる
以上(は、
其處(に
何者(かゞ
居(るに
相違(ない、
人(か、
魔性(か、
其樣(な
事(は
考(へて
居([#ルビの「を」は底本では「をら」]られぬ、
兎(に
角(探險(と
覺悟(したので、そろ〳〵と
丘(を
下(つた。
丘(を
下(つて
耳(を
澄(すと、
響(は
何(んでも、
島(の
西南(に
當(つて
一個(の
巨大(な
岬(がある、
其(岬(を
越(えての
彼方(らしい。
いよ〳〵
探險(とは
决心(したものゝ、
實(は
薄(氣味惡(い
事(で、
一體(物音(の
主(も
分(らず、また
行(く
道(にはどんな
災難(が
生(ずるかも
分(らぬので、
私(は
萬一(の
塲合(を
慮(つて、
例(の
端艇(をば
波打際(にシカと
繋止(め、
何時(危險(に
遭遇(して
遁(げて
來(ても、
一見(して
其(所在(が
分(るやうに、
其處(には
私(の
白(シヤツを
裂(いて
目標(を
立(て、
勢(を
込(めて
少年(と
共(に
發足(した。
海岸(に
沿(ふて
行(く
事(七八
町(、
岩層(の
小高(い
丘(がある、
其(丘(を
越(ゆると、
今迄(見(えた
海(の
景色(も
全(く
見(えずなつて、
波(の
音(も
次第(〳〵に
遠(く〳〵。
此時(少年(は
餘程(疲勞(れて
見(えるので、
私(は
肩車(に
乘(せて
進(んだ。
誰(でも
左樣(だが、
餘(りにシーンとした
處(では、
自分(の
足音(さへ
物凄(い
程(で、とても
談話(などの
出來(るものでない。
斯(る
島(の
事(とて、
路(などのあらう
筈(はなく、
熊笹(の
間(を
掻分(けたり、
幾百千年(來(積(り
積(つて、
恰(も
小山(のやうになつて
居(る
落葉(の
上(を
踏(んだり、また
南半球(に
特有(の
黄乳樹(とて、
稍(にのみ
一團(の
葉(があつて、
幹(は
丁度(天幕(の
柱(のやうに、
數百間(四方(規則正(しく
並(んで
居(る
奇妙(な
林(の
下(を
(つたりして、
道(の
一里半(も
歩(んだと
思(ふ
頃(、
一個(の
泉(の
傍(へ
來(た。
清(らかな
水(が
滾々(と
泉(み
流(れて、
其邊(の
草木(の
色(さへ
一段(と
麗(はしい、
此處(で
一休憩(と
腰(をおろしたのは、かれこれ
午後(の五
時(近(く、
不思議(なる
響(は
漸(く
近(くなつた。
日出雄少年(は、
其(泉(の
流(に
美麗(なる
小魚(を
見出(したとて、
魚(を
追(ふに
餘念(なき
間(、
私(は
唯(ある
大樹(の
蔭(に
横(つたが、いつか
睡魔(に
襲(はれて、
夢(となく
現(となく、いろ〳〵の
想(に
包(まれて
居(る
時(、
不意(に
少年(は
私(の
膝(に
飛皈(つた。『
大變(よ〳〵、
叔父(さん、
猛獸(が〳〵。』と
私(の
肩(に
手(を
掛(けて
搖(り
醒(す。
『
猛獸(がツ。』と
私(は
夢(から
飛起(きた。
少年(の
指(す
方(を
眺(めると
如何(にも
大變(!
先刻(吾等(の
通※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、141-6]して
來(た
黄乳樹(の
林(の
中(より、
一頭(の
猛獸(が
勢(鋭(く
現(はれて
來(たのである。
『
猛狒(!。』と
私(の
身(の
毛(は
一時(に
彌立(つたよ。
世(に
獅子(が
猛烈(だの、
狼(が
兇惡(だのといつて、
此(猛狒(ほど
恐(ろしい
動物(はまたとあるまい、
動物園(の
鐵(の
檻(の
中(に
居(る
姿(でも、
一見(して
戰慄(する
程(の
兇相(、それが
此(深林(の
中(で
襲來(したのだから
堪(らない。
私(はハツト
思(つて
一時(は
遁出(さうとしたが、
今更(遁(げたとて
何(の
甲斐(があらう、もう
絶體絶命(と
覺悟(した
時(、
猛狒(はすでに
目前(に
切迫(した。
身長(七
尺(に
近(く、
灰色(の
毛(は
針(の
如(く
逆立(ち、
鋭(き
爪(を
現(はして、スツと
屹立(つた
有樣(は、
幾百十年(の
星霜(を
此(深林(に
棲暮(したものやら
分(らぬ。
猛惡(なる
猴(の
本性(として、
容易(に
手(を
出(さない、
恰(も
嘲(る
如(く、
怒(るが
如(く、
其(黄色(い
齒(を
現(はして、
一聲(高(く
唸(つた
時(は、
覺悟(の
前(とはいひ
乍(ら、
私(は
頭(から
冷水(を
浴(びた
樣(に
戰慄(した、けれど
今更(どうなるものか。
私(は
日出雄少年(を
背部(に
庇護(つて、キツと
猛狒(の
瞳孔(を
睨(んだ。すべて
如何(なる
惡獸(でも、
人間(の
眼光(が
鋭(く
其(面(に
注(がれて
居(る
間(は、
决(して
危害(を
加(へるものでない、
其(眼(の
光(が
次第々々(に
※([#「褒」の「保」に代えて「丑」、142-10]へて、
頓(て
茫乎(とした
虚(を
窺(つて、
只(一息(に
飛掛(るのが
常(だから、
私(は
今(喰殺(されるのは
覺悟(の
前(だが、どうせ
死(ぬなら
徒(は
死(なぬぞ、
斯(く
睨合(つて
居(る
間(に、
先方(に
卯(の
毛(の
虚(でもあつたなら、
機先(に
此方(から
飛掛(つて、
多少(の
痛(さは
見(せて
呉(れんと
考(へたので、
眼(を
放(たず
睥睨(して
居(る、
猛狒(も
益々(猛(く
此方(を
窺(つて
居(る、
此(九死一生(の
分(れ
目(、
不意(に、
實(に
不意(に、
何處(ともなく
一發(の
銃聲(。つゞいて
又(一發([#ルビの「いつぱつ」は底本では「いつはつ」]、
猛狒(は
思(ひがけなき
二發(の
彈丸(に
射(られて、
蹴鞠(のやうに
跳上(つた。
吾等(も
喫驚(して
其方(を
振向(くと、
此時(、
吾等(の
立(てる
處(より、
大約(二百ヤード
許(離(れた
森(の
中(から、
突然(現(はれて
來(た
二個(の
人(がある。
『や、や、
日本人(!
日本人(!。」と
少年(も
私(も
驚愕(と
喜悦(に
絶叫(したよ。
實(に
夢(ではあるまいか。
現(はれ
來(つた
二個(の
人(は
紛(ふ
方(なき
日本人(で、
一人([#ルビの「ひとり」は底本では「ひいり」]は
色(の
黒々(とした
筋骨(の
逞(ましい
水兵(の
姿(、
腰(に
大刀(を
横(へたるが、キツと
此方(を
眺(めた、
他(の
一人(は、
威風(凛々(たる
帝國海軍士官(の
服裝(、
二連銃(の
銃身(を
握(つて
水兵(を
顧見(ると、
水兵(は
勢(鋭(く五六
歩(此方(へ
走(り
近(づく、
此時(二發(の
彈丸(を
喰(つた
猛狒(は
吾等(を
打捨(てゝ、
奔馬(の
如(く
馳(せ
向(ひ、
一聲(叫(ぶよと
見(る
間(に、
電光(の
如(く
水兵(の
頭上(目掛(けて
飛掛(つた。
水兵(ヒラリと
身(を
躱(すよと
見(る
間(に、
腰(の
大刀(は
※手([#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、144-5]も
見(せず、
猛狒(の
肩先(に
斬込(んだ。
猛狒(怒(つて
刀身(を
双手(に
握(ると、
水兵(は
焦(つて
其(胸先(を
蹴上(げる、
此(大奮鬪(の
最中(沈着(なる
海軍士官(は
靜(かに
進(み
寄(つて、
二連銃(の
筒先(は
猛狒(の
心臟(を
狙(ふよと
見(えしが、
忽(ち
聽(ゆる
一發(の
銃聲(。七
尺(有餘(の
猛狒(は
苦鳴(をあげ、
鮮血(を
吐(いて
地上(に
斃(れた。
私(と
少年(とは
夢(に
夢見(る
心地(。
韋駄天(の
如(く
其(傍(に
走(り
寄(つた
時(、
水兵(は
猛獸(に
跨(つて
止(めの
一刀(、
海軍士官(は
悠然(として
此方(に
向(つた。
私(は
餘(りの
嬉(しさに
言(もなく、
其人(の
顏(を
瞻(めたが、
忽(ち
電氣(に
打(たれたかの
如(く
愕(き
叫(んだよ。
『やあ、
貴方(は
櫻木海軍大佐(
。』
大佐(も
愕然(として
私(の
顏(を
見詰(めたが
『や、
貴下(は――。』と
言(つた
儘(、
暫時(言葉(もなかつたのである。
櫻木海軍大佐(! 々々々。
此人(の
名(は
讀者(諸君(の
御記臆(に
存(して
居(るか
否(か。
私(が
子ープルス港(を
出港(のみぎり、
圖(らずも
注意(を
引(いた
反古(新聞(の
不思議(なる
記事(中(の
主人公(で、
既(に
一年半(以前(に
或(秘密(を
抱(いて、
部下(卅七
名(の
水兵等(と
一夜(奇怪(なる
帆走船(に
乘(じて、
本國(日本(を
立去(つた
人(、
其人(に
今(や
斯(かる
孤島(の
上(にて
會合(するとは、
意外(も、
意外(も、
私(は
暫時(五里霧中(に
彷徨(したのである。
第十二回
海軍(の
家(
南方の無人島――快活な武村兵曹――おぼろな想像――前は絶海の波、後は椰子の林――何處ともなく立去つた
櫻木海軍大佐(は
暫時(して
口(を
開(いた。
『
實(に
意外(です、
君(が
此樣(な
絶島(へ――。』といひつゝ、
染々(と
吾等(兩人(の
姿(を
打瞻(め
『
此處(は
印度洋(もズツト
南方(に
偏(した
無人島(で、
一番(に
近(い
マダカツスル群島(へも
一千哩(以上(、
亞細亞大陸(や、
歐羅巴洲(までは、
幾千幾百哩(あるか
分(らぬ
程(で、
到底(尋常(では
人(の
來(るべき
島(ではありませんが。』といと
審(かし
氣(なる
顏(。
『イヤ、
全(く
意外(です。』と
私(は
進寄(つた。
斯(る
塲合(だから、
勿論(委(しい
事(は
語(らぬが、
船(の
沈沒(から
此(島(へ
漂着(までの
大略(を
告(げると、
大佐(も
始(めて
合點(の
色(、
『
其樣(な
事(だらうとは
想(ひました、
實(に
酷(い
目(にお
逢(になりましたな。』と、
今(しも
射殺(したる
猛狒(の
死骸(に
眼(を
注(いで
『
實(は
先刻(急(に
思(ひ
立(つて、
此(兵曹(と
共(に
遊獵(に
出(たのが、
天幸(にも
君等(をお
助(け
申(す
事(になつたのです。』と
言(ひながら、
大空(を
仰(ぎ
見(て。
『いろ〳〵
委(しい
事(を
承(りたいが、
最早(暮(るゝにも
近(く、
此邊(は
猛獸(の
巣窟(ともいふ
可(き
處(ですから、
一先(づ
我(が
住家(へ。』と
銃(の
筒(を
擡(げた。
私(は
話(の
序(に、
日出雄少年(の
事(をば
一寸(語(つたので、
大佐(は
凛(たる
眼(を
少年(の
面(に
轉(じ
『おゝ、
可愛(らしい
兒(ですな。』と
親切(に
其(頭(を
撫(でつゝ、
吾等(の
傍(に
勇(ましき
面(して
立(てる
水兵(を
顧(み
『これ、
武村兵曹(、
此(少年(を
撫恤(つてあげい。』
言下(に
武村(と
呼(ばれたる
兵曹(は、つと
進寄(り
威勢(よく
少年(を
抱上(げて
『ほー、
可愛(らしい
少年(だ、サア
私(の
頭(へ
乘(つた〳〵。』と
肩車(に
乘(せて、ズン〳〵と
前(へ
走(り
出([#ルビの「だ」は底本では「た」]した。
櫻木海軍大佐等(の
住(へる
家(までは、
此處(から
一哩(程(ある
相(だ。
此時(ふと心(に
思(つたのは、
先刻(から
鐵(の
響(の
發(する
處(は
其處(ではあるまいか、
行(く
道中(、
大佐(はさま〴〵の
事(を
私(に
問(ひかけた。けれど、
私(は
大佐(の
今(の
境遇(に
就(いては、
一言(も
問(を
發(しなかつた。
差當(つて
尋(ねる
必要(も
無(く、また
容易(ならざる
大佐(の
秘密(をば、
輕率(に
問(ひかけるのは、
却(て
禮(を
失(すると
思(つたからで。
然(し
先夜(の
反古(新聞(の
記事(から
推及(して、
大佐(が
今(現(に
浮世(の
外(なる
此(孤島(に
在(る
事(、また
今(も
聽(ゆる
鐵(の
響(などから
考(へ
合(はせると
朧(ながらもそれと
思(ひ
當(る
節(の
無(いでもない。
櫻木海軍大佐(は
今([#ルビの「いま」は底本では「いは」]や
此(島(中(に
身(を
潜(めて
[#「身(を潜(めて」は底本では「身(をを潜(めて」]兼(て
企(つるといふ、
軍事上(の
大發明(に
着手(して
居(るのではあるまいか。
讀者(諸君(も
恐(らく
此邊(の
想像(は
付(くだらう。
猛狒(と
大奮鬪(の
塲所(から
凡(そ七八
町(も
歩(んだと
思(ふ
頃(、
再(び
海(の
見(える
所(へ
出(た。それから、
丘陵(二つ
越(え、
一筋(の
清流(を
渡(り、
薄暗(い
大深林(の
間(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、149-7]ぎ、
終(に
眼界(の
開(くる
所(、
大佐(の
家(を
眺(めた。
大佐(の
家(は、
海面(より
數百尺(高(き
斷崖(の
上(に
建(られ、
前(は
果(しなき
印度洋(に
面(し、
後(は
美麗(なる
椰子(の
林(に
蔽(はれて
居(る。
勿論(、
此樣(な
絶島(の
事(だから、
决(して
立派(な
建築(ではない、けれど
可(なり
巨大(な
板家(で、
門(には
海軍(の
家(と
筆太(に
記(され、
長(き、
不恰好(な
室(が
何個(も
並(んで
見(へるのは、
部下(卅七
名(の
水兵等(と
同居(の
爲(だらう。
二階(に
稍(や
體裁(よき
三個(の
室(、
其(一室(の
窓(に、
白(い
窓掛(が
風(に
搖(いで
居(る
所(は、
確(に
大佐(の
居間(と
思(はるゝ。
吾等(が
其(家(に
近(づいた
時(、
日出雄少年(を
肩(にした
武村兵曹(は
一散(に
走(つて
行(つて、
快活(な
聲(で
叫(んだ。
『サア、
皆(の
水兵(出(た〳〵、
大佐閣下(のお
皈(りだよ、それに、
珍(らしい
賓人(と、
可愛(らしい
少年(とが
御坐(つた、
早(く
出(て
御挨拶(申(せ〳〵。』
聲(に
應(じて、
家(に
殘(つて
居(つた
一團(の
水兵(は
一同(部室(から
飛(んで
出(た。いづれも
鬼神(を
挫(がんばかりなる
逞(ましき
男(が、
家(の
前面(に
一列(に
並(んで、
恭(しく
敬禮(を
施(した。
武村兵曹(は
彼等(の
仲間(でも
羽振(りよき
男(、
何(か
一言(二言(いふと、
勇(ましき
水兵(の
一團(は、
等(しく
帽(を
高(く
飛(して、
萬歳(を
叫(んだ、
彼等(は
其(敬愛(する
櫻木大佐(の
知己(たる
吾等(が、
無事(に
此(島(に
上陸(したる
事(を
祝(して
呉(れるのであらう。
大佐(は
此樣(を
見(て
微笑(を
泛(べた。
『
實(に
感謝(に
堪(えません。』と
私(は
不測(に
涙(の
流(るゝを
禁(じ
得(なかつた。
無邪氣(なる
日出雄少年(は
眼(を
まんまるにして、
武村兵曹(の
肩上(で
躍(ると。
快活(なる
水兵(の
一群(は
其(周圍(を
取卷(いて、『やあ、
可愛(らしい
少年(だ、
乃公(にも
借(せ〳〵。』と
立騷([#ルビの「たちさわ」は底本では「ちちさわ」]ぐ、
櫻木大佐(は
右手(を
擧(げて
『これ、
水兵(、
少年(は
痛(く
疲勞(て
居(る、あまり
騷(いではいかぬ』と
打笑(みつゝ
『それより
急(ぎ
新客(の
部室(の
仕度(をせよ、
部室(は
二階(の
第二號室(――
余(の
讀書室(を
片付(けて――。』と。
斯(く
命(じ
終(つた
大佐(は、
武村兵曹(の
肩(から
日出雄少年(を
抱(き
寄(せ、
私(に
向(つて
『
一先(づ
私(の
部室(へ。』と
前(に
立(つた。
導(かるゝまゝに
入込(んだのは、
階上(の
南端(の
一室(で、十
疊(位(いの
部室(、
中央(の
床(には
圓形(のテーブルが
据(へられ、
卓上(には、
地球儀(や
磁石(の
類(が
配置(され、
四邊(の
壁間(には
隙間(も
無(く
列國(地圖(の
懸(けられてあるなど、
流石(に
海軍士官(の
居室(と
見受(けられた。
大佐(の
好遇(にて、
此處(で、
吾等(は
水兵等(が
運(んで
來(た
珈琲(に
咽(を
霑(ほうし、
漂流(以來(大(に
渇望(して
居(つた
葉卷煙葉(も
充分(に
喫(ひ、また
料理方(の
水兵(の
手製(の
由(で、
極(めて
形(は
不細工(ではあるが、
非常(に
甘味(い
菓子(に
舌皷(打(ちつゝ、
稍(や十五
分(も
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、152-10]たと
思(ふ
頃(、
時計(は
午後(の
六時(を
報(じて、
日永(の五
月(の
空(も、
夕陽(西山(に
舂(くやうになつた。
此時(大佐(は
徐(かに
立上(り、
私(に
向(ひ
『
吾等(は
之(より
一定(の
職務(があるので、
暫時(失敬(、
君等(は
後(に
靜(に
休息(し
玉(へ、
私(は八
時(※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、153-3]再(び
皈(つて
來(て、
晩餐(をば
共(に
致(しませう。』と
言(ひ
殘(して
何處(ともなく
立去(つた。
後(へ
例(の
快活(なる
武村兵曹(がやつて
來(て、
武骨(なる
姿(に
似(ず
親切(に、
吾等(の
海水(に
染(み、
天日(に
焦(されて、ぼろ〳〵になつた
衣服(の
取更(へやら、
洗湯(の
世話(やら、
日出雄少年(の
爲(には、
特(に
小形(の「フランネル」の
水兵服(を、
裁縫係(の
水兵(に
命(ずるやら、いろ〳〵
取計(らつて
呉(れる、
其間(に、
大佐(より
命令(のあつた
吾等(の
居室(の
準備(も
出來(たので、
其處(に
導(かれ、
久々(にて
寢臺(の
上(へ
横(つた。はじめの
間(は
日出雄少年(も
私(も
互(に
顏(を
見合(せては
此(不思議(なる
幸運(をよろこび、
大佐等(の
懇切(なる
待遇(を
感謝(しつゝ、いろ〳〵と
物語(つて
居(つたが、
何時(か十
數日(以來(の
烈(しき
疲勞(の
爲(めに、
知(らず〳〵
深(き
夢(に
落(ちた。
第十三回
星影(がちら〳〵
歡迎(――春枝夫人は屹度死にません――此新八が先鋒ぢや――浪の江丸の沈沒――此島もなか〳〵面白いよ――三年の後
それから
幾時間(眠(つたか
知(らぬが、
不意(に
私(の
枕邊(で
『サア、
賓客(、もう
暗(くなりましたぜ、
大佐閣下(もひどくお
待兼(で、それに、
夕食(の
御馳走(も
悉皆(出來(て、
料理方(の
浪三(めが、
鳥(の
丸燒(が
黒焦(になるつて、
眼玉(を
白黒(にして
居(ますぜ。』と
大聲(に
搖醒(すものがあるので、
愕(いて
目(を
醒(すと、
此時(日(は
全(く
暮(れて、
部室(の
玻璃窓(を
透(して、
眺(むる
海(の
面(には、
麗(はしき
星影(がチラ々々と
映(つて
居(つた。
私(を
呼醒(したのは
快活(なる
武村兵曹(であつた。
其(右手(に
縋(つて、
可憐(なる
日出雄少年(はニコ〳〵しながら
『
叔父(さん、
私(はもう
顏(を
洗(つて
來(ましてよ。』と、
睡醒(に
澁(る
私(の
顏(を
仰(いだ。オヤ〳〵、
少年(にまで
寢太郎(と
見(られたかと、
私(は
急(ぎ
清水(に
顏(を
淨(め、
兵曹(の
案内(に
從(つて
用意(の
一室(へ
來(て
見(ると、
食卓(の
一端(には、
櫻木大佐(は二三の
重立(つた
水兵(を
相手(に、
談話(に
耽(つて
居(つたが、
吾等(の
姿(を
見(るより、
笑(を
此方(に
向(け
『
武村(が、とう〳〵
御安眠(を
妨害(しましたね。』と、
水兵(に
命(じて
二個(の
倚子(を
近寄(せた。
食卓(の
對端(には、
武村兵曹(他(三名(の
水兵(が
行儀(よく
列(び、
此方(には、
日出雄少年(を
中(に
挿(んで、
大佐(と
私(とが
右(と
左(に
肩(を
並(べて、
頓(て
晩餐(は
始(まつた。
洋燈(の
光(は
煌々(と
輝(いて、
何時(の
間(にか、
武骨(なる
水兵等(が、
優(しい
心(で
飾立(てた
挿花(や、
壁間(に『
歡迎(』と
巧妙(に
作(られた
橄欖(の
緑(の
葉(などを、
美(くしく
照(して
居(る。かゝる
孤島(の
事(だから、
御馳走(は
無(いがと
大佐(の
言譯(だが、それでも、
料理方(の
水兵(が
大奮發(の
由(で、
海鼈(の
卵子(の
蒸燒(や、
牡蠣(の
鹽
(や、
俗名(「イワガモ」とかいふ
此(島(に
澤山(居(る
鴨(に
似(て、
一層(味(の
輕(い
鳥(の
丸燒(などはなか〳〵の
御馳走(で、
今(の
私(の
身(には、
世界(第一(のホテルで、
世界(第一(の
珍味(を
供(せられたよりも
百倍(も
(しく
感(じた。
晩餐後(、
喫茶(がはじまると、
櫻木大佐(をはじめ
同席(の
水兵等(は、ひとしく
口(を
揃(へて『
御身(が
此(島(へ
漂着(の
次第(を
悉(しく
物語(り
玉(へ。』といふので、
私(は
珈琲(を
一口(飮(んで、
徐(ろに
語(り
出(した。
先(づ、
私(が
世界(漫遊(の
目的(で、
横濱(の
港(を
出港(した
事(から、はじめ
米國(に
渡(り、それより
歐羅巴(諸國(を
遍歴(した
次第(。
伊太利(の
國(子ープルス港(で、
圖(らずも
昔(の
學友(、
今(は
海外(貿易商會(の
主人(として、
巨萬(の
富(を
重(ねて
居(る
濱島武文(に
邂逅(ひ、
其處(で、
彼(が
妻(なる
春枝夫人(と
其(愛兒(日出雄少年(とに
對面(なし、
不思議(なる
縁(につながれて、
三人(は
日本(へ
皈(らんと、
弦月丸(に
同船(した
事(、
出帆(前(、
亞尼(といへる
御幣擔(ぎの
伊太利(の
老女(が、
船(の
出帆(が
魔(の
日(魔(の
刻(に
當(るとて、
切(に
其(夜(の
出發(を
止(めた
事(。
怪(の
船(の
双眼鏡(一件(、
印度洋上(の
大遭難(の
始末(、
其時(春枝夫人(の
殊勝(なる
振舞(、さては
吾等(三人(が
同時(に、
弦月丸(の
甲板(から
海中(に
飛込(んだのに
拘(らず、
春枝夫人(のみは
行方(知(れずなつた
事(、それより
漂流中(いろ〳〵の
艱難(を
經(て、
漸(く
此(島(へ
漂着(した
迄(の
有樣(を
脱漏(もなく
語(ると、
聽(く
人(、
或(は
驚(き、
或(は
嘆(じ、
武村兵曹(は
木像(のやうになつて、
眼(を
巨大(くして、
息(をも
吐(かず
聽(いて
居(る、
其他(の
水兵(も
同(じ
有樣(。
語(り
終(つた
時(、
櫻木海軍大佐(は
靜(かに
顏(を
上(げた。
『
實(に、
君(の
經歴(は
小説(のやうです。』と
言(つた
儘(、
暫時(私(の
顏(を
瞻(めて
居(つたが、
物語(の
中(でも、
春枝夫人(の
殊勝(なる
振舞(には、
少([#ルビの「すく」は底本では「すな」]なからず
心(を
動(かした
樣子(。
特(に
櫻木大佐(は、
春枝夫人(の
令兄(なる
松島海軍大佐(とは、
兄弟(も
及(ばぬ
親密(なる
間柄(で、
大佐(がまだ
日本(に
居(つた
頃(は
始終(徃來(して、
其頃(、
乙女(であつた
春枝孃(とは、
幾度(も
顏(を
合(した
事(もある
相(で、
今(其(美(はしく
殊勝(なる
夫人(が、
印度洋(の
波間(に
見(えずなつたと
聞(いては、
他事(と
思(はれぬと、そゞろに
哀(を
催(したる
大佐(は、
暫時(して
口(を
開(いた。
『けれど、
私(は
常(に
確信(して
居(ます、
天(には
一種(の
不思議(なる
力(があつて、
身(も
心(も
美(くしき
人(は、
屡々(九死(の
塲合(に
瀕(しても、
意外(の
救助(を
得(る
事(のあるものです。』と
言(ひながら
今(しも
懷(かしき
母君(の
噂(の
出(でたるに、
逝(にし
夜(の
事(ども
懷(ひ
起(して、
愁然(たる
日出雄少年(の
頭髮(を
撫(でつゝ
『
私(はどうも
春枝夫人(は、
其後(無事(に
救(はれた
樣(に
想(はれる。
此樣(な
事(を
云(ふと
妙(だが、
人(は
[#「人(は」は底本では「人(はは」]一種(の
感應(があつて、
私(の
如(きは
昔(からどんな
遠方(に
離(れて
居(る
人(でも、『あの
人(は
未(だ
無事(だな』と
思(つて
居(る
人(に、
死(だ
例(はないのです。それで、
私(は
今(、
春枝夫人(が
波間(に
沈(んだと
聞(いても、どうも
不幸(なる
最後(を
遂(げられたとは
思(はれない、
或(は
意外(の
救助(を
得(て、
子ープルスなる
良君(の
許(へ
皈(つて、
今頃(は
却(て、
君等(の
身(の
上(を
憂慮(て
居(るかも
知(れませんよ。』と
言葉(を
切(つて、
淋(し
相(に
首(項垂(れて
居(る
日出雄少年(の
項(に
手(を
掛(け
『それに
就(けても、
惡(む
可(きは
海賊船(の
振舞(、かゝる
惡逆無道(の
船(は、
早晩(木葉微塵(にして
呉(れん。』と、
明眸(に
凛乎(たる
光(を
放(つと、
聽(く
日出雄少年(は、プイと
躍立(つて。
『
眞個(に〳〵、
海軍(の
叔父(さんが
海賊船(を
退治(するなら、
私(は
敵(の
大將(と
勝負(を
决(しようと
思(ふんです。』
『
其處(だツ、
日本男兒(の
魂(は――。』と
木像(のやうに
默(つて
居(つた
武村兵曹(は
不意(に
叫(んだ。
『
其時(は、
此(武村新八郎(が
先鋒(ぢや〳〵。』と
威勢(よくテーブルの
上(を
叩(き
廻(すと、
皿(は
跳(つて、
小刀(は
床(に
落(ちた。それから、
例(の
魔(の
日(魔(の
刻(の
一件(に
就(いては、
水兵(一同(は
私(と
同(じ
樣(に、
無※([#「(禾+尤)/上/日」、160-9]な
話(だと
笑(つてしまつたが、
獨(櫻木大佐(のみは
笑(はなかつた。
無論(、
縁起的(には、
其樣(な
事(は
信(ぜられぬが、かの
亞尼(とかいへる
老女(は、
何(かの
理由(で、
海賊船(が
弦月丸(を
狙(つて
居(る
事(をば、
豫(め
知(つて
居(つたのかも
知(れぬ。それが
或(事情(の
爲(めに
明言(する
事(も
出來(ず、さりとて
主家(の
大難(を
知(らぬ
顏(に
打※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、161-2]るにも
忍(びで、かくは
縁起話(に
托言(けて、
其(夜(の
出發(を
止(めたのかも
知(れぬ。と
語(つた。
成程(斯(う
聽(いて
見(れば、
私(も
思(ひ
當(る
節(の
無(いでもない。また、
海賊船(海蛇丸(の
一條(については、
席上(いろ〳〵な
話(があつた。
大佐(の
語(る
處(によると、
海賊島(云々(の
風聞(も
實際(の
事(で、
其(海賊(仲間(と
或(強國(との
間(に、
一種(の
密約(の
存(して
居(る
事(も、
海事(に
審(しき
船員(社會(には、
殆(ど
公然(の
秘密(となつて
居(る
由(。かゝる
惡魔(はどうしても
塵殺(しなければならぬと、
水兵等(一同(の
意氣組(。
さてまた、
弦月丸(沈沒(の
間際(に、
船長(をはじめ
船員(一同(の
醜態(は、
聽(く
人(愕(き
怒(らざるなく、
短氣(の
武村兵曹(は
眼(を
光(らして
『やあ〳〵、
呆(れた
人間(共(だ、
其樣(な
臆病(な
船長(なんかは、
逃(げたとてどうせ
六(な
事(はあるまい、
波(でも
喰(つて
斃死(つてしまつたらうが、
※一([#「一/力」、162-2]生(きてゞも
居(やうものなら、
此(武村新八(が
承知(しねえ、
世間(の
見懲(に、
一(ツ
横(ツ
腹(でも
蹴破(つて
呉(れようかな。』と
怒鳴(る。
大佐(は
笑(ひ、
水兵等(は
腕(を
叩(き、
日出雄少年(と
私(とは
爽快(に
顏(を
見合(はした。
斯(る
物語(に
不知不測(夜(を
更(し、
頓(て
私(の
遭難(實談(も
終(ると、
櫻木大佐(は、
此時(稍(や
面(を
改(めて
私(に
向(つた。
『
今迄(のお
話(で、
君(が
此(島(へ
漂着(の
次第(は
分(つたが、さて
此後(は
如何(になさる
御决心(です。』
决心(如何(といふのは、
吾等(兩人(かゝる
絶島(に
漂着(した
今(、
無理(にも
本國(へ
皈(りたいか、
又(は
或(便宜(を
得(るまで、
大佐等(と
此(島(に
滯在(する
覺悟(があるかとの
問(だと
私(は
考(へたので、
無論(、
一日(も
速(かに
日本(へ
皈(りたいのは
山々(だが、
前後(の
事情(を
察(すると、
今(此人(に
向(つて、
其樣(な
我儘(は
言(はれぬのである。で
私(は
簡單(に
『たゞ
天命(と、
大佐閣下(とに、
吾等(の
運命(を
委(ぬるのみです。』と
答(へると、
大佐(は
暫時(小首(を
傾(けたが
『
然(らば、
君等(は
或(時期(まで、
此(島(に
滯在(せねばなりません。』と
斷乎(と
言放(つた。
私(は
默(つて
點頭(いた。
大佐(は
言(をつゞけ
『
實(に
致(し
方(が
無(いのです。
勿論(君(が
御决心(で、
運命(を
全(く
天(に
任(せて、
再(び
小端艇(で、
印度洋(の
波(を
越(えて、
本國(へお
皈(りにならうと
仰(つしやれば、
仕方(がありませんが、
私(は
决(して、
其樣(な
無法(な
事(を
望(みません、
其他(の
手段(では、
到底(今日(や
明日(に、
此(島(を
出發(する
方法(もありませんから、
止(むを
得(ず、
或(時期(までは、
吾等(の
一行(と
共(に、
此(絶島(に
御滯在(の
外(はありません。』
『それは
覺悟(の
前(です。』と
私(は
答(へて
『たゞ
無用(なる
吾等(が、
徒(らに
貴下等(を
煩(はすのを
憂(ふるのみです。』と
語(ると、
大佐(は
急(ぎ
其(言(を
遮(り
『いや〳〵、
私(は
却(て、
天外(※里([#「一/力」、164-6]の
此樣(な
島(から、
何時(までも、
君等(に
故郷(の
空(を
望(ませる
事(を
情(なく
感(ずるのです。』と
嘆息(しつゝ
『あゝ、
此樣(な
時(に、せめて
浪(の
江丸(が
無難(であつたらば。』と
武村兵曹(の
顏(を
見(た。
浪(の
江丸(とは、
例(の
反古(新聞(に
記(されて
居(つた
名(で、はじめ、
大佐(の
一行(を
此(島(へ
搭(せて
來(た
一大(帆前船(、あゝ、あの
船(も、
今(は
何(かの
理由(で、
此(海岸(にあらずなつたかと、
私(は
窓(の
硝子越(しに
海面(を
眺(めると、
星影(淡(き
波上(には、一二
艘(淋(し
氣(に
泛(んで
居(る
小端艇(の
他(には、
此(大海原(を
渡(るとも
見(ゆべき
一艘(の
船(もなかつた。
武村兵曹(は
腕(を
組(んで
『さあ、
斯(うなると
惜(しい
事(をした。
浪(の
江丸(さへ
無事(であつたら、
私(が
巧(く
舵(をとつて、
直(ぐに
日本(まで
送(つてあげるのだが、
此前(の
大嵐(の
晩(に、とうとう
磯(に
打上(げられて、めちや〳〵になつて
仕舞(つたから、
今更(何(といふても
仕方(が
無(い。』と
言(ひつゝ
少年(に
向(ひ
『だが、
此(島(も
仲々(面白(いよ、
魚(も
澤山(釣(れるし、
獅子狩(も
出來(るし、
今(に
皈(りたく
無(くなるよ。』
大佐(は
苦笑(しながら
『
誰(が、
此樣(な
離(れ
島(に
永住(を
望(むものか。』とばかり、
私(に
向(ひ
『
然(し、
何事(も
天命(です。けれど
君(よ、
决(して
絶望(し
玉(ふな。
吾等(は
何時(か、
非常(の
幸福(を
得(て、
再(び
芙蓉(の
峯(を
望(む
事(が
出來(ませう――イヤ
確信(します、
今(より
三年(の
後(は
屹度(其時(です。』と
言放(つて、
英風(颯々(、
逆浪(岩(に
碎(くる
海邊(の、
唯(ある
方角(を
眺(めた。
第十四回
海底(の
造船所(
大佐の後姿がチラリと見えた――獅子狩は眞平御免だ――猛犬稻妻秘密の話――屏風岩――物凄い跫音――鐵門の文字
其(翌朝(日出雄少年(と
私(とが
目醒(めたのは八
時(※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、166-10]で
櫻木海軍大佐(は、
武村兵曹(をはじめ
一隊(の
水兵(を
引卒(れて、
何處(へか
出去(つた
後(であつた。
朝餉(を
運(んで
來(た
料理方(の
水兵(は、
大佐(が
外出(の
時(の
言傳(だとて、
左(の
如(く
語(つた。
『
大佐(は、
今朝(も
定(れる
職務(に
參(るが、
昨夜(は
取紛(れて
語(らず、
今朝(は
猶(ほ
御睡眠中(なれば、
此(水兵(を
以(て
申上(げるが、
此(住家(の十
町(以内(なれば、
何處(へ
行(かるゝも
御自由(なれど、
其(以外(は、
猛獸(毒蛇等(の
危害(極(めて
多(ければ、
决(して
足踏(みし
玉(ふな、
大佐(は
夕刻(に
皈(つて、
再(び
御目(にかゝる
可(し。』との
注意(。
私(も
少年(も、
今猶(ほ十
數日(以來(の
疲勞(を
感(じて
居(るので、
其樣(に
高歩(きする
氣遣(はないが、まして
此(注意(があつたので、
一層(心(を
配(り、
食後(は、
日記(を
書(いたり、
少年(と
二人(で、
海岸(の
岩(の
上(から
果(しなき
大海原(を
眺(めたり、
家(の
後(の
椰子林(で、
無暗(に
美(しき
果實(を
叩(き
落(したり、または
家(に
殘(つて
居(つた
水兵(に
案内(されて、
荒磯(のほとりで、
海鼈(を
釣(つたりして、
一日(を
暮(してしまつた。
夕日(の
沈(む
頃(、
櫻木大佐(も
武村兵曹(も、
痛(く
疲(れて
皈(つて
來(たが、
終日(延氣(に
遊(んだ
吾等(兩人(の
顏(の、
昨日(よりは
餘程(勝(れて
見(へるとて、
大笑(ひであつた。
此(夜(も
夜更(まで
色々(の
快談(。
翌朝(、
私(はまだ
大佐(の
外出(前(だらうと
思(つて、
寢床(を
離(れたのは
六時(頃(であつたが、
矢張(大佐等(は、
今少(し
前(に
家(を
出(たといふ
後(、また
※([#「抜」の「友」に代えて「ノ/友」、168-6]かつたりと、
少年(と
二人(で、
二階(の
窓(に
倚(つて
眺(めると、
此時(、
朝霧(霽(るゝ
海岸(の
景色(。
此(家(を
去(る
事(十
數町(の
彼方(に、
一帶(の
灣(がある、
逆浪(白(く
岩(に
激(して
居(るが、
其(灣中(、
岩(と
岩(とが
丁度(屏風(のやうに
立廻(して、
自然(に
坩※([#「堝」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、168-9]の
形(をなして
居(る
處(、
其處(に
大佐(の
後姿(がチラリと
見(えた。
『あら、
海軍(の
叔父(さんは、あの
岩(の
後(へ
隱(れておしまいになつてよ。』と、
日出雄少年(は
審(かし
氣(に
私(を
瞻(めた。
私(は
默然(として、
猶(も
其處(を
見詰(めて
居(ると、
暫時(して
其(不思議(なる
岩陰(から、
昨日(も
一昨日(も
聽(いた、
鐵(の
響(が
起(つて
來(た。
午前(十
時(※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、169-3]になると、
武村兵曹(丈(け
一人(ヒヨツコリと
皈(つて
來(て
『サア、
之(から
獅子狩(だ〳〵。』と
勇(勸(めるのを、
私(は
漸(の
事(で
押止(めたが、
然(らば
此(島(の
御案内(をといふので、それから、
山(だの、
河(だの、
谷(の
底(だの、
深林(の
中(だの、
岩石(が
劍(のやうに
削立(つて
居(る
荒磯(の
邊(だのを、
兵曹(の
元氣(に
任(せて
引廻(はされたので、
酷(く
疲(れてしまつた。
此(遊歩(の
間(、
武村兵曹(の
命(ずる
儘(に、
始終(吾等(の
前(になり、
後(になつて、
豫(め
猛獸(毒蛇(の
危害(を
防(いで
呉(れた、
一頭(の
猛犬(があつた。
名(は
稻妻(といつて、
櫻木大佐(の
秘藏(の
犬(の
由(、
形(は
犢牛(程(巨大(く、
毛(の
眞黒(な、
尾(のキリヽと
卷上(つた、
非常(に
逞(ましき
犬(で、それが
痛(く
日出雄少年(の
氣(に
入(つて、
始終(『
稻妻(や〳〵。』と、
一處(になつて
走廻(つて
居(る
内(に、いつか
仲(がよくなつて、
夕刻(、
家(に
歸(つた
時(も、
稻妻(は
此(可憐(なる
少年(と
戯(れつゝ、
思(はず
二階(まで
驅上(つて、
武村兵曹(に
箒(で
追出(された
程(で、
日出雄少年(は
此(犬(の
爲(めに、
晩餐(の
美味(しい「ビフステーキ」を、
其儘(窓(から
投(げてやつてしまつた。
さて、
其(翌日(になると、
日出雄少年(は、
稻妻(といふ
好(朋友(が
出來(たので、
最早(私(の
傍(にのみは
居(らず、
朝早(くから
戸外(に
出(でゝ、
波(青(く、
沙(白(き
海岸(の
邊(に、
犬(の
脊中(に
跨(つたり、
首(に
抱着(いたりして、
餘念(もなく
戯(れて
居(るので、
私(は
一人(室内(に
閉籠(つて、
今朝(大佐(から
依頼(された、
或(航海學(の
本(の
飜譯(にかゝつて
一日(を
暮(してしまつた。
此(飜譯(は、
仕事(の
餘暇(、
水兵等(に
教授(の
爲(にと、
大佐(が
餘程(以前(から
着手(して
居(つたので、
殘(り
五分(の
一(程(になつて
居(つたのを、
徒然(なるまゝ、
私(が
無理(に
引受(けたので、
其(飜譯(の
全(く
終(つた
頃(、
大佐(は
例(の
樣(に、
夕暮(の
海岸(を
一隊(の
水兵(と
共(に
歸(つて
來(た。
昨夜(も、
一昨夜(も、
夕食(果(てゝ
後(は
部室(の
窓(を
開放(して、
海(から
送(る
凉(しき
風(に
吹(かれながら、さま〴〵の
雜談(に
耽(るのが
例(であつた。
今宵(もおなじ
樣(に、
白(い
窓掛(の
搖(ぐほとりに
倚子(を
並(べた
時(、
櫻木大佐(は
稍(や
眞面目(に
私(に
向(つて。
『
今夜(は
更(つて、
少(しお
話(し
申(す
事(がある。』と
私(の
顏(を
凝視(めた。
更(つての
話(とは
何事(だらうと、
私(も
俄(かに
形(を
改(めると、
大佐(は
吸殘(りの
葉卷(をば、
窓(の
彼方(に
投(げやりて、
靜(かに
口(を
開(いた。
『
柳川君(、
私(は
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、171-12]る
日(黄乳樹(の
林(の
邊(で、
圖(らずも
君等(の
急難(をお
助(け
申(した
時(から、
左樣(思(つて
居(つたのです。
稀(にも
人(の
來(べき
筈(のない
此樣(な
離(れ
島(へ、
偶然(とはいへ、
昔馴染(の
君(の
見(へたのは、
全(く
天(の
導(のやうなもので、
之(から
數年間(、
同(じ
家(に、
同(じ
月(を
眺(めて
暮(すやうな
運命(になつたのも、
何(かの
因縁(でせう。
私(に
一個(の
秘密(がある、
此(秘密(は
私(と、
私(の
腹心(の三十七
名(の
水兵(と、
帝國海軍(部内(の
某々(有司(の
他(には、
誰(も
知(つて
居(る
者(は
無(いのです、また、
决(して、
他(に
洩(すまじき
秘密(ですが、
今(斯(くなつて
同(じ
境遇(に、
長(き
月日(を
暮(す
間(には、
何時(か
君等(の
前(に、
其事(の
表顯(ずには
終(るまい。』
斯(く
言(ひかけて、
大佐(は
靜(かに
眼(をあげ
『
君(も
私(が
何(んの
爲(に
此(島(へ
來(たか、
今(や
何(を
爲(しつゝあるやに
就(いて、
多少(の
御考察(はあるでせう。』
さてこそ、と、
私(は
片唾(を
飮(んだ。
『
朧(ながら、
或(想像(を
描(いて
居(ります。』と
答(へると、
大佐(は
打點頭(き
『
此(秘密(は、
實(に
私(の
生命(です。
今(は
數年(の
昔(、
君(は
御記臆(ですか、
船(の
甲板(で、
私(が
奇妙(なる
詩(を
吟(じ、また、
歐洲(列國(の
海軍力(の
増加(と、
我國(の
現况(とを
比較(して、
富(の
度(より、
機械學(の
進歩上(より、
我國(は
今日(の
如(く、
啻(に
數艘(の
軍艦(の
多(くなつた
位(や、
區々(たる
軍器(の
製造(にも、
多(く
彼等(の
後(を
摸傚(して
居(る
樣(では、
到底(東洋(の
平和(を
維持(し、
進(んで
外交上(の
一大(權力(を
握(る
事(は
覺束(ない、
一躍(して、
歐(の
上(に、
米(の
上(に、
位(する
樣(になるには、
茲(に
一大(决心(を
要(する。
即(ち
震天動地(の
軍事上(の
大發明(をなして、
其(發明(は
軍機上(の
大秘密(として、
我國(にのみ
特(にあり、
他邦(には
到底(見(るべからず、
歐米(諸國(も
之(ある
限(りは、
最早(日本(に
向(つて
不禮(を
加(ふる
可(からずとまで、
戰慄(恐懼(する
程(の
大軍器(の
發明(を
要(すると
申(した
事(を、かの
時(は、
君(も
單(に
快哉(と
叫(んだのみ、
私(も
一(の
希望(として、
深(く
胸(の
奧(に
潜(めて
居(つたが、
其後(幾年月(の
間(、
苦心(に
苦心(を
重(ねた
結果(、
一昨年(の十一
月(三十
日(、
私(が
一艘(の
大帆走船(に、
夥(しき
材料(と、卅七
名(の
腹心(の
部下(とを
搭載(て、はる〴〵
日本(を
去(り、
今(や
此(無人島(に
身(を
潜(めて
居(るのは、
全(く、
兼(て
企(つる、
軍事上(の
一大(發明(に
着手(して
居(るのです――。
左樣(、
不肖(ながら、
此(櫻木(が
畢世(の
力(を
盡(して、
我(帝國海軍(の
爲(めに、
前代未聞(の
或(有力(なる
軍器(の
製造(に
着手(して
居(るのです。』
果然(!
果然(! と
私(は
胸(を
跳(らせた。
大佐(は
言(をつゞけ
『
此邊(の
事(は、
本國(でも
人(の
風評(に
上(り、
君(にも
幾分(の
御想像(は
付(いたらうが、
果(して
如何(なる
發明(であるかは、
其物(の
全(く
竣成(する
迄(は、
誰(も
知(つて
居(る
者(はない、
私(は
外國(の
軍事探偵(や、
其他(利己心(多(き
人々(の
覬覦(から、
完全(に
其(秘密(を
保(たんが
爲(めに、
自(ら
此樣(な
孤島(に
身(を
忍(ばせて、
其(製造(をも
極(めて
内密(にして
居(る
次第(だが――。』と
言(ひかけて、
言葉(に
一段(の
力(を
込(め
『けれど
柳川君(よ、
君(は
不思議(にも、
天(の
導(のやうに、
我等(の
仲間(に
入(つて
來(ました。
今(前後(の
事情(より
考(へ、また
君(の
人物(を
信(ずるので、
若(し、
君(に
確固(たる
約束(があるならば、
今日(に
於(て、
此(大秘密(を、
君(に
明言(して
置(く
事(の、
寧(ろ
得策(なるを
信(ずるのです。』
『え、
私(に、
其(大秘密(を――。』と、
私(は
倚子(から
立上(つた。
大佐(は
沈重(なる
聲(で
『
左樣(、
私(は
君(を
確信(します、
若(し
君(は
我等(の
同志(の
士(として、
永久(に
此(の
秘密(を
守(る
事(を
約束(し
玉(はゞ、
請(ふ
誠心(より
三度(天(に
誓(はれよ。』
私(は
猶豫(もなく、
堅(き
誓(を
立(てると、
大佐(はツト
身(を
起(して
私(の
手(を
握(り
『
誓(は
形式(です。けれど
愛國(の
情(深(き
君(は、
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、176-4]つても
此(秘密(をば、
無用(の
人(に
洩(し
玉(ふな。』
『
斷(じて〳〵、たとへ
此(唇(が
裂(かるゝとも。』と
私(は
斷乎(として
答(へた。
大佐(は
微笑(を
帶(びて
私(の
顏(を
眺(めた。さて
其(秘密(は
如何(なる
物(にや、
此(夜(はたゞ
誓(に
終(つて、
詳密(なる
事(は、
明日(、
其(秘密(の
潜(められたる
塲所(に
於(て、
實物(に
就(て、
明白(に
示(さるゝとの
事(、
此(夜(は
其儘(寢床(に
横(つたが、いろ〳〵の
想像(に
驅(られて、
深更(まで
夢(に
入(る
事(が
出來(なかつた。
人間(は
勝手(なもので、
私(は
前夜(は
夜半(まで
眠(られなかつたに
係(らず、
翌朝(は
暗(い
内(から
目(が
醒(めた。五
時(三十
分(頃(、
櫻木大佐(は
武村兵曹(を
伴(つて、
私(の
部室(の
戸(を
叩(いた。
之(より
其(秘密(なる
塲所(へ
出掛(けるのである。
三人(は
家(を
出(で、
朝霧(深(き
海岸(を
北(へと
進(んだ。
武村兵曹(は
猛犬(の
稻妻(を
從(へて、
常(に
十歩(ばかり
前(へ
進(むので、
私(と
大佐(とは
相(並(んで
歩(んだが、
一言(も
無(い。あゝ、
其(秘密(なる
發明(とは
何(であらう。
有力(なる
軍器(と
云(へば、
非常(なる
爆發力(を
有(する
彈丸(の
種類(かしら、それとも、
一種(の
魔力(を
有(する
大砲(の
發明(であらうか。イヤ〳〵、
大佐(の
口吻(では、もつと
有力(なる
發明(であらうと、
樣々(の
想像(を
描(いて
居(る
内(に、
遂(に
到着(したのは、
昨曉(、
大佐(の
後影(をチラリと
認(めた
灣中(の
屏風岩(の
邊(、
此處(で、
第一(に
不思議(に
感(じたのは、
此(屏風形(の
岩(は、
遠方(から
見(ると、
只(一枚(丈(け
孤立(して
居(るやうだが、
今(、
其(上(へ
登(つて
見(ると、
三方(四方(に
同(じ
形(の
岩(がいくつも
重(り
合(つて、
丁度(羅馬(古代(の
大殿堂(の
屋根(のやうな
形(をなし、
其(下(は
疑(もなき
大洞窟(で、
逆浪(怒濤(が
隙間(もなく
四邊(に
打寄(するに
拘(らず、
洞窟(の
中(は
極(めて
靜謐(な
樣子(で、
吾等(の
歩(む
毎(に、
其(跫音(はボーン、ボーン、と
物凄(く
響(き
渡(つた。
屏風岩(の
上(を二十ヤードばかり
進(むと、
正面(に
壁(のやうに
屹立(つたる
大巖石(の
中央(に、
一個(の
鐵門(があつて、
其(鐵門(の
前(には、
武裝(せる
當番(の
水兵(が
嚴肅(に
立(つて
居(つたが、
大佐等(の
姿(を
見(るより、
恭(しく
敬禮(を
獻(げた。
近(づいて
見(ると、
鐵門(の
上部(には、
岩(に
刻(まれて「
秘密(造船所(」の五
字(が
意味(あり
氣(に
現(はれて
居(つた。
第十五回
電光艇(
鼕々たる浪の音――投鎗に似た形――三尖衝角――新式魚形水雷――明鏡に映る海上海底の光景――空氣製造器――鐵舟先生の詩
武村兵曹(は
腰(なる
大鍵(を
索(つて、
鐵門(の
扉(と
開(いた。
『
此處(が
秘密(の
塲所(の
入口(です。』と
櫻木海軍大佐(は
私(を
顧見(た。
此時(はまだ
工事(も
始(まらぬと
見(へ、
例(の
鐵(の
響(も
聽(えず、
中(はシーンとして、
凄(い
程(物靜(かだ。
私(は
二人(の
案内(に
從(つて、
鐵門(を
(つたが、はじめ十
歩(ばかりの
間(は
身(を
屈(めて
歩(む
程(で、
稍(や
廣(くなつたと
思(ふと、
直(ぐ
前(には、
岩(に
刻(んで
設(けられた
險(しい
階段(がある、
其(階段(を
降(り
盡(すと、
眞暗(になつて、
恰(も
墜道(のやうに
物淋(しい
道(を、
武村兵曹(が
即座(に
點(じた
球燈(の
光(に
照(して、
右(に
折(れ、
左(に
轉(じて、
凡(そ百四五十ヤードも
進(むと、
岩石(が
前(と
後(に
裂(け
離(れて、
峽(をなし、
其(間(を
潮(が
矢(の
如(く
洞外(から
流(れ
入(り、
流(れ
去(つて
居(る。
峽上(には
一筋(の
橋(があつて、それを
渡(ると
又(た
鐵(の
扉(だ。
武村兵曹(は
前(と
同(じ
樣(に
其(扉(を
押開(くと、
同時(にサツと
射込(む
日(の
光(、
疑(もない、
扉(の
彼方(は
明(るい
所(だ、
兵曹(はプツと
球燈(を
吹消(す、
途端(に、
櫻木大佐(は
私(に
向(ひ
『
此處(です。』と
一言(を
殘(して、
先(づ
鐵門(を
(つた、
私(もつゞいて
其(中(に
入(ると、
忽(ち
見(る、
此處(は、
四方(數百(間(の
大洞窟(で、
前後左右(は
削(つた
樣(な
巖石(に
圍(まれ、
上部(には
天窓(のやうな、
巨大(な
岩(の
裂目(があつて、
其處(から
太陽(の
光(は
不足(なく
洞中(を
照(してをるのである。
耳(を
傾(けると、
何處(ともなく
鼕々(と
浪(の
音(の
聽(ゆるのは、
此(削壁(の
外(は、
怒濤(逆卷(く
荒海(で、
此處(は
確(に
海底(數十(尺(の
底(であらう。
此塲(の
光景(のあまりに
天然(に
奇體(なので、
私(は
暫時(、
此處(は
人間(の
境(か、それとも、
世界(外(の
或(塲所(ではあるまいかと
疑(つた
程(で、
更(に
心(を
落付(けて
見(ると、
總(ての
構造(は
全(く
小造船所(のやうで、
宏大(なる
洞窟(の
中(は
數部(に
分(たれ、
船渠(、
起重機(、
製圖塲等(の
整備(はいふ
迄(もなく、
錬鐵塲(には
鎔解爐(あり、
大鐵槌(あり、
鑄物塲(には
造型機(、
碎砂機(を
具(へ、
旋盤塲(には
縱削機(、
横削機(、
平鉋盤(、
鑽孔機(の
配置(よろしく、
製罐塲(には
水壓打鋲機(あり、
工作塲(には
屈撓器(、
剪斷機(あり。
圓鋸機(、
帶形鋸機(のほとりには、
角材(、
鐵材(山(の
如(く、
其他(、
空氣壓搾喞筒(、
電氣力發機等(の
緻密(なる
機械(より、
銀鑞(、
白鑞(、タール
綱(、マニラ
綱(、
帆(縫糸(、
撚糸(、
金剛砂布(、
黒鉛(、
氣發油(、
白絞油(、ラジーン
塗具(、
錆色(塗具(、
銅板(、
鐵板(、
鋼板(、
亞鉛塊(、ガツタバーカー
板(、エボナイト
板(、
硝子板(、
硝子管(、
舷窓用(厚硝子(、
螺旋鋲(、
鋼
鋲(、
眞鍮鑄鋲(、
石絨衞帶(、
彈心衞帶等(に
至(るまで、よくも
斯(る
絶島(にかく
迄(整然(たる
凖備(の
出來(た
事(よと
怪(しまるゝばかりで、これ
等(の
諸(機械(諸(材料(は、すべて二
年(以前(に、
櫻木大佐(が
大帆船(浪(の
江丸(に
搭載(して、
此(島(に
運搬(し
來(つたもので、
今(はそれ〴〵
適當(の
位置(に
配置(されて、すでに
幾度(の
作用(をなした
形跡(は
歴然(と
見(える。
此時(忽(ち
私(の
眼(に
留(つたのは
此(不思議(なる
洞中造船所(の
中央(に
位(して、
凹凸(の
岩(の
形(が
自然(に
船臺(をなしたる
處(、
其處(に
今(や
工事中(の、
一種(異樣(の
船體(が
認(められたのである。
『これが、
私(の
秘密(に
製造(しつゝある、
海底戰鬪艇(です。』と、
櫻木海軍大佐(は
徐(ろに
右手(を
擧(げて、
其(船體(を
指(した。さてこそ、と
私(は
胸(を
跳(らしつゝ
其(船躰(を
熟視(したが、あゝ、
世(に
斯(くも
不思議(なる、
斯(くも
強堅(なる、
船艦(がまたとあらうか、
私(は
其(外形(を
一見(したばかりで、
實(に
其(船形(の
巧妙(不思議(なるに
愕(いたが、
更(に
大佐(に
導(かれて、
今(は
既(に二
年(有餘(の
歳月(を
費(して、
船體(半(ば
出來上(つた
海底戰鬪艇(の
内部(に
入(り、
具(に
上甲板(、
下甲板(、「ウオター、ウエー」、「ウ井ング、パツセージ」、
二重底(、
肋骨材等(諸般(の
構造(を
眺(め、また
千變萬化(なる
百種(の
機關(の
説明(を
聽(いた
時(は、
殆(んど
之(が
人間(の
業(かと
疑(はるゝばかりで、
吾知(らず
驚嘆(の
叫聲(を
發(する
事(を
禁(じ
得(なかつた。あゝ、かくも
神變(不可思議(なる
海底戰鬪艇(は、
今(や
此(秘密(なる
洞中(の
造船所(に
於(て、
櫻木海軍大佐(の
指揮(の
下(に、
夜(を
日(に
繼(いで
製造(されつゝあるのであるが、
此(猛烈(なる
戰艇(が、
他日(首尾(よく
竣工(して、
我(大日本帝國(の
海軍(の
列(に
加(つた
時(には、
果(して
如何(なる
大影響(を
世界(の
海軍(に
及(ぼすであらうか。
私(は
斷言(する、
鷲(の
如(く
猛(く、
獅子(の
如(く
勇(ましき
列國(の
艦隊(が
百千舳艫(を
並(べて
來(るとも、
日章旗(の
向(ふ
處(、
恐(らくば
風靡(せざる
處(はあるまいと。
敬愛(する
讀者(諸君(よ、
私(は
今(、
此(驚(く
可(く
懼(る
可(き
海底戰鬪艇(の
構造(について、
詳(しき
説明(を
試(みたいのだが、それは
櫻木海軍大佐(の
大秘密(に
屬(するから
出來(ぬ。たゞ、
其(秘密(を
侵(さゞる
範圍内(に
於(て
略言(すると、
此(海底戰鬪艇(は
全艇(の
長(さ百三十
呎(六
吋(、
幅員(は
中部横斷面(に
於(て二十二
呎(七
吋(、
艇(の
形(は、
恰(も
南印度(の
蠻人(が、
一撃(の
下(に
巨象(を
斃(し、
猛虎(を
屠(るといふ
投鎗(の
形(に
髣髴(として、
其(兩端(は
一種([#ルビの「いつしゆ」は底本では「しつしゆ」]奇妙(の
鋭角(をなして
居(る、
此(鋭角(の
度(が、
艇(の
速力(に
關(して、
極(めて
緊要(なる
特色(の
相(である。
艇(の
上部艇首(の
方(に
位(して、
一個(の
橢圓形(の
觀外塔(が
設(けられて、
塔上(には、
一本(の
信號檣(の
他(には
何物(も
無(く、
其(一端(には
自動開閉(の
鐵扉(が
設(けられて、
艇(の
將(に
海底(に
沈(まんとするや、
其(扉(は
自然(に
閉(ぢ、
艇(の
再(び
海面(に
浮(ばんとするや、
其(扉(は
忽然(として
自(ら
開(くやうになつて
居(る。
艇(の
全體(は
盡(く
金屬(を
以(て
構成(せられ、
觀外塔(、
上甲板(、
兩舷側(はいふ
迄(もなく、
舵機室(、
發射室(、
艇員居室等(、すべて
一種(堅強(なる
裝甲(をもつて
保護(されて
居(る、
此(裝甲(は
現今(專(ら
行(はれて
居(る
ハーベー式(の
堅硬法(を
施(したる
鋼板(若(くは
白銅鋼板等(よりは、
數層倍(の
彈力性(と
抵抗力(を
有(する
或(新式裝甲板(にて、
櫻木海軍大佐(が
幾星霜(の
間(、
苦心(に
苦心(を
重(ねた
結果(、
六種(の
或(金屬(の
合成(は、
現世紀(に
於(ける
如何(なる
種類(の
彈丸(又(は
水雷等(をもつて
突撃(し
來(るとも、
充分(之(に
抵抗(し
得(て
餘(りありと
信(じて、
其(新式合成裝甲板(を、
此(海底戰鬪艇(の
各要部(に
應用(したのである。
此(艇(の
外形(は
以上(の
如(くであるが、さて
海底戰鬪艇(が
敵艦(を
轟沈(するには、
如何(なる
方法(に
依(るかといふに、それは
二種(の
異(つたる
軍器(の
作用(に
依(るのである。
今(は
工事中(であるから、
明瞭(に
知(る
事(は
出來(ぬが、
其(一種(は
艇(の
前端(に
裝置(されたる
極(めて
強硬(なる、また
極(めて
不思議(なる「
衝角(」
一名(「
敵艦衝破器(」と
呼(ばれたる
軍器(で、
此(衝角(は
世(の
常(の
甲鐵艦(又(は
巡洋艦等(に
裝置(されたものとは
痛(く
異(りて、
其(形(は
三尖形(の
極(めて
鋭利(なる
角度(を
有(し、
艇(の
前方(十七
呎(以上(に
突出(して、
其(鋭利(なる
三尖衝角(は
艇内發動機(の
作用(にて、
一秒時間(に三百
廻轉(の
速力(をもつて、
絞車(の
如(く
廻旋(するのであるから、
此(衝角(の
觸(るゝ
所(、十四
吋(半(以上(の
裝甲(を
有(する
鐵艦(の
他(は、
殆(んど
粉韲(せられざるものは
有(るまいと
思(はるゝ、
然(し
此(三尖衝角(は、
此(海底戰鬪艇(に
左程(著(るしい
武器(ではない、
更(に
驚(く
可(きは、
艇([#ルビの「てい」は底本では「てん」]の
兩舷(に
裝置(されたる「
新式併列旋廻水雷發射機(」で、
此(水雷發射機(の
構造(の、
如何(に
巧妙(不可思議(なるやは、
細密(なる
機械製圖等(をもつて
説明(しなければとても
解(らぬが、
先(づ
此(發射管(の
裝置(されたる
秘密室(には、
一面(の
明鏡(があつて、
電流(の
作用(と、二百三十
個(の
反射鏡(の
作用(とによつて、
居(ながら
海上海底(の
光景(を
觀測(する
事(を
得(べく、
自動照凖器(をもつて
潮流(の
速力(を
知(り、
波動(の
方向(を
定(め、
海戰(既(に
始(まらは、
艇(は
逆浪(怒濤(の
底(を
電光(の
如(く
駛(る、
其(間(に
立(つて、
明鏡(に
映(る
海上海底(の
光景(を
眺(めつゝ、
白晝(ならば
單(に
水雷方位盤(を
動(かすのみ、
夜戰(ならば
發火電鑰(を
一牽(して、
白色(、
緑色(の
強熱電光(を
射出(し、
照星照尺(を
定(めて、
旋廻輪(を
一轉(すると、
忽(ち
電鈴(鳴(り、
發射框(動(いて、一
分間(に七十八
個(の
魚形水雷(は、
雨(の
如(く、
霰(の
如(く
發射(せらるゝのである。
此(魚形水雷(は、
其(全長(僅(かに二
呎(三
吋(、
最大(直徑(三
吋(に
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、178-12]ぎず、
之(を
今日(の
海戰(に
專(ら
行(はるゝ
保氏魚形水雷(に
比(すると、
其(大(さは七
分(の一にも
足(らぬが、
氣室(、
浮室(、
尾片等(の
設備(整然(として、
殊(に
其(頭部(に
裝填(せられたる
爆發藥(は、
普通(魚形水雷(の
頭部(綿火藥(百七十五
斤(に
相當(して、千四百
碼(の
有效距離(を四十一
節(の
速力(をもつて
駛行(する
事(が
出來(るのであるから、
砲聲(轟々(、
硝煙(朦朧(たる
海洋(の
戰(に、
海底戰鬪艇(龍(の
如(く、
鯱(の
如(く、
怒濤(を
蹴(つて
駛走(しつゝ、
明鏡(に
映(る
海上(の
光景(を
展眸(して、
發射旋廻輪(の
一轉(又(一轉(、
敵艦右舷(に
來(れば
右舷(の
水雷(之(を
轟沈(し、
敵艦左舷(に
見(ゆれば
左舷(の
水雷(之(を
粉韲(するの
有樣(は、
殆(んど
眼(にも
留(らぬ
活景(であらう。
新式水雷發射管(の
構造(と、
其(猛烈(なる
作用(とは
略右(の
如(くであるが、
更(に
海底戰鬪艇(の
全部(を
見渡(すと、
艇(は
中央(の
軍機室(より
前後(十
敷個(に
區劃(されて、
海圖室(もある、
操舵室(もある、
探海電燈室(もある。
殊(に
浮沈室(と
機關室(とは
此(艇(の
最(も
主要(なる
部分(ではあるが、
此事(に
就(いては
殘念(ながら
私(の
誓(に
對(して
一言(も
明言(する
事(は
出來(ぬ。たゞ
一寸(洩(して
置(くが、
此(艇(百種(の
機關(の
作用(を
宰(る
動力(は
世(の
常(の
蒸氣力(でもなく
電氣力(でもなく、
現世紀(には
未(だ
知(られざる
一種(の
化學的作用(で、
櫻木大佐(が
幾年月(の
間(苦心(に
苦心(を
重(ねたる
結果(、
或(秘密(なる十二
種(の
化學藥液(の
機密(なる
分量(の
化合(は、
普通(の
電氣力(に
比(して、
殆(んど三十
倍(以上(の
猛烈(なる
作用(を
起(す
事(を
發見(し、
其(を
此(艇(の
總(の
機關(に
適用(したので、
艇(の
進行(も、
三尖衝角(の
廻旋(も、
新式水雷發射機(の
運轉(も、すべて
此(秘密(なる
活動力(によつて
支配(されて
居(るのである。
以上(で、
吾(が
敬愛(する
讀者(諸君(は
髣髴(として、
此(艇(の
構造(と
其(驚(くべき
戰鬪力(について、
或(想像(を
腦裡(に
描(かれたであらう。
最早(煩縟(しくいふに
及(ばぬ、
此(不思議(なる
海底戰鬪艇(は、
今日(世界(萬國(の
海軍社會(に
於(て、
互(に
其(改良(と
進歩(とを
競(ひつゝある
海底潜行艇(の
一種(である。
然(り、
海底潜行艇(の
一種(には
相違(ないが、
然(し
私(は
單(に
此(軍艇(をば
潜行艇(と
呼(ぶのみを
以(ては
滿足(しない、
何(となれば
現今(歐米諸國(の
發明家等(は、
毎年(のやうに
新奇(なる
潜行艇(を
發明(したと
誇大(に
吹聽(するものゝ、
其(多數(は、「
水(バラスト」とか、
横舵(、
縱舵(の
改良(とか、
其他(排氣啣筒(や、
浮沈機等(に
尠少(ばかりの
改良(を
加(へたのみで、
其(動力(は
常(に
石油發動力(にあらずば、
電氣力(と
定(まり、
艇形(は
葉卷烟草形(に
似(て、
推進螺旋(の
翅(の
不思議(に
拗(れたる
有樣(など、
例(も
シー、エヂスン氏等(の
舊套(を
摸傚(するばかりで、
成程(海中(を
潜行(するが
故(に
潜水艇(の
名(は
虚僞(ではないにしても、
從來(の
實例(では、
是等(の
潜行艇(は
海水(の
壓力(の
爲(めと
空氣(の
缺乏(の
爲(に
海底(六
呎(以下(に
沈降(するものは
稀(で、一
時間(以上(の
潜行(を
持續(するものは
皆無(といふ
有樣(。されば
今世紀(に
於(て
最(も
進歩(發達([#ルビの「はつたつ」は底本では「はつだつ」]して
居(ると
稱(せらるゝ
佛國(シエルブル造船所(の
一等潜行艇(でも、
此(二個(の
缺點(のある
爲(に
充分(の
働作(も
出來(ず、
首尾(よく
敵艦(に
接近(しながら、
屡々(速射砲等(をもつて
反對(に
撃沈(される
程(で、とても、
我(が
櫻木海軍大佐(の
破天荒(なる、
此(海底戰鬪艇(とは
比較(する
事(も
出來(ぬのである。
今(、
此(新奇(なる
海底戰鬪艇(は、
艇底(に
設(けられたる
自動浮沈機(の
作用(で、
海底(三十
呎(乃至(五十
呎(迄(の
深(さに
沈(む
事(を
得(べく、
空氣(は、
普通(の
氣蓄器(又(は
空氣壓搾喞筒等(に
依(る
事(なく、
艇(の
後端(に
裝置(されたる
或(緻密(なる
機械(の
作用(にて、
大中小(幾百條(とも
知(れず、
兩舷(より
海中(に
突出(されたる、
亞鉛管(及(銅管(を
通(じて、
海水中(より
水素(酸素(を
分析(して
大氣([#ルビの「たいき」は底本では「だいき」]筒中(に
導(き、
吸鍔棹(に
似(たる
器械(の
上下(するに
隨(つて、
新鮮(なる
空氣(は
蒸氣(の
如(く
一方(の
巨管(から
艇内(に
吹出(され、
艇内(の
惡分子(は、
排氣喞筒(によつて
始終(艇外(に
排出(せられるから、
艇(は
些(も
空氣(の
缺乏(を
感(ずる
事(なく、十
時間(でも二十
時間(でも、
必要(に
應(じて
海底(の
潜行(を
繼續(する
事(が
出來(るのである。
速力(は
一時間(に
平速力(五十六
海里(、
最速力(百〇七
海里(。かくも
驚(くべき
速力(を
有(するのは
全(く
艇(の
形體(と、
蒸氣力(よりも
電氣力(よりも
數十倍(強烈(なる
動力(による
事(は
疑(を
容(れぬが、
殊(に
艇尾(兩瑞(に
裝置(されたる
六枚(の
翅(を
有(する
推進螺旋(の
不思議(なる
廻轉作用(の
與(つて
力(ある
事(を
記臆(して
貰(はねばならぬ。
讀者(諸君(、
私(は
此(秘密(なる
海底戰鬪艇(の
構造(については、
最早(説明(の
筆(を
止(めるが、
今(の
世(は
愚(か、
後(の
世(にも
稀(にも
見出(し
難(き
此(軍艇(が
他日(其(船渠(を
離(れて
世界(の
海上(に
浮(んだ
時(には、
果(して
如何(なる
驚愕(と
恐怖(とを
※國([#「一/力」、193-1]の
海軍社會(に
與(へるであらうか。
世(に
若(し
怪物(といふ
者(があるならば、
此(軍艇(こそ
確(に
地球(の
表面(に
於(て、
最(も
恐(るべき
大怪物(として、
永(く
歐米諸國(の
海軍社會(の
記臆(に
留(るであらう。
私(は
斷言(する、
此(海底戰鬪艇(が
一度(逆浪(怒濤(を
蹴(つて
縱横無盡(、
隱見出沒(の
魔力(と
逞(しうする
時(には、たとへ
百(の
艦隊(、
千(の
大戰鬪艦(が
彈丸(の
雨(を
降(らして
對(つたとて、とても
此(艇(の
活動(を
妨(げる
事(は
出來(ぬのである。
少(し
海軍(の
事(に
通(じた
人(は
誰(でも
知(つて
居(る、すでに
海水中(十四
呎(以下(に
沈(んだる
或(物(に
向(つては、
世界最強力(の
ガツトリング機砲(でも、
カ子ー砲(でも、
些少(の
打撃(をも
加(ふる
事(が
出來(ぬのである。
况(んや
此(海底戰鬪艇(は、
波威(に
沈降(する
事(三十
呎(乃至(五十
呎(、
其(潜行(を
持續(し
得(る
時間(は
無制限(であるから、
一度(此(軍艇(に
睥睨(まれたる
軍艦(は、
恰(も
昔物語(の
亞剌比亞(の
沙漠(の
大魔神(に
魅(られたる
綿羊(のごとく、
遁(れんとして
遁(るゝ
能(はず、
鬪(はんか、
速射砲(も
ガツトリング砲(も
到底(力(及(ばぬ
海底(の
此(大怪物(を
奈何(せん。
此方(海底戰鬪艇(は、
我(に
敵抗(する
艦隊(ありと
知(らば、
戰鬪凖備(を
整(ふる
間(も
疾(しや
遲(しや、
敵艦(若(し
非裝甲軍艦(ならば、
併列水雷發射機(を
使用(する
迄(もなく、かの
驚(くべき
三尖衝角(を
絞車(の
如(く
廻旋(して、
一撃(突進(、
敵艦(を
粉韲(する
事(を
得可(く、
敵艦(若(し十四
吋(以上(の
裝甲軍艦(ならば、
艇(は
逆浪(怒濤(の
底(を
電光(の
如(く
駛航(しつゝ、
鏡(に
映(る
敵情(を
察(して、
發射廻旋輪(の
一轉(又(一轉(右舷(左舷(より
發射(する
新式魚形水雷(は一
分時間(に七十八
發(。
今(三十
隻([#ルビの「せき」は底本では「きせ」]の
一等戰鬪艦(をもつて
組織(されたる
一大(艦隊(と
雖(も、
日(出(でゝ
鳥(鳴(かぬ
内(に、
滅盡(する
事(が
出來(るであらう。
あゝ、
海底戰鬪艇(!
海底戰鬪艇(!
此(驚(くべく、
恐(るべき
一(軍艇(は
今(や
我(が
大日本帝國(の
海軍(の
列(に
加(はらんが
爲(めに、
此(絶島(の
不思議(なる
海底(の
造船所(内(に
於(て、
櫻木海軍大佐(の
指揮(の
下(に、
秘(かに
製造([#ルビの「せいざう」は底本では「せいさう」]されつゝあるのである。
讀者(諸君(!
私(は
此(海底戰鬪艇([#ルビの「かいていせんとうてい」は底本では「かていせんとうてい」]が
他日(首尾(よく
竣工(して、
翩飜([#「翩飜(」は底本では「翻飜(」]たる
帝國軍艦旗([#ルビの「ていこくぐんかんき」は底本では「ていこぐんかんき」]を
艇尾(に
飜(しつゝ、
蒼波(漫々(たる
世界(の
海上(に
浮(んだ
時(、
果(して
如何(なる
戰爭(に
向(つて
第一(に
使用(され、また
如何(に
目醒(ましき
奮鬪(をなすやは
多(く
言(ふ
必要(もあるまいと
考(へる。
さても、
私(が
櫻木海軍大佐(と
武村兵曹(の
案内(に
從(つて、
海底戰鬪艇(の
縱覽(を
終(つて
後(、
再(び
艇外(に
出(でたのは、かれこれ
二時間(程(後(であつた。それより
洞中(の
造船所(内(を
殘(る
隈(なく
見物(したが、ふと
見(ると、
洞窟(の
一隅(に、
岩(が
自然(に
刳(られて、
大(なる
穴倉(となしたる
處(、
其處(に、
嚴重(なる
鐵(の
扉(が
設(けられて、
扉(の
表面(には
黄色(のペンキで「
海底戰鬪艇(の
生命(」なる
數字(が
記(されてあつた。
『
之(は
何(ですか。』と
私(が
問(ふと
大佐(は
言葉(靜(かに
『
此(倉庫(には
前(申(した、
海底戰鬪艇(の
動力(の
原因(となるべき
重要(の
化學藥液(が、十二の
樽(に
滿(されて
藏(められてあるのです。
實(に
此(藥液(の
樽(こそ、
海底戰鬪艇(の
生命(ともいふべき
物(です。』と
答(へた。
此(他(猶(ほ、
見(もし
聞(もしたき
事(は
澤山(あつたが、
時刻(は
既(に八
時(に
近(く、
艇(の
邊(には
既(に
夥多(の
水兵(が
集(つて
來(て、
最早(工作(の
始(まる
模樣(、
且(つは、
海岸(の
家(には、
日出雄少年(は
只(一人(で
定(めて
淋(しく、
待兼(て
居(る
事(だらうと、
思(つたので、
私(は
大佐(に
別(を
告(げて、
此處(を
立去(る
事(に
决(した。たゞ
此(秘密造船所(を
出(づる
前(に、
一言(聽(きたきは、
海底戰鬪艇(の
竣成(の
期日(と、
此(艇(の
如何(に
命名(されるかとの
點(である。
大佐(は
私(の
問(に
對(して、
悠々(と
鼻髯(を
捻(りつゝ
『
若(し
不時(の
天變(が無ければ、
今(より
二年(九(ヶ
月目(、
即(ち
之(から
三度目(の
記元節(を
迎(ふる
頃(には、
試運轉式(を
擧行(し、
引續(いて
本島(を
出發(して、
懷(かしき
芙蓉(の
峯(を
望(む
事(が
出來(ませう。』と
答(へ、
艇(の
名(に
就(いては
斯(う
言(つた。
『
實([#ルビの「じつ」は底本では「じ」]は、
電光艇(と
命名(する
積(です。』
電光艇(!
電光艇([#ルビの「でんくわうてい」は底本では「でんこくうてい」]!
如何(に
其實(に
相應(しき
名(よと、
私(は
感嘆(すると、
大佐(は
言(をつゞけ
『
此(艇名(は、
我(が
敬慕(する
山岡鐵舟先生(の
詩(より
採(つたのです。』
『
鐵舟先生(の
詩(?。』と
私(は
小首(を
傾(けたが、
忽(ち
心付(いた。
『
電光影裏斬春風(、
此(詩(ですか。』
『それです』と
大佐(は
莞爾(と
打笑(みつゝ
『
他日(我(が
海底戰鬪艇(が、
帝國軍艦旗(を
飜(して、
千艇※艦([#「一/力」、197-12]の
間(に
立(つの
時(、
願([#ルビの「ねがは」は底本では「ねがほ」]くば
其(名(の
如(く、
神速(に、
且(つ
猛烈(ならん
事(を
望(むのです。』
此(談話(が
叔(ると、
私(は
大佐(に
別(を
告(げ、
武村兵曹(に
送(られて、
前(の
不思議(なる
道(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、198-4]ぎて、
秘密造船所(の
外(へ
出(た。
第十六回
朝日島(
日出雄少年は椰子の木蔭に立つて居つた――國際法――占領の證據――三尖形の記念塔――成程妙案〳〵――其處だよ
秘密造船所(を
出(た
私(は、
鐵門(のほとりで
武村兵曹(に
別(れ、
猛犬(の
稻妻(を
從(へて
一散走(り、
頓(て
海岸(の
家(へ
皈(つて
見(ると、
日出雄少年(は
只(一人(で、
淋(し
相(に
門口(の
椰子(の
樹(の
木蔭(に
立(つて
居(つたが、
私(の
姿(を
見(るより
走(り
寄(り
『あゝ、
叔父(さん、
私(はどうせうかと
思(つたのです、
起床(て
見(ると、
叔父(さんは
居(ないし、
稻妻(も
何處(かへ
行(つてしまつたんですもの。』と
不平顏(。
『おゝ、
可愛相(に〳〵。』と
私(は
胸(に
抱寄(せた。
成程(私(が
今朝(未明(に
櫻木大佐等(と
共(に
家(を
去(つたのは、
未(だ
少年(が
安(らかなる
夢(を
結(んで
居(つた
間(で、
其後(に
目醒(めた
彼(は、
例(とちがひ
私(の
姿(も
見(えず、また
最愛(の
稻妻(も
居(らぬので、
定(めて
驚(き
且(つ
淋(しく
感(じた
事(であらうと
私(は
不測(に
不憫(になり
『あのね、
日出雄(さん、
叔父(さんは
故意(と
日出雄(さんに
淋(しい
目(を
見(せたのでは
無(いのだよ。
今朝(行(つた
處(は
暗(い
道(だの
危(ない
橋(だのが
澤山(あつて、
大佐(の
叔父(さんや
此(叔父(さんのやうに、
成長(な
人(でなければ
行(けない
處(、
日出雄(さんの
樣(に
小(さい
人([#ルビの「ひと」は底本では「ひど」]が
行(くと、
屹度(泣(きたくなる
程(恐(い
處(なんだから、
默(つて
行(つたのだよ。』と
言(ふと、
日出雄少年(は
眼(を
擦(つて
『
私(は、どんな
恐(い
處(でも
泣(かなくつてよ。』
『
泣(かない

それは
強(い! けれど
今(は
危(いからいけません、
追付(け
成長(なつたら、
大佐([#ルビの「たいさ」は底本では「たいた」]の
叔父(さんも
喜(んで
連(れて
行(つて
下(さるでせう。サ、サ、それよりは
稻妻(も
歸(つて
來(たから、
例(の
樣(に
海濱(へでも
行(つて、
面白(く
遊(んでお
出(で。』といふと
日出雄少年(は
忽(ち
機嫌(麗(はしく、
今(私(の
話(した
眞暗(な
道(や、
危(い
橋(の
事(について
聞(きた
相(に
顏(を
上(げたが、
此時(、
丁度(猛犬稻妻(が
耳(を
垂(れ
尾(を
掉(つて、
其(傍(へ
來(たので、
忽(ち
犬(の
方(に
氣(を
取(られて
『
稻妻(! お
前(何處(へ
行(つたの、さあ、
之(から
競走(だよ。』と、
私(の
膝(から
跳(つて、
犬(の
首輪(に
手(をかけて、
一散(に
磯(打(つ
浪(の
方(へ
走(り
出(した。
私(は
家(に
歸(り、それより
終日(室内(に
閉籠(つて、
兼(てより
企(てゝ
居(つた
此(旅行奇譚(の、
今迄(の
部分(の
編輯(に
着手(して
本書(第三回(の「
怪(の
船(」の
邊(まで
認(めかけると、
日(は
暮(れ、
日出雄少年(も
稻妻(と、
一日(四方八方(を
走(り
歩(いた
爲(に
酷(く
疲(れて
歸(つて
來(て、
私(の
膝([#ルビの「ひざ」は底本では「ひだ」]に
恁(れた
儘(、
二人(暮(れ
行(く
空(の
景色(を
眺(めて
居(る
頃(、
櫻木大佐(、
武村兵曹(、
他(一隊(の
水兵(は
今日(の
業(を
終(つて、
秘密造船所(から
皈(つて
來(た。
例(の
事(だが、
此(日(の
晩餐(は
特(に
私(の
爲(には
愉快(であつたよ。
何故(となれば
昨日(までは、
如何(に
重要(な
事(にしろ、
櫻木大佐(が
或(秘密(をば
其(胸(に
疊(んで
私(に
語(らぬと
思(ふと、
多少(不快(の
感(の
無(いでもなかつたが、
今(は
秘密造船所(の
事(も、
海底戰鬪艇(の
事(も
盡(く
分(り、
且(つは
我(が
敬愛(する
大佐(は、
斯(る
大秘密(をも
明(に
洩(す
程(、
私(を
信任(して
居(るかと
思(ふと、
嬉(しさは
胸(に
滿(ち
溢(れて、
其(知遇(を
感(ずる
事(益々(深(きと
共([#ルビの「とも」は底本では「とき」]に、
私(の
心(を
苦(しめるのは、たゞ
如何(にして
此(厚意(に
酬(いんかとの
一念(。たとへ
偶然(とはいへ、
此(離(れ
島(に
漂着(して、
斯(く
大佐(の
家(に
住(み、
大佐(をはじめ
武村兵曹(其他(の
水兵等(に
一方(ならず
世話(になつて
居(る
身(は、
彼等(が
毎日(〳〵
其(職務(のために
心身(を
碎(いて
居(るのを、
徒(らに
手(を
拱(いて
見(て
居(るに
忍(びぬ。
如何(なる
仕事(でも、
私(の
力(に
叶(ふ
相當(の
義務(を
盡(したいと
考(へたので、
私(は
膝(を
進(めた。
『
大佐(よ、
私(も
既(に
此(島(の
仲間(となつた
今(は、
貴下等(の
毎日(〳〵の
勞苦(をば、
徒(らに
傍觀(して
居(るに
忍(びません、
何(んでもよい。
鐵材(の
運搬役(でも、
蒸
機關(の
石炭(焚(きでも
何(んでもよいから、
海底戰鬪艇(の
竣成(するまで、
私(を
然(るべき
役(に
遠慮(なく
使(つて
下(さい。』と
熱心(に
語(つたが、
大佐(は
輕(く
點頭(くのみで
『ナニ、ナニ、
决(して
其樣(な
心配(は
御無用(です、
君(と
日出雄少年(とは
此(島(の
賓客(であれば、たゞ
食(つて
寢(て、
自由(な
事(をして、
電光艇(の
竣成(する
日(まで、
氣永(く
待(つて
居(れば
夫(れでよいのです。』と
微笑(を
帶(びて
『
海底戰鬪艇(の
製造(には、
極(めて
細密(なる
設計(が
出來(て、
一人(の
不足(をも
許(さぬ
代(りに、
一人(も
増加(する
必要(がないのです、ちやんと三十三
名(の
水兵(が
或(年月(の
間(働(いて、
豫定通(りに
竣功(する
手續(になつて
居(ますから、
君(も
少年(もたゞ
遊(んで
居(ればよいのです。』といふ。
大佐(の
心(では、
吾等(兩人(が
意外(の
椿事(の
爲(めに、
此樣(な
孤島(へ
漂着(して、
之(から
或(年月(の
間(、
飛(ぶに
羽(なき
籠(の
鳥(、
空(しく
故國(の
空(をば
眺(めて
暮(すやうな
運命(になつたのをば、
寧(ろ
不憫(と
思(つて
居(るのであらう。けれど
私(は
默(つては
居(られぬ。
『イヤ、
左樣(では
無(いです、
若(し
秘密造船所(の
仕事(に
私(の
必要(が
無(いなら、
料理方(でもやります〳〵。』と
决然(言放(つと、
此時(まで
食卓(の
一方(に、
默(つて
私(の
顏(を
眺(めて
居(つた
武村兵曹(は、
突然(顏(を
突出(して。
『うむ、
恰好事(がある〳〵。』と
例(の
頓狂聲(
『
貴方(に
料理方(だなんて、
其樣(な
馬鹿(らしい
事(が
出來(ますか。』と
言(ひかけて
櫻木大佐(に
眼(を
轉(じ
『
大佐閣下(、
好(機會(です、
例(の
一件(、
此(島(に
紀念塔(を
建(てる
事(を
依頼(しては
如何(でせう。』
大佐(はポンと
掌([#ルビの「たなごゝろ」は底本では「たなじゝろ」]を
叩(いた。
『
其事(!
余(も
丁度(考(へて
居(つた
處(だ。』と
私(に
向(ひ
『
若(し、
君(が
強(いて
或(仕事(を
望(み
玉(ふならば。』と
徐(ろに
語(り
出(す
大佐(の
言(によると。
元來(此(孤島(は
前(にも
云(ふ
樣(に、
未(だ、
世界輿地圖(の
表面(には
現(はれて
居(らない
程(で、
櫻木大佐(の
一行(が、
初(めて
發見(した
迄(は
全(くの
無人島(で、
何國(の
領地(とも
定(つて
居(らぬ
處(だから、
國際法上(から
言(つても「
地球上(に、
新(に
發見(されたる
島(は、
其(發見者(が
屬(する
國家(の
支配(を
受(く」との
原則(で、
當然(大日本帝國(の
新(領地(となるべき
處(である。そこで、
大佐(は
今(より
二年(以前(、
其(一行(と
共(に
此(海岸([#ルビの「かいがん」は底本では「がいがん」]に
上陸(した
時(に、
先(づ
第一(に
此(島(の
名(を「
朝日島(」と
命(じ、
永久(に
大日本帝國(の
領土(たる
可(き
事(を
宣言(し、それより
以來(、
朝日(輝(く
日(の
御旗(は、
絶(えず
海岸(の
一方(の
岬頭(に
飜(て
居(るが、さて
熟々(と
考(へるに、
大佐等(が
此(島(に
上陸(したそも〳〵の
目的(は、
秘密(なる
海底戰鬪艇(を
製造(するが
爲(で、
艇(の
竣成(と
共(に、
早晩(此處(を
立去(らねばならぬのである
[#「立去(らねばならぬのである」は底本では「去立(らねばならぬのである」]。
無論(、
立去(つた
後(でも、
永久(に
日本帝國(の
領土(であるべき
事(は
疑(を
容(れぬが、
茲(に
頗(る
憂慮(に
堪(えぬのは、
今(や、
眼(を
放(つて
天下(の
形勢(を
眺(むるに、
歐米諸國(は
寸尺(の
土地(と
雖(も
自己(の
領分(となさんと
競(爭(ひ、
若(し
茲(に、
一個(の
無人島(でもあつて、
些(かにても
國家(の
支配權(が
完全(に
及(んで
居(らぬと
見(るときは
最早(國際法(の
原則(も
何(もあつたもので
無(い、
知(つても
知(らぬ
顏([#ルビの「かほ」は底本では「なほ」]に、
先占(の
人(が
立(てたる
旗(をば
押倒(して、
自國(の
國旗(を
飜(し、
詰(る
所(は
大紛爭(を
引起(して、
其間(に
多少(の
利益(を
占(めんと
企(てゝ
居(る、
實(に
其(狡猾(なる
事(言語(に
絶(する
程(だから、
今(櫻木大佐(は
公明正大(に
此(島(を
發見(し、
名(けて
朝日島([#ルビの「あさひとう」は底本では「ちさひとう」]と
呼(び、
之(よりは
我(大日本帝國(の
領地(である
事(を
表示(する
爲(に、
幾本(の
日章旗(を
海岸(に
飜(して
置(いても、
一朝(此處(を
立去(つた
後(の
事(は、
少(からず
氣遣(はれるのである。
無論(、
絶海(の
孤島(であれば、
三年(や
五年(の
間(に
他國(の
侵犯(を、
蒙(るやうな
事(はあるまいが、
安心(のならぬは
現(に
弦月丸(の
沈沒(の
結果(、
偶然(にも
此(島(に
漂着(した
吾等(兩人(の
實例(に
照(しても、
櫻木大佐(の
一行(が、
功成(り
此處(を
立去(つた
後(に、
何時(他國人(が
入替(つて、
此(島(に
上陸(せまいものでもない、
貪慾(飽(く
事(を
知(らぬ
歐米人(が、
※一([#「一/力」、207-4]にも
其後(此處(に
上陸(したなら
夫(こそ
大變(、
何百本(の
日章旗(が
立(つて
居(つたにしろ、
其樣(な
事(には
(はぬ、
忽(ち
日章旗(は
片々(に
引裂(かれて、
代(つて
獅子(や
鷲章(の
旗(が、
我物顏(に
此(島(を
占領(する
事(であらう。
元(より
紛議(も
葛藤(も
恐(るゝ
所(でない、
正理(は
我(にあるのだが、
然(し
※里([#「一/力」、207-8]の
波濤(を
距(てたる
絶島(に
於(て、
既(に
唯一(の
確證(たる
可(き
日章旗(を
徹去(されたる
後(は、
我(に十二
分(の
道理(があつても、
一個(の
證據(なく、
天下(の
承認(を
得(る
事(は
餘程(困難(であらうと
思(ふ。
今(は
左迄(に
有要(とも
見(えぬ
此(孤島(も、
今(より三十
年(若(くば五十
年(の
後(、
我(日本(が
世界(に
大權力(を
振(はんとする
時(、
西方(歐羅巴(に
對(する
軍略上(、
如何(に
得易(からざる
要鎭(となるかは、
追(て
分(る
時(もあらう。
兎(も
角(も、
决(して
他國(には
渡(すまじき
此(朝日島(の
占領(をば、
今(より
完全(に
繼續(して、
櫻木大佐等(の
立去(つた
後(と
雖(も、
動(かし
難(き
確證(を
留(め、
※一([#「一/力」、208-5]他國(の
容嘴(する
塲合(には、
一言(の
下(に、
大日本帝國(の
領地(である
事(を
明示(し
得(る
計畫(を
立(てゝ
置(かねばならぬ。
斯(く
語(りかけた
櫻木大佐(は
一息(つき
『そこで
一個(の
妙案(を
考(へ
出(したのです。』と
言(ひながら、
頭(を
廻(らし
『
實(は、
此(妙案(の
發明者(は、
武村兵曹(と
云(つてもよい。』と
打笑(ひつゝ
『
武村兵曹(、
悉(しく
汝(から
語(つてあげい。』
聲(に
應(じて、
快活(なる
兵曹(は
進(み
出(た。
『
私(は
喋(る
事(が
下手(だから、
分(らなかつたら、
何度(でも
聽返(して
下(さい。』と
例(の
口調(で
『
其(妙案(といふのは
斯(うなんです。
貴下(も
御存(じの
通(り、
此(朝日島(は、
此(家(の
附近(を
除(いては、
到(る
處(皆(危險(な
塲所(で、
深山(へ十
里(以上(も
進(んで
行(くと、
天狗(が
居(るか
魔性(が
居(るか
分(らない、イヤ、
正歟(、
其樣(な
者(は
居(まいが、
毒蛇(や、
猛狒(や、
獅子(や、
虎(の
類(が
數知(れず
棲(んで
居(つて、
私(の
樣(な
無鐵砲(な
人間(でも、とても
恐(ろしくつて
行(けぬ
程(だから、
誰人(だつて
足踏(は
出來(ませない。そこでね、
私(の
考(へるには、
今(一個(の
堅固(な
紀念塔(を
作(へて、
其(深山(へ
持(つて
行(つて
建(てゝ
來(るのだ、
紀念塔(の
表面(には、ちやんと
朝日島(と
刻(んで、
此處(は
日本帝國(の
領地(で
御坐(る、
何年(、
何月(、
何日(、
櫻木海軍大佐(之(を
發見(すと
記(して
置(くのだ。すると、
吾等(が
此(島(を
立去(つた
後(で、
外國人(共(がやつて
來(ても
大丈夫(です。
何(、
海岸(邊(の
日(の
丸(の
旗(を
押倒(して、
獅子(だの、
鷲印(の
旗(なんか
立(てた
處(で
無益(〳〵。
此(紀念塔(の
建(てられた
深山(までは、
危險(だから
誰(も
行(けない、
行(かなければ
其樣(な
證據物(のある
事(は
知(らないで
居(る。
※一([#「一/力」、210-5]行(けば
忽(ち
猛獸(毒蛇(に
喰殺(されてしもうから、
死(んだ
人間(は
無(いも
同然(。そこで、
外國人(が
吾等(の
立去(つた
後(で、
此(島(へ
上陸(して、
此處(は
自分(が、
第一(に
發見(した
島(だなんかと、
管(を
卷(ひたつて
無益(と
申(すのだ。
此方(にはちやんと
證據物件(が
厶(る、そんなに
八釜(しく
言(ふなら、サア
來(て
見(なせいと
云(つて、
山奧(へ
連(れて
行(つて、
其(紀念塔(を
見(せてやるのだ、どうだい
此(字(が
讀(めぬか「
明治(何年(、
何月(、
何日(、
大日本帝國(海軍大佐櫻木重雄(本島(を
發見(す、
今(は
大日本帝國(の
占領地(なり、
後(れて
此(島(に
上陸(する
者(は、
速(かに
旗(を
卷(いて
立去(れ」なんかと
記(してあるでせう、
奴輩(は
喫驚(して
卒倒(るだらう。
其處(を
横面(でも
張飛(して
追拂(らつてやるのだ。』
『あはゝゝゝゝ。』と
私(は
聲(高(く
笑(つた。
成程(妙案(〳〵。
武骨(な
武村兵曹(の
考(へ
出(し
相(な
事(だ。けれど、
第一(に、
其樣(危險(な
深山(へ
如何(して
紀念塔(を
建(てるか、
外國人(の
行(かれぬ
程(危險(な
處(へは、
吾等(だつて
行(かれぬ
筈(では
無(いかと、
隙(さず
一本(切込(むと、
武村兵曹(ちつとも
驚(かない。
『
其處(が
奇々妙々(の
發明(だよ。』
第十七回
冐險鐵車(
自動の器械――斬頭刄(形の鉞――ポンと小胸を叩いた――威張れません――君が代の國歌――いざ、帝國の萬歳を唱へませう
『
其處(が、
奇々妙々(の
發明(だよ。』と
武村兵曹(は
澄(ました
顏(で
『
私(だつて、
其樣(に
無鐵砲(な
事(は
言(はない、
此(工夫(は、
大佐閣下(も
仲々(巧妙(と
感心(なすつたんです。』と
意氣(昂然(として
『
冐險鐵車(――
左樣(自動仕掛(けの
鐵檻(の
車(を
製造(して、
其(れに
乘(つて、
山奧(へ
出掛(けやうといふんです。』
『む、
鐵檻(の
車(?。』と
私(は
額(を
叩(いた。
武村兵曹(は
此時(大佐(の
許可(を
得(て、
次(の
室(から
一面(の
製圖(を
携(へて
來(て、
卓上(に
押廣(げ
『これです、
自動冐險鐵車(の
設計(といふのは――
先(づ
此(鐵檻(の
車(の
恰形(は
木牛(に
似(て、
長(さ二十二
尺(、
幅員(十三
尺(、
高(さは
木牛形(の
頭部(に
於(て十二
尺(、
後端(に
於(て十
尺(半(、
四面(は
其(名(の
如(く、
堅牢(なる
鐵(の
檻(をもつて
圍繞(まれ、
下床(は
彈力性(を
有(するクロー
鋼板(で、
上部(は
半面(鐵板(に
蔽(はれ、
半面(鐵檻(をもつて
作(られ、
鐵車(は
都合(十二の
車輪(を
備(へ、
其内(六
個(は
齒輪車(で、
此(車輪(を
運轉(する
動力(は、
物理學上(の
種々(なる
原則(を
應用(せる、
極(めて
巧緻(なる
自轉(の
仕組(にて、
車内(前部(の
機械室(には「ノルデン、インヂン」に
髣髴(たる、
非常(に
堅牢(緻密(なる
機械(の
設(けありて、
大(、
中(、
小(、三十七
種(の
齒輪車(は
互(に
噛合(ひ、
吸鍔桿(、
曲肱(、
方位盤(に
似(たる
諸種(の
器械(は
複雜(を
極(め、
恰(も
聯成式(の
蒸氣機關(を
見(るやうである。
今(一個(の
人(あり、
車臺(に
坐(して、
右手(に
柄子(を
握(つて
旋廻輪(を
廻(しつゝ、
徐々(に
足下(の
踏臺(を
踏(むと
忽(ち
傍(に
備(へられたる
號鈴器(はリン〳〵と
鳴(り
出(して、
下方(の
軸盤(の
靜(かに
回轉(を
始(むると
共(に、
其(動力(は
第一(の
大齒輪(に
及(び、
第二(の
齒輪車(に
移(り、
同時(に
吸鍔桿(は
上下(し、
曲肱(の
活動(は
眼(にも
留(らず、かくて
其(動力(が
第(三十七
番目(の
齒輪車(に
及(ぶ
頃(には、
其(廻轉(の
速度(と、
實力(とは、
非常(に
強烈(になつて、
殆(んど四百四十
馬力(の
蒸
機關(に
匹敵(し
得(る
由(、
此(猛烈(なる
動力(が、
接合桿(をもつて
車外(十二
個(の
車輪(を
動(かし、
遂(に
此(堅固(なる
鐵檻(の
車(は
進行(を
始(めるのである。
勿論(かゝる
構造(で、
極(めて
重量(のある
鐵車(の
事(だから、
速力(の
點(に
於(ては
餘(り
迅速(には
行(かぬ、
平野(ならば、
一時間(平均(五
哩(以上(進行(する
事(が
出來(るであらうが、
極(く
勾配(の
激(しい
坂道(では、
辛(じて一
時間(一
哩(位(の
速力(に
終(る
事(もあらう。
然(し、
此(冐險鐵車(の
特色(は
水中(の
他(は
如何(なる
險阻(の
道(でも
進行(し
得(ぬといふ
事(はなく、
險山(を
登(るには
通常(の
車輪([#ルビの「しやりん」は底本では「しやり」]の
他(に
六個(の
強堅(なる
齒輪車(と、
車室(の
前方(に
裝置(されたる
螺旋形(の
揚上機(、
及(び
後方(に
設(けられたる
遞進機(とを
使用(して、
登(る
山道(の
大木(巨巖等(を
力(に、
螺旋形(の
尖端(は
先(づ
螺釘(の
如(く
前方(の
大木(に
捩(れ
込(み、
車内(の
揚上機(の
運轉(と
共(に、
其(螺旋(は
自然(に
收縮(して、
次第(〳〵に
鐵車(を
曳上(げ、
遞進機(は
螺旋形揚上機(とは
反對(に、
後方(の
巖石(を
支臺(として、
彈力性(の
槓桿(の
伸張(によつて、
無二無三(に
鐵車(を
押上(げるのである。
鐵車(深林(を
行(くには、
一層(巧妙(なる
器械(がある、それは
鐵車(の
前方(木牛頭(の
上下(より
突出(して、二十一の
輪柄(を
有(する
四個(の
巨大(なる
旋廻圓鋸機(と、むかし
佛蘭西(の
革命時代(に、
日(に
一萬三千人(の
首(を
刎(ねたりと
呼(ばるゝ、
世(にも
恐(るべき
斬頭刄(の
形(に
髣髴(たる、
八個(の
鋭利(なる
自轉伐木鉞(との
仕掛(けにて、
行道(に
塞(がる
巨木(は
幹(より
鋸(き
倒(し、
小木(は
枝(諸共(に
伐(り
倒(して
猛進([#ルビの「まうしん」は底本では「ほうしん」]するのであるから、
如何(なる
險山(深林(に
會(しても、
全(く
進行(を
停止(せらるゝやうな
患(はないのである。
鐵檻(の
車(の
出入口(は、
不思議(にも
車室(の
頂上(に
設(けられて、
鐵梯(を
傳(つて
屋根(から
出入(する
樣(になつて
居(る。それは
四面(の
鐵檻(の
堅牢(なる
上(にも
堅牢(ならん
事(を
望(んで、
如何(に
力強(き
敵(が
襲(來(ても、
决(して
車中(の
安全(を
害(せられぬ
爲(の
特別(の
注意(である
相(な。
乘組(の
人員(は、
五人(が
定員(で、
車内(には
機械室(の
外(に、
二個(の
區劃(が
設(けられ、
一方(は
雨露(を
凌(ぐが
爲(めに
厚(さ
玻璃板(を
以(て
奇麗(に
蔽(はれ、
床上(には
絨壇(を
敷(くもよし、
毛布(位(いで
濟(ますもよし、
其處(は
乘組人(の
御勝手(次第(、
他(の
區劃(は
彈藥(や
飮料(や
鑵詰(や
乾肉(や
其他(旅行中(の
必要品(を
貯(へて
置(く
處(で、
固定旅櫃(の
形(をなして
居(る。
『
斯(う
出來上(つたら
立派(なもんでせう。』と
武村兵曹(は
鼻(を
蠢(めかしつゝ
私(を
眺(めた。
『
見事(!
見事(! イヤ
實(に
驚(く
可(き
大發明(だよ。』と
私(は
膝(の
進(むを
覺(えなかつた。
兵曹(は
猶(も
威勢(よく
『ね、
此(自動鐵檻車(が
出來(て
見(なさい、
如何(な
危險(な
塲所(だつて
平氣(なもんです、
猛狒(や
獅子(が
行列(を
立(てゝ
襲(つて
來(た
所(で、
此方(は
鐵檻車(の
中(から
猛獸(共(の
惡相(を
目掛(けて、
鐵砲玉(の
御馳走(でもしてやるばかりだ。
其處(で
此(鐵車(に
乘(つて、
朝日島(の
名(を
刻(んだ
紀念塔(を
携(へて、
此處(から三十
里(位(いの
深山(に
踏入(つて、
猛獸(毒蛇(の
眞中(へ、
其(紀念塔(を
建(てゝ
來(るのだ、
何(んと
巧妙(い
工夫(ではありませぬか。』とポンと
小胸(を
叩(いて
『
此樣(な
工夫(をやるのだもの、
此(武村新八(だつてあんまり
馬鹿(にはなりますまい。』と
眼(を
眞丸(にして
一同(を
見廻(したが、
忽(ち
聲(を
低(くして
『だが
[#「だが」は底本では「だか」]、あんまり
威張(れないて、
此樣(な
車(を
製造(ては
如何(でせうと、
此處(まで
工夫(したのは
此(私(だが、
肝心(の
機械(の
發明(は
悉皆(大佐閣下(だよ。』と
苦笑(したので、
櫻木海軍大佐(をはじめ、
一座(の
面々(、
餘(りの
可笑(しさに、
一時(にドツと
笑崩(るゝ
間(に、
武村兵曹(は
平氣(な
顏(で
私(に
向(ひ
『
其處(で、
貴方(に
勸(めるのです
貴方(は
石炭焚(きだの、
料理方(だのつて、
其樣(な
馬鹿(な
眞似(が
出來(るもので
無(いから、それよりは、
此(鐵檻車(の
製造(にお
着手(なすつては
如何(です、
大佐閣下(も
餘程(前(から
此(企(はあつたので、すでに
製圖(まで
出來(て
居(るのだが、
海底戰鬪艇(の
方(が
急(がしいので、
力(を
分(ける
事(が
出來(ず、
何(れ
艇(の
竣成(後(、
製造(に
着手(らうと
仰(しやつて
居(るのだが、
海底戰鬪艇(が
出來上(つた
上(は、
一日(も
速(く
日本(へ
歸(つた
方(がいゝ、それで、なんと、
貴方(はやつて
見(る
御决心(はありませんか、
若(し
貴方(が
主任者(となつて、
一生懸命(にやる
積(なら、
私共(も二三
人宛(は
休息時間(を
廢(しても、
交(る〴〵
行(つて
働(きますぞ、すると
海底戰鬪艇(の
竣工(する
頃(には、
鐵檻(の
車(も
出來上(つて、
私共(は
直(ぐ
其(れに
乘込(んで、
深山(の
奧(へ
行(つて、
立派(に
紀念塔(を
建(てゝ
來(るのだ。』
『
愉快(々々。』と
私(は
兩手(を
擧(げた。
櫻木海軍大佐(は
微笑(を
帶(びて
私(に
向(ひ
『
君(は
進(んで、
此(任務(を
擔當(しますか。』
『やります。』と
私(は
斷言(した。
自動冐險鐵車(! あゝ
此(前代未聞(なる
鐵車(の
製造(は、
隨分(容易(な
事(ではあるまい。
然(し、
私(も
一個(の
男子(である。
之(から二
年(九ヶ
月(の
間(、
大佐等(はかの
驚(く
可(き
海底戰鬪艇(の
工作(に
着手(して
居(る
間(、
私(の
心身(を
込(めて
從事(したら、
何(んの
出來(ぬ
事(があらう。やるやる
見事(にやつて
見(せる。
櫻木大佐(は
痛(く
打悦(び、
『
君(に
其(决心(があるなら
屹度(出來(ます、
鐵車(の
製造所(は、
我(が
秘密造船所(内(の
何處(かに
設(け、
充分(の
材料(は
私(の
方(から
供給(し、また
君(の
助手(としては、
毎日(午前(午後(に
交代(に、四
名宛(の
水兵(を
遣(はす
事(に
致(しませう。
私(も
及(ばずながら
※事([#「一/力」、220-8]に
就(いて
助言(を
致(しますよ。』といふ。
『
斯(うなつたら、
生命掛(けでやります。』と
私(は
腕(を
叩(いた。
『
面白(ろい〳〵。』と
武村兵曹(は
頬鬚(を
撫(でた。
日出雄少年(は
先刻(から、
櫻木大佐(の
傍(に、
行儀(よく
吾等(の
談話(を
聽(いて
居(つたが、
幼(き
心(にも
話(の
筋道(はよく
分(つたと
見(へ、
此時(可愛(らしき
眼(を
此方(に
向(け
『あの、
叔父(さんが、
鐵(の
車(をお
製(になるんなら、
私(も
同一(に
働(かうと
思(ふんです。』
『こいつは
愈々(面白(くなつて
來(た。』と
武村兵曹(は
突如(少年(を
抱上(げた。
櫻木海軍大佐(は
打笑([#ルビの「うちえ」は底本では「うみえ」]みながらも、
聲(爽(かに
『
日出雄少年(は
鐵工(となるより、
立派(な
海軍士官(となる
仕度(をせねばならんよ。』と
武村兵曹(の
膝(なる
少年(の
房々(した
頭髮(を
撫(でやりつゝ、
私(に
向(ひ
『
兼(て
承(る、
彼(の
父(なる
濱島武文氏(と、
春枝夫人(との
志(に
代(つて、
不肖(ながら
日出雄少年(の
教育(の
任(をば、
之(から
此(櫻木重雄(が
引受(けませう。』といふ。
私(は
此(一言(で、
忽(ち
子ープルスの
親友(や、
春枝夫人(の
事(を
回想(した。
日出雄少年(をば
眞個(の
海軍々人(の
手(に
委(ねんとせし
彼(の
父(の
志(が、
今(や
意外(の
塲所(で、
意外(の
人(に
依(て
達(せらるゝ
此(嬉(しき
運命(に、
思(はず
感謝(の
涙(は
兩眼(に
溢(れた。
暫時(室内(はシンとなると、
此時(何處(とも
知(れず「
君(が
代([#「君(が代(」は底本では「君(か代(」]」の
唱歌(が
靜(かなる
海濱(の
風(につれて
微(かに
聽(える。オヤと
思(つて、
窓外(を
眺(めると、
今宵(は
陰暦(の十三
夜(、
月明(かなる
青水(白沙(の
海岸(には、
大佐(の
部下(の
水兵等(は、
晝間(の
疲勞(を
此(月(に
慰(めんとてや、
此處(に
一羣(。
彼處(に
一群(、
詩吟(するのもある。
劍舞(するのもある。
中(に
一團(七八
人(の
水兵等(は、
浪(に
突出(されたる
磯(の
上(に
睦(しく
輪(をなして、
遙(かに
故國(の
天(を
望(みつゝ、
節(おもしろく
君(が
代(の
千代八千代(の
榮(を
謳歌(して
居(るのであつた。
『あゝ、
壯快(、
壯快(!。』と
私(は
絶叫(したよ。
櫻木海軍大佐(は
徐(かに
立上(り
『いざ、
吾等(も
彼處(に
行(いて、
共(に
大日本帝國(の
※歳([#「一/力」、223-3]を
唱(へませうか。』
* * * *
* * * *
其(翌日(から、
私(は
朝(は
東雲(の
薄暗(い
時分(から、
夕(は
星影(の
海(に
落(つる
頃(まで、
眞黒(になつて
自動鐵檻車(の
製造(に
從事(した。
洞中(の
秘密造船所(の
中(では、
海底戰鬪艇(の
方(でも、
私(の
方(でも、
鎔鐵爐(、
冶金爐等(から
々(と
吹(き
出(す
熱火(の
光(は
魔神(の
紅舌(のごとく、
互(に
打(おろす
大鐵槌(の
響(は、
寂寞(たる
洞窟(を
鳴動(して、
朝日島(の
海(の
神樣(も、
定(めて
膽(を
潰(した
事(であらう。
第十八回
野球競技(
九種の魔球(――無邪氣な紛着――胴上げ――西と東に別れた――獅子の友呼び――手頃の鎗を捻つて――私は殘念です――駄目だんべい
それから、一
年(、二
年(、三
年(と、
月日(の
車(は
我等(の
仕事(の
進行(と
同(じ
速力(に
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、224-5]つて、
櫻木海軍大佐(が
兼(て
豫定(した
通(りに、
世(にも
驚(く
可(き
海底戰鬪艇(も、
今(は
九分九厘(まで
竣成(し、いよ〳〵
今(二月(の十一
日(、
即(ち
大佐等(の
爲(には
此(朝日島(に
上陸(してから
五度目(の――
私(と
日出雄少年(とのためには
三度目(の、
紀元節(の
祝日(を
迎(ふると
共(に、
目出度(き
試運轉式(を
擧行(し
得(る
迄(の、
歡(ばしき
運(びに
到(つた
頃(、
私(の
擔任(の
自動鐵車(も
全(く
出來上(つた。
今(になつて
回想(ると、三
年(の
月日(もさて〳〵
速(いものだ。
本國(から
數千里(距(たつた
此(印度洋(中(の
孤島(にあつて、
隨分(故郷(の
空(の
懷(かしくなつた
事(も
度々(あつた――
昔(の
友人(の
事(や――
品川灣(の
朝景色(や――
上野淺草(邊(の
繁華(な
町(の
事(や――
新橋(の
停車塲(の
事(や――
回向院(の
相撲(の
事(や――
神樂坂(の
縁日(の
事(や――
萬(朝報(の
佛蘭西(小説(の
事(や――
錦輝舘(の
政談(演説(の
事(や――
芝居(の
事(や
浪花節(の
事(や、それから
又(た
自分(が
學校時代(によく
進撃(した
藪(そばや
梅月(の
事(や、
其他(樣々(な
事(を
懷想(して、
翼(あらば
飛(んでも
行(きたいまで
日本(の
戀(しくなつた
事(も
度々(あつたが、
然(し
比較的(に
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、225-7]の三
年(は
私(の
爲(には
凌(ぎ
易(かつたよ、イヤ、
其間(には
隨分(、
諸君(には
想像(も
出來(ない
程(、
面白(い
事(も
澤山(あつた。
獅子狩(は
何(んでも十
幾遍(か
催(されたが
例(も
武村兵曹(の
大功名(であつた。また
或(時(は
海岸(の
家(の
直(ぐ
後(の
森(へ、
大鷲(が
巣(を
營(んで
居(るのを
見付(けて、
其(卵子(を
捕(りに
行(つて
酷(い
目(に
遭遇(した
事(もある。
毎日(〳〵
晨(に
星(を
戴(いて
大佐等(と
共(に
家(を
出(で、
終日(海底(の
造船所(の
中(で
汗水(を
流(して、
夕暮(靜(かな
海岸(を
歸(つて
來(ると、
日出雄少年(と
猛犬(の
稻妻(とは
屹度(途中(まで
迎(に
來(て
居(る、それから
暑(い
時(には
家(の
後(を
流(れて
居(る
清流(で
身體(を
清(め、
凉(しい
時(には
留守居(の
水兵(や
日出雄少年(が
凖備(して
呉(れる
此(孤島(には
不相應(に
奇麗(な
浴湯(へ
入(つて、
頓(て
樂(しい
夕食(も
終(ると、
此邊(は
熱帶國(の
常(とて、
年中(日(が
長(いので、
食後(一
時間(ばかりは
大佐(をはじめ
一同(海邊(に
出(でゝ
戸外運動(に
耽(るのである。
庭球(もある、「クリツケツト」もある、
射的塲(もある、
相撲(の
土俵(もある、いづれも
櫻木大佐(が
日本(を
出(づる
前(から、かゝる
孤島(の
生活中(、
一同(の
無聊(を
慰(めんが
爲(めに
凖備(して
來(た
事(とて「テニス、コード」も
射的塲(も
仲々(整頓(したものである、
然(し、
此(島(で
一番(流行(るのは
端艇競漕(と
野球競技(とであつた。
端艇競漕(は
本職(の
事(だから
流行(るのも
無理(は
無(いが、
大事(の
端艇(は
甞(て
起(つた
大颶風(の
爲(めに
大半(紛失([#ルビの「ふんしつ」は底本では「ふんじつ」]してしまつたので、
今(殘(つて
居(るのは「ギク」一
隻(、「カツター」二
隻(で、
櫂(も
餘程(不揃([#ルビの「ふぞろひ」は底本では「ぶぞろひ」]なので、とても
面白(い
競漕(などは
出來(ない、
時々(やつて
見(たが、「ハンデー」やら
其他(樣々(の
遣繰(やらで、いつも
無邪氣(な
紛着(が
起(つて、
墨田川(の
競漕(の
樣(に
立派(には
行(かぬのである。
野球(は
其樣(な
災難(が
無(いから、
毎日(〳〵
盛(んなものだ
[#「盛(んなものだ」は底本では「盛(んなものた」]、
丁度(海岸(の
家(から一
町(程(離(れて、
不思議(な
程(平坦(な
芝原(の「ゲラウンド」があるので、
其處(で「アウト」「ストライキ」の
聲(は
夕暮(の
空(に
響(いて、
審判者(の
上衣(の
一人(黒(いのも
目立(つて
見(える。
櫻木大佐(は
今年(三十三
歳(、
身(は
海軍大佐(であるが、
日本人(には
珍(らしい
迄(かゝる
遊戯(を
嗜好(んで、また
仲々(達者(である、
昔(は
投手(の
大撰手(として、
雄名(其(仲間(には
隱(れもなかつた
相(な、
今(も
其(面影(が
殘(つて、
此(朝日島(中(、
武村兵曹(と
私(とを
除(いたら
其(次(の
撰手(と
云(つてもよからう、
私(は
世界(漫遊(以來(久(しく「ボール」を
手(にせぬから
餘程(技倆(も
落(ちたらうが、それでも
遊撃手(の
位置(に
立(たせたら
本國(横濱(の
アマチユーア倶樂部(の
先生(方(には
負(けぬ
積(で
御坐(る。
武村兵曹(の
技倆(はまた
格別(で、
何處(で
練習(したものか、
鐵(の
樣(な
腕(から
九種(の
魔球(を
捻(り
出(す
[#「捻(り出(す」は底本では「捻(り出(ず」]工合(は
悽(まじいもので、
兵曹(を
投手(にすると
敵手(になる
組(はなく、また
打棒(が
折(れて〳〵
堪(らぬので、
此頃(では
大概(左翼(の
方(へ
廻(して
居(るが、
先生(其處(からウンと
力(を
込(めて
熱球(を
投(げると、
其(球(がブーンと
捻(り
聲(を
放(つて
飛(んで
來(る
有樣(、イヤ
其(球(が
頭(へでも
當(つたら、
此世(の
見收(めだと
思(ふと、
氣味(が
惡(くて
仲々(手(も
出(せない
程(である。
大佐等(一行(が
此(島(へ
來(たのは
私(より
餘程(前(で、
其(留守中(、
米國軍艦(「オリンピヤ」
號(が
横濱(へやつて
來(て、
音(に
名高(き、
チヤーチの
熱球(、
魔球(が、
我國(野球界(の
覇王(ともいふ
可(き
第(一
高等學校(の
撰手(を
打破(つた
事(は、
私(が
此(島(へ
漂着(する
半年(程(前(、
英國(倫敦(で
ちらと
耳(にした、
之(れはもう
今(から三四
年(も
前(の
事(だが、
實(に
殘念(な
次第(である。
其後(一高軍(は
物(の
見事(に
復讎(を
遂(げたであらうが、
若(し
未(だならば
私(は
竊(かに
希望(して
居(るのである、
他日(我等(が
此(孤島(を
去(つて
日本(へ
歸(つた
後(、
武村兵曹(若(し
軍艦(に
乘(じ、
又(は
大佐(の
電光艇(と
共(に
世界(の
各港(を
廻(り、
一度(北亞米利加(の
沿岸(に
到(つたならば、
晩香坡(の
南街公園(に
於(て、
若(くば
黄金門(の
光(輝(く
桑港(の
廣野(に
於(て――
何處(にてもよし、
其處(に
米艦(「オリンピヤ」
號(の
投錨(せるを
見(ば、
此方(武村兵曹(を
投手(として、
彼方(音(に
名高(き
チヤーチの
一軍(と
華々(しき
勝敗(を
决(せんことを。
敵(は
米國軍艦(、
我(は
帝國軍艦(、
水雷(砲火(ならぬ
陸上(の
運動(をもつて
互(に
挑(み
鬪(ふも
亦(た
一興(であらうと
思(ふ。
日出雄少年(は
如何(に!
少年(も
亦(た
我等(の
遊(仲間(である。
何時(でも
第(一に
其(運動塲(に
驅(けて
行(くのは
彼(だ、
其(身體(の
敏捷(に
動(く
事(とどんな
痛(い
目(にも
痛(い
顏(をせぬ
事(と、それから
極(く
記臆力(が
強(く、
規則([#ルビの「ルール」は底本では「レール」]などは
直(ぐ
覺(えてしまうので、
武村兵曹(は
此(兒(將來(は
非常(に
有望(な
撰手(であると
語(つたが
啻(に
野球(ばかりではなく
彼(は
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、230-6]三
年(の
間(、
櫻木海軍大佐(の
嚴肅(なる、
且(つ
慈悲(深(き
手(に
親(しく
薫陶(された
事(とて、
今年(十二
歳(の
少年(には
珍(らしき
迄(に
大人似(て、
氣象(の
凛々(しい、
擧動(の
沈着(な、まるで、
小櫻木大佐(を
茲(に
見(るやうな、
雄壯(しき
少年(とはなつた。
少年(は
端艇(、
野球等(の
他(、
暇(があると
石(を
投(げる、
樹(に
登(る、
猛犬稻妻(を
曳(つれて
野山(を
驅(けめぐる、
其爲(に
體格(は
非常(に
見事(に
發達(して、
以前(には
人形(のやうに
奇麗(であつた
顏(の、
今(は
少(しく
色(淺黒(くなつて、それに
口元(キリ、と
締(り、
眼(のパツチリとした
樣子(は、
何(とも
云(へず
勇(ましい
姿(、
此後(機會(が
來(て、
彼(が
父君(なる
濱島武文(に
再會(した
時(、
父(は
如何(に
驚(くだらう。またかの
天女(の
如(き
春枝夫人(が、
萬一(にも
無事(であつて、
此(勇(ましい
姿(を
見(たならば、どんなに
驚(き
悦(ぶ
事(であらう。
今(や
本島(の
主人公(なる
櫻木海軍大佐(の
健康(は
言(ふ
迄(もなく、
此頃(では
殆(ど
終日(終夜(を、
秘密造船所(の
中(で
送(つて
居(る。
武村兵曹(は
相變(らず
淡白([#ルビの「たんぱく」は底本では「たぱく」]で、
慓輕(で、
其他(三十
有餘名(の
水兵等(も
一同(元氣(よく、
大(なる
希望(の
日(を
待望(みつゝ、
勤勉(に
働(いて
居(る。
かゝる
喜(ばしき
境遇(の
間(に、
首尾(よく
竣成(した
自動鐵檻車(は、
終(に
洞中(の
工作塲(を
出(た。
例(の
屏風岩(の
上(から
直(ちに
運轉(を
試(みて
見(ると
最良(の
結果(で、
號鈴(リン〳〵と
鳴(りひゞき、
不思議(なる
機關(の
活溌(なる
運轉(に
從(つて十二
個(の
外車輪(が、
岩(を
噛(み、
泥(を
蹴(つて
疾走(する
有樣(は、
吾(ながら
見事(に
思(はるゝばかり、
暫時(喝采(の
聲(は
止(まなかつた。
忽(ち
何人(の
發聲(にや、
一團(の
水兵等(はバラ〳〵と
私(の
周圍(に
走寄(つて『
鐵車(萬歳(々々々々。』と
私(の
胴上(げを
始(めた。
萬歳(は
難有(いが、
鬼(とも
組(まんず
荒男(が、
前後左右(からヤンヤヤンヤと
揉上(げるので、
其(苦(しさ、
私(は
呼吸(が
止(まるかと
思(つた。
斯(うなると、
一刻(も
眤(として
居(られぬのは
武村兵曹(である。
腕拱(いて、
一心(に
鐵檻車(の
運轉(を
瞻(めて
居(つたが、
忽(ち
大聲(に
『やあ、うまい〳〵、でも
[#「でも」は底本では「ても」]よく
動(くわい、もう
遲々(しては
居(られない。』と
急(に
走(つて
行(つて、
此時(既(に
出來上(つて
居(つた
紀念塔(を
引擔(いで
來(た。
塔(は
高(さ三
尺(五
寸(、
三尖方形(の
大理石(で、
其(滑(なる
表面(には「
大日本帝國新領地朝日島(」なる十一
字(が
深(く
刻(まれて、
塔(の
裏面(には、
發見(の
時日(と、
發見者(櫻木海軍大佐(の
名(とが、
明(に
記銘(されて
居(るのだ。
塔(を
擔(いで
來(た
武村兵曹(は
息(を
切(らしながら
大佐(に
向(ひ
『
大佐閣下(、
鐵車(も
見事(に
出來(ましたれば、
善(は
急(げで
今(から
直(ぐと
紀念塔(を
建(てに
出發(しては
如何(でせう、すると
氣(も
晴々(しますから。』
大佐(は
滿面(に
笑(を
堪(へつゝ
『
無論(躊躇(する
必要(はない、
我(が
海底戰鬪艇(も、
今日(から十
日目(の
紀元節(の
當日(には、
試運轉式(を
行(ひ、
其後(一週間(以内(には、
總(ての
凖備(を
終(つて、
本島(を
出發(する
豫定(だから、
紀念塔(の
建立(も
其(以前(に
終(らねば――。』と
言(ひかけて
私(に
向(ひ
『
其處(で、
明日(午前(六時(を
以(て、
鐵檻車(の
出發(の
時刻(と
定(めませう、
之(から三十
里(の
深山(に
達(するに、
鐵車(の
平均速力(が一
時間(に二
里(半(として、
往途(に
二日(、
建塔(の
爲(めに一
日(、
歸途(二日(、
都合(五日目(には、
鐵車(再(び
此處(へ
皈(つて、
共(に
萬歳(を
唱(へる
事(が
出來(ませう。』
『あゝ。
明朝(まで
待(つのですか。』と
武村兵曹(は
口(を
むくつかせたが、
忽(ちポンと
掌(を
叩(いて
『おゝ、それも
左樣(だ、
私(の
考通(りにも
行(かないな、
之(から
糧食(を
積入(れたり、
飮料水(の
用意(をしたりして
居(ると、
矢張(出發(は
明朝(になるわい。』と
獨言(つ、
此(男(例(もながら
慓輕(な
事(よ。
鐵車(が、いよ〳〵
永久紀念塔(を
深山(の
頂(に
建(てんが
爲(めに、
此處(を
出發(するのは
明朝(午前(六時(と
定(つたが、
櫻木海軍大佐(は、
海底戰鬪艇(の
運轉式(も
間近(に
迫(つて
居(るので、
一日(も
此塲(を
立去(る
事(叶(はねば、そこで
私(と、
日出雄少年(と、
武村兵曹(と、
他(に
二名(の
水兵(とが、
鐵車(に
乘組(む
事(になつた。
猛犬稻妻(も
日出雄少年(の
懇望(で、
此(冐險旅行(に
隨(ふ
事(になつた。
それより、
鐵車(に
紀念塔(を
積入(れ、
小銃(、
彈藥(、
飮料水(、
糧食等(の
用意(に
日(を
暮(して、さて
其(翌日(となると、
吾等(撰任(されたる
五名(は
未明(に
起床(でゝ
鐵車(へ
乘組(んだ。
頓(て
鐵車(は
勢(よく
進行(を
始(めると、
櫻木大佐(をはじめ三十
餘名(の
水兵(共(は
歡呼(を
擧(げて、十
數町(の
間(吾等(の
首途(を
見送(つて
呉(れたが、
遂(に、
唯(ある
丘陵(の
麓(で
別(を
告(げ、
吾等(は
東(へ、
彼等(は
西(へ、
其(丘(の
中腹(にて、
櫻木大佐等(が
手巾(を
振(り、
帽子(を
動(かして
居(る
姿(も、
頓(て
椰子(や
橄欖(の
葉(がくれに
見(えずなると、それから
鐵車(は
全速力(に、
野(と
云(はず
山(と
云(はず
突進(む、
神變(不思議(なる
自動鐵車(の
構造(は、
今更(管々(しく
述立(てる
必要(もあるまい、
森林(を
行(く
時(は、
旋廻圓鋸機(と、
自動鉞(との
作用(で、
路(を
切開(き、
山(を
登(るには、
六個(の
齒輪車(と
揚上機(、
遞進機(の
働(で、
地(を
噛(み、
石(を
碎(いて
進行(するのだ。
大約(道(の
四五里(も
進(んだと
思(ふ
處(から
山(は
益々(深(くなり、
路(はだん〳〵と
險阻([#ルビの「けんそ」は底本では「けそ」]になつたが、
元氣(なる
武村兵曹(は、
何(んでも
日沒(までには二十
里(以上(を
進(まねばならぬと
勇(み
立(つ。
山(に
入(ると、
直(ちに
猛獸(毒蛇(の
襲撃(に
出逢(ふだらうとは
兼(ての
覺悟(であつたが、
此時(まで
其樣(な
模樣(は
少(しも
見(えなかつた。
四隣(は
氣味(の
惡(い
程(物靜(で、たゞ
車輪(の
輾(る
音(と、
折(ふし
寂寞(とした
森林(の
中(から、
啄木鳥(がコト〳〵と、
樹(の
幹(を
叩(く
音(とが
際立(つて
聽(ゆるのみであつたが、
鐵車(は
進(み
進(んで、
今(や
唯(ある
深林(の
邊(に
差掛(つた
時(、
日出雄少年([#ルビの「ひでをせうねん」は底本では「びでをせうねん」]は
急(に
私(の
袖(を
引(いた。
『
獅子(が〳〵。』
『
獅子(が?
何處(に?。』と
一同(は
屹(となつて、
其(指(す
方(を
眺(めると、
果(して
百(ヤード
許(離(れたる
日當(りのよき
草(の
上(に、
一頭(の
巨大(なる
雄獅子(が
横(つて
居(つたが、
鐵車(の
響(に
忽(ちムツクと
起上(り、
一聲(高(く
吼(えた。
『
獅子(の
友呼(び!。』と
一名(の
水兵(は
(いた。
成程(遠雷(の
如(き
叫聲(が
野山(に
響渡(ると、
忽(に
其處(の
森(からも、
彼處(の
岩陰(からも
三頭(五頭(と
猛獸(は
群(をなして
現(はれて
來(た。
獅子(、
虎(、
猛狒等(いづれも
此(不思議(なる
鐵檻(の
車(に
一時(は
喫驚(したのであらう、
容易(に
手(を
出(さない。
日出雄少年(は
壯快(なる
聲(を
擧(げて
『
叔父(さん〳〵、
獅子(なんかの
方(では、
屹度(私共(を
怪物(だと
思(つて
居(るんでせうよ。』と
叫(んだが
全(く
左樣(かも
知(れぬ
暫時(は
其處此處(の
木(の
間(かくれに、
脊(を
高(くし、
牙(を
鳴(らして
此方(を
睨(んで
居(つたが、それも
僅(かの
間(で、
獅子(は
百獸(の
王(と
呼(ばるゝ
程(あつて、
極(めて
猛勇(なる
動物(で、
此時(一聲(高(く
叫(んで、
三頭(四頭(鬣(を
鳴(らして
鐵車(に
飛掛(つて
來(た。
鐵車(は
其樣(な
事(ではビクともしない、
反對(に
獸(を
彈飛(すと、
百獸(の
王樣(も
團子(のやうに
草(の
上(を
七顛八倒(。
吾等(一同(はドツと
笑(つた。
虎(は
比較的(愚(な
動物(で、
憤然(身(を
躍(らして、
鐵車(の
前方(から
飛付(いたから
堪(らない、
恐(る
可(き
旋廻圓鋸機(のために、
四肢(や、
腹部(を
引裂(かれて、
苦鳴(をあげて
打斃(れた。
最(も
狡猾(なるは
猛狒(である。
古木(の
樣(な
醜(き
腕(を
延(して、
鐵車(の
檻(を
引握(み、
力任(せに
車(を
引倒(さんとするのである。
猛犬稻妻(は
猛然(として
其(手(に
噛(み
付(いた。
『
此奴(、
生意氣(!。』と
水兵(は
叫(んだ。
『それ
發射(!。』と
私(が
叫(ぶ
瞬間(、
日出雄少年(は
隙(さず
三發(まで
小銃(を
發射(したが、
猛狒(は
平氣(だ。
武村兵曹(大(に
怒(つて
『
此(畜類(、まだ
往生(しないか。』と、
手頃(の
鎗(を
捻(つて
其(心臟(を
貫(くと、
流石(の
猛獸(も
堪(らない、
雷(の
如(く
唸(つて、
背部(へドツと
倒(れた。
『
愉快(々々、
世界一(の
王樣(だつて、
此樣(な
面白(い
目(は
見(られるものでない。』と
水兵(共(は
雀躍(した。
日出雄少年(は
猛狒(の
死骸(を
流盻(に
見(やりて
『それでも、
私(は
殘念(です、
猛狒(は
私(の
鐵砲(では
死(にませんもの。』と
不平顏(。
『
何(、
左樣(でない、
此(獸(は
泥土(と、
松脂(とで、
毛皮(を
鐵(のやうに
固(めて
居(るのだから、
小銃(の
彈丸(位(では
容易(に
貫(く
事(が
出來(ないのさ。』と
私(は
慰(めた。
此(大騷動(の
後(は、
猛獸(も
我等(の
手並(を
恐(れてか、
容易(に
近(づかない、それでも
此處(を
立去(るではなく、
四五間(を
距(てゝ
遠卷(に
鐵檻(の
車(を
取圍(きつゝ、
猛然(と
吼(えて
居(る。
慓輕(なる
武村兵曹(は
大口(開(いてカラ〳〵と
笑(ひ
『ヤイ、ヤイ、
畜類(、
其樣(に
吾等(の
肉(が
美味(相(に
見(えるのか。』とつか〳〵
鐵檻(の
近(くに
進(み
寄(り
『それ
此(拳骨(でも
喰(へ。』と
大膽(にも
鐵拳(を
車外(に
突出(し、
猛獸(怒(つて
飛付(いて
來(る
途端(ヒヨイと
其(手(を
引込(まして
『だ、だ、
駄目(だんべい。』
第十九回
猛獸隊(
自然の殿堂――爆裂彈――エンヤ〳〵の掛聲――片足の靴――好事魔多し――砂滑りの谷、一名死の谷――深夜の猛獸――かゞり火
暫時(して、
吾等(はまた
奇妙(なものを
見(た。それは
此(深山(に
棲(んで
居(る
白頭猿(と
呼(ばるゝ、
極(めて
狡猾(な
猴(の
一種(で、
一群(凡(そ三十
疋(ばかりが、
數頭(の
巨大(な
象(の
背(に
跨(つて、
丁度(アラビヤの
大沙漠(を
旅行(する
隊商(のやうに、
彼方(の
山背(からぞろ〳〵と
現(はれて
來(たが、
我(が
鐵車(を
見(るや
否(や
非常(に
驚愕(いて、
奇聲(を
放(つて、
向(ふの
深林(の
中(へと
逃(げ
失(せた。かくて
當日(は、二十
里(近(く
進(んで
日(が
暮(れたので、
夜(は
鐵車(をば
一(大樹(の
下蔭(に
停(めて、
終夜(篝火(を
焚(き、
二人(宛(交代(に
眠(る
積(であつたが、
怒(り
叫(ぶ
猛獸(の
聲(に
妨(げられて、
安(らかな
夢(を
結(んだ
者(は
一人(も
無(かつた。
翌朝(は
薄暗(い
内(から
此處(を
出發(した。
初(の
間(は
矢張(昨日(と
同(く、
數百頭(の
猛獸(は
隊(をなして、
鐵車(の
前後(に
隨(つて
追撃(して
來(たが、
其中(には
疲勞(のために
逃去(つたのもあらう、また
吾等(が
絶(えず
發射(する
彈丸(のために、
傷(き
斃(れたのも
少(くない
樣子(で、
此(日(も
既(に十二三
里(許(進(みて、
海岸(なる
櫻木大佐(の
住家(からは、
確(かに三十
里(以上(距(つたと
思(はるゝ
一(高山(の
絶頂(に
達(した
時(には、
其(數(も
餘程(減(じて、まだ
執念深(く
鐵車(の
四邊(を
徘徊(して
居(るのは、二十
頭(許(の
雄獅子(と、
三頭(の
巨大(なる
猛狒(とのみであつた。
此(高山(は、
風景(極(めて
美(はしく、
吾等(の
達(したる
頂(は、
三方(巖石(が
削立(して、
自然(に
殿堂(の
形(をなし、かゝる
紀念塔(を
建(つるには
恰好(の
地形(だから、
遂(に
此處(に
鐵車(を
停(めた。
時(は
午後(二
時(四十五
分(、
今(から
紀念塔(を
建立(するのである。
『
用意(!。』と
武村兵曹(が
叫(ぶと、
二名(の
水兵(は
車中(の
大旅櫃(の
中(から、
一個(の
黒色(の
函(を
引出(して
來(た。
此(函(の
中(には、
數(十
個(の
爆裂彈(が
入(つて
居(るのである。
爆裂彈(!
何(の
爲(に? と
讀者(諸君(は
審(るであらうが、
之(には
大(に
考慮(のある
事(である、
今(、
其(目的地(に
達(し、いざ
建塔(といふ
塲合(に、
斯(く
獅子(や
猛狒(が、
一頭(でも、
二頭(でも、
其邊(に
徘徊(して
居(つては、
到底(車外(に
出(でゝ
其(仕事(にかゝる
事(が
出來(ない、そこで、
此(爆裂彈(を
飛(ばして、
該獸等(を
斃(し
且(つ
追拂(ひ、
其間(に
首尾(よくやつて
退(けやうといふ
企(だ。そこで
用意(が
整(ふと、
吾等(は
手(に〳〵
一個(宛(の
爆裂彈(を
携(へて
立上(つた。
兼(て
用意(の
鳥(の
肉(を、十
斤(ばかり
鐵檻(の
間(から
投出(すと、
食(に
飢(ゑたる
猛獸(は、
眞黒(になつて
其(上(に
集(る。
それといふ
合圖(の
下(に、一、二、三、
同時(に
五個(の
爆裂彈(は
風(を
切(つて
落下(した。
忽(ち
山岳([#ルビの「さんがく」は底本では「さくがく」]鳴動(し、
黒烟(朦朧(と
立昇(る、
其(黒烟(の
絶間(に
眺(めると、
猛狒(は
三頭(共(微塵(になつて
碎(け
死(んだ、
獅子(も
大半(は
打斃(れた、
途端(に
水兵(が
『あれ〳〵、あの
醜態(よう。』と
指(す
彼方(を
見渡(すと、
生殘(つたる
獅子(の
一團(は、
雲(を
霞(と
深林(の
中(へ
逃失(せた。
『それ、
此(間(に。』と
武村兵曹(は
紀念塔(を
擔(いで
走(り
出(たので、
一同(も
續(いて
車外(に
跳(り
出(で、
日出雄少年(は
見張(の
役(、
私(は
地(を
掘(る、
水兵(は
石(を
轉(ばす、
武村兵曹(は
無暗(に
叫(ぶ、エンヤ〳〵の
懸聲(と
共(に、
束(の
間(に
塔(の
建立(は
成就(した。
實(に
此(間(、
時(を
費(す
事(十
分(か、十五
分(、
人間(も
一生懸命(になると、
隨分(力量(の
出(るものだよ。
紀念塔(の
建立(は
終(つて、
吾等(は五六
歩(退(いて
眺(めると、
麗(はしき
大理石(の
塔(の
表面(には、
鮮明(に『
大日本帝國新領地朝日島(』。あゝ
之(れで
安心(々々、
一同(は
帽(を
脱(して
大日本帝國(の
萬歳(を
三呼(した。
此時(、
車中(に
殘(して
置(いた
猛犬稻妻(が
急(に
吼立(てるので、
頭(を
廻(らすと、
今(しも
爐裂彈(で
逃出(したる
獅子(の
一群(が、
今度(は
非常(な
勢(で、
彼方(の
森(から
驀直(に
襲撃(して
來(たのである。『それツ。』と
一聲(吾等(は
周章狼狽(て
鐵檻(の
車(の
中(へ
逃込(んだが、
危機一髮(、
最後(に
逃込(んだ
武村兵曹(はまだ
其(半身(が
車外(にあるのに、
殆(んど
同時(に
飛付(いて
來(た
雄獅子(のために、ズボンは
滅茶苦茶(に
引裂(かれ、
片足(の
靴(は
無殘(に
噛取(られて、
命(から〴〵
車中(に
轉(び
込(んだ。つゞいて
飛込(まんとする
獅子(を
目掛(けて、
私(は
一發(ドガン、
水兵(は
手鎗(て
突飛(ばす、
日出雄少年(は
素早(く
身(を
跳(らして、
入口(の
扉(をピシヤン。
『おつ
魂消(えた〳〵、
危(なく
生命(を
棒(に
振(る
處(だつた。』と
流石(の
武村兵曹(も
膽(をつぶして、
靴(無(き
片足(を
撫(でゝ
見(たが、
足(は
幸福(にも
御無事(であつた。
既(に
塔(の
建立(も
終(つたので、
最早(歸途(に
向(ふ
一方(である。
往復(五日(の
豫定(が、
其(二日目(には
首尾(よく
歸終(に
就(くやうになつたのは、
非常(な
幸運(である。
此(幸運(に
乘(じて、
吾等(は
温順(に
昨日(の
道(を
皈(つたならば、
明日(の
今頃(には
再(び
海岸(の
櫻木大佐(の
家(に
達(し、
此(旅行(も
恙(なく
終(るのであるが、
人間(は
兎角(いろ〳〵な
冐險(がやつて
見(たい
者(だ。
好事魔(多(しとはよく
人(の
言(ふ
處(で、
私(も
其(理屈(を
知(らぬではないが、
人間(の
一生(に
此樣(な
旅行(は、
二度(も
三度(もある
事(でない、
其上(大佐(と
約束(の
五日目(までは、
未(た
三日(の
間(がある、そこで、
此(深山(を
少(しばかり
迂回(して
皈(つたとて、
左程(遲(くもなるまい、また
極(めて
趣味(ある
事(だらうと
考(へたので、
私(は
發議(した。
『どうだ、
最早(皈途(に
向(ふのだが、
之(から
少(し
道(を
變(じて
進(んでは、
舊(き
道(を
皈(るより、
新(しい
方面(から
皈(つたら、またいろ〳〵
珍奇(い
事(も
多(からう。』と
話(しかけると、
好奇(の
武村兵曹(は一も二もなく
賛成(だ。
『
私(も
今(、
左樣(考(へて
居(つた
處(だ、
大佐閣下(だつて
私共(が、
其樣(に
早(く
歸(らうとは
思(つて
居(なさるまいし、それにね、
約束(の
五日目(の
晩(には、
海岸(の
家(では、
水兵(共(が
澤山(の
御馳走(を
作(へて
待(つて
居(る
筈(だから、
其(以前(にヒヨツコリと
皈(つては
興(が
無(い、
行(く
可(し〳〵。』と
勇(み
立(つ。
二名(の
水兵(も
日出雄少年(も
大賛成(なので、
直(ちに
相談(は
纏(つたが、さて
何處(の
方面(へと
見渡(すと、
此處(を
去(る
事(數里(の
西方(に
一個(の
高山(がある、
火山脉(の
一(つと
見(え、
山(の
半腹(以上(は
赤色(の
燒石(の
物凄(い
樣(に
削立(して
居(るが、
麓(は
限(りもなき
大深林(で、
深林(の
中央(を
横斷(して、
大河(滔々(と
流(れて
居(る
樣子(、
其邊(を
進行(したら
隨分(奇(しき
出來事(もあらうと
思(つたので、
直(ちに
水兵(に
命(じて、
鐵車(を
其(方向(に
進(めた、
猛獸(は
矢張(其處此處(に
隱見(して
居(るのである。
時(は
午後(の
六時(間近(で、
夕陽(は
西山(に
臼(いて
居(る。
隨分(無謀(な
事(だ、
今頃(から
斯(る
深林(に
向(つて
探險(するのは、けれど
興(に
乘(じたる
吾等(の
眼中(には、
向(ふ
處(敵(なしといふ
勢(で、二三
里(進(んで、
其(深林(の
漸(く
間近(になつた
時分(日(は
全(く
暮(れた。すると、
鎌(のやうな
新月(が
物凄(く
下界(を
照(して
來(たが、
勿論(道(の
案内(となる
程(明(るくはない、
加(ふるに
此邊(は
道(いよ〳〵
險(しく、
尖(つた
岩角(、
蟠(る
樹(の
根(は
無限(に
行方(に
横(つて
居(るので、
鐵車(の
進歩(も
兎角(思(はしくない、
運轉係(の
水兵(も、
此時(餘程(疲勞(れて
見(えたので、
私(は
考(へた、
人間(の
精力(には
限(がある、
今(からかゝる
深林(に
突進(するのは、
少(し
無謀(には
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、249-2]ぎはせぬかと
氣付(いたので、
寧(ろ
此邊(に
一泊(せんと、
此事(を
武村兵曹(に
語(ると、
武村兵曹(は
仲々(聽(かない
『
今(から
其樣(に
弱(つては
駄目(だ、
何(んでも
今夜(はあの
深林(の
眞中(で
夜(を
明(す
覺悟(だ。』と
元氣(よく
言放(つて
立上(り、
疲(れたる
水兵(に
代(つて
鐵車(の
運轉(を
始(めた。
鐵車(は
再(び
猛烈(なる
勢(をもつて
木(の
根(を
噛(み、
岩石(を
碎(いて
突進(する。あゝ
好漢(、
此(男(は
實(に
壯快(な
男兒(だが、
惜(むらくば
少(しく
無鐵砲(に
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、249-8]ぎるので、
萬一(の
※失([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、249-8]が
無(ければよいがと
思(ふ
途端(、
忽(ち
『しまつたツ。』と
一聲(、
私(も、
日出雄少年(も、
水兵(も
稻妻(も、
一度(にドツと
前(の
方(へ
打倒(れて、
運轉臺(から
眞逆(に
跳(ね
落(された
武村兵曹(が『
南無三(、
大變(!。』と
叫(んで
飛起(きた
時(は、
無殘(や、
鐵車(は、
擂盆([#「擂盆(」は底本では「
盆(」]のやうな
形(をした
巨大(な
穴(の
中(へ
陷落(して
居(つた。
漸(の
事(で
起上(つた
水兵(は、
新月(の
微(なる
光(に
其(穴(を
眺(めたが
忽(ち
絶叫(した。
『
砂(すべりの
谷(!
砂(すべりの
谷(!。』
讀者(諸君(は
或(は
御存(じだらう、
亞弗利加(の
内地(や、
又(は
印度洋(中(の
或(島(には、かゝる
塲所(のある
事(はよく
冐險旅行記等(に
書(いてあるが、
此(「
砂(すべりの
谷(」
程(世(に
恐(る
可(き
所(は
多(くあるまい、
砂(すべりの
谷(、
一名(を
死(の
谷(と
呼(ばるゝ
程(で、
一度(此(穴(の
中(へ
陷落(したるものは、
到底(免(がれ
出(る
事(は
出來(ないのである。
此(穴(は
外見(は
左迄(巨大(なものではない。
廣(さは
直徑(三十ヤード
位(、
深(さは
僅(か一
丈(にも
足(らぬ
程(だから、
鐵檻車(の
屋根(へ
上(つたら、
或(は
穴(の
外(へ
飛出(す
事(も
出來(るやうだが、
前(にも
云(つた
樣(に
擂盆(の
形(をなした
穴(の
四邊(は
實(に
細微(なる
砂(で、
此(砂(は
啻(に
細微(なるばかりではなく、
一種(不可思議(の
粘着力(を
有(して
居(るので、
此處(に
陷落(した
者(は
掻(き
上(らうとしては
滑(り
落(ち、
滑(り
落(ちては
砂(に
纒(はれ、
其内(に
手足(の
自由(を
失(つて、
遂(に
非業(の
最後(を
遂(げるのである。だから
吾等(が
海岸(の
家(を
出發(する
時(も、
櫻木大佐(は
繰返(して『
砂(すべりの
谷(を
注意(せよ。』と
言(はれたが、
吾等(は
遂(に
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、251-6]つて、
此(恐(る
可(き
死(の
谷(へ
陷込(んだのである。
『あゝ、
大變(な
事(をやつてしまつた。』と
武村兵曹(は
自分(の
失策(に
切齒(した。
我(が
鐵車(は、
險山(深林(何處(でも
活動(自在(だが、
此(砂(すべりの
谷(だけでは
如何(する
事(も
出來(ぬのである、
萬一(を
期(して、
非常(な
力(で、
幾度(か
車輪(を
廻轉(して
見(たが
全(く
無效(だ。
砂(に
喰止(まる
事(の
出來(ぬ
齒輪車(は、
一尺(進(んではズル〴〵、二三
尺(掻上(つてはズル〴〵。
其内(に
車輪(も
次第(々々に
砂(に
埋(もれて、
最早(一寸(も
動(かなくなつた。
『
絶體絶命(!。』と
一同(は
嘆息(した。
之(が
普通(の
塲所(なら、かゝる
死地(に
落(ちても、
鐵車(をば
此處(に
打棄(てゝ、
其(身(だけ
免(れ
出(る
工夫(の
無(いでもないが、
千山(萬峰(の
奧深(く、
數十里(四方(は
全(く
猛獸(毒蛇(の
巣窟(で、
既(に
此時(數十(の
獅子(、
猛狒(の
類(は
此(穴(の
周圍(に
牙(を
鳴(し、
爪(を
磨(いて
居(るのだから、
一寸(でも
鐵檻車(の
外(へ
出(たら
最後(、
直(ちに
無殘(の
死(を
遂(げてしまうのだ。イヤ
出(なくても、
人(の
弱點(に
乘(ずる
事(の
早(い
猛狒(は、
忽(ち
彼方(の
崖(から
此方(の
鐵車(の
屋根(に
飛移(つて、
鐵檻(の
間(から
猿臂(を
延(して、
吾等(を
握(み
出(さんず
氣色(、
吾等(は
一生懸命(に
小銃(を
發射(したり、
手鎗(を
廻(したりして、
辛(じて
其(危害(を
防(いで
居(るが、それも
何時(まで
續(く
事(か、
夜(が
更(けるに
從(つて、
猛獸(の
勢(は
益々(激烈(になつて
來(た、かゝる
時(には
盛(んに
火(を
焚(くに
限(ると、それから
用意(の
篝火(をどん〴〵
燃(して、
絶(えず
小銃(を
發射(し、また
時々(爆裂彈(の
殘(れるを
投飛(しなどして、
漸(く
一夜(を
明(したが、
夜(が
明(けたとて
仕方(がない、
朝日(はうら〳〵と
昇(つて、
東(の
方(の
赤裸(の
山(の
頂(から
吾等(の
顏(を
照(したが、
一同(生(きた
顏色(は
無(かつた。
日出雄少年(も
二名(の
水兵(も
默(して
一言(なく、
稻妻(は
終夜(吠(え
通(しに
吠(えたので
餘程(疲(れたと
見(え、
私(の
傍(に
横(つて
居(る。ひとり
默(つて
居(られぬのは
武村兵曹(である、
彼(は
自分(の
失策(から
此樣(な
事(になつたので
堪(らない
『あゝ、
馬鹿(な
事(をした〳〵。
私(の
失策(で、
貴方(や
日出雄少年(を
殺(したとなつては
大佐閣下(に
言譯(がない、
此(お
詫(びには
成(るか、
成(らぬか、
一(つ
命懸(けで
猛獸(共(を
追拂(つて
見(るのだ。』と
决死(の
色(で、
車外(へ
飛出(さうとする。
『
無謀(な
事(をするな。』と
私(は
嚴然(として
『
武村兵曹(、お
前(に
鬼神(の
勇(があればとて、あの
澤山(の
猛獸(と
鬪(つて
何(になる。』と
矢庭(に
彼(の
肩先(を
握(んで
後(へ
引戻(した。
此時(猛犬稻妻(は、
一聲(銃(く
唸(つて
立上(つた。
『
此處(に
唯(だ
一策(があるよ。』と
私(は
一同(に
向(つたのである。
『
一策(とは。』と
一同(は
顏(を
上(げた。
『
他(でもない、
櫻木海軍大佐(に
此(急難(を
報知(して
救助(を
求(めるのだ。』
『
大佐(に
救助(を

。』と
一同(は
不審顏(。
成程(、
此處(から
大佐等(の
住(へる
海岸(の
家(までは三十
里(以上(、
飛(ぶ
鳥(でもなければ
通(はれぬ
此(難山(を、
如何(にして
目下(の
急難(を
報知(するかと
審(るのであらう。
私(は
决然(として
言(つた。
『
猛犬稻妻(を
使者(として。』
第二十回
猛犬(の
使者(
山又山を越えて三十里――一封の書面――あの世でか、此世でか、――此犬尋常でない――眞黒になつて其後を追ふた――水樽は空になつた
西暦(一千八百六十六
年(の
墺普戰爭(に、
敵(の
重圍(に
陷(つたる
墺太利軍(の
一(偵察隊(は、
敵(の
眼(を
晦(まさんがため、
密書(をば
軍用犬(の
首輪(に
附(して、
其(本陣(に
送皈(したといふ
逸話(がある。
近世(では、
犬(の
使命(といふ
事(は
左迄(珍奇(な
事(ではないが、それと
之(とは
餘程(塲合(も
異(つて
居(るので、
二名(の
水兵(は
危(ぶみ、
武村兵曹(は
腕(を
拱(いた
儘(、
眤(と
稻妻(の
面(を
眺(めた。
日出雄少年(は
憂色(を
含(んで
『それでは、
稻妻(は
私共(と
別(れて、
單獨(で、
此(淋(しい、
恐(ろしい
山(を
越(えて、
大佐(の
叔父(さんの
家(へお
使者(に
行(くのですか。
私(は
何(んだか
心配(なんです、
稻妻(がいくら
強(くつたつて、あの
澤山(な
猛獸(の
中(を、
無事(に
海岸([#ルビの「かいがん」は底本では「がいがん」]の
家(へ
歸(る
事(が
出來(ませうか。』と
進(まぬ
顏(に
首(を
頂垂(れた。
如何(にも
其(憂慮(は
道理(である。
私(も
實(は、
此(使命(の十
中(八九までは
遂(げらるゝ
事(の
難(きを
知(つて
居(る、また、
三年(以來(馴(れ
親(しんで、
殆(んど
畜類(とは
思(はれぬ
迄(愛(らしく
思(ふ
此(稻妻(に、
些(かでも
辛苦(は
見(せたくないのだが、
今(は
實(に
非常(の
塲合(である、
非常(の
塲合(には
非常(の
决心(を
要(するので、
若(し
躊躇(して
居(れば、
吾等(一同(はみす〳〵
知(る
人(も
無(き
此(山中(の、
草葉(の
露(と
消(えてしまはねばならぬのであるから
成敗(は
元(より
豫期(し
難(いが、
出來得(る
丈(けの
手段(は
盡(さねばならぬと
考(へたので、
遂(に
意(を
决(して、
吾等(は
此(急難(をば
[#「急難(をば」は底本では「急難(をは」]、三十
里(彼方(なる
櫻木大佐(の
許(に
報(ぜんがため、
涙(を
揮(つて
猛犬稻妻(をば、
此(恐(ろしき
山中(に
使者(せしむる
事(となつた。
私(は
直(ちに
鉛筆(をとつて
一書(を
認(めた。
書面(の
文句(は
斯(うである。
櫻木海軍大佐(よ、世(に禍(といふものなくば、此(書面(の達(せん頃(には、吾等(は再(び貴下(の面前(に立(つ可(き筈(なりしを、今(かゝる文使者(を送(る事(の、歡(ばしき運命(にあらぬをば察(し玉(ふ可(し。貴下(の委任(を受(けたる紀念塔(の建立(は、首尾(よく成就(したれども、其(歸途(、吾等(は自(ら招(きたる禍(によりて、貴下(が住(へる海岸(より、東方(大約(三十里(の山中(にて、恐(る可(き砂(すべりの谷(に陷落(せり、砂(すべりの谷(は實(に死(の谷(と呼(ばるゝ如(く、吾等(は最早(一寸(も動(く事(能(はず、加(ふるに、猛獸(の襲撃(は益々(甚(しく、此(鐵檻車(をも危(くせんとす。今(は死(を待(つばかりなり。即(ち難(を貴下(の許(に報(ず、稻妻(幸(に死(せずして、貴下(に此(書(を呈(するを得(ば、大佐(よ、乞(ふ策(を廻(らして吾等(の急難(を救(ひ玉(へ。
と、
斯(く
認(めて
筆(を
止(めると、
日出雄少年(は
沈(める
聲(に
『あゝ、
大佐(の
叔父(さんは、
私共(が
今日歸(るか、
明日(歸(るかと
待(つていらつしやる
處(へ、
此樣(な
手紙(が
行(つたら、どんなにか
喫驚(なさる
事(でせう。』と、いふと
武村兵曹(は
小首(を
捻(つて
『そこで、
私(の
心配(するのは、
義侠(な
大佐閣下(は、
吾等(の
大難(を
助(けやうとして、
御自身(に
危險(をお
招(きになる
樣(な
事(はあるまいか。』
『
其樣(な
事(があつては
濟(まぬね。』と
私(は
直(ちに
文(を
續(けた。
然(れど、大佐(よ、吾等(は今(の塲合(に於(て、九死(に一生(をも得難(き事(をば疾(くに覺悟(せり。今(、海底戰鬪艇(の成敗(を一身(に擔(へる貴下(の身命(は、吾等(の身命(に比(して、幾十倍(日本帝國(の爲(に愛惜(すべきものなり。故(に貴下(が、吾等(を救(はんとて、強(いて危險(を冐(すが如(きは、吾等(の深(く憂(ふる處(なり。盖(し、日本(の臣民(は如何(なる塲合(に於(ても、其(身(を思(ふよりも、國(を思(ふ事(大(なれば、若(し救(ふに良策(なくば、乞(ふ、大義(の爲(に吾等(を見捨(て玉(へ、吾等(も亦(た運命(に安(んじて、骨(を此(山中(に埋(めん。
と、
猶(ほ
數行(を
書(き
加(へて
若(し、吾等(が不幸(にして、此(深山(の露(と消(えもせば、他日(貴下(が、海底戰鬪艇(の壯麗(なる甲板(より、仰([#ルビの「あほ」は底本では「おほ」]いで芙蓉(の峯(を望(み見(ん時(、乞(ふ吾等(五名(の者(に代(りて、只(一聲(、大日本帝國(の萬歳(を唱(へよ、吾等(も亦(た幽冥(より其(聲(に和(せん。
斯(く
認(め
終(りし
書面(をば
幾重(にも
疊(み
込(み、
稻妻(の
首輪(に
堅(く
結(び
着(けた。
犬(は
仰(いで
私(の
顏(を
眺(めたので、
私(は
其(眞黒(なる
毛(をば
撫(でながら、
人間(に
物語(るが
如(く
『これ、
稻妻(、
汝(は
世(に
勝(れたる
犬(だから、
總(ての
事情(がよく
分(つて
居(るだらう、よく
忍耐(して、
大佐(の
家(に
達(して
呉(れ。』と、いふと、
稻妻(は
恰(も
私(の
言(を
解(し
得(た
如(く、
凛然(として
尾(を
掉(つた。
日出雄少年(は
暗涙(を
浮(べて
『
私(は
本當(にお
前(と
別(れるのが、
悲(しいよ、けれど
運命(だから
仕方(が
無(いのだよ、それでねえ、お
前(が
幸(に、
大佐(の
叔父(さんの
家(に
安着(して、
萬一(にも
私共(の
生命(が
助(かつた
事(なら、
再(び、あの
景色(のよい
海岸(の
砂(の
上(で、
面白(く
遊(ぶ
事(が
出來(ませう。
若(し
運惡(く、お
前(が
途中(で
死(んでしまつたなら、
私(も
追付(け
彼世(で、お
前(の
顏(を
見(るやうになりませうよ。』と、
云(ふのは、
既(にそれと
覺悟(を
定(めて
居(るのであらう、
流石(に
猛(き
武村兵曹(も
聲(を
曇(らせ
『あゝ、
皆(私(が
惡(いのだ、
私(の
失策(つたばかりに、
一同(に
此樣(な
憂目(を
見(せる
事(か。』と
深(く
嘆息(したが、
忽(ち
心(を
取直(した
樣子(で
『いや〳〵、
女(見(たやうな
事(は
言(ふまい。』と
態(と
元氣(よく、
犬(の
首輪(をポンと
叩(いて
『これ、
稻妻(、しつかりやれよ。』と
屹(と
其(面(を
見詰(めた。
此時(、
二名(の
水兵(は、
私(の
命(に
從(つて、
犬(を
抱(いて、
鐵階(を
登(つた、
鐵檻(の
車(の
上(からは
前(にもいふ
樣(に、
砂(すべりの
谷(の
外(へ
飛出(る
事(の
出來(るのである。
車外(の
猛獸(は、
見(る〳〵
内(に
氣色(が
變(つて
來(た。
隙(を
覗(つたる
水兵(は、サツと
出口(の
扉(を
排(くと、
途端(、
稻妻(は、
猛然(身(を
跳(らして、
彼方(の
岸(へ
跳上(る。
待設(けたる
獅子(數頭(は、
電光石火(の
如(く
其(上(へ
飛掛(つた。五
秒(、十
秒(は
大叫喚(、あはや、
稻妻(は
喰伏(せられたと
思(つたが、
此(犬(尋常(でない、
忽(ちむつくと
跳(ね
起(きて、
折([#ルビの「をり」は底本では「ぞり」]から
跳(り
掛(る
一頭(の
雄獅(の
咽元(に
噛付(いて、
一振(り
振(るよと
見(へたが、
如何(なる
隙(をや
見出(しけん、
彼方(に
向(つて
韋駄天走(り、
獅子(の
一群(も
眞黒(になつて
其(後(を
追掛(けた。
見(る〳〵
内(に
其(形(は
一團(となつて、
深林(の
中(に
見(えずなつた。
稻妻(は
果(してよく
此(大使命(を
果(す
事(が
出來(るであらうか。
考(へて
見(ると
隨分(覺束(ない
事(だが、
夫(でも
一縷(の
望(の
繋(る
樣(にも
感(じて、
吾等(は
如何(にもして
生命(のあらん
限(り、
櫻木大佐(の
援助(を
待(つ
積(りだ。
非常(な
困難(の
間(に、
三日(は
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、262-9]つたが、
大佐(からは
何(の
音沙汰(も
無(かつた、また、
左樣(容易(くあるべき
筈(もなく、
四日(と
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、262-10]ぎ、
五日(と
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、262-10]ぎ、
六日(と
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、262-11]ぎ、
其(七日目(まで
此(恐(ろしき
山中(に、
日(を
暮(したが、
救助(の
人(は
見(えなかつた。
鐵車(の
嚴重(なる
事(と、
彈藥(を
夥(しく
用意(して
來(た
事(とで、
今日(まで
猛獸(の
害(を
免(かれて
居(るが、
其内(に
困難(を
感(じて
來(たのは、
糧食(と
飮料水(との
缺乏(とである、すでに
昨日(から、
糧食箱(の
中(には
一片(の
蒸餅(も
無(くなつた。
水樽(は
空(になつて
鐵車内(の
一隅(に
横(つた。
一同(は
最早(絶望(の
極(に
達(したのである。
此(日(は
食(はず、
飮(まずに
日(を
暮(して、
苦(しき
一夜(は、
一睡(の
夢(をも
結(ばず
[#「結(ばず」は底本では「結(ばす」]翌朝(を
迎(へたが、まだ
何(んの
音沙汰(も
無(い、
眺(めると
空(には
雲(低(く
飛(び、
山(又(山(の
彼方此處(には、
猛獸(の
※聲([#「口+斗」、263-7]いよ〳〵
悽(まじく、
吾等(の
運命(も
最早(是迄(と
覺悟(をしたのである。
第二十一回
空中(の
救(ひ
何者にか愕いた樣子――誰かの半身が現はれて――八日前の晩――三百反の白絹――お祝の拳骨――稻妻と少年と武村兵曹
指(を
屈(して
見(ると、
當日(は
吾等(が
海岸(の
家(を
去(つてから、
丁度(九日目(で、
兼(て
海底戰鬪艇(の
試運轉式(の
日(と
定(められたる
紀元節(の
前日(である。
若(し
此樣(な
禍(が
起(らなかつたなら、
今頃(は
既(に
大佐(の
家(に
歸(つて
居(つて、あの
景色(の
美(はしい
海岸(の
邊(で、
如何(に
愉快(な
日(を
迎(へて
居(るだらうと
考(へると、
何故(紀念塔(の
建立(を
終(つた
時(に
素直(に
元(來(た
道(を
皈(らなかつたらうと、
今更(後悔(に
堪(えぬのである。
『あゝ、
今迄(何(の
音沙汰(も
無(いのは、
稻妻(も
途中(で
死(んでしまつたのでせう。』と、
日出雄少年(は
悄然(として、
武村兵曹(の
顏(を
眺(めた。
『イヤ、イヤ、
稻妻(は
尋常一樣(の
犬([#「犬(」は底本では「大(」]でないから、
屹度(無事(に
海岸(へは
達(したらうが、
然(し、
吾等(の
災難(は
非常(な
事(だから、
大佐閣下(でも
容易(には
救(ひ
出(す
策(がなくつて、
考慮(て
居(なさるのだらう。まあ〳〵、
失望(しないで、
生命限(り
待(つ
事(だ。』と、
武村兵曹(は
態(と
元氣(よく
言放(つて、
日出雄少年(の
首筋(を
抱(いた。
二名(の
水兵(は
淋(し
氣(に
顏(を
見合(せた。
實(に、
世(の
中(には
人間(の
力(に
及(ぶ
事(と、
及(ばぬ
事(とがある。
人間(の
力(に
及(ぶ
事(なら、あの
智惠(逞(ましき
櫻木大佐(に
不能(といふ
事(はあるまいが、
今日(まで、
何(の
音沙汰(の
無(く
打※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、265-4]ぎて
居(るのを
見(ると、たとへ、
猛犬稻妻(は
無事(に
使命(と
果(したにしろ、
吾等(を
此(危難(から
救(ひ
出(す
事(は、
大佐(の
智惠(でも
迚(も
及(ばぬのであらうと、
私(は
深(く
心(に
决(したが、
今(の
塲合(だから
何(も
言(はない。
此時(不意(に、
車外(の
猛獸(の
群(は
何者(にか
愕(いた
樣子(で、
一時(に
空(に
向(つて
唸(り
出(した。
途端(、
何處(ともなく、
微(かに
一發(の
銃聲(!
一同(は
飛立(つて、
四方(を
見廻(したが、
何(も
見(えない。
偖(は
心(の
迷(であつたらうかと、
互(に
顏(を
見合(す
時(、またも
一發(ドガン! ふと、
大空([#ルビの「おほぞら」は底本では「おほそら」]を
仰(いだ
武村兵曹(は、
破鐘(のやうに
叫(んだ。
『
輕氣球(!
輕氣球(!。』
見(ると、
太陽(がキラ〳〵と
輝(いて
居(る
東(の
方(の、
赤裸(の
山(の
頂(を
斜(に
掠(めて、
一個(の
大輕氣球(が
風(のまに〳〵
此方(に
向(つて
飛(んで
來(た。
『やア、
大佐(の
叔父(さんが、
風船(で
救(けに
來(たんだよ〳〵。』と
日出雄少年(は
雀躍(した。
『
早(く、
早(く、
先方(では
吾等(を
搜索(して
居(るのだ、
早(く、
此方(の
所在(を
知(らせろツ。』と、
私(が
叫(ぶ
聲(の
下(に、
武村兵曹(と
二名(の
水兵(とは、
此時(數個(殘(つて
居(つた
爆裂彈(を
一時(に
投(げ
出(した。
山(も、
谷(も、
一時(に
顛倒(する
樣(な
響(と
共(に、
黒煙(パツと
立昇(る。
猛獸羣(は
不意(に
驚(いて、
周章狼狽(て
逃(げ
失(せる。
輕氣球(の
上(では、
忽(ち
吾等(の
所在(を
見出(したと
見(へ、
搖藍(の
中(から
誰人(かの
半身(が
現(はれて、
白(い
手巾(が、
右(と、
左(にフーラ〳〵と
動(いた。
頓(て
氣球(はだん〳〵と
接近(して、
丁度(鐵車(の
直(上(五十
呎(ばかりになると、
空中(から
大聲(で
『
一同(無事(か。』と
叫(んだのは、
懷(かしや、
櫻木海軍大佐(の
聲(、
同時(に、
今(一人(乘組(んで
居(つた
馴染(の
顏(の
水兵(が、
機敏(に
碇綱(を
投(げると、それが
巧(く
鐵檻車(の
一端(に
止(つたので、『それツ。』といふ
聲(諸共(、
吾等(は
鐵車(の
扉(を
跳(ね
除(け、
猿(の
如(く
綱(を
傳(つて
昇(り
出(した。
丁度(此時(、
一度(逃去(つたる
猛獸(は、
再(び
其處此處(の
森林(から
現(はれて
來(たが、つる〳〵と
空中(に、
昇(つて
行(く
吾等(の
姿(を
見(て、
一種(異樣(に
咆哮(した。
遂(に、
吾等(五人(は
安全(に、
輕氣球(へ
達(した。
大佐(の
顏(を
見(るより
日出雄少年(は
『
叔父(さん、
稻妻(は、
稻妻(は――。』
大佐(は
笑(つて
『
無事(だよ、
無事(だよ。』
私(と
二名(の
水兵(とは、
餘(りの
(しさに
一言(も
無(かつた。
武村兵曹(は
何(より
前(に
自分(の
大失策(を
白状(して、
頻(りに
頭(を
掻(いた。
此時(如何(に
(しく、また、
如何(なる
談話(のあつたかは
只(諸君(の
想像(に
任(せるが、
茲(に
一言(記(して
置(かねばならぬのは、
此(大輕氣球([#ルビの「だいけいききゆう」は底本では「だいけいきゆう」]の
事(である。
櫻木大佐(の
話(す
處(によると、
此(日(から
丁度(八日(前(の
晩((
即(ち
吾等(が
犬(の
使者(を
送(つた
其日(の
夜(である。)
猛犬稻妻(が
數(ヶ
所(の
傷(を
負(ひ、
血(に
染(みて
歸(つて
來(たので、
初(めて
吾等(の
大難(が
分(り、それより
海岸(の
家(は
沸(くが
如(き
騷(ぎで、
種々(評議(の
結果(、
此(危急(を
救(ふには、
輕氣球(を
飛(ばすより
他(に
策(は
無(いといふ
事(に
定(つたが、
氣球([#ルビの「ききゆう」は底本では「きゆう」]を
作(る
事(は
容易(な
業(ではない、
幸(にも、
材料(は
甞(て、
浪(の
江丸(で
本島(に
運(んで
來(た
諸(品(の
内(にあつたので
直(ちに
着手(したが、
其爲(に
少(なからぬ
勞力(と、
諸種(の
重要(なる
藥品等(を
費(したは
勿論(、
海底戰鬪艇(の
内部(各室(の
裝飾用(にと、
遙(る〴〵
本國(から
携(へて
來(た三百
餘反(の
白絹(をば、
悉皆(使用(してしまつた
相(だ。
此事(を
語(つて
櫻木大佐(は
笑(ひながら
『
諸君(は
好奇心(から
禍(を
招(いた
罰(として、
海底戰鬪艇(の
竣成(した
曉(にも、
裝飾(の
無(い
船室(に
辛房(せねばなりませんよ。』
一同(はたゞ
頭(を
掻(くのみ
『はい、はい、どんな
事(でも〳〵。』と、
答(へたが、
夫(に
就(けても
氣遣(はしきは
海底戰鬪艇(の
工事(の、
吾等(が
斯(る
騷動(を
引起(した
爲(に、
痛(く
妨(げられたのではあるまいかと、
私(は
口籠(りながら
問(ひかけると、
大佐(は
悠々(として
『いや、
豫定通(り、
明日(が
試運轉式(で、それより
一週間(以内(には、
本島(を
出發(する
事(が
出來(ませう。』と
言(ひつゝ、
日出雄少年(に
向(つて
『
少年(よ、
待(に
待(つたる
富士山(を
見(るのも
遠(い
事(ではないよ。』
一同(は
意外(の
喜悦(に
顏(を
見合(はした。
武村兵曹(は
我(を
忘(れて
大聲(に
『ほー、えれい
勢(だ、
一方(では
輕氣球(を
作(へながら、
海底戰鬪艇(も
豫定通(りに
竣成(したとなると、
吾等(が
馬鹿(を
見(て
居(つた
間(に、
大佐閣下(も、
其(餘(の
水兵(共(も、
寢(ないで
働(いた
譯(だな。』
大佐(は
微笑(と
共(に
『
武村兵曹(、お
前(の
失策(の
爲(めに、
八日間(一睡(もしないで
働(いた
水兵(もあつたよ。』
兵曹(は
頭(を
垂(れた、
私(も
耳(が
痛(かつた。
話(の
間(に、
輕氣球(は、かの
恐(ろしき
山(と
森(と
谷(と、
又(た
惜(む
可(き――
然(れど
今(は
要(なき
鐵檻車(とを
後(にして、
風(のまに〳〵
空中(を
飛行(して、
其日(午後(三
時(四十
分(項(、
吾等(は
再(び、
懷(かしき
海岸(の
景色(を
夢(のやうに
見(おろした
時(、
海岸(に
殘(れる
水兵等(も
吾等(と
認(めたと
覺(ぼしく、
屏風岩(の
上(から、
大佐(の
家(から、
手(に〳〵
帽(を
振(り、
手巾(を
振廻(しつゝ、
氣球(の
降(ると
見(えし
海濱(を
指(して、
蟻(のやうに
集(つて
來(る。
其(眞先(に
砂塵(を
蹴立(てゝ、
驅(つて
來(るのはまさしく
猛犬稻妻(!
遂(に、
吾等(は、
大佐(の
家(から四五
町(距(つた
海岸(に
降下(した。
勢(よき
水兵等(の
歡呼(に
迎(へられて、
輕氣球([#ルビの「けいききゆう」は底本では「けいきゆう」]を
出(ると、
日出雄少年(は、
第一(に
稻妻(の
首輪(に
抱着(いた。
二名(の
水兵(は
仲間(の
一群(に
追廻(はされて、
々(と
叫(びながら
逃廻(つた。それは「
命拾(ひのお
祝(」に、
拳骨(が
一(つ
宛(振舞(はれるので『
之(は
堪(らぬ』と
逃(げ
出(す
次第(だ。
勿論(戯謔(だが
隨分(迷惑(な
事(だ。
大佐(は
笑(ひながら
徐(かに
歩(み
出(すと、
一同(は
吾等(の
前後左右(を
取卷(いて、
家路(に
迎(ふ。
途中(、
武村兵曹(は
大得意(で、ヤンヤ〳〵の
喝釆(の
眞中(に
立(つて、
手(を
振(り
口沫(を
飛(して、
今回(の
冐險譚(をはじめた。
此(男(は
正直(だから、
猛狒(退治(の
手柄話(は
勿論(、
自分(の
大失策(をも、
人一倍(の
大聲(でやツて
退(けた。
かくて、
吾等(は
大暴風雨(の
後(に、
晴朗(な
天氣(を
見(るやうに、
非常(の
喜(びを
以(て
大佐(の
家(に
着(いた。それから、
吾等(が
命拾(ひのお
祝(ひやら、
明日(の
凖備(やらで
大騷(ぎ。
第二十二回
海(の
禍(
孤島の紀元節――海軍大佐の盛裝――海岸の夜會――少年の劍舞――人間の幸福を嫉む惡魔の手――海底の地滑り――電光艇の夜間信號
二
月(十一
日(、
待(に
待(つたる
紀元節(の
當日(とはなつた。
前夜(は、
夜半(まで
大騷(ぎをやつたが、なか〳〵
今日(は
朝寢(どころではない。
拂曉(に
目醒(めて、
海岸(へ
飛出(して
見(ると、
櫻木海軍大佐(、
日出雄少年(武村兵曹等(は
既(に
浪打際(を
逍遙(しながら、いづれも
喜色滿面(だ。
大海原(の
東(の
極(から、うら〳〵と
昇(つて
來(る
旭(の
光(も、
今日(は
格別(に
麗(はしい
樣(だ。あの
日(の
出(づる
邊(、
我(故國(では
今頃(は
定(めて、
都大路(の
繁華(なる
處(より、
深山(の
奧(の
杣(の
伏屋(に
到(るまで、
家々(戸々(に
日(の
丸(の
國旗(を
飜(して、
御國(の
榮(を
祝(つて
居(る
事(であらう。
吾等(遠(く
印度洋(の
此(孤島(に
距(つて
居(つても、

(して
此(日(を
祝(はずに
居(られやう、
去年(も、
一昨年(も、
當日(は
終日(業(を
休(んで、
心(ばかりの
祝意(を
表(したが、
今年(の
今日(といふ
今日(は、
啻(に
本國(の
大祭日(ばかりではない、
吾等(の
爲(には、
終世(の
紀念(ともなる
可(き、
海底戰鬪艇(の
首尾(よく
竣成(して、
初(めて
海(に
浮(び
出(る
當日(であれば、
其(目出度(さも
亦(た
格別(である。
昨夜(以來(我(朝日島(の
海岸(は、
手(の
及(ぶ
限(り
裝飾(された。
大佐(の
家(は
隙間(もなく
日(の
丸(の
國旗(に
取卷(かれて、
其(正面(には、
見事(な
緑門(も
出來(た。
荒浪(の
々(と
打寄(する
岬(の
一端(には、
高(き
旗竿(が
立(てられて、
一夜作(りの
世界(※國([#「一/力」、274-4]の
旗(は、
其(竿頭(から
三方(に
引(かれた
綱(に
結(ばれて、
翩々(と
風(に
靡(く、
其(頂上(には
我(が
譽(ある
日章旗(は、
恰(も
列國(を
眼下(に
瞰(おろすが
如(く、
勢(よく
飜(つて
居(る。
海濱(の
其處此處(には、
毛布(や、
帆布(や、
其他(樣々(の
武器等(を
應用(して
出來(た、
富士山(の
摸形(だの、
二見(ヶ
浦(の
夕景色(だの、
加藤清正(の
虎退治(の
人形(だのが、
奇麗(な
砂(の
上(にズラリと
並(んだ。また
彼方(では、
一團(の
水兵(がワイ〳〵と
騷(いで
居(るので、
何事(ぞと
眺(めると、
其處(は
小高(い
丘(の
麓(で、
椰子(や
橄欖(の
葉(が
青々(と
茂(り、
四邊(の
風景(も
一際(美(はしいので、
今夜(は
此處(に
陣屋(を
構(へて、
大祝賀會(を
催(すとの
事(、
其(仕度(に
帆木綿(や、
檣(の
古(いのや、
倚子(や、テーブルを
擔(ぎ
出(して、
大騷(ぎの
最中(。
頓(て
海底戰鬪艇(が、いよ〳〵
秘密造船所(を
出(づる
可(き
筈(の
午前(九時(になると、
一發(の
砲聲(が
轟(いた。それと
同時(に、
一旦(家(に
歸(つた
櫻木海軍大佐(は、
金(モールの
光(燦爛(たる
海軍大佐(の
盛裝(で、
一隊(の
水兵(を
指揮(して、
屏風岩(の
下(なる
秘密造船所(の
中(へと
進入(つた。
私(と、
日出雄少年(と、
他(に
一群(の
水兵(とは、
陸(に
留(つて、
其(試運轉(の
光景(を
眺(めつゝ、
花火(を
揚(げ、
旗(を
振(り、
大喝采(をやる
積(りだ。
九
時(三十
分(、
第二(の
砲聲(と
共(に、
我(が
驚(く
可(き
海底戰鬪艇(は
遂(に
海中(に
進水(した。
艇長(百三十
呎(、
全面(雪白(の
電光艇(が、
靜(かに
[#「靜(かに」は底本では「靜(がに」]波上(に
泛(んだ
時(の
勇(ましさ、
櫻木海軍大佐(は
軍刀(をかざして
觀外塔上(に
立(ち、
一聲([#ルビの「いつせい」は底本では「いつせん」]叫(ぶ
號令(の
下(に、
艇(は
流星(の
如(く
疾走(した、
第二(の
號令(と
共(に、
甲板(は
自然(に
閉(ぢ、
水煙(空(に
飛(ぶよと
見(えし、
艇(は
忽然(波底(に
沈(み、
沈(んでは
浮(び、
浮(んでは
沈(み、
右(に、
左(に、
前(に、
後(に、
神出鬼沒(の
活動(は、げにや
天魔(の
業(かと
疑(はるゝ、
折(から
遙(かの
沖(に
當(つて、
小山(の
如(き
數頭(の
鯨群(は、
潮(を
吹(いて
游(いで
來(た。
物(の
數(にも
足(らぬ
海獸(なれど、あれを
敵國(の
艦隊(に
譬(ふれば
如何(にと、
電光艇(は
矢庭(に
三尖衝角(を
運轉(して、
疾風(電雷(の
如(く
突進(すれば、あはれ、
海(の
王(なる
巨鯨(の
五頭(七頭(は
微塵(となつて、
浪(を
血汐(に
染(めた。
更(に
新式魚形水雷(の
實力(如何(にと、
艇(は
海底(を
龍(の
如([#ルビの「ごと」は底本では「ごく」]く
疾走(しつゝ
洋上(の
巨巖([#「巨巖(」は底本では「巨嚴(」]目掛(けて
射出(す
一發(二發(、
巨巖(碎(け
飛(んで、
破片(波(に
跳(つた。
忽(ち
電光艇(の
甲板(には
歡呼(の
聲(が
起(つた。それと
同時(に、
吾等(陸上(の
一同(は
萬歳(を
叫(ぶ、
花火(を
揚(げる、
旗(を
振(る、
日出雄少年(は
夢中(になつて、
猛犬稻妻(と
共(に、
飛鳥(の
如(く
海岸(の
砂(を
蹴立(てゝ
奔走(した。
實(に
此(島(在(つて
以來(の
大盛况(※
[#感嘆符三つ、277-1]
兎角(する
程(に、
海底戰鬪艇(は
[#「海底戰鬪艇(は」は底本では「海底戰國艇(は」]試運轉(を
終(り、
櫻木海軍大佐(は
再(び
一隊(を
指揮(して
上陸(した。
電光艇(は
恰(も
勇士(の
憩(うが
如(く、
海岸(間近(く
停泊(して
居(る。
さて
夫(よりは、
紀元節(の
祝賀(と、
此(大(なる
成功(の
祝(とで
沸(くが
如(き
騷(ぎ、
夜(になると、
兼(て
設(けられたる
海岸(の
陣屋(で
大祝賀會(が
始(まつた。
其塲(の
盛况(は
筆(にも
言葉(にも
盡(されない。
茶番(をやる
水兵(もある、
軍樂(を
奏(する
仲間(もある、
武村兵曹(は
得意(に、
薩摩琵琶(『
河中島(』の
一段(を
語(つた。
此(男(に、
此樣(な
隱(し
藝(があらうとは
今日(まで
氣付(かなかつた。
特(に
櫻木海軍大佐(の
朗々(たる
詩吟(につれて、
何時(覺(えたか、
日出雄少年(の
勇(ましき
劍舞(は
當夜(の
華(で、
私(が
無藝(のために、
只更(頭(を
掻(いたのと
共(に、
大拍手(大喝釆(であつた。
かくて、
此(會(の
全(く
終(つたのは
夜(の十一
時(※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、278-1]であつた。
櫻木大佐(は、すでに
海底戰鬪艇(も
海上(に
浮(んだので、
其(甲板(を
守(らんが
爲(めに、
武村兵曹(をはじめ
一隊(の
水兵(を
引卒(して
艇中(に
赴(いた。
殘(り
一群(の
水兵(と、
私(と、
日出雄少年(とは、
未(だ
艇(に
乘組(む
必要(も
無(いので、
再(び
海岸(の
家(へ
歸(つたのである。
誰(でも
左樣(だが、
非常(に
(しい
時(にはとても
睡眠(などの
出來(るものでない。で、
家(に
歸(つたる
吾等(の
仲間(は、それからまた
一室(に
集(つて、
種々(の
雜談(に
耽(つた。
(の
硝子越(しに
海上(を
眺(めると、
電光艇(は
星(の
光(を
浴(びて
悠然(と
波上(に
浮(んで
居(る、あゝ
此(艇(もかく
竣成(した
以上(は、
今(から
一週間(か、十
日(以内(には、
萬端(の
凖備(を
終(つて、
此(島(を
出發(する
事(が
出來(るであらう。
此(島(を
出發(したらもう
締(たものだ、
一時間(百海里(前後(の
大速力(は、
印度洋(を
横切(り、
支那海(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、278-12]ぎ、
懷(かしき
日本海(の
波上(より、
仰(いで
芙蓉(の
峰(を
拜(する
事(も
遠(い
事(ではあるまい。
無邪氣(なる
水兵等(の
想像(するが
如(く、
其時(の
光景(はまあどんなであらう。
電光艇(の
評判(、
櫻木大佐(の
榮譽(、
各自(の
胸(にある
種々(の
樂(み、それ
等(は
管々(しく
言(ふに
及(ばぬ。
一度(死(んだと
思(はれた
日出雄少年(と、
私(とが、
無事(に
此(譽(ある
電光艇(と
共(に
世(に
現(はれて
來(たと
聞(いたなら、
ネープルスに
在(る
濱島武文(――
若(しまた
春枝夫人(が
此世(にあるものならば、
如何(に
驚(き
且(つ
喜(ぶ
事(であらう。
斯(う
考(へると、
實(に
愉快(で〳〵
堪(らぬ、
今(や
吾等(の
眼(には、たゞ
希望(の
光(の
輝(くのみで、
誰(か
人間(の
幸福(を
嫉(む
惡魔(の
手(が、
斯(る
時(――かゝる
間際(に
兎角(大厄難(を
誘起(すものであるなどゝ
心付(く
者(があらう。
然(るに、
人間(の
萬事(は、
實(に
意外(の
又(意外(、
此(喜悦(の
最中(に
非常(な
事變(が
起(つた。
刻(は、
草木(も
眠(る、
一時(と
二時(との
間(、
談話(暫時(途絶(えた
時(、ふと、
耳(を
澄(すと、
何處(ともなく
轟々(と、
恰(も
遠雷(の
轟(くが
如(き
響(、
同時(に
戸外(では、
猛犬稻妻(がけたゝましく
吠立(てるので、
吾等(は
驚(いて
立上(る、
途端(もあらせず!
響(は
忽(ち
海上(に
當(つて、
天軸(一時(に
碎(け
飛(ぶが
如(く、
一陣(の
潮風(は
波(の
飛沫(と
共(に、サツと
室内(に
吹付(けた。
『
大海嘯(!
大海嘯(!。』と
一同(は
絶叫(したよ。
周章狼狽(戸外(に
飛出(して
見(ると、
今迄(は
北斗七星(の
爛々(と
輝(いて
居(つた
空(は、
一面(に
墨(を
流(せる
如(く、
限(りなき
海洋(の
表面(は
怒濤(澎湃(、
水煙(天(に
漲(つて
居(る。
此(海嘯(は
後(に
分(つたが、
印度洋(中(マルダイ
島(附近(の
海底(の
地滑(りに
原因(して、
亞弗利加(の
沿岸(から、
亞剌比亞(地方(へかけて、
非常(な
損害(を
與(へた
相(だが、
其(餘波(が
此(孤島(まで
押寄(せて
來(たのである。
兎(に
角(非常(な
騷動(!
幸福(にも
吾等(の
家(は、
斷崖(の
絶頂(に
建(てられて
居(つたので、
此(恐(る
可(き
惡魔(の
犧牲(となる
事(丈(けは
免(かれた。けれど、それと
同時(に、
第一(に
吾等(の
胸(を
打(つたのは、
櫻木大佐等(の
乘込(める
海底戰鬪艇(の
安否(である。
天(は
暗(い、
地(も
暗(い、
海(の
面(は
激浪(逆卷(き、
水煙(跳(つて、
咫尺(も
辨(ぜぬ
有樣(、
私(は
氣(も
氣(でなく、
直(ちに
球燈(を
點(じて
驅(け
出(すと、
日出雄少年(も
水兵等(も
齊(しく
手(に〳〵
松明(をかざして、
斷崖(の
尖端(に
立(ち、
聲(を
限(りに
叫(びつゝ
火光(を
縱横(に
振廻(した。
吾等(の
叫聲(は
忽(ち
怒濤(の
響(に
打消(されてしまつたが、
只(見(る、
黒暗々(たる
遙(か〳〵の
沖(に
當(つて、
一點(の
燈光(ピカリ〳〵。
まさしく、
海底戰鬪艇(よりの
夜間信號(!
其(信號(に
曰(く
電光艇(は
無事(なり!
電光艇(は
無事(なり!
第二十三回 十二の
樽(
海底戰鬪艇の生命――人煙の稀な橄欖島――鐵の扉は微塵――天上から地獄の底――其樣な無謀な事は出來ません――無念の涙
大海嘯(後(の
光景(は、
實(に
慘憺(たるものであつた。
翌朝(になつて
見(ると、
海潮(は
殆(ど
平常(に
復(したが、
見渡(す
限(り、
海岸(は、
濁浪(怒濤(の
爲(に
荒(されて、
昨日(美(はしく
飾立(てゝあつた
砂上(の
清正(の
人形(も、
二見(ヶ
浦(の
模形(も、
椰子林(の
陣屋(も、
何處(へ
押流(されたか
影(も
形(もなく、
秘密造船所(も
一時(は
全(く
海水(に
浸(されたと
見(えて、
水面(から
餘程(高(い
屏風岩(の
尖頭(にも、
醜(き
海草(の
殘(されて、
其(海草(から
滴(り
落(つる
水玉(に、
朝日(の
光(の
異樣(に
反射(して
居(るなど、
實(に
荒凉(たる
有樣(であつた。
此時(、
電光艇(は
遙(かの
沖(から
海岸(に
近(き
來(り、
櫻木海軍大佐(は、
無事(に
一隊(の
水兵(と
共(に
上陸(して
來(たので、
陸上(の
一同(は
直(ちに
其處(に
驅付(けた。
吾等(の
爲(には、
海底戰鬪艇(が
無事(であつた
事(が
何(より
(しい。
私(は
滿面(に
笑(を
湛(えて
大佐(の
手(を
握(り、かゝる
災難(の
間(にも
互(の
身(の
無事(なりし
事(をよろこび、さて
『
昨夜(、
海上(の
光景(はどんなでしたか。』と
言(ひながら、しげ〳〵と
大佐(の
顏(を
眺(めたが、
實(に
驚(いた。
日頃(沈着(で、
何事(にも
動顛(した
事(のない
大佐(の
面(には、
此時(何故(か、
心痛(極(りなき
色(が
見(えたのである。
大佐(ばかりでない、
快活(なる
武村兵曹(も、
其他(の
水兵等(も、
電光艇(より
上陸(した
一同(は、
悉(く
色蒼(ざめ、
頭(を
垂(れて、
何事(をか
深(く
考(へて
居(る
樣子(。
私(は
胸(うたれて、
急(ぎ
問(ひかけた。
『
何(か
變(つた
事(でも
起(りましたか、
若(しや、
昨夜(の
海嘯(のために、
海底戰鬪艇(に
破損(でも
生(じたのではありませんか。』
『
否(。』と
大佐(は
靜(かに
顏(を
上(げた。
『
電光艇(の
船體(には、
何(も
異状(はありませんが――。』といひながら、
眤(と
私(の
顏(を
眺(めて
『
然(し、
昨夜(の
海嘯(は、
吾等(一同(を
希望(の
天上(より、
絶望(の
谷底(へ
蹴落(したと
思(はれます。』
『な、な、
何故(ですか。』と、
陸(の
仲間(は
一時(に
顏色(を
變(へたのである。
大佐(は、
直(ちに
此(問(には
答(へんとはせで、
頭(を
廻(らして、
彼方(なる
屏風岩(の
方(を
眺(めたが、
沈欝(なる
調子(で
『
君(は
今朝(になつて、
秘密造船所([#「秘密造船所(」は底本では「秘密船造所(」]の
内部(を
檢査(しましたか。』
『いや、
未(だです。』と
私(は
答(へた。
若(し、
大海嘯(が
今(から二三
日(以前(の
事(で、
海底戰鬪艇(が
未(だ
船渠(を
出(ぬ
内(なら、
第一(に
警戒(すべき
塲所(は
其處(だが、
今(は、
左迄(で
急(いで、
檢査(する
必要(も
無(いと
考(へたのである。
然(るに、
大佐(の
言葉(と、
其(顏色(とで
察(すると、
其(心痛(の
源(は
何(んでも
其處(に
起(つたらしい、
私(は
急(ぎ
言(をつゞけた。
『
未(だ
實見(はしませんが、
御覽(の
通(り、
海面(から
餘程(高(いあの
屏風岩(の
尖頭(にも、
海草(が
打上(げられた
程(ですから、
秘密造船所(の
内部(は
無論(海潮(の
浸入(のために、
大損害(を
蒙(つた
事(でせう、それが
何(か
憂(ふ
可(き
事(の
原因(となるのですか。』
『
無論(です。』と
大佐(は
胸(に
手(を
措(いて
『
君(は
忘(れましたか、
秘密造船所(の
中(には、
未(だ
海底戰鬪艇(の
生命(の
殘(されて
居(つた
事(を。』
『
海底戰鬪艇([#「海底戰鬪艇(」は底本では「海底戰艇鬪(」]の
生命(とは。』と、
私(は
審(つた。
『十二の
樽(です。
君(も
御存(じの
如(く、
海底戰鬪艇(の
總(ての
機關(は、
秘密(なる十二
種(の
化學藥液(の
作用(で
活動(するのでせう、
其(活動(の
根源(となる
可(き
藥液(は、
盡(く十二の
樽(に
密封(されて、
造船所(内(の
一部(に
貯藏(されてあつたのだが、あゝ、
昨夜(の
大海嘯(では
其(一個(も
無事(では
居(るまい、イヤ、
决(して
無事(で
居(る
筈(はありません。』
『え、え、え。』と、
初(めて
此事(に
氣付(いた
吾等(一
同(は、
殆(ど
卒倒(するばかりに
愕(いた。
大佐(は
深(き
嘆息(を
洩(して
『
恐(らく
私(の
想像(は
誤(るまい、
實(に
天(の
禍(は
人間(の
力(の
及(ぶ
處(ではないが、
今更(斯(る
災難(に
遭(ふとは、
實(に
無情(い
次第(です。
今(、十二の
樽(が
盡(く
流失(したものならば、
海底戰鬪艇(の
神變(不思議(の
力(も、
最早(活用(するに
道(が
無(いのです。
丁度(普通(の
蒸
船(に
石炭(の
缺乏(したと
同(じ
事(で、
波上(に
停止(したまゝ、
朽果(つるの
他(はありません。
勿論(、
電光艇(には
試運轉式(の
時(に
積入(れた
發動藥液(が、
今(も
多少(は
殘(つて
居(るが、
艇(に
殘(つて
居(る
丈(けでは、一千
海里(以上(を
進航(するに
足(らぬ
程(で、
本島(から一千
海里(といへば
此處(から
一番(に
近(いあの
人煙(の
稀(なる
マルダイ
群島(の
一(つ
橄欖島(の
附近(までは
到達(する
事(は
出來(ませうが、
橄欖島(へ
達(した
所(で
何(にもならない、
却(て
其處(で、
全然(進退(の
自由(を
失(つたら
夫(こそ
大變(、
自(ら
進(んで
奇禍(を
招(くやうなものです。
橄欖島(は
荒凉(たる
島(、とても
其(種(の
發動藥液(を
得(る
事(は
出來(ず、
其他(の
諸島(、
又(は
大陸(に
通信(して、
供給(を
仰(ぐといふ
事(も、
决(して
出來(る
事(では
無(いのです。
加(ふるに
橄欖島(の
附近(には、
始終(有名(なる
海賊船(が
横行(し、また
屡々(、
歐洲(諸國(の
軍艦(も
巡航(して
來(ますから、
其邊(に
我(が
海底戰鬪艇(が
機關(の
活動(を
失(つて、
空(しく
波上(に
漾(つて
居(るのは
無謀(此上(もない
事(です。
彼等(は
日本帝國(の
爲(に、
今(や
斯(る
戰艇(が
竣成(したと
知(つたら、
决(して
默(しては
居(りません、
必定(、
全力(を
盡(して、
掠奪(に
着手(しませうが、
其時(、
動(いては
天下(無敵(の
此(電光艇(も、
其(活動力(を
失(つて
居(る
間(は、
如何(ともする
事(が
出來(ません、
吾等(は
潔(よく
其處(に
身命(を
抛(つ
事(は
露惜(まぬが、
其爲(に、
海底戰鬪艇(が
遂(に
彼等(の
手(に
掠奪(されて
御覽(なさい、
吾等(が
幾年月(の
苦心慘憺(も
水(の
泡(、
否(、
我(が
親愛(なる
日本帝國([#ルビの「につぽんていこく」は底本では「ほつぽんていこく」]の
爲(に、
計畫(した
事(が、
却(て
敵(に
利刀(を
與(へる
事(になります。
其樣(な
事(が
如何(して
出來(ませう。
然(れば
百計(盡(た
塲合(には、たとへ
海底戰鬪艇(と
共(に
永久(に
此(孤島(に
朽果(つるとも、
無謀(に
本島(を
出發(する
事(は
出來(ません。
君(よ
左樣(でせう。で、
今(私(の
想像(するが
如(く
秘密造船所(が
全(く
海水(の
爲(めに
破壞(されて、十二の
樽(が
其(一個(でも
流失(したものならば、
吾等(は
最早(本島(から
一尺(も
外(へ
出(る
事(は
出來(ないのです、
左樣(、
吾等(が
無上(の
樂(とせる
懷(かしの
日本(へ
歸(る
可(き
希望(も、
全(く
奪去(られたといふものです。』
『
嗟呼(。』と
叫(んだ
儘(、
私(も
日出雄少年(も
其他(の
水兵等(も
茫然自失(した。
昨夜(の
大海嘯(の
悽(まじき
光景(では、
其(十二の
樽(の
最早(一個(も
殘(つて
居(らぬ
事(は
分(つて
居(るが、それでも、
萬(に
一(もと
思(つて、
吾等(は
心(も
空(に
洞中(の
秘密造船所(の
内部(に
驅付(けて
見(たが、
不幸(にして
大佐(の
言(は
誤(らなかつた。
塲内(の
光景(は
實(に
慘憺(たるもので、
濁浪(怒濤(は
一方(の
岩壁(を
突破(つて、
奔流(の
如(く
其處(から
浸入(したものと
見(へ、
其(直(ぐ
側(の、
兼(て
發動藥液(の
貯藏(せられて
居(つた
小倉庫(の
鐵(の
扉(は
微塵(に
碎(かれて、十二の
樽(は
何處(へ
押流(されたものか、
影(も
形(も
無(かつた。
大佐(は
撫然(として
天(を
仰(ぐのみ、
一同(の
顏色(は
益々(青(くなつた。
あゝ、
天上(から
地獄(の
底(へ
蹴落(されたとて、
人間(は
斯(く
迄(失望(するものではあるまい。
一同(は
詮方(なく
海岸(の
家(に
皈(つたが、
全(く
火(の
消(えた
後(のやうに、
淋(しく
心細(い
光景(。
櫻木大佐(は
默然(として
深(く
考(に
沈(んだ。
武村兵曹(は
眼中(に
無念(の
涙(を
浮(べて、
今(も
猶(ほ
多少(仇浪(の
立騷(いで
居(る
海面(を
睨(んで
居(る。
日出雄少年(はいと〳〵
悲(し
相(に
『あゝ、また
日本(へ
皈(る
事(が
出來(なくなつたんですか。』と
空(しく
東(の
空(を
望(む、
其(心(の
中(はまあどんなであらう。三十
有餘名(の、
日頃(は
鬼(とも
組(まん
水兵等(も、
今(は
全(く
無言(に、
此處(に
一團(、
彼處(に
一團(、
互(に
顏(を
見合(はすばかりで、
其中(に二三
名(は、
萬一(にも十二の
樽(の
中(一つでも、二つでも、
海濱(に
流(れ
寄(る
事(もやと、
甲斐(〴〵しく
巡視(に
出(かけたが、
無論(宛(になる
事(では
無(い。
第二十四回
輕氣球(の
飛行(
絶島の鬼とならねばならぬ――非常手段――私が參ります――無言のわかれ――心で泣いたよ――住馴れた朝日島は遠く〳〵
私(はつく〴〵と
考(へたが、
今度(といふ
今度(こそは、とても
免(れぬ
天(の
禍(であらう。
櫻木大佐(の
言(の
如(く、
無謀(に
本島(を
離(るゝ
事(が
出來(ぬものとすれば、
他(に
何(の
策(も
無(い。
電光艇(の
活動(の
原因(となるべき十二
種(の
藥液(は、
何時(までかゝつても、
此樣(な
孤島(では
製造(の
出來(るものでなく、また、
他(から
供給(を
仰(ぐ
事(も
恊(はねば、
吾等(は
爾後(十
年(生存(るか、二十
年(生存(るか
知(れぬが、
朝夕(、
世界無比(の
海底戰鬪艇(を
目前(に
眺(めつゝも、
終(には、
此(絶島(の
鬼(とならねばならぬのである。
斯(う
考(へると、
無限(に
悲哀(くなつて、たゞ
茫然(と
故國(の
空(を
望(んで、そゞろに
暗涙(を
浮(べて
居(る
時(、
今迄(默然(と
深(き
考慮(に
沈(んで
居(つた
櫻木大佐(は、
突然(顏(を
上(げた。
彼(は
遂(に
非常手段(を
案(じ
出(したのである。
大佐(は、
决然(たる
顏色(を
以(て
口(を
開(いた。
『
今(、
此(厄難(に
際(して、
吾等(の
採(る
可(き
道(は
只(二つある、
其(一つは、
何事(も
天運(と
諦(めて、
電光艇(と
共(に
此(孤島(に
朽果(てる
事(――
然(しそれは
何人(も
望(む
處(ではありますまい――
他(の
一策(は
他(でも
無(い、
實(に
非常(の
手段(ではあるが、
※日([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、293-1]、
自動鐵車(が
砂(すべりの
谷(に
陷落(した
時(、
君等(を
救(はんが
爲(に
製作(した
大輕氣球(が、
今(も
猶(ほ
殘(つて
居(る。
其(輕氣球(を
飛揚(して、
誰(か一二
名(、
印度(の
コロンボ市(か
其他(の
大陸地方(の
都邑(に
達(し、
其處(で、
電光艇(が
要(する十二
種(の
藥液(を
買整(へ、
其處(から一千
海里(離(れて
大陸(と
本島(との
丁度(中間(に
横(はれる
橄欖島(まで
竊(に
船(に
艤裝(して、十二の
藥液(を
運送(して
來(たならば、
此方(でも
海底戰鬪艇(には、
未(だ
多少(の
發動藥液(が
殘(つて
居(るから、
其(運送船(が
丁度(橄欖島(に
到着(する
頃(、
我(が
電光艇(も
亦(た
本島(を
出發(して、
二船(其(島(に
會合(し、
凖備(の
藥液(をば
電光艇(に
轉載(して、それより
日本(に
歸(らんとの
計畫(です。
勿論(、
事(の
成敗(は
豫期(し
難(いが、
萬一(氣球(が
空中(に
破裂(するとか、
其他(の
異變(の
爲(に、
使命(を
果(す
事(が
出來(なければ
夫迄(の
事(、
此方(電光艇(は、
約束(の
日(に
本島(を
發(し、
橄欖島(に
赴(いて、
數日(待(つても、
來(る
可(き
船(の
來(ぬ
塲合(には、それを
以(て
輕氣球(の
運命(を
卜(し、
自(も
亦(た
天運(の
盡(と
諦(めて、
其時(は
最後(の
手段(、
乃(ち
海賊船(とか
其他(強暴(なる
外國(の
軍艦等(に、
海底戰鬪艇(の
秘密(を
覺(られぬが
爲(に、
自(ら
爆發藥(を
以(て
艇體(を
破壞(して、
潔(よく
千尋(の
海底(に
沈(まんとの
覺悟(。
實(に
非常(の
手段(ではあるが、
今(の
塲合(に
於(て、
目的(もなく、
希望(もなく
漸(く
竣成(せし
海底戰鬪艇(を
目前(に
瞻(めつゝ、
空(しく
此(孤島(に
朽果(てんよりは、
寧(ろ
吾等(の
採(る
可(き
道(は
是(であらう。』と、
語(り
終(つて、
大佐(は、
决心(の
色(動(かし
難(く
吾等(一同(を
見(た。
無論(大佐(の
言(に
異議(を
挾(むものゝあらう
筈(は
無(く、
遂(に
此事(は
確定(したが、さて、
輕氣球(に
乘(つて、
此(大使命(を
果(さんものは
誰(ぞといふ
段(になつて、
勇壯(なる
水兵等(は、
吾先(にと
[#「吾先(にと」は底本では「吾先(とに」]其(任(に
當(らんと
競(ひ
立(つたが、
大佐(は
思(ふ
所(ある
如(く
容易(に
許(さない。
實(に、
此(大使命(は
重大(な
事(である。
氣球(がいよ〳〵
大陸(の
都邑(に
降下(して
後(、
秘密藥品(の
買收(から、
竊(かに
船(に
艤裝(して、
橄欖島(へ
赴(く
迄(の
間(の
駈引(は
尋常(な
事(で
無(い、
私(は
早(くも
櫻木大佐(の
心(を
讀(み
得(たので、
自(ら
進(み
出(た。
『
此(大使命(には
不肖(ながら
私(が
當(りませう。』といふと
大佐(は
大(に
喜(び
『
實(は
其(お
言葉(を
待(つて
居(つたのです。
此(任務(は、
單(に
勇氣(と、
膽力(とのみでは
出來(ません。
氣球(の
降下(する
處(は
無論(異邦(の
地(、
外國語(、
其他(の
便宜上(、
君(に
依頼(するより
他(は
無(かつたのです。』と
左右(を
顧見(て
『そこで、
今(一人(助手(として
誰(か。』
『
私(が
參(ります。』と
例(の
武村兵曹(は
勇躍(して
進(み
出(た。
大佐(眼(を
定(めて
眤(と
兵曹(の
顏(を
眺(め
『
汝(、
此度(の
使命(の
成敗(は、
我(が
海底戰鬪艇(が、
日本帝國(の
守護(として、
世(に
現出(する
事(が
出來(るか、
否(かの
分(れ
目(であるぞ。
極(めて
機敏(に、
極(めて
愼重(なれ。』
兵曹(言(はなく、
涙([#ルビの「なみだ」は底本では「なんだ」]を
垂(れて
大佐(の
顏(を
見返(した。
斯(く
大使命(の
役(も
私(と
武村兵曹(とに
定(まると、
本島(に
殘(る
櫻木大佐等(と
吾等(兩人(との
間(には、
極(めて
細密(なる
打合(せを
要(するのである。
其(打合(せは
斯(うであつた。
今日(は二
月(の十二
日(、
風(の
方向(は
極(めて
順當(であるから、
本日(輕氣球(が
此(島(を
出發(すれば、
印度洋(の
大空(を
横斷(して、
來(る十六
日(か十七
日(には、
大陸(で
一番(に
近(い
印度國(コロンボ市(の
附近(に
降下(する
事(が
出來(るであらう。
其處(で
秘密藥品(の
買入(れや、
船舶(の
雇入(れに
五日間(を
費(すとして
吾等(が
橄欖島(に
赴(く
事(の
出來(るのは、
本月(の廿四
日(から廿七八
日(迄(の
間(と
豫定(せらるゝから、
櫻木大佐等(は二十四
日(の
夜半(に
電光艇(に
乘(じて、
本島(を
離(れ、
其(翌日(の
拂曉(には、
橄欖島(の
島蔭(に
到着(する
約束(。そこで、
何方(でも、
早(く
橄欖島(に
到着(した
方(は、
向(ふ
一週間(の
間(、
其(島(の
附近(で
待合(はせ、
一週間(※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、297-5]て
後(も
他(の
一方(が
見(えぬ
時(には、
最早(運命(の
盡(と
覺悟(を
定(める
筈(であつた。
此(打合(せが
終(ると、
大佐(の
命令(で、
輕氣球(は
海岸(の
砂上(に
引出(され、
水素瓦斯(は
充分(に
滿(たされ、
數日分(の
食料(と、
飮料水(と、
藥品(の
買入(れや、
船舶(の
雇入(れの
爲(めに
費(す
可(き、
巨額(の
金銀貨(の
積込(みも
終(ると、
私(と
武村兵曹(とは
身輕(に
旅裝(を
整(へて
搖籃(の
中(へと
乘込(んだ。あゝ、
之(が
一生(の
別(れとなるかも
分(らぬ。
櫻木大佐(も、
日出雄少年(も、
默(つて
吾等(兩人(の
顏(を
眺(め、
力(を
込(めて
吾等(の
手(を
握(つた。
一隊(三十
有餘名(の
三年(以來(の
馴染(の
水兵等(は、
別(を
惜(まんとて、
輕氣球(の
周圍(を
取卷(いたが、
誰(も
一言(も
發(する
者(が
無(い、
中(には
感慨(極(つて、
涙(を
流(した
者(もあつた。
私(も
武村兵曹(も
實(に
心(で
泣(いたよ。
此時(、
吾等(一同(の
沈默(は、
千萬言(よりも
深(い
意味(を
有(して
居(るのであつた。
兎角(する
程(に
結(びの
綱(は
解(かれて、
吾等(兩人(を
乘(せたる
輕氣球(は、
遂(に
勢(よく
昇騰(をはじめた。
櫻木大佐等(は
一齊(にハンカチーフを
振(つた。
武村兵曹(と
私(とは、
帽(を
脱(して
下方(を
瞻(めたが、
風(は
南(から
北(へと、
吾(が
輕氣球(は、三千
數(百
尺(の
大空(を、
次第(〳〵に
大陸(の
方(へと、やがて、
住(み
馴(れし
朝日島(も、
蒼渺(たる
水平線上(に
豆(のやうになつて
消(え
去(つた。
第二十五回
白色巡洋艦(
大陸の影――矢の如く空中を飛走した――ポツンと白い物――海鳥の群――「ガーフ」の軍艦旗――や、や、あの旗は! あの艦は!
朝日島(を
去(つてから、
三日(は
何事(もなく
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、299-4]つた。
吾等(兩人(を
乘(せたる
輕氣球(は、
印度洋(の
天空(を
横切(つて、
北(へ〳〵と
二千哩(以上(も、
櫻木大佐等(の
家(から
離(れたと
思(はるゝ
頃(、
遙(か〳〵の
天(の
一角(に、
雲(か、
煙(のやうに、
大陸(の
影(が
認(められた。
私(と
武村兵曹(とは
眼([#ルビの「め」は底本では「み」]を
見合(はせて、はじめてホツと
一息(ついた。あの
大陸(は、
疑(も
無(き
印度(の
大陸(であらう。すると、
今(から三四
時間(の
後(には、
目的(の
コロンボ市(の
附近(に
降下(して、
櫻木大佐(より
委任(されたる、
此度(の
大役(をも
首尾(よく
果(す
事(が
出來(るであらうと、
互(に
喜悦(の
眉(を
展(く
時(しも、
又々(一大(異變(が
起(つた。それは
他(でも
無(い、
今迄(は
恰(も
天(の
恩惠(の
如(く、
極(めて
順當(に、
南(から
北(へと、
吾(が
輕氣球(をだん〴〵
陸地(の
方(へ
吹(き
送(つて
居(つた
風(が、
此時(、
俄然(として、
東(から
西(へと
變(つた
事(である。はじめ
朝日島(を
出(づる
時(、
櫻木大佐(は
天文(を
觀測(して、
多分(此(三四
日(の
間(は、
風位(に
激變(は
無(からうと
言(はれたが、
天(の
仕業(程(豫知(し
難(いものはない。
此(東風(が
吹(いて
來(た
爲(に、
吾(が
輕氣球(は、
忽(ち
進行(の
方向(を
變(じて、
今度(は、
陸(の
方面([#ルビの「ほうめん」は底本では「ほんめん」]から
斜(に、
海洋(の
方(へと
吹(きやられた。
私(と
武村兵曹(とは
今迄(の
喜悦(も
何處(へやら、
驚愕(と
憂慮(とのために、
全(く
顏色(を
失(つた。
今一息(といふ
間際(になつて、
此(異變(は
何事(であらう。あゝ、
天(は
飽迄(我等(に
祟(るのかと、
心(を
焦立(て、
身(を
藻掻(いたが、
如何(とも
詮方(が
無(い。
見(る〳〵
内(に、
大陸(の
影(も
名殘(りなく、
眼界(の
外(に
消(え
失(せてしまうと、
其内(に
風(はだん〳〵
烈(しくなつて
來(て、はては
印度洋(で、
著名(の
颶風(と
變(つてしまつた。
下界(を
見(ると
眼(も
眩(むばかりで、
限(りなき
大洋(の
面(には、
波瀾(激浪(立騷(ぎ、
數萬(の
白龍(の
一時(に
跳(るがやうで、ヒユー、ヒユーと
帛(を
裂(くが
如(き
風(の
聲(と
共(に、
千切(つた
樣(な
白雲(は
眼前(を
掠(めて
飛(ぶ、
實(に
悽愴(極(りなき
光景(。
勿論(、
旋風(の
常(とて
一定(の
方向(はなく、
西(に、
東(に、
南(に、
北(に、
輕氣球(は
恰(も
鵞毛(のごとく、
天空(に
舞(ひ
揚(り、
舞(ひ
降(り、
マルダイヴ群島(の
上(を
斜(に
飛(び、
ラツカダイヴ諸島(の
空(を
流星(の
如(く
驅(つて、それから
何處(へ、
如何(に
行(くものやら、
四晝夜(の
間(は
全(く
夢中(に
空中(を
飛走(したが、
其(五日目(の
午前(になつて、
風(も
漸(くをさまり、
氣球(の
動搖(も
靜(まつたので、
吾等(ははじめて
再生(の
思(をなし。
恐([#ルビの「おそ」は底本では「おる」]る〳〵
搖籃(から
半身(を
現(はして
下界(を
見(ると、
今(は
何處(の
空(に
吹流(されたものやら、
西(も
東(も
方角(さへ
分(らぬ
程(だが、
身(は
矢張(渺々(たる
大海原(の
天空(に
飛揚(して
居(るのであつた。
此處(は
地球上(の
何(れの
邊(に
當(つて
居(るだらうと、
二人(は
首(を
捻(つて
見(たが
少(しも
分(らない。
武村兵曹(の
考(では。
最早(亞弗利加大陸(を
横斷(して、ずつと
西(の
方(に
吹(き
飛(ばされて、
今(、
下邊(に
見(ゆる
大海(は、
大西洋(に
[#「大西洋(に」は底本では「太西洋(に」]相違(はあるまい。と
言(つたが、
私(はどうも
左樣(とは
信(じられなかつた。
數日(以來(の
風(は、
隨分(悽(まじいものであつたが、
颶風(の
常(として、
吾(が
輕氣球(は
幾度(も
同(じ
空(に
吹(き
廻(されて
居(つた
樣(だから、
左迄(遠方(へ
飛(ぶ
氣遣(はない、
私(の
考(では、
下方(に
見(ゆるのは
矢張(印度洋(の
波(で、
事(によつたら
マダカツスル島(の
西方(か、
アデン灣(の
沖(か、
兎(に
角(歐羅巴(邊(の
沿岸(には、
左程(遠(い
所(ではあるまいと
思(はれた。
然(し、
今(は
其樣(な
事(を
悠長(に
考(へて
居(るべき
塲合(でない。
此時(の
心痛(は
實(に
非常(であつた。
櫻木大佐(との
約束(の
日(は
既(に
切迫(して
居(る。
指(を
屈(して
見(ると、
吾等(が
豫定通(りに
印度國(コロンボ市(の
附近(に
降下(して、
秘密藥品(を
買整(へ、
船(に
艤裝(して
橄欖島(へ
到着(す
可(き
筈(の二十五
日(迄(には、
最早(六日(を
餘(すのみで。
約束(の
日(には、
櫻木大佐(は
日出雄少年等(と
共(に、
海底戰鬪艇(に
乘(じて
朝日島(を
離(れ、
竊(かに
橄欖島(に
到(りて、
吾等(兩人(の
應援(を、
今日(か、
明日(かと、
待(ち
暮(す
事(であらうが。
今(の
吾等(の
境遇(では、
果(して
其(大任(を
果(す
事(が
出來(るであらうか。
見渡(す
限(り
雲煙(渺茫(たる
大空([#ルビの「おほぞら」は底本では「おはぞら」]に
漂蕩(して、
西(も、
東(も
定(めなき
今(、
何時(大陸(に
達(して、
何時(橄欖島(に
赴(き
得(べしといふ
目的(もなければ、
其内(に
豫定(の廿五
日(も
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、303-9]ぎ、
其後(の
一週間(も
空(しく
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、303-10]つたならば、
櫻木大佐(も
終(には
覺悟(を
定(めて、
稀世(の
海底戰鬪艇(と
共(に、
海(の
藻屑(と
消(えてしまう
事(であらう。
嗚呼(、
大事切迫(〳〵と、
私(は
武村兵曹(と
顏(を
見合(はしたる
儘(、
身體(の
置塲(も
知(らぬ
程(心(を
惱(まして
居(る、
時(しも
忽(ち
見(る、
遙(か〳〵の
水平線上(に
薄雲(の
如(き
煙(先(づ
現(はれ、つゞゐて
鳥(か
船(か
見(え
分(かぬ
程(、
一點(ポツンと
白(い
影(、それが
段々(と
近(づいて
來(るとそは
一艘(の
白色巡洋艦(であつた。
後檣縱帆架(に
飜(る
旗(は、まだ
朦乎(として、
何國(の
軍艦(とも
分(らぬが、
今(や、
團々(たる
黒煙(を
吐(きつゝ、
波(を
蹴立(てゝ
吾(が
輕氣球(の
飛揚(せる
方角(へ
進航(して
來(るのであつた。
此時(私(は
急(に
一策(を
案(じた。
今(吾等(は、
重大(の
使命(を
帶(びながら、
何時(大陸(へ
着(くといふ
目的(も
無(く、
此儘(に
空中(に
漂蕩(して
居(つて、
其間(に
空(しく
豫定(の
期日(を
經※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、304-9]してしまつた
事(ならば、
後悔(臍(を
噛(むとも
及(ぶまい。
幸(ひ、
彼處(に
見(ゆる
白色巡洋艦(、あれは
何國(の
軍艦(で、
何處(から
何處(へ
指(しての
航海中(かは
分(らぬが、
一應(かの
船(の
助(けを
求(めては
如何(だらう。
勿論(、
吾等(が
空中旅行(の
目的(と、
櫻木大佐(の
海底戰鬪艇(の
秘密(とは、
輕々(しく
外國船(などに
覺(られてはならぬが、それは
臨機應變(に
何(とか
言脱(れの
工夫(の
無(いでも
無(い。
兎(も
角(も、
目下(の
急(丈(けを、かの
軍艦(に
助(けられて、
何處(でもよい、
最近(の
大陸地方(に
送(り
屆(けて
貰(つたならば、
其後(は
必死(に
奔走(して、
如何(にかして、
豫定(の
期日(までに
約束(の
凖備(を
整(へて、
櫻木大佐等(が
待(てる
橄欖島(に
到着(する
事(の
出來(ぬでもあるまい。
斯(う
考(へたので、
急(ぎ
武村兵曹(に
談合(すると、
兵曹(も
無論(不同意(はなく、
直(ちに
白(い
手巾(を
振廻(して、
救難(の
信號(をすると、
彼方(の
白色巡洋艦(でも、
吾等(の
輕氣球(を
認(めたと
見(え、
其(前甲板(に
白(と
赤(との
旗(が、
上下(にヒラ〳〵と
動(くやうに
見(えた。
此(途端(!
武村兵曹(は、
忽(ち
何者(をか
見出(したと
見(へ、
割(れるやうな
聲(で
叫(んだ。
『
大變(!
大變(!
大變(だア』
私(も
愕然(として
振向(くと、
今迄(は
白色巡洋艦(の
一方(に
氣(を
取(られて、
少(しも
心付(かなかつたが、
只(見(る、
西方(の
空(一面(に「ダンブロー
鳥(」とて、
印度洋(に
特産(の
海鳥(――
其(形(は
鷲(に
似(て
嘴(鋭(く、
爪長(く、
大([#ルビの「おほき」は底本では「おほい」]さは七
尺(乃至(一
丈(二三
尺(位(いの
巨鳥(が、
天日(も
暗(くなる
迄(夥(しく
群(をなして、
吾(が
輕氣球(を
[#「輕氣球(を」は底本では「輕氣珠(を」]目懸(けて、
襲(つて
來(たのである。
吾等(兩人(は
非常(に
喫驚(した。
此(種(の
海鳥(は、
元來(左迄(に
性質(の
猛惡(なもので
無(いから、
此方(さへ
落付(いて
居(れば、
或(は
無難(に
免(れる
事(が
出來(たかも
知(れぬが、
不意(の
事(とて、
心(から
顛倒(して
居(つたので、
其樣(な
事(を
考(へ
出(す
暇(もない、
急(ぎ
追(ひ
拂(ふ
積(りで、
一發(小銃(を
發射(したのが
※失([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、306-10]であつた。
彈丸(は
物(の
見事(に
其(一羽(を
斃(したが、
同時(に
他(の
鳥群(は、
吾等(に
敵對(の
色(があると
看(て
取(つたから
堪(らない。
三羽(四羽(憤怒(の
皷翼(と
共(に
矢(の
如(く
氣球(に
飛掛(かる、あつといふ
間(に、
氣球(は
忽(ち
其(鋭(き
嘴(に
突破(られた。
其時(、
先刻(の
白色巡洋艦(は
既(に
吾(が
輕氣球(を
去(る
事(一
海里(許(の
海上(に
進(んで
來(たので
船(の
全體(も
手(に
取(る
如(く
見(える、
今(しも、ふと
其(「ガーフ」の
軍艦旗(を
認(めた
武村兵曹(は
『や、や、あの
旗(は、あの
艦(は。』とばかり、
焦眉(の
急(も
忘(れて
跳(り
立(つ、
私(も
急(ぎ
其(方(に
眼(を
轉(ぜんとしたが、
時(既(に
遲(かつた。
「ガンブロー
鳥(」に
突破(られたる
輕氣球(は、
水素瓦斯(の
洩(るゝ
音(と
共(に、キリヽ〳〵と
天空(を
舞(ひ
降(つて、『あはや』といふ
間(に、
大洋(の
眞唯中(へ
落込(んだのである。
第二十六回
顏(と
顏(と
顏(
帝國軍艦旗――虎髯大尉、本名轟大尉――端艇諸共引揚げられた――全速力――賣れた顏――誰かに似た顏――懷かしき顏
輕氣球(と
共(に、
海洋(の
唯中(に
落込(んだ
吾等(兩人(は、
一時(は
數(十
尺(深(く
海底(に
沈(んだが、
幸(にも、
落下(の
速力(の
割合(に
緩慢(であつた
爲(と、また
浪(に
氣球(が
抵杭(した
爲(に、
絶息(する
程(でもなく、
再(び
海面(に
浮(び
出(でゝ、
命(を
限(りに
泳(いで
居(ると、
暫(くして、
彼方(の
波上(から、
人(の
呼聲(と、
櫂(の
音(とが
近(づいて
來(て、
吾等(兩人(は
遂(に
情(ある
一艘(の
端艇(に
救(ひ
上(げられたのである。
今(、
端艇(を
出(して、
吾等(の
九死一生(の
難(を
救(つて
呉(れたのは、
疑(もない、
先刻(の
白色巡洋艦(である。
端艇(に
引上(げられた
武村兵曹(は、
此時(忽(ち
叫(んだ。
『おー。
矢張(左樣(だつた! あの
巡洋艦(のガーフの
旗(は、
我(が
帝國(の
軍艦旗(であつた※
[#感嘆符三つ、309-2]。』と、
彼(は、
今(しも、
輕氣球(から
墮落(の
瞬間(に、
ちらりと
認(めた
同(じ
模樣(の
海軍旗(を、
此(端艇(の
艇頭(に
見出(したのである。
私(も
艇中(の
一同(を
見(て、
實(に
驚(き
飛立(つたよ。
『や!
帝國軍人(!
日本海軍々人(!。』と
叫(びつゝ、
頭(を
廻(らすと、
此(端艇(を
去(ること
程遠(からぬ
洋上(には、
先刻(の
白色巡洋艦(は
小山(の
如(き
浪(に
漂蕩(しつゝ、
其(後檣縱帆架(と
船尾(とには、
旭(輝(く
大日本帝國(の
軍艦旗(は
翩飜(と
南風(に
飜(つて
居(つた。
端艇(の
右舷(左舷(に
櫂(を
握(り
詰(めたる
水兵等(も、
吾等(兩人(の
顏(を
見(て、
一齊(に
驚(と
不審(の
眼(を
見張(つた。
艇尾(には
色(淺黒(く
[#「色(淺黒(く」は底本では「黒(淺黒(く」]、
虎髯(を
海風(に
吹(かせたる
雄風(堂々(たる
海軍大尉(あり、
舵柄(を
握(れる
身(を
延(して、『やゝ、
貴下等(も
日本人(ではないか。』とばかり、
私(と
武村兵曹(の
面(を
見詰(めたが、
西(も
東(も
果(しなき
大洋(の
面(では、
荒浪(騷(ぎ、
艇(跳(つて、とても
仔細(かい
話(などは
出來(ない、かく
言(ふ
間(も
巨濤(は、
舷(に
碎(けて
艇(覆(らんとす、
大尉(舵(をば
右方(に
廻(し、『
進(!。』の
一聲(。
端艇(は
忽(ち
艇頭(を
右(に
轉(じて、十二の「オール」の
波(を
切(る
音(と
共(に、
本艦(指(して
矢(のやうに
進(んだ。
私(と
武村兵曹(とは
夢(に
夢見(る
心地(。
自分(が
濡鼠(の
樣(になつて
居(る
事(も、
少(なからず
潮水(を
飮(んで
腹(が
苦(しくなつて
居(る
事(も
忘(れて、
胸(は
驚(と
悦(に、
跳(りつゝ、
眤(と
眺(むる
前方(の
海上(、「ガーフ」に
懷(かしき
我(が
帝國(の
軍艦旗(を
飜(せるかの
白色(の
巡洋艦(は、
此邊(海底(深(くして、
錨(を
投(ずることも
叶(はねば、
恰(も
小山(の
動搖(ぐが
如(く、
右(に
左(に
漂蕩(して
居(る。
此(軍艦(、
排水(噸數(二千七百ばかり、
二本(烟筒(の
極(めて
壯麗(なる
裝甲巡洋艦(である。
今(しも
波浪(に
揉(まれて、
此方(に
廻(りし
其(艦尾(には、
赫々(たる
日輪(に
照(されて「
日の出」の三
字(が
鮮(かに
讀(まれた。
軍艦(日(の
出(!
軍艦(日(の
出(! と
私(は
何故(ともなく二
度(三
度(口(の
中(で
繰返(す
内(に、
端艇(はだん〳〵と
本艦(に
近(くなる。
軍艦(「
日(の
出(」の
甲板(では、
後部艦橋(のほとりより
軍艦旗(飜(る
船尾(に
到(るまで、
多(くの
乘組(は、
列(を
正(して、
我(端艇(の
歸艦(を
迎(へて
居(る。
頓(て
本艦(の
間際(になつたが、
海(は
盤水(を
動(かすがごとく、二千七百
餘(噸(の
巨艦(ゆらり〳〵と
高(く、
低(く、
我(が
端艇(は
秋(の
木(の
葉(のごとく
波浪(に
跳(つて、
迚(も
左舷々梯(に
寄着(く
事(が
出來(ない。
水煙(は
飛(ぶ、
逆浪(は
打込(む、
見上(ぐる
舷門(の
邊(、「ブルワーク」のほとり、
士官(、
水兵(頻(りに
叫(んで、
我(が
艇尾(の
大尉(は
舵(の
柄(を
碎(けんばかりに
握(り
詰(めて、
奈落(に
落(ち、
天空(に
舞(ひ、
艇(は
幾度(か
艦(の
水線甲帶(に
碎(けんとしたが、
漸(くの
事(で
起重機(をもつて、
我等(十
餘人(の
乘(れるまゝ
端艇(が「
日(の
出(」の
甲板(に
引揚(げられた
時(には、はじめて
ホツと
一息(ついたよ。
本艦(は
一令(の
下(に
推進螺旋(波(を
蹴(つて
進航(を
始(めた。
規律(正(しき
軍艦(の
甲板(、かゝる
活劇(の
間(でも
决(して
其(態度(を
亂(す
樣(な
事(はない。
『
輕氣球(が
天空(より
落(ちた。
本艦(より
端艇(を
下(した。
救(ひ
上(げたる
二個(の
人(は
日本人(である。
一人(は
冐險家(らしい
年少(の
紳士(、
他(の
一人(は
我(が
海軍(の
兵曹(である。いぶかしや、
何故(ぞ。』と、
此(噂(は
早(くも
軍艦(「
日(の
出(」の
全體(に
傳(つたが、
誰(れも
其(本分(を
忘(れて「どれ、どんな
男(だ」などゝ、
我等(の
側(に
飛(んで
來(る
樣(な
不規律(な
事(は
少(しも
無(く。
機關兵(は
機關室(を
護(り、
信號兵(は
戰鬪樓(に
立(ち、一
等(、二
等(、三
等(水兵等(は
士官(の
指揮(の
下(に、
今(引揚(げた
端艇(を
收(めつゝ。たゞ
公務(の
餘暇(ある
一團(の
士官(水兵等(が
吾等(を
唯(ある
船室(に
導(き、
濡(れたる
衣服(を
脱(がせ、
新(しき
衣服(を
與(へ、
中(にも
機轉(よき一
士官(は
興奮(の
爲(にと、
急(ぎ「ブランデー」の一
杯(をさへ
惠(んで
呉(れた。
實(に
其(軍律(の
嚴然(たるは
今更(ながら
感嘆(の
他(は
無(いのである。
此時(、
前(に
端艇(を
指揮(して、
吾等(兩人(を
救(ひ
上(げて
呉(れた、
勇(ましき
虎髯大尉(は、
武村兵曹(も
私(も
漸(く
平常(に
復(した
顏色(を
見(て、
ツト身(を
進(めた、
微笑(を
浮(べながら
『
兩君(!
君等(の
幸運(を
祝(します。』と
言(つたまゝ、
頭(を
廻(らして
左右(を
顧見(た
時(、
忽(ち、
艦(の
後部艦橋(を
降(つて、
歩調(ゆたかに
吾等(の
方(に
歩(んで
來(た
一個(の
海軍大佐(があつた。
風采(端然(、
威風(凛々(、
言(ふ
迄(もない、
本艦(の
艦長(である。
艦長(は
既(に
虎髯大尉(よりの
報告(によつて、
輕氣球(と
共(に
落下(した
吾等(の
二人(の
日本人(である
事(も、
一人(は
冐險家(らしい
紳士(風(で、
他(の
一人(は
同(じ
海軍(の
兵曹(である
事(も
知(て
居(つたと
見(え、
今(、
吾等(の
前(に
立(つて、
武村兵曹(と
私(との
顏(を
眺(めたが、
左迄(驚(く
色(がない、
目禮(をもつて
傍(の
倚子(に
腰(打(ち
掛(け、
鼻髯(を
捻(つて
靜(かに
此方(に
向直(つた。
兵曹(と
私(とは、
恭(しく
敬禮(を
施(しつゝ、
ふと、
其人(の
顏(を
眺(めたが、あゝ、
此(艦長(の
眼元(――
其(口元(――
私(が
甞(て
記臆(せし、
誰人(かの
懷(かしい
顏(に、よくも〳〵
似(て
居(る
事(と
思(つたが、
咄嗟(の
急(には
思(ひ
浮(ばなかつた。
何(は
兎(もあれ、
今(、かく
心(が
落付(いて
見(ると、
今度(吾等(が
此(大危難(をば、
同(じ
日本人(の――しかも
忠勇(義烈(なる
帝國海軍々人(の
手(によつて
救(はれたのは、
實(に
吾等(兩人(の
幸福(のみではない、
天(は
今(やかの
朝日島(に
苦(める
櫻木海軍大佐(の
誠忠(をば
遂(に
見捨(てなかつたかと、
兩人(は
不測(に
感涙(の
流(るゝ
樣(に
覺(えて、
私(は
垂頭(き、
武村兵曹(は
顏(を
横向(けると、
此時(吾等(の
傍(に、
何(か
艦長(の
命(を
聽(かんとて、
姿勢(を
正(して
立(てる三四
名(の
水兵(は、
先刻(より
熱心(に
武村兵曹(の
顏(を
見詰(めて
居(つたが、
其(中(の
一名(、
一歩(進(み
出(でゝ、
恭(しく
虎髯大尉(と
艦長(とに
向(ひ、
意味(あり
氣(に
『
閣下(、
私(は
此(兵曹(に
一言(話(したう
厶(ります。』と
言(ふ。
『よろしい。』と
艦長(の
許可(を
得(て、
水兵(はやをら
武村兵曹(に
眼(を
轉(じ
『
久濶(や、
兵曹(、
足下(は
本國(で
名高(い
櫻木海軍大佐閣下(の
部下(の
武村兵曹(ではないか。』と
問(ひかけた。
武村兵曹(と
云(へば
快活(な
事(と、それから
砲術(に
巧(な
事(と、また
腕力(の
馬鹿(に
強(い
事(とで、
日本海軍(の
水兵仲間(には
少(なからず
顏(の
賣(れて
居(つた
男(なので、
今(や
圖(らずも、
天涯(萬里(の
此(帝國軍艦(の
艦上(にて、
昔馴染(の
水兵等(に
對面(したものと
見(える。
兵曹(驚(いて
眼(を
見張(り
『おゝ、
乃公(は
如何(にも
櫻木大佐閣下(の
部下(なる
武村新八郎(だ。』と
言(ひながら、
額(を
叩(いて
『
濟(まない、
すつかり忘(れた、
足下(は
誰(だつたかな。』
『
前(の
高雄艦長(、
今(は
軍艦(「
日(の
出(」の
艦長(、
松島海軍大佐閣下(の
部下(の
信號兵(だよ。』と、
水兵(は
膝(を
進(ませ
『
今(、
松島海軍大佐閣下(は、
英國(テームス河口(の
造船所(から、
新造軍艦(「
日(の
出(」の
廻航中(で、
本艦(は
昨曉(アデン海口(を
出(で、
今(しも
此印度洋を
進航(して
來(ると、
丁度(輕氣球(が
天上(から
落(ちて
來(たので、
急(ぎ
助(けて
見(たら
足下等(だ、
實(に
不思議(な
縁(ではないか。』と
語(り
終(つて
一歩(退(いた。
此(一言(!
心(なき
人(が
聽(いたら
何(でもなからうが、
私(と
武村兵曹(とは
思(はず
顏(を
見合(はして
莞爾(としたよ。
先(づ
第一(の
喜悦(は、
先刻(輕氣球(の
上(で
疑(つた
樣(に、
今(の
今(まで、
我等(が
泛(べる
此(太洋(は、
大西洋(か
[#「大西洋(か」は底本では「太西洋(か」]、はた
アラビアン海(かも
分(らなかつたのが、
只今(の
水兵(の
言(で、
矢張(私(の
想(つた
通(り、
此(洋(は、
我等(兩人(が
目指(す
コロンボ市(にも、また
櫻木海軍大佐等(と
再會(すべき
筈(の
橄欖島(にも
左迄(では
遠(くない
印度洋(中(であつた
事(と。
今一([#ルビの「いまひと」は底本では「いまいと」]つ、
私(は
松島海軍大佐(なる
姓名(を
耳(にして、
忽(ち
小膝(をポンと
叩(いたよ。
讀者(諸君(!
松島海軍大佐(とは
誰(であらう?
私(は
未(だ
此(大佐(とは
甞(て
面會(した
事(は
無(いが、
兼(て
聞(く
櫻木海軍大佐(とは
無二(の
親友(で、また、
私(の
爲(には
終世(忘(るゝ
事(の
出來(ない、かの
春枝夫人(の
令兄(――
日出雄少年(の
爲(には
叔父君(に
當(つて
居(る
人(。
今(から
足掛(け四
年(以前(に、
私(の
親友(濱島武文(の
妻(なる
春枝夫人(が、
本國(の
令兄(松島海軍大佐(の
病床(を
訪(はんが
爲(めに、
其(良君(と
別(れ、
愛兒(日出雄少年(を
伴(ふて、
伊太利(の
國(子ープルス港(を
發(し、
私(と
同(じ
船(で、はる〴〵
日本(へ
歸國(の
途中(、
暗黒(なる
印度洋(の
眞中(で
恐(る
可(き
海賊船(の
襲撃(に
遭(ひ、
不運(なる
弦月丸(の
沈沒(と
共(に、
夫人(の
生死(は
未(だ
私(には
分(らぬ
次第(だが、
一時(は
病(の
爲(めに
待命中(と
聞(いた
其(大佐(が、
今(は
却(て
健康(に、
此(新(しき
軍艦(「
日(の
出(」の
廻航中(とか――さては、と
私(は
忽(ち
思(ひ
當(つたのでわる。
先刻(一目(見(て
直(ぐ
誰人(かに
似(て
居(ると
想(つたのは
其(筈(よ、
誰(あらう、
此(日(の
出(艦長(こそ、
春枝夫人(の
令兄(、
日出雄少年(の
叔父君(なる
松島海軍大佐(であつたのかと。そゞろに
床(しく、
懷(かしく、
眼(を
揚(げて、
目前(に
端然(たる
松島大佐(の
面(を
瞻(めると、
松島大佐(も
意味(あり
氣(に、
私(と
武村兵曹(の
顏(とを
見(くらべたが、
例(の
虎髯大尉(と
一寸(顏(を
見合(はせて、
言葉(靜(かに
問(ひかけた。
先(づ
私(に
向(ひ
『
貴君(、
今(本艦(水兵(と
貴君(の
同伴者(なる
武村兵曹(との
談話(によると、
貴君等(は、
我(が
最(も
親密(なる
海軍大佐櫻木重雄君(と
縁故(の
人(の
樣(に
思(はれるが、
果(して
左樣(ですか。』といひかけ、
頷(づく
私(の
顏(を
打守(りて、
屹(と
面(を
改(ため
『
實(は
先刻(貴君等(が
不思議(にも
大輕氣球(と
共(に
此(印度洋(の
波上(に
落下(したと
聞(いた
時(から、
私(は
心(に
或(想像(を
描(いて
居(るのです。
想像(とは
他(でもない、
貴君等(が
果(して
我(が
親愛(なる
櫻木君(と
縁故(の
人(ならば、
今度(此(不思議(なる
出來事(も、
或(は
櫻木大佐(の
運命(に
或(關係(を
有(して
居(るのではあるまいかと。
私(は
櫻木君(の
大望(をばよく
知(つて
居(ります。また、
彼(が、
人(の
知(らない
此(印度洋(中(の
一(孤島(に、三十
有餘名(の
水兵(と
共(に、
身(を
潜(めて
居(る
次第(をもよく
存(じて
居(ります。
五年(前(、
彼(が
横須賀(の
軍港(に
於(て
永(き
袂別(を
私(に
告(ぐる
時(、
彼(は
决然(たる
顏色(を
以(て
言(つたです「
今(より五
年(の
後(には、
必(ず
一大(功績(を
立(てゝ、
君(に
再會(する
事(が
出來(るだらう」と。それから五
年(の
星霜(は
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、320-8]つたが、
未(だ
彼(の
消息(は
少(しも
聞(えません、
其間(、
私(は
一日(でも
彼(の
健康(と、
彼(の
大事業(の
成功(とを
祈(らぬ
時(はないのです。あゝ、
櫻木君(は
遂(に
其(大目的(を
達(しましたらうか。
彼(が
潜心苦慮(せる
大軍器(は
遂(に
首尾(よく
竣成(しましたらうか。』と
言(ひながら、
聲(を
沈(まし
『けれど、
私(は
今(、
時(ならぬ
輕氣球(を
此(印度洋上(に
認(め、
特(に
其(乘組人(の
一人(は
櫻木大佐(の
片腕(と
言(はれた
武村兵曹(であつたので
想(へると、
今(や
孤島(の
櫻木君(の
身邊(には、
何(か
非常(の
異變(が
起(つて、
其爲(に
貴君等(兩人(は
大佐(と
袂別(を
告(げ、一
大(使命(を
帶(びて
此(空中(を
飛行(して
來(たのではありませんか。』と
眤(と
吾等(兩人(を
見詰(めた。
『
其事(!
實(に
御明察(の
通(りです。』と
私(はツト
身(を
進(めた。
武村兵曹(は
胸(をうつて
『
艦長閣下(、
實(に
容易(ならぬ
事變(は
我(が
大佐閣下(の
上(に
起(りました。』と、それより、
兵曹(と
私(とは
迭代(に、
櫻木海軍大佐(の
海底戰鬪艇(の
事(、
其(大成功(の
實情(、
及(び二
月(十一
日(の
夜半(、
大佐(功(成(り
將(に
朝日島(を
出發(せんとする
瞬時(前(、
震天動地(の
大海嘯(の
爲(に、
秘密造船所(の
倉庫(碎(けて、十二の
樽(の
流失(した
事(から、
遂(に
今回(の
大使命(に
立到(つた
迄(の
大略(を
述(べ
『
大佐閣下(よ、されば
吾等(兩名(は
今(より
急(ぎ
印度國(コロンボの
港(に
到(り、十二
種(の
秘密藥液(を
凖備(へて、
本月(二十五
日(拂曉(までには、
電光艇(が
待合(はすべき
筈(の
橄欖島(まで
赴(かねばなりません。』と
語(り
終(ると、
聽(く
水兵等(は
驚嘆(の
顏(を
見合(はせ、
勇烈(なる
虎髯大尉(は、
歡(び
且(つ
愕(きの
叫聲(をもつて
倚子(より
起(ちて、
松島海軍大佐(の
面(を
見(ると、
松島大佐(は
握(れる
軍刀(の
※([#「革+巴」、322-7]の
碎(くるをも
覺(えぬまで、
滿足(と
熱心(との
色(をもつて、
屹(と
面(を
揚(げ
『
快(なる
哉(、
櫻木君(の
海底戰鬪艇(は
遂(に
竣工(しましたか。』と、
暫時(は
言(もなく、
東天(の
一方(を
眺(めたが、
忽(ち
腕拱(ぬき
『して、
櫻木君(の
一行(は
意外(の
天變(のために、
來(る二十五
日(拂曉(、
橄欖島(の
附近(にて
貴下等(の
應援(を
待(つのですか、よろしい、
斯(く
承(はる
以上(は
最早(憂慮(するには
及(びません。
日本帝國(のため、
帝國海軍(のため、また
櫻木大佐(の
光譽(のために、
我等(は
全力(を
盡(して
電光艇(の
應援(に
赴(きませう。』と
立(つて
傍(なる
卓上(に
一面(の
海圖(を
押擴(げ、
具(さに
緯度(を
計(りつゝ
『
此處(から
最(も
便宜(なる、また
最(も
近(き
貿易港(は
矢張(印度國(コロンボの
港(で、
海上(大約(千二百
哩(、それより
橄欖島(までは千五百
哩(弱(、されば、
本艦(は
明後晩(コロンボに
錨(を
投(じ、
電光艇(に
必要(なる十二の
秘密藥液(を
凖備(して、
直(ちに
暗號電報(をもつて
本國(政府(の
許可(を
受(け、
全速力(をもつて
橄欖島(へ
向(ふ
事(が
出來(ます、さらば!。』とばかり
側(の
虎髯大尉(に
向(ひ、
『
轟大尉(!
本艦(全速力(、
方向(は
矢張(コロンボ港(、
右(號令(を
傳(へて
下(さい※
[#感嘆符三つ、323-12]。』
虎髯大尉(、
本名(は
轟大尉(であつた。『
諾(。』と
應(えたまゝ、
身(を
飜(へして
前甲板(の
方(へ
走(り
去(つた。
松島大佐(は
再(び
海圖(の
面(に
向(つた。
此時(中部甲板(には、
午前(十一
時(を
報(ずる
六點鐘(、カヽン! カヽン! カヽン! カヽン! カヽン! カヽン!
武村兵曹(と
私(とは、
實(に
双肩(の
重荷(を
降(した
樣(な
心地(がしたのである。
實(に、
(しい、
(しい、
(しい。
此(
(しい
時(――すでに
我(が
大使命(をば
語(り
終(つたる
今(、
一個人(の
事(ではあるが、
私(は
松島海軍大佐(に
向(つて、
問(ひもし、
語(りもしたき
事(は
澤山(ある。
大佐(の
令妹(春枝夫人(の
安否(――
其(良君(濱島武文(の
消息(――それより
前(に
私(から
語(らねばならぬのは(
大佐(は
屹度(死(んだと
思(つて
居(るだらう)
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、324-12]三
年(の
間(、
私(と
共(に
朝日島(の
月(を
眺(めて、
今(も
猶(ほ
健康(で
居(る
彼(の
娚(なる
日出雄少年(の
消息(である。
私(は
幾度(か
口(を
開(きかけたが、
此時(大佐(の
顏色(は、
私(が
突然(に
此事(を
言(ひ
出(し
兼(ねた
程(、
海圖(に
向(つて
熱心(に、
頓(て
櫻木大佐(と、
其(海底戰鬪艇(のに
會(合(ふべき
筈(の、
橄欖島(附近(の
地勢(、
海深等(を
調(ぶるに
餘念(もなかつた。
暫時(、
船室(内(は
寂(となる。
室外(には
舷(に
碎(くる
浪(の
音(、
檣頭(に
走(る
風(の
聲(、
艦橋(に
響(く
士官(の
號令(。
私(は
何氣(なく
倚子(より
離(れて、
檣樓(に、
露砲塔(に、
戰鬪樓(に、
士官(水兵(の
活動(目醒(ましき
甲板(を
眺(めたが、
忽(ち
電氣(に
打(たれし
如(く
躍上(つたよ。
今(しも、
後部甲板(昇降口(より
現(はれて、
一群(の
肩章(に
波(を
打(たせたる
年少(士官等(と
語(りながら、
徐(かに
此方(に
來(かゝる
二個(の
人(――
軍艦々上(には
珍(らしき
平服(の
姿(、
一個(は
威風堂々(たる
肥滿(の
紳士(、
他(の
一個(は
天女(の
如(き
絶世(の
佳人(!
誰(か
知(らん、
此(二人(は、四
年(以前(に
ネープルスで
別(れた
濱島武文(と、
今(は
此世(に
亡(き
人(とのみ
思(つて
居(つた
彼(の
妻(――
松島大佐(の
令妹(――
日出雄少年(の
母君(なる
春枝夫人(であつた。
急(ぎ
眼(を
押拭(つて
見(たが、
矢張(其人(※
[#感嘆符三つ、326-6]
私(は
狂喜(のあまり、
唐突(武村兵曹(の
首(を
捻(ぢ
向(けて
『
兵曹(! あれを
見(よ〳〵、
濱島君(に、
春枝夫人(!。』と
叫(ぶと、
不意(に
愕(いたる
武村兵曹(は
『ど、ど、ど、
何處(に! どの
人(が?。』と
伸上(る。
側面(の
卓上(にあつて、
此(有樣(を
認(めたる
松島海軍大佐(は
不審(の
眉(を
揚(げ
『いぶかしや、
貴君(は
何人(なれば
[#「何人(なれば」は底本では「何人(なれは」]、
濱島武文(と
春枝(とを
御在(じですか。』
私(はツト
身(を
乘(り
出(した
『
私(こそ、
四年(前(に、
春枝夫人(と
弦月丸(の
沈沒(に
別(れた
柳川(です。』
松島海軍大佐(の
端然(たる
顏色(は
微(に
動(いて
『では、
貴君(は、
若(しや
我(が
娚(日出雄少年(の
安否(を――。』と
言(ひかけて、
急(ぎ
艦尾(なる
濱島武文(と
春枝夫人(とに
眸(を
移(すと、
彼方(の
二人(も
忽(ち
私(の
姿(を
見付(けた。
春枝夫人(の
美(はしき
顏(は『あら。』とばつかり、
其(良君(を
顧見(る。
私(は
彼方(へ!
彼方(は
此方(へ!
轉(ぶがごとく※
[#感嘆符三つ、327-11]
第二十七回
艦長室(
鼻髯を捻つた――夢では
[#「夢では」は底本では「夢でば」]ありますまいか――私は何より

しい――大分色は黒くなりましたよ、はい――今度は貴女の順番――四年前の話
日(は
高(く、
風(は
清(しき
軍艦(「
日(の
出(」の
艦上(、
縱帆架(には
帝國軍艦旗(舞(ひ、「ブルワーク」の
邊(には
克砲(、
俄砲(、四十七
粍(速射砲(、
砲門(をならべ、
遠(く
一碧(の
水天(を
望(み、
近(く
破浪(の
音(を
聽(きつゝ、
絶(て
久(しき
顏(と
顏(とは
艦長室(の
美(はしき
長倚子(に
倚(つて
向(ひ
合(つた。
濱島武文(は
言葉(もなく
私(の
手(を
握(つた。
春枝夫人(は
『あゝ、
柳川(さん、
妾(は、
貴方(と
此世(で
御目(に
掛(からうとは――。』と
言(つたまゝ、
其(美(はしき
顏(は
私(の
身邊(を
見廻(した。
武村兵曹(は
私(の
横側(で
五里霧中(の
顏(。
艦長松島海軍大佐(は
春枝夫人(の
言(をば
奪(ふがごとく
私(に
向(ひ
『して、
日出雄少年([#ルビの「ひでをせうねん」は底本では「びでをせうねん」]は――
安全(ですか――それとも――。』
私(は
欣然(として
叫(んだ。
『おゝ、
松島海軍大佐(よ、
濱島武文君(よ、
春枝夫人(よ、
貴方等(の
喜悦(にまで、
少年(は
無事(です、
無事(です※
[#感嘆符三つ、329-6]。』
松島大佐(と
濱島武文(とは
言(ひ
合(はした
樣(に
喜色(を
浮(べて
鼻髯(を
捻(つた。
春枝夫人(は
流石(に
女性(の
常(
『あゝ、
夢(ではありますまいか、
之(が
夢(でなかつたら、どんなに
嬉(しいんでせう。』と、
止(め
兼(たる
喜悦(の
涙(を
ソツと
紅絹(の
手巾(に
押拭(ふ。
『
夢(ぢやありませんとも〳〵。』と
武骨(なる
武村兵曹(は、
此時(ヒヨツコリと
顏(を
突出(した。
『
貴夫人(!
何(んで
夢(だなんぞと
仰(つしやる。あの
可憐(なる
日出雄少年(は、
今(は
我(が
敬愛(する
櫻木海軍大佐閣下(と
共(に
朝日島(に
元氣(よく、
今頃(は
屹度(、
例(の
可愛(らしい
樣子(で、
水兵(共(や、
愛犬(の
稻妻(なんかと、
海岸(の
岩(の
上(から、
遙(かに
日本(の
空(を
眺(めて、
早(く
孤島(を
出發(して、
一日(も
速(かに
貴方等(に
再會(したいと
待望(んで
居(る
事(でせう。』と
叫(ぶ。
『
貴方(は――。』と
二人(の
眼(は
懷(かし
相(に
武村兵曹(の
上(に
轉(じた。
『
此人(は
武村兵曹(とて、
吾等(が
三年(の
間(孤島(の
生活中(、
日出雄少年(とは
極(めて
仲(のよかつた
一人(です。』と
私(は
彼(を
二人(に
紹介(せて、それより
武村兵曹(と
私(とは
交(る〴〵、
朝日島(へ
漂流(の
次第(、
稀世(の
海底戰鬪艇(の
事(、
孤島(生活中(の
有樣(、それから
四年(以前(には、
穉氣(なく
母君(と
別(れたりし
日出雄少年(の
今(は
大(きくなりて、
三年(の
間(、
智勇(絶倫(の
櫻木海軍大佐(の
愛育(の
下(に、
何(から
何(まで、
父君(が
甞(て
望(める
如(き
海軍々人(風([#ルビの「ふう」は底本では「ぶう」]の
男兒(となりて、
毎日(〳〵
賢(こく、
勇(ましく、
日(を
送(つて
居(る
有樣(をば
目(に
見(る
如(くに
語(り、
大佐(よ、
濱島君(よ、
春枝夫人(よ、されば
吾等(は
今(や
天運(開(けて、
遠(からず
非常(の
喜(びに
會(する
時(を
待(つばかりです。と
語(り
終(ると、
聽(く
三人(は
或(は
驚(き
或(はよろこび。
大佐(は
相變(らず
鼻髯(を
捻(りつゝ。
豪壯(なる
濱島武文(は
胸(を
叩(いて
『
私(は
何(よりも
嬉(しい。
弦月丸(の
沈沒(は、
日出雄(の
爲(には、
寧(ろ
幸福(であつたかも
知(れません。
今(彼(が
當世(に
隱(れも
無(き、
櫻木海軍大佐(から、
斯(くも
懇篤(なる
薫陶(を
受(けて
生長(した
事(は、
世界(第一(の
學校(を
卒業(したよりも、
私(の
爲(には
(しいです。』
春枝夫人(は
包(み
兼(ねたる
喜悦(の
聲(で
『
皆樣(は、
其樣(にあの
兒(を
可愛(がつて
下(さつたのですか。
妾(は
何(と
御禮(の
言葉(もございません
[#「ございません」は底本では「こざいません」]。』と
雪(のやうなる
頬(に
微※([#「渦」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、332-3]の
波(を
湛(えて
『そして、あの
兒(はもう
其樣(に
大(きくなりまして。』
『
大(きくなりました
段(か。
近々(に
橄欖島(でお
逢(ひになつたら、そりや
喫驚(なさる』とまた
兵曹(が
飛(び
出(した。
『あら。』
『そればかりか、
少年(の
活溌(な
事(ツたら
話(になりませんよ。
獅子狩(もやります、
相撲(も
取(ります。
弱(い
水兵(なんかは
負(かされます。』と
彼(は
至極(眞面目(に
『
然(し、
其代(り、
大分(色(は
黒(くなりましたよ。はい。』
『おほゝゝゝ。』と
春枝夫人(は
半顏(を
蔽(ふて
『
其樣(に
黒(くなりましたの、まア。』
『イヤ、
中黒(です。』と
滑※([#「(禾+尤)/上/日」、333-3]なる
兵曹(の
一言(に、
大佐(も、
濱島(も、
私(も
大聲(に
笑(ひ
崩(るゝ
時(、
春枝夫人(の
優(しい
眼(は、
遙(か〳〵の
南(の
方(の
水(と
空(とを
懷(かし
相(に
眺(めて
居(つた。
其時(私(は
膝(を
進(めて
『
今迄(は
吾等(の
經歴(をのみ
語(つたが、サア
今度(は、
貴方等(のお
答(の
順番(ですよ。』と
先(づ
春枝夫人(に
向(ひ
『
夫人(!
先刻(貴女(も
左樣(仰(つしやいましたねえ。
私(も
眞個(に、
此世(でまた
貴女(にお
目(にかゝらうとは
思(ひ
設(けませんでした、
實(に
不思議(ですよ、
一體(あの
時(は
如何(して
御助命(になりました。』と
口(を
切(つて
『
回想(すれば
今(から四
年(前(、
私(が
日出雄少年(を
抱(いて、
弦月丸(の
沈沒(と
共(に、
海中(に
飛込(んだ
時(、
二度(、
三度(、
貴女(のお
名(をお
呼(び
申(したが、
聽(ゆるものは、
風(の
音(と、
浪(の
響(ばかり、イヤ、
只(一度(、
微(かに〳〵、お
答(のあつた
樣(にも
思(はれたが、それも
心(の
迷(と
信(じて、
其後(朝日島(に
漂着(して、
或(時(、
櫻木大佐(に
此事(を
語(つた
時(、
大佐(は
貴女(の
運命(を
卜(して、
夫人(は
屹度(無事(であらうと
言(はれたに
拘(らず、
日出雄少年(も、
私(も、
最早(貴女(とは、
現世(でお
目(に
掛(る
事(は
出來(まいとばかり
斷念(して
居(りましたに。』
春枝夫人(は、
四年(以前(の
恐(ろしき
夜(の
光景(を
回想(して
『あゝ、あの
時(は、
眞個(に
物凄(う
御坐(いましたねえ。
轟然(たる
響(と
共(に、
弦月丸(は
沈沒(して、
妾(は
一時(は
逆卷(く
波間(に
數(十
尺(深(く
沈(みましたが、
再(び
海面(に
浮(び
上(つた
時(、
丁度(貴方(のお
聲(で、
私(の
名(をお
呼(びになるのが
聽(えました。
私(は、一たび、二たび、お
答(へ
申(しましたが、
四邊(は
眞(の
闇(で、
何處(とも
分(らず、
其儘(永(いお
別(れになりました。
幸(ひ、
沈沒(の
間際(に、
貴方(が
投(げて
下(さつた
浮標(にすがつて、
浪(のまに〳〵
漂(つて
居(る
内(、
其(翌朝(になつて
見(ると、
漫々(たる
大海原(の
遙(か
彼方(に、
昨夜(の
海賊船(らしい
一艘(の
船(が、
頻(りに
潜水器(を
沈(めて
居(るのが
見(えましたが、
其時(、
丁度(通(りかゝつた
英國(の
郵便船(に
救(はれて、
廻(りめぐつて、
再(び
ネープルスの
家(へ
皈(つたのは、
夫(から
一月(程(※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、335-8]ての
事(でした。』
夫人(は
一息(つきて
『
妾(が
子ープルスの
家(へ
歸(つて、
涙(ながらに
良人(の
濱島(に
再會(した
時(には、
弦月丸(の
沈沒(の
噂(は
大層(でした。
何事(も
天命(と
諦(めても、
本當(に
悲(しう
御坐(んしたよ。いろ〳〵の
噂(を
聞(くにつけ、
最早(貴方(も、
日出雄(も、
全(く
世(に
亡(き
人(とのみ
思(ひ
定(め、また、
一方(には、
本國(の
兄(の
病(を
思(ひ
煩(つて
居(りましたが、
幸(ひ、
兄(の
病(はだん〴〵と
快方(の
由(、
其後(の
便船(で
通知(が
參(りましたので、
其(方(は
漸(く
胸(撫(でおろし、
日本(へ
皈(る
事(も
其儘(思(ひ
止(つたのです。それから
四年※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、336-4]ぎての
今(、
圖(らずも
貴方(に
再會(して、いろ〳〵のお
話(を
伺(つて
見(ると、まるで
夢(のやうで、
霖雨(の
後(に
天日(を
拜(するよりも
嬉(しく、たゞ〳〵
天(に
感謝(するの
他(はありません。はい、
兄(の
病氣(は、
妾(が
子ープルスに
歸(つてから、
三月(程(※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、336-8]て、
名殘(なく
全快(して、
今(は
人一倍(に
健全(に、
英國(から
新造軍艦(の
廻航中(、
此(「
日(の
出(」に
乘(つて
居(る
事(は
貴方(も
御覽(の
通(りです。』と
語(り
終(つて
令兄(なる
大佐(と
良君(武文(との
顏(を
婉然(に
見(た。
第二十八回
紀念軍艦(
帝國軍艦「日の出」――此虎髯が御話申す――テームス造船所の製造――「明石」に髣髴たる巡洋艦――人間萬事天意のまゝ
松島海軍大佐(は
相(も
變(らず
鼻髯(を
捻(りつゝ、
面白相(に
我等(の
談話(を
聽(いて
居(る。
濱島武文(は
春枝夫人(に
次(いで
口(を
開(いた。
『
春枝(は
大分(愚痴(が
出(ます。
女(はあれだからいかんです。はゝゝゝゝ。けれど
私(も、
弦月丸(の
沈沒(を
耳(にした
時(には
實(に
愕(きました。
春枝(丈(けは
其後(無事(に
皈(つて
來(たものゝ、
君(の
行衞(は
知(れず、
私(が
兼(てより、
有爲(な
帝國海軍々人(に
養成(して、
國(に
獻(げんと
心(に
樂(しんで
居(つた
日出雄(は、
君(と
共(に、
印度洋(の
藻屑(と
消(えてしまつたと
斷念(した
時(には、
實(に
泣(くより
辛(かつたです。』といひ
掛(けて、
彼(は
忽(ち
聲(高(く
笑(ひ
『ほー。
私(まで
愚痴(が
出(た。イヤ、
愚痴(でない。
實際(失望落膽(したです。
其頃(歐羅巴(の
諸(新聞(は
筆(を
揃(へて、
弦月丸(の
遭難(を
詳報(し、かの
臆病(なる
船長等(の
振舞(をば
痛(く
攻撃(すると
共(に『
日本人(の
魂(。』なんかと
標題(を
置(いて、
君等(の
其時(の
擧動(を
賞讃(するのを
見(るにつけても、
實(に
斷膓(の
念(に
堪(えなかつたです――
何(、あの
卑劣(なる
船長等(は
如何(したと
問(はるゝか。
左樣(さ、
一旦(は
無事(に
本國(へ
歸(つて
來(たが、
法律(と、
社會(の
制裁(とは
許(さない、
嚴罰(を
蒙(つて、
酷(い
目(に
逢(つて、
何處(へか
失奔(してしまいましたよ。』
『
愉快(だ!
愉快(だ!。』と
武村兵曹(は
不意(に
叫(んだ。
私(は
失笑(しながら
問(をつゞけて
『
濱島君(、して、
其後(、
君(も、
夫人(も、
引續(いて
ネープルス港(にのみお
在留(でしたか。
今(また
此(軍艦([#ルビの「ぐんかん」は底本では「ぐんがん」]に
便乘(して
日本(へお
歸國(になるのは
如何(いう
次第(です。』と
胸(に
手(を
置(いて
『ちと
想像(に
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、339-3]るかも
知(れないが、
私(は
先刻(から
考(へて
居(つたのです。
今(此(新造巡洋艦(に
君(の
愛兒(日出雄少年(の
名(と
何(かの
因縁(ある
如(く「
日(の
出(」と
命名(されて
居(るのは
何(か
深(い
仔細(のあるではありませんか。』
『
其事(は
此(虎髯(がお
話(申(すのが
順當(でせう。』と
不意(に
室内(へ
飛込(んで
來(たのは、
例(の
磊落(なる
虎髯大尉(、
本名(轟大尉(であつた。
先(づ
艦長松島大佐(に
向(つて、
何事(をか
二言(、
三言(、
公務(の
報告(を
終(つて
後(、
私(の
方(に
向直(つた。
快活(な
調子(で
『
貴君(!
此(新造巡洋艦(に「
日(の
出(」と
命名(されたのは
全(く
君(の
想像(の
如(く
日出雄少年(の
紀念(の
爲(と
云(つてもよいのです。
左樣(ばかりではお
釋(りになるまい、
濱島氏(は
君(も
御存(じの
通(り、
日出雄少年(をば
有爲(な
海軍々人(に
養成(して、
日本帝國(の
干城(にと、
兼(ての
志望(であつたのが、
弦月丸(の
沈沒(と
共(に、
全(く
水泡(に
歸(したと
思(はれたので、
今(は、
其(愛兒(をば
國(に
獻(ぐる
事(の
出來(ぬ
代(りに、せめては
一艘(の
軍艦(を
獻納(して、
國(に
盡(す
日頃(の
志(を
遂(げんものと、
其(財産(の
一半(を
割(き、
三年(の
日月(を
經(て、
英國(テームス造船所(で
竣成(したのが、
此(軍艦(「
日(の
出(」です。
此(軍艦(は
最新式(の三
等(巡洋艦(で、
排水量(二千八百
噸(、
速力(二十三
節(、
帝國軍艦(「
明石(」に
髣髴(たる
艦(だが、もつと
速力(は
速(い、
防禦甲板(は
平坦部(二十
粍(、
傾斜部(五十三
粍(、
砲門(は八
吋(速射砲(二
門(、十二
珊(速射砲(六
門(、四十七
粍(速射砲(十二
門(、
機關砲(四
門(あるです。
日本政府(は
快(く
濱島氏(の
志(を
容(れ、
我(が
海軍部内(では、
特別(の
詮議(があつて、
直(ちに
松島大佐閣下(が
回航委員長(の
任(に
當(る
事(となり、
今(や
大佐(は
本艦々長(の
資格(をもつて
日本(へ
廻航中(、
濱島氏夫妻(は、
此(軍艦(の
獻納者(であれば、
本艦(引渡(しの
儀式(の
爲(と、
一(つには、
最早(異境(の
空(も
飽果(てたれば
之(よりは、
山(美(はしく、
水(清(き
日本(に
歸(らんと、
子ープルス港(から
本艦(に
便乘(した
次第(です。』と
語(りかけて、
轟大尉(は
虎髯(を
逆(に
捩(りつゝ
『
軍艦(日(の
出(!
此(名(は
確(かに、
日出雄少年(の
名(と
或(關係(を
有(つて
居(ると
信(じます。
然(し、
濱島氏(は
决(して
虚名(を
貪(る
人(でない、
此(名(は
彼(が
求(めた
名(では
無(いのです、すべて
本國(政府(の
任意(に
定(めた
事(で、
軍艦命名式(の
嚴肅(なる
順序(を
經(て
下(されたのが「
日(の
出(」の三
字(です。けれど
私(は、
此(名(と
日出雄少年(の
名(との
符合(をば、
决(して
偶然(の
事(とは
思(ひません。』
『
無論(偶然(の
符合(ではありますまい。』と
私(は
感嘆(の
叫(を
禁(じ
得(なかつた。
武村兵曹(は
前額(を
撫(でゝ
『やあ、だん〴〵と
目出度(い
事(が
集(つて
來(ますな。
新造軍艦(は
獻納(される、
海底戰鬪艇(は
現(はれて
來(る、
日本海軍(益々(榮(え――。』と
快活(なる
面(を
擧(げてニコと
笑(ふ。
松島海軍大佐(も
微笑(を
帶(びて
『
洵(に
兵曹(の
言(の
如(く
日本海軍(の
爲(に
慶賀(すべき
事(である。
今(や
遠(からず
橄欖島(のほとりで
櫻木大佐(に
對面(し、それより
本艦(「
日(の
出(」と
櫻木大佐(の
電光艇(とが
舳艫(相(並(んで
颯々(たる
海風(に
帝國軍艦旗(を
飜(へしつゝ
頓(て、
帝國(の
軍港(へと
到着(した
時(には
如何(に
壯烈(に
且(つ
愉快(なる
事(だらう。』
轟大尉(は
双手(を
擧(げて
快哉(を
叫(んだ。
濱島武文(は
腕(をさすつて
『
實(に
人間(の
萬事(は
天意(の
儘(である。めぐり
廻(つて
何事(が
幸福(となるかも
分(らぬ。
私(は
今(やまた
軍艦(日(の
出(のみならず
一度(喪(つたと
思(つた
日出雄(をも
國(に
獻(ぐる
事(の
出來(るやうになつた
事(を
感謝(します。』と
限(りなき
滿足(の
色(を
以(て
夫人(を
顧見(た。
あゝ、
人間(の
萬事(は
實(に
天意(の
儘(だと、
私(も
深(く
心(に
感(ずると
共(に、
忽(ち
回想(した
一事(がある。それは
他(でもない、
忘(れもせぬ
四年(以前(の
事(、
春枝夫人(と、
日出雄少年(と、
私(との
三人(が、
子ープルス港(の
波止塲(を
去(らんとした
時(、
濱島家(の
召使(で、
常時(日出雄少年(の
保姆(であつた
亞尼(とて、
伊太利(生(れの
年老(たる
女(が、
其(夜(の
出帆(をとゞめんとて、
頻(りに、
魔(の
日(だの、
魔(の
刻(だの、
黄金(や
眞珠(の
祟(りだのと、
色々(奇怪(なる
言(を
繰返(した
事(がある、
無論(、
其時(は
無※([#「(禾+尤)/上/日」、343-10]な
事(と
笑(ひ、また
實際(無※([#「(禾+尤)/上/日」、343-10]な
事(には
相違(ないのだが、それが
偶然(にも
符合(して、
今(になつて
考(へると、
恰(も
※去([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、343-11]の
樣々(なる
厄難(の
前兆(であつたかの
如(く、
甞(て
朝日島(の
生活中(、
櫻木大佐(に
此事(を
語(つた
時(、
思慮(深(き
大佐(すら
小首(を
傾(けた
程(で、
私(の
胸(には、
始終(附(いて
離(れぬ
疑問(であつたので、
今(機會(を
得(て
『
何(か
此事(に
就(いてお
心當(りはありませぬか。』と
春枝夫人(に
問(ひかけた。
第二十九回
薩摩琵琶(
春枝夫人の物語――不屆な悴――風清き甲板――國船の曲――腕押し脛押と參りませう――道塲破りめ――奇怪の少尉
春枝夫人(は
清(しき
眉(を
揚(げ
『あゝ
其事(!
貴方(はよく
覺(えていらつしやいましたねえ。
亞尼(は
眞個(に
妙(な
事(をと、
其(時分(は
少(しも
心(に
留(めませんでしたが、
後(にそれと
思(ひ
當(りましたよ。
全(く
根(なし
言(ではありませんかつたの、それは
斯(うなんです。』と、そよと
吹(く
海風(に、
鬢(のほつれ
毛(を
拂(はせながら
『
魔(の
日(、
魔(の
刻(とか
申(しましたねえ。
其(夜(に
出帆(した
弦月丸(は、
不思議(にも、
豫言(の
通(りに
印度洋(の
沖(に
沈沒(して、
妾(が
英國(郵便船(に
救(はれて、
再(び
子ープルスの
家(に
歸(つた
時(には、
亞尼(の
姿(は
既(に
見(えませんでした。いろ〳〵
探索(して
見(ましたが、
誰(も
行衞(を
知(つて
居(る
人(はありません。
本當(に
奇妙(な
事(だと
思(つて
居(ると、
或(日(の
事(、
ウルピノ山中(とて、
子ープルスの
街(からは
餘程(離(れた
寒村(の、
浮世(の
外(の
尼寺(から、
一通(の
書状(が
屆(きました、
疑(もなき
亞尼(の
手跡(で、はじめて
仔細(が
分(りましたよ。』
『ど、ど、どんな
書面(で――。』と
私(と
武村兵曹(とは
身(を
乘出(した。
夫人(は
明眸(に
露(を
帶(びて
『
可愛相(にねえ
貴方(。
其(書面(によると
亞尼(は、
弦月丸(の
沈沒(を
聞(いて、
私共(に
濟(まぬと
尼(になつたのですよ。
其(事柄(は
一塲(の
悲劇(です。
亞尼(に
一人(の
息子(があつて、
極(く
放蕩(無頼(な
男(で、十
幾年(か
前(に
家出(をして、
行衞不明(になつたといふ
事(は
兼(て
聞(いて
居(りましたが、
亞尼(は、それをば
常(に
口僻(のやうに、
斯(う
言(つて
居(りました「
私(の
忰(は
私(の
言(ふ
事(を
容(かずに、
十月(の
祟(の
日(に
家出(をしたばかりに、
海蛇(に
捕(られてしまひました。」と。
海蛇(に
捕(られたとは、
眞(に
妙(な
事(だと
思(つて
居(りましたが、それがよく
隱語(を
使(ふ
伊太利人(の
僻(で、
其(書面(ではじめて
分(りましたよ。
其(息子(が
海蛇(に
捕(られたといふのは、
生命(の
事(ではなく、
實(は、
印度洋(の
惡魔(と
世(に
隱(れもなき
海賊船(の
仲間(に
入(り、
血(をすゝつて、
海蛇丸(とかいへる
海賊船(の
水夫(となつたのだ
相(です。
其爲(に
亞尼(は
一人(淋(しく
家(に
殘(されて、
遂(に
私(の
家(に
奉公(に
出(る
樣(になつたのですが、
御存(じの
通(り、
極(く
正直(な
女(ですから、
私共(も
目(をかけて
使(つて
居(る
内(、
丁度(私共(が
子ープルス港(を
出發(するといふ
前(の
前(の
晩(です。
亞尼(は
鳥渡(使(ひに
出(ました
時(、
波止塲(のほとりで
圖(らずも、
絶(て
久(しき
其(子(に
出會(つたのです。いくら
惡人(でも、
親子(の
情(はまた
格別(と
見(へ、
正直(なる
亞尼(は「
一寸(お
出(で。」と
其(子(をば、
其邊(の
小(さい
料理屋(へ
連(れて
行(つて、
自分(の
貧(しい
財嚢(を
傾(けて、
息子(の
嗜好(な
色々(の
物(を
御馳走(して「さて、
忰(や、お
前(は
此頃(はどうしておいでだえ。
矢張(惡(い
業(を
改(めませんのかえ。」と
涙(ながらに
諫(めかけると、
息子(は
平氣(なものです「また
始(まつたよ。おつかさん、お
前(は
相變(らず
馬鹿正直(だねえ、
其樣(なけち〳〵した
事(で
此世(が
渡(れるかえ。」と
大酒(飮(んで、
醉(ふたまきれに「
乃公(なんかは
近(い
内(に
大仕事(があるのだ、
其(仕事(の
爲(に
今(此(港(へ
來(て、
明後晩(にはまた
此處(を
出發(するのだが、
其(一件(さへ
首尾(よく
行(けば、
百(や
二百(の
目腐(れ
金(はお
前(にもあげるよ。
内秘(〳〵。」なんかと、
思(はず
知(らず
口走(つたのでせう。
之(を
聽(いた
亞尼(は
はつと
愕(いたのです。
其頃(弦月丸(が、
今迄(に
無(い
程(澤山(の、
黄金(と
眞珠(とを
搭載(して、
ネープルス港(を
出發(して、
東洋(に
向(ふといふのは
評判(でしたが、
誰(も
世(に
恐(る
可(き
海蛇丸(が、
竊(かに
其(舷側(に
停泊(して、
樣子(を
窺(つて
居(るとは
氣付(いた
人(はありませんかつたが、
今(現(に
海賊(仲間(の
其(息子(が
此(港(に
居(る
事(と、
今(の
話(の
樣子(で、
朧(ながらも
其(れと
覺(つた
亞尼(の
驚愕(はまアどんなでしたらう。
私共(の
乘組(む
筈(の
弦月丸(と、
同(じ
日(、
同(じ
刻(に、
ネープルス港(を
出發(する
海蛇丸(の
目的(は
云(ふ
迄(もありません。
其(息子(が
大仕事(と
云(つたのはまさしく
弦月丸(を
襲撃(して、
其(貨財(を
掠奪(する
目的(だなと
心付(いた
時(、
彼女(は
切(に
其(非行(を
諫(めた
相(ですが、
素(より
思(ひ
止(まらう
筈(はなく、
其(暴惡(なる
息子(は、
斯(く
推察(された
上(はと、
急(に
語勢(荒々(しく「おつかさん、
左樣(覺(られたからは
百年目(、
若(し
此(一件(を
他人(に
洩(すものならば、
乃公(の
笠(の
臺(の
飛(ぶは
知(れた
事(、
左樣(なれば
破(れかぶれ、お
前(の
御主人(の
家(だつて
用捨(はない、
火(でもかけて、
一人(も
生(かしては
置(かないぞ。」と
鬼(のやうになつて、
威迫(したんでせう。
亞尼(は
心(も
心(でなく、
急(ぎ
私共(の
家(へ
歸(つて
來(たものゝ、
如何(する
事(も
出來(ません、
明瞭(に
言(へば、
其(子(の
首(の
飛(ぶばかりではなく、
私共(の
一家(にも、
何處(からか
恐(ろしい
復讐(が
來(るものと
信(じて、
千々(に
心(を
碎(いた
揚句(、
遂(にあんな
妙(な
事(に
托(して、
私共(の
弦月丸(に
乘組(む
事(を
留(めやうと
企(てたのです。けれど、
誰(だつて
信(ぜられませんはねえ。
船(の
出發(が
魔(の
日(魔(の
刻(だなんて。あゝ
亞尼(がまた
妙(な
事(をと、
少(しも
心(に
止(めずに
出帆(したのが、あんな
災難(の
原因(となつたのです。それで、
亞尼(は、いよ〳〵
弦月丸(が
沈沒(したと
聞(いた
時(、
身(も
世(にあられず、
私共(に
濟(まぬといふ
一念(と、
其(息子(の
悔悟(とを
祈(るが
爲(に、
浮世(の
外(の
尼寺(に
身(を
隱(したのです。で、
亞尼(は、
今(は、
眞如(の
月影(清(き、
ウルピノ山中(の
草(の
庵(に、
罪(もけがれもなく、
此世(を
送(つて
居(る
事(でせうが、あの
惡(むべき
息子(の
海賊(は、
矢張(印度洋(の
浪(を
枕(に、
不義(非道(の
業(を
逞(しうして
居(る
事(でせう。』と、
語(り
終(つて、
春枝夫人(は
明眸(一轉(
(かの
空(を
仰(いだ。
私(は
思(はず
膝(を
叩(いた。
短慮(一徹(の
武村兵曹(は
腕(を
鳴(して、
漫々(たる
海洋(を
睨(み
廻(しつゝ
『
此處(は
所(も
印度洋(、
其(不屆(な
小忰(めは
何處(に
居(る。』と
艦上(の
速射砲(に
眼(を
注(いで
『
今(は
無上(に
愉快(な
時(だぞ、
今(一層(の
望(みには、
新(に
鑄(へた
此(速射砲(で、
彼奴等(惡(つくき
海賊(共(を
鏖殺(にして
呉(れんに。』
『ヒヤ〳〵、
壯快(!
壯快(!。』と
轟大尉(は
掌(を
鳴(した。
艦長松島海軍大佐(、
濱島武文(、
其他(同席(の二三
士官等(は、
凛々(たる
面(に
微笑(を
浮(べて、
互(に
顏(を
見合(す
時(、
軍艦(「
日(の
出(」の
右舷(左舷(には、
潮(の
花(は
玉(と
亂(れて、
艦(の
速力(は
飛(ぶが
樣(であつた。
それより、
私(と
武村兵曹(とは、
艦中(の
一同(から
筆(にも
言(にも
盡(されぬ
優待(を
受(けて、
印度洋(の
波濤(を
蹴(つて、
コロンボの
港(へと
進(んで
行(く。
日(うらゝかに、
風(清(き
甲板(で、
大佐(や、
濱島(や、
春枝夫人(や、
轟大尉(や、
其他(乘組(の
士官(水兵等(を
相手(に、
私(の
小説(にも
似(たる
經歴談(は、
印度洋(の
波(のごとく
連綿(として
盡(くる
時(もなかつた。ずつと
以前(に
溯(つて、
弦月丸(の
沈沒(當時(の
實况(。
小端艇(で
漂流中(のさま〴〵の
辛苦(。
驟雨(の
事(。
沙魚(釣(りの
奇談(。
腐(つた
魚肉(に
日出雄少年(が
鼻(を
摘(んだ
話(。それから
朝日島(に
漂着(して、
椰子(の
果實(の
美味(かつた
事(。
猛狒(の
襲撃(一件(。
櫻木海軍大佐(との
奇遇(。
鐵(の
響(と
屏風岩(の
奇異(。
猛犬稻妻(の
世(にも
稀(なる
犬(なる
事(。
大佐(や
少年(や
其他(三十
有餘名(の
水兵等(が
趣味(ある
日常(の
生活(のさま〴〵、
晨(には
星(を
戴(いて
起(き、
夕(には
月(を
踏(んで
歸(る、
其(職務(の
餘暇(には、
睦(まじき
茶話會(、
面白(き
端艇競漕(、
野球競技等(の
物語(は、
如何(に
彼等(を
驚(かしめ
笑(はしめ
樂(しましめたらう。
特(に
朝日島(紀念塔(設立(の
顛末(――あの
異樣(なる
自動冐險車(が、
縱横無盡(に
[#「縱横無盡(に」は底本では「樅横無盡(に」]、
深山(大澤(の
間(を
猛進(したる
其時(の
活劇(。
猛獸(毒蛇(との
大奮鬪(。
武村兵曹(の
片足(の
危(なかつた
事(。
好奇心(から
砂(すべりの
谷(へ
顛落(して、
九死一生(になつた
事(。
日出雄少年(と
猛犬稻妻(との
別(れの
一段(。
禿頭山(の
彼方(から、
大輕氣球(がふうら〳〵と
舞(ひ
降(つて
來(た
事(。さては、
紀元節(の
當日(の
盛(なる
光景(、つゞいて、
電光艇(試運轉式(の
夜(の
大異變(から、
今回(の
使命(に
立到(つた
迄(の
奇譚(は、
始終(彼等(を
ヤンヤと
言(はせて、
吾等(孤島(の
生活中(は、いつも
滑※([#「(禾+尤)/上/日」、353-5]と
失策(との
本家本元(で――
今(は
私(の
傍(に、
威勢(よく
話(の
相槌(を
打(つて
居(る
武村兵曹(は、
幾度(か
軍艦(日(の
出(の
水兵等(に、
背中(叩(かれ、
手(を
叩(かれて、
艦中(第一(の
愛敬者(とはなつた。
武村兵曹(は
今(は
私(と
同(じやうに、
此(軍艦(の
賓客(ではあるが、
彼(は
軍艦(を
家(とする
水兵(の
身(――
水兵(の
中(にも
氣象(勝(れ、
特(に
砲術(、
航海術(には
際立(つて
巧妙(な
男(なので、かく
軍艦(に
乘組(んでは
一刻(も
默念(とはして
居(られぬ、かつは
艦長松島海軍大佐(を
始(め
軍艦(「
日(の
出(」の
全員(が、
自分(の
最(も
敬愛(する
櫻木大佐(のために
誠心(から
盡力(して
呉(れるのが、
心(から
(しく、
難有(く、せめて
報恩(の
萬分(の
一(には、
此(軍艦(の
水兵等(と
同(じ
樣(に
働(きたいと、
頻(りに
心(を
焦立(てたが、
海軍(の
軍律(は
嚴(として
動(かす
可(からず、
本艦(在役(の
軍人(ならねば
檣樓(に
昇(る
事(も
叶(はず、
機關室(に
働(く
事(も
能(はず、
詮方無(きまゝ、
立(つて
見(つ、
居(て
見(つ、
艦首(から
縹渺(たる
太洋(の
波濤(を
眺(めたり、「ブルワーク」の
邊(から
縱帆架(に
飜(る
帝國軍艦旗(を
仰(いで
見(たり、
機關砲(を
覗(いて
見(たり、
果(ては
無聊(に
堪(え
兼(ねて
頻(りに
腕(をさすつて
居(たが、
其内(に
夕刻(にもなると、
此(時刻(は
航海中(、
軍艦乘組員(の
最(も
樂(しき
時(、
公務(の
餘暇(ある
夥多(の
士官(水兵(は、
空(高(く、
浪(青(き
後部甲板(に
集(つて、
最(も
自由(に、
最(も
快活(に、
詩(を
吟(ずるもある、
劍(を
舞(はすもある。
武村兵曹(も
其(仲間(に
入(つて、
頻(りに
愉快(だ〳〵と
騷(いで
居(つたが、
何時(何處(から
聞知(たものか、
例(の
轟大尉(の
虎髯(は
ぬつと
進(み
出(て
『これ、
武村兵曹(、
足下(はなか〳〵
薩摩琵琶(が
巧(い
相(な、
一曲(やらんか、やる! よし
來(た。』と
傍(の
水兵(に
命(じて、
自分(兼(て
御持參(の
琵琶(を
取寄(せた。
年少(士官(、
老功(水兵等(は『これは
面白(い。』と十五
珊(速射砲(のほとり、
後部艦橋(の
下(に
耳(を
濟(ます、
兵曹(、
此處(ぞと
琵琶(おつ
取(り、
翩飜(と
飄(る
艦尾(帝國軍艦旗(の
下(に
膝(を
組(んで、シヤシヤン、シヤラ〳〵と
彈(き
出(す
琵琶(の
曲(、
聲(張上(げて
「
雲(に
聳(ゆる
高山(も。
登(らばなどか
越(へざらむ。
空(をひたせる
海原(も。
渡(らば
終(に
渡(るべし。
我(蜻蛉洲(は
茜(さす。
東(の
海(の
離(れ
島(。
例(へば
海(の
只中(に。
浮(べる
船(にさも
似(たり――。」と、
高(き
調(は
荒鷲(の、
風(を
搏(いて
飛(ぶごとく、
低(き
調(は
溪水(の、
岩(に
堰(かれて
泣(く
如(く、
檣頭(を
走(る
印度洋(の
風(、
舷(に
碎(くる
波(の
音(に
和(して、
本艦々上(、
暫時(は
鳴(も
止(まなかつた。
琵琶(の
調(べが
終(ると、
虎髯大尉(は
忽(ち
大拍手(をした。
『うまい〳〵、
本物(ぢや、よし、よし、あんまり
安賣(をすな。』とばかり
身(を
跳(らして
『
兵曹(、どうぢや
一番(腕押(は――。』と
鐵(の
樣(な
腕(を
突出(した。
虎髯大尉(の
腕押(と
來(たら
有名(なものである。けれど
武村兵曹(は
ちつとも知(らない、
自分(も
大(の
力自慢(。
『よろしい、
參(りませう。』と
琵琶(投(げ
捨(てゝ、
一番(鬪(つたが、
忽(ちウンと
捩(り
倒(された。
『
弱(いなア。』と
大尉(は
大(に
笑(ふ。
『ど、ど、
如何(したんだらう、こ、
此(武村(をお
負(かしなすつたな、『どれもう
一番(――。』と
鬪(つたが、また
負(た。
『こんな
筈(ではないのだが。』と
腕(を
摩(つて
見(たが、
迚(も
叶(ひ
相(もない。
きよろ〳〵しながら
四方(を
見廻(はすと、「
日(の
出(」の
士官(水兵等(は
くす〳〵
笑(つて
居(る、
濱島武文(は
から〳〵
笑(つて
居(る、
春枝夫人(は
手巾(の
影(から
そつと笑(つて
居(る。
『
殘念(だな、よし。』と
武村兵曹(は
忽(ち
毛脛(を
突出(した。
『
大尉閣下(、
御禮(に
一番(脛押(と
參(りませう。』
『
脛押(か。』と
轟大尉(は
顏(を
顰(めたが、
負(けぬ
氣(の
大尉(、
何程(の
事(やあらんと
同(じく
毛脛(を
現(はして、
一押(押(したが、『あ
痛(た、たゝゝゝ。』と
後(へ
飛退([#ルビの「とびの」は底本では「どびの」]いて
『これは
痛(い、
武村(の
脛(には
出刄庖丁(が
這入(つて
居(るぞ。』
『そ、そんなに
強(いのですか。』と
彌次馬(の
士官(水兵(は
吾(も〳〵とやつて
來(たが、
成程(武村(の
脛(は
馬鹿(に
堅(い、
皆(一撃(の
下(に
押倒(されて、
痛(い〳〵と
引退(る。
武村兵曹(は
些(さか
得意(の
色(を
浮(べて
鼻(を
蠢(めかしたが、
軍艦(「
日(の
出(」の
甲板(には
未(だ
仲々(豪傑(が
居(る。
『
武村(、
怪(しからんな、
我(軍艦(「
日(の
出(」の
道塲破(りをやつたな、よし、
乃公(が
相手(にならう。』と
突然(大檣(の
影(から
現(はれて
來(たのは、
色(の
黒々(とした、
筋骨(の
逞(ましい
年少(少尉(、
此人(は
海軍兵學校(の
生活中(、
大食黨(の
巨魁(で、
肺量(五千二百、
握力(七十八、
竿飛(は一
丈(三
尺(まで
飛(んで、
徒競走(六百ヤードを八十六
秒(に
走(つたといふ
男(、三
年(の
在學中(、
常(に
分隊(の
第(一
番(漕手(として、
漕力(天下無比(と
云(はれた
腕前(。
『そら
來(い!。』とばかり、
ヒタと
武村兵曹(の
所謂(出刄庖丁(の
入(つて
居(る
脛(に
己(が
鐵(の
脛(を
合(せて、
双方(眞赤(になつてエンヤ〳〵と
押合(つたが
勝負(が
付(かない、
甲板(の
一同(は
面白(がつてヤンヤ〳〵と
騷(ぐ
『もう
廢(せ〳〵、
足(が
折(れるぞ〳〵。』と
虎髯大尉(は
二人(の
周圍(をぐる〳〵
廻(つて、
結局(引分(になつた。
艦橋(よりは
艦長松島海軍大佐(、
例(によつて
例(の
如(く
鼻髯(を
捻(りつゝ、
微笑(を
浮(べて
眺(めて
居(つた。
第三十回
月夜(の
大海戰(
印度國コロンボの港――滿艦の電光――戰鬪喇叭――惡魔印の海賊旗――大軍刀をブン〳〵と振廻した――大佐來! 電光艇來! 朝日輝く印度洋
かくて、
軍艦(「
日(の
出(」は、
其(翌々晩(は
豫定通(りに、
印度大陸(の
西岸(コロンボの
港(に
寄港(して、
艦長松島海軍大佐(と、
私(と、
武村兵曹(とは、
椰子(や
芭蕉(の
林(は
低(く
海岸(を
蔽(ひ、
波止塲(のほとりから
段々(と
高(く、
電燈(の
光(は
白晝(を
欺(かんばかりなる
市街(に
上陸(して、
竊(かに
櫻木海軍大佐(より
委任(を
受(けたる、
電光艇(用(の
秘密藥品(を
買整(へ、十二の
樽(に
密封(して、
今(は
特更(に
船(を
艤裝(する
必要(もなく、
直(ちに
軍艦(「
日(の
出(」に
搭載(して、
同時(に
暗號電報(をもつて、
松島海軍大佐(は
本國(政府(よりの
許可(を
受(け、
來(る二十五
日(拂曉(に
海底戰鬪艇(と
相(會(ふ
可(き
筈(の
橄欖島(の
方向(を
指(して
進航(した。
コロンボ港(から
橄欖島(まで
大約(一千五百
海里(。
明([#ルビの「あ」は底本では「あけ」]けては、
日(麗(らかなる
甲板(に、
帝國軍艦旗(翩飜(たるを
仰(ぎ
見(ては、
日(ならず
智勇(兼備(の
兩(海軍大佐(が
新(しき
軍艦(「
日(の
出(」と、
新(しき
電光艇(との
甲板(にて、
波(を
距(てゝ
相(會(し、それより
二隻([#ルビの「にせき」は底本では「たせき」]相(並(んで、
海原(遠(く
幾千里(、
頓(て、
芙蓉(の
峯(の
朝日(影(を
望(み
見(る
迄(の、
壯快(なる
想像(を
胸(に
描(き、
暮(れては、
海風(穩(かなる
艦橋(のほとり、
濱島武文(や
春枝夫人等(と
相(語(つて、
日出雄少年(の
愛(らしき
姿(を
待兼(ねつゝ。
四晝夜(の
航海(は
恙(なく
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、361-1]ぎて、
右舷(左舷(に
寄(せては
返(す
波(の
音(と
共(に、
刻一刻(に
近(づき
來(る
喜劇(に
向(つて、
橄欖島(と
覺(ぼしき
島影(を、
雲煙(渺茫(たる
邊(に
認(めたのは、
日(は二
月(の二十五
日(、
刻(は
萬籟(寂(たる
午前(の二
時(と三
時(との
間(。
下弦(の
月(は
皓々(と
冴(え
渡(りて、
金蛇(走(らす
浪(の
上(には、たゞ
本艦(の
蒸
機關(の
響(のみぞ
悽(まじかつた。
軍艦(「
日(の
出(」の
艦中(には
一人(も
眠(むる
者(は
無(かつた。
艦橋(には
艦長松島海軍大佐(をはじめとし、
一團(の
將校(は
月(に
燦爛(たる
肩章(に
波(を
打(たせて、
隻手(に
握(る
双眼鏡(は
絶(えず
海上(を
眺(めて
居(る。
甲板(の
其處此處(には
水兵(の
一群(二群(、ひそ〳〵と
語(るもあり、
樂(し
氣(に
笑(ふもあり。
武村兵曹(は
兩眼(をまん
丸(にして
『サア、いよ〳〵
橄欖島(も
近(づいて
來(たぞ。
大佐閣下(の
海底戰鬪艇(はすでにあの
島影(に
來(て
居(るであらうか、それとも
未(だ
朝日島(を
出發(せぬのかしら、えい、
待遠(や〳〵。』と、
手(の
舞(ひ、
足(の
踏(む
處(も
知(らぬ
有樣(。
濱島武文(は
艦尾(の
巨砲(に
凭(れて
悠々(と
美髯(を
捻(りつゝ。
春枝夫人(の
笑顏(は
天女(の
美(はしきよりも
美(はしく、
仰(ぐ
御空(には
行(く
雲(も
歩(をとゞめ、
浪(に
鳴(く
鳥(も
吾等(を
讃美(するかと
疑(はるゝ。
此(快絶(の
時(、
忽(ち
舷門(のほとりに
尋常(ならぬ
警戒(の
聲(が
聽(えた。
艦中(の
一同(はヒタと
鳴(を
靜(めたのである。
只(見(る
本艦(を
去(る
事(三海里(餘(、
橄欖島(と
覺(しき
島(の
北方(に
當(つて、
毒龍(蟠(るが
如(き
二個(の
島嶼(がある。
其(島陰(から
忽然(として
一點(の
光(が
[#「光(が」は底本では「光(か」]ピカリツ。つゞいて
一點(又(一點(、
都合(七隻(の
奇怪(なる
船(は
前檣(高(く
球燈(を
掲(げて、
長蛇(の
列(をなして
現(はれて
來(た。
月(は
隈(ない、
其(眞先(に
黒烟(を
吐(いて
進(んで
來(るのは、
二本(烟筒(に
二本(檣(!
見忘(れもせぬ四
年(前(のそれ※
[#感嘆符三つ、362-11]
『
海蛇丸(來(!
海蛇丸(來(!。』と
私(が
絶叫(した
時(、
虎髯大尉(は
身(を
翻(へして
戰鬪樓(の
方(へ
走(り
去(つた。
唯(見(る、
海蛇丸(の
船首(よりは、
閃々(と
流(るゝ
流星(の
如(き
爆發信號(が
揚(つた、
此(信號(は
他船(の
注意(を
喚起(する
夜間信號(、
彼([#ルビの「か」は底本では「が」]れ
大膽不敵(なる
海賊船(は、
今(や
何故(か
其(信號(を
揚(げて、
我(が
帝國軍艦(の
視線(を
惹(かんとして
居(るのである。
我(が
艦上(の
視線(は
果(して
一同(其(方(へ
向(つた。
一度(戰鬪樓(の
方(へ
走(り
去(つた
虎髯大尉(は
此時(再(び
私(の
傍(へ
歸(つて
來(たが
大聲(に
『
奇怪(な
船(!
奇怪(な
船(! あの
船(は
我(軍艦(に
向(つて、
何(か
信號(を
試(みんとして
居(る。』と
叫(んだ。
實(に
前後(の
形勢(と、かの七
隻(の
船(の
有樣(とで
見(ると、
今(や
海蛇丸(は
明(に
何事(をか
我(軍艦(に
向(つて
信號(を
試(みる
積(だらう。けれど
私(は
審(かつた。
今日(世界(の
海上(に
於(ては、
晝間(の
萬國信號(はあるが、
夜間信號(は、
各國(の
海軍(に
於(て、
各自(に
秘密(なる
信號(を
有(する
他(、
難破信號(とか、
今(海蛇丸(の
揚(げた
爆發信號(のやうな、
極(めて
重大(なるまた
單純(なるものを
除(いては、
萬國(共通(のものは
無(いのである。
然(れば
奇怪(の
船(、
我(に
信號(を
試(みんとならば、
果(して
如何(なる
手段(をか
取(ると
瞻(めて
居(ると、
忽(ち
見(る、
海蛇丸(の、
檣上(、
檣下(、
船首(、
船尾(、
右舷(、
左舷(に
閃々(たる
電燈(輝(き
出(でゝ、
滿船(を
照(す
其(光(は
白晝(を
欺(かんばかり、
其(光(の
下(に
一個(の
異樣(なる
人影(現(はれて、
忽(ち
檣桁(高(く
信號旗(が
上(つた。
心憎(くや、
奇怪(の
船(は、
晝間信號(を
電燈(の
光(に
應用(せんとするのである。
三
角(、四
角(、さま〴〵の
模樣(の
信號旗(は
風(に
動(いて
「
其(軍艦(止(まれ!
其(軍艦(止(まれ※
[#感嘆符三つ、364-12]。」と
示(す。
我(日(の
出(艦長松島海軍大佐(は、
一令(を
發(して
滿艦(に
電光(を
輝(かした。
一
等(信號兵(は
指揮(の
下(に
信號檣下(に
立(つた。
「
奇怪(の
船(!
汝(は
何者(ぞ。」と
我(が
信號旗(上(る。
ヒラ〳〵と
動(く
彼方(の
信號(
「
我(こそは
音(に
名高(き
印度洋(の
大海賊船(なり、
汝(の
新造軍艦(を
奪(はんとて
此處(に
待(つこと
久矣(、
速(に
白旗(を
立(てゝ
其(軍艦(を
引渡(さば
可(、
若(し
躊躇(するに
於(ては、
我(に七
隻(の
堅艦(あり、
一撃(の
下(に
汝(の
艦(を
粉韲(すべきぞ。」と
見(る〳〵
内(に
長蛇(の
船列(は
横形(の
列(に
變(じて、七
隻(の
海賊船(の
甲板(には
月光(に
反射(して、
劍戟(の
晃(くさへ
見(ゆ、
本艦(の
士官(水兵(は
一時(に
憤激(の
眉(を
揚(げた、
中(にも
年少(士官等(は
早(や
軍刀([#ルビの「ぐんたう」は底本では「ぐくたう」]の
※([#「革+巴」、365-11]を
握(り
詰(めて、
艦長(の
號令(を
待(つ、
舷門(の
邊(、
砲門(の
邊(、
慓悍(無双(の
水兵等(は
腕(を
摩(つて
居(る。
濱島(は
冷然(と
笑(ひ、
春枝夫人(は
默然(とした。
我(が
勇(ましき
武村兵曹(は
怒髮(天空(を
衝(き
『えい、ふざけたり〳〵、
海賊(共(、
眼(に
物(見(せて
呉(れんづ。』と
矢庭(に
左舷(八
吋(速射砲(の
方(へ
馳(せたが、
忽(ち
心付(いた、
夫(れ
海軍々律(は
嚴(として
泰山(の
如(し、たとへ
非凡(の
手腕(ありとも
艦員(ならぬものが
砲(を
動(かし、
銃(を
發(つ
事(は
出來(ないのである。
兵曹(無念(の
切齒(をなし、
『えい、
殘念(だ〳〵、
此樣(な
時(、
本艦(の
水兵(が
羨(ましい。』と
叫(んだまゝ、
空拳(を
振(つて
本艦々頭(に
仁王立(、
轟大尉(は
虎髯(逆立(ち
眦(裂(けて、
右手(に
握(る十二
珊(砲(の
撃發機(は
唯(だ
艦長(の
一令(を
待(つばかり。
艦長松島海軍大佐(は
此時(ちつとも騷(がず
[#「騷(がず」は底本では「騷(がす」]、
平然(として
指揮(する
信號(の
言(、
信號兵(は
命(を
奉(じて
信號旗(を
高(く
掲(げた。
「
愚(なり、
海賊(!
我(縱帆架(に
飜(る
大日本帝國軍艦旗(を
見(ずや。」と。
忽(ち
海蛇丸(滿船(の
電燈(はパツと
消(えた。
同時(に七
隻(の
海賊船(は
黒煙(團々(、
怒濤(を
蹴(つて
此方(に
猛進(し
來(る。
轟然(一發(の
彈丸(は
悲鳴(をあげて、
我(が
前檣(を
掠(め
去(つた。
大佐(一顧(軍刀(の
鞘(を
拂(つて、
屹(と
屹立(つ
司令塔上(、一
令(忽(ち
高(く、
本艦々上(戰鬪喇叭(鳴(る、
士官(の
肩章(閃(めく、
水兵(其(配置(に
就(く、
此時(、
既(に
早(し、
既(に
遲(し、
海賊船(から
打出(す
彈丸(は
雨(か、
霰(か。
本艦(之(に
應(じて
先(づ
手始(には八
吋(速射砲(つゞいて
打出(す
機關砲(。
月(は
慘(たり、
月下(の
海上(に
砲火(迸(り、
硝煙(朦朧(と
立昇(る
光景(は、
昔(がたりの
タラント灣(の
夜戰(もかくやと
想(はるゝばかり。
士官(水兵(の
勇(ましき
働(きぶりは
言(ふ
迄(もない。よし
戰鬪員(にあらずとも
如何(でか
手(を
拱(いて
居(らるべきぞと、
濱島(も、
私(も、
重(き
上衣(を
跳(ね
脱(けて、
彈丸(硝藥(を
運(ぶに
急(はしく。
武村兵曹(は
大軍刀(ブン〳〵と
振(り
廻(し
海賊船(若(し
近寄(らば
吾(から
其(甲板(に
飛移(らんばかりの
勢(ひ。
春枝夫人(の
嬋娟(たる
姿(は
喩(へば
電雷(風雨(の
空(に
櫻花(一瓣(のひら〳〵と
舞(ふが
如(く、
一兵(時(に
傷(き
倒(れたるを
介抱(せんとて、
優(しく
抱(き
上(げたる
彼女(の
雪(の
腕(には、
帝國軍人(の
鮮血(の
滾々(と
迸(りかゝるのも
見(えた。
海戰(は
午前(二
時(三十
分(に
始(つて、
東雲(の
頃(まで
終(らなかつた。
此方(は
忠勇(義烈(の
日本軍艦(なり、
敵(は
世界(に
隱(れなき
印度洋(の
大海賊(。
海賊船(は
此時(砲戰(もどかしとや
思(ひけん、
中(にも
目立(つ
三隻(四隻(は
一度(に
船首(を
揃(へて、
疾風(迅雷(と
突喚(し
來(る、
劍戟(の
光(晃(く
其(甲板(には、
衝突(と
共(に
本艦(に
乘移(らんず
海賊(共(の
身構(。えい、ものものしや、
我(が
神聖(なる
甲板(は、
如何(でか
汝等(如(き
汚(れたる
海賊(の
血汐(に
染(むべきぞ。と
我(が
艦(ます〳〵
奮(ふ。
硝煙(は
暗(く
海(を
蔽(ひ、
萬雷(一時(に
落(つるに
異(らず。
艦長松島海軍大佐(の
號令(はいよ〳〵
澄渡(つて
司令塔(に
高(く、
舵樓(には
神變([#ルビの「しんぺん」は底本では「しんぺ」]不可思議(の
手腕(あり。二千八百
噸(の
巡洋艦(操縱(自在(。
敵船(右(より
襲(へば
右舷(の
速射砲(之(を
追(ひ、
賊船(左(より
來(れば
左舷(の
機關砲(之(を
撃(つ。
追(へども
撃(てども
敵(も
強者(、
再(び
寄(する
七隻(の
堅艦(、
怒濤(は
逆卷(き、
風(荒(れて、
血汐(に
染(みたる
海賊(の
旗風(いよ〳〵
鋭(く、
猛(く、
此(戰(何時(果(つ
可(しとも
覺(えざりし
時(。
忽(ち
見(る!
東雲(の、
遙(か〳〵の
海上(より、
水煙(を
揚(げ、
怒濤(を
蹴(つて、
驀直(に
駛(け
來(る
一艘(の
長艇(あり、やゝ
近(づいて
見(ると、
其(艇尾(には、
曉風(に
飜(る
帝國軍艦旗(!
見(るより、
私(は
右舷(から
左舷(に
躍(つて
『
大佐(來(!
大佐(來(る!
櫻木大佐(の
電光艇(來(る※
[#感嘆符三つ、369-12]。』と
叫(ぶ
響(は
砲聲(の
絶間(、
全艦(に
鳴(り
渡(ると、
軍艦(「
日(の
出(」の
士官(水兵(一時(に
動搖(めき。
此時(艦頭(に
立(てる
武村兵曹(は、
右鬢(に
微傷(を
受(けて、
流(るゝ
血汐(の
兩眼(に
入(るを、
拳(に
拂(つて、キツと
見渡(す
海(の
面(、
電光(の
如(く
近(づき
來(つた
海底戰鬪艇(は、
本艦(を
去(る
事(約(一千米突(――
忽然(波間(に
沈(んだと
思(ふ
間(も
疾(しや
遲(しや、
唯(見(る
本艦(前方(の
海上(、
忽(ち
起(る
大叫喚(。
瞻(むれば一
隻(の
海賊船(は
轟然(たる
響(諸共(に、
船底(微塵(に
碎(け、
潮煙(飛(んで
千尋(の
波底(に
沈(み
去(つた、つゞいて
起(る
大紛擾(、
一艘(は
船尾(逆立(ち
船頭(沈(んで、
惡魔印(の
海賊旗(は、
二度(、
三度(、
浪(を
叩(くよと
見(る
間(に
影(も
形(も。
『それ、
櫻木大佐(來(!
電光艇(の
應援(ぞ! おくれて
彼方(の
水兵(に
笑(はれな、
進(め〳〵。』の
號令(の
下(に、
軍艦(「
日(の
出(」の
士官(水兵(は
勇氣(百倍(、
息(をもつかせず
發射(する
彈丸(は、
氷山([#ルビの「へうざん」は底本では「へざん」]碎(けて
玉(と
飛散(る
如(く、すでに
度(を
失(つて、
四途路筋斗(の
海賊船(に、
命中(るも〳〵、
本艦々尾(の八
吋(速射砲(は、
忽(ち
一隻(を
撃沈(し、
同時(に
打出(す十二
珊(砲(の
榴彈(は、
之(れぞ
虎髯大尉(の
大勳功(!
今(しも
死物狂(ひに、
本艦(目掛(けて、
突貫(し
來(る
一船(の
彈藥庫(に
命中(して、
船中(、
船外(、
猛火(
々(舵(は
微塵(に
碎(けて、
船(獨樂(の
如(く
廻(る、
海底(よりは
海底戰鬪艇(、さしつたりと
電光石火(の
勢(ひ、げにもや
電光(影裡(春風(を
斬(るごとく、
形(は
見(えねど
三尖衝角(の
回旋(る
處(、
敵船(微塵(に
碎(け、
新式魚形水雷(の
駛(るところ
白龍(天(に
跳(る、
殘(る
賊船(早(や三
隻(、すでに一
隻(は
右舷(より
左舷(に、
他(の一
隻(は
左舷(より
右舷(に、
見(る
間(に
甲板(傾(き、
濤(打上(げて、
驚(き
狂(ふ
海賊(共(は、
大砲(小銃(諸共([#ルビの「もろとも」は底本では「もろとき」]に、
雪崩(の
如(く
海(に
落(つ。
今(は
早(や
殘(る
賊船(只(一
隻(!
之(れぞ
二本(煙筒(に
二本(檣(の
海蛇丸(!
海蛇丸(は
最早(叶(はじとや
思(ひけん、
旗(を
卷(き、
黒煙(團々(橄欖島(の
方向(へ
逃(げて
[#「逃(げて」は底本では「北(げて」]行(くを、
海底戰鬪艇(今(は
波(に
沈(む
迄(もなく、
奔龍(の
如(くに
波上(を
追(ふ、
本艦(鳴(を
[#「鳴(を」は底本では「嗚(を」]靜(むる十
秒(二十
秒(。
其(鋭利(なる
三尖衝角(は
空(に
閃(く
電光(の
如(く
賊船(の
右舷(に
霹靂萬雷(の
響(あり、
極惡無道(の
海蛇丸(は
遂(に
水煙(を
揚(げて
海底(に
沒(し
去(つた。
此時(夜(は
全(く
明(けて
碧瑠璃(のやうな
東(の
空(からは、
爛々(たる
旭日(が
昇(つて
來(た。
我(艦長松島海軍大佐(は、
流(るゝ
汗(を
押拭(ひつゝ、
滿顏(に
微笑(を
湛(えて
一顧(すると、
忽(ち
起(る「
君(が
代(」の
軍樂(、
妙(に
勇(ましき
其(ひゞきは、
印度洋(の
波(も
躍(らんばかり、
我(軍艦(「
日(の
出(」の
士官(水兵(は、
舷門(より、
檣樓(より、
戰鬪樓(より、
双手(を
擧(げ、
旗(を
振(り、
歡呼(をあげて、
勇(み、
歡(び、をとり
立(つ、
濱島武文(、
春枝夫人(は
餘(りの
(しさに
聲(もなく、
虎髯大尉(、
武村兵曹(、
一人(は
右鬢(に、
一人(は
左鬢(に、
微(かな
傷(に
白(鉢卷(、
私(は
雀躍(しながら、
倶(に
眺(むる
黎明(の
印度洋(、
波上(を
亘(る
清(しい
風(は、
一陣(又(一陣(と
吹(來(つて、
今(しも、
海蛇丸(を
粉韲(したる
電光艇(は、
此時(徐(かに
艇頭(を
廻(らして
此方(に
近(づいて
來(たが、あゝ、
其(光譽(ある
觀外塔上(を
見(よ※
[#感嘆符三つ、373-3] 色(の
黒(い、
筋骨(の
逞(ましい、三十
餘名(の
慓悍(無双(なる
水兵(を
後(に
從(へて、
雄風(凛々(たる
櫻木海軍大佐(は、
籠手(を
翳(して
我(軍艦(「
日(の
出(」の
甲板(を
眺(めて
居(る。
其(傍(には、
日出雄少年(は、
例(の
水兵(姿(で、
左手(は
猛犬(「
稻妻(」の
首輪(を
捕(へ、
右手(は
翩飜(と
海風(に
飜(へる
帝國軍艦旗(を
抱(いて、その
愛(らしい、
勇(ましい
顏(は、
莞爾(と
此方(を
仰(いで
居(つたよ。
――――~~~~~~~~――――
讀者(諸君(!
白雲(は
低(く
飛(び、
狂瀾(天(に
跳(る
印度洋上(、
世界(の
大惡魔(と
世(に
隱(れなき七
隻(の
大海賊船(をば、
木葉微塵(に
粉韲(いたる
我(帝國軍艦(「
日(の
出(」と、
神出鬼沒(の
電光艇(とは、
今(や
舷(をならべて、
本國(指(して
歸航(の
途中(である。
昨夜(新嘉坡(發(、一
片(の
長文(電報(は、
日本(の
海軍省(に
到達(した
筈(であるが、二
隻(は
去(る
金曜日(をもつて、
印度大陸(の
尖端(コモリンの
岬(を
廻(り
錫崙島(の
沖(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、374-5]ぎ、
殘月(淡(き
ベンガル灣頭(、
行會(ふ
英(、
佛(、
獨(、
露艦(の
敬禮(に
向(つて
謝意(を
表(しつゝ、
大小(ニコバル島(と
サラン島(とを
右舷(と
左舷(とに
眺(めて、
西(と
東(との
分(れ
道(なる
マラツカ海峽(をもいつしか
夢(の
間(に
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、374-8]ぎ、
今(は
支那海(の
波濤(を
蹴(つて
進航(して
居(るから、よし
此後(浪(高(くとも、
風(荒(くとも、二
船(が
諸君(の
面前(に
現(はれるのは
最早(や
遠(い
事(ではあるまいと
思(ふ。
其時(は
無論(、
新聞(の
號外(によつて、
市井(の
評判(によつて、
如何(なる
山間(僻地(の
諸君(と
雖(も
更(に
新(しき、
更(に
歡(ふ
可(き
事(を
耳(にせらるゝであらうが、
私(は
殊(に
望(む!
西(、
玄海灘(の
邊(より、
馬關海峽(を
※([#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、375-2]き、
瀬戸内海(に
入(り、
夫(より
紀伊海峽(を
出(でゝ
潮崎(を
廻(り、
遠江灘(、
駿河灣(、
相模灘(の
沿岸(に
沿(ふて、
凡(そ
波濤(の
打(つところ、
凡(そ
船舶(の
横(はる
處(、
海岸(に
近(く
家(を
有(せらるゝ
諸君(は、
必(ず
朝夕(の
餘暇(には、
二階(の
窓(より、
家外(の
小丘(より、また
海濱(の
埠頭(より、
籠手(を
翳(して
遙(かなる
海上(を
觀望(せられん
事(を。
若(し、
水天(一碧(の
地平線上(、
團々(たる
黒烟(先(づ
見(え、つゞゐて
白色(の
新式巡洋艦(現(はれ、それと
共(に、
龍(の
如([#ルビの「ごと」は底本では「ごか」]く、
鯱(の
如(き
怪艇(の
水煙(を
蹴(つて
此方(に
向(ふを
見(ば、
請(ふ、
旗(ある
人(は
旗(を
振(り、
喇叭(ある
人(は
喇叭(を
吹奏(し、
何物(も
無(き
人(は
双手(を
擧(げて、
聲(を
限(りに
帝國萬歳(!
帝國海軍萬歳(を
連呼(せられよ、だん〴〵と
近(づく二
隻(の
甲板(、
巡洋艦(の
縱帆架(に、
怪艇(の
艇尾(に、
帝國軍艦旗(の
翩飜(と
飜(へるを
見(ば、
更(に
其時(は、
軍艦(「
日(の
出(」の
萬歳(と、
電光艇(の
萬歳(とを
三呼(せられよ。
電光艇(の
觀外塔(には、
櫻木海軍大佐(、
武村兵曹(、
日出雄少年(、
他(三十
餘名(の
慓悍無双(なる
水兵(あり。
軍艦(「
日(の
出(」の
甲板(には、
艦長松島海軍大佐(、
虎髯大尉(轟鐵夫君(、
濱島武文(、
春枝夫人(、
及(び
二百餘人(の
乘組(あり。いづれも
手(に〳〵
双眼鏡(を
携(へ、
白巾(を
振(り、
喜色(を
湛(えて、
諸君(の
好意(を
謝(する
事(であらう。
其(の
時(は、
私(は、
屹度(、
軍艦(「
日(の
出(」の
艦尾(の
方(、八
吋(速射砲(の
横(たはる
邊(、
若(くば
水面(高(き
舷門(のほとりに
立(つて――
恭(しく――
右手(に
高(く
兜形(の
帽子(を
揚(げて、
今(一度(、
諸君(と
共(に
大日本帝國萬歳(!
帝國海軍萬歳(! を
三呼(しませう。(軍艦「日の出」の甲板にて)
(海島冐劍奇譚)海底軍艦終