泡鳴五部作

01 発展
岩野 泡鳴


 麻布の我善坊にある田村と云ふ下宿屋で、二十年來物堅いので近所の信用を得てゐた主人が近頃病死して、その息子義雄の代になつた。
 義雄は繼母の爲めにまことの父とも折合が惡いので、元から別に一家を構へてゐた。且、實行刹那主義の哲理を主張して段々文學界に名を知られて來たのであるから、面倒臭い下宿屋などの主人になるのはいやであつた。
 が、渠が嫌つてゐたのは、父の家ばかりではない。自分の妻子――殆ど十六年間に六人の子を産ませた妻と生き殘つてゐる三人の子――をも嫌つてゐた。その妻子と繼母との處分を付ける爲め、渠は喜んで父の稼業を繼續することに決めたのである。然し妻にそれを專らやらせて置けば、さう後顧の憂ひはないから、自分は肩が輕くなつた氣がして、これから充分勝手次第なことが出來ると思つた。
「あの家は息子さんでは持つて行けますまいよ」と云う風評を耳にした妻は、ます〳〵躍起となつて、所天をつとの名譽を恥かしめまいといふ働きをやつてゐた。が、義雄は別にそれをあり難いとも思ふのではなく、ただ自分自身の新らしい發展が自由に出來るのを幸ひにした。
 繼母は勿論、妻子をも眼中に置かない渠が第一に着手しかけたのは一女優の養成である。琴の師匠をしてゐる友人から、その弟子のうちに一名の美人があつて、それが女優になりたいと云つてるが、どうかして呉れないかと云ふ相談を持ち込んで來た。
 渠は既に女優志願者で失敗した經驗を一度甞めてゐるが、兼て脚本を作つたらそれをしツかりやつて呉れるものが欲しいと考へてゐるところだから、わけも無く承諾した。
 で、自分の家から芝公園を通り拔けたところにあつた音樂倶樂部の演劇研究部に、自分も會員であるの故を以つて申し込み、志願者をそこの講習生に取りあげて貰ふ相談が成り立つた。そして、いよ〳〵志願者を渠の家に呼び寄せた――と云ふのは、自分の家から毎日通はせるつもりであつたのである。
 家族の反對はいろ〳〵あつたのはあつたが、渠はそんなことには少しも頓着しなかつた。
「來たものを少しでも冷遇すれば、おれのやる事業を邪魔するも同前だぞ!」
 女が赤いメリンスの風呂敷に不斷着の單衣か何かの用意をしてやつて來た時は、その姿や顏付きのいいので、下女までも目をそば立てた。
「いい女だらう」と云はないばかりにして、義雄はそれを引き連れ、その夜、倶樂部へ引き合はせに行つた。が、その最初の引き合せに、氣の變はり易い本人は女優を斷念してしまつた。
 紹介者としては、倶樂部の諸會員に對して不面目を感じたよりも、自分の家族が女を連れて歸らない自分を見て冷笑する顏の方が、寧ろ自分に取つて殘念のやうに思はれた。
 渠は自分の書齋兼寢室に殘して行つた女の赤い包みを見ながら、その夜も、次ぎの夜も、にがい寂しい顏をしてゐた。

 その少し以前のことであるが、義雄の繼母に當てて紀州からハガキが來た。
「おばさん、お變りはありませんか。わたし、また賑やかな都へ出て、勉強したいと思ひます。いづれ御厄介になりますから、よろしく。」
 繼母はそれを義雄の妻に見せたのだ。
「お千代さん、どうしましよう、ね、こんなハガキが來ましたよ。」
「下手な字、ね。どんな女?」
「わたしはあんまり好かないの。」
「いくつ位?」
「前にうちにゐた時が十七八だから、もう、二十一二でしようよ。」
「どこへ行つてたの?」
「矢板學校へ裁縫を習ひに。」
「まア、いいぢやアありませんか、來させたツて?」
「お千代さんがさう受け合へば構はないやうなものの――でも、ねえ、おとツつアんの代が變つてゐるし、わたしがそんなことに口を出して、もしどんなことがあるまいものでもないから――。」
「おツ母さんはお父アんが亡くなられてから急に心配家になつたの、ね、何も商賣だから、かまはないぢやアありませんか?」
「でも、ね――片づいたものがまた出て來るのは、どうせいいことではないだらうし、若し義雄さんにでも引ツかかりができたら――」
「まさか、そんなことが――」
 二人は笑ひに破れてしまつたが、一方はつつましやかに取り澄ました聲であるに反し、一方はまた甲高な神經質に聽こえた。
 義雄の家族がこの家へもどつて來てから、臺どころの方は千代子の母が下女どもを監督して働らくことになつたので、隱居同樣な繼母の居間は、離れの二た間のうち、手前の一と間に定まつた。その奧の一間には義雄の弟がゐる。隣りの寺の庭に面した方にかけて縁がはが取りまはしてあつて、軒した一間ばかり隔てたところに板壁があり、そこには、父の手を入れた盆栽の棚が出來てゐる。蘭、おもと、松、棕櫚、こんな物へ弟の馨は亡き人を忍ぶつもりで毎日水をやつてゐる。
 離れとおも屋の長い裏廊下の一部との間に、背の高い手洗鉢の根元まで廣がつた小さいたたき造りの池があつて、金魚が泳いでゐる。その水を取り更へる人も他にないから、弟がその役を引き受け、同時に、裏廊下に添ふた庭のまはりにある草木へ夕がたになると凉しく水を撒くのである。
 二人の談笑があつたのはその水が撒かれて、馨が奧の間へ引ツ込んだ時のことで、その時、丁度、義雄は小用に行つてゐたので、二人の話が聽こえた。便所と池との間に離れへ渡る廊下が付いてゐる。そこから手洗鉢の手杓を取り、手を洗ひながら、半ば冗談に、
「何を云つてやがるんだい、馬鹿!」
「おほ、ほ、ほ」と、妻は笑つて、「聽いてたのですか?――あなたの信用はどこへ行つてもありません。」
「何だ!」かう急に聲が變つて、腦天から出たやうな叫びをあげながら、廊下を渡つて行つて、まだ水も切れない手で妻の横ツつらを平手打ちにした。
「‥‥」不意を喰らつた妻は、片手を疊に突いて、倒れるのをさゝへた。
「何です、ね、義雄さん。」繼母もびツくりした顏を向けて、「可哀さうぢやアありませんか?」
「可哀さうも何も」と、つツ立つたまま、わざと唇を噛んで見せ、「あつたものか? 所天をつとに對して教訓的なことを云ふのア無禮の極だ!」
「いいえ、教訓は必要です――子供に對しても、必要です!」
「まだ分らないか?」手をふりあげたのを、繼母に押さへられて、「いつも云ふ通り、おれは子供ぢやアない!」
 妻は、その少し出ツ張つてゐる前齒の齒ぐきに所天の最初の手が當つて、そこから血が出たのをふいてゐる。

「まア、靜かにお坐わりなさいよ。」繼母は義雄の兩手を押さへて、無理にそこへ腰をおろさせた。「お客さんが見てゐるじやアありませんか?」
「‥‥」客どもは、また始まつたと云はないばかりに、二階のあちらこちらから顏を出してゐる。その方にはすだれが下りてゐるので直接には見えなかつた。繼母はそれを氣にして、
「見ツともないから、大きな聲を出すのはおよしなさいよ。」
「構ふものか?」あぐらをかいて、わざと二階へ聽こえるやうに、「おれは何も下宿屋に關係はない。」
「でも、主人だから、主人のやうに、ね――」
「それは違つてゐます――わたしはこの家の戸主には成つたが、下宿屋はこの表面上の妻たる千代の仕事です。わたしは矢ツ張り元の通り詩人、小説家、評論家で、また○○商業學校の英語教師です。」
「教師なら、教師らしくおしなさい」と、妻はびくつきながらも悔しさうに。
「また教訓か?」
「お前さんは、まア」と、繼母は千代子に、「默つておいでなさいよ――義雄さんの云ふのも尤もだとしても、主人がうちにゐつかないやうでは、家の大黒ばしらが動いてるも同樣で、うちの者がたよりがないぢやアありませんか?」
「ゐ付く値うちがないのです、こんな家には。」
「お父アんの家でも――?」
「さう、さ――お父アんの跡を繼いだのは、わたし自身のからだと精神であつて――こんな家や妻子は、自分にそぐはなければ、棄ててもいいんだ。」
「棄てられるなら」と、妻は少し身をすさつて、「棄てて御覽なさい!」
「ふん、棄てるとも――もう、おれは精神的には棄ててるんだ。」
「何とでもお云ひなさい――人を表面上の妻だなんて!」
「お前の命令などア受けないと云つてるだらう――おれの心に反感をいだかせるものは皆おれの愛を遠ざかつて行くのだ。愛のないところにやア、おれの家もない。」
「ぢやア、どうしたら」と、訴へるやうな微笑になつて、「あなたの愛に叶ふのです? 教へて下さいと、何度も云つてるぢやアありませんか?」
「手套が投げられたのだ」と、嚴格に、「もう、遲い。お前には、もう情熱がない。よしんば、あるとしても、子供を通して向ける情熱であつて、直接におれに向けるやうな若々しい、活き活きした、ごくあツたかい熱ではない。」
「そりやア、歳が歳ですもの――それに、六人も子を産ませられて、三人を育てあげた女ですもの――子に苦勞してゐるだけ子が可愛いのは當り前でしよう。」
「お前は子の爲めに夫を忘れてゐるのだ。」
「いいえ、忘れてはゐません。」
「おぼえてゐるのは、おれの昔だ。」
「さうですとも、昔はあなたも」と優しくなつて、「なか〳〵親切な人でした、わ。」
「今は」と、相ひ手の態度には引き込まれず、「もツと親切な人間になつたのだが、その親切をおれよりも年うへのお前に與へるのは惜しくなつたのだ。」
「年うへなのは初めから承知して連れて來たのぢやアありませんか?」
「そりやア、承知の上であつた、さ。」義雄は妻に言葉を噛みしめさせるやうな口調になり、「然しよく考へて見ろ。二十前後の青年で、あんなにませてゐた者が――おれは實際ませてゐた――おれより年したのうわ〳〵した娘の上ツつらな情愛に滿足してゐられようか? あの時には、お前のやうな年増が――年増と云つても、たツた三つ上ぐらゐのが――丁度、おれの熱心に適合したのだ。然し考へて見ろ。人間は段々年を取つて行く。それは當り前のことだが、當り前と考へては困ることがある。それをお前はわきまへてゐない。」
「ぢやア、よく云つて聽かせて下さい、な。」
「いくら聽かせても、お前には分らないのだが、――教育がないからと云ふのではない。お前は相當の教育は受けたのだが、その道學者的教育の性質が却つて邪魔をするのだ――。」
「いえ、わたしは」と、言葉に力を込めて、「武士の家に生れたのです。」
「そんなことは」と、冷やかに、「現代に何の名譽にも、藥にもならない――おれも武士の子だが、わざ〳〵おやぢなどの考へや命令には從はなかつた。」
「それが惡かつたのです。」
「また教訓か」と目の色を變へかけたが、同じ調子で、「分らない奴だ、ねえ――。お前などア時代の變遷と云ふことが實際に分らない。政治上や文學上のことは別としても、教育界に於てだ、お前の教育を受けたり、お前が學校を教へたりしてゐた時代は女子はむかし通り消極的に教へられて滿足してゐた。然し、現代の若い女は積極的な教育を受けようとしてゐる。優しい女學校ででも教師、生徒間に衝突が起るのは、古い頭腦の教師連がこの心を解しないからだ。戀の問題に於ても、ただ男から愛せられて喜んでゐたのが、自分からも愛することができなければ滿足しなくなつた。」
「わたしだツて、自分から愛してゐます、わ。」
「ところが、その問題だ――段々年を取るに從つて男女の情愛は表面に見えなくなるとしても、愛してゐると云ふ言葉だけで、實際はそんな氣色もないのでは困る。男は世故に長けて來ると共に段々情愛を深めて行くものだが、今の四十以上の女は皆當り前のやうに男に對する心を全く子供に向けてしまう。」
「でも、子供は所天の物でしようが――」
「いや、子供は子供で、所天その物ではない――そんな古臭い傾向の家庭では、男は、平凡な人間でない限り」と、そこに語調を強めて、「深い〳〵情愛を空しく葬つてゐなければならない。――」
「何だ、詰らない」といふやうな振りをして、馨はその座敷の前を通り、食事をせがみに行つた。
 二階の方からも、空腹を訴へる手が鳴つてゐる。
「少くとも、おれはそんな寂しい墓場に同棲してゐられないのだ――」
「墓場だツて、家のことを。」繼母はあきれた樣子。
「お墓、さ、どうせ――おれは今一度若々しい愛を受けて見なければならない。」
「ぢやア、勝手におしなさいよ。」妻は立ちあがつて、獨り言のやうに、「濱町とか何とかへ入りびたりになるなり、好きな女を引ツ張つて來るなり――こツちは離縁〳〵と云はれさへしなけりや、子供を育てて暮しますから。」
「その子供〳〵が聽き飽きたんだい。」義雄は臺どころの方へ行く千代子の後ろ姿に向つて侮辱の目を投げながら、「子供と教訓とが手めへの墓の裝飾だ!」


 田村のお母屋もやの裏廊下と云ふのは、一直線に五六間ばかりあつて、便所のあるところとは反對の端から、また曲つて四五間ばかりの縁がはが付いてゐる。その鍵の手に當る四疊半が――家の代が代つた時までそこにゐた客を二階へ追ひやつて――義雄の占領するところとなつた。
 かどから直ぐ手前が半間の壁で、それから二枚障子がはまるやうになつてゐる。曲つた奧のがは、乃ち、東向きの方は一面に明いて四枚障子となつてゐる。あかりを取るには不足がない筈だが、取りまはしてある庭がたツた二間幅しかないところへ持つて來て、北隣りの寺の池が見える方の境が密接した生け垣になつてゐて、その向ふ側には五六本の杉の木と一本の大きな櫻とが目隱しに並んでゐるし、こちらにも亦二階の家根に達するほどの梅の木が二本ある。
 東の方は、義雄の室と相對する低い隣家の軒が隱れるだけの高さにそぎ竹の垣根になつてゐる。その垣根を越えて、同じ隣り家の庭から芭蕉の青いひろ葉が二三葉見えてゐる外、目ざはりはないので、朝の日光もよく這入る。が、そこにもあんずの木が立つてゐて、實が赤みがかつて來る時は、二階の客がこツそり家根へ出て、杖や棹を以つてよくそれを盜み取つた。その度毎にとたん張りの家根はばり〳〵と音がする。それを聽きつけると、亡父が庭へ飛び出し、うへを仰ぎ見て長い銀色の白ひげを撫でながら、
「そんなことをしては困りますよ」と、おだやかに客を制したツけ。梅もあんずも父が縁日で買つて來た植ゑ木の成長した物で、梅の實は一年中の食用になるほどの梅干を供してゐるし、あんずも近處の水菓子屋を呼んで父が賣り付けると、二三圓が物は擧げてゐる。然し、今年の時期は父が病中にゐたので、その實は孰れも人の喰らふまま、また蟲ばんで落ちるままになつてしまつた。
 義雄の書齋が薄暗いのは、仙石屋敷の高臺から續く傾斜地――そこは泰養寺の山と云はれてゐる――の檜の木の大木や、枝のはびこつた松や、大きな椿や、江戸自慢といふ太い櫻やの影が追ひかぶさつてゐる上に、十數年を經た樹木がまた室近く繁り込んでゐる爲めばかりではない。
 二階のとたん家根を雀が歩いても、そのぼと〳〵といふ音から、渠の胸には父の思ひ出が押し迫つて來るのである。たま〳〵用があつてこの家へやつて來た時、父が割り合におだやかな言葉だが、赤い大きな鼻をあふ向けて、家根の客を叱つて居るのを實見したこともある。が、それと同し口調で渠も身の上を幾度叱られたか分らない。時には餘り命令に從はないので、
「貴樣のやうに親不孝な奴は世間にやアゐないぞ」とまであたまからぎろりとした目を以つて睨み付けられたこともある。が、そんな時でも、渠はいつもの通り強情に、
「わたしは一切、親の世話にはなりません――その代り、また親の時勢に後れた御注意には全く從ふことはできません」といひ切つてしまつた。
 渠は若い時から文學に熱中し出したのが最初の原因で父と衝突した。今の妻を迎へたので再び衝突した。繼母が來たので三たび衝突して、遂に自立することになつた。その上、妻子が意にそぐは無くなつてからは、いろんな女に關係してその度毎に父に呼び付けられたり、押し寄せられたりした。最近に吉彌といふ日光の藝者に關係し、女優にしようとした失敗から、面目もないし、また面白くもないので、小半年ばかり父と行き來を絶つてゐた。
 その間に父は瀕死の病人になつたのである。

 父は病氣の初めから、今度こそは、もう、駄目だと思つたのだらう、珍らしくも氣を折つて、
「早く義雄を呼べ、義雄はまだ來ないか」と云つてたさうだが、繼母が父の口から直接に田村家を弟の馨に嗣がせると云ふ宣言を聽くまではと思つて、通知を發しなかつたのだ。
 最後に義雄が知らせを受けて行つた時は、もう、出入りのへぼ醫者には見限られてゐた。病室に這入つたその時から既に感附かれたことだが、父の息が小便臭く、また氣は確かだが、目が見えなかつた。曾て友人の病氣の場合に實驗した智識に據つて、渠は直ぐ父のも腎臟病だと分つた。
「もう手後れだ!」わざと大きく叫んで、「なぜ又もツと早く知らせなかつたのだ」と、俄かにみなぎる不平を漏らしたが、そばに顏いろを變へて横を向いたものがあつたので、義雄はまた直ぐにその場の意味を了解した。「父はそれほど繼母を愛してゐたのか、」と思ふと、ほどばしつて來た親子の情愛も矢ツ張り引ツ込んでしまうやうな氣もする。が、何と云つても父に盡すのはこれが最初で最後だと思ふと、看護のひまにしツかり原稿でも書いて、診察料の埋め合せをすればいいと決心し、有名な專門醫を招いたが、二十日と立たないうちに他界の人となつた。
 父が世界のどこかに生きてゐると思へば、まだそれでも何となくたよりにしてゐたのだが、いよいよゐないとなると、義雄は全く孤立で、孤獨なのを感じられる。
 孤立孤獨は義雄の趣味でもあり、また主張でもある。それが爲めに落ち付いて古今の書も讀破できた。然しこの頃のやうに滅入つてゐることも少い。○○商業學校――そこへ、六年前に、滋賀縣の中學教師をよして、轉ずる爲め上京して來たのも、死んだ父から云ふと、百日間虎の門の琴平樣へお願ひした結果ださうだが――そこへ英語を教へに行く時間に外出するだけで、あとは、自分の書齋に引ツ込んでばかりゐる。家のものとは話しも碌にしない。そしてたまに口を開らけば、おほ聲の小言だ。
 子供などはぴり〳〵恐れてゐて、父がそとから歸つたのを見ると、直ぐ母の蔭へ隱れてしまう。
「餘り叱るから、かうなんです」と、千代子は訴へた。
「なアに、母の仕つけが惡いのだ」と、義雄は一喝してしまう。
 そして渠は食事を妻子と共にせず、朝飯でも晩飯でも獨り自分の書齋で濟ませるのである。
 渠は、一度自分が目を通した書物へは、赤鉛筆やむらさき鉛筆で所々へ線を引くのである。そしてそれが記憶を呼び起すしるしになるので、なか〳〵手離すことをしない。
「おれの妻子は書物と原稿だ。」渠はいつもかう云つてゐるが、通讀もしくは熟讀した書物は積り積つて何百册かになつてゐる。千代子が轉居の問題の起る毎に億劫がるのは、本の爲めに引ツ越し費の過半を取られるからである。
 然し行くところとして、家主から子供のいたづらがひどいからと云つては斷わられたり、家賃が餘りとどこほるからと云つては追ひ出されたりすると、その度毎に運び行かれる荷物は、古い箪笥一つとこざ〳〵した切れを入れた行李三つと臺どころのがらくた道具との外は、すべて書物の包みだ。
「おウ、重い」と、どんな巖丈な人夫でも、それを持ち上げて驚かないものはなかつた。

 義雄はその重い書物の荷が行くところだから、蟲の好かない妻子がゐても、兎に角、落ち付くことが出來るのである。
 一間幅の押し入れの中にも、それを入れた行李や箱が幾つも這入つてゐるが、隣室の四疊半には、遞信省の官吏がゐる。そのまた次ぎのどん詰りの三疊には電信學校の生徒がゐて、時々發信機の練習をがちや〳〵やつてゐる。その隣室との間を仕切る壁には、大きい洋書棚が二つ並んでゐて、外國詩文の書は勿論、哲學書、宗教書、科學書、和漢、英、獨、佛等の字引きなどが、その背皮に金文字、銀文字の光りを放つてゐる。
「ここはおれの城だぞ。」かう云つて、無暗には人を入れず、渠は一閑張りの禿げかかつた机に倚つて、好きな思索に耽るのである。
 暑いので障子を兩方とも明け放ち、時には、縁がはの柱と柱とにハンモクを結び付けて、その上にからだをぶら付かせることもある。
 奧にゐる客は、二人とも通行の度毎に氣苦しく感ずるので、申し合はせたやうに轉室を申し込んだが、二階に適當な明き間がないので僅かに辛抱してゐる。が、渠はそんなことには頓着なしで、「ハンモク」と云ふ可なり世間の注目を引いた散文詩を作つた。
「熱くて 堪らない 日が
 噛んだ 氷の やうに しみ込む 頃だ、
 眞夏 の 空に、
 蝉 の 聲が じい〳〵
 僕の あたまを ※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)えくり返す。
 廊下 の 柱と 柱とに ゆはへて
 低く 釣るした ハンモク の 中で、
 僕は たわいもない からだ を
 たわいもなく 横たへた。

 自分の からだの か、何だか 分らない 重みが、
 左右に 搖れて、
 ありも しない 風を 待つてゐる。
 と思つたら 突然 自分は 百萬年 以前 高い 木の 枝に 睡る 猿で あつた と いふ 考へが 浮んだ。

 きのふは 既に 前世界だ――
 ゆうべ 高い ところ から 落ちる 夢を 見た のは、
 夢 では なく 實際 おほ昔、
 生繁つた 深林 の
 枝 から 枝へ 渡る 時に あやまつて
 すべり落ちた 記憶で あらう。

 今 落ちない の は 不思議だ と、
 仰向いて 空を 見た。
 淺い ひさし と それに かぶさつて ゐる
 庭の 松の木 の 間 から、
 熱した おほ空 の 廣がり が 迫つて 來て、
 僕の 呼吸が 苦しく なつた。
 前世界 から 生活に 疲れて 來た からだが、
 ハンモク の 中で 搖られて ゐる 樣だ。
 自分の 身が おもた過ぎて、
 何にも する 勇氣が ない。

 このまま 死ぬる なら 死んでも いいが、
 さりとて、 又未練の ある この人生。
 いつまでも 眠つて ゐられる もの なら、
 死んで終うの とは 違つて 安心 だらうが、さう〳〵 永遠 まで
 頼みの 綱は 朽ちないで ゐなからう。
 と どこ からか 羽根が 生えた やうに、
 僕の 考へは 百萬年 以前 から
 百萬年 以後へ 飛んだ。

 くだらない 空想だ と 思つた が、
 何だか 醒めて ゐて、襲はれる 氣持ちだ。
 夏の 蒸し熱い 呼吸 は、
 乃ち、僕の 呼吸 で あつた。

ああ 金が 欲しい!
 女が 戀しい!
 大事業が したい!
 いい 句を 得たい!
 さま〴〵 の 考へが 一ときに 浮んで 來て、
 蝉の 聲に 不安の 和聲くわせいを 添えた。

 ハンモクは 實に 不安な 住まひだ、
 ぶら〳〵 動く たんびに、
 僕の 胸は 息詰る 思ひ!」

 或晩のこと、義雄の室にも電燈が付いてから間もなく、
「御免を被ります」と、千代子がお客帳と支出簿と十露盤とを提げて、にや〳〵笑ひながら這入つて來た。渠は妻の冷笑的態度を一見して、もう、胸がむか〳〵して來たが、それを自分で私かに制して、書見を續けてゐる。
「また叱られるのでしようが、一つ、讀み合はせを願ひます。」かの女はかう云つて、所天をつとを少し離れて坐わり込み、帳面を机の方へつき付けた。
 義雄はそれをうるさいと思ふのだが、收支の帳面づらのよく合はないのがいつものことであるので、客から取る金と自分が學校や雜誌から取つてぎ込む金とがどう云う風に支出されてゐるのか、充分調べて見なければ置かないのである。
「お千代さんはいつ離縁されてもいいやうに臍繰り金を拵へてゐるに相違ない。さうでなければ、義雄さんが隨分儲けて來るのに、暮しが足りない筈がない」とは、義雄がはの親類同志の噂さで、渠もさう注意されたこともある。然し、渠は自分で浪費するのも割り合に多いと思つたから、よしんば、妻の臍繰りがあつても、大したものではないと高をくくつてゐる。
 義雄が妻を意地々々させるのは、そんなことではなかつた。かの女のあたまが不正確な爲め、つけ落しやつけ加へがあつたりして、毎度計算が合はない。度々のことであるから、渠はそれを反省させる爲め一厘、一錢の差までもその行くへを追求しなければ止まない。
 すると、千代子はその位のことは當り前だと云ふ態度で意地を張り出し、
「わたしが何も一錢や二錢を着腹するわけは御座いません」などと不平らしいことを云ふ。それが動機になつて、いつも、大きな云ひ爭ひになり、
「手めへの頭腦が鈍いからだ」と、所天は妻の束髮あたまへ拳骨を一つ喰らはせることもある。
 それが爲めに、隣りの客をやかましいと怒らせたり、隣家の惡口者にいい噂さの種を與へたりする。
 千代子はまた内心おづ〳〵してゐるに違ひないのだが、それを微笑にまぎらせて坐わつたのである。
 義雄は讀んでゐたページを或節の終りまで濟ませてから默つて帳面を手に取つて見た。
「どうせ、家族が多いのですから」と、千代子は甲ん高い聲を無理に低め、「お客さんから受け取るだけでは足りないのは、この一二ヶ月でも分りましたから――」
「そんなことア知れ切つてらア」
 義雄はやがて帳面を二つとも妻の方へ投げやり、自分はそろばんを取つた。
 一錢なり、二錢なり、十錢なり、一圓なり、九圓五十錢なり、十二圓三十錢なりなどが暫らく續いたが、結局、今夜は珍らしく無事に通つた。
「こんなことは初めてだから、何かおごりませうか?」
「ふん」と、義雄は横に向き、「喰ひたけりやア、よそへ行つて喰つて來らア――どうせ、おれは、おれの出す金さへ出してゐりやアいいのだ。」
「それが――でも――滿足に拂へたことがないぢやアありませんか?」
「そりやア、然しお前の帳面が矢ツ張り合つてゐないよりやア、まだしもましだ。」
 皮肉を云はれながらも、所天をつとがいつに無く多少のうち解けを見せるのが、千代子には嬉しかつたらしい、で、ながちりをしてゐたので、
「おツ母さん。」姉娘の富美子が弟を從へて縁がはをばた〳〵驅けて來て、諭鶴ゆづるさんが何かお呉れツて。」
「いけません、いけません!」母は持ち前の甲聲かんごゑを出して、「今御膳を喰べたのぢやアありませんか?」
「おツ母さん、何か」と、諭鶴はあまへた鼻聲を出しながら、一番手前の障子の隅を少し明けた。
「いけませんてば、あツちへお行き!」
 弟ののぞいてゐるあたまの上から、脊の高い姉の顏も見えてゐた。
「むツ」と、母に瞰み付けられ、富美子の方は機敏に引ツ込んでしまつたが、諭鶴は兩手で柱と少し明けた障子の端とにつかまつて、目をただ右の方に反らしたのが、直ぐそのそばにある半間の淺い床の間の掛け軸、達摩の怖い顏と出くわした。
 この子はこの軸面を大嫌ひで――まだ〳〵小さかつた時のこと、父の書齋へ誰もゐないのでよちよち這入つて來て、二枚重なつて掛かつてゐる軸物の上の一つ――支那人の書いた杜甫の句であつた――を上げて見た。すると、下のに異形いぎやうな物が現はれて大きな目を剥いてゐたので、腰を拔かして泣き出した。法橋探水齋と云ふ落款がある畫で、達摩が小舟に乘つて支那へ渡つて來たのを表する蘆葉達摩だが、子供ながらその時のことをおぼえてゐて、今では、その顏を父の顏に聯想するやうになつてゐた。
 びツくりして、また左りの方へ顏を避けた時、この子はあたまを障子の端にぶつけて、母に泣き顏を見せた。
「いい氣味だ」と、母はかたきの失敗でも見たやうに躍起となつた。
「毛だ物のやうに子供を溺愛する」といつも所天をつとに云はれるので、さうでない證據に、こんな時、自分の嚴しい育て方を實見して貰はうとするのであるらしかつた。
「な、ん、か」と、また下の知春ともはる(これと姉との名は、死んだおぢイさんが命名したのである)がいつのまにかやつて來て兄を押し退けて、小さい首を出した。
 義雄はこれがすべて自分等の間にできた子かと思ふと、可愛いと云ふよりも、寧ろうるさい物だと云ふ氣が先きに立つので、
「畜生の子供らが」と、さも憎々しい顏を向けて、「ぞろ〳〵と何匹出て來やアがるのだ?」
「可哀さうに、ねえ」と、千代子は頬のこけた顏の筋肉をびく〳〵動かし、目を下に伏せて、暫らくたより無ささうに考へ込んでゐたが、やがてその伏せた目をその方に擧げて、寂しく笑ひながら、「もう、これツ切ですとお云ひ。」
 富美子は何も分らない二人の弟の上へ首を出してゐて、母に似た出ツ齒を見せて笑つてゐる。おまけに、どいつもこいつも田舍ツ兒のやうな地味な瀧縞木綿の單衣を着てゐる。義雄はそれを一見しても興ざめてしまうのである。
「うるさいから、あツちへ行け!」父の一言は皆の子を障子から離れさせた。
「おツ母さんも」と、千代子はおだやかになり、「今直ぐに行くから、ね、そツちで待つてお出で――ぐづ〳〵してゐると、達摩さんが飛び出しますよ。」

「‥‥」それは何氣なく千代子の口にのぼつた子供に對するおどし文句であつたらうが、義雄は自分にも當てれば當たる言葉だと思つて、心では吹き出したくなつた。眞面目に考へても亦さうだ、子供に對しては怖い點に於て――また、思索家として長年孤獨の情味を味はつて來たのは、面壁九年の心持ちに似てゐる點に於て。
「達摩さんだ、達摩さんだ」と、さう〴〵しく、ばた〳〵と別々におほ股、小股の足音が遠ざかつて行くのを、義雄は不調和な燥音だと考へたに反し、千代子はそれに聽き惚れてゐるかのやうに暫らく耳を澄ましてゐたが、やがて所天の方に向き直つた。
「諭鶴も、あんな總領息子ぢやア仕方がありません、ね――あなたと同樣、わが儘一方で。」
「おれは親不孝であつたから、自分の子供から孝行をして貰はうとは飽くまで思はないのだ。」
「あなたは」と、千代子は所天を横目に見て、その方に向つて右の手の平で空を下に拂ひ、「それでいいかも知れませんが、わたしが困ります。」
「お前の困るのアお前の心掛けが惡いからだ。」
「またそんなことを!」千代子は斯う調子に乘つたやうに答へてから自分の育兒の苦心に對して所天がおもてへ出して同情したことが少しもないこと。この末ともまだ長い子供の教育時期を、自分ばかりの手では、本統にどうすることもできないこと。所天のそばにゐられるだけ、まだしも子供と自分は末の望みがあるやうだが、若し皆が一緒に棄てられるやうなことがあると、三人の子に老母をかかへて、どうなつて行くだらうと云ふこと。たとへ、この家だけは子供の爲めに預かつて、この商賣をつづけて行くとしても、さうしたら、田村の方の繼母や弟までの身の上も引き受けなければならないこと。所天の取つて來る金を注ぎ込んでも、たださへ不足勝ちのところへ持つて來て、それが若し出なくなるとすれば、とてもやり切れるものではないこと。何と云ふ因果な身になつたのだらう、今さら、この年になつて、よし棄てられても、よそへ片付くやうなこともできないこと。などを語つた。そしてその顏を所天から反むけ、兩手を繩のやうになつた黒繻子と更紗の晝夜帶の間に挾み、頻りに考へ込んでゐた。が、こちらが餘りに何とも云つてやらなかつたので、立ちあがつて、左りの手に帳面とそろばんとを持ち、右の手で藍地の浴衣の前を直しながら、
「まア、行つてやりましよう、子供が待つてるだらうから。」
「‥‥」かの女の引ツ詰つた束髮や、色氣のない着物が神經質の段々高まつて行く顏を剥き出しにして見せるので、義雄は少しあふ向いて最も侮辱の睨みを與へた。
「その婆々じみたつらを見ろ!」
「あなたに」と、千代子は恨めしさうにして、口のあたりをぴり付かせて、早口に、
「かうされたんですよ。」少しゆツくりして、「あなたのせいですから、こんな」と、顏を突き出し、「お婆アさんでも――」可愛がつて下さいと云ひかけるらしかつた。
「鬼子母神のつらだ!」義雄の叫びが頓狂であつたので、千代子は色を變へてからだを引いた。そして物やはらかになり、
「鬼子母神でも、何でも、わたしは子供には女王のやうなものですから、ね。」

「そんな下らない興味に釣り込まれて」と、義雄は兩肱を机に突いて、見向きもせず扇子を動かしながら、「遂に婆々アになつてしまうのを知らないのだ。」
「あなたも段々ぢぢイじみて來た癖に。」
「そりやア上ツつらのことで――精神は反對に若々しくなつて來た、さ。」
「七つさがりの雨は止まないと云ふのがそのことなら、ねえ――」
「‥‥」そんな警句をどこから覺えて來たと云はないばかりに、義雄は妻の方をふり向くと、千代子は立つたままにやりと笑つて、例の通り、出た齒の上齒ぐきの肉までも見せてゐる。「その表情の卑しさを見ろ!」渠はまたかう叫んで、目を反らした。「もう行け、行け!」
「行きますとも――然し、ねえ、あなた」と、千代子は眞面目に返つて、また立ち去りかね、その場にしやがんで持つてゐる物を膝の上に置いた、「あの子もさすがあなたの子で、利口はなかなか利口ですよ、今の驚き方と云つたら、可笑しくもありましたが、また、昔、上の掛け軸をめくつて、下のにびツくりしたことを忘れないでゐるのですよ。」
「そんなことア聽く必要がない。」
「でも」と、話しを引ツ張るつもりでか、「この達摩さんも忠義です、ねえ――うちの貧乏暮しを永年の間一緒にして來たのですから。」
「ほかに掛ける物もないぢやアないか!」義雄は思はずまた妻にふり向いて、「掛け物一つ買へないほど貧乏してきた、さ、然しまた面白いこともあつた、さ。」
「それはあなたばかりで――うちの者はちツとも面白いことなどさせられた覺えはありやアしない、わ。」
「無い?」わざと怪訝けげんな顏をして、「望みの竹生島も見せてやつたし、京都、大阪、須磨や奈良へも連れてツてやつたぢやないか?」
「わたしだツて」と、千代子は不平さうに、「そんな上ツつらなことを云ふのぢやアありません。うちの者は皆――あなたと直接の關係のないわたしの母まで――あなたの貧乏と不機嫌とにいぢめ拔かれて來たんです。」
「貧乏はおれの持ち前だ。然し、おれの不機嫌は女房の口やかましいところから來たのだ。」
「やかましく云はなけりやア」と、目をきよろつかせて口をとんがらかせ、「遊んでばかりゐるぢやありませんか? あなたの坊ちやんじみてゐた時から、この十何ヶ年と云ふもの、わたしがやかましく云ふので持つて來たのですよ。」
「馬鹿を云ふな! おれはおれでやつて來たので、非常に遊んだあとは」と、得意な顏をして、「きツと、また非常な仕事をしてゐらア。」
「それもさうでしようけれど、わたしの爲つづけた苦勞が分つたら、この達摩もわたしの味かたになるでしようよ――主人が教師になつて行くのに、滋賀縣までも一緒に附いて行つたし、また東京へ歸つてからも、芝から下谷、本郷から麹町、麻布から赤坂と、何度引ツ越したか分りやアしない。そのたんび何か物は無くなるし、――おしまひには吉彌でしよう。」
「母さん。おツ母さん。」子供がまた呼にやつて來る樣子だ。
「あいよ、あいよ」と、千代子はその方へ浮き腰になつた。
「うるさいから、行け。」義雄はかう云ひ切つて、妻が立ちあがるのを尻目に見た。「おれの放浪生活は、もう、やめる。その代り、お前とは離縁だ。」


 義雄の英語教師は時間給で出るのだから、その受け持ち時間だけ行つたらいい。それも毎日ではなく、日曜日と月曜日とは續いて休みで、跡は隔日になつてゐる。
 渠は昔から勉強家だが、朝寢坊ときては九時や十時でなければ、また時によると午砲を聽いてからでなければ、とこを出ない。父が我善坊からせか〳〵と歩いて、麻布の谷町を拔け、氷川神社のそばをとほつて、赤坂の臺町へたま〳〵やつてきた時、息子がやうやく起き出でて楊枝を使つて居るのを見て、
「そんなことで一人前の人間に成れるものか」と怒つたこともある。
「でも、夜が遲いものですから」と、千代子は所天に代つて辯護をした。
 父は息子の朝寢を始終氣にして死んだが、それを却つて義雄は父の家を占領してからも、一つの懷かしい思ひ出として、目を覺してゐながらも、とこのうちで考へ續ける朝もある。
「年中仲たがひをしてゐながらも、自分が何となくたよりにしてゐたものが亡くなつてしまつた。」かう考へると、自分も何どき死んでしまうか分らない。これからます〳〵自分の事業に發展しようとする前途も、まだ〳〵なか〳〵長い。親などは子に對してはあまいもので、子の十年一日の如き思索的努力がその僅かに一部を世間に認められるやうになつて、多少それが彼れ是れ云はれて來たのを知つて、内心では非常に喜んでゐた。
 父の意志に從つて見せたり、物質的報酬を以つて父に報いたりすることができなかつた渠には、切めて精神的事業の一端をでも見せて、父を喜ばせたのが所謂孝行の一つであつたのかも知れないと思ふ。
 苟しくも生きてゐる間は思索と執筆とが自分の生命だとして、晝間も薄暗い室に立て籠ると、やがて夜になつてしまう。また、電燈が付いたかと思ふと、いつの間にかふけて行つて、夜明けの庭鳥の聲や、朝がらすが寺の山の高い檜の木に群がり啼くのを聽く。それが殆ど毎夜のことだ。
 たま〳〵、夕飯を濟ませてから人を尋ね、一緒に玉突き屋へでも行くと、日頃の憂鬱が調子を變へ、負ければ負けるに從ひ、勝てば勝つに連れ、知らず識らず勝負の回數を夢中で重ねて行き、
「もうあかりを消しますから」と、ボーイに斷わられ、初めて不興に覺めて歸宅することもある。が、直ぐ寢に就くのではなく、きツと机に向つて書き殘しの原稿を續けるのである。
 渠は家にあつてはストア學派の禁慾主義者以上の嚴格を保つてゐるので、朝寢だけには例外のづぼらがあつても、そツと構はないで置かれるのが常だ。
 押し入れ並びに床の間の後ろが二階からうら縁がはへ下りるはしご段になつてゐてその次ぎの八疊がこのはしご段と玄關から裏へ一直線にとほつた廊下とに挾まれて、千代子と子供との寢室になつてゐる。
 この八疊と四疊半とは、生活上、金錢的關係があるのを除いては、殆ど全く無關係の世界と世界とである。四疊半の主人のまだ寢てゐるのを、八疊の主人が起しに來て、締まつた障子の外から、
「もう、時間ですよ」といふすげ無い言葉を一と言かけて去るのは、午前の八時もしくは九時から學校の時間がある時に限つてゐる。それを聽き流しにしてゐると、あね娘かその弟かが、母の使者として、
「お父アん、お起きなさいツて」と云ひれて來る。
「お――起き――父ちやん――お起――きツて、ね」と、また、末の子が障子を明けて這入つて來て、ひよろつく腰をかがめて、父の顏をのぞき込むこともある。
「あア、起きるよ。」さすが無邪氣の子には強く當ることもできず、優しい返事をするが、すると稚い子が嬉しさうに向ふへ駈けて行つて母にその返事をいひ付けてゐるやうな樣子が聽こえる。それがまた反感を響かせて來ないではゐないのである。
「あいつ等の爲めばかりに詰らない教師などをしてゐるのだ」と考へると、顏を洗ふにも食事を濟ませるにも氣が進まず、出勤の時間が後れかける程ぐづ〳〵してゐて、わざと車を呼んで、たツた三四丁のところを驅けらせることもある。
 學校では、然し義雄の教授振りに家で押さへてゐる活氣が溢れ出し、ひどく叱りつけることもある代りに、また全級を愉快に笑はせたりする。
 六年前、初めてここの教師になつた時は、生徒に親しみがなく、且、怒るのが目に立つので、最も不出來の生徒が一人、短劍を持つて渠を暗夜の途に要したのが評判になつた。渠はそんなことには恐れないで、相變らず冷酷、熱酷な怒罵をつづけた。
「貴樣のやうな出來そこなひは、兩親へ行つて産み直して貰へ。」
「手前のやうな鈍物は、舌でも喰ひ切つて死んでしまへ。」
 生徒は遂に往生して、こんなことを云はれるのを最も恥辱だとして、渠の時間の學科はよく下調べをして來て、じやうずな説明を聽きつつ、明確な理解を得るのを樂しみにするやうになつた。
「田村先生の時間!」この言葉は一部の生徒の恐怖を引き起す符牒であると同時に、一般生徒には最も待ち受けられる樂しみであることは、義雄も自分で知つてゐた。
 渠は同じ學校の夜學にも出たことがあるが、それは失敗に終つた。出勤前に友人と酒を飮んだのが、教壇で例の通りの快辯を振つてゐる時に發して來て、いつの間にか椅子に腰かけて、心よくテイブルの上に眠つてしまつた。ふと目を覺すと、七八十名のものがすべて手を束ねて、ぼんやりとこちらを見てゐた。
 丁度その當時、渠は「デカダン論」といふ著を公けにし、現今の宗教、政治、教育等の俗習見に反對したのが、學校の幹部の問題になつてゐた。その上、或晩のこと、醉ツ拂つて藝者と共に電車に乘つてゐたのを生徒の一人に見つけられた。
 それやこれやの中を取る同僚があつて、渠は夜學の時間を斷わつてしまつたが、晝間の生徒に向つては、自分に對する心得を發表した。
「學校の門を這入つた以上は、おれも教師として神聖な者だから、飽くまでもその職權と熱心とを忘れないが、門を一歩でも出たら、もう、お前等とおれとは見ず知らずの他人も同樣だぞ――從つて、外でお前らと出會つても、おれは相手にしない、お前らも亦おれを先生などと云ふに及ばないし、お辭儀などは無論しなくてもいゝ。」
 すると、生徒のうちから、
「煙草を飮んでゐても叱りませんか?」
「酒に醉ツ拂つてゐてもいいんですか?」
「藝者を連れてゐてもかまひませんか?」
 などと冷かし初めた。渠は笑つてこんなことを云はせて置き、やがて、響き渡るほどのどら聲で、「默れ!」と一喝して、「ここは神聖な教場だ。」
 かう云ふことがあつてから、一層、渠は生徒間におそろしいが又懷かしい教師となつた。
 或日の午後、渠が學校から疲れて歸つて來ると、見慣れない牡丹色の鼻緒の駒下駄が玄關の格子に脱いであつて、正面のはしご段のわきには大きな行李が一つころがり八疊の間に若いおほひさし髮の女が來てゐた。

「紀州からやつて來た女に相違ない。」かう思ひながら義雄は八疊の間をまはつて自分の室へ這入つた。
 胸には、何だか異樣な動悸をおぼえてむらさき包みの書をほうり出したまま机にもたれて、向ふの話し聲に注意が向いて行くのである。
「東京へ來ると、」なか〳〵ませたやうな聲で、「田邊などは、もう、お話しにならんです、な。」
「どこから行くの?」これは千代子の聲だ。
「大阪から行きます。午後の十時頃に大阪を出發しますと、加太、和歌山などは夜のうちに通つて明くる日のお晝頃着きます。」
「何かあるとこ?」
「温泉があります。」
「ぢやア、いいとこでしよう?」
「その邊では、まづ、よろしい都會ぢやと云ふても、大したところではないのです。」
「でも、温泉があるなら、」と、笑ひ聲になり、「そんなとこで宿屋でもすりやア儲かりましよう。」
「さア、どうですか? 神戸や大阪からは隨分來るやうですが――」
「ふむ、隨分來るの――ふむ、さう?」
 千代子が例によつて口を結び、首を二三度固く動かして、人を子供あつかひにした目つきが義雄には見えるやうだ。
「いやな女だ――あの癖を亭主のおれにまでむけるのだ」と、渠は獨りで顏をしかめた。
「どうきまりましたの」と、繼母が出て來た樣子。
「二階の西の三疊が明いてますから、ね」と、千代子は既に自分が決めさせたと云ふ調子で、「少し暑いけれど、あすこにして、成るだけお金の出ないやうにしてあげたらと思ひますの。」
「そりやア、安い方があなたもいいでしようから、ねえ――」低い笑ひ聲を出し、「ずツと安く負けてお貰ひなさいよ。」
「あの猫婆々アめ、いつもの猫撫で聲を出しやアがる」と、義雄は繼母の不斷を思ひ浮べた。
「これよりやア、もう負かりませんよ」と、これも笑ひ聲だが、險に響いた。
「ふ、ふ、ふ」と、をんな客の當りさはりのないやうにした笑ひも、繼母の聲と共に何だか底意地ありさうに聽こえたが、義雄は險ある聲を最もいやに感じた。
「あなたも、正直なところをいつて、大したお金持ぢやアないでしよう――」と、繼母の聲。
「はア」と、をんな客はまごついた返事だ。
「奉公口を見付けるまでといつても、あなたのはただの下女やお針では行けないのだし、晝間だけどこかの學校へやつて貰へるやうなところは、なか〳〵見付かりさうもないから、ねえ――」
「金を持たずに出て來たのだ、な。」義雄は直ぐそんな奴はめかけでもするより仕樣がなからうと考へた。
「まア、明日からでも探して見ましよう――神田にも國の人が來てをりますので。」
「國の人が來てゐるのなら、大丈夫ですよ。」
「成る程、おツ母さんの考へは年寄りだけに行き屆いてるのねえ。」千代子はその向ふ意氣の強い調子が變つたやうになつて、「あなたは、全體、二三ヶ月の下宿料は持つて來たの?――こんなことを聽くのも」と、調子ツ外れに笑ひながら、「をかしいやうだが――」
「はア、それは――」
「若し奉公の口がない、うちの勘定も拂へないといふやうなことがあると――」
「つけ〳〵と遠慮會釋もない女だ、なア」と、義雄は蔭でひや〳〵した。

「そんな、御心配までは掛けんつもりです。」客は如何にもむツとしたと云ふ口調だ。
「つもりでしようが――」
「まア、いいぢやアありませんか、そんなことは?」相變らずの猫撫で聲が中を取るやうに、「どうでしよう、ね、お千代さん、義雄さんにも相談しなけりやアならないでしようが――?」
「義雄などに相談もあつたものですか?」
「でも、ねえ、あるじはあるじですもの。」
「あんな人に――あるじらしくもない――相談も何も入りますものか?」
「馬鹿にしてゐやアがる」と、義雄は蔭で怒る氣にもなれない程だ。
「では、お千代さんがさう受け合へばいいとして置いて――どうでしよう、ねえ――どうせ、わたしの座敷は明いてるも同然だから、一緒に置いてあげることにしちやア?」
「むむ、それがいいです、ね!」乘り氣の甲高かんだかになつたが、直ぐまた遠慮といふことに思ひ付いたかのやうに聲を平調に返して、「おツ母さんさへ御承知なら、ねえ。」
「わたしは構やアしない、わ――隱居の身に話し相ひ手もできるのだから。――あなたも」と、客に向つてらしく、「さうおしなさいよ、間代だけでも省けたら、ようござんしよう。成るべく無駄なお金の出ないやうに、ねえ。」
「ぢやア、さうしたら、どう?」
「では、さう願ひましよう。」今まで何だか氣が置けてゐたらしい客の聲だが、初めてその場の意味が分つたかして、さえ〴〵した聲を出した。
「それがいいの、ね」と、矢ツ張り甲高な笑ひ聲で、「どうしても年寄りがゐないと、いゝ考への出ないもの、ね――おツ母さんでなけりやア――おツ母さん大明神だ。」
「何を云つてやアがる、馬鹿が」と、義雄はまた心で叫んだ。
 繼母も千代子の頓狂な言葉をただ笑つて受けて、客の方をあしらつてるらしく、
「あなたも、船や汽車でゆられて來て、疲れてゐるでしようから、早くわたしの部屋へ行つて、横にでもおなりなさい。」
「さう疲れてもをりません。」
「だツて、どうせあなたのゐるところときまつたのですから――」
「左樣ですか? では――」
「馨! ちよいとお出でよ。」
 繼母に呼ばれて、義雄の弟は離れの奧から縁がはをまはつて出て來て、
「何」と云ふのがきこえた。そして久し振りの客を見て「いらツしやい」と云つてる。もとから知つてる筈だがら。
「大きくなつたでしよう、馨は?」
「はア、さうです、な。」
「兄さんよりも、大きいのですよ――からだばかり立派になつて。」
「結構です。」
「勉強をしないで困るのですよ――兄さんの方は、それでも、し出すと、夜ぢうでもしてゐるやうですが――」
「僕だつて、する時アしてゐる、さ。」
「だッて、今から色氣づいたりして、ね。」
「お君さんでしよう?」客はためらはないで、かう突ツ込んでる。
「ええ、約束がしてあるのださうです。」
「兄さんの」と、千代子の笑ひ聲だ、「弟だから、ね。」
「あの、清水さんの行李が、ね」と、繼母は渠に優しい命令をした、「はしご段の下にあるから、あれをわたしの部屋へ持てッておあげ。」
「あれだ、ね?」
「わたし、持つて行きます。」客と馨と二人して行李を奧の離れへ運んで行くやうすだ。
「重たさうだ、ね」と、繼母もそのあとから云つてた。

 千代子は縁がはをばた〳〵と上草履の音をさせて、こちらの室へ駈けて來て、障子の敷居のうへへ片足をかけたまま首を机の方へ突き出し、聲を低めて、
「やつて來ましたよ――紀州の女が。」
「‥‥」洋書棚のそばで東向きの縁がはに向いた机のうへにイブセンの脚本を開いたままやうすを聽いてゐた義雄だが、見向きもしなかつた。千代子は左の手を壁の柱にして、からだの腰を少しかがめながら、
「いやな女よ――それは意地の惡さうな目付きをして――おほでこ〳〵のひさし髮で――」
「それでも」と、義雄は劔突くめいた聲で妻を返り見た、「お前の引ツ釣鬢の束髮よりやア多少の飾りはあらう。」
「髮なんかに飾りがあつたツて――あなたはいつも内部的、精神的でなければ行けないといつてる癖に、直ぐその口で女のうはべを賞めるのですか?」
「外形にまでも」と、顎でしやくいながら、「精神の若々しさが現はれてゐりやアいいのだ。」
「なんぼ若いツたツても、あんな意地の惡さうな、のツそりした女ぢやア――」
「ぢやア、手めへは何だ――鬼子母神のお化け見たやうなざまをしやアがつて――おれの女房なら、女房らしくなれ!」
「あなたも亭主らしくおなりなさいよ。」
「馬鹿をいふな――貴樣のやうなとげ〳〵しい婆々アに、もう誰れが構つてゐよう? どんな見難みにくい女でも、まだしもしとやかで、若けりやアいい。」
「だから、好きなのをお貰ひなさいと云つてるぢやアありませんか?」
「何んだ! それで濟むと思ふか? 苟くもおれが貴樣達を補助してゐる以上は、おれは貴樣達の主人だ。主人が學校から歸つて來ても――」
「へえ、學校でしたの? わたしは、また、もう試驗も濟んだんだから、どこかほかへ――」
「特別な用があつたらどうする――氣の毒だから點數調べの手傳ひをしてやつたのだから仕方がないのだ! 學校ばかまなど穿いて、誰れがほかへ行く?」
「そりやア、氣が付きませんでした。」
「何、ぢやア、貴樣達アおれが學校から歸つた時でなきやア、茶を一つ持つて來ないのか?」
「そんな因業なわけぢやアありません、わ――欲しけりやア御遠慮なく手を叩いて下すつたらいいぢやアありませんか?」
「手を叩くのア家のものが知らない時だ――歸つたのを知つてゐながら、お歸んなさいとも、何とも云はず――」
「それは惡うございましたが――」
「惡かつたでは、もう遲いのだ――茶を持つて來い、茶を!」
「母アちやん」と云ひながら、知春は怖ろしさうに母の横手から母の足に抱き付いた。
「何もこはいことではないのだよ。」千代子は子を兩手でぐツと抱きあげ、「直ぐ持つて來させますから」と云ひ殘して、そこを立ち去つた。が、縁がはを行きながら、繼母の室へ聽こえるやうに、「お茶が出なかつたから、お叱りですよ」といつた。
「持つて來るなら、自分で持つて來い!」かう叫びかけたが、聲には出さず、義雄のむしやくしやした心は袴をつけたまま坐わつてゐるからだ中にみなぎつた。

「今お茶を入れてますよ」と云ふ千代子の言葉を臺どころわきの食事室の方へ聽き流しにして、義雄はわざとがたびしと玄關の土間にある下駄箱の蓋を明けて、自分の兩り下駄を出して足に突ツかけ、逃げ出すやうに家を出た。
 玄關と向ふの醫者の裏板塀との細い露地を通り、自分の家の臺どころの角から曲つて、また細い露地を三四間出ると、我善坊の通りだ。ここは仙石屋敷と八幡山との間に挾まれ、細長い而かも鬱陶しい谷のやうなところだ。が、麻布の仲の町や鳥居坂への近道であるので、隨分いい人々の車も通るし、近頃は、下の八幡町の山に添ふた墓地が泰養寺の手を離れて總て取り拂はれ、その跡へ新らしい借家が建ち續いたから、可なり奇麗な通りになつた。
 義雄は、自家の後ろの山のおほ檜の木や、八幡山の樹木やに反映する午後の暑い日光をスコツチの鳥打ち帽の上から浴びて、自分の室の凉しいがまた薄暗いところに坐わつてゐるのよりも、却つてすが〳〵しい氣持ちになつた。
「けふは、思ふ存分玉突きでもして遊んでやれ!」渠はかう決心して、八幡町を芝の西の久保通りに出で、巴町の方へ、われながら亡父の歩き振りが思ひ出されるせか〳〵歩きで、どこへ行かうかと考へた。
 山王下の赤坂亭には好きな女もゐるが、玉代や飮食費が大分溜つてゐて、行くたんびにそれを催促されるのがこころ苦しい。あたらし橋の養精軒は、女ボーイが居眠りしながらゲームを取り、敵の點數へこちらの取り分を入れたのが原因で、そこの主人と喧嘩をしてから、まだそのほとぼりが覺めてゐない。その他で知つてゐるのは餘り感じのいい玉屋ではない。
 さうかと言つて、近頃は大きな料理屋へ行つたり、濱町や蠣殼町のこツそりした家へとまつたりする勇氣も餘裕もない。
 ふところの素寒貧を覺えながらも、夏のほこり風にあふられて、蚊がすりの單衣の背とからだの脊中とがひツ付くほど汗のうるみを生じて、脇腹を垂れる汗のしづくが親ゆづりの博多帶――山の這入つた茶と紺との合せ帶だ――の下にとまるのが、如何にも暑苦しい。
「人並みに今年は避暑旅行もできず――」と心では訴へながら、行く先きをどこにしようか、ここにしようかと考へて行くうち、足はいつもの通り渠を佐久間町の友人の家へ運んで行つた。
「辯護士村松十衞」と書いた大きな横表札が懸つてゐるその格子戸を明けて這入ると書生が二階へ通知して來てから、義雄を上へあがらせた。
 二階の奧座敷では、主人が二人の客と鼎座して、眞劍に花を引いてゐた。渠もここの主人とこの座敷でこの遊びに徹夜したこともある。が、それは酒にも飽き、玉突きにも疲れた跡で、ほんのから勝負をして自分の家へ歸りたくない夜の時間つぶしに過ぎなかつた。
 今、目前に眞劍の勝負を見て、渠は今更らの如くそらおそろしい氣もするし、又、それをやつてゐるもの等の卑劣な熱心にさもしい根性が見え透くやうにも思はれる。然し、どうせ友人を玉屋へ誘ひ出すことができないなら、自分もここで、一緒にやつて見たいと考へたが、一年毎に取りやりする現金が懷中にあつても少いので、皆に勸められながら、ただ見てゐるだけで、別に何等の話もなく三時間も四時間もそこで過ごしてゐた。

「梅ぢや」、「牡丹だ」、「菅原ぢや」、「四光だ」などと、ぱちり〳〵とやつてゐるのを、義雄も自然に釣り込まれて面白さうに見てゐるうち、最も勝つた客は、もう、晩餐時だから歸ると云ひ出したが、最も負けた主人がどうしても歸さないと止めた。が、その客はここらが切り上げ時だと見たのだらう、振り切つて二階を降りてしまつた。
 で、主人は今一人の客と同じことを續けたが、矢ツ張り恢復はできなかつた。客は先刻から立て換へて置いた分と今勝つた分とを渡せと云ひ、主人は渡すことはできないといふ。それがもとで投ぐり合が始まり、客はその喧嘩に負けて散々の惡口をつきながら、はしご段を降りて行つた。
「ごろ付きめ! こねいだ立て換へてやつた分はどうするんでい!」甲州生れの氣の荒い村松は、目に角をたてて、かう浴びせかけてから、義雄の方に向き直り、少しきまりの惡さうな顏をして、「やア、失敬した、なア。」
「なに、面白かつたよ――僕も金を持つてゐさへすりやアやつて見たのに。」
「けふのやうに負けたことは滅多にねいよ」と笑ひながら、村松は金がは時計を白縮緬の兵兒帶から出して見た。「もう七時だ、なア――また肉でも喰ひに行かうか?」
「さア、行つてもいい、ね。」
「夏中は相變らず不景氣で金が這入らねいで閉口だ。」
「僕などアおやぢの病死以來ぴイ〳〵してゐるのだ。」
「まア飯を喰つてから玉突でもやる、さ。」
 村松はまだ獨身者で、臺どころは下女に一切まかせてある。既に夕飯は客の分もできてゐたのだが、渠はそれを入らないと云つて、義雄と共に靴脱ぎへ降りた。
 二人はそこから櫻田本郷町の通りへ出て、とある牛肉屋へあがつて一杯を傾けたが、飯を濟ませると、直ぐまたそこを出た。
「どこへ行かう?」
「さア――」
「君ア養精軒はまだいやだらうし――」
「行つたところで構やアしないが、久し振りで永夢軒へ行つて見ようか?」
「それもよからう。」
 かう話がきまつて、二人は新橋の方へ向いて高架鐵道の下をぬけ、烏森の意氣な圓い大提灯が出てゐたり、三味線の音締めが聽こえたりする横町々々を縫つて行つた。
 永夢軒では、一方の臺にプールの客が集まつてゐるし、また一方の臺では藝者が客と四つ玉を突いてゐる。プールはいつも物を掛ける習慣になつてゐるので、義雄は全く好まない。村松はそれを知つてゐるし、また若い女のゐる方がいいので、その方の椅子に二人並んで腰をおろし、女がしろ玉のつもりで赤たまを突きかけたり、突いた玉が突ツ拍子もないところへ走つたりするのを見て、笑つてゐる。
 そのうち、女はその客を引ツ張つて疊つづきの奧へ這入つた。そツちは藝者屋で内輪は一つになつてゐるのである。
「きやつ、花を引かされるのだぞ。」義雄が村松を返り見てささやくと、村松は首をすくめて、これも低い聲で、
「負けたら、それだけ現金でぼツたくられるし、勝つたところで女と例の妥協――で一睡の夢か?」

「何を笑つてるのです?」知り合ひの女ボーイがゲーム取りにやつて來て、かうからかつた。
「笑つたら、惡いのけい?」村松はわざとおこつたやうに右の肩を怒らして見せたが、肩を下ると同時に客の置いたキユウを手に取つた。「へいゲームを取れ!」
「へい〳〵。」ゲーム取りは、村松の國なまりを返事に受けもじりながら、大きなそろばんの懸つてゐる下の椅子に行つた。
「お常さん」と、義雄もキユウを取つて臺に向ひ、自分の白い持ち玉と赤い一とをキユウの先きで引き寄せながら、「永夢軒とはよく附けた名だと云ふこと、さ。」
「妥協ばかりやらしやアがつてのう」と、村松も二つの玉を――白いのは自分の方に赤いのをその先きへ――並べて、義雄の玉と臺の眞ン中の縱の一線に眞ツ直ぐに置かれたか、どうかを調べて見た。
「さア、來給へ」と、義雄に促され、村松は白玉を右のコシンに添ふて赤の横線に並ぶまで出し、向ふの白の半面へねらひを定めて突きひねつたが、見事に當らなかつた。
「ほ、ほ」と、ゲーム取りは笑つて、「いくらでしたか、ね?」
「百に半分でいい」と、義雄も笑つてゐる。
「なアに、七十だ。」村松は自分の白を拾つてもとの處へ置き直し、二度目のねらひを定めてゐる。
「君には」と、義雄はそれに向つて、「まだ僕の半分しか突けないぞ。」
「どうだ、見ろ!」村松の同じやうに突いた玉が義雄の白へは當つたが、向ふのコシンへ行つてはね返る時に赤の左りの二三寸さきを反れてしまつて、村松の方のコシンのそばへ來てとまつた。
 そして、義雄の白は、一旦渠の前のコシンに行つて、また渠に近い右のに行き、そこを少し出たところで坐わつた。
「その腕だから、ね」と、義雄が今度は突きはじめた。近い赤から向ふのコシンへ這入つたのが、白へ行つての二點と、それから三點とまた二點との三キユウで、四キユウ目には失敗した。
 それから互ひに突き合つた結果が村松の勝に歸したが、二回目には義雄が勝ちを得た。
 三回、四回と試みてゐるうちに、プールの組は歸つてしまつて、そのあとへ義雄の仙臺遊學時代の後輩だが、渠よりはずつと先きに冒險小説で世間に名を賣つた男と、歌詠みから株屋の番頭に轉職した最も若い男とがやつて來た。
 向ふも醉つてゐれば、こちらも丁度醉ひが出てゐるところで、互ひに知り合ひの仲とて、入りまじつて、兩方の臺を占領することになつた。
 義雄はかう云ふ時には非常にはしやぎ出す方で、皆を傍若無人に揶揄しながら賑やかに誰れでもの相ひ手をした。そこの主人もボーイ連中も注意は全く渠一人の面白味に釣り込まれて來た。
 然し株屋の番頭の二百點に對する義雄の百點は後者の方に少し負擔が多過ぎるので二三回負け越しになつた。その形勢を挽回しようとして、義雄が躍起になり、熱汗のでるのをうち忘れて奮鬪したのが、力の平均をます〳〵失はせたばかりでなく、
「この野郎」とか、「畜生」とか云つて突き出すキユウを、どうしたはずみか上へ振り上げたのが、電燈の一つに當つて電球がこな微塵になつた。
「電球は白かい、赤いか」と冷かされて、
「どツちでもねいや」と、義雄は興ざめた返事をし、與へた損害は店へ拂ふことにして、村松と二人でそこを出た。
 もう十二時近くで、さすがの場所も段々森閑として來た。例の美人娘がゐる琴平町の蕎麥屋へ行つて、二人でまた失つた醉ひを取りもどし、そこで義雄は友人と別れて、家へ歩いて歸つた。が、戸が締つてゐるので無言で力強く二三度續けざまに叩くと、
「どなたです。」千代子の險ある聲が土間でした。
「おれだい!」
 這入つてからも、千代子が洗ひざらしの模樣も禿げた浴衣の寢卷姿で恨めしさうにじいツとこちらを見た。その目が飛び出たのかと思はれるほどやせてゐる顏を義雄は見ない振りでつか〳〵と靴脱ぎをあがつた。さツさと自分の室にとほつて、押し入れから蒲團を出して敷いたが、直ぐ寢る氣にもなれない。
 水を飮む風をして、臺どころへ行き、食事室の柱に懸つてゐるお客帳をこツそり廣げて見ると、紀州田邊の女は「清水鳥」――二十一歳――勉強の爲め止宿と書き付けてあつた。


 お鳥は、到着の當日、もとゐた時に知り合ひになつた駄菓子屋の娘で、今は電話交換局へ通勤してゐるものや、炭屋の娘で陸軍省の雇ひと結婚してゐるものを訪問し、何か都合のいい口を探して呉れと頼んださうだ。又その翌日、神田の同國人夫婦のところへ行き、身の上話しやら何かで、一日一晩を過ごし、やうやく最終電車に間に合つたと云つて歸つて來た。
 それから二三日と云ふものは何をするでもなく、ぐづ〳〵に日を送つた。近所の友達のもとへ遊びに行つたり、時々は義雄の總領むすめ富美子を連れ、雨に大きな笹の模樣を出した白地の縮みにメリンス友禪の帶を締め、藍地の絹張り蝙蝠傘をさし翳して、芝公園の中へ散歩に行き、氷水や氷汁粉をやつて來たりした。
 家にゐては義雄の弟の馨の部屋へ行き、足を投げ出していつ迄も話し込んだり、自分の室では、また、義雄の繼母がまだその記憶に新らしい位牌を床の間に据ゑて蝋燭をあげたり、線香を立てたり、子供の衣物を縫つたりしてゐるそばで、からだを長く横たへて、沈み勝ちにうちはを使つてゐたりした。
 茶呑み茶碗が足もとにころがつてゐても、それを直さうともしないので、それが田村家のもの等の噂の種にのぼつた。
 最初にそれを氣が着いたのは千代子で、お鳥がどこかへ出た留守に、その部屋へ來て繼母に向ひ、
「なんて無精ぶしやうな女でしよう、ね、あんなだから嫁に行つても追ひ出されたのでしようよ。」
「まさか、追ひ出されたのでもないやうですよ。」繼母は縫ひ物を續けてゐたらしい。
「それにやアいろ〳〵込み入つたわけもあると云ふことだから――」
「あんな者のいふことが信用できますか?」
「さう一概にも、ねえ――まだ若いから氣の付かないこともあり勝ちでしようが。」
「おツ母さんも、義雄の味方になつて、ただ若いのがいい方なのですか?」
「ほ、ほ、」と、それには逆らはないやうに、「そんなわけぢやアないけれど、ねえ――」
「もう、二十一にもなつて、茶碗のころげたのを一つ直せないやうぢやア、末がおそろしいでしようよ。」
「まア、でも、今の女の子は横着になつてゐるから――」
「うちの富美などは、あんな者にさせたくないものです。」
「そりやア、お前さんの育て方一つで、ねえ――」
「また子供のことか?」そんな話はよせといふ勢ひで義雄は二人の坐わつてゐる前の縁がはへ行つた。今までそれとなく聽いてた女の話をもツと聽きたかつた。心のきまり惡さを隱すやうにして突ツ立つて、雨戸の鴨居に兩手をかけて、繼母の方をむき、自分の腹を探られては困るがといふ風をしながら、「おツ母さん、あの清水とかいふ女は全體どうすると云ふのです?」
「どうするツて」と、繼母の返事は直ぐ出かねたが、あまツたるい舌で、「まア、どこかいい奉公ぐちを探してゐるのです、わ。」
「めかけ奉公の口か?」
「いいえ」と、微笑を吹き出しながら、「そんなことアないのでしよう。」
「然し」と、小言でもいふ口付きのむツつりした口調で、「めかけにでも行かなけりやア、金も持たずに勉強ができるものか?」
「まア、さういやアさうです、わ。」口を少し明けて笑ひを見せ、「あの子の注文が六ヶしいのだから。」
「どうです、ね、あなたが一つ」と、千代子は冷笑しながらこちらを見あげて、「あの子を引き受けてやつたら?」
「馬鹿云へ!」聲では大きな一喝を喰らはせたが、義雄は自分の顏に心の弱みが少し赤く染め出されたと思へた。

 お鳥は神田から二三度夜遲く歸つて來ることがあつた。そのうちの二晩つづいたのは、確かに電車賃を儉約して、暗い寂しい丸の内の電車道をとほつて、一里餘も歩いて歸つた。
 その最後の夜の如きは、餘り遲くなつたので、玄關の戸を明けて貰ふことをしなかつたのは勿論、再び年寄りの隱居に厄介をかけるのをも遠慮して、直ぐ馨の部屋の窓――そのそばに、泰養寺の山をしみ出る清水の井戸がある――のもとに至り、渠を呼び起して裏口の木戸を明けて貰つた。馨が裏木戸を明けた時、かの女は釣瓶からぢかに水を飮んでゐたさうだ。
「どうせ用のないからだですから、電車などへ乘らんでも」と、かの女は翌朝、隱居に辯明らしいことを云つたが、宿賃は勤めさきがきまつたら拂ふことにして貰つて、取り敢ず來てゐよと云つたと云ふ同國人夫婦の方へその日から轉宿した。
 義雄が友人なる琴の師匠から頼まれて一美人を女優に仕立てあげようと、音樂倶樂部へ熱心な交渉をしたり、その本人を呼び寄せて決心を確めたりしたのは、この頃のことであつた。それが直ぐ失敗に終つたと同時に、渠の俄かに寂しく、暗くなつたやうな心に蔭ながら代りの花やかさを殘したをんな客も、神田の方へ行つてしまつたので、渠はます〳〵陰欝な日を送つてゐた。
 たまには、それでも麹町の詩人が來て新派小説家の創作を論じ合つたり、小石川の當時賣り出した小説家が來て、碁の勝負を爭つたり、辯護士の村松が來て、一緒に玉突きに出かけたりして、そんな時には、人一倍の元氣も出で、また快談もやつた。
「何とか世界から、あなたの寫眞を取りたいと云つて、來た人があります」と、千代子の通知に接して玄關へ出て見ると、某出版會社の編輯員(これは兼ての知り合ひだ)と寫眞師とであつた。
 一つは義雄を中心としての書齋、一つはその家族全體を撮影するといふのである。
「家族の方は僕が面白くもないからよさう」といふと、
「いろんな人のを二種づつ取るので――これは雜誌の都合上だから」と頼んで聽かなかつた。
「この部屋は餘ほど光線が取りにくい」と云ひながら、友の編輯員が縁がはの外から書齋に對して機械を据ゑる位置を暫らく探してゐる間に、家のものは衣物を着かへてゐたが、子供から先づ面白がつて飛び出して來た。
「書齋」は、義雄が白地の浴衣を着たまま机に右の片肱をかけ、横向きに洋書棚を背にして、その前の壁ぎはに、今一つの一閑張りのところ〴〵禿げたのを置いて、上に棕梠の盆栽をのせた場面のが寫つた。
「家族」は、縁がはのかどの柱に寄つて、義雄が雨滴れ落ちの一線に並んだ春蘭の内がはに立ち、千代子がその右の縁に腰かけて末の子を膝にし、義雄の左りに弟の馨、二人の子供、千代子の妹(これは二人の下女で足りないから手傳ひに來てゐる)、その後部の明き〳〵に繼母と千代子の母、などが立つてゐるのが寫つた。
 家族の方は外だからまだしもよかつたが、書齋は義雄の左りの半面から上へかけて眞ツ黒になると聽いて、渠は死の色を聯想したと同時に、そこへ亡父の白髯の顏を楕圓形の輪廓で出して貰ふやうに頼んだ。と云ふのは、文界に子が多少でも名を知られて來たと云つて、父は非常に喜んだのを、義雄は今思ひ出したからである。

 寫眞は二三日してできあがつて來た。そのできあがりを見ると、書齋の如何にも暗いのが義雄の現在の心持ちをそのまま現はしてゐるやうで――渠は自分で自分の死と云ふ世界に餘り遠ざかつてゐないやうな心を返り見ながら、明け放つた部屋の外に目を放つと、庭前の梅やあんずの枝葉が如何にも繁り過ぎてゐるのに氣が附いた。
 縁へ出て、はしご段の突き當りにある戸ぶくろへ左りの手をかけ、そのそばに植わつてる山吹の上から、北の生け垣が鍵の手に反れて板壁に換はつてゐる向ふの離れへ聲をかけ、
「馨! 馨! 馨はゐないかい?」
「はい」と、一と聲進まない返事がして、弟が縁がはをまはつて來た。どこか外へ出るつもりであつたかして、慶應義塾の大學帽を被つてゐる。
「お前の座敷の横手にあるはしごを持つて來ないか――如何にも欝陶しくなつたからこんな木の枝葉を刈つて、一つ植木屋の代理をやらうぢやないか?」
「はい。」相變らず進まない聲で弟は離れの方へ行つた。
「それを刈るのアまだ早いのですよ」と、千代子は聽き付けて勝手の方から飛び出して來た。濡れた手を布巾見たやうな物で拭いてゐる。
「早くツても、何でもいい。」義雄は忽ち險突くを喰はせて、妻を瞰み付けた。
「‥‥」千代子は所天をつとの鋭い目を避けながら、「俄かに思ひ出したやうなことはしないでも――わたしが植木屋を呼んで、いい時に刈らせます、わ。」
「注意はこないだもしたが、刈らさせないぢやアないか?」
「まだ時期が來ないんです。」千代子は飽くまで拒絶すると云ふ心をいら〳〵した態度に見せて、「變な時にしろとが手を入れて、痛んでしまひでもしたらどうします――あの梅でも大事にして置きやア、來年も亦四升や五升の梅干が出來るんです。」
「刈り込みをするのですツて?」繼母もおもて向きはにこ〳〵した顏で出て來て、「義雄さんも隨分物好き、ねえ。」
「何でも刈り込めばいいのだ。」義雄は誰れに云ふともなく云つて、馨が下から持つて來たはしごを先づ自分の室の北がはに當る梅の木にかけさせた。
「刈り込むにしても」と、千代子はしつツこく、「あなたの五分刈りあたまのやうに坊主にして貰つちやア困ります。」
 馨が唐ばさみを取りに行つてる間、義雄ははしごのそばの縁がはに腰かけて、枝葉の繁りを見てゐると、梅雨の重い雨に幾度か打たれて來た青葉は、黒ずんで、少しも冴えた光りがない。
 目をつぶつて考へてゐるやうなこの枝葉の蔭で、父は毎年粒立つた木實このみを仰ぎ見たのだ。義雄は若い時もさうであつたし、近年も亦さうであつた――
 義雄が諸方を放浪してゐる間に、父は病氣になつて、――亡くなつたと云ふのは實際なくなつたのではなく、子の記憶となつて拔け出ただけであらう――か?
 最後の二十日間、朝に夕に看護してゐたのは、こちらの疲れた神經の一端に觸れたもぬけの土くれであつて――どうも、この薄ぐらい樹かげに、父は、見えないが、まだ立つてゐるらしい――
 然し、また、それが乃ち死の影かも知れない――などと考へて、渠は思はず身の毛をそうげ立てた。

 と云ふのは、義雄が多年生活に疲れ、奔走に疲れ、放浪に疲れ、生の苦しみ――それが生命であつた――を味はつて來た今、父の建てた家を讓り受けた氣持ちは、一と肩おろせただけに、いよいよ無責任なる死の方へ近づいたやうであると思へたからである。
 庭の木を刈り込むなどと云ふことは、夢にも見なかつた初めての經驗で――
「不馴れだから、あぶないですよ」と注意する千代子の言葉には耳も傾けず、枝にかかつてぐらぐらするはしごを半ば攀ぢ登つた時、渠はあたまがふら〳〵して目まひを感じた。
「元來、おれは机を家とする筆の人だ。」かう考へると、渠はこんな植木屋の眞似をするやうになつたのは、不斷の本分を忘れて隨分氣がゆるんで來た證據だ、なと思はれる。
 實に疲れた者、倦んじた者、刹那の間だけでもぐツすり一と安心して眠つて見たい――然し又死人の安住は得たくない――睡いやうでも、いつも覺めてゐる自分の神經の働らきが、地上を離れては、一層自分の目前にちらついて見える。
 渠のふら〳〵してゐるやうなのを見て繼母は微笑しながら、
「慣れないと、目が舞ふでしよう?」
「まア、させてお置きなさいよ。」千代子も笑ひながら口を出し、「散切ざんぎりなら、さぞ結構な虎刈りができるでしようよ。」
「‥‥」渠はそれには答へず、弟が唐ばさみを持つて來たのを受け取つて、先づ二三ヶ所の途方もなく突き出た青い枝を切つた。
 ふと錆びづよいかな物の臭ひがして來た。渠には新らしいやうな而も古くさいやうな感じが、黒ずんだ青葉から傳はつて、自分の使ふはさみの音に聽えた。
「ちよきん、ちよきん!」また、「ちよきん、ちよきん!」

 それが、何だか、渠自身の身を切り縮めてゐるやうな氣がした。溜らなくなつて、俄かにはしごを降りた。そして、弟に、
「馨! お前、一つやつて見ろ。」
「馨さんにできますか? 」千代子はかう云つて、木を痛められるのが心配だと云ふ風だ。
「にイさんにできるなら」と、繼母は弟の方を辯護するやうに、然し言葉は和らかに「馨にだつてできましようよ。」
「お父アんのやつてるのを見てゐたことがあるから」と、馨は恥かしい責任を背負つたかのやうに赤い顏をして、鋏みを持つたが、これも多少は面白味に手傳はれてらしく、はしごを登つた。
「うむ、やつてる、やつてる!」
「うまい手つきだよ。」
 こんなことを云つて千代子や繼母が冷かしてゐたが、少し堅い枝を切る時、渠は顎を明けて挾みの手ごたへを受け、しツかりと宙に齒をかみ合はせた。
「ああ」と、それを見た繼母は意外らしい聲を擧げて、「口つきまでがお父アんのするやうなことをしてゐるよ。」
「さうですか、ね」と、千代子は大した意味にも思はないやうであつた。
 その木の手入れが濟んで、次ぎの、隅にある梅に移つた時、義雄は弟に代つてまた挾みを取つた。妻や繼母もまたそこに近いところまでついて來た。
 かな物の臭ひと挾みの音とに父を思ひ出しながら、渠が今、縁ばなから仰ぎ見るものがある上で、例のちよきん、ちよきんをやつてゐると、堅い枝に出くわした時、自分も亦思はず顎を明けて、宙に齒をかみ合せた。
「あ、義雄さんもさうだ。」繼母がかう叫んだので、渠はまたぞツとした。
「‥‥」渠には死人がどうしてもこの木蔭を離れてゐないやうで、そのたましひが今自分に乘り移つて、自分を刈り込ませてゐると云ふ氣が起つた。
 で、その梅並びに次のあんずの刈り込みに手を出すのがおそろしいやうな氣がして、殘りの仕事を全く弟にまかしてしまつた。

 兎角、冷淡に取り扱つてゐた弟や繼母に對して、義雄は庭木の刈り込みから大分親しみを生じて來た。そこへ、清水お鳥がまた行李を持つて歸つて來たので、渠はそれとなく毎日のやうに繼母の部屋へ話しに出かけるやうになつた。
 神田へ轉宿する前にも、お鳥と義雄とはよく縁がはで出くわした。そして出くわす度毎に、二人は互ひに一間ほど離れてから返り見合つた。義雄は向ふにいやな男だと思はれたかも知れないとも考へたが、また女のこちらを見返す目附きをどうも並みではないとも思つた。餘分に突き出たひさしの下からじツとこちらを見詰めるところは底意地が惡いのを表するのか、さうでなければ、豫想通り目かけにでもなつてやらうかと云ふ意味だ。
 度々夜遲く歸つて來たことがあるのを聽いても、義雄は腹で疑へばいろ〳〵の疑ひを出してゐた。
「今度歸つて來たのは、神田の方の奧さんが燒き餅を燒き出したのださうで――どうしても若いものひとりでは、ねえ」と、繼母は義雄に語つた。「まさか、清水さんから手を出す筈もないでしようから、男が惡いのでしようよ。」
 千代子は千代子で、義雄のところへ來て、云附け口のやうにしやべつた。
「あの清水は炭屋の主人をだまさうとしたのださうですよ、自分のお友達のにイさんで、女房も子もあるものを――まア、おそろしい女ぢやア御座いませんか?」
「果してそんな考へで、上京して來たのかも知れない。」義雄はかう心に疊み込んで、仕やうのない女だとは思つたが、矢ツ張り、その部屋へとおのづから引き寄せられて行くのである。
 お鳥は口入れ屋へも頼みに行つては見たが、質屋の隱居に大切にされる口があるがと相談しかけられて、眞ツ赤に怒つて歸つて來た。
 義雄が直接に向ひ合つたその顏を見ると、圓ツこく太つて、色は雪のやうに白いが、平べつたい面積がどことなく締りなく、出過ぎたひさし髮や衣物の着つけがどうしても田舍じみてゐる。その目つきがそこに意地のありさうに見えるのも、ひさしの奧から見つめるから、たださう見えるのだと考へれば考へられないこともない。また、そのしろ目が少しそら色がかつてゐるのも義雄が見て餘りいい感じはしない。
 見るのでもなく、馨から借りた義雄の詩集を隱居の机の上に廣げて、かの女はじツと考へ込んでゐることもある。
「心配してゐるからだ」と、隱居の繼母は家のものにも語つて、一番多く同情を示めしてゐる。
 その部屋に寢ころんで、肱まくらをしながら、隱居や馨と無駄ばなしをしてゐる時義雄がさり氣なくのこ〳〵と出て行つて、敷居ぎはに突ツ立つと、
「このおやぢめが」と云はないばかりに馬鹿にして、片手を突いて半身を起しただけで、兩足は重ねて投げ出したままだ。
「どうです、仕事が見つかりましたか」と聽かれて、初めて足を引いて坐わりに直し、下に向いて、
「はア、まだ――」
「東京のやうに生活の急がしいところぢやア、女でも、餘ほど運動しなけりやア見つかりませんよ、仕事と云ふものは。」かう男らしくは云つたが、這入りかねて敷居の上で明いた障子を背中にしてしやがんだ。
「今」と、矢張り下を向いたまま、「神田の人に奔走を頼んであります。」
「それもいいでしようが――」
「そこの」と、繼母は縫ひ物の針を持つたまま右の手を通りの方へ擧げて、「駄菓子屋の娘が、自分の行つてる電話の交換局へ世話をすると言つてるさうです。」
「そんな間どろツこしいことぢやア、駄目ですよ。」
 お鳥は默つて目を擧げたが、直ぐまた下に伏せて、ゆかたの褄をいら〳〵しくいぢくつてゐるのが、義雄にはしほらしくもあつたし、またどうしたらよからうと云つてるやうにも見えた。

「義雄さんも、どこかいいところを探してあげて下さいな。」繼母はお鳥に代つて頼み出した。
「そりやア、探してもあげましようが――」渠は初めて疊の方へ這入つてあぐらをかき、「全體どうしようと云ふのだ?」
「もツと裁縫を稽古したいのです。」かの女は少し笑がほになつた。
「裁縫ツて、そりやア前にゐた時、その方の學校に行つてたさうぢやアないか?」
「まだあれだけぢやア足りないのださうです。」繼母が口を挿み、「袴や洋服などを別にまたしツかりをそはりたいので――」
「洋服なんか、洋服屋にならなけりやア入らないことだ。それよりやア、もツと何かいい事がありさうなものだ、ねえ。」
「何でもよろしいのですけれど」と、また目を擧げた時、かの女のひたへに大きなゆるい横じわが二三本出來たのに義雄は氣がついた。然しまたその皺は目が下に向くと同時に消えてしまつて、「まア、そんなことが出來ればえいと思ふてをります。」
 よく考へて見てやれば、さう疑ふべき女でもなからうと云ふ考へが義雄に起らないでもなかつた。果してその通りなら、千代子の聽いて來た炭屋の主人との話しなどは當てにも何にもならないと。
「もし下女でいいなら――下女と云つても、無論、獨身者の家だから、さう忙しいことはないが――そんなところにゐて半日でも學校へ通はせて呉れるなら、今でも直ぐないことはないと思ふのだが――」これは義雄の胸に小石川の小説家を説いて見ようと思つてゐるのである。
「それがいいでしよう」と、繼母はお鳥に勸めた。
「さア」と、かの女はちよツと返事に困つたやうだが、「それもえいかも知れません。」
「兎に角、向ふを聽いて見なけりやア、しツかりしたことは分らないが――」
「早く聽いておあげなさいよ。清水さんも、ねえ」と、繼母はお鳥の方へ和らかに念を押すやうな笑ひ方をして、「さう、いつまでも遊んで居ることは出來ないし――」
 それで話しは暫らく絶えた。
 默つてゐた馨は、床の間の位牌の前の蝋燭が燃え盡したのを見て、新らしいのに換へた。
「あかりの消えたのに氣がつかなかつたのかい?」繼母は人ごとのやうに云つて位牌の方へ目を向けた。
「消えるまでもなかつたのだが」と、馨はまた線香の火をも新らしくしながら、「あんまり短くなつたから。」
「おとうさんが」と、お鳥は下女の話を再び聽きたくないのかして、話題を他へ轉じて隱居に向ひ、「亡くなられてから、もう、何日目におなりです?」
「あ、それで思ひ出したが――」繼母は勝手に義雄に向ひ、「もう、四十九日も過ぎてゐるのだし、お位牌を向ふのお佛壇へ一緒にして貰はうと思ひますが、ねえ――」
「そりやア、もう、わたしに構はず――」
「でも、相談して見なけりやア――」
「なアに、相談なんぞア、あの婆々アに云はせると」と、千代子の聲がする方へ首を動かし、お鳥がきた日に妻が繼母に語つてゐたことを當て付け、「主人にする必要がないのです。」
「そんなことを云つたツて――」繼母はただ笑つた切りだ。
「さア、玉突きにでも行つてこようか」と立ちあがつて、義雄はしたくもない延びをしながらお鳥を見た時、またそのひたへに皺のよつた顏と出くわした。


 某新聞の文藝欄に出す原稿を頼みがてら、その新聞の社員になつてゐる小石川の小説家田島秋夢がやつて來た時、義雄は既にお鳥の話をしてあつた。
「どうせ、まごついてゐりやア、目かけか地獄になるのが落ちだらうが、本人はまだそこまでは自覺してゐないやうだ。」義雄は秋夢の樣子を窺ひななら、「うぶでないとしても、男とは普通の結婚であつたのだらうし――一つ、どうだ、高等下女を雇ふつもりなら、話が出來ないこともないだらうぜ。」
「ふむ」と秋夢はむツつりした笑ひを見せただけで、その話は途切れてしまつたが、義雄は今一度女の爲めに話して見ようかとも考へてゐたのである。
 渠が机に向つて、こないだ、梅の枝葉に關して起した感想を「庭木の刈り込み」と云ふ散文詩に引き纒めてゐるところへ、繼母が珍しくも這入つてきて、
「義雄さん。」わざとだとは思はれるが、にこ〳〵した顏をして、机の端に左りの手の指さきを二三本掛け、品やかにしやがみながら、「どこか世話をしてやつて下さいな、清水さんを――いつまでゐたツて、お金はないやうだから、長くゐればゐるだけ、ねえ、うちの損にもなるだらうと思はれて――手頼つてこられたわたしが、お千代さんになり、またお前さんになり、氣の毒な思ひをしなけりやアならないから。」
「別に口もないのか?」義雄は筆を持つたままで、むツちりした返事だ。
「えい――神田の方とかも、ただいいところがある、あると云ふだけで、そんなことを云つては向ふの男がただ女を面白半分に引き寄せてゐるばかりのやうだし――」
「それがあの女に分らないのか?」
「さあ、そこまでは――」
「女の方が却つてそんな男からなにかおびき出さうとしてゐるのぢやアないか?」
「まさか――」繼母はにツと笑つて、「そんなことアどうでもいいぢやアありませんか? うちさへ早く出て呉れりやア――」
「だから」と、義雄は頬をふくらし、繼母に突ツかかるやうな口調で、「おれが下女にでも行けと云つたのに、乘り氣にならないぢやアないか?」
「下女ぢやア、氣が進まないらしいのです、わ――でも、お前さんに強く云はれたから、その日から自分で方々の口入れ屋を尋ねてまはつたさうだが――よささうだと思つて目見えに行つて見れば、朝鮮人のうちの小間使ひであつたり――十圓にもなるからと聽いて見れば、お目かけの口であつたり――若いものはまだ迷ふばかりです、わ。」
「なま意氣に、下女と云やア飯炊きばかりだと思つて、人の云ふことを氣に止めないから仕やうがない、さ。」
「下女でも、何んでもいいから」と、繼母はここ切りだがと云ふ風に聲をひそめ、「押しつけておしまひなさいよ、わたしが今本人をここへよこしますから。」
「そりやアよこしてもいいが――」義雄は言葉に冷淡をよそほつても、心には一種の恥かしみをおぼえて、繼母がいそ〳〵と出て行つたあとで紺がすりの襟を正したり、博多の帶の結びを眞ツ直ぐに直したりした。
 そして、机の位置がこのままでは、女が遠く坐わるにきまつてゐると思ひ、成るべく奧の方へかの女を取り入れる爲め、机を床の間と相ひ對する縁がはの前で、半間の壁のそばへ据ゑ換へた。
 午前のことだが、日は既に南の方へまはつてゐて、餘り暑苦しいやうなことはない。東の縁がはから見える八幡山の樹木から漏れる光りが、隣りの庭から突き出た二三葉の芭蕉のひろ葉に當つて、その葉の青い色が明るいつやを帶びてゐる。
 義雄はそれが一番好きだ。如何に暑く乾燥した日でも、その葉だけは青々したしめり氣を帶びて、勢ひよくすら〳〵延びて行く。たとへ、雨風に破れよごれて切り取られてしまつても、直ぐまた跡へすら〳〵と延びて來るのである。
 それを見て瞑想しながら、あツちへ行つたり、こツちへ行つたりすることもある縁がはだか、今はその方の障子を締め切つて、渠は左りの壁ぎはに移した机に向つてゐる。
「入らツしやいましたよ。」繼母はお鳥の先きへ立つてやつて來て、持つて來たござの座蒲團を床の間の前に置き、「さあ、あなたもぢかによくお頼みなさいよ」と、お鳥を置いて去つてしまつた。
「さあ、お這入んなさい。」義雄はどきつく胸をこと更らに押し鎭めて、麻の座蒲團に坐わつたまま、机を脊にしてかしこまつた。
 お鳥も亦取り澄ました物々しい態度でまだ一言も云はず、下向き勝ちに、義雄の方へ明いた障子の敷居を越えたが、しやがんでその障子を人に見られまいと云ふ風で締めた。それから、目をじろりと擧げてこちらを見ると同時に、ちやんと坐つてお辭儀をした。
「まア、もツとお進みなさい。」義雄は座蒲團を取つて洋書棚近くへあげると、
「はア――」お鳥はおとなしくその方へ少し膝をにじり寄せた。
「どうです、まだいい口は見附かりませんか?」
「はア、まだ――どこぞよろしいところを、どうぞ――」
「いいところツて、僕の心當りと云ふのは、こないだもちよツとお話した下女の口ですがね。」
「そこでもよろしう御座ります。」
「いいですか」と渠が念を押すと、女はまたたやすくいいと答へたので、これは物になるわいと思つた。獨り者のところへ若い女――それを平氣で承知するやうなら、渠自身にも占領することが出來ないものでもなからうと。
 たとへ田舍じみてゐても、たとへ拙い顏でも、このふツくりと肥えた色の白い女をむざ〳〵と友人の秋夢に渡してしまうのが急に惜しくなつた。
「どうです、東京の方が紀州などよりやアいいでしよう」などと云ふ問題外の話しを暫らくやつてゐると、いつのまにか渠は自分のからだを書棚の方へ横たへてゐた。
 女は右の手を疊に突いて、少しにじり出した膝の當たりの褄を左りの手の指さきでむしり取るやうな眞似――これは此の間もしほらしいと見たことで、かの女の癖だと義雄は思つた――をして、多少締まりがないと思はれる笑ひ方をしてゐた。
「それで然し本統にいいですか?」義雄はまた本問題に歸つて、今度は疊の上から目をまぶしさうに女の方に向けた。
「へい、かうなつては、もう、氣儘も云ふてをられません。」
「獨り者だから」と、云ひにくいのを、さりげなく見せながら、「口説くかも知れませんよ。」
「そんなことは構ひません。」女はまた眞面目な顏になつたが、決心の色は顏に顯はれた。

「實は、僕も」と、義雄は、もう大丈夫だと勘定したが、口をよどませながら一層低い聲になり、「今、誰れかひとり世話して呉れるものを探してゐるのです。――僕はあの妻子は大嫌ひで、――この家にゐてもゐないでもおんなじことなのだから、――どこか別に家を持たうと思つてるのです。」
「はア」と、お鳥はなほ眞面目だが、どちらでもいいと云ふ心は、相變らず褄をむしつてゐる樣子に見えた。
「いツそのこと、どうです」と、義雄は女の顏を矢張りさりげなく見つめながら、然し口はよどみながら、「僕の――方へ――來て――下さつたら?」
「それでも結構です。」女も外に氣を置きながら、目を横に左りの締つた障子を見て低い聲だ。
「もう占めた」と、義雄は自分に云つてから、「矢ツ張り、口説くかも知れませんよ。」
「‥‥」女は無言で、また左りの障子の方を氣にした。
「ぢやア、ね、かうしましよう――」義雄が別なことを云ひかけた時、千代子の草履の音がばたばたとして來て、
「あなた、諭鶴ゆづるが行けませんから、叱つて下さい」とおめきながら、障子をばたりと明けた。お鳥のゐるのを見て俄かに荒々しい調子をやはらげて、「清水さんがゐたんですか?」
「おりやア子供のことなど知つたものか? やかましいからあツちイ行け――」義雄は横になつて左りの肱を突いてゐるまま、顏をあげただけだ。
「ぢやア、行きますとも――」千代子はかう云つてお鳥が疊から手を放して眞ツ直ぐにかしこまつたのをじろりと一瞥し、ぴたりと障子を烈しく締めると、障子はその勢ひで一二寸あともどりした。
「靜かに締めろ!」義雄は起きあがつて、そのあとを締め直し、また元の通り横になつて、「あれだから、駄目なのです。」
「ふむ」と、お鳥もかしこまつたまま鼻であざ笑つた。
「然し、僕のおツ母さんにでもしやべつたら行けませんよ。」
「こんなことが云へますものですか?」
「ぢやア、ね、かうしましよう――僕は直ぐ晝飯を濟ませて、新橋ステーションの二等待合室に行つてるから、あなたも成るべく早く入らツしやい。鎌倉へでも行つて、ゆツくりあとの相談は致しましよう。」
「では、さう致します。」
「間違つちやア困りますよ。」義雄は微笑して見せた。
「大丈夫です。」お鳥も笑ひを漏らしながら骨格のいい胸を延ばして、わざとらしい延びをしたが、義雄の燃えるやうに向けた目を見て、横を向いてそれを避けた。
 勝手の方からは千代子がまた尖つた聲で子供を叱つてゐるのが聽えて來る。
「ああ、いやだ〳〵。」妻や子のことを思ふにつけても、義雄はまだ親しみのない女に、餘りだらしない風を見せたくないので、起きあがつて坐わり直し、きのふ丸善から買つて來た外國雜誌、ロンドンのザレ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ウオヴレ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ウズを机の上から取つて、その中の挿し畫をかの女に見せたりした。
「あれは何です」、「これは何」と、二三の質問が畫に關してあつた切り、話の種が切れてしまつた。
「では、ね」と、義雄は紙入れを取り、或雜誌社から受け取つて、千代子には隱してゐる原稿料のうちから、五十錢銀貨を出し、「これは車賃に渡して置きます。」
「‥‥」お鳥は默つてそれを受取り、周圍に氣兼しながら急いでよれかかつたメリンス友禪の帶に挾んだ。そして膝に返したその手を、義雄は、
「約束のしるしに」と云つて握つたが、かの女もそれをこちらの握るがままに任せた。


 新橋の二等待合室のシートに腰を落して、義雄が讀み殘してあつた中央公論の政治論を讀んでゐると、ひよツくりお鳥がやつて來て默つてその隣りに腰をかけた。
「丁度時間がよかつたよ。」渠は當りの人にそれと感づかれない爲め、夫婦でもあるかのやうに輕くあしらふつもりだ。
「さう」と、お鳥も案外さばけて出た。
 が、それツ切り、どちらからも言葉のがなかつた。
 女の衣物は相變らず雨に笹の白縮みだが、帶だけは換はつて、牡丹色の繻子と青みがかつた綿繻珍らしいものとの腹合はせになつて、帶あげは繻絆の袖と同じとき色のメリンスだ。餘り結構な身なりではないが、義雄の餘り構はない棒じま透綾すきやの羽織りの袖口に汗じみがあるなどには、却つて釣り合ひが取れてゐると思へた。
 出發前、渠は今思ひ出したやうにして女を近所の郵便局へ遣はし、或ところへ目見えに行くから、今夜は歸らないかも知れないと云ふハガキを、女の申し譯の爲めに、我善坊へ出させた。
「もう、皆這入つてる」と云つて、女が急いで歸つて來た時は、義雄も待合室の外まで出てゐた。
 誰れか知人に會ふだらうか? 會つてもかまはない。却つておほびらに見せびらかしてやれ、などと義雄は考へながら一緒に改札口を這入つて、三等客車へ乘つた。
 實は、鎌倉より近いところで濟めば濟ませようとして、鶴見までの切符を買つた。そこへ降りて見ると思つたやうなところではない。海岸はさう近くないし、ちよツとした料理屋も見當らない。
「然し、ここに引ツ込んでゐる小學教師があるが、その父と云ふのが、麻布の谷町に家を構へてゐて間貸しをしたいと云つてるのを思ひ出したが」と、義雄はもう女が云ふ通りになると思つて、歩き乍らの話だ、「あすこを借りることにしようぢやアないか?」
「ほかにも借りてる人があるのですか?」
「なアに、まだ無いし、一ついい部屋があるから。」
「では結構でしよう。」
 氣が付くと、女は素足すあしに新らしい空氣草履をはいてゐる。そしてその青い絹天きぬてんの鼻緒にまでほこりがたかつてゐる。
「こんなに、ただ歩いてゐたツて仕やうがないから、どこか外へ行きましよう。」義雄はかう云つて、女を今度は電車に乘せ、神奈川でおろした。
 汽船や軍艦の碇泊してゐるのが遠く見えるが、矢ツ張り、いい海岸はない。義雄は女を得た餘勢でまたいつもの趣味なる海と海の音とが戀しくなつてゐたのである。
 二年前までは、いやな家族を相州の茅ヶ崎へ家を借りて放ちやり、自分は東京での瞑想や仕事に疲れ切ると、そこへ逃げて行つて、松ばやしの中の軒下や白い砂の浪元に仰向けになつて、からだを延ばすのを例にしてゐた。
 家族のゐるところだから、よかつたのではない。海の音を遠くまた近く聽くと、沖の浪が絶えず湧き立つやうに、自分の疲れた神經も亦若々しく生き返つたからである。

 義雄の第三詩集中の句、
「熱き 眞砂 の 上を 撫でて
 われは 獨り し 物を 思へば、
 遠き 深み の 浪は 打ちて
 手なる 下より 響き來たる。
 おのが 小胸も 爲めに 振ひ、
 千々の 亂れは 濱の 小砂利。」
 渠は曾て自分が作つたかう云ふ浪曼的詩ろうまんちくし[#ルビの「ろうまんちくし」はママ]の而もこまやかだと思ふ心持ちを若い女と共に回復して見たいのである。この二三年來、渠は人生の殆ど素ツ裸な現實にぶつかつてゐて、もとは何となく奧ゆかしさのあつた幻影など云ふものは全く消滅してしまつた。そんな生活をしてゐると考へると、やがて四十歳に近い新時代者の自分が哀れな樣にも思はれて、めては若い女の熱い血に觸れて、過ぎ去つた心の海の洋々たる響きを今一度取り返して見たいのである。
 お鳥はそんなことは知らう筈なく、ただ小羊のやうにおとなしく、義雄が目を鋭くして海の方へとあせつて行くのに附いて來た。
 が、人工的に切り開いた狹い長方形の入り江のやうなのがいくつもあるだけで、行つても、行つても、生きた浪ぎはへは出られさうもなかつた。と同時に、附いて來る者の迷惑さうな顏を返り見ると、渠は段々興ざめてしまつて、今まで追ツ驅けてゐたまぼろしのあと方もなくなつた。
「ぢやア、もうあと戻りをして、ステーシヨンの近所にあつた丁字屋とか、香――何――園とか云つたやうなところへ這入らうか?」
「さうしましよう。」
 然し、さういふ家々の門前へ立つて見ると、どうも樣子が分らないのであがる氣にならない。お負けにぐづ〳〵してゐるうちに、義雄に禮をしてとほつた青年があるので、渠が暫らく考へて見ると自分の教へる商業學校の生徒であつた。
「こんなところへ止まるくらゐなら、いツそ鎌倉まで行かう、さ。」
「そして繪ハガキでも買ひましよう。」
「もとの御亭にでも出すのか?」突然かう云はれて、お鳥は、
「そんなことはしない」と、微笑して横を向いた。が、別に赤い顏もしなかつた。
「なぜ別れたの?」
「見込みがありませんもの。」
「そりやア可哀さうぢやアないか、一旦一緒になつて置いて?」
「でも、兄が無理に別れさせましたものですから。」
「兄さんと云ふのは何をしてゐるの?」
「醫者です。」
「あ、それか、あなたが前に一緒にうちへ來てゐたのア?」
「‥‥」
「あなたも隨分あばれ者であつたツて、ね?」
「‥‥」女はただこちらを向いて笑つた。
「男とくツ付きやアしなかつたかい?」わざと子供を取り扱ふやうに見せて女の顏色を窺ふと、
「そんなこと――」といつただけで、横を向いてしまつた。これは誰れも人影の見えない神奈川ステーシヨンの待合で汽車を待つてゐた間の話だが、そこから鎌倉へ着した時はゆふ方であつた。
 急いで八幡宮を見せたついでに、義雄はその近處に借家してゐると知つた友人の家をちよツと訪ねて見ようとしたが、分らなかつた。
 車を二臺雇つて大佛前の三橋へ走らせ、そこの式臺をあがる時、渠は女の草履のおもてが足の油とほこりとで眞ツ黒になつたのを見た。
「ひどくなつたものだ、ねえ」と、渠はお鳥を返り見たが、宿のものに導かれるままに、おもて二階へ案内された。
「くたぶれた、わ」と坐わつた切り、かの女は再び笑ひもせず義雄から話しかけられなければまた口も開らかない。
 宿の女が茶を運んだり、菓子を持つて來たりするたんびに、じろ〳〵とお鳥を見るのを、かの女は憎々しさうに見ては顏をそむけた。
 門内の庭の樹木がよく見えて、いい靜かな部屋である。

 日ぐらしがじい〳〵と木にしみ付くやうに鳴いてゐるのも、却つて凉しく感じられる時刻だ。庭の噴水のさきが百尺竿頭一歩を進めたと云ふ悟りのやうに、白く泡立つてまたもとへ返るのを見ても、義雄は早く汗と垢とを洗ひ落して、ゆツくりと、二人が間に何物をも置かずうち解けて見たい氣が切に迫つて來た。
「湯に這入らうか?」渠がかう云つて、わななく胸を押し鎭めながら、さきに立つて部屋を出ると、お鳥は無言で、而も眞面目腐つた顏をして素直に從つて來た。
 義雄は自分の目が湯のけむりに曇つたので氣が付くと、いつもになく、鐵ぶちの近眼鏡をかけたままであつた。
「こりやア行かん」と、渠は目がねをはづしながらあともどりする時、女が入り口の戸を這入つて來たのに出會つた。
「ふ、ふん」と、かの女は眞顏のまま吹き出した。それが渠にはまた
「このおやぢめ」と冷笑されたやうに思はれた。
 湯をあがつて來ると、もう日が暮れてゐて、ふすま一と重の隣室には五六の客が集まつて酒をやつてゐる聲がする。
「あれぢやア、面白くない、ね」
「はア――」
「別な部屋にして貰はうか?」
「どちらでも。」
 女が親しみのない樣子をしてうちはを使つてゐるに加へて、渠自身も宿に向つて部屋を換へて呉れろと云ひ出すのが何んだか自分の腹を探られるやうに思はれたので、どうしようかと考へるばかりで、二人の間に暫らく言葉がなかつた。
 隣りへは早や藝者も二三名這入つた。そして、その浮ついた言葉やお客の急にはしやぎ出した調子をこちらから靜かに聽いてゐると、二人とも、今、大きな樫の木か何かの食卓に向つた間よりも、一層の隔絶を生じて來たのである。お鳥には自分も亦賤業婦風情のやつて來るこんなところへ來たのかと云ふ反省心が起つたやうだし、こちらも亦宿のものから處女をここへ誘拐して來たと思はれはしないかと云ふ疑念が先きに立つた。自分としてはかの女を、もう處女とも普通の淑女とも思つてゐはしなかつたが――。
 やがて女中がやつて來て、手の指さきを持つて隣をさし、
「お氣の毒ですが、直き歸られますので――ほんの、この土地の人の寄り合で、前からお約束があつたものですから――」
「なアに、構やアしません」と、義雄は笑ひながら、實はおほ眞面目な顏を見せて、ビールを注文したが、お鳥と共に隣りの賑ひの方へどうしても氣が取られてゐる。
「腹は減つたし、もう暗いし、大佛はあすの朝見ることにしましよう――」
「‥‥」女は目をあげてちよツとこちらを見ただけだ。
「あすは、また圓覺寺を見がてら、その寺内の庵を借りてゐる友人を尋ねて見ましよう。」
「‥‥」
「それから、ね、あなたが谷町へ引き移るとしても、うちのものに知れては困るのだから、表面は――僕の友人で琴の師匠をしてゐるものがある――そこのをんな學僕になつて行くとして置きましよう――どうせ、あなたも琴は習つて置いてもよからうから――」
「はア――」お鳥は琴も習へるのかと嬉しいやうな口附きをして見せたが、直ぐまた眞顏になつて下を向いた。

「あの」と、かの女はじろりとした目を義雄に向け、「いつかの女の人はどうなりました?」
「あれですか?」渠もあの女優志願者であつた女を思ひ出した。琴の師匠から聯想して、この女があの女のことを云ふのは、きツと繼母からしやべられてゐたに相違ない。それにしても、自分が殆ど全く忘れてゐたものに對し、お鳥はもう競爭氣を起したのかと思ふと意外に吹き出したくもあつたし、また、若い女のあはれなこゝろ根も思ひやられた。と同時に、あの方は如何にも美人で、これとは丸でしろ物が違つてゐたと云ふ惜しみ氣も出た。が、何氣なく微笑しながら、「あれは何も心配するにやア及びません。氣の變り易い奴で、もう世話もしてゐませんし、また、」と、急に早口になつて、
「僕が關係したわけぢやアないですよ。」
「‥‥」お鳥は顏に冷かすやうな笑ひを浮べた。
 かの女は酒やビールは嫌ひだといつて義雄のさしたコツプを一度も受け取らなかつたが、堅苦しく顫へる手附きでこちらの爲めにお酌はした。
「いつまでもやかましくツて、困る、ね」と、こちらが云ふと、
「‥‥」女はただその顏を隣りの方へ向けた。電燈の光りに、突き出た髮のひさしが大きく義雄の向つてゐるふすまの裾の方は寫つた。
「隨分つン出たひさしだ、ね。」
「でも、あんな」と、女は顏を向け直したが、遠く義雄の妻に矢を放つて、「引ツ詰つたのもをかしい。」
「それも、實際、さうだが――」あとは言葉に出さなかつたが、田舍ものの癖にいい氣でハイカつてゐるのもをかしいよと、義雄は云つてやりたかつた。
 渠は一方に詰らないものを脊負しよひ込んだやうな氣もするが、どうせ妻子と別居するとすれば、他の下宿屋生活もいやだし、また、一方には、まだよく分らないこの女の素性を究めて見たくもあつた。
 さり氣なくいろんな喜ばせを話しの途絶えかかつた時にさし挾みながら、二本のビールを飮み終つた時、渠は女と共にゆふ食に移り、それが濟んで間もなく、一つ蚊帳に這入つた。
「もう占めたものだ」と考へたから、渠はビールに興奮したあたまを枕に休め、向ふが口を開かないなら、こちらも默つてゐて見ようと云ふやうな意地を出し、暫らくただうちはを使つてゐた。
        ×        ×        ×        ×
 この夜、お鳥が自分から進んで口を開いたのは、女優志願者のことを念押した外には、たツた斯う云ふ言葉だけだ、
「本統に學校へやつて呉れる? ――本統? ――うそぢやアないの?」
「ああ」「ああ」と、義雄はただ眞面目腐つた微笑をして、それの返事をした。


「うぶだ、思つたよりもうぶだ。」かう義雄はお鳥のことを思ひ込んだが、また考へ直して見ると、どうも不審な點もあつた。
 新橋の停車場へ來た時も案外平氣であつた。道寄りをしながら鎌倉の宿へ着いたまでの間にも、殆ど恥しさうな樣子は見せなかつた。大佛を見てから、圓覺寺の友人を尋ねたあとでも、平氣でその友人の顏つきや癖を批評してゐた。
「あの人の目はきよろ〳〵してをつて、をかしいやうだ」とか、「河童かつぱのやうに、何であんなに髮の毛を延ばしてをるんだろ」とか云つたことは、かの女としてはまことに尤もであつた。その人はこちらと同樣、世界の新思潮に觸れた神經過敏の詩人で而も昔のミルトンやバイロンを忍びつつ、アメリカ歸りのハイカつた趣味を圓覺寺の森の中に發見するといふやうな變つた生活をしてゐるのだが、そんな消息の全く分らない女には、かかるうはツつらばかりの觀察が却つて無邪氣で適當な云ひ分だ。けれどもかの女が何事に當つても平氣なのは、どうしても、たツた一人の男を二三年守つてゐたばかりのものの態度とは受け取れない節もある。
 藝者や濱町あたりの女を連れて遠出とほでをしても、それが年の若いのであると、義雄ぐらゐの年輩者には隨分恥かしがつたものもある。義雄はそれが可愛かつた。お鳥もそれらと同じ若さでゐながら、さういふ可愛味を見せないのがこちらの疑問なのである。
 どうせ、人のをつとでも構はず、かの女が暫時胡魔化してゐればいいと云ふ覺悟を持つてゐるなら――そして神田の同郷人や炭屋の主人を胡魔化し損ねたのが事實であつたとすれば――賤業婦の心も同前で、こちらもさう正直にかの女を待遇する必要はないといふ迷ひが生じて來る。
「もう二三回おもちやにした後は、うちの下宿料をふいにしてやつて、追ツ拂つてしまはうか?」かうも渠は考へた。
 が、探してゐたものが飛びこんで來たやうに、うまくわがふところに這入つた若い女を、渠はさう容易たやすく棄てたくもない。まして鎌倉の夜の、他に人がゐなくなつた二階で、
「本統に學校へやつて呉れる」と念を押した時のことを思ひ出すと、その優しい徴笑をいつまでも續けてゐさせたいのである。
 渠はかの女を信じて見たり、疑つて見たりしながらも、豫定通りの手續きを踏むことにして、先づ琴の師匠といふ小泉笛村を訪回し、女優志願者の件で迷惑を掛けさせられた詫び料として、渠に自分の今回の事情をすツかり承知させた。
 義雄自身の家へは、すべてお鳥から事情を僞つて語らせた。ゆうべ目見えに行つたところは、目かけ口だからやめにしたが、義雄の世話で笛村の學僕になつて行くと。
「ぢやア、裁縫が琴に變つたんです、ね」と千代子は云つたさうだ。その言葉付きからして、聽く度毎に憎々しくまた毒々しく思はれて、お鳥はいつもなら自分の目をあげて、睨むやうにするのだが、けふは、かの女もさうは出來ない弱みを感じて、
「はア」と、ただ下を向いたとのこと。
 宿ぐるまではあとで分るから行けないと云ふ義雄の注意をおぼえてゐて、お鳥は通りがかりの車に自分と行李とを乘せて、麹町の永田町へと云つて我善坊を出たが、途中から方向を轉じさせて、義雄が先きへ行つて待つてゐる麻布の谷町へ來た。

 通りに面した方が格子窓かうしまどになつてゐる二階の六疊を借りて、お鳥はそこに落ち付くことになつたのである。
「蛇の穴を脱けて來たやうに氣がせいせいした、わ。」かう云つて、まだころがしたままの行李にもたれ、かの女は義雄と相ひ對して坐わつた。
「僕もうちにゐるのは大嫌ひなのだから、これから、晩はここに止まることにするよ」と、こちらも亦氣が輕くなつた。
 お鳥は渠のこの言葉を先づ不審がつた。別居すると云つたのだから、あの澤山の書物を持つてちやんと引ツ越すのかと樂んだのに、晩だけ來るとはどうしたつもりだと。
 義雄はまたかの女に手輕く答へて、やがてはさうするが、向ふへ用事の手紙が來るし、突然諸方から執筆の依頼者もあるから、今のところ、毎日一度は行つてゐなければならないと云つて聽かせた。
 その實、渠はまだ性質もよく分らない女と直ぐ家を構へるのも、物入りが多くなる上に不安心だし、よしんば、また家を持つても、神經の高ぶつてゐる千代子を納得させるまでは、いつ怒鳴り込んで來るか分らないと云ふ心配があつた。この心配のことも、渠はお鳥の氣をなだめる爲めに聽かせてやつた。
「ぢやア、あたい、詰らん。」かの女はすねて見せたが、義雄に促がされて、晩がたから一緒に煮燃にたきの道具を買ひにや、貸し蒲團を頼みに外へ出た。
 夕飯の代りに蕎麥屋へ行つていろんな物を喰つて歸つて來たが、義雄は酒臭い息を吹きながら紙入れをほうり出して、
「もう、金はそこにあるだけだ――それで今月中をまかなつて呉れないと困るよ。」
「いくらあるの」と云ひながら、お鳥は電燈の下に坐わつて中の物を讀んで見た。それからこちらを見て、たよりなげに、「十圓までないぢやないか?」
「そりやアさうだらう、さ――鎌倉行きで十五六圓も使つたから。」
「惜しいことをしたの、ね。」かの女は小首をかしげて、笑ひながら、「あれで衣物でも買ふたらよかつた。」
「また買つてやる、さ。」
「本統?」
「さう、さ。」
「でも」と、無邪氣な調子を改めて、「うちへも出すのだろし、あたいも學校へやつてもろたり、間代や米代も出してもろたり、そんなに出けるわけがないぢやないか?」
「そんな心配はするなよ。」卷煙草の煙りをかの女の顏へ吹きつけて、「おれはこれから一層奮發して何でも書く、さ。」
「書きさへすれば賣れるの?」
「さう、さ――それでも、お前」と云ひかけて、云ひ直し、「あなたを初めに紹介しようと思つた秋夢君のやうな賣れツ子ではないが――」
「ぢやア、あたい損したの?」
「損と云やア損だらう、さ。」
「換へてもらをか」と、お鳥も調子に乘つて來たので、こちらも微笑しながら、
「然し、もう、僕の物ぢやアないか?」
「ふ、ふん」と、かの女は顎をしやくつて目を細くし、わざとらしく横を向いた。
「どうして別れたのよ、云つて御覽。」
 この夜、義雄はかう云ふ風にお鳥をすかして、どんな動機で小學教員と一緒になり、どんな理由で別れたのかを聽かうとした。が、鎌倉の途中でちよツと二三言、口をすべらしたと同じことばかりを繰り返して、詳しいことは決して語らなかつた。
「死んでもそんなことは云ひたくない。」かう云つて、かの女はしまひには不興な顏をした。
 何か特別なわけがあるに違ひないと考へると、ます〳〵そればかりが聽きたいので、翌日も午砲が鳴るまで一緒に寢てゐた上に、女をあまえるままにまかせて、午後の時間を二人で寢ころんで無駄ばなしで送つて、とう〳〵家へは歸らなかつた。


「今、君の細君が來て歸つたところぢや。」かう云つて、笛村樂塾の主人に出迎へられ、義雄がお鳥を紹介しにその座敷にとほつたのは、もと大藏大臣某の屋敷の繁つた樹木から蝉の聲が涼しく聽える時刻であつた。
 樂塾は三平坂の中腹に入口が附いてゐる。その坂から、山王の鳥居の方へかけて、可なり一直線に見通せるので、坂うへの學習院女子部も夏期休業である時節とて、人通りも少く、男が若い女を連れてとほるのが特に目に立ちはしなかつたかと義雄に思はれた。
「‥‥」義雄の先づぎツくりしたのは、それで――自分達の連れ立つて來たのを千代子はどこかの蔭から見てゐて、直ぐ跡をつけて來はしないかと云ふ心配が自分の胸をどきつかせた。が、よく聽き糺して見ると、笛村が、
「今――歸つた」と云つたのは、實際は二時間も前、まだ日の暑いさいちうであつたのである。
「それぢやア、安心だが」と、義雄はそれとなく笛村のいつも事實を誇帳する癖があるのをなじる調子であつたが、直ぐまた自分のことに歸り、「あいつも隨分執念深い奴だから、ね――」
「さうらしい、なア。」笛村は太つたからだの胸をあらはに突き出してあぐらをかきながら、「まア、君に頼まれた通り云ふて置いたが――」
「それでいい、さ。」
「けれど、僕も困つたよ。」
「そりやア、然し」と、義雄は笛村にさうは云はせないつもりで、「女優問題で僕に迷惑をかけたのよりやア、まだましだらう。」
「ひやア、そいつを云はれたら!」あたまへ太いぶきツちよな手をあげた。それから、「けれど、なア」と、からだを一ゆすりして、左の手を右の膝にのせ、義雄の顏からお鳥の顏に目を移しながら、「見付けたら殺すと云ふてをつたぞ――もう感づいてをるやうぢや。」
「ふん、何もわたしが」と、お鳥は笛村から義雄の方に目を轉じ、「あんな者に殺されるおぼえはない。」
「そりやア、惡かつたら、ただおれのせいだらうが」と、義雄はまた目をお鳥から笛村の方に向け、「まア、當分は僕の云つた通りにして置いて呉れ給へ。僕もどこかに鬱忿を漏らすところがなければ困るから、ねえ――」
「さうだ、君もお父さんが亡くなつてから、大分人並みになつてゐたから、なア。」
「まだ丸二ヶ月にもならんのに」と、お鳥ははたから口を出した。
「もう、大分奧さんらしいです、なア」と、笛村にからかはれて、
「ふ、ふん」と、かの女は鼻で笑つて、それでも恥かしさうに横を向いた。
「琴をおやりなさい。琴を。」
「へい――」
「そりやア、もう、そのつもりで來てゐるのだから、あすからちやんと教へてやつて呉れ給へ。これは裁縫、裁縫と云つてるが、そんなことは田舍にゐての思ひ付きで、もし琴で一本立ちになれるなら、それでもいいぢやアないかと、僕も話してゐるのだ。」
「そりや、やれんことはない。」
「然し、これの天分があるか、ないか、調べて見なけりやア分らないから、そこは手ほどきを君にまかせたいのだ。」
「君の説に據れば、藝術には天分は入らん、努力ばかりぢやないか?」
「然しそこまで眞面目にはなれる女か、どうだか」と、義雄はお鳥と顏を見合せたが、さうかの女を重んじてはゐないといふ目附きを笛村に放ち、「僕はまだ分らないのだ。」


 琴の爪を買つて貰つて、お鳥は毎日稽古に出かけるやうになつた。義雄も日に一度は自宅に歸つて、來状や訪問者の樣子を見るが、千代子と出くわしても、一言の口も聽かない。向ふも亦ただじツと寂しく睨むやうな目を向けるばかりで、義雄が心配してゐたやうに突ツかかつて來る樣子もない。が、それが何だか思ふまいとしても、かの「かさね」の恨み死ぬ顏までを思ひ出させる。
「まア、出來るだけそツとして置け。」かう渠は考へながら、こそ〳〵と家に歸り、こそ〳〵と家を出るのである。
 然し笛村がしやべりまはつてゐるので、義雄の友人間では、もう、その噂さがぱツと廣まつてしまつた。
「お鳥さんはどうです」と、義雄は至るところで聽かれないことはない。
「ふん、ほんの一時のなぐさみ、さ。」渠も輕くは答へるが、兎に角、くろうとではないと信ずる若い女を左右してゐるのが、自慢の種でないこともない。
「田村君は急に若返つたぞ」と注意したものもある。
 村松と一緒に久し振りで赤坂亭へ行つて玉を突いた時、おごるから呼べと云はれ、義雄はボーイに手紙を持たせてやつてお鳥を呼び寄せたこともある。義雄の好きな女中は敵意を挾んでじろじろかの女を見たし、ボーイやその家の家族はまたかの女の田舍じみたハイカラ風を冷評した。が、お鳥は二階の食堂に於いても、下の玉場に於いても、なか〳〵澄ましたものであつた。
「あんな大でこ〳〵のハイカラ女などよせよ」と村松に蔭で注意された時も、義雄は心で、どんな美人でも、おのれの物にならないうちは、人と云ふものは冷笑するものだからと思つた。
 最初に谷町へ尋ねて來たのは秋夢で――自分に周旋しようかとまで義雄が云つたのはどんな女だらうと云ふ好奇心からであらう。お鳥もそれと推察したばかりでなく、その人物が小柄過ぎるほどで、而も身なりがちよツと見ては餘りよくないのを見て、勝ち誇つたやうな、また馬鹿にしたやうな態度を取つた。
 主客が電氣のもとで、涼しい夜かぜを浴びながら、寢ころんでうち解けた話しをしてゐると、かの女も投げ出した足を時々ばた〳〵させて、聽いてゐた。
「友人には、誰れが來ても、餘り失敬なことをして呉れるなよ。」義雄は秋夢が歸つた跡でお鳥をたしなめると、かの女は顏をふくらして、だらりと横になり、
「あんな奴に何で遠慮してやるものか? 人の顏をじろ〳〵見て、さ。」
「そりやア、初めてのことだから、さ。」
「初めてだツていけ好かない!」
「然し」と、義雄は坐つたままお鳥の腹をゑぐつて見るつもりで、「お前はそれでも行くつもりであつたぢやアないか?」
「そりや別な目的があつたから、さ。」かの女は案外感じの薄い笑ひを見せて、「學校へさへやつて呉れるなら、何もあいつやお前に限つたわけではない。」
「ぢやア、さうして置いて、さ」と、義雄もかの女を離れた方へからだを横たへ、肱まくらをして、向ふの顏を冷やかに見つめながら、「まだしもおれの方がよかつたのか?」わざと笑ふまいとしたのだが、渠はつい微笑を漏らしてしまつた。
「知らん、知らん!」お鳥も笑ひながらちよツとこちらの視線を避けたが、直ぐまたこちらを見て、「そんなおぢイさんなどいやなこツた――まだしも、あいつの方が氣が利いてる。」

「約束通り裁縫學校へやつて貰ふ――やつて貰ふ。」かう云つて、お鳥は琴の稽古に行くのを好まない。若しまた琴の稽古を續けるなら、いツそのこと、もツといい師匠に就けて呉れるやうにとせがんだ。
 もツといい師匠と云つても、そんな人に就けるだけのうちがあるか、どうだかまだ分らない上に、友人の笛村をさし置いての仕うちは餘り面白くないと義雄に考へられた。
「お前が全く琴に縁がないとしてしまつても」と、渠はかの女を慰めがてら、「どの學校でも、今は休暇中だらう。」
「夏期講習會が裁縫に關してもないことはない――やつて呉れ! やつて呉れ。」かの女は顏をしかめて、ひたへの上の方から横じわを二三すぢ現はし、からだを義雄に摺りつけて、なか〳〵承知しない。
 渠には、然し、どうせお鳥に金を掛けるなら、裁縫のやうな下らない物ではかく、渠自身の好きな藝術の道の一端にたづさはらせて置きたいと云ふ慾目もないではなかつた。
「そんな下らない學校よりも、習ふものはまだ外にあるだらうよ」と、渠はかの女をなだめつつ考へたことだが、何を習はせるにしても、先きに立つ物は金だ。琴を買ふとか、書物を用意するとか――身なりにしても、その儘では可哀さうだ――
 ふと思ひ付いて、渠は温泉へでも出かけたくなつた。と云ふのは、渠がいつも金に窮すると、旅行さきに於いて一かばちかの原稿を書き、それをあつかましいと思はれるほど無理強ひに友人のゐる雜誌社などへ賣り付けるのが常のやうになつてゐて、その友人等はこの手を
「田村がまた脊水の陣を張つた」と言つて、渠のどんな原稿が誰れのところへ舞ひ込んで來るかと、ひや〳〵して待ち受けるのである。
 渠はその手が餘り歡迎されないのは知らないのではないが、今回も、そんなことをして見なければ、どうも不斷通り一生懸命に執筆する氣になれないやうに感じて來た。それに、家の方を段段おろそかにするので、千代子が渠の隱れ場所を探り出して、いつそ、その無言の恨みを破裂させに來るかも分らないと思ふと、暫らく遠方へ氣を拔いてゐる方がいいと云ふこともあつた。
 まだそればかりではない――渠は昨年の暮から今年の始めにかけて關西へ旅行した時、リーデルゴノサンを服用する必要のある病氣を受けて來た。その後、熱海へ行つたり、伊香保へ行つたりして、殆んど全く氣にしないほどになつたが、まだ全快したとは信じてゐないので、村松の勸めに從ひ、その故郷に近い鹽山へ一度入浴しに行きたいとばかり思つてゐたのてある。
 で、渠はお鳥の機嫌がいい時を見計らひ、
「どうだ、まだ暑いのはなか〳〵續くのだから、温泉へでも行つてみようか?」
「それも洒落てる、わ、ねえ。」かの女はにこ〳〵して義雄の顏を見た。が、また少し考へ込んで、「でも、金があるの」
「渡してあるのがあるぢやアないか?」
「これを使つこたら」と、またひたへに皺を出して、「あたいの食べるお米が買へないだろ?」
「そんな心配にやア及ばないよ」と、ほほゑみながら、しツかりした決心を見せて、「向ふへ行つてから仕事をどツさりしてやらア、ね。」
「では、行く! 行く!」と叫んで、お鳥は飛び立つやうに喜んだ。


 もう、暮れて行く甲州の山々――冨士のいただきが先づ隱れる。その手前の一列が隱れる。そのまた手前の列が隱れる。
 かう云ふ横に重なつた數列の連山がみんな見えなくなつて、目前は田とつづく眞ツ黒な森も無いほど、灰色の雨靄がかかつてしまつた。
 鹽山といふ山は家の後ろで無論見える筈がないが、左りは笹子峠の山脈も薄らいで、宿の裏庭に近い笹藪ばかりが黒い。
 右の後ろ手からは甲府の方へ走る山がぼうツとあたまが見えないおほ牛の脊のやうに横たはつて、その脊の骨ぐみだけは薄くしめツぽい輪廓が附いてゐる。
 今しがたまで見えた廣い野――青い田――遠い正面の山ふところから掛けて、その麓まで昨年の水害の跡――赤禿げの山腹――白びかりの砂地――今年のまたの出水――それをまだ湛へてゐて、朝日やゆふ日がきらめき映るのが、遠い地上の銀河のやうなおほ水の溜り――
 かう云ふものが目界めかいから消えて、欄干に寄つて涼しい風を呼ぶ人の心にすべて引ツ込んでしまつた頃、義雄は明け放つた部屋の釣りランプのもとで、お鳥と一緒に晩餐を初めてゐた。
 海老屋と云ふ温泉の裏二階で、甲州の一名物たるひどい濕つた風に時々ランプの光を取られかけるのである。
 今晩は珍らしく日本酒が一本膳にのぼつた。義雄は東京から佛欄西の最も強い酒なるアブサントを仕込んで來て、そればかりをちびり〳〵やつてゐたのだが、ゆうべはどうした拍子か興に乘り、非常に飮み過ごした。その苦しまぎれにあばれ出し、お鳥だけでは手に餘つたので、宿の主人やおかみさんまで手つだつて、みなから押し込められるやうにして無理に蚊帳の中へ入れられてしまつた。
「あすから病氣にでもなつて、書けなんだらどうする――やど賃も拂へやせんぢやないか?」かう言つて、お鳥は不慣れな温泉場に於ける旅の身ぞらを心配した。が、夜が明けると、義雄はけろりとして、ここへ來てからの定め通り午前六時には起きた。
 それから、沸かした温泉へ這入り、また温泉の源水なる少しどろ〳〵して玉子の香ひがするひやの鑛泉をここへ來た目的の藥として飮み、室に歸つて朝飯を濟ませると、いつものやうに直ぐ机に向つた。
 渠は原稿を書き出すと、そばにゐてルビを打つて呉れるお鳥のことも殆んど忘れたやうになつてしまう。女中が跡へ跡へと汲んで來る冷泉を思ひ出したやうに茶の代りに喫しながら、晩飯頃まで筆を續けた。
「けふは思つたより書けた、わ、ね」と、お鳥はにこ〳〵して出來た原稿の枚數を數へながら、一杯の慰勞がないのも氣の毒だと云つて、強いアブサントを隱した代りに正宗一本だけを注文したのである。

「けふはお前にも飮ませるぞ。」
「あたい、そんなからい物などいやだ。」
「からい物か――一度期いちどきにぐいと飮めばいいのだ。」
「でも、醉ふたらどうする?」
「ふむ、どをする!」義雄はお鳥のかみがた口調を眞似て見て、成るほどかう佛蘭西風に發音すれば、同じ言葉でも東京の男子が英語風に用ゐる力點、乃ち、アクセントは變はつて、如何にも女らしい用語になるわいと合點した。同時に、かの女の眞似る東京振りはすべてそのアクセントがかみがた的なのを冷かすつもりで、「醉うたら面白いぢやないか」と、優しい調子につれてわざと優しく首を振つた。かの女がいやな顏をしたのを見て、直ぐ元の聲になり、「ゆうべはおれが看護して貰つたから、今度はおれが看護してやる、さ。」
「いやアなこツた!」
 こんな話でもするのが、一日のうち義雄が氣を休める時間である。晩餐が濟むと、また筆を執つて夜中の十二時まで、時によると、二時か三時までも續けなければ氣が濟まない。
 渠には、お鳥が何んで酒をさう嫌ふのか分らない。第一、その臭ひをかぐのさへいやだと云ふ。見かけによらず、神經の強い女だと云ふことは、コツプに注いだ冷泉の臭ひがぷんと鼻へ來たので、それから決してそれを口にしようとしないのででも分つた。酒とは違つて、この鑛泉の水が果して人の信ずるやうな効能があるものなら、渠はかの女にも豫防的用意の爲めに飮ませて置きたいのだが、いくら勸めても飮まうとしない。
 然し酒の方は、ただ嫌ひだといふばかりでなく、何かそれでかの女が懲りたことがあるのではないかといふ疑ひが、義雄の胸にはわだかまつてゐた。
「お前、前の人と一緒になつたのにやア」と、義雄は猪口を自分の口へ持つて行きながら、お鳥の顏を見て、「餘り好かない男であつたが、酒か何か飮ませられたあげく、無理強ひに納得させられたのぢやアないか?」
「そんな阿房らしいことはない。」お鳥は下らないことをと云ふやうな顏をして、自分の膳の前にちんとかしこまつてゐる。
「阿房らしいと云やア阿房らしいが、そんな場合がないとも限らない。男が惡いことをしようと思やア、女をおだてて酒に醉ツ拂はせるほどのことは何でもない、さ。」
「自分ぢやアあるまいし」と、かの女は義雄をうるささうに見詰めた。自分とはかの女がこちらをさして云ふので、お前とも呼びつけに出來ず、さうかと云つて、またあなたとは氣が引けていひにくいところから、さういひなして來たのだらう。「世の中にはそんな人ばかりゐやせん。」
「ぢやア、お前の亭主はよかつたか?」
「さう、さ。」わざと取り澄まして再びそのことでくど〳〵根問ひされるのを避けるらしかつた。
「ふ、ふん!」義雄も鼻であしらつた切り、そのことには觸れずに、「だが、ね、お前男が二人ゐれば、女を醉はせないでも、力づくで自由にしようと思やア、わけはないよ――ひとりとひとりでは六ヶしいかも知れないが。」
「あたいは、さうは行かん、さ。」得意さうに微笑しながら、「柔術を知つてるから。」
「へい――どこで習つた?」
「お父さんと北海道に行つてた時、さ。――小學校の往き戻りに徒らする男の子があつたから、つかまへて一間ほどほうり投げてやつたら、あたまから雪の中へ突きささつて、をかしかつた。」
「えらい、ねえ――それに、免じても一杯お飮みよ」と、義雄は猪口をさす。
「いやア!」かの女は顏をしがめ、兩手を後ろに隱して、からだを振つた。その時女中が給仕にやつて來たので、渠は調子に乘つて、なほ笑ひながら、
「お飮みといふに」と、立ちあがつて、猪口を持つて行つた。
「いやア、いやア」と、目をつぶつて、鼻にまで皺を集め、からだを一層振つてゐるところを、渠は女の首に左りの手をかけて、無理にその口へ酒を注ぎ込まうとした。
 お鳥は怒つて、その酒をぷツと霧のやうに吹き散らした。

「僕は一夏を國府津の海岸に送ることになつた。友人の紹介で、或寺の一室を借りるつもりであつたが、たづねて行つて見ると、いろ〳〵取り込みのことがあつて、この夏は客の世話が出來ないと云ふので、またその住持の紹介を得て、しろうとの家に置いて貰ふことになつた。少し込み入つた脚本を書きたいので、やかましい宿屋などを避けたのである。隣りが料理屋で藝者も一人抱へてあるので、時々客があがつてゐる時は、隨分さう〴〵しかつた。然し僕は三味線の浮き浮きした音色を嫌ひではないから、却つて面白いところだと氣に入つたのだ。」
 かう云ふ書き出しで、義雄は一二年前國府津で避暑してゐた家の隣りの藝者吉彌と關係した實歴を、自叙傳的な小説にしてゐるのである。
 日に十枚進む時もあれば、二十枚の時もある。さうかと思へば、いくらあせつてもたツた三四枚しか出來ないこともある。然し渠自身のやつたことを充分に靜觀してゐるつもりだから、思ひ切つてあつた通りを書いて行く。あつた通りと云つても、心内の現象を外形的に出た物にしたり、外形に出た感情を内心でばかり取り扱つたりする遣りくりは無論澤山あるのである。お鳥はそれを待ち遠しさうにして、そばに控へてゐて、出來る原稿を片ツ端から讀んでしまう。
 そして、渠が吉彌に女優になつて呉れろと頼んだり、吉彌の母を東京から呼び寄せて、私かにあと始末の相談をしたり、あやふやな女よりも矢張り女房の方がいいと思ひ出したりするところを、かの女は現在の自分に利害關係があるかのやうに考へた。
 そしてまた、あんなことをいつたの、こんなことを爲たのと一々念を押す時の目附きには、好奇心以外の或物も加はつてゐた。
「どうだ、うまいだらう」と、義雄が突き出した紙面に、吉彌が、娘を鈍い腕だとたしなめた母の前で、「あたいだツて、たましひはあらア、ね」と反抗しながら、主人公の膝へ來てその上に手まくらをして、「あたいの一番好きな人」と、渠の顏を仰向けに見あげるところがあるので、「ふん」と、お鳥は鼻であしらつて、それを受け取らなかつた。
 そして、また、
「僕は十四五年前に、現在の妻を貰つたのだ。僕よりも少し年上としうへだけに不斷はしツかりしたところのある女だが、結婚の席へ出た時の妻を思へば、一二杯の祝盃に顏が赤くなつて、その場にゐたたまらなくなつた程の可愛らしい花嫁であつた。僕は今、目の前にその昔の妻のおもかげを見てゐた」と記されたのを見た時は、お鳥は自分に對しても男がこんな反逆心むほんしんを出すことがあるにきまつてゐると考へ及んだのであらうか、
「‥‥」物も云はず、顏色を變へて沈み込んでしまつた。
 然し、また、
寛恕かにして頂戴よ」と云つて、身を投げて來た吉彌を主人公が突き拂つて席を立ち、さん〴〵に愛相づかしを云ふところに至つて、お鳥は、
「氣味がえい、氣味がえい」と小踊りした。ところが、また、直ぐその跡へ、
「怒りはしたものの、僕は涙がこぼれた。これが少しは吉彌の心を動かすだらうと思つて、これ見よがしに、目を拭きながら座敷を出た。出てから、ちよツとふり返つて見たが、かの女は分つたのか、分らないのか、疊に肘をついたまま下を向いてゐた」と來た。
「‥‥」お鳥は、執筆者が却つて無關心の状態で微笑しながら向けた顏を、じツと睨みつけるやうに見詰め、頬には且忿怒と恥辱との色までも赤く染め出して、叫んだ、
「馬鹿おやぢ! 意久地なし! 泣き味噌! 助平! ――そんな黴毒藝者などが矢張り可愛かつたんかい!」

 義雄は筆の進まない時、どういふ風にしようかと考へ込みながら、耳かきで耳をほじくるのが癖になつた。
「そんなにほじくるとよくないよ」と、お鳥が心配するほど頻りになつたのだが、さうしてゐるうちに考への絲口も段々明いて來る氣がするので、度々思ひ出しては、筆の代りに耳かきを執つた。それが自分ばかりのをするのでなく、氣分によれば、お鳥の耳をもいやと云ふのを無理に掃除してやることもある。
 それが爲めに耳の奧を痛めたにも由るさうだが、おもには過度に神經を疲勞させたのが原因で、一方の耳に熱を持ち、とう〳〵米噛みのあたりまで脹れた。汽車で甲府の病院まで行つて濕布しつぷをして貰つたが、醫者は細君があるなら、それを近づけるのを暫らく見合せ、何にでも神經を勞することはすべて行けないと命令した。然し義雄は筆だけは執つてゐなければならない必要を忘れられなかつた。
 外出と云つては、甲府へ行つたこと位で、殆んど全く自分の室に引ツ込み通しで來た。原稿の枚數はずん〳〵重なつて行つて、その小説の表題もいよ〳〵「耽溺」ときまつたほどに形を備へて來たが、お鳥のルビ附けはなか〳〵はか取らない。
 かの女は先づ義雄がどんな小説を書くのかといふ好奇心を失つてしまつた。次ぎにまた一枚に付き五錢づつ貰つて帶を買ふその足し前にしようと云つてたルビ附けにも飽きが來たのである。兎に角、一緒になつた男に、つい一年か一年半前こんな事實があつたのかと考へて、憎いやうな、妬ましいやうな、馬鹿らしいやうな、詰らないやうな、氣をその胸にかはる〴〵起してゐたらしい。
 それに、どんな立派な温泉かと思つたら、穢い〳〵湯槽にどろ〳〵した厭なにほひの冷泉を沸かせるのであつた。また、殆ど毎日のやうにおほ雨やらおほ神鳴りで、正面に見える富士が滅多に見えないほど鬱陶しい日が續く。且つ、また、入浴客と云つたら、豫想の外で、殆ど田舍のおやぢや婆アさんばかりで――樂んで來た甲斐がかの女になかつたのだらう。
 かの女の考へでは、宿には同じ年輩の立派な娘が多く來てゐて、それらと仲よく遊んだり、話し相ひ手になつたり、また自分のハイカラな姿をうらやませたりしたかつたのだらうが、下にも二階にも、裏にも、おもてにも、そんな相ひ手は一人もゐなかつた。
 隣りの明いた室へ、たまに一晩どまりの客はあるが、工女に募集されて行く途中で、その募集者に自由にされる女であつたり、どこか近所の驛から作男と密會しに來た細君であつたりする。
 たまにちよツと十人並みのが來たと思へば、どこかの裁判所出張所の書記といい仲になつてゐたのだが、向ふの親が許さないのを恨み歎いた女だ。それをその土地の坊さんが氣の毒がつて、女の故郷まで連れて行つてやるところだが、とまつた晩に、その二人は出來合つたやうであつた。
 また、田舍の物持ちの細君らしい四十五六の、顏の見ツともない婦人が來た。これも亦怪しいものだと義雄等が云つてゐるうちに、甲府の醫者に違ひないと云はれる男がやつて來た。
「あんなお婆アさんでも色けがあるんだなア」と、お鳥はその夕がた、義雄と横になつて、無駄話しをしてゐる時に大きな聲を出した。無論、隣りの客は湯へ行つて留守だと思つたからである。
「面白いぢやアないか、じツとしてゐて、いろんな種が拾へるのだから」と義雄は答へた。
「何が面白いもんか、こんなとこ! 雨や神鳴りばかりぢや。」
「さうか、ね、」と輕く受けて、渠はかの女が二三日前
「髮の自慢を仕合ふ相ひ手もない」と歎息したのを思ひ出した。そして天井を見詰めながら、「まア、來たものは仕方がない、さ。」
「いやだ、いやだ!」かの女もうちはを持つた手までもあふ向けにだらり延ばして向ふを向き、「早う東京へ歸りたい――歸りたい!」

「君の書齋と家族の寫眞が雜誌に出たので、氣の毒にも、君の評判が女子大學で俄かに下落したぞ。あんな子福者であつたのかと云ふので、さ。君の詩などから推察してまだ二十四五までの色男だと思はれてゐたらしい。呵々。」
 かう云ふハガキが或匿名の友人から舞ひ込んで來た。如何に自分も、いやな物でも、ある物があるのは事實で、何と云はれても隱すことは出來ない、また隱す必要もない。と、義雄は思つたが、自分の評判がそれが爲めに落ちたと聽いては、餘りいい氣持ちでもなかつた。それに、この頃になるに從つて、渠は自分のやがて四十歳になると云ふことが、老耄その物が近づいたやうに考へられて、いやで〳〵溜らないこともある。
「一體、誰れがハガキなどに書いて來たんぢや」と、お鳥が眞ツ赤になつて怒つた時は、ちよツとそののぼせ氣味に釣り込まれかけたが、かの女に別な理由があつた。「宿のものが、もう、見たにきまつてる! きまつてる!」
 かう云つて、手にあつたハガキを義雄に投げつけ、泣き出しさうに顏をしがめ、疊に坐わつたまま、兩ひぢを脇に縮め、からだ全體を燒けにゆすつた。
「氣違ひ! 見られたツて、いいぢやアないか?」義雄はその理由を感づいてゐないではないが、今更ら見られたことを取り消すわけには行かないと覺悟して、わざと平氣で手摺りにもたれたまま、縁がはに足を投げ出してゐた。
「いいことはない!」かの女は恨めしさうにこちらを見詰めながら、息のはずむを抑へ〳〵、「あたいが――目かけか――何ぞのやうに――思はれて――しまうぢやないか?」
「思ふものにやア思はせて置く、さ。」
「あたいが詰らん!」
「そりやア」と、落ち付いて、「お前がまだ世間に對する浮氣ごころがあるからで――世間のものが何て云つたツて構うものか、ね。お前を愛するおれにさへしツかり手頼つてゐりやアいい。」
「そんなうまいことばかり言ふても、口さきばかりだから、あかん。」
「何も」と、ほほ笑みながら、「口さきばかりで胡魔化したことはないよ。」
「ある! ある! 妻子と別居すると言ふて、別居もしやせんし、あたいを學校にやつてやると云ふて、ちツともその手續をして呉れせん。」
「そりやア、まだ夏期休暇中ぢやアないか!」
「休暇中から手をまはして置けばえい。」
「大丈夫――そんな心配はすな。」
「へん!」馬鹿にしたやうな、また納得したやうな聲を出して、お鳥はあごをしやくつた。
「いやな癖だ」と、義雄は心で卑しみながら、縁を立つて來て、また机の前に坐わつた。
 お鳥はそのままじツと考へ込んでゐたが、指さきに衣物の褄を卷きつけながら、少し低い聲で、
「たださへ皆から旦那さんとは餘り年が違ひ過ぎると云はれてるのに、そんなハガキを見られては、あたいの顏が立たん。」
「いい顏だから、ね!」義雄が筆を持つたままその方へ首を向けると、
「馬鹿!」と叫んで、かの女はこちらの繃帶した耳のあたりをぴしやりと叩いた。

「よせ!」義雄は顏を引ツ込めて、痛い耳を押さへ、また原稿に向つたが、此間から少し氣になつてゐたことを思ひ出した。「おれとお前とが餘り年が違ふと云ふのも、下の黒ん坊におだてられたのだらう?」
「違ふ!」お鳥は燒けにからだをゆすつて否定した。
「でも、ねえ――」
「違ふ、違ふ!」
 下の黒ん坊とは、義雄がお鳥をいやがらせる爲めにわざと誇張した譬へで、實は東京の下谷から保養に來てゐる或會社の職工がしらだとか云つてる人だ。義雄もちよツと會つて見た。色は黒いが、職工などには似合はずおだやかで、優しい言葉使ひをしてゐる。
 所在なさに、雨の晴れ間をお鳥は裏庭へ出て、築山や樹木の間をよくぶらついた。背のすらりと高いその姿を二階から見ると、顏の缺點などは見えないので、義雄もあの可愛い女が自分の物になつてゐるのかといふ風に、暫らく默つてながめてゐたこともある。
 四五日前も、渠は高い欄干に倚つて下へ聲をかけ微笑しながら、
「どこのお孃さんでいらツしやいますか」と云つて見た。お鳥は氣づいたが、それには答へないで、おほ眞面目の氣取つた熊度で、丁度こちらの立つてゐた下に當る室に向ひ、縁に添つて流れる小川を隔てて、
「へい、ありがたう」と云つた。まア、お這入りになればどうですとか何とか云ふ聲が流れの音にまじつて聽えたとは義雄も思つたので、初めて下に客があるのに氣が付いた。然しお鳥はその以前から言葉をまじへてゐたらしい。その後もかの聲が宿のもの等と一緒になつて、下の座敷で夜遲くまで話し合つたり、笑つたりする聲が聞える度に、義雄は氣が引けて執筆の邪魔になつた。
「あの男のことを云ふと、なぜ、さう躍起になるのだ?」
「下らないことを云ふから、さ――燒き餅など、人が聽いたら、見ツともない。」
「ぢやア矢ツ張り、おれのいふことは聽かないで、夜おそくまで話し込んでゐるつもりか?」
「さう、さ!」ふくれツ面をして、「別に話し相ひ手がないから。なにも、あたい獨りこツそり行くのではないし、女中や小僧さんも一緒になつて話してるのだから――」
「いや、獨りの時もあるやうだぜ。」
「無いツたら、ない!」その無謀な叫びをこちらへ押し付けるやうに目をしツかりつぶつてまで見せた。
「さうか」と、わざと疑ひが晴れないやうな返事をしたが、これ以上かの女を怒らせるつもりもなかつた。かの女の白い肌につつまれた神經がこの頃非常にいら〳〵して來たのを知つてゐるからである。
 その夜、とこに這入つてから、
「下の人はあさつて歸ると云ふてるけれど、自分も歸りたうないか」と、かの女は仰向いたままこちらに聽いた。
「さうか、歸るのか」と、こちらは云つたばかりではなく、原稿はもう直きに書き終はるが、それを東京に送つて、金が來るまでは歸れないと、渠は答へた。「然し折角知り合ひになつたのに」と、蚊帳を透して、天井を見つめながら、「もう歸るのでは、お名殘り惜しいやうだ、ね。」義雄も原稿が終ひになつて來たと云ふ氣のゆるみが出たので、且、耳の張れが濕布をしてゐても一向に直らないので、早く歸京して、知り合ひの博士に見て貰ひたいやうな心にはなつてゐた。
「あたい、あの人に連れて歸つてもらをか?」
「それもよからうよ。」渠は冷淡にあしらつてゐると、
「元の人に似てる、あの人は。」お鳥は嬉しさうにねずみ泣きのやうな聲をして、こちらをじらし出した。
「どこが、さ?」渠は急にかの女の方へ向いた。
「どこが似てゐるの?」
「‥‥」
「云つて御覽、どこが、さ?」
「どこでもえい!」
「ねえ」と、すかすやうにして、然し冷かしの意味を含めて、「あの色の黒いところがかい?」
「そんなところなもんか?」かの女はからだを振つた。
「ぢやア、痩ツこけたところがか?」
「そりや、少し痩せてた、さ。」
「あのきよと〳〵した目玉もか?」
「違ふ!」
「ぢやア、あの高い鼻は?」
「知らん!」
「あのこけた頬は?」
「知らん!」
「それぢやア、分らねいや」と、とぼけた風で、「痩せてるのだけに惚れ込んだのかい?」
「何も、惚れてやせんぢやないか?」
「さうか? ぢやア、まア、似たところが嬉しかつたと云ふだけか?」
「へん、お前の知つたことかい?」
「なるほど、ね」義雄は冷かして受けながら、下の座敷の樣子が何か聽こえて來るかと耳を澄ますと、雨に水嵩みずかさの増した小流れの音がちよろ〳〵としてゐるばかりだ。その流れを隔てて、お鳥があの男に氣取つた應待振りをしてゐた時のことが浮んだ。また、あの時と今とは數日しか違はないが、その間に氣候が變化して、夜になると、もう、少し寒いやうな氣がするのに思ひ付いた。「少し寒くなつたやうぢやアないか?」
「さう、さ――ぐづ〳〵してたら、甲州では直ぐ秋だと皆が云ふてた、さ。」
 やがて、どこかの庭鳥が鳴いた。するとまたほかの鳥もそれに應ずるのか、二三ヶ所から聽えた。
「もう、夜があけかける、ね。」
「それだから、いやになつちやう――おそくまでも、晝間中でも、勉強するのはえいが、あたいを喜ばせて呉れようとせんのぢやもの。」
「然し、可愛がつてゐるぢやアないか?」
「それが嘘としか見えん。」
「そんなことはない、さ、」
「ほんとは、なア」と、かの女はほほ笑みながら、「目のきよろりとしたところはお前に似てるけれど――」
「へえ――」
「冷かすんなら、いや!」
「冷かしやアしないよ、お云ひ。」
「鼻と顏の樣子が誰れかにそツくり、さ。」
「なるほど――さう云ふ男をお前は好きなのか?」
「好きでも、何んでもない」と、恥かしさうにした。
「まア、お待ち――それで、なぜ別れたの?」
「燒き餅燒きで、人をぶツたり、蹴ツたりするから、さ。」
「そりやア、ひどい、ね。」
「それに、どすぢや云ふので、兄が籍を入れることを承知しなかつた。」
「どすツて?」
「らい病のことを紀州ではさう云ふてる。」
「ぢやア、矢ツ張り、くツ付いたのだ、ね。」こちらは急所が握れたと見た。

「あたいからくツ附いたんぢやない。」
「向ふからでも、つまり、おんなじこと、さ。」
「でも、あたいが兄のとこから學校へかよてた時、兄の友達だから時々遊びに來てた人ぢや。」
「然しお前と一つの學校を教へてゐたのだらう?」
「さう、さ――一度、ほかのものがみな留守の時に來て、寫眞帳など見せたら、あたいのを一枚拔いて持つて行つたことがある。」
「その時に、出來てしまつたのだらう?」義雄のあたまには段々その男の樣子が浮んで來た。
「違ふ!」かの女は笑つて否定しながら、「まだ父が重病でも生きてたから、よく相談して見て呉れと云ふただけ、さ。」
「分るものか――然し、父は承知したのか?」
「父は承知したけれど、兄が許して呉れなんだ。」
「それで、とう〳〵待ち遠しくなつたのか?」
「でも」と、微笑して、「兄は頑固な人だから。」
「兄は兄としても、第一、小學校でやかましかつただらう?」
「だから、あたいが辭職して、その人と家を持つた、さ。」
「どんなところに?」
「人の二階であつたけれど、町はづれの海の見えるとこで、なか〳〵景色がよかつた。」
「そこで乳くり合つてゐたのだ、な――それにしても、二年間も一緒にゐてどうして別れた?」
「兄が承知しないと云ふてるぢやないか?」
「どんなに戸主が頑固だツて、本人同志が好き合つてゐたらいいぢやアないか?」
「では、自分が田邊のやうなとこへ行つて御覽。小學教員などをして、あんなとこに一生暮す氣になるか?」
「そりやア、さうだらう、ね。」義雄はかの女の云ふことも尤もだと見たが、この位の低い程度の女として都を憧憬して來るのはそも〳〵むほん心があり過ぎると思つたので、「然し、その跡に殘つた教員が、可哀さうぢやアないか?」
「そりや、泣いてた、さ」と、得意さうであつた。「あたいが汽船で出發した日の朝まで、一と晩中おめ〳〵と聲を出して泣いてた。下の人に聽かれても、見ツともなかつたぢやアないか?」
「それで、歸つて來いと云つては來ないか?」
「一度來た、さ。」
「いつ?」
「鎌倉から歸つて見たら――けれど、返事をやらなんだ。」かう云つて、お鳥は、疑ひ深い而もその疑ひがきツと本當だと云つてるやうに語つた。その男は、もう靜子といふ女教員と一緒になつてゐるに相違ない。歸れといふ手紙は先づ靜子からよこさせてこちらの腹を探つて置いて、もう大丈夫と思つたから、男から申しわけに今一度思ひ返して呉れろといつて來たのだ、と。そしてます〳〵神經が冴えて來たかして、「あのどすめ! 人を馬鹿にしてるぢやないか――自分は元からその女の機嫌など取つてをりながら、あたいがちよツとでもほかの男と話しでもしてると、直ぐ燒き餅を燒いて、二階では下の人に聽えるから、あたいをそとへ連れ出して、何ぢやぢや責めてた。」
「可愛かつたからだよ」と、義雄は自分もしさうなことだから、自分を辯護するやうに答へた。そしてここは山なかだがと考へながら、「そのそととは海べだ、ね。」
「でも、あの女は、もう一生、小學教員のおかみさん、さ――あたいはこれでもどんなえい人の夫人になるかも知れん。」
「おれの夫人なら、いいぢアないか?」
「へん!」あざ笑つて、「お前のやうな貧乏おぢイさんには、あたいのこの顏に免じても、惜し過ぎる。」
 義雄は、お鳥のにこついてゐるのを無邪氣のやうだが、うぬぼれにも、この顏を看板に何か出世が出來るとして、實際、再び東京へ出て來たのかと思ふと、いつかもさうしたこころもちになつたと同じやうに、吹き出してみたいほどをかしくなつた。

 然し義雄は、お鳥の眞ツ白な肌のにほひに接してゐる間は、かの女の氣儘も缺點もいやなところも、すべて忘れることが出來るのである。
 その夜は、どうしたものか二番鳥、三番鳥が鳴いても、二人とも寢つかれなかつた。義雄がかの女をすかして田邉の話しの殘りを云はせたり、此間からの雨でまた去年のやうな山津浪が來るかも知れないといふ評判を語つたりしてゐるうちに、夜が明けてしまつた。
 便所へ行つて來てから、再び枕に就くと、義雄はお鳥の話しから、そのをつとであつた人の怒つたり、泣いたりしたと云ふ人物や境遇を想像して見ながら、ぐツすり寢込んでしまつた。すると、夢に月夜の海濱でお鳥が一人の男と頻りに喧嘩をしてゐる。その男が教員だと思つてゐると、いつの間にか、仲直りをして職工に變つてしまつて、睦じさうに散歩する二人の影が砂の上にはツきりと曳かれた。
 こちらの二人が目のさめたのは晝過ぎであつた。その翌日はまたおほ雨で、ひどい稻光りと神鳴りとがまじつてゐたが、下座敷の職工がしらは出發した。去年のやうな事件があつてはと氣がせいたのだらう。
「あんな短い保養で、どんな病氣だツて直るものか、ね?」
「でも、いのちが惜しかつたら、どうする?」
「その時アその時、さ。」かう云つたが、義雄はこのやうに雨の多い土地のことや、現在もどんどん降つてゐて、裏の小川があふれ出したことなど思ひ及ぶと、甲州一體に於ける去年の大洪水の新聞記事や、汽車の窓から實見することが出來ると云ふ悲滲の跡を、晝間でも戸を締めて引ツ込んでゐる室内で再び考へないではゐられないのである。
 鐵橋の破壞。田地、道路、家屋、人畜の流出。山麓のすべり出し。大岩石の移轉。川流沼澤の滅却、奇變――笹子トンネルの向ふへ越えたところには、その高さ十間ほどもあるおほ岩が、川でもないおほ川あとの眞ン中へ、或神社の流れ出たのともろ共に驚くほど無造作にころがつてゐるさうだが、それは二人とも夜とほつて來たので見ることは出來なかつた。
 また、或郵便局長は、その山津浪だと聽いて、直ぐその妻子のからだにその氏名を縫ひつけかけたが、そのひまさへも無く、谷を破つて溢れて來た水は、猛烈な響きと共に、その家族ばかりではなく、すべての家も田地も村も川も、またたく間に、すべて卷込んでしまつたと云ふ。
 この鹽山は無事であつたが、歸り道を斷たれた入浴客の食料までが不足になつてしまつたので、心配性の人々は汽車の不通なのにも拘らず、危險なトンネルをくぐり拔けて、途中まで歸つて見たさうだ。
「あたい早う歸りたいなア。」お鳥はおほ稻光りのひどい屈曲が雷の直鳴ぢかなりと共に雨戸を漏れて這入つたのにおびえながら、「若し去年のやうになつて、歸ることがでけんし、金も來ないと云ふことになつたら、どうする?」
「さう心配するなよ。」
 この間にも、義雄は原稿の最後の方を書いてゐた。
 やがて空はけろりと機嫌が直つた。女中が來て戸を繰り明けるに從ひ、義雄はぱツと吸つた卷煙草の煙りのこもつたのも消えて行つて、お鳥の心配さうな顏も晴れて來た。
 氣が付くと、お鳥は一枚の名刺をいぢくつてゐる。
「歸つた黒ん坊のだらうが」と、義雄は少しむかついて、奪ひ取りの手を出しかけた。
「そんな物アうツちやつてしまへ。」
「でも、お前をいやになつたら」と、かの女はその名刺をとられまいとするやうにかばひながら、然しほほ笑んで、「また尋ねてやるかも知れん。」
「そんなさもしい考へは、うそにも起すものぢやアありません。」渠は人を教へるやうな眞面目な熊度になつた。


「名産の葡萄が、もう、充分喰へるやうになりましたぜ」と云つて、宿の主人が一と盆自慢さうに持つて來た日に、「耽溺」の原稿は郵便局へ渡された。
 どうせ、長くなるとは豫期してゐたから、初めから雜誌を當てにせず、單行本にするつもりであつた。で、東京出發前にちよツとその意を通じて置いた出版屋へかけ合つて貰ふやうにと云ふことを手紙に書き添へて、或友人へ送つたのである。
 若しこれの談判が作者のゐない爲め、また他の理由で、手間取つては困ることになると思つて、別にあひま〳〵に書いた雜誌向きの短篇も、既に東京へ郵送されてゐるが、ぐれ違ひのない爲め、なほ二三の小論文も書くつもりでゐる。でも、兎に角義雄は一つの大きなおも荷をおろしたやうな餘裕が出來た。
「少しはあたいを連れてどこか散歩して呉れたらえいぢやないか」と、お鳥に促されて渠は一緒に宿を出た。直ぐ田圃の方へ行かうとすると、かの女は微笑しながら、低いが決心した聲で「人のをる方へゆこ。」
「‥‥」その意味は義雄によく分つてゐた――かの女は東京にゐた時も同じだが、自身を人に見られて、ハイカラさんだとか、別嬪だとか、いい奧さんだとか、いろ〳〵賞められたり、冷かされたりして見たいのである。
 かの女は澄まし込んで義雄のあとから付いて來て、骨つぎやの看板を讀んで見たり、細工やのくり拔きおもちやを見たりした。橋のところでは、此間まで川ぷちを崩してせツせと新らしい鑛泉を掘り拔いてゐたのが出水の爲めにさん〴〵になつた跡を、立ちどまつて、暫らく見てゐた。
 ちよツとした坂の、水で掘り崩れて大きな杉や檜の木の根が現はれてゐるのを登ると、氷屋がある。葛餅屋がある。宿屋、藥り屋、床屋、八百屋、時計屋などがある。葡萄ばかりの安賣り店もあるが、酸ツぱさうなのばかりで、まだうまいのはなかつた。
 時計屋で水晶細工を並べたところがあつたので、そこへ立ち寄つて、いろんなのを見せて貰つた。鹽山の奧から掘り出して來るので、白水晶、黒水晶、むらさき水晶、草入り水晶などの置き物や印材がある。草入りのうちには、大抵、小さい薄の穗のやうなのが這入つてゐるのだが、「これ買うてお呉れ」と、お鳥が義雄に出した印材には何百年か以前の水が包まれてゐて、位置を換へる毎に、その水があツちへころりこツちへころり、動くのである。それはなか〳〵が高いので買へなかつたが、むらさき水晶の小材にお鳥の姓清水を刻して貰ふことにして、そこを出た。腹具合が惡いと云つたお鳥は、一番大きさうな藥屋でヘルプを買つた。義雄はまた筆を買つた。
 たツた一すぢの通りは直きに別な通りにつき當つた。それを左りへ行けば直ぐ鹽山ステーシヨンで、片がはは桑畑、他の側の家並みは多く飮食店で、ところ〴〵の二階からはあやしげな女が首を出してゐた。三味線の音も聽えた。
 この通りをもと來た方へ曲らないで、眞ツ直ぐに少し行くと、人家は盡きてしまう。
「どうだ、滿足したか?」義雄はお鳥を返り見た。
「みな、あたいを見てた、わ」と、かの女は喜んでゐた。
 それから、稻の間を拔けて、鐵道線路にのぼると、青い田を隔てて、向ふに自分らのゐる海老屋の裏二階が見えた。

「誰れかまたちごた客が來たやうだ」と叫んで、お鳥のいい目はあの二階に立つてゐるのが小僧でもない、女中でもない、宿の主人やおかみさんでもないと嬉しがつた。
「そんなにほかのものが戀しいのか」と云つてやりたかつたが、義雄はさし控へて線路を向ふへ降りた。そして、かの女と手を引き合ひながら、また稻の間のあぜ道を縫つて歩いたり、筆の軸の長さほどもない小幅の流れの小さい田螺を――お鳥の毎年起きる脚氣の藥りだと云ふので――拾つて見たりして、宿へ歸つて來た。鹽山から富士連山の麓まで、平野は一面の青田だ。そして、その稻穗草がどこまでも涼しい風に目ざましい緑りの色を浪打たせてゐるのが、お鳥と手を連ねた義雄の心に如何にも深く若々しい感じを湛へさせた。
 それを海老屋の裏二階から見渡すと、宛で瑠璃色の海だ。そのおもてへ逆しまに、南の空にそびえて無言、沈默の輪廓を畫がく富士の峰は寂しく映るが、戀の最も手ごたへある姿はなぜ出ないのだらうと義雄は考へた。お鳥が自分にまだしんみりと親しんで來ないのが、どうも底の知れない不安のやうで、行けない。
「どうだ、お前はおれの胸に全く浸つてしまうほど可愛がられたくないのか?」かういふ風に渠はかの女の感情をさそつて見たこともある。
「やアだ」と、かの女はとぼけた顏をしたが、頬には薄べにの色を潮して見せた。
「‥‥」渠はまたそのあどけない樣子を見ると、ただ、もう、可愛いやうな、嬉しいやうな氣になつて、自分の不安な戀を反省することもうち忘れ、新たに書き出した原稿の前にあぐらをかいたまま、手を延ばしてかの女を引き寄せ、そのやはらかい頬ツぺたへ接吻した。
 餘り力強く押し附けたと見え、渠のをととひつた濃い頬ひげの生えかけがかの女の肌をきつく刺した。
「痛い、痛い!」お鳥は思はず大きな聲を出して、渠の卷く手から兔れたが、白い手を返して、「このおやぢ」と、無意氣にこちらの長く反り返つた口ひげを引ツ張つた。
「痛い!」義雄も身顫ひして大きく叫んだ。
 互ひに離れて睨み合つた目には、兩人ともその場の突然な怒りが燃えてゐた。
「ひどいことはすな!」
「あたいだツて、痛かつた。」
「ふ、ふん」と、二人はまた笑ひ合つた。
 が、その笑ひは二人の心を結び合はせたのではなく、互ひに輕蔑し合つたやうなものであつた。
 渠もかの女も共にふくれツつらが直せない。で、暫らく互ひに顏を見ないで、默つてゐた。
 すると、お鳥は突然嬉しさうな頓狂聲を出した。
「お客が附いた、お客が附いた!」
 義雄がふり向くと、かの女はこちらの煙管の雁首に、いたづらに吸つてはたいた吸ひ殼の殘りが、まだ煙りを出して一二本のすぢでつるさがつてゐるのを示めしてゐる。
「何んだ、馬鹿な!」渠もにツこりして、「どこでそんなことを覺えたのだ?」
 かう云ひながら、渠はかの女が北海道の或町で、金貨しの父と共に、藝者屋の間に育つたのであると云ふ話を思ひ出した。

 お鳥は、毎日のことが單調なのと出水があるかも知れないと云ふおそろしい評判との爲めに、東京ばかりを戀しがつた。で、來さへすれば歸れるのだと思つて、原稿の金を頻りに待ち遠しがつた。
 ところが、義雄の友人から中身なかみの這入らない手紙が屆いて、あの長篇小説は二三軒當つて見たが、どこでも受け付けない事情が分つた。出來ない前から本屋の評判になつてゐたのであつて、出せば必ず發賣禁止だらうとあやぶまれてゐる。方々の本屋へよく出て行く小泉笛村にも頼んであるから、なほ、いい首尾があつたら報告するが、當てにはすなと云ふことが書いてあつた。
「それ御覽! どうするつもり?」お鳥は泣き顏になつた。
「どうもしない、もツと書くの、さ。」かう云つて、義雄はおもてに元氣を見せたが、胸は氷の燒いばを擬せられたやうに情けなくなつた。
 宿の帳場からは、一週間毎にする勘定の催促も來てゐる。渠も亦最初に郵送した短篇の方の原稿料を電報で催促しないわけに行かなかつた。
 或日のゆふ方、空はみツしりと曇つて、目に見えない雨が降つてるかと思はれるほど濕ツぽく鬱陶しかつた。
「もう、もう」と、田の中の牛小屋からは、相變らず厭な聲が押しつぶされつつ下這ひに響いて來る。
「青い田が海なら」と、かの女は不愉快さうに欄干にもたれながら、こちらが云つて聽かせた譬へを思ひ出したらしい。それを押し進めて行つて、「あの牛が水牛だろかい?」
「さうだ、ね。」義雄は筆をとどめて、目をそとに放つた。
 今、立つてゐるかの女にはただいやで〳〵堪らないものとして響く聲だらうが、坐わつてゐるもの――而もかた〳〵の耳が殆ど全く用を爲さないほど痛んでゐるもの――の心には、深い水門みとの底に沈んでゐる釣り鐘のうなりが聽えるやうであつた。
「もう、もう」と、――さうだ! 蒸し暑く息づまつた空氣の底から、何かの恨みか不滿足かを訴へる沈鐘の響きのやうに、お鳥のいはゆる「水牛」の聲が響いて來るのだ――云ひかへれば、義雄自身のまだこれでは不滿足な戀の恨みがその息ぐるしさを訴へるやうに! けれども、その聲は一匹や二匹のことでないから、朝も晝も、晩も夜中も、つづけざまだ。
 その底なる牛小屋に遠くないところで、夜になると、必ず一つのあかりが付く。ランプの光りだらう。それがお鳥を離れた時の義雄の心に、一つの慰めを與へることもある。それが渠の寂しいやうな、薄暗いやうな、底の知れないやうな心に、たツた一つの味方となることもある。
 しめつた夜氣にまたたいてゐるこのあかりは、ゐ据わつてるのだらうが、動くやうにも見える。見つめてゐると、また大きくなつたり、小さくなつたりするやうだ。
「恰も 消えない 露――日輪 の 光りを 晝間 から 一身に 吸ひ込み、
 目くらの 夜を 澤市 の 妻 となる 氣 だらう。」
 と、かう、義雄は自分の詩に歌ひ込んだ。
 然しその光りの無言なのが一層寂しい。あれが若し優しい聲でも出して呉れたらと渠が思つた時、何か求めるやうな牛の聲がまたした。それを渠は今見詰めてゐた田の中のランプの出した濕つぽい聲のやうに聽き爲して、にツこりした。
 ランプと聲、慰めと求めとが一つになつて、戀と不滿とが合體の氣分になつた時、渠はお鳥をそばに返り見て、自分の腹わたが煮えくり返るやうな熱情を取り押さへながら云つた。
「僕が若し全くつんぼにでもなつたら、鳥ちやんは僕の耳になつて呉れるだらう?」
「大丈夫だ、わ。」かの女は、義雄の書齋や家族などの寫眞が出てゐる雜誌をいじくりながら、ただ曖昧らしい返事をした。

 歸りたいとばかりあせつてゐるお鳥は、最初の短篇に對する金が電報がはせで來ると直ぐ、獨りで歸京することになつた。
 思ひやりのない女だと義雄は少しいや氣もさしてゐたからであるが、また若いもののことで、一圖に歸ると思ひ込むと、その方にばかり心が行つてしまうのだらうとも思ひ直した。で、自分は獨りで相變らず思索と筆硯とに親しんだが、氣になるのであとから出來た短い原稿二つに對しても、どうか早く送金をして呉れるやうにとまた催促の電報を出した。
 水々した稻の田の面を、汽車が往復して、その度毎に白い煙りを殘して行くのが、今更らの如く目に付くやうになつた。ぼんやりと手すりに倚りかかつたり、寢ころんだりして、その荷車や客車の通るのは何十分置き毎だらうと、勘定して見る氣になつたこともあつた。然しその回數を一イ、二ウ、三つとまで數へないうちに、渠はモルヒネでも嗅がされてゐたやうにかの女の戀しさで氣が遠くなるやうな氣持ちになつた。
 かの女のゐる時は左ほどでもなかつた田の中の散歩を、一緒に今一度やつて見たいやうな氣になつて――思ひ出すのは渠ののぼせた耳もとへかの女の熱い息がかかつた時のことだ。お鳥は、或日暮れに、あぜ道を歩いてゐて通りすがつた一人の田舍者を闇に挑發して見せるかのやうに、義雄の横顏へ熱心な接吻を與へたことがある。
「浮氣ツぽい女だから」と思ふと、渠はまた、ふと今まで氣が付かなかつた疑ひに包まれた。「お鳥はあの足で下谷の職工がしらを尋ねて行きやアしなかつたか知らん?」
 夏期休暇も殘りずくなになつた上、渠の教へる學校の入學試驗を手傳ふ約束の日がこの五日に迫つてゐる。然しそんなことは、もう、どちらでもいいのだ――かの女が何をやつてゐるか分らない。たとへ自分は嫌はれてゐたとしても、あの白い肌が今では自分の物だと云ふ形になつてゐるからいいやうなものの、一度でも他の男の手に觸れたら――足に觸れたら――毀われた人形も同樣、もはや自分の愛情をそれに傾注することが出來る望みは全くなくなるのである。
「あの人は誰れかに似てる」ツて、
「ああ、かうしてはゐられない」と、渠はいら〳〵し出した。が、その失はれた心の落ち付きをめて無理にも取り返すつもりで、今書きかけてゐる議論――それは藝術と實行とは合致すべき物だと云ふ説明――の筆を轉じて、かの女を慰める手紙を書いた。
「九月二日、鹽山發。鳥ちやん、白い鳥ちやん、また手紙を書きます。――笑つては行けないよ。あなたのゐなくなつてからと云ふものは、ね、手紙でも書いてゐなければ、僕の急に寂しくなつた心が落ち付かないのです。前便に、もう蚊帳を奪はれたと云つたでしよう、それがまたきのふから僕等の室に障子まではまつたのです。甲州の氣候と云ふ失敬な變人が、何だか、もう僕にも早く歸れと云ふやうな取り扱ひがするではないか? 歸れなど云はれなくても、僕は歸るにきまつてゐる。早く歸つて鳥ちやんの顏を見なければ、僕は心が落ち付かない。かはせが來次第、直ぐ歸るから待つてゐて下さいよ。その代り、僕を信じて僕の云つたことを守つてゐて下さい。他の浮氣女のやうに、獨りでたちの分らない男のところへなど行くことは、決してなりません。分りましたか?「耽溺」出版の件に就いては、どうせ僕が歸京しなければ埒が明くまいが、なほ、鳥ちやんからも笛村君の方の樣子を聽いて見て貰ひたい。あなたの出發の時は宿の拂ひの爲めにみやげを買つて行く餘裕もなく氣の毒であつたから、僕の時はうまい葡萄を持つて行つて、下の人々にも分けてやりたいと思ふ。先づそれまでは心と心――鳥ちやんの、白鳥の樣に白い鳥ちやんの笑つてる顏が見えるやうだ。可愛い人へ、義雄。」

 渠には、なほ別の疑ひが絶えなかつた。それは紀州の男に就いてだ。
 お鳥がこちらから聽いた時は怒つて碌に答へをしなかつたことまでも、つい、寢物語りの調子に乘つて語つてしまつたのだとすれば、あの別れた時の事情が本統であるかも知れない。が、あれは小説家のそばにゐて、かの女も亦自分の小説を作つてゐるのだと受け取れないでもない。
 かの女を知つてからのことで考へても、誰れそれが自分にいやな目を使つたとか、あの人が自分を口説いたら、承知したやうな風をして見ようかとか、そんな空想を畫がいて嬉しがつてゐる女であることはこちらにも分つてゐる。
 ひよツとすると、さきの男と内約でもあつて、いづれ男も出京するから、それまで何とかして生活してゐろと云はれて來たのではないか?
「手紙が一度來た、さ」とかの女も云つたのは、その手筈が出來かかつた知らせであつたのかも知れない。
 男が時機を待ち切れなくツて、田邊を辭職してしまつたのではないか? お鳥があせつて歸つたのには、既に打ち合せが出來てゐたのではないか? 兎に角、その男が、もう、出て來たやうなことであつたら、どうする? 馬鹿を見るのは自分ばかりだ。
「さうだ、おれはどうしても早く歸らなければならない。歸つて、あの女の虚榮心が強いのに付け込んででも、暫らくは、おれの手にかの女を取り入れて置かなければならない。」かうあせりながらも、ただ待たれるのはかはせだ。
 例の雨や神鳴りはれになつて、この二三日來、田を渡つて來る風が急にひイやりして來た。降る雨も秋さめの調子を帶びたのは、こちらの寂しく見棄てられたやうな氣持ちから、さう感じられるばかりではない。
「この頃のはどうです」と云つて、宿の主人が盆に持つて來る葡萄が實際にうまくなつた。
「おれは、然し、葡萄の熟するのを待つてゐるのではない。」渠はこんな警句見たやうな言葉を、不平の代りに、私かにこぼしても見た。
 兼て聽いてゐた通りの氣候の急變――送金の待ち遠しさ――手放したお鳥に對する疑念――かう云ふことが渠のからだ中の神經のどの末端にも觸れて、手のあげおろしも心配なら、足を投げ出すことも不安になつた。
 きのふまでは親しみのあつた室が、何だか丸で初對面のやうで、柱のすがた見に映る自分の顏も、濕布の繃帶をしたまま、他人か何ぞのやうに痩せてゐる。
 お鳥が去つたあとへ、秋の景色が自分の心にまでも舞ひ込んで來たのだ! かう云ふ氣持ちになつた渠には、もう、障子がはまつた室内の闇に吊されてゐるランプが田の中の一つ火に見えて、牛の叫びまでが渠自身の腹わたから出て、
「本統に可愛いの」とお鳥が云ふやうに聽えて來る。
「この通りだ」と、胸に押し付けようとしても、自分の左右には何の手ごたへもない。また、愛する匂ひも、あツたかい氣はひもしない。
 不必要になつた蚊屋は奪はれて、寢どこは廣々したにも拘らず、渠はその不安なからだの置きどころがなく、眠らうとしても眠られない自分を持てあました。
 明るい目さきには、いま〳〵しくも、よそ〳〵しいお鳥の姿がちらついて、かの女に對する自分の忿怒やら鬱念やらがかはる〴〵飛び出して來る。うるさいから、火を吹き消すと、また自分は闇の床を拔け出て、軒から直ぐ下へ飛び降り、そこの流れに添ふて、思ひ出の多い田の中をまごついてゐる。
 心の手を以つて妄念を拂へば拂ふほど、目ざとい疲勞がます〳〵目覺めて來るばかりだ。

 闇の中を見入つてゐると、末も分らない今も分らない一條の黒い道を、黒い影、喪服を着て通る影、無言(渠は半つんぼだ)、沈默(渠は物を云ひたくない)、悲痛、苦悶、死などの靈がうつ向いたまま、しく〳〵泣いてとほつて行く。
 義雄は考へた――よく〳〵寂しいと云ふことを覺えたのであらう、誰れも渠等を相ひ手にするものがない。渠等とても、その前世では世の人々の爲めに絶叫し、柘榴の明いた口の如くその意見も吐露し、最も武勇な戰士の如くその議論も戰はしたのだが、相ひ手が物が分らないので根氣負けをして、喪服を着けたのだらう、と。この心持ちは、先輩もない、後輩もない、身一つの渠自身にはよく分つた。
 それがまた一人減り、二人減り、三人四人減り、黒い道の黒い影は、草葉の露が朝目に當つたやう、みんな無くなつてしまつた。
 では、もとの通り目に見えない黒光りかと云ふと、さうでもない。死と云ふものが渠等をすべて呑み下し、一たび生れた兒をまた呑んでしまう鬼子母神の腹のやうに、ひそんでゐた死の影が段段と大きく脹れて來て、渠の心の闇と合した。
「あ、その闇は僕自身だ」と渠が氣づくと、眞ツ暗な死は矢ツ帳り戀だ。鳥ちやんの亡くなる時だと思はれて、それがあまいやうな味を渠のからだ中に傳へた。「僕はあれの死ぬまであれを愛してゐたいやうな氣がする。」
 かう云ふ風で、夜は如何にアブサントを飮んでも却つて眠られず、晝間十二時までも一時、二時までも眠つた。宿のもの等は全く渠に對する信用を置かなくなつて、金が來ないので燒けを起してゐるのだと云ひ合つてゐるらしかつた。
 こちらからお鳥に對して長い手紙を三つも出してから、やうやくかの女から、
「無事安着」の通知が來た。が、ただそれだけを書いたハガキであつた。
「畜生! どうしても早く歸らなければならない。」かう、渠は力んで見ても、宿の爲めにおのづから人質になつてゐる姿であつた。然し渠の心には、女に會ひたい情ばかりが燃えてゐた。
 渠の日記帳には、
何時ゐつ また 會はれよう――もう、二三――
 千萬年 も 隔つて ゐる やうだ。」
 こんな詩句も出たし、また、
「君が ゐないと 歌は いくら でも 出來るが
 さて、僕は いつ までも 君と 離れて ゐたく ない。」
 かう云ふことも歌つてみた。お鳥やら、東京やら、著書の出版やら、待遠しい原稿料やら、かの女に對する疑念やら、宿屋の冷遇やら、こんなことがすべてごツちやになつて、渠のあたまをかき亂す時は、實際持ち前の執着癖を詩の世界にでも向けるほか仕方がなかつた。
「今迄 晴れてゐた 空が 午後から 曇つて、
 富士の 方面 から 段々 の 大風雨、
 雨は ちぎつて 投げる やう――おほ神鳴り も 聽える。
 急がしい あま足は 四方の 山々を とざす、
 宿の 女中 共は まだ 時でも ないのに 雨戸を 締める。
 晝間を 殆ど 眞ツ暗な 闇、
 之を 時々 破るのは おほ稻妻 の 屈折――
 ぴかり、ぴかり!
 また、ぴかり ぴかり!
 その 明滅 の 間に しか
 萬物 と僕等 との いのちは なかつた。
 然し 戀の 續く 如く この 嵐も 續いて
 本統の 夜に なつた 時は、まこと 僕等の 世界だ――
 嵐は 二人の 枕元に 響いて
 物凄い、奈落 の 眠り(これが 戀の 心だ)を 實現した。
 宇宙 萬物 を 無 にした 妖女は 鳥ちやん だ。
 影も 形も ない 肉の あツたか味、
 之を 抱擁する 心 には 底が ない。」

「素ツぽかしても氣の毒だが」と、義雄が思つてゐた約束の試驗手傳ひ日も遂に過ぎてしまつた。「あの鹿爪らしい校長や校長派の感情をまた損じたに違ひない。」
 然し、もう、學校の講師などはどうでもいい。自分は自分の思ふ通りにやつて行つて、教育界からは勿論、文學社會からも見棄てられたところで、その時はそれまでのことだ――
 學校の校長などと云ふものは、ただその地位を大事がつて、兎角、事勿れ主義をやつてゐるものだ。生徒の實力啓發など云ふことは、その實、第二、第三の問題にしてゐる。そんな内實も知らないで、世間體をばかりつくろつてゐる創立者や常任理事は馬鹿な奴だ。あの學校の理事は圓滿主義を以つて男爵になつた人だ。それも惡くはない。あの創立者は天秤棒のさかな屋からわが國有數の御用商人になつた。それもえらいと云へば云へる。そして、わが國や朝鮮に自分の名を冠した學校を二つも三つも建てて、それで男爵を贏ち得ようとする。それも貰へれば結構だ――
 ところが、學校は男爵を貰ふ用意の看板だけで、教育その物は殆ど全くどちらでもいいに至つては、あの拾五萬や三拾萬や五拾萬の金をただその土地や建築物が代表してゐるに過ぎない――
「いや、そんなことはどうでもいいのであつた。」かう義雄は思ひ返して、自分はただ自分の主義と主張と自己の存在とを確かめさへすればと、机の前にしよんぼりとかしこまつた。そして自分の一生懸命に努力した著作が斯く世間で持て餘されるのに憤慨した。
 この最後の憤慨の爲めに、つい、お鳥のことなどは全く忘れてゐた日であつた 待ちに待つた二論文の原稿料が揃つてやつて來た。
「旦那、二つもかはせがやつて來ましたぜ」と、宿の主人が嬉しさうにそれを持つて義雄の寢てゐるそばへ來た。
 渠は數日來失つてゐた氣力を一時に回復して、直ぐ床を跳ね起きた。そしてまだ正午に少し前なのを見て、たつた十五分に迫つてゐる汽車で出發することにした。
「ぢやア、ね、早く車を一臺呼んで下さい。」
「へい、かしこまりました。」
 主人は急いで二階を降りて行つたが、義雄も手早く革鞄かばんに手荷物を纒めた。押し入れには、アブサントの舶來瓶の明いたのが二本ころがつたばかりになつた。渠はそれを二本ともわざ〳〵横手の窓から下に投げたが、小川のふちの石垣に當つて、かちやんと毀われたのを見て、この甲州といふ冷淡なかたきに復讐をしてやつたかのやうに氣持ちよく感じた。
 恥辱の旅――孤獨の宿――富士の高い峰が雲霧の間に見え隱れして、萬人の靈までも呑み下だす殘酷なおほ奧津城の如く臨見、壓迫する最も憂鬱な土地を、義雄はかう云ふ風にして逃げ出すことが出來た。
 土産みやげはただはち切れさうに熟した葡萄の一と籠――この粒立つぶだつた葡萄の實にお鳥の張り詰めた血の若々しさを偲びつつ、渠はやツと目ざした汽車に乘ることが出來た。
 中央線のトンネルだらけは、夜汽車でやつて來た時も物凄くあつたが、義雄が今度鹽山の方から笹子トンネルを拔ける時、がツたん、がツたんと狹く籠つた大きな音に、自分のすかして眠らせて來た死が果して怒り出して、追ツ驅けて來たかのやうな怖ろしい壓迫を、七八分間も受けた。
 八王子へ來て、武藏野の廣く開らけた野づらを見た時、渠は、もう、目的の女の微笑する顏が見えるやうに、初めて人間らしく生き返つた。


 義雄の名義で二階を借りた家の主人――原田清造と云ふ――は、義雄等の旅行中に郷里の方から歸つてゐた。

 この人は義雄と同じ學校の漢學講師であつたが、老朽の爲めにやめられた後、郷里の田地を融通して、谷町に二三の借家を建てた。且、細君には逝かれ、若い家族は三番息子の潔の外皆その郷里や鶴見へ行つてゐるので、親戚からお政と云ふのを頼んで來て臺どころをやつて貰つてゐる。
「おい、潔、田村を呼んで來い。」
「またお父アんは酒を飮みたいんでしよう。」斯う潔はよく答へたさうだ。
 こんな風で義雄はこれまでにも老人のいい話し相手になつて來たのだ。が、今度義雄が甲州からの歸りを先づここへ行つて見ると、お鳥は何よりもさきにこのうちが面白くないことを告げた。女として人の目かけになんかなつてるのは不心得だと忠告するのは相ひ手にしなければそれでいいとしても、お政さんまでが人を馬鹿にして臺どころの手つだひをさせようとすると云ふのだ。
「まア、暫らく默つてなよ、おれにも考へがあるから」と云つて、義雄はまた自分としての何よりもさきに原田家の下の八疊座敷でみやげ物を開らいた。そして直ぐお鳥とお政さんとに小酒宴の用意をさせた。
 主人の老人は酒さへあれば肴は何でもかまはないたちなので、あり合はせのするめに湯豆腐で澤山であつた。
「お父アんはお酒ばかりを頂戴おしなさいよ、わたし達はこれをやりますから」と、潔さんが先きに立つて葡萄に手を出した。
 若いもの等が三人互ひに奪ひあつて、立派な粒から先きへうまさうに喰つてゐるのを見て、義雄は、
「それだけになるまでの間の、おれの創作的努力と苦心をも知らないで」と思つた。この場合、苦心とはかはせを待つてたことなので、これを老人へは、猪口を取りかはしながら、あり體に話した。すると、
「それはそれで結構だが」と、老人は意味ありげの口調で、「君は今回餘りしやれたことをやり出した、な」
「いや、そのことだけは――」義雄はお鳥と顏を見合せたが、再び老人の方へ決心のある目を向けて、「云つて貰ひたくないのです。惡いと云はれれば惡くないことはないのですが、止むを得ないと辯解すれば、また辯解出來ないこともないのです。」
「そりやア、君が細君を嫌つてゐるのは分つてゐるが、子供もあるのだから――」
「だから」と、手を持つて下に押さへ付ける眞似をして、「何も云つて貰ひたくないのです。」
「然し、少しひどくはないか、ね?」
「ひどいも、ひどく無いも、僕の決心一つでやつてゐることですから――」
「さう云つてしまへば、僕も別にそれ以上の忠告を與へる餘地もないが――君の細君に知られたら、僕が面目ないわけだから――」
「いや」と、義雄は言葉に詰つた。自分等の宿をするのを斷わる氣かと思つたのである。「そんな野暮なことは云はないで、續いて僕等を置いて貰ひたいですが――知らない家の間借まがりをするのも何だか不安心ですから、ねえ。」
「そりやア、君がたツてと云ふなら、僕もかまはないが、どうだ、お鳥さんにも女の道を充分仕込んでやつたら?」
「ふん」と、お鳥は鼻で返事をして横を向いた。
「女の道と云ふと――」義雄には最初分らなかつたので、例の道學根性から目かけのやうなことなどよさせるやうにしろと云ふのかとも考へた。が、直ぐそれがお鳥の訴へた臺どころの手傳ひであると分つた。
「朝寢坊ばかりしてゐないで」と、老人は笑ひにまぎらせながら、「うちの用事も少し見習ふやうにしたら――?」
「ほ、ほ」と、お政さんはお鳥の顏を朋輩らしく見たが、お鳥がむツつりしてゐたので、その目を老人の方へ轉じた。
「それも惡いことではないでしようが」と、義雄は成るべく當りさはりのないやうに、お鳥のことを意味しながら、「これは然し別な目的の爲めに――たとへば、琴なり、またはほかの物なりに――專ら熱心にならせて見たいのです。」
「琴はあたひ嫌ひよ。」お鳥も老人の云はうとする言葉を邪魔するつもりでらしく、お政さんへ口を出した。
「さう」と、お政さんは答へた。この子がお鳥を朋輩にしようとするのも尤もで、丁度同年輩だ。
 潔さんは別に何も云はなかつたが、葡萄の殘りをみんな喰べてしまつて、自分の筒袖の端で口のあたりを拭いてゐた。

「君の考へがさうきまつてをるなら、もう僕は云ふこともないが――」かう云つて老人は話題を轉じた。お鳥が頻りに義雄を二階へ連れて行きたさうにするのを、
「まア、そんなに旦那さんばかり大切にしないでもいいぢやアないか」とからかひながら、義雄に猪口ちよくをさすのである。
 お鳥は待ちかねてか獨りで二階へあがつてしまつた。その跡を義雄ももぢ〳〵し出したのを見て、老人は、
「もツと飮み給へ、君の新らしい夫婦のさいさきを祝ふのではないか」など云つた。
「然し、もう、お政さんがゐ眠りをし出したし、實際、夜も更けたのですから、あすまた飮み直しましよう」といつて、そこをはづした。
「‥‥」老人は、こちらのおごつた酒にだが、何だかまだ物足りなささうにしてゐた。それは獨りになるのを寂しいのだらうと思へて、こちらに取つては氣の毒におぼえられた。
「まだ東京は暑い、ね」と云ひながら、二階へ行つて見ると、お鳥は獨りでとこへ這入つてゐた。眠つてゐるのかと思つて、義雄は靜かにそのそばへ行き、顏の向いてゐる方のかけ蒲團の端に坐わり、醉つて苦しい息を吐いた。
「酒臭い、臭い!」かう、突然叫んで、お鳥は反對の方へ顏を向けた。そして自烈たさうに、「人が一週間も待つたのに、平氣であんなおやぢと酒ばかり飮んでゐて――」
「そんなに待ち遠しかつたのかい」と、義雄はかの女が急いで歸つた時の冷淡を思ひ出しながら、意外に感じた。が、それが當り前であらう。鹽山でかの女に熱が俄かに出て晝間からとこへ這入つた時、こちらは書き物にいそがしい中を温泉附近の醫者を呼びに行つてやつたり、氷を缺いてやつたり、一と晩中、よく介抱もしたりした。そして、その熱が取れてからも、温泉へ二三日目に這入る時、女湯の方へ行つて、自分でかの女の弱つたからだ中を洗つてやつた。人は目を圓くして見たり、笑ひ合つたりしたが、それを心にもかけず、よく痛はつてやつた。
「さう、さ!」と、かの女もその聲を全身から出したのがこちらのからだにも傳はつた。
「ぢやア、おれの歸るまで一緒にゐて呉れたらよかつたのに。」
「‥‥」
「實際、寂しかつたよ――手紙もよこさないで、さ。」
「でも、」と、こちらへ向き直り、「行き違ひになつたら詰らんぢやないか?」
「早く歸らうと思つたツて、金が來なかつたら仕方がない――おれの手紙は讀んだらう?」
「うん。」
「それで初めておれの心が分つたのか?」
「さうぢやない」と、恥かしさうに笑つて、肩をすくめた。
「本郷へは行きやアしまい、ね?」
「本郷ツて――?」
「黒ん坊、さ。」
「まだそんなこと疑つてるの?」
「さうだらう、さ。」
「馬鹿!」片手で起きあがつて、片手で義雄をつき飛ばし、自烈たさを顏のしがめ方に現はして「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」と、こちらの崩れた膝を二三度つめつた。「そんなこと、誰れがした?」
「さうおこらなくてもいい、さ。」
「それより、自分こそ。」と、かしらをまた枕に落とし、「何をしてたか分るもんか?」
「ぢやア、おれが受け取つた金と使つた高とを見るがいい、さ。」かう云つて、義雄は紙入れから稿科の通知状やら宿屋の受け取りやらを出した。
 お鳥が腹這ひになつて、それを調べ合はせてゐるのを見て、こちらは女の信用を得るには、いつも、この手に限ると思つた。

 義雄もとこに這入つてから、お鳥はこの家を早く立ち退きたいことを語つた。そして、渠はそれもよからうが、どこへ行つても、他人とは何か知らん悶着の起るものだと云つて聽かせた。
「でも、ここの奴等はみな氣に喰はん。」
「お政さんの手助けにしようと云ふだけのこと、さ。」
「それで自分の顏が立つか――あたいをここの下女にさせて置いて?」
「だから、おれもそれとなく斷わつたぢやアないか?」
「人間らしいのはまだしも潔さんだけだ。」
「若い男なら、いいのだらう?」
「またそんなこと!」かう云つて、かの女はこちらの胸を突いた。が、これまでにない優しさと熱心との加はつてゐるのを知つて、渠はかの女も餘ほど寂しい目に會つてゐたのが分つた。
 多少長くなつた夜も直ちに明けてしまつたが、二人の起きたのはずツと遲かつた。
 そして、かれこれと二人が私かにもつれ合つてゐるうちに、早ゆふ方となつたので、義雄は昨夜の約束通り下の座敷でまた酒を初めさせた。酒で機嫌を取つて置く氣なのである。原田老人は多少醉ひがまはつて來てからも、もう、昨夜のやうな教訓めいた、忠告めいたことは云はなかつた。その代り、渠は、義雄の困つたことには、例の待合へ附き合へと云ひ出した。
 渠が、時々無聊を感ずると、獨りで行く待合が一つ新橋にある。別に藝者を呼んで騷ぐのでもなく、いつも、その帳場の長火鉢にくツ付いて、渠と殆ど同年輩の婆々アおかみを相ひ手に、渠が盛んであつた時のむかし話をしながら、ただするめ酒を飮むのがおきまりだ。
 義雄も一度連れて行かれて知つてるところだが、そこのおかみが一度年甲斐もないお化粧をして、細君が亡くなつたあとの老人の家へやつて來た。渠はただ昔の借金の催促かと思つたら、それは表面のてれ隱しに云ひ出しただけであつて、本意は自分があと釜に坐わつてもいいから、悲運つづきのその商賣を一緒になつて盛り返して呉れと云ふのであつたさうだ。
「お前さんを女房にするまでまだ老いぼれてゐないよ」と、渠は憤慨してその婆々アを追ひ歸してから、暫く足を拔いてゐることも、義雄は渠から話されてよく知つてゐる。
 そこへ附き合へと云ふのは、このおやぢ、今夜は餘ほど何うかしてゐると義雄は考へた。こちらのつやツぽい事實を見せつけられて、渠も亦氣を若返らせたのだ、わいと考へられた。
 で、義雄は迷惑さうな顏をして、
「お付き合してもいいのですが――」
「いやか」と、老人はさきまはりをして、珍らしく不機嫌さうに、「いやなら、僕獨りで行つて來る。」
「實は、これが」と、義雄はお鳥をちよツと返り見て、「反對するにきまつてますから。」
「君は君の樂しみをし給へ、僕にはまた僕相應の話し相ひ手があるから」と、苦笑しながら、椰子の實の煙草入れと太い銀煙管とを取りまとめて腰にさした。
「あんなお婆アさんとこなどおよしなさいよ」とお政さんはそばからとめた。
「お婆アさんが目的ではない、もツと、うまく酒を飮んで來るのだ。」
「お酒なら」と、お政さんはお鳥と顏を見合はせて冷笑し合ひながら、「わたし達がお酌をします。」
「お前では氣が利かんし、お鳥さんには氣の毒だから、なア」と、當てこすりのやうな態度を以つて立ちあがり、隣室で勉強してゐる息子に向ひ、「潔、下調べが濟んだら、獨りで寢てゐなよ。」
「はい」と、から紙越しの返事がした。

「待合と云やア結構なやうだが、婆アさん相ひ手のするめ酒は、もう二度とは眞ツ平だ」と、義雄は老人をあざ笑つたが、自分も一度はあんな年輩と状態とになる時もあると思ふと、同情の念を禁ずることが出來なかつた。
「ぢぢイでも、色けがあるんだ」と云ふお鳥をたしなめながら、然し、その夜もそこに寢てしまつた。
 翌朝、少し早く起きて食事を濟ませ、義雄は旅かばんを持つてそこを出た。毎日のやうにとほつた谷町から箪笥町の通りや、箪笥町と今井町との間の市兵衞町へあがるだら〳〵坂や、我善坊の細い通りも、何だか物珍らしい。自分の家へ歸つて行く氣持ちはしないで、長らく無沙汰をしてゐる人の敷居へ近づくやうな氣がする。そして家へ這入つてからは、直ぐあがつたところのはしご段やつき當りの庭が見えると、確かに自分の家だと云ふ強みは出たが、今度はまた、誰れも迎へに出ないのが物足りないと同時に、留守に何か大事件が起つたのではないか知らんと云ふ心配が胸をどき付かせた。
 縁がはで、おもちやの學校かばんを肩にさげた知春と出くわしたが、この子はびツくり顫へあがつた樣子をして、伏し目に下を向いた。そして、義雄が默つて行き過ぎるのを待つて逃げるやうにばた〳〵と臺どころの方へ行つた。
「父ちやん、父ちやん」と云つてるのが聽えた。
「さう――お歸んなさつたの」と云ひながら、千代子が急いでやつて來るやうすだ。
「またあの顏を見なければならないのか?」義雄がいやな物を避けるやうに目を据ゑて、元のままになつてゐる机の前に坐わつたところへ、かの女は出て來た。
「お歸んなさい。」明いた障子のそとから少し腰を曲げたからだを右の手で壁の柱へささへながら、「大相御ゆツくりでした、ね。」
「‥‥」渠はふり向きもせず、默つてにがり切つてゐた。
「今お茶を持つて來ますから、ね。」千代子がこちらの樣子を既に察してゐるやうなとぼけかたで引ツ込んで行つたあとまでも、義雄の心は落ち付けなかつた。
 お鳥の目が自分の衰弱した神經の微動にもまつはつてゐるやうで――まだ午前中であるこの可なり樹木の多い山下の空氣を吸ひながらも、呼吸が少し迫つて、机に肱を付いて見た手の指さきが顫つてゐる。
「奧さんがおありなら、暫らく遠ざけてゐなければなりませんぞ」と、甲府の病院で云はれた忠告を思ひ出し、自分の左りの耳は繃帶を取つては來たが、まだよく聽えないのに今更らの如く氣が付いた。
 右の耳を押さへて、庭の雀の啼き聲を幽かに聽いてゐると、いつの間にか知春が、二三の來状とタムソンと書いた名刺とを机の上に置いて、
「父ちやん、おみ――あげ」と小さい手を重ねてゐる。
 それを見たこちらの心は、心からすすりあげるほどのもろい情に打たれた。が、あの千代子が無邪氣な子を使嗾してゐるのだと思ふと、つい、また憎くもなつた。且、千代子が茶の用意をして出て來たので、優しい返事も出來なかつた。
「そんな物アない。」
「ないツて」と、子はつらさうに又恥かしさうに母の坐わつた肩へもたれかかつた。

「ひどいのです、ね、おみやげ一つないのですか?」かう云つて、千代子も失望して、急須に湯をつぎかけた鐵瓶を持つたままこちらの顏を見た。
「それどころぢやアなかつたのだ。」渠は慳貪に答へて、自分の落ち度をいそがしい執筆と病氣との理由に押し消さうとするのであつた。
「誰れか連れてツてたのでしようから、ね」と、かの女は笑ひながらこちらの樣子をうかがつた。
「なんだ?」怒つたやうな、また、さうだと返事したやうな聲を出して、渠も口には笑みを漏らした。機先を制せられて、張り詰めてゐた反抗心は失つたが、再び慳貪に、「連れて行かうが行くまいが、おれの勝手だ。」
「それはそれで構ひませんが」と、かの女の出方も案外におだやかで、「子供はお父アんがいつ歸るだらうツて、樂しみにして待つてゐたんです、わ。」
「みやげが欲しけりやア、これで買へ。」義雄は紙入れから五十錢銀貨を出してほうり投げた。
「これでも、氣はこころですから」と、千代子はそれを拾ひあげて、知春に向ひ、「ありがたうとお云ひ――坊やも段々利口になつて行かないと行けないよ。無理ばかり云つてちやア――」
「お歸んなさつたのですか?」繼母も出て來て坐わりかけたが、
「おみやげが無いんですツて」と、千代子が訴へるやうに云つたので、
「さう? ――わたしのところに少しお菓子の殘りがあつたツけ。」かう引き受けて、繼母はまた引ツ返して行つた。
「あなたのお留守に來た手紙はそのたんびにをして送つた筈ですが、きのふけふに來たのはそれだけです。それから、その名刺の西洋人が尋ねて來て、いつ頃になつたら歸ると聽いてました。」
「また飜譯でも頼みに來たの、さ。」
「歸つたら、直ぐハガキでも出すからと云つて置きましたから、あなたから知らせておやりなさいよ。」
「うん。」むツつり答へたが、渠はどうしてもうち解ける氣になれない。
 そこへ繼母が五つばかり最中もなかの這入つた菓子皿を持つて來て、
「もう、これツぽつちだけれど、壺屋のは久し振りでしよう――」
「菓子どころではなかつたのです」と、渠はつツかかるやうな口調だが、繼母には多少遠慮したつもりで語つた。その實、千代子に聽かせるつもりだ。「僅かの日限に二百枚以上の原稿を書いた爲め、耳を痛めて、今でも左りの方の聽えが遠いのです。これから直ぐ醫者へ見せて來ようと思つてます。」
「さうださうです、ね、耳が。」
「誰れが話しました?」義雄は何でも、もう分つてゐるのかと思つた。
「誰れが云ふにしろ」と、千代子が受け取つて、「何でもちやんと分つてますよ。耳のことも、それで却つてあの強情な男が人並みにおとなしくなれるだらうと、いつかの萬朝報に冷かしてありました。」
 繼母は義雄の鋭い顏を見て笑ひながら、知春のせがむままに最中の一つを取つて渡してゐる。
「人並みになつてしまへば、」と、渠も半ばほほ笑みながら、而も今のわが國の文學界に對する自分の今回の努力は決して無駄にならないと云ふ確信をふところ手させて、
「おれのやらうとする仕事が滿足出來るものか?」


 知り合ひの博士がやつてゐる耳科病院で診察と手術とを受け、當分は毎日かよつて來いと云はれてから、義雄は先づ笛村を訪ふと、留守であつた。
 で、その近處に住んでゐる詩人で、前者と共に「耽溺」を持つて歩いて呉れた友人に會ひ、それの出版は今のところ危險がられて、とても見込みないことを聽いた。雜誌にでもと思つて、笛村が現代小説社へ行つて見たが、そこではまた餘り長いからと云つて斷わつたさうだ。
「然し雜誌になら出さないこともなからう」と、渠は自分で日本橋通りへ行き、現代小説の主筆に相談して見た。初めは矢張りしぶつてゐたが、たツてと云ふなら、引き受けることにするが、稿料の半額だけを明日渡し、そのあとのは雜誌に出た時、渡さうと云ふことにきまつた。
 先づ一と安心したので、その足で村松を訪ひ、出發前に借りた金を返し、久し振りの一杯を共にしてから、一緒に養精軒へ行つて玉突をやつた。
 勝負にさん〴〵負けて、お鳥のもとへ歸つたのは九時過ぎであつた。かの女は、もう、とこに這入つてゐた。
「おい、あの原稿のかたをつけて來たぞ」と、義雄は嬉しさうに云つた。
「さう。」かの女は枕の上でちよツと微笑したが、直ぐそれが苦笑に落ちて、不斷、艶のいい顏が電燈の光りに青ざめてゐるやうに見えた。
「どうかしたのか?」
「痛いの。」
「どこが?」
「‥‥」
「えツ?」渠はかの女の無言なのが萬事を語ると思つた。あれだけ、これまで用心してかかつてゐたのに――!
 渠はかの女の枕もとに坐わつたまま顏をむけて、暫らく自分の三四ヶ月以前までの苦しみと不愉快とを考へた。そしてお鳥とも絶縁しなければならないことの餘りに早く初まつたのを後悔しないではゐられなかつた。
 かの女の高まつた呼吸がひどい鼻息に聽える。でも、今夜から別々な眠りだと思ふと、元の他人だと云ふ氣もして、どう手をつけてやつていいのか分らなくなつた。
 かの女はこちらの冷淡なのに激して、蒲團をはね飛ばして起き直つた。そして青い顏の青い目でこちらを睨みながら、
「どうして呉れる?」
「どうツて」と、冷やかにかの女の方に向いて、「醫者に見て貰ふより仕かたがない。」
「いやだ、いやだ!」からだをゆすぶつて、「醫者なんぞに見て貰ふもんか!」
「ぢやア、手療治の道もないことはない、さ。」
「そんなことで直るもんか?」
「全體、いつから痛い?」
「けさから、さ。」
「ひどくか?」
「さうでもないけれど――」
「兎に角、醫者に見せて、早く直す方がいいよ――おれの經驗で見ても、つらいものだから。」
「ふん!」鼻ごゑで泣き出しさうな顏をして、お鳥はまた枕に就いた。そして、これが直らなかつたら打ち殺すぞとか、おこられてもいいから北海道の兄を呼び寄せて強談するとか、頻りにいろいろな恨み言を云つてゐた。
 義雄はかの女が寢ながら獨りでもがいてゐるのを知つてゐたが、きのふからの疲勞が出て、眠くツて、眠くツて仕やうがなかつた。

 とろ〳〵と眠つたかと思ふと、渠はお鳥がにがり切つた顏をして、外出の衣物を着かへてゐるのが目に這入つた。
「どうするのだ?」渠は目がぱツちりしてしまつた。同時に、向ふがこちらを殺す氣ではないか知らんと云ふやうなことが浮んだ。次ぎに、寢床のまはりに刄物が出てはゐないかと見まわして見た。
「自分は醫者へ連れて行かうとしないぢやないか?」
「醫者へ行くつもりかい?」
「行かなくつて、どうする? 一ときでも後れたら、それだけあたいの損だ。」
「そりやア、損どころぢやアない――行くなら、おれがついてツてやるよ。」
 義雄も起きあがつて、衣物を着かへた。そして時計を見ると、もう、十二時を大分過ぎてゐる。
 二人は外出の用意が出來ても、互ひに目を反むけて暫らく默つて突ツ立つてゐた。下では皆よく寢てゐるやうで、外を通り過ぎる夜車よぐるまの音が聽えたばかりだ。
「どこへ行かう?」實は、義雄に當てがなかつた。
「どこまででも行く!」かうお鳥はかた足で疊を踏み叩いて云つた。「醫者のあるところまで行く――醫者が無かつたら、警察へいつて、お前の不埒を訴へてやる!」
「そりやア、それでもよからうよ。」
「‥‥」
「でも、ね」と、わざとうち解けた口調で、「そんなことをしたら、誰れがこれからの世話をするのだ?」
「世話するものなんぞ入らん! 裁判所へ出てでも、お前から無理に治療代を取つてやる!」
「そんなことはしなくツても、おれが直るやうにしてやる、さ。」
「分るもんか?」
「さう心配するな。」渠はお鳥の背中へ手をかけて、動悸の烈しくしてゐるのを衣物の上からさすつてやつた。
「ふん、つらい! つらい!」かの女は二三度からだをゆすつて、こちらの顏を憎々しさうに見詰めたが、ぽろ〳〵涙がこぼれる目へ長い袖を燒けに持つて行つた。
 かう心がいら立つて來たら、かの女が外で何を仕出かすかも知れないと思つたので、分りきつてゐることだが、念の爲めに云つて聽かせた――餘り輕卒なことをすれば、渠自身の惡名が出るばかりでなく、同時にかの女も歌はれて、それこそ、かの女が常々最も心配する通り、その兄弟や友人に再び顏を合せることが出來なくなるかも知れないと。
 かの女はただ聲をあげて泣いた。
「今ごろ見ツともないから泣くのだけおよし、ね。一緒に醫者は見付けて上げるから。」斯うなだめすかして、渠はあす、また金が取れることを語つて、治療代には決して困らないことを示めした。
 夜が更けると、街道を吹く風が、もう本統の秋だ。寒けがすると云つて、お鳥がわざ〳〵袷せ羽織りを出して着たのは、利口であつた。
 宵なら隨分賑やかな通りではあるが、もうみな戸が締つてゐた。各店頭の軒燈もぽつり〳〵消え殘つて、眠たさうにまたたいてゐる。そして、二人の無言で投げる影が四つにも五つ六つにも黒い地上に寫つた。

 無言で歩きながらも、義雄は、二三歩あとから附いて來るお鳥が、突然飛びかかつて來て、ナイフか何かの鋭利な刄物で自分の背中をつき刺しはしないかと云ふ疑ひも起つた。
 で、通りの暗い隅を行く時などは、向ふの後れを待つてやるやうな振りで、實はおづ〳〵ふり返つて見た。
 ところが、ふり返つて見る度毎に、かの女の伏し目がちにしてゐる顏が、街燈のあかりのさし加減で、眞ツ青に見えたり、眞ツ黒に見えたりする。
 眞ツ青でもいい。また、眞ツ黒でもいい。が、その度毎に、かの女の顏からふツくらした肉附きが殺げて行くやうだ。
 家を出た時も既に筋肉の働らきがとまつたかのやうなこわい顏であつたが、一歩々々、闇を拔けるに從つて、筋肉のうちに藏してゐた刄物のやうな骨が現はれて來たのだらうかと思はれた。そして、もツと行くうちに、かの女の骨ぐみが全く刄物その物になつて、こちらの身につき刺さるのではないかと云ふ心配まで起つた。
 考へて見ると、かの女は鹽山にゐても、本統に愛されようとはしなかつた。まして自分から愛しようとするなどとは恐らく夢にもなかつたらう。
「可愛いのよ」と、自分も口に出し、また實際全身にその意味の力を込めたと思はれるのは、この二日二晩のことだ。そしてそれが結局かの女には惡夢であつた。
「罰當り! もう、どうせ、おれに愛せられようといふ氣も出まい――おれを愛しようと云ふ氣はなほ更ら出まい。今までは五歩も十歩も讓つてゐたおれだが、もう、なアに、一歩なりと假借しないぞ!」かう義雄も殘忍な性質をあらはして見ると、後ろから附いて來るお鳥が腐れ縁といふ鎖りを引き摺つた痩せ犬であるやうに思はれた。
 黒田邸の外壁にさしかかつた時、それに添ふて掘れてゐる大きなどぶがあつた。渠はこの中へこの附き物を突き落して、暫らく身を隱してしまはうかとも思つた。が、そばの交番から巡査が出て來て、瓦斯燈のそこ光りを擴げたので、素直にそこを通り過ぎることが出來た。
「‥‥」お鳥も物は云はなかつた。
「困つたものを引き受けなければならなくなつた」と思ふと、星だらけの夜ぞらを仰いでも、その暗い部分だけが目にも心にも殘つて、自分とかの女との見分けが附かなくなつた。
 黒田のすぢかひに、西洋建ての藥局を持つてゐる大きな藥種屋がある。渠はそこでいろんな注入液を買つて來て、私かに不愉快な手療治をやつて見たことを思ひ出した。
「まだなほりませんか」と、そこの番頭がこいぎになつて云つたツけが――。
「この病氣に罹つた以上は、とても急になほりやアしない」と、ます〳〵燒けな冷酷を、押し詰つた自分の呼吸に引き入れた。
 赤阪田町六丁目と福吉町とが挾んだ通りは、片かはが矢張り黒田邸につづいた一條邸で、繁つた樹木の影などで暗かつた。お鳥はそこで足をとどめた。ひやりとして、義雄はその方へふり返つた。
「どこへ行くのよ」と云ふ自烈たさうな聲が聽える。
「まア、附いてこい!」ついけはしい返事をしたが、別に訂正もせずに、そのまま進んだ。實際、あてはないのだが、この先きへ行くと待ち合や藝者屋が多いから、そんな場所にはそんな醫者がゐないことはなからう位の考へはあつたのである。
 田町三丁目のよく玉突きに來た赤阪亭のあたりへ來てから、ふと思ひ出したのだが、赤阪見附けのそばに梅毒、痳病、皮膚科專門といふ看板を出してあるところがあつた。
 渠はそこへ行つて、そこを無理に叩き起した。


 原田の家から、毎日、義雄は本郷の耳科病院へ、お鳥は赤阪見附けの醫者へかよつた。
 お鳥は實際に顏いろも惡くなり、肉體も痩せて來たほど、自分の病氣を氣にばかりして、琴の稽古を初めないのみならず、裁縫學校のことも殆ど全く云はなくなつた。
「まア、氣長きながに氣を落ちつけて養生してゐないと、この病氣は直るものでないから。」かう云つて、義雄が時々氣ちがひのやうに泣きわめくお鳥をなだめることもあると、
「では、もう一度どこかえい温泉につれて行け」と、かの女は云ひ張つた。
 が、渠は鹽山で苦しい目に會ひ、而もつれて行つたかの女には殆ど冷遇されどほしであつたことを思ふと、再び湯治などとしやれる氣にはなれなかつた。
 且は、成るべく病人のぐずり泣きに接する機會を少くしようとして、耳科醫通ひと學校を教へに行く時間の外でも、晝間は多く我善坊の家で勉強し、夜も遲くまで友人のところや玉突き場で暮した。
 それでも、必ず谷町へとまりに行つた。そして、その理由が近ごろ段々自覺されて來た。渠は愛も結局獸慾だと斷定してゐるが、その獸慾が滿たされない今日、妻とは今年の初めから絶縁してゐる。それと同じ状態を、何の必要があつてまたお鳥の元へ引きつけられるのか?
「おれには、觸覺が特別に發達してゐるのだらう――大理石の彫像のきめが細かいのを愛するやうに、おれはかの女の羽二重の肌を賞翫してゐるのだ。」渠はかう考へ込んでゐるが、その女の白い手あしの肌もこの頃は粟つぶのくツ付いたやうに粒立つて來た。
 或朝、千代子は義雄の歸宅するを待ちかまへて、
「あなた、清水を原田さんのところへ置いてあるんですか?」
「置かうが、置くまいが、おめえの知つたことかい!」渠はわざとそら〴〵しく答へた。が、もう、感づかれてゐるだらうとは、お鳥がその友達に見付けられたと云つた時から覺悟してゐたのである。
「隱してゐても」と、睨むやうな目附きで、「ちやんと、人が知らせて呉れます、わ。」
「‥‥」
「そこの駄菓子屋の娘が丁度あいつが這入るところへ出くわしたさうです――藥り瓶を提げて、いやな顏をしてイたさうだから、きツとあなたのが、案の定、移つたんでしよう――?」
「お前の身代りだと思やア、恨みツこはない筈だ。」
「あの罰當りが!」かの女は坐わつた胸を少しそらして、さも氣持ちよささうに笑つた。「いい氣味だ!それでこツちの恨みが少しでも晴れたと云ふものだ。うちのものはどれだけ恨んでたことだか、云へたもんぢやアなかつた。」
「馬鹿を云ふな!」義雄はさう聽くとお鳥を辯護したくもなつて、「苟くも、暫らくの間だツて、おれの物にした以上は、おれのからだも同樣なものだ。」
「あなたはあなた、さ。」かの女は横を向いたが、筋肉のぴく〳〵動く顏をまた向け直して、「それにしても、あの宿料を早く取つて下さいよ。」
「宿料ツて――」
「あいつが喰ひつぶして行つた分です。」
「ああ、あれか?」義雄は今思ひ出したかのやうな風をした。

「そんなものア、もう、とツくに取つてしまつた。」
「そんなら、こツちへ渡して下さいな。」
「何も、お前に渡す必要はない――おれが直ぐ使つてしまつた。」
「いい加減なことをおツしやい!」千代子は躍起になつて、その充血して來た目を飛び出しさうに浮ばせて、「きツと、そのままにしてやつたんでしよう? あの女のことだから、きツと、男の膝にでも寄ツかかつて、あたい、もう、拂はんでもいい、わ、ね、とか何とか云つたのを、あなたはあなたで、鼻の下を長くして、うん、さうともさうとも!」
「よせ、馬鹿!」
「よせません!――お前のことだもの、うちの方へはどうとも胡麻化して置いてやるツ」と、かの女はまだ、こちらの云ひさうなことを、せりふか何かのやうに、顎に力を入れて、しやべりつづけた。
「よせと云やアよせ! 芝居に出る惡婆々あくばゝアの稽古でもあるめいし。」
惡婆々あくばゝアでも、もとはお好きであつたのでしよう――?」
「‥‥」義雄は横を向いた。相ひ手にするのもいやになつた程かの女を憎々しく思つた。然し、かの女は餘ほどいい考へでも出たやうに聲の調子を高め、
「どうです、わたしを一つ役者にしたら?」
「‥‥」
「正直な役者になりますよ。」
「‥‥」
「正直な――忠實な――あなたの思ふ通り働らく――さう云ふのがあなたの前から欲しがつてる女優でしよう? 受け出して貰つたら、直ぐ逃げて行く薄情ものでもなければ、講習生に目見えに行つて、それツ切り歸らないしろ物でもありません、わ。」
 義雄のあたまには、藝者吉彌の思ひ出やかの女優志願者周旋の失敗やが、自分の威嚴があると思ふ歴史を恥かしめるやうにひし〳〵ときざみ込まれた。そして、渠はかの女がどんなに皮肉な顏をしてゐるのかと盜み見ると、きよと〳〵した眞顏であつた。で、睨み付けて、
「氣ちがひ!」
「でも、あなたはまた清水をおしまひには女優にする氣でしよう?」
「そんなことが分るものか?」かう云つて除けたが、義雄にはその考へがないでもなかつた。が、まだ自分以外には、お鳥そのものにも云つてない。
「分りますとも――わたしにやア、ね、正直の神さまが附いてゐますから、どんなことでも、人が云つて呉れます。云つてくれなけりやア、また、このわたしの心の目に見えます。」
「それが既に氣ちがひの證據だ。」
「何の證據でも、わたしはあなたのやうなお人よしぢやア御座いませんから、ね。」
「‥‥」義雄はぎツくりとして考へた、自分はこれまでに人の約束を信じて馬鹿を見たこともある。なけなしの金を無理に貸してやつて、その儘にせられてしまつたこともある。女にうち込んで、却つて向ふにもて遊ばれたやうなこともある。が、すべて身づからさう許して、別な覺悟の上に立つて來た。その覺悟は矢張りしツかりした自我主義で、この根本を侵されない以上は、毫もはじることはなかつたと。そして自分を知らない妻の言葉を非常の侮蔑と見て、突ツかかるやうに怒鳴つた。「お人よしとア何だ?」

「お人よしぢやア御座いませんか?」千代子は態度の變つた所天をつとから身を警戒しながら、早口に、「あなたは何でも自分でやつて來たと思つてるんでしようが、ね、みんなわたしのお蔭ですよ。吉彌の時でも、わたしが日光へ出かけて行かなけりやア、始末が付かなかつたんぢやアありませんか? そして、あなたがわたしに隱してしたことはみんな失敗です。――隱してゐても、知れるから不思議だ。――これはあなたに長年いじめられて來たお蔭かも知れませんが、ね、あの女優志願の女でも、いい女はいい女だが、わたしが蔭でちよツと見て、こりやア駄目だ、な、と思つたら、果してその通りでありました。――今度のことでも、その初めから分つてゐたんで、もう、ちやんと呪つてあるから」と、矢張りきよと〳〵した眞顏だが、どこかにその呪ひの場所が實際あるぞと云ふやうな青白い微笑を浮べて、「どうせ、いいことはありツこ無し、さ。」
「‥‥」義雄はじツと妻の方を見た。そして、直ぐにでも得意の平手打ちを喰らはせようと待ちかまへてゐた張り合ひがなくなつた。かの女の顏が馬鹿〳〵しいほど凄い――と云ふのは、こちらから手でも擧げれば、直ぐ飛びかからうと意地〳〵してゐる癖に、堅く横に引き結んだ口のぴくぴく動く口びるから、いやに勝ち誇つた樣子が漏れてゐる。
 鬼女の笑い――執念深い呪ひの女――深夜、髮を亂したあたまに蝋燭を三本立て、口に髮剃りを喰はへ、片手に藁人形、片手にかな槌を持つた丑滿參りを想像して、義雄はぞツとした。このやうにヒステリの高ぶつて來た女なら、それくらゐのことは田舍なら仕かねまいと。
 同時に、かの女が近ごろ頻りに
「わたしには神さまが附いてゐますから、ね」と云ふのも、義雄は氣にならないではない。かの女はさう身づから信ずるやうになつてから、絶えず陰陽に關する書物を讀み出して――うらなひ師になりたいも、餘ほど何うかしてゐるのではないかと、こちらには思はれた。
 が、若し離婚を受けた後の生活準備にとして、そんな下らない陰陽學などを大事さうに讀んでゐながら、なほ且、誰れからか聽いた今の法律を楯に離婚を承知しないかの女のこころ根を思ふと、義雄は如何にもそれが憎くてたまらないのである。
陰陽師おんめうし、身の上を知らずが、もう、今から始まつてるのだ――馬鹿! 手めへのやうに執念深い鬼婆々アこそは、な、どうせ碌なことアねいのだ。」
「どう致しまして」と、喰ひ付きさうに口を開らいたが、また堅く一文字に引いた口の兩端が、こちらにはかの女の耳までも屆いたやうな氣がした。
「そのつらを見ろ!」
「あなたこそ自分の顏を御覽なさい――今に、あの女は――」
「手めへは、な、あの女、あの女とばかり云ふが、おれはお前の考へてるほど清水に夢中ぢやアないのだ。」
「なアに、御遠慮なく夢中におなりなさいよ――今ぢやア、そのはうが早くかたが付いていいんですから」と、かの女は横を向いて、變に笑ひながら、庭を歩いてゐる雀を見た。

「馬鹿! 呪ひが早く利くとでも思ふのだらう。」
「さうですとも――あの女の運命がきまつてしまうんです!」
「ふん、同時にまた手めへの死が來るのだぞ、そんな馬鹿な眞似をしちやア。」
「わたしには神さまが附いてゐて、守つて下さいます!」
「よし、それならそれでいいから、おれは意地にも清水をかばつて見せよう。呪ふなら、もツと、しツかり呪へ! 丑滿どきに隣りの寺のあのおほ檜の木の天邊へでも登つて、ハイカラの藁人形を釘打ちにするがいい。さうしてその天邊からころがり落ちてくたばつて呉れりやア、あツちの女にもさぞ利き目が早からう。さうして二人とも同時に死んで呉れりやア、お前には離婚の手續きをしないで濟むし、清水からも手切れ金や療治代を取られないで方が付くし、おれにやア一擧兩得の策だ。」
「わたしにやアさうは行きませんよ! 子供を育てあげるまでは、なか〳〵死にません。あいつこそ死んでも構はない腐れ女だ――あなたは」と、少し調子をおだやかにして、座を乘り出し、「知らないんでしようが、ね、あいつは前にも女房子もある炭屋の主人をだまさうとしたり――」
「もう何度も聽いた!」
「ぢやア、馨さんを引ツかけようとしたのを知つてますか――あなたの弟御さまですよ?」
「そんなことがあるものか?」
「それだから、あなたは駄目だと云ふんです――馨さんが現在さう云ふんですもの。」
「そんなことア、あつたとしても、どうでもいいんだ!」かう義雄はかの女を押さへ附けてしまつた。が、實は、最も甚しく自分の威嚴をぶち毀わされた氣がした。
 さういはれて見ると、中途から忘れてゐた疑ひが再び思ひ出されないでもない。
 徴兵檢査を二年延ばされた年ごろではあるが、おやぢに末ツ子として可愛がられてばかりゐて、獨りでは汽車の切符の買ひ方さへ知らなかつた、あの卑怯な世間見ずの男に何が出來よう? 田舍に行つてると云ふ、あの自分よりも年上の戀人だツて、本人が下宿屋のあと取りになれると思つたから、そのおかみさんになるのを狙らつて女の方から持ちかけたのに違ひないと、かう義雄は今まで高をくくつてゐたのである。
 お鳥がまだここにゐたうちは、かの女がよく馨の室へ行つて、夜おそくまで寢ころんで話し込んだことも知つてゐた。繼母が親類へ泊りに行つた時など、離れでは、若い男と女とが隣り合つて、各々一と間を占領した夜もあつて、義雄自身がそれを私かに妬ましく思つたことも覺えてゐる。が、その時、まさか、事があつたとは信じてゐなかつた。
 その後、お鳥が調子に乘つて、馨さんがこツそりやつて來たが、うまく云つて斷わつたといふ話をしたときも、かの女の浮氣からの面白半分な捏造だとばかり思つた。
 然し疑つて見れば、お鳥が馨の來たといふのはおのれの行つたのを反對に語つたのかも知れない。また、馨がお鳥の來たことをしやべつたとすれば、それは同じくおのれの行つたのを反對にしやべつたとも考へられる。
 孰れにしても、關係があつたことは、たとへ實際にあつても、云へないに相違ない。
「若しあれが弟のおふるであつたなら」と、義雄の胸には取り返しのつかない樣な恨みと怒りとのほのほがごツちやに燃えた。
「兎に角、あのお金だけはわたしの方へ渡して下さいよ、あなたから預かつたうちの會計が、そんなぢやアやり切れませんから」と云ひ置いて、いやな對照物なる千代子が立ち去つたあとでも、こちらのほのほはなか〳〵靜まらなかつた。そして、あのいやな千代子にだが、お人よしと云はれた自分をさま〴〵に考へて見ない譯に行かなかつた。


 耳科醫へ行つたついでに、義雄は小石川へまはり、秋夢のところで、お鳥との關係が詰らないことになつた不平をこぼしたり、この頃書いてゐる物の内容の一部を話したり、雜誌や新聞に出た問題を論じ合つたり、碁を打つたりして、晩餐を濟ませるまでゐた。
 それから谷町へ歸つて見ると、意外にも迎へに出たのは我善坊の繼母であつた。繼母ばかりなら、丁度都合がいいから、ゆツくりわけの分るやうに自分のこころ持ちを聽かせられると思つた。
「まア、こツちへ入らツしやい」とみちびかれて、直ぐ奧の八疊へ行つて見ると、原田老人が爐ばたに坐わつてゐるこちらに、また意外にも、千代子が例の勝ち誇つたやうなつらがまへをしてゐる。それと少し隔つて、お政さんのそばに下を向いてゐたお鳥がにがい顏をしてこちらを見上げた。
 渠はふら〳〵と癇癪を起こしたので、突つたつたまま、
「また、氣ちがひじみたおしやべりをしたのだらう!」聲はなか〳〵慳貪であつた。
「いいえ、なにも」と、千代子も調子のはづれた甲聲だが、ぶたれはしないかと云ふ心配の爲めにか、爐の方へ少しにじり避けて身を固めた。「わたしは正當なことを云つて、今、原田さんに聽いて貰つたんです。」
「それが氣ちがひだ――貴樣のやうに軌道をはづれた人間が、落ち付いて正當なことを云へるものか?」
「ぢやア」と、目の色を變へて、いざと云へば引ツかきむしりに來さうな手がまへをして、「人の亭主を寢取つてもいいと云ふんですか?」
「何だ!」渠はいきなり右の手をあげて千代子の横ツ面を毆ぐらうとした。
「ぶつなら、おぶちなさい!」かう頓狂に叫んで、千代子は立ちあがりざま、目をつぶつて義雄の兩手にしツかりしがみ付いた。そして、目を三角に明いて、涙をぽろ〳〵落としながら、「さア、ぶつなら、おぶちなさい! ぶつなら、おぶちなさい!」
「‥‥」義雄は默つて千代子の手をふりもぎつて、またなぐらうとした。
「およしなさいよ、そんなこと!」繼母はかう叱りつけて、こちらをとめた。かの女はこんなことがありはしないかと心配してゐたやうにそばに立つてゐたのだ。
 それで、立かけた老人も腰を据ゑたし、義雄も多少氣がすいたので、第一にお鳥を無言でなだめるつもりで、そのそばへ行つて坐わつた。そして渠は高まつた息を身づから靜めようとした。
「寢取つたのではない」と、お鳥は千代子の方へ目をぢツとあげて、然し皆に向つて云ふやうに云つた。これも怒つてはゐるが、その聲は控へ目であつた。
「寢取つたんぢやアありませんか?」千代子は相變らず聲が高く、とがつてゐた。
「よせ、そんな卑俗な言葉は!」かう義雄は一喝してしまつた。が、考へると、兎に角、自分の妻なる者がこんなみだらなことを云ふやうになつたのは自分の罪だ。自分自身の行動に對しては、たとへ社會が同情しないでも、また社會から輕侮されても、それは自分の覺悟の前だから、僞はりの辯解などするつもりはない。が、自分の妻がまだ無垢なお政さんのやうな娘もゐる前でそんな、自分自身でさへ云つたことのないほどの卑しい物の云ひぶりをするのが、道學者的なここの主人の手前もあるから、如何にも不本意に思へた。で、「どうも、妻はこの頃少し氣が違つてゐるやうですから、今のやうな失禮は、どうぞ惡からず」と、渠は老人の方へ向いて、ここの主人と交際し出してから初めての詫びごとをした。

「どう致しまして」と、老人も初めてつぐんでゐた口を開らき、一層まじめ腐つた顏になつた。
「わたくしも惡う御座いました、わ。」千代子も殆ど夢中にのぼせてゐたその勢ひをゆるめた。そしてきまりが惡さうに老人の顏を見ながら、「でも、わたくしが氣ちがひに見えるでしようか?」
「正氣で今のやうな失禮な言葉が人の前で云へるか?」かう、また義雄はかの女をなじつた。
「いや、それは」と、老人は無理に微笑を浮べながら、義雄に向ひ、「君もおこつたやうに、細君も亦腹が立つてをつたからで――惡いと云へば、そりやア、君も少しのぼせてゐるよ。」
「ほ、ほ!」お政さんは笑つた。
「ねえ」と、繼母もおつき合ひにお政さんの顏を見て微笑した。それをお鳥はまた何を云やアがると云ふ風に睨んだ。
「まア、冗談は置いて――お鳥さんにも下りて來て貰つて、今まで二人の云ひ分を聽いてゐたのだが、ね、細君の話すすぢ道はよく立つてをる。何も、ほかの女を持つのが一概に行けないと云ふのではないし、細君が承諾の上で、家族の生活を困らない樣にしてから、やつて呉れと云ふのだ。」
「それも、この人が」と、千代子はお鳥の見向いたこはい顏をあごでそれとさして、「ねだつてるらしい無理や贅澤を――」
「贅澤などしやせん!」お鳥は憎々しさうにさへつた。が、千代子はそれに搆はず、
「無理や贅澤を云ふんぢやアないんです。家族がやツと暮せるだけのことをして下さいと頼むんです、わ。」
「詰り」と、老人が受けて、「承諾を經ないで、隱れ遊びをしてくれるなと云ふんだから、これほどありがたいことは無い、さ。」
「なアに。」義雄はあざ笑ひながら、「話したツて、承諾する筈はなかつたのです。」
「そりやア」と、千代子も負けない氣で、お鳥をまたあごであしらひ、「この人なら承諾しないかも知れません、さ。」
「よせ!」義雄は、横を向いて聽かないふりをしてゐるお鳥をかばふつもりで、「今の問題は清水が元だ。」
「でも、こんな女には限らないでしよう。」
「まア、奧さんは待つて入らツしやい。」老人はかの女を制して、「清水さんも亦よく分つてゐます。かうなつた上は、どうせ、病氣だけは直して貰ふが、直つたら綺麗に手を切りますと云つてをる。」
「‥‥」へい、人を出し拔いて、もう、そんなことを云つたのかと、義雄はお鳥に味方する心の張りが俄かにゆるんでしまつた。「僕にも僕の考へがあるのです。」かう云つて、お鳥と顏を見合はせた時、直ぐ別れたらどうだと云つてやりたかつた。が、冷やかに向き直つて、老人に、「然し別れる、別れないは、こちら二人の自由ですから、ね、何も、家族がここまで出しやばつて來て、干渉がましいことをするのは好ましくないです。」
「わたしはこの清水さんの宿料を貰ひに來たんです。」
「まだそんな執念深いことをぬかすのか?」義雄の手はまたいら〳〵して來た。
「でも」と、千代子はそれを警戒しながら、「あれを貰はなけりやア、あなたから預かつたうちの會計が成り立ちません。」

「馬鹿を云ふな。たツた二圓や二圓五十錢のことでぶツつぶれるやうな商賣は、預けてない筈だ。」
「それはさうでしようけれど――」
「全體、お前とおれとは、な、お前の口調で云やア、同じ星のもとで生れてゐないのだ。とつくに離婚してゐた筈だが、ただ可哀さうだと思ひ〳〵して今までつづいたのア、云つて見りやア、おれのお慈悲だ。」
「いいえ、違ひます――わたしが附いてゐなけりやア、あなたのやうな向ふ見ずは立つて行かれなかつたんです!」
「お前はよく向ふ見ず、向ふ見ずといふが、ね、おれの向ふ見ずは、いつもいつて聽かせる通り、一般人のやうな無自覺ではない。」
「自覺したものが下らない女などに夢中になれますか?」
「だから、人のやうな夢中ぢやアないのだ――身づから許して自己の光輝ある力を暗黒界のどん底までも擴張するので――」
「それがあなたの發展とかいふのでしようが、ね――いいえ、そんなことを云ふやうになつたのは、あなたはここ四五年前からですよ。わたしを茅ヶ崎の海岸などへおツぽり出して置いて、さ、僅か十五圓や二十圓のお金で子供の二人や三人もの世話までさせ、御自分は鳴潮さんや大野さんと勝手な眞似をしてイたぢやアありませんか? わたしが歸つて來てからでも、獨歩や秋夢のやうな惡友と交際して、隱し女を持つて見たり、濱町遊びを覺えたりしたんです。」
「そりやア、お前、觀察が足りないので――おれが「デカダン論」を書いた所以は、人間の光明界と暗黒界、云ひ換へれば、靈と肉とは自我實現に由つて合致されるものだと分つたのだ。さうしておれの行動と努力とが各方面に大膽勇猛になつて來ただけのことだ。」
「そんな六ヶしいことア分りませんが、ね、待ち合へ行つたり、目かけを持つたりしてイるものが――」
「めかけぢやない!」聽き咎めたのはお鳥だ。
「何です」と、今にも飛びかかりさうにして、「めかけぢやアありませんか?」
「違ふ!」
「めかけです!」
「違ふ! 女房が女房らしうせなんだから、人にまでこんな迷惑や病氣などをかけるやうになつたのだ!」お鳥のこらへてゐたらしい怒りが一時にその目にまで燃えて出ようとした。そして向ふが飛びかかつて來れば覺悟があるぞといはぬばかりに、かの女は親ゆびを中に他の四本の指で握り固めた兩手を、義雄がそれとなく見てゐると、いつでも自由に動かせるやうに構へた。
 が、千代子はその手に乘るほど狂つてもゐなかつた。
「そりやアあなたの自業自得といふものです――めかけでなけりやア、圍ひ者が天道さまのお罰を受けたのでしよう」と、かの女はお鳥を睨み返してから、もとの言葉をこちらに向つて續けた。
「そんな者を持つて教育家になつてゐられますか?」
「また教訓はよして貰ふ! それに、おれは英語の技術は受け持つてるが、教育家のやうな安ツぽい――」と云ひかけて義雄は老人の聽いてゐるのを遠慮したが、そこまで云つてしまつたのだから思ひ切つて語を繼ぎ、「ものぢやアない。學校など眼中にないばかりでなく、廣い社會に對しても、おれ自身の發展擴張を抽象的な、從つて外形的な、淺薄な教訓のかたちを以てしたくないのだ。」
 餘り懸命にしやべり出してゐたので、義雄は卷き烟草の火が膝に落ちたのを知らなかつた。それをお鳥が氣附いて、その手を以つて急いでふり拂つてくれた。
「今、この場でさう云ふことはお互に云ひツこなしとしましよう」と云ひながら、老人はまたお政さんが獨りでねむさうにしてゐるのに呼びかけ、茶を改めるやうに命じた。

「兎に角、わたしは清水さんの宿料を貰つて行きます。」
「まだぬかすか!」義雄は握りこぶしを固めて千代子をおどし付けた。
「でも、わたしの清水さんに對する氣が濟みませんから。」
「まア、そんなことアどうでもいいぢやアありませんか?」繼母はそばから意地張つてる千代子に口を出した。
「しみツたれ! おれの使つたものア斷じて返さない!」
「ぢやア、今度取れた分から先月の補助を出して下さいますか?」
「やるべき時アやる!」
「それが當てはづれになるから、毎月不足が嵩むんです。」
「何でもいいから、手めへは畜生のやうに子供を可愛がつて、おとなしく下宿屋のかみさんでゐりやいいんだ――もう、用はないから、歸れ! 歸れ!」
「歸りますとも、あなたに云はれないでも、歸りますとも。」かうゆツくり云つて、にやり〳〵笑ひながら、千代子はこちらを一層いら〳〵させるつもりでか、わざと腰を落ち付けてゐる。
 早く歸れと云はないばかりしてお鳥は立ちあがつた。そしてにがい〳〵顏をして、何の挨拶もしないでこちらの後ろから繼母の後ろを通り、千代子が飛びかかりでもしたらと云ふ警戒でもするやうにしながら、この室をはしご段の方へ出た。その後ろ姿を千代子と繼母とが相ひ對して同時に憎らしさうに見送つた。
「‥‥」それを見た義雄がふと氣付くと、さツき、千代子に引ツかかれたと見え、爪の跡が自分の右の手の甲に赤くみみず張れになつてゐる。渠はそれを二人に見られまいとして、その手を急いで裏返した。
「田村君も、まア、よく考へて、早く適當な結末をつける方がいいです、な」と、老人は改まつた。
「無論、その通りです。」
「どちらにもよくないから。」
「それやア實際です。」
「家を困らせないでなら、まだしもよう御座んすが、ねえ」と、繼母もこちらを見て云つた。
 こんな話をしてゐるうちも、千代子は二階の方へぢツと氣を取られてゐるやうすであつた。そしてお鳥がはしご段をあがり切つた音を聽き澄ましてから、こちらを向き血の氣の少い顏を初めてにツこりさせて、
「苦しいツて」と、聲をひそめ、「毎日泣き續けてるさうぢやアありませんか?」

「‥‥」お鳥が痛みに堪へないで泣きつづけてゐるなど、そんなことを誰れが云つた? 老人にきまつてゐる。して見ると、渠の癖として、おほ袈裟に――このおほ袈裟と云ふことが義雄の最も嫌ひなことだのに――語つたに相違ないと思へた。で、義雄は渠に對してその法螺吹きの本性を暗に暴露してやる考へで、千代子に答へた、「なアに、さうでもない、さ。」
「でも、泣いてるんだらう。」かう、かの女は、ぞんざいに問ひ返したが、だらうは他人もしくは亭主をまでも子供あつかひにした語調だといつも叱られてゐるのに氣が付いたらしく、直ぐ「でしよう」と云ひ換へた。
「‥‥」義雄は然しまたかと云はないばかりにかの女のぞんざいを怒つて、再び返事をしてやらなかつた。そして、お鳥が二階できツと、今夜こそはくやし泣きに泣いてるのだらうと思ひ續けた。
「でも、可哀さう、ね。」繼母が笑ひながら口を出し、「まだ若いのに、義雄さんも罪なことをしたの、ね。」
「あいつは」と、千代子はお鳥のことを云つて、「自業自得だから、仕かたがない、さ――けれど、この人も、どうせ、碌な死にかたはしますまいよ――何度わたしに苦勞や心配をかけたか分らないんですもの。」
「お前さんが苦勞性に生まれて來たのだから、仕方がないと諦らめておいでなさいよ。また、何かの功徳になることもありましようから、ね。」
「何も世の中です。」老人も二人の話に乘り、坊主くさい調子で、「さうくよ〳〵したものぢやアないです。田村君も、云つて見りやア狐につままれてゐるやうなもので、一旦迷ひが覺めりやア、また元の根に返ります。」
「これが迷ひと云ふものなら」と、義雄はいつも沈思瞑想する時のやうに目を半眼に開らき、「僕は迷ひから迷ひに渡つて行くのが生命です。」
「浮氣だからでしよう」と、千代子はさへ切つたが、こちらはそれには頓着せず、
「僕は考へと實際とを人のやうに別けて置くことが出來ないのです。この二つが僕といふ自我の氣分で合致してゐるのが僕の生活です。實は、迷ひもない、その代り悟りもない。」
「だから、君はいつもいら〳〵してをる。」
「ほ、ほ」と、千代子は笑ひの合づちを打つた。自分の考へも老人のと同じだと思つたらしい。
「然し氣分のいら〳〵するのは、たとへば陽炎が春の野のおもてにちら〳〵のぼるのと同樣で――そのちら〳〵よりほかにかげろふの實質がないやうに、このいら〳〵を除いては、近代的な人間、即ち、宇宙の本體も現象もあつたものぢやアないのです。實質を攫み得ないものは空理に安んじてゐるのです。さうして空理は生命のない死物です。」
「君はただ佛教のいはゆる色即是空の理を大膽に實行してゐるに過ぎない。」
「いや、それだけのことぢやアまだ滿足な説明にはなりません。」
「なアに」と、千代子はまた確信ある口調で「星が肝心ですよ。人間は何でも星を調べて見さへすりやア分らないことはないんです。」
「そんな下らない迷信はやめろ!」
「それでも、當るから不思議でしよう?」
「詰らないことアよせ!」
「さア、歸りましようよ、もう、こツちの用は濟んだのだから。」繼母はもぢ〳〵して千代子を促がした。

「まア、よろしいでしよう。」老人は歸りかけようとした二人をとめて、義雄に新らしい問題を持ち出した。「君の哲學は哲學として置いて、――一つ頼みがあるのだが――いよ〳〵――引き移つて貰ひたいが、な――」
「ああ、さうですか?」義雄は不意に水をあびせられたやうにひやりとした。そりやア、さう云はれないでも、どこかいいところがあれば引き移るつもりであつたが、既に度々立ち退きを命じてゐたかの如く、勿體振つて「いよ〳〵」など附け加へたのが氣に喰はないのみならず、餘りそらぞらしく聞えたのである。
 心がいら〳〵してゐるから、さう惡く取れたのではないかとも考へて見たが、どうもさうではない。かうなつては、千代子に對しても濟まないから、どうか立ち退いて貰ひたいと出たのならまだしもしほらしい。が、こちらからさう云はせない爲めの振舞ひは毎晩のやうに喜んで受け、その酒に醉へばまた勝手な法螺を吹いてゐながら、千代子の前だからツて、こちらをさげすんだやうにそんな體裁のいいことを云ふのは許さない。餘り蟲がよ過ぎる!
 と、かう、老友の表裏があり過ぎるのを含んだ樣子を義雄が見せてゐるのを知つてか、知らないでか、老人はなほ癪に障るほど落ち付いた風で、
「こんなことがあつては、僕が君の細君に濟まないからと云ふことは、これまでにも、度々君に話してゐた通りだが――」
「いや、分りました。そんなお話しはこれまでにまだなかつたとしても――」
 かう云ひかけて、義雄はなじるやうに老人を見詰めると、老人は、まア、そんな野暮は云ふなと云ふ目附きをした。
「然しさうあるべき筈です、わ、原田さんとしても。」千代子も亦斯ういやに皮肉なぶしつけを云つた。それを聽くと、義雄はまたここの主人を辯護してやりたくもなつて、かの女に、
「ふん、どこへ行つたツて、貴さまなどをあばれ込ませないのはおんなじことだぞ!」
「わたしはここへもあばれ込みはしませんよ、人聽きの惡い!」
「あばれ込んだも同然だ。」
「いいえ、違ひます!」
「まア、そんなことは」と、老人は少し面倒臭さうに、「どちらでもいいではありませんか、なア御隱居さん?」
「さうですよ、もう、分つたものア分つたのですから」と、繼母はまたあとの方へすさつて、主人に歸る挨拶をした。それからこちらに向ひ、「ぢやア、歸りますから、ね、今夜の話はよく忘れないやうに、ね。」
「うん。」義雄はいや〳〵ながらうなづいたばかりだ。
 千代子も老人に挨拶した後、所天をつとの方を見て、あざ笑ひながら、
「ぢやア、左樣なら――今月はきツとお金を間違ひないやうに、ね。」
「くどい!」
「どこへ隱れたツて、分りますよ。」
「ふん、分らないところへ隱れてやらア。」
「どこへだツて」と、立ちあがつて、「追ツ驅けて行きます、わ、例の神星で、ね。」
「今度來るなら」と、義雄は坐わつたまま、「骨と皮になつて來い――直ぐ葬つてやらア。」
「そんなひどいことは云ひツこなしです。」老人は立ち上つて、お政さんと共に二人を送つて出た。
「‥‥」義雄は歸つて行くもののことや二階のことを一緒に考へながら、その場にただ坐わつてゐた。


 義雄が原田老人に別れて、二階へあがつて見ると、お鳥は電燈のもとに身を投げ出したまま、ぶツ倒れてゐた。
「馬鹿な眞似をするなよ、風を引くぢやアないか?」
「引いてもかまん!」かの女は疊の音をさせて向ふ向きに半ば起きあがり、からだを支へた左りの手の角立つた肩越しにこちらをふり向いた。こちらの豫想通り泣いてたのかして、目に涙を一杯溜めてゐる。その涙がぽろ〳〵落ちて、たツぷりした目のうるほひが少し直つたらしい時、こちらを睨みながら、力の籠つた聲で、「畜生! 馬鹿!」
「‥‥」
「野呂間! 意久地なし!」
「‥‥」
「かかアの前ぢや、何とも云へんぢやないか?」
「あれでもかい?」
「さう、さ。――では、離縁の離の字でも云ふたか?」
「云つて、何の役に立つ?」
「役に立たんでかい? めかけ、めかけと云はれて、こツちは人聽きが惡いぢやないか?」
「惡くツたツて、仕やうがない、さ。」
「仕やうのないことがあるもんか?」
「仕やうがない。」
「ないことはない!」
「たとへあるとしても、ね」と、義雄はわざとおだやかに、「それが、もう、お前と何の關係もないよ。」
「どうして」と、お鳥はちよツと氣を折られた。そして、投げ出してゐた兩の足を縮めてこちらの方へ膝を向け直して坐わつた。
「どうせ別れるのださうぢやアないか?」かう、渠はさツきからゑぐつて見たかつたのである。
「さう、さ。」かの女も意地になつて、息を大きく呼吸し出して、張つた胸の兩方の乳のあたりまでも衣物の上へ動悸を打たせながら、「別れたけりや今からでも別れてやる――直ぐ病氣を直せ、直せ!」
「ふん! それにやア、藥りを渡してある。醫者にも行かしてある。」
「それが少しも利かんぢやないか?」
「さうやき〳〵するから、さ。」
「やき〳〵せんでも、直りやせん――痛うて溜らないぢやないか?」自烈たさうにからだを振つた。
「それが惡いんだ。」
「あの醫者ツぽがよくないのだ! 二週間で直るなどと嘘を云ふて、もう二十日になつても、ちツともよくならん。旦那さんと相撲を取つたら行けません」と、醫者のらしい口調を意地惡さうに眞似て、「人を馬鹿にしてる! そんなことしやせんぢやないか?」
「さう、さ――お前が病氣になつてからと云ふものはな。」
「それに、なんで直らん?――では、注入を日に二回に増して見ましようと云ふて、さうやつても、矢ツ張りもとの通りだ。も一度温泉に行かんなら、もツとえい病院へやつて呉れ!」
「早く直つて、早く手を切りたいのか?」渠はなほ不平である。同じやうにいやな女だとは思ひながらも、千代子よりはずツと若くツで血があツたかいのがまだしもよかつた。
「手は切らんでも、早う直つた方がえいぢやないか?」かの女は往生したやうに氣が落ちついて來た。
「それもさうだ、ね」と答へたが、渠にはまだ早くよくなれと云ふ願ひもさう切實ではなかつた。もツといい女であつたらと云ふ希望に向つて行くと、心は段々現在からお留守になつて、こんな事情のもとにあるお鳥のからだなどは、暗い物置きのやうな小部屋へほうり込んで置けばいいやうな氣にもなつた。
「痛い、痛い」とばかり、かの女はあまえるやうな關西口調でその夜も頻りに泣き訴へてゐた。


 原田の家族にも知らせないで、義雄がお鳥を引ツ越させたのは、赤阪の仲の町の裏通りで、丁度、氷川神社の森の後ろに當つてゐた。
 谷町から福吉町と今井町との間をあがり、氷川町を勝伯の邸前から神社前の阪下に出で、その通りを直ぐ左りへ曲つて、二丁ほど行くと、一方は神社つづきの森で、片側町になつてゐる。或琵琶彈きの家のさき隣りに小さい曖昧な料理やがあつて、そのさきが四五軒に渡つた二階建て長屋だ。とツ付きが貸し蒲團、その次ぎが大工の手間取てまとり、その次ぎが或辯護士のおやぢで、息子の家に使つた下女に孕ませて出來た子とその母と共に佗び住まひをさせられてゐるもの。その次ぎは、職業の分らない夫婦だ。そのまた次ぎの角は辨當屋だが、そこだけは平家だ。
 この四軒の二階の殆どすべては年中締め切られて、「明き間あり」の張り札の懸つてゐないことはない。義雄も、父が亡くなるまで赤阪臺町にゐた時、そこを通るたんびに陰氣臭いところだと思はないことはなかつた。たまに珍らしくも戸がぽつりと明いたかと思つても、二三日してから通ると、もう、借り手はどこかへ行つたかして締つたままになつてゐる。
 向ふ側が高い森で日光をさへぎるから、濕氣がちで行けないのだらうと、義雄は兼てさう思つてゐた。で、そとを歩く時はいつも明き間を心がけてゐるに拘らず、そこだけは知つてゐてもお鳥に知らせなかつた。
 ところが、かの女は醫者からの歸りに一つ木から新町をさかのぼり、獨りでそこを見付け、大工の裏二階を月三圓で約束して來たのである。
 たツた三疊の押し入れも何もない部屋だ。
「こんなところで辛抱する代り、大學病院か、どこか、もツとえい醫者に見て貰ふ。」かうお鳥は引ツ越したてに云つた。
「さうするがいい、さ。」義雄も、かの女が遠慮勝ちになつて來たのを可哀さうだと思つて、つい、その氣になつた。が、どうせ自分との關係に碌な終りを告げる女ではなからうから、そのからだはどんなところにでもごろ付かせて置けばいいのだと云ふ下ごころがあつた。
 谷町で借りてゐた蒲團はそこを引き拂ふ時蒲團屋へ返したので、改めて隣りから日に六錢の割りで三枚一組のを借り、角の辨當屋から三度の食事を持つて來させて萬事を間に合はせた。
 そしてお鳥は今回、毎日山王下まで歩いて行つて、そこから電車で牛込の逢阪下なる某婦人科病院へ通ふことになつた。この病氣には歩いたり、電車に乘つたりするのが行けないから、入院しろと云はれたと云つて、かの女はさうしたさうに諷したが、義雄はそこまで賛成する氣にはなれなかつた。
 それでなくとも、かの女の爲めに日に一圓足らずの金は、病院行きの爲めについえて行くのである。それを義雄は全く無駄な必要だと思ひながら、出した。
「自分がこんなけツたいな病氣を移しさへせんなら、立派な帶や衣物が買へるのに」と、お鳥も日々惜しさうにしてその金を持つて行つた。

 學校を教へてしやべり勞れた日など、義雄は直ぐその足でお鳥のところへころげ込むことがある。そして、まだ病院から歸つてゐないと、何だか置き去りをでも喰はせられた氣がして、落ち付くことが出來ない。
「あたいが逃げたら、どうする?」
「へん! 丁度仕合はせ、さ――面倒がなくなつて。」
 こんなことを云ひ合つたのも、義雄の本心から云へば、冗談ではなく、寧ろさうなるか、それとも亦くたばつて呉れるか、と云ふ風な願ひを絶えず持つてゐながら、向ふから自分を突ツ放すやうなことはされたくないやうな氣もする。
 もう、歸つてゐなければならないのにと思ふと、何をぐづ〳〵してゐるのか、不埒だとまで心が荒立つて來る。
 下へおりて、薄暗い部屋で大工のかみさんと何氣なく話しをする振りで、お鳥がけさどんな風をして出たかと云ふやうなことを聽いて見た。また、二階へあがつて、その室の壁ぎはに、行李がその儘に置いてあるのに氣が付き、かの女の身代はこれだけで、これさへあれば、どこへもつツ走つたと云ふ心配はないと安心した。
 が、また、かの女のきんからかんの手文庫を明けて、何か怪しい手紙でも來てゐはしないかと調べて見た。然し、
「叔母さん」と呼かけて北海道からいつもよこす姪のハガキが一つふえただけで、それには「うちのお父さんはどこへ行きましたのでしようか、東京で見當りませんか」と書いてあつた。これは義雄には耳新らしい事實で、紀州の兄、北海道の兄の外に、今一人行き方の知れない兄があることが分つた。が、お鳥はそれを隱してゐるので、こちらも亦そ知らぬ振りをして文庫の蓋を締めた。
 そして、あのじツと沈んだ目附き、意地惡さうな目附きには、かの女自身の祕密ばかりでなく、いろんな事件が這入り込んでゐるのだらうと考へた。
 疊んだ蒲團は、から紙の後ろのあかり取りがない中座敷へ押し出してあるから、から紙を締めて置けば見ないでも濟んでゐるが、この三疊だけは明るく開らいて秋の西日を受けてゐるので、障子の切り張りや壁がみのはがれがよく目に付いて穢い。
 そこへ持つて來て、行李のあると反對の壁ぎはに、古道具屋で買つた古い〳〵ちやぶ臺を机がはりに据ゑて、その上に義雄が持つて來た雜誌現代小説や趣味や中央公論などが載せてあつて、レツテルに桃の繪を出した鑵詰のあき鑵が筆立てになつてゐる。また、ふちの焦げた箱火鉢に安ツぽい藤づるのおほ土瓶がかかつてゐるのを見ても、「よくこれで默つてる、な。」義雄は獨り冷やかにほほ笑んで、こちらからかの女を突ツ放してやる時機を考へて見た。「然し、どうしてるんだらう――遲い!」
 かの女がゐればまだしもだが、かの女のゐない部屋は穢いばかりで、坐わつてゐる氣になれない。
 立つたり、しやがんだりして見たあげく、どうせ、お鳥が歸つて來たら、きツとまた、「早う直せ、直せ」の一天張りだらうと思はれて、そのにがい顏を見たくなくなつた。
 玉突きにでも行つてやれと、思ひ切つて立ち歸らうとすると、隣りの屋敷から艶ツぽい女の聲が聽えたので、ちよツと障子を明けて見た。
 その屋敷の裏庭には、大きな柿の木があつて、枝々には澤山の實が赤く熟してゐて、その下にひよろ高いコスモスの花が白やうす紅に咲いてゐる。が、よく激烈な夫婦喧嘩をする金貸しの美しい細君の――聲であつたと確に思ふが――姿はその縁がはにも、どこにも見えなかつた。

 無地の牡丹色メリンスの被布も、紀州にゐた時拵らへたのだらう、田舍者じみてをかしいのだが、お鳥がいい氣になつて着澄ましてゐるのを幸ひ、義雄はそツとそのままにさせてあつた。
 すると、かの女はその姿でいつの間にか三枚四十五錢の寫眞を取つて來て、なか〳〵機嫌よく、「よう寫つただろ」と、自慢さうに義雄に見せた。「あすこは安うて、上手だ。」
「案げいにがい顏もしてゐねい、なア」と、渠は冷かし半分に答へた。
 かの女の病氣は、何か少し事情の變るたんびに、その當座だけよくなる。毎日の小使ひを少しかためて前渡しした時がさうだ。赤阪見附けで注入を日に二度にするやうになつた時がさうだ。牛込へかはつて、さう注入ばかりしたツて、利くと云ふ譯のものではないと云はれた時がさうだ。病院でどこかの若い細君と知り合ひになつた時がさうだ。義雄と一緒にうなぎ飯でも喰べに行つた時がさうだ。そして暫らく立つと、また〳〵痛い〳〵と泣き出す。
 義雄はそれを氣の加減だ、かの女の神經が獨りで病氣をよくもしたり、惡くもしたりしてゐるので、實際は決して直る方には向いてゐないのだと思つた。
「おれも經驗したから云ふのだが、痛みを忘れてゐるのが一番だよ。」かう云ふことを云つて聽かせても、かの女はなか〳〵承知しない。
「人のことだとおもて、ちツとも思ひやりがないんだ――このちく〳〵するのが、眠つてをつたツて、忘れられるもんか?」
 さう云ふものの、お鳥の餘りいやな顏、にがい顏をするのをこちらで避けるやうな樣子が段々に見えて來た爲めだらう、かの女もこちらが來た時は成るべく笑がほを見せてゐようと努めるやうになつた。
 義男も亦我善坊で寢ることは滅多になかつた。晝間のうちは、けふは出ないでゐよう、時々はお鳥を獨りで寢かして、寂しい目をさせてやるのも、男を一層熱心に思はせる藥りだと考へてゐながらも、夜になると直ぐ、習慣のやうに氣が變つて、ふら〳〵と出て行くのである。
「御馳走を拵らへて待つてたのに、早う來ないから癪に障つてみな喰べてしもた。」こんな單純なお鳥の恨み言が却つてよくこちらの心を引いて、けふはまた何か出來てゐるか知らんと云ふやうな樂しみを抱かせた。
 それも、然し初めの間は成るべく宵から出かけるやうにして見たが、段々圖々しくかまへるやうになつた。かの女の拵らへるしなびた茄子の鴫燒きや、丸切り大根のお汁にもろこし粉をこね丸めて入れたのやを添へにして、冷たい辨當飯も珍らしくなくなつた。
 義雄はこの頃時間が惜しくて溜らないのである。家への補助は學校から取る分を割けばいいとしても、自分の書籍代や交際費や、お鳥の生活に病院費は、別に原稿を書いて儲けなければならない。
 それに原稿生活を眞劍にするだけの努力があれば、それを以つて何か一つおほ儲けの出來る有形的な事業に發展して行つて見たいと云ふ考へがあつた。そしてこの頃ほどに斯うかねの欲しいことは今までに無かつた。
 そんなことを考へると、勞力に報いるだけの報酬が取れないやうな原稿などは書くのもいやになることがあると同時に、お鳥のやうな女にかかり合つてゐるのも馬鹿々々しい氣がする。それやこれやで氣が荒立つて來ると、燒け半分に筆も何もほうり出し、千代子を毆ぐりつけた時などと同じこころ持ちで家を飛び出し、半夜を全く玉突き屋で過ごしてしまうことも度々だ。
 それでも、矢ツ張り、結局は、中の町へ車を驅けらし、寢てゐる大工の家をたたき起して、お鳥の二階へとほつた。

 お鳥は然し義雄が蝙蝠か何ぞのやうに夜――而も遲く――來て、朝は直ぐ歸つてしまうのを不平がつた。
「もツと早うおいでよ、下は働らきどで、寢るのが早いから」と云つた。
「然し時間が惜しいのだ。」
「時間が惜しけりやア、ここで勉強したらえいぢやないか!」
「議論なんかになると、參考書がなければ書けない。」
「では、それも持つて來たらどう?」
「一々持つて來られるものか、こんな狹いところへ?」かう、ぶし付けに答へたが、義雄はかの女から妻子のゐるところだから離れたくないのだらうと云はれるのを先きまわりして、「我善坊には、ね、おれの讀破した書物が澤山あるのだ。その書物のあるところが、おれの家で、妻子など眼中にないのだから、これは前以つて斷わつて置くよ。」
「どうだか、へん、分るもんか?」
「それが分らないやうな女ぢやア、色をとこなど持つ資格はない。」
「色をとこぢやない。」
「さうか、ね?」こんなことを云ひながらも、渠はお鳥のそばでは氣がゆるんで、仕事が手につかないのを身づから知つてゐる。が、さう明らさまにうち明けることは自分の弱みを見せてかの女を勝ち誇らせでもするやうに思ふから、したくなかつた。
 この頃、義雄の心を頻りに競爭的に刺戟するのは、晝家大野正則の努力と成功とである。大野はもとから非常な飮酒家で放蕩家だ。それが前の妻君を虐待して、今の靜子を入れようとした時、義雄は隨分と意見もした。が、大野は少しも用ゐる樣子はなかつた。
 丁度、靜子をモデルにして大きな油繪を書いたのが上野の展覽會で多少の評判になつた時のことだ。靜子も晝家だが、その晝風とお轉婆らしい氣質とは大野の大嫌ひであつたのを、義雄は無理に勸めて渠の適當なモデルにさせた。ところが、それから靜子の愛嬌が大野の心を占領して、二人はついに戀と名聲との爲めに有頂天になつてしまつた。
 その頃、義雄は妻子を茅ヶ崎の海岸へやつてあつたので、毎日のやうに大野の家へ遊びに行つてゐた。それが、ありはしない厭な噂を二重に立てられることになつた。と云ふのは、田村が自分で關係してゐた靜子を大野に取られたので、その恨みに報いる爲めに大野の細君を自分の物にしてゐると云ふのであつた。
 そんな詰らない噂で馬鹿を見るのもいやな上に、友人としての大野の餘りちツぽけな慢心と餘り締りのない放縱とを反省させる爲め、激烈な絶交状を送つて、一年半ばかり交際を絶つてゐた。
「あの、君の檄文は大事に箱の中にしまつてあるが、時々思ひ出しては奮發してゐたのだよ」とは、再び行き來するやうになつてからの大野の白状であつた。
 靜子のモデル繪はただ一ときの評判で、それツ切り世の中から忘れられたが、大野と靜子との眞面目な共同仕事は、現今、新式の芝居の書き割りなどに現はれて、着々渠の素養と技巧とを見せてゐる。
 それに比べると、義雄の現在は大野の三四年前である。
「忠告した者が今度は忠告せられなければならないぢやアないか」と義雄が云はれたのを、大野一個の友情から出たのだとは思はないで、却つてこの第二の忠告者の概括的な、世間並みの、何の同情のない、ただの皮肉だと受け取つた。
 そして義雄は自分を唇の取れた齒のやうに寒く觀じた。
 放縱だと人に云はれるのは、寧ろ自分の意氣込みの一部面を指摘せられたやうで氣持ちがいいのだが、友人までに――ただに大野ばかりでなく、自分の屬してゐる龍土會の諸氏からも――いやな皮肉や冷笑などを當てつけられるのが、この頃、非常に氣になつて來た。
 自分の精神的事業は、如何に親しいものにでも、見えないのだ。寧ろ實業のやうな見える事業をやつて見せるに限る――それにしても、さきに詩を以つてばかり立つてゐた頃の勢ひは、その半分もない樣に、義雄は自分ながら感づかれた。
 そりやア、「デカダン論」も出版したし、小説「耽溺」も書いた。また、一昨年から段々に發表した長短論文を集めて、現在「新自然主義」と云ふ書を印刷に附させてゐる。が、詩界から散文界に移つたゆるみがまだ直らないで、新らしい立ち場を社會的に樹立してゐないのが、如何にも義雄の苦痛だ。
 そこへ持つて來て、生活費がずん〳〵高まつたので、もツと金を儲ける爲めにも、何等かの發展を講じなければならない。自分を活かすと云ふことでは、詩に向ふのも、小説へも、同じ發展であつた如く、藝術から實業に向ふのも亦同じそれだと思はれた――尤も、それには自分として自分の實行的藝術論の根本原理を内觀してゐるからであるとしてだ。そして大野のところへ呼ばれて、贅澤な御馳走になる時など、義雄は却つて友人に馬鹿にされるやうな氣がした。そして、「おい、しツかりしろよ」と、背中を一つ叩かれて來た日など、義雄は一日、家に於いてふさぎ込んでゐた。そしてお鳥におぼれる心は直ちにそれが新發展を求める心持ちであることを知つた。

「これからまた夜學のお勤めですか」と、千代子がこわい顏で冷かすのを、いつも聽き捨てにして出る。が、若し跡をつけてでも來ると面倒だと思つて、わざと反對の方向へ足を運ぶ。それでも、なほ且後ろを見い、見い、お鳥のゐる方へ足が向き出すと、結局、同じ近みちへ這入ることになる。
 それは今井町から登つて、氷川神社の裏手を通る、晝でも薄暗い道で――神社の森には、昔、天狗が住んでゐたといはれてゐるが、今は、裏門のところに猿を三匹飼つてある。その高臺から眞下に、樹木の間から、お鳥のゐる長屋が見える。
 その高臺から降りる曲りくねつた阪の中途に、大野がもと借りてゐた家がある。今は何者が住んでゐるか知らないが、そこの通りを過ぎるたんびに義雄は、大野の盛んな現状に自分を引き比べて、氣のゆるんだやうな、失意のやうな、嫉妬のやうな感じに打たれたり、また芝居の書き割りなんて金の取れるだけであつて、その仕事は何の價値もないと云ふやうな別な競爭心を起したりした。
 それがいやで溜らないのだが、矢ツ張り、そのさきに引ツ張るものがあるので、毎夜のやうにこの近みちをとほつて行く。
 ‥‥まだ父が健在の時だ、大野のもとの細君が今ひとり別な晝家の細君を連れて、三月の節句に、宵から、白酒を飮みに來た。‥‥女だてらに、何ぼ何でも、四合瓶を明けてしまうとは驚くぢやアないかと、父は蔭で不興な顏をした。‥‥二人とも強いのだから仕方がないと云ふと、亭主がみんな飮んだくれだから、いい氣になつてゐるのだ。注意しろ、と、また父は云つた。‥‥義雄は然し共々に笑ひ興じて遲くまで二人を持て爲して、家から送つて出た。‥‥
「わたし、醉つてふら〳〵する、わ。」
「わたしもよ。」
「倒れちやアあぶないです。」
 こんなことを笑ひ合ひながら、氷川の森に來たが、夜中の道が殆んど眞ツ暗なので、女どもは眞面目になつて、聲も碌に出せなかつた。
 神社の裏門のところで、義雄が、
「そら、猿が」と威かして見たら、二人は同時にきやツと叫んで、兩わきからこちらの手にすがり付いた。‥‥
 千代子などとは違つて、大野のもとのは優しい、いい細君であつたのに――然しまた今のもお鳥などとは違ひ、所天をつとの片腕になつてゐる。
 などと、友人の身の上を非常に妬ましく思ひながら、渠の近眼でそこの阪を闇に辿りながら下りた時は、もう、夜中の十二時に近かつた。
 しんとして、――道に落ちた木の葉がゆるくさら〳〵と風にころがつてゐる音がするばかりだ。
 俄かにお鳥のあツたかい床が戀しくなつて、貸蒲團屋の今にも消えさうにまたたく瓦斯燈の隣りへ急いだ。
 飛び付くやうに戸口を目ざして進み、晝間ならきたならしい變色の水が流れてゐるのが見える太いどぶを、どぶ板をがた〳〵音させて渡つた。
 戸は無論締つてると思ひながらも、ちよツと手をかけて見た。
 果してさうであつたが、どうせ明けて貰ふのだから、ただ立て寄せて置いて呉れたらいいのに――下のもの等がわざとさうするやうにも考へられた。
 癪に障るやうな氣と氣の毒なやうな思ひとが一緒に湧き溢れて來て、渠は先づ輕く戸を叩いて見た。

「いツそのこと、これからどこかへ行つて、獨りで飮み明かさうか? もう、二ヶ月足らずと云ふもの、完全な女のからだにも觸れたことがない。」
 外に立つたまま、ふと思ひ浮べたのは、下の人々もまだ逞ましい男と女であることだ。而も既に丈夫な子が一人ある。
 をすめすの獅子はどんなに暗いほら穴にでも一緒に住む、人間もさうだらう。こんなに周圍も穢い陰氣な濕つぽい家にゐて、而もなほ子供を産んで行く。
 かう考へると、この暗夜に、わざ〳〵渠等と同じ穴も同前な家に眠りに來る義雄自身も、人の形をした毛だ物で、たとへ獅子でないまでも、狼か山猫のやうだ。
 隣りの瓦斯燈の光りも消えかかつてゐるだけ、夜と云ふ暗い獸的な氣分がみなぎつて、闇に覺める官能の力を誘ひ出したのだらう――犬が鼻先で物を嗅いだやうに、ぷんと格子さきのどぶのいやな臭ひが義雄の耳と共に一方より利かない鼻に聽えて來た。
「こりやア溜らない。」渠は思はずそのどぶを渡り返した。が、折角來たのが惜しいやうでもあつて、立ち去り兼ねた。
 香水――渠はこの刺戟がなければ、強い性慾も起らないほど、疲れてゐた――のついたハンケチで鼻を押さへながら、また引ツ返して戸を叩いて見た。――返事もない。
 小さいふし穴や戸の透き間から覗いて見ると、中もひツそりして暗いやうだ。が、何だか、あの彌吉と云はれる子供が今にも目を覺まして、母獸の寢てゐるふところを四足で這ひ出し、わんとか、にやアとか啼きさうな氣がした。
 思ひ切つて、どん〳〵、どんと大きく叩いて見た。
「誰れだ」と、奧の方から怒鳴つたのは、毎あさ鉋や手斧を持つて出て行く主人の大工だ。
 義雄は直ぐ獅子の猛り狂ひの怖ろしさを想像した。が、毎晩、來るものはきまつてるのに、人を馬鹿にするも程があると思ひ返した。
「田村です。」少し強い角立つた返事をすると、
「さうですか」と云ふ、前の權幕とはころりと違つた聲が聽えた。
 それも大工の聲であつたが、それツ切りで――人の出て來るけはひはない。
 渠は全身が總毛立つほど威嚴のない、見すぼらしい恥辱を感じて、秋の夜風をしみ〴〵と心の底までも呼吸した。
 あんな劣等な人間にまで馬鹿にされて、自分の社會に於ける立ち場は全くゼロになつたではないか?
 一般社會には精神的なことは分らない。
 大野は矢ツ張り利口だ――自己の生活を確かめる爲めに、同じ性質の仕事でも、成るべく世間に知られ易い芝居の書き割りのやうな物に向いて行つた。
 文藝のやうな無形的な事業では、どうも滿足出來ない氣がする。
 何をしたツて、自己の發展なら、おのれの主義と主張とはとほる筈だ――早く一つ書き割りなどよりもずツと有形的な事業をして、名譽と金錢とを自分の内容的實力と共に兩得して見たい。
 金錢さへどツさりぶち撒ければ、こんな叩き大工のやうな――浪漫的なおほ法螺でとほつた耶蘇の前身のやうな――ものは、百人でも千人でもぺこ〳〵させてやる。
 有形的にさしたる事業もしない恥辱――かう云ふことを義雄はただ一瞬間にさま〴〵と考へて見た。
 そして冬の霜が人の皮膚を燒きつけるやうな冷たさを帶びながら、今一度思ひ切つて、
「明けて下さい」と、戸をどん〳〵、させた。

「清水さん、早く明けて下さい」と、下の大工が叫んだ時、お鳥は火をつけたランプを持つて、もう、二階から下りかけてゐた。
 明い光りが戸の透き間からこちらへ漏れた。
 障子を明けて土間へ下りるもののけはひがする。
 重い黒がねででもあつたやうな戸が、やがておとなしく明いた。
 義雄は默つて這入り、默つて自分で戸を締め、格子を締めた。
 あがり段のあげ蓋の上に置いたランプの光りに、お鳥がじツとこちらを見あげた不平さうな顏が、一きは色白く見えた。
 渠が手ぶらでさきに立つてはしご段をのぼる時、ちよツと下の夫婦の樣子に目を放つたが、
「どうだ、下のあツたかさうなことは」と、義雄は上へあがつてからお鳥に初めてひそやかに聲をかけた。
「いつもあれ、さ。」かう、かの女は答へて冷笑した。「だから、明けて呉れんのだ――何で、もツと早う來ない?」
「仕事に興が乘つてゐたから――」
「こんなにいつも遲くなるんなら、いツそ來ん方がえい。けさも、下の人が迷惑だとおこつてゐた。」
「ぢやア、間貸しをしないがいい。」
「けれど、自分も惡いぢやないか」と小言らしく云ひながら、かの女はランプを置いた机の方と反對に蒲團をかぶつて木の枕に就いた。
 義雄が机の前に横向きに坐わつたまま返り見ると、ランプのかさにまた半紙の切れを垂れてあるのがかの女の顏に特別な蔭を投げて、その白い色を却つて透き通るほどの薄化粧に見せてゐる。
 渠はそれに見とれながら、
「でも、ね、借りた以上は、その部屋のぬしが遲く出ようが、歸らうが、明けてして呉れる義務がある。」
「清水さんが見に來て貸したんで、田村さんに貸したんぢやないツて、めんどくさがつてるぢやないか?」
「そんなら、立て寄せて置いて呉れりやアいい。」
「それも無用心だ云ふてる。」
「何も取られるやうなものもないぢやアないか?」
「箒木一つでも惜しい、さ――それに、下のかみさんはあたいよりえい衣物を持つてる。こないだ、それを自慢さうに出して見せた。」
「羨ましかつたのだらう?」
「そりやさう、さ――自分が買うて呉れんぢやないか?」
「まア、さう云ふな。おれも今考へてゐることがあるから、それがきまつて一と儲けすりやア、何も好きな物を買つてやらア、ね。」
「本統?」かう云つて、にこ付きながら、かの女がちよツと首をもたげた時、光りと蔭とがその顏の色をちら〳〵と刺戟して、幻燈に寫つた美人のやうに奧ゆかしかつた。
 電燈使用の室で見ては氣が付かなかつたことだが、ランプになつてから、その薄暗い蔭の中に包まれたお鳥の寢顏は、晝間むき出しの、押しつぶしたやうな、田舍くさい顏立ちとは丸で違つて、物凄いほど奇麗だ。
「妖女! 閨中美人!」かう云ふ考へが義雄の心に浮んだ。と同時に、また、顏の輪廓にどことなく人並みより締つてゐないところがあるのを、紀州には多いと云ふ部落民に生れた娘ではないかと思ひ付いた。さう思ふと、顏ばかりでなく、肉體の肌合ひがどこもすべてすべ〳〵し過ぎて締りがないやうであつたのに氣が付いた。
 前の男がどすであつたなどとは、或は、眞ツ赤なうそで――おのれにこの弱みがあるのを假りに人にこつげて、氣休めにしてゐるのかも知れない。
 それで尻も輕く、素性を隱せる東京へ出て來て、人並みの出世を望むのだらう――?
 かう考へると、義雄はかの女が迷はしの術中に全く落ちた初めての犧牲である氣がして、興ざめた目を鋭く見開らき、眼がねをとほして、暫らくじツとかの女の妖相を見詰めてゐた。


 部落民だ、部落民に相違ないと云ふ考へが、どうしたものか、お鳥に對する義雄の心を占領するやうになつた。
 かう考へ込むと、かの女がその親類や兄弟のことを成るべく云はないやうに避けるのも、意味があるやうだ。
 おやぢは北海道へ行つて金貸しをしてゐたが、紀州へ歸つて死んだこと。紀州の兄は醫者であること。お鳥自身は北海道にゐた時柔術を習つたこと、東京へ來て矢板裁縫に學んだこと、國へ歸つて裁縫の代用教員になつたこと。こんなことは、かの女の言葉や義雄の繼母の二三年前實見した記憶で分つてゐるが、現に、叔母さんと云つてよこす實の姪が父の行くへを尋ねて來たそのハガキを、義雄に見られてゐながら、あれは兄のことではないと隱してしまう。
 では、姉の亭主かと聽くと、をんな兄弟はないと云ふ。きツと、その兄も素性の惡いのを看破せられたので、妻子を棄ててまでも、妹と同樣、もツと世間の廣いところへ飛び出したのだらう。
 今、北海道にゐると云ふ方の兄のことでも、何を職業にしてゐるか、いやがつて、うち明さない。
 これも、きツと、皮剥ぎか何かであらう。
 かう考へ込みながらも、却つてます〳〵お鳥の幻燈のやうな顏へ心が向つた。
 或朝、そこから直ぐ學校へ出勤して、二階の教員室へあがると、義雄に最も多く同情を持つて呉れてゐる專任教諭が、
「田村君、ちよツと」と、渠をさし招いて、そとの廊下に出た。
 そこから、廣い運動場を隔てて、同校の設立者兼校主の高い立派な邸宅がよく見える。義雄はそれを望む度毎に、なアに、おれのやつて來た事業は無形のものだが、若し有形的に見つもれば、決してあれには優るとも劣らないと云ふ奮發心が起るのである。
 御用商人の校主は早くから望んでゐる男爵をまだ貰へない。然し若しおれであつたら、もう、とつくになつてゐた筈だらう。
 見識が違ふ。素養が違ふ。品位が違ふ。眞劍の程度が違ふ。と、かう云ふ品定めをすることもある。
 この邸宅に向ひながら、渠は專任教諭から豫期してゐたことを申し渡された。
「君のこの學校に於ける運命もいよ〳〵きまつたやうだ。教授もうまく、生徒にも人望があるからと、どう辯護して見ても駄目であつた――君は校長並びに學監の男爵閣下に受けが惡い。」
「そりやア承知の上だが――すると、僕から辭表を出さうか?」
「まア、それは待ち給へ、僕が時機を見て、また君に注意するから。默つてそツとして置きやア、來年の二三月頃まではいいだらう。」
「僕は、もう、どツちでもいいよ――今度また新しい論文集を出すから、前のと同じやうに惡く注意されるにきまつてるから。」
「それも君の主義から來るのだから、まア、いい、さ――兎に角、何か別な口を見付けて置き給へ、僕も心がけては置くが――」
「今度ア、もう、僕、教師なら大學程度のでなけりやアいやだ――うるさいから。私立のでもいいから、あつたら頼む――が、僕は、それに、全く別な事業をやるかも知れないので――然しこれも商業學校などを教へてゐたおかげだとも思つてゐるのだ。」
「何をだ」と、教諭は好奇心を起したが、丁度その時、教授開始の時間が過ぎてゐたので、生徒の一人が義雄を呼びに來た。
 渠は英語の教科書をより分けてから、引き締つた熱心の顏で勢ひよく受け持ちの教室に這入ると、まだ物も云はないうちに、滿場の拍手喝采が起つた。そしていつもこれを樂しみにここへは來るのであつた。


 義雄はこの頃新出版書の校正やら、新事業の調査計畫やら、お鳥のまた痛みを訴へ出した面倒やら、いろんな惡口を云はれてゐるのを知つてるやらで、殆んど全く友人を訪問しない。
 秋夢の處へも、笛村の處へも、大野や村松の處へも珍らしいほど丸で無沙汰だ。
 向ふから亦滅多に來ない。と云ふのは、女のもとにばかり入り浸りになつて家には殆んどゐないだらうと云ふ間違つた推察を、すべての友人が持つてゐるからである。
 度々やつて來るのは、ただ加集泰助と云ふ國の小學校時代からの友人で――いろんな社會へ首を突ツ込んで、口錢取りをしてゐる。殆ど全く英語が讀めないのに、ハガキなどへよく自分の姓名を羅馬字のかしら字だけで書いてよこすので、多少英語のやれる千代子などは馬鹿にして、
「加集さん」と、おもてには尊敬しながら、かげでは「あのTK」と呼び棄てにするのを常とした。
 義雄はこの男を新事業の相談相ひ手にした。口さきばかり上手な男だと思つてるから、無論、さう深いことは打ち明けない。が、いろんなことを實地に就いて調べて來て呉れるのが調法だし、また、第二流、三流の實業家なら大抵の人を知つてるから、いざと云ふ場合の橋渡しにはなりさうだ。
 義雄の計畫とは、先づ蘭貢米らんぐんまいの輸入である。この計晝は渠が數年前既に或老友の手したになつてやりかけたことだ。七八ヶ月もかかつて、向ふと手紙の往復を數回したり、向ふの事情やこちらでの賣り捌き方を研究したあげく、大船一と船の註文を電報するいざと云ふ場合になつて、資本家の某は保證金を入れるのも自分だから、註文も自分一手でやると云ひ出した。
「何のことはない、お膳立てをして、御馳走にあづからなかつたも同然だ、なア」と老人もがツかりした。
 それを今度は義雄自身が主になつてやつて見たいのである。
 今一つは九州の或炭鑛の無煙炭を、茨木無煙よりもずツと安く、東京並びにその附近までも持つて來られることが分つてゐるので、その賣り込み方を競爭して見ることだ。
 そのどちらかに手を付けようとするのだが、義雄はまだどちらとも決心することが出來ない。
「そりやア、どんな大きな計畫でも、計畫だけは立ちます、さ。けれど、その資本はどうするんです?」かう、千代子は加集もゐる室へ這入つて來て、ぶしつけに云つた。二人は物好きに買つて見た馬肉鍋を突ツつき合ひながら、晩酌をやつてゐた。
「まア、奧さん、一杯」と、加集は千代子に盃をさしてから、「資本と云ふのは、その今、僕が資本家を見付けて來ます。」
「うまくそんな人が見付かればいいですが、ね。」かの女は一向に信じない樣子だ。そして、こちらがこの家を賣つて資本を拵らへようとしてゐるのを感づいてゐたかして、「この家を賣るやうなことはわたしが不賛成ですから、ね、これだけは前以て斷わつて置きます――亡くなつたお父アんから、あとはしツかりお前に頼む、義雄のやうにうか〳〵してゐても困るからと、わたしが重々頼まれたんですから。」
「生意氣なことは云ふな――あツちへ行け!」義雄はかう千代子を叱りつけて、加集に猪口を返した。
 渠の胸には、實際、家を賣つてもと云ふ考へがあつた。それを知つて、また加集がつき纒つてゐるのであることも分つてゐた。

 新出版物の校正のことで、築地の或印刷所の主任と云ひ合ひをした歸りだ。義雄は喧嘩のあとで意志が通じたと云ふいい氣持ちを味はひながら、電車を芝公園の御成門で下りると、向ふから海軍水路部の前を、弟の馨がいそ〳〵とやつて來た。不斷のやうなぼんやりツ子でない樣子も變だと思はれた。田舍の村長じみた洋服のおやぢが一緒に附いてゐる。
「どこへ行く?」
「一週間ばかり前橋へ行つて來ます。」
「さうか」と答へた切り、行き違つたが、あれが上州にゐると云ふお君のおやぢで、飮んだくれの警部だ、な、と分つた。
 お君と云ふ女は今も小學校の教員ださうだが、我善坊に住んでゐた時、お鳥と共にお轉婆の仲間であつたのを繼母が知つてゐるので、馨との結婚に不贊成を唱へてゐる。然しそれは、一方に、繼母が自分の姉の娘を入れようとしてゐるからなので――その目的は丁度、かの女が四十歳でこの家へ來立てに、義雄の千代子と出來た仲を裂いて、おのれの貰ひ娘を入れようとしたと同じだ。
「さうおツ母さんの都合いいやうには行かない。」と、義雄は明らさまに云つて、その代り、安心して隱居で澄まし込んでゐればいい。父がゐないからツて、父の後添ひを虐待するやうなことは、兄弟ともしないからと語つたこともある。
 然し繼母に取つてはすべての目論見もくろみがはづれてしまつたのだ。貰ひ娘は、かの女がここへ這入る前に、自家へ下宿人を一人置いてたその人と一緒になつてしまつた。お君のある爲めに姪を入れることも出來なくなつた。比較的に子飼ひながら育てた馨にあとを繼がせようとしたのも、矢ツ張り戸籍の命ずる通り、義雄が取つてしまつた。その上、つれ添ひには死なれた。
 今の戸主たる義雄に對しては、かの女は若し腹を洗へば合はせる顏がなからう。渠はこれをよく察してゐるから、成るべくそツとして置くのであるが、どちらかと云へば、腹を痛めさせない母によりも、骨肉のつながる馨の方へ加擔する傾きは自然であつた。
 馨が前橋へ出かけて行くのは、繼母に取つて、優しい庭鳥の羽含はぐくかへした家鴨の子が水の中へ逃げて行くやうな痛ましさがあるとは察しながらも、義雄はなほ弟の出來た戀には少しも反對が無かつた。
 が、ただ一つ義雄があはれに思つたのは、自分も既に經驗して分つてゐる通り、その戀人が年上の女だから、やがては、きツと、飽きが來ると同時に、そのいづれ、兄の承認を經て形成する家庭も、第二の田村家たる悲慘を現出するだらうと云ふことだ。
 が、また考へると、自分と違ひ、弟は最も卑怯だ。臆病だ。そして素直だ。年上の女をでも、神經質に叩き落してしまうやうな思ひ切りはないかも知れない。
「あれでお鳥とも關係したものとすれば、どツちがさきへ手を出したらう?」この問題は、もう、さして義雄の氣に懸らなくなつた。人摺れのしたお鳥が手を出しかけたかも知れないが、正直に一人を思つてゐるらしい馨は、きツと應じなかつたに相違ない。
 こちらはお鳥に對する熱心が段々冷えて來たのに反し、お君に向ふ馨のあの嬉しさうなざまを見ろ。――丁度、十六七年前、千代子とおれが出來た時の年輩でもあるから。
 かう思つて、義雄は振り返つて見た。木綿着だが小ざツ張りした姿の馨が、一心にかかへて行く布呂敷包みは、繼母に包んで貰つたのだらうが、その一週間に必要な自分の着更へか、寢卷きらしい。義雄は獨りで吹き出して、斯う考へた。
「何だ、馬鹿々々しい、その日通ひの目かけぢやアあるめいし!」

 馨が巴町の小學校へ移るまで行つてゐた代用小學が、海路部の前から愛宕山と芝公園との間を登つて西の久保廣町へ下りたところにあつた。
 また、弟の餓鬼大將の手下どもであつた蝋燭屋や、葉茶屋や、或はまた藥り屋の息子連の店が神谷町、八幡町などにある。
 かう云ふ道を通りながら、義雄はその弟と弟の溺愛者であつた父とのことを考へつづけた。弟は餘りに溺愛された爲めに意久地なしの世間見ずに育つたし、繼母はまた父のこの愛を利用して弟の方に下宿屋を繼がせようとした。
 そして家に行きつくと、玄關の廊下から裏縁へ出たところで、池を隔てた離れの繼母から聲をかけられた。
「馨が、ねえ」と、かの女は人よりも早く出した綿入れを着て、向ふの縁がはへ出て來て、寒さうに二つの袖を胸で合はせながら、「一週間ばかり、前橋へ行つて來るから兄さんによろしく云つといて呉れいツて云ひ置いて行きましたよ。」
「ああ、今、そこで會ひました。」
「さう――兄さんがおこりやアしないかツて、心配してイましたよ。」
「ふん!」縁がはの端を足で無意味にこすりながら、「あれがおやぢなのか――田舍の村長臭い?」
「ええ、さうですよ。あの人が來いツて、つれてツたの。」
「嬉しさうに、いそ〳〵して、さ、丸で男めかけがお約束にでも出かけるやうなざまであつた。」
「ほ、ほ! 可哀さうに――着たツ切りでも困るだらうと思つたから、寢卷きと不斷着を持たせてやつたのです、わ。」
「男めかけとは、さすが、あなたの思ひ付です、ね。」千代子も、突然かう云つて、をかしさうに鼻に皺を寄せながら、勝手につづいた子供室から縁がはへ出て來た。
 その頓狂な聲に驚いたのだらう、脊の高い丸太を立てた上に載せた手洗鉢のわきの枯れ竹に、一羽とまつてゐた雀が、ちゆツと啼いて飛んだ。その拍子に南天の赤い實が一つ、二つ落ちた。
 義雄はそれを見て、いやな物が自分のそばへ近づいたと思ひながら右の方へ少し避けた。そして、千代子には頓着しないと云ふ風で、目を伏して池を見詰めながら、
「もう、やがてこの金魚にもござか何かかぶせてやらなけりやア――」
「うちでは、それどころぢやアありません、わ」と、かの女は別な意味に突ツ込んだ。これも少し袷せを寒さうな風だ。それでもその義理の弟の噂に立ちまじる考へでか、「でも、わたしはあの子が一番好き、さ――素直で、正直で、また兄弟思ひで。」
「素直ぢやア御坐んせんよ」と笑ひながらも、繼母は少し考へ込んだ樣子で、「隨分薄情になつて來ました、わ。」
「そりやア、段々とおとなじみて來たのだ。」かう義雄は云つて、繼母にそれとなくあきらめさせるやうに、「親がいつまでも、いつまでも、子を思ふままに出來ると思ふのは間違ひだ。子は一人前になればなるだけ、その一人前の考へなり、精神なりが出て來る。それを、親と云ふものは自分を疎んじて來たと思ひ違へ易い。世間の舅や姑が嫁いぢめをするのも、みんな、わが子に對してそんな間違つた考へを持つてるからのことだ。」
「さうでしよう、ね。」繼母はただお愛相にらしく答へた。
「馨さんも、もう、元の五厘男ぢやアありません、ね」と、千代子は洒落のつもりらしい。
「五厘男」とは、馨が元五厘づつねだつて、通りの駄菓子屋に行つたのを繼母が名づけた綽名で――その頃は意地が惡いかの女が無邪氣な渠を抱き込んで、義雄と千代子とに最もひどく當つてゐたのである。

「‥‥」
 執念深くついて來た千代子を見向きもせず、義雄は自分の書齋の座に就くと、「火を持つて來い」とはわざと云はないで、ただから火鉢の灰を火ばしでかきまはした。そして、まだ耳がよくならないのに、またむづがゆい痔の起る時節が來たのを考へた。
 渠は殆ど年中病氣の絶えたことがない。比較的に腦力と消化機能とは丈夫だと思つてるが、教師としてさきに滋賀縣へ行つたのは、肺病の保養を兼てゐた。それは然し米國の哲人エマソンの場合に倣らつて、藥りに由らず、自己の意志で直したと信じてゐる。然し、その後も毎年仕事が續き、徹夜などが度かさなると、神經の疲勞に乘じていやな咳と肺尖加答兒が起るので、學校の長い休暇〳〵には、必ず海のしよツぱい空氣を吸ひに茅ヶ崎の借家へ出かけた。それが遠のくと、また心臟だ――息切れだ。夜、近眼の爲めに横丁の荷車にぶつかつた生傷だ。痔だ。鼻だ。痳病だ。人力車で引き落された腕の痛みだ。電車に飛び乘りかけてしくじつた足の傷だ。またこの耳だ。近眼と齒痛と淺い呼吸器病と心臟の人並みでない、鼓動とは殆ど常のことだ。それでも毎日、思索か、執筆か、勉強か、遊戲か、談話か、徹夜を絶やしたことはない。
「デカダン論」の如きは、ひどい痔で床の中にぶツ倒れながら書き終へた。商業學校でやつて有名になつた語學演説などは、どもりながらも、大聲で二時間半もしやべつたが爲め、他人の聲か何ぞのやうにしやがれてしまつた。
「然しそれでこそ人生は活きる價値があるのだ」と、意地にも渠は自分を古英雄の雄壯な形式に近代的な内容を加へたものに譬へ、自己の發展、渠のいはゆる獨存自我の發揮はこの努力一つにあると信じてゐる。
 今回、計畫中の有形的事業を云ふのも、つまり、この努力に過ぎないと思つてるのだが、追ひ〳〵寒さに向ふので、ふと氣が付いたのは、日本の極北、樺太で、鑵詰技師をしてゐるいとこのことである。あれを使つて、外國貿易、殊に米國へ輸出貿易品中の一要素なる蟹の鑵詰をやらう。
「あ、蟹の鑵詰!」渠は思はず膝を打つて喜んだ。この事業のことは、いとこが去年歸つてゐた時も、義雄が父に勸めて資本を出したらどうだと云つた。が、父はそんな危險なことに手を出す必要はないとはね付けた。
 それだ、それだ、多年わが國を最も子供扱ひにして來た、あの傲慢無禮な米國に對し、商賣的にわが利益の鬱憤を少しでも晴らすのもそれだと、渠は即坐にきめてしまつた。そして、厚い氷の張つた北極の氷野や氷山を探檢しに出かけるよりも以上に壯烈と愉快とを感じた。
「何を獨り笑ひしてイるのです」と、千代子がやつて來てゐた、「また清水のことでも考へたんでしよう?」
「下らないことアよせ――そんなことよりやア、もう、あの重吉が歸つて來さうなものだ、ね、樺太から。」
「あんなものア歸つて來たツて、職工も同然ぢやア御座いませんか――事業の資本なんか持つてませんよ。」
「知れ切ツてらア。」
「あの子だツて、お父アんがゐなさつたからこそ尋ねても來たんでしようが、あなただけでは親類にも人望がありません。人に笑はれるやうな行ひをしたり、出來さうもない事業なんか計畫して見たり、さ。」
「手めへの知つたことぢやアない!」
「でも、ね、おツ母さんも亦越後の娘の方へ行くと云つてますよ。」
「行きたけりやア、勝手に行くがいい、さ。」斯う、ぶツきら棒に云つたが、義雄はひやりとして、母こそ薄情だ。父の四十五日をしほらしく蝋燭に線香を立ててゐたのも、ほんの、うはツつらの所業で、内心はその時から逃げ腰であつたかも知れない。いやににこ〳〵しながら、この頃のわさ〳〵してゐたことはどうだ? 行くなら行け! かう思つて、「何物でも、この自分を遠ざかるものは、もう、無關係だ。そして無關係はその者の死だ。父と同樣、宇宙の存在を失ふのだ」と心に叫んだ。
 と、同時に、曾つては自分の妻にならうとまでしたあの女が、やがては雪も降らうと云ふ長岡へ、老いて痩せた母を呼び寄せ、下女同樣にこき使つて、安軍吏との仲に出來た多くの子の子守りをさせようとするのだらうと考へた。そして、あはれな母が今弱い立ち場にあるに乘じて、こちらは母を奪つて行かれるやうな氣がした。

「おツ母さんが出て行くと云ふのも、そりやア、元はと云やア」と、千代子は執念しふねくこちらに忠告するつもりらしかつた。いやに落ち付かせたきよと〳〵がほを突き出し、「あなたを信じないからです。僅かの間でも馨さんが出て行くし、おツ母さんも近々ゐなくなるし、友人だツて、あなたを喰ひ物にしようとするTKのほかは、この頃ぢやア誰も來やアしないぢやア御座いませんか?」
「來ないものア來ないでいい」とは反抗したが、義雄はこの頃よく感じもし、主張もしてゐる自我の絶對孤獨と云ふことが、つく〴〵自分の身に染み込んで來た。そしてそれが心のどん底に水晶の氷のやうな冷たい火を點じたかと思ふと、然し段々燃え出して來て、先づ健全な腸に移つた。腸から、また酒やアブサントや待ち合の料理や西洋料理を受けた胃ぶくろに移つた。胃ぶくろからまた、或時、健康状態で脈搏を二百以上も打つて醫者を驚かした心臟に移つた。それから、また肺臟に移つた。肺から、また横ツ廣がりではなく、體の前後にゆとりを持つた胸膈に移つた。父のを遺傳したと思ふ痔の箇所に移つた。のどぶえの飛び出た頸、骨ツぽい手足や毛脛けずねにも移つた。
 それがまた一ときにぱツと燃えあがると、おほ空一面、火の海のやうにくれなゐのほのほとなつた。
 義雄はいつの間にか全身が熱鐵のやうに燒けて、いのちだけは取りとめようとしてゐるやうな最も悲痛な氣持ちで、自分の目を千代子に向けた。そしてこの目が物を云つてるのだぞと云はぬばかりにして、低い、重い、強い、且深い調子で、
「友人は來ない。馨は行つた。母も出て行く。これで清水が自殺でもし、貴樣が姦通なり頓死なりして、餓鬼どもが揃つて燒け死んで呉れたら、おれの行動は最も自由だ。直ぐこの家を賣り飛ばして、おれが資本その物となつて、樺太へ行つてやる。」
「そんな馬鹿なことが出來ますか」と、千代子も意地になつたらしく、「お父アんの家です――先祖代々がここに、まア、云つて見りやア、結晶した家です。決してあなた一個の自由にはなりません。」
「先祖がおやぢになつたのだ――おやぢが乃ちおれだ! 死んだものや死んで行くものに何等の權威も實力もない!」
「でも、わたしが活きてる間は」と、堅い決心のある色を見せて、「決して許しません!」
「だから、早くくたばつてしまへ!」
「ひどいの、ね!」かの女はあきれてしまつた。然し、少し調子をゆるめて、「あなたはよく死ぬことをおツしやいますが、ね、二人の子供が死んだのを豫言――まア、豫言でしよう――したのは、全體、どう云ふところからですの?」
「産れた時の泣き聲を聽いてだ。」
「どう違ひます?」
「活きる奴のは悲痛だ――死ぬ奴のはぼけてる。」
「でも、富美子と諭鶴のは當らないぢやアありませんか? それに、里にやつてあつた赤ん坊だツて、取り返してからも丈夫に太つてますもの。」
「然しどうせ死ぬ、さ」義雄は斷定して、思ひ出したことには、繼母が生れ立ての子にあんな神經病らしい千代子の乳を飮ませるのはよくないからと勸めて、東京近在の里ツ子にやつたのを、この頃、千代子が取り返して毛だ物の乳で育ててゐる。
「そりやア、人間は誰れでもおしまひにやアどうせ死にます、わ。」
「ぼけて來りやア死ぬ、悲痛な間は活きる。」
「わたしはまた別な風に考へて見ました、わ、それが例の星ですの。」
「よせ、下らない。」
「では」と、冷かしの態度に變じて、「清水のゐるところを當てて見ましようか?――何でも、斯う」と、かの女はうツとりして、目を内部に向け、「森のある近所ですの。」
「‥‥」義雄は思はずぎよツとした。
「芝公園でなけりやア、山王さんの森かと思つて、探してゐるが、どうも、それ以上はまだ心に感じて來ませんの。」
「もつと、呪へ、呪へ」と、輕蔑したつもりであつたが、義雄はかの女のヒステリ的に精神に異状があると信じてゐるだけ、そこにまたちよつと一種の不思議な感じがして、自分が去年からわざわざ覺めるやうに努めて來た夢ばかりのやうな神祕の世界を、再び思ひ浮べずにはゐられなかつた。そして、事業の樺太も、千代子のとは別種だが、性質は同じやうな熱心と專念とに浮んだ自己その物の示現だらうと考へて、かの女には内證で、今年はまだあちらにゐるのだらうと思ふいとこの重吉に、直ぐ歸れといふ電報を出した。重吉が歸つて來て、うまく相談が整へば、渠を技師としてわが北端の新占領地へ蟹の鑵詰事業を開始し、その資本はいよ〳〵この家を抵當にして出すつもりである。



青空文庫の奥付



底本:「泡鳴五部作 上巻」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年7月25日発行
   1994(平成6)年1月15日3刷
初出:「大阪新報」
   1911(明治44)年12月16日~1912(明治45)年3月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「この一二ヶ月でも分りましたから」
※「付」と「附」、「だッて」と「だツて」、「ステーション」と「ステーシヨン」の混在は、底本通りです。
入力:沢津橋正一、富田倫生、富田晶子
校正:雪森
2016年4月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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